獪岳と善逸   作:山筋

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獪岳・少年期 後

 闇の中を一筋の影が通り抜ける。切り裂くというほど乱暴ではない、しかし潜るというほど静かでもない。焦燥に駆られて物音を立てるほど迂闊ではなかったが、逆に言えば、そこ以外の全てをかなぐり捨てているとも言えた。

 可能な限り静かに――とりわけ誰かが起きて騒ぎ出さないように――獪岳は寝室へと潜り込んだ。

 板間に大きな茣蓙を敷いた板間を見通すには、かなりの苦労が必要だった。さしたる広さもないのだが、如何せん面格子から指す光量は限られている。森の中よりよほど見通しが悪かった。

 慎重に、しかし素早く中を確認した。皆が折り重なるように寝ている。概ね年長者に年少組が張り付いているような形だが。行冥も熟睡しており、二人ほどの子供に枕にされていた。ほっと息を吐く。

 以前は行冥も獪岳が戻ってくるまで起きていたが、そのたびに怒鳴り尻を蹴飛ばし先に寝かせた。起きているかどうかは半々だと思っていたが、とりあえず一つ目の賭けには勝った。

 これからする事を、彼は絶対に許さないだろう。一生恨まれるかもしれない。

 獪岳は、年長者の一人である翔太に定めた。誰とも接触していなかったという程度の理由だ。どのみち堪えの効かない年少組と、極端に状況判断能力の高い行冥以外なら誰でもいい。

 静かに少年の側により、聞き耳を立てた。

 呼吸は規則的で、体の動きはほとんど無い。大雑把な経験則だが、眠りは浅い、と当たりをつけた。起きてすぐ動ける、というほど都合がいい話でもない。比較的頭がはっきりしやすいというだけだ。

 顔のすぐ横でしゃがみ込み、行動に移す寸前で停止した。はっきり言って、どう動くのが正解か分からなかった。

 当たり前に人の寝込みなど襲った事はないし、いきなりたたき起こして命令を聞かせる自信もない。悩もうとして――すぐその無駄な思考を取りやめた。自分程度の頭で冴えた答えなど出てこないし、そもそも時間がない。

 鼻がつくほど顔を近づけ、声が出ないように口を塞いで頬を叩く。体をよじっただけだった。

 さらに幾度か叩いて、やっとうっすら意識を浮上させる。最初、まだ暗闇である事にぼんやりしていたが、やがて口を塞がれている事に驚き、暴れようとした。

 最初は身振りで知らせようとしたが、それも見えないだろうと気づき、声を潜める。

 

「物音を上げんな。しゃべんな。とにかく静かにしろ」

 

 半ば恐慌を起こしていた翔太だったが、自分にのしかかっている人間が獪岳だと知るとおとなしくなった。何が何だか分からないという様子は変わらないが、とりあえず話を聞こうとはしている。

 

「いいか、俺がいなくなったら静かに全員起こせ。今されてるのと同じようにだ。んでもって藤の香を炊きながら、町まで全力で逃げろ」

 

 闇に半ば溶かされながら、戸惑いの視線が届く。やるべき事を理解していないのとは違う。獪岳はどうするの――疑念が伝わった。が、彼はそれをあえて無視した。

 

「絶対やれ。お前がみんなを守んだよ」

 

 頼んだぞ、とは続けなかった。手を離す。翔太は言いつけ通り声を上げたりしなかった。

 獪岳はすぐに走って、抹香の入った壺に手を突っ込んだ。半握りほど手の上に乗せる。外に出て、香炉の一つを手の上にひっくり返した。

 掌をほとんど垂直に翳し、風がよく当たるようにしながら走る。手の中に暖かさを超えて熱さが伝わってきた。もしかしたら火傷でもしているかもしれないが、興奮のためか、あまり感覚はない。

 素早く木々の隙間を駆け抜けて。やや開けた鬼の待つ場所へと素早く戻った。

 鬼が、素早く駆ける獪岳に気づいていない訳もないだろう。にも関わらず、相手は構えてすらいなかった。

 彼我の戦力差を考えれば、傲慢とすら言えないだろう。何せ本当に正真正銘、傷一つつけることができなかったのだから。が、どれほど些細なものであっても、油断であればつけいる隙になる。勢いをそのままに、熱が全体まで広がった手を思い切り振るった。

 広域に広がる抹香と、幾ばくか遅れて充満する辛気くさい香り。そして、とてつもない金切り声。

 

「ギィアアアアァァァァ!」

 

 思わず耳を塞ぎたくなるような絶叫に、体がすくみそうになる。

 鬼は頭を振り乱しながら、抹香を払っている。断続的に苦しそうなうめき声を上げて、煙の元を踏みつけて消火していた。憎々しげに何度も踏みつけ、口の端から泡を垂らしながら、強く頭を抱える。

 予想外の苦しみように、思わず何の動きもできなくなる。

 正直に言って、これほどの反応があるとは思わなかった。藤の香を嫌がるというのも、ただの好みだと思っていたのだが。もしかしたら、鬼にとっては毒に近しい効果があるのかもしれない。もう一握りくらい持ってくればよかったか、と密かに後悔した。

 想定外だ。これほどの悲鳴を上げられれば、寺にまで届いているだろう。幾人かは起きてしまっているかも。もし騒いで四方に散られたりでもすれば、さすがに助けきれない。

 が、いい意味でも予想外ではある。

 獪岳は精一杯生意気に、癪に障るよう顔を歪めた。実際は頬が引きつった程度だろうが……暗闇の中、そして平静を欠いている中であれば、それでも十分に効果があった。実際、鬼は今にも噴火しそうな顔をしている。

 

「考える頭が足りてねえなクソ猿。てめぇの言う事なんざホイホイ聞くと本気で思ったか? 人間様程度の知能を身につけてから出直せカス」

「ク……ソガキがあぁ! ぶっ殺してやる!」

 

 感情をそのまま叩き付ける絶叫に、成功を感じる。少なくとも獪岳を殺すまでは、頭の中に子供たちはないだろう。

 

「手足の先からぁ、少しずつ削いで殺してやるぅ! 泣いても許さねぇ! てめぇは生きてきた事を後悔しながら死ぬんだぁ!」

「語彙がねーからしゃべんなっつってんだよエテ公。それともわざわざ頭の悪さを教えてくれてんのか? そいつぁありがたいがすでに知ってる」

「ぎいぃ!」

 

 もはや声を発することも忘れて吠える。再度、今度は両手を鋭く変形させ、どこに触れても皮膚が破れるのではないかと思える鋭さになった。

 鬼が飛びかかるより速く、獪岳は疾駆していた。

 草木から足下の些細な石ころ、それら全て、彼は把握している。ここら一帯は庭に等しい。にもかかわらず、全てを獪岳に利し鬼に害する順路を取り全力で走っても、なお引き剥がすことはできなかった。

 鬼は数歩歩くごとに、速度を落としている。足を取られれば強く踏みしめ、木々が邪魔になれば迂回するかなぎ倒す。視界に映るもの全てを破砕する様は、さすがに鬼と伝えられるだけはある化け物っぷりだ。

 だが。

 

(二つ分かった)

 

 余計な事に思考を割くのも惜しいが、それでも無理をして背後を確認した。

 

(人の胴以上もある木を軽々へし折る……予想より遙かに強え。んで、思ってたより遙かに頭を使えてねえ)

 

 力がありすぎる故か、それとも鬼だからか。何にしろありがたい事ではある。もし平地であれば、五倍は早く走っていただろう。追いかけっこなど、しようと思うこと自体が馬鹿馬鹿しい。

 

(俺は死ぬな)

 

 どう足掻こうとも。

 ふとした思いつきは、予感と言うより確信だった。妄想など比べるべくもなく確実で、どうしたって避けようがない。

 だがそれでも、勝利と言っていい筋はある。

 か細く、むしろ存在する事自体が奇跡というより他ない。それでも、命と引き換えであれば可能性は全くの無ではなかった。……と、信じなければやってられないだけかもしれないが。荒くなった息を無理矢理押さえ、喉の奥に流し込む。

 冴えた答えではないだろう。獪岳とて、人のことを言えるほど頭はよくない。だが、この状態で今以上の答えも出せそうにもなかった。

 両者の距離はほぼ変わらず、状況も動かない。

 均衡とも思えた膠着は、獪岳の呼吸がつらくなるよりも速く破られた。

 背中をひりつかせる圧迫感と爆裂音。鬼が短気を起こして、木を中心から吹き飛ばしたのだろう。木片が飛び散る様は、正しく針の雨だった。鋭く裂けたそれらが高速で飛来し、皮膚をたやすく破って体中に刺さる。深いものこそないが、体力は確実に削がれていた。

 まっすぐ獪岳に降り注いだのはただの偶然だろう。が、鬼が我が意を得たとばかりににやりと笑ったのは、気配で知れた。

 

「ひ、ひひ! これだぁ! せいぜい逃げ回れガキぃ! すぐぐちゃぐちゃにしてやるからなぁ!」

(ま、こんなもんすぐ気付くよな)

 

 前傾姿勢になって被弾面積を減らしながら、仕方ないと諦めながらも舌打ちする。実際、たいしたことではない。獪岳が真っ先に、そして最も恐れた事だ。

 危機感由来の圧力は、すぐに麻痺して何も感じなくなった。代わりに得たのは背面全体に広がる痛みと、刻一刻増える出血。ほとんどかすり傷で動きを阻害するほどのものはまだないが、それもいつまで持つのやら。

 堅い木の根を踏みしめて、闇の中、ふと何かが輝くのを見つけた。へし折れて捨てた鉈だった。

 速度は緩めず、右手だけを真下に伸ばして鉈を回収する。

 

(攻撃にゃ使えねえが)

 

 鋭さなどまるで感じない、鈍らな光を反射する金属の板を確認し。

 

(ヤバそうな時に体を守る程度の役には立つ。それに……奴が俺を諦めそうになった時、挑発にも使える、か)

 

 その時は、一矢報いる事も諦めて、大人しく食われるのを覚悟することになるだろう。

 鬼は獪岳の予想を一度も逸脱しなかった。良くも悪くも。だからこその恐れがある。

 彼にとっての最悪は、範囲攻撃をしてくる事でも、自分が殺される事でもない。こちらのことなど完全に無視して、現在下山中であろう仲間たちに襲いかかる事だ。鬼にはそれができる能力がある。本当に、獪岳など全く一顧だにする必要はなかった。それこそ路傍の石と比べてもなお考慮に値しない。

 獪岳が気付いた事ならば、鬼もいずれ気がつくだろう。同時に、嫌がると分かれば率先して実行するだろう事も。可能な限りそれまでの時間を引き延ばさなければ。

 特に意味の無い誇りと加虐心だけが、鬼と獪岳を結んでいる。

 足を緩めるまでもなく置き去りにできないのは、この際幸運ではあった。下手な演技をする必要が無い。

 確実に近づく死の重圧と物理的な疲労とで、急速に衰弱していく。とりわけ手足は、確認せずとも衰えているのが分かった。このような破滅的な真似は、長く持たない。だが、

 

(間に……あった!)

 

 一見今までと何の代わりもない風景だ。しかし、寺に住む者たちならば分かる。

 もし立ち止まって耳を澄ませば、水音が聞こえただろう。

 段丘状になっており、かなり近づかないと存在を確認できない。寺の新人が間違えて転がり落ちそうになる、というのは毎回のようにある事だ。水量の割に流れは速く、増水時などは流木が流れる事などもあって、絶対に近づけない場所だった。形状のおかげで氾濫の危険だけはないのが救いか。

 近くに水源はこの川しかなく、下る坂が急なのもあって危険が多いため、普段は不満たらたらだが。まさかそれに感謝する日が来るとは思わなかった。

 皮肉を感じながら、獪岳は右足で思い切り地面を踏み抜いた。半身になりながら、体が急停止を開始する。姿勢を縮めて、なんとか前方に持ってかれそうになるのを耐えた。

 即座に背後へ振り返りながら鉈を掲げた。

 大雑把な目算で、鬼との距離は約十五歩分。それが秒もかからず食い潰される。

 眼前に広がるのは、爛々と殺意に塗れた目。飢えた獣を彷彿とさせる瞳。ひび割れた硝子を黒く塗りたくったような、底のはかれない眼球。捕食者の貌。

 怯懦で縮みそうになる意気を奮い立たせ、鬼を待ち受けた。後は自分を信じるしかない。一度だけなら対応できる……

 

「ひ、ひ!」

 

 引きつったような笑みを浮かべて、鬼が両手に生まれた死に神の鎌を振るった。身を引きながら鉈で受けようとしたが……全くの無意味だった。

 粗悪とはえい鉄の塊が、豆腐でも切るかのように両断される。抵抗などほとんど無かった。ただ、右手の中で急に失われた重量だけが、喪失を伝える。改めて、こんなものを食らえばひとたまりもない。全身に鳥肌が立った。

 柄だけになった鉈を手放し、倒していた上体を無理矢理捻って鬼に手を伸ばす。

 掴めるならば、触れる場所はどこでもいい。勢いは鬼が勝手に作ってくれている。後は重心さえ崩せば――鬼は獪岳と一緒に水の中へ真っ逆さまだ。

 いくら不意を突いたとしても、自分はすぐに殺されるだろう。泳げるかどうかは分からないが、どちらであれ数分程度の差だ。だが、ほんの少しでいい。この先には滝がある。高い訳でも険しい訳でもないが、道は途切れていた。土地勘のない者では、戻ることも難しいだろう。

 

(俺ぁどの道死ぬ。だが、俺の勝ちだ)

 

 確信して、自分の体を巻き付けるようにしながら鬼を投げ飛ばそうとし――

 いきなり、右足が滑った。

 理由を考えるより早く理解する。草履がちぎれた。元々悲鳴を上げていた鼻緒は、ここに来て臨終を告げたのだ。限界なのは分かっていたが、あと五秒くらい耐えてくれてもいいのに!

 

「く……そが!」

 

 咄嗟に手を離して、鬼の体を突き飛ばす。体重差のため押されたのは獪岳の方だった。

 崖に向かって体が倒れるのと、胸を切り裂かれるのはほぼ同時だった。

 今まで感じなかった鮮烈な痛みが全身を引きつらせる。硬直する筋肉に反して、活力とでも言うべきものが抜け落ちていくのをはっきりと感じた。闇夜以外の理由で失われていく視界の中、驚嘆の表情でこちらに爪を伸ばす鬼が見える。

 

「待てガキぃ! 逃げるんじゃねぇ! オレに食われろぉ!」

 

 言葉に、何かを思える思考力は、もう残っておらず。

 そう言えば。また、別れの時と別れ方を自分で決める事はできなかったな。などと詮無いことを浮かべながら。

 水の冷たさを感じる前に、獪岳の意識は途切れた。

 

 

 

   ***

 

 

 

 心臓が破裂しそうなほどに鼓動している。足は今にも引きちぎれてしまいそうだ。

 悲鳴嶼行冥は、今までの人生の中で、これほど体を全力で動かしたことも、そうする必要に迫られたこともなかった。同時に、今までそんな必要が無かったことがどれだけ幸運かを思い知っていた。

 

(……獪岳)

 

 全速力で走りながら考えるのは、我が子も同然である子供の仏頂面だった。笑うことはあまりないが、誰よりも仲間思い。なにより、自分たちを裏切るような事は絶対にしなかった。

 一度として、ない。

 今日この時はまでは。

 

(獪岳!)

 

 歯の根が合わない。全身は虫が這っているように震える。今、あの子が記憶の中以外で全てから失われようとしている……

 

『獪岳が言ったんだ……』

『みんなを静かに起こして町に逃げろって』

『でも、おれ……悲鳴嶼さん、どうすればいいかわかんないんだ』

 

 少年の悲痛で痛切な言葉。

 必死に言葉を紡ぎながら、しかし翔太は涙をこぼすことはなかった。自分の体を強く握りしめながら、雫を溢れさせぬよう唇を噛んで耐え続ける。

 

『獪岳はいつもそうなんだ……おれたちのために、犠牲になろうとしてる』

『おれには何もできないけど……お願い……お願いだよ、悲鳴嶼さん。獪岳を……助けてよ……』

 

 本来ならば、行冥はその言葉に耳を傾けるべきではなかっただろう。

 正しい行動はわかりきっている。残りの子供たちを引率し、可及的速やかに町へ連れる。警察なりに全員の安全を確保して貰ったところで、人を集めて山狩りを行うべきだ。一人のために数人を犠牲にはできない。たとえその結果、獪岳が確実に助からないだろうとしてもだ。

 だから、これは間違っている。疑いようもなく。

 分かっていても止まれなかった。年長者たちに子供を任せ、伝えられたとおりにありったけの香を焚かせながら下山させた。あまつさえ助けを呼ぶことすら押しつけている。保護者にあるまじき行い。

 それでも彼は進まないという選択を選べなかった――どうしても、獪岳を見捨てられなかった。

 獪岳と何者かの後を追うのは、難しいことではなかった。通った後がそこら中にまき散らされている。いや、そう言って正解かは分からない。まるでそこだけ局所的な嵐でも通過したように、何もかもが薙ぎ倒され粉砕している。人間どころか、どんな生き物ならこのようなまねができるか、まるで見当がつかない。

 

(……獪岳が戦うことすら考慮せぬ訳だ)

 

 この力を見せられれば、いかに喧嘩慣れした獪岳と言えど、対抗などはじめから除外する。というか、そもそも倒せる存在なのかすら怪しいが。

 めちゃくちゃに荒らされた地面を踏みしめる。折れた木やら砕けた石やら、たやすく草履を破って足の裏を貫きそうなものが山ほどあったが、行冥にとってそれらを避けて走るのは難しいことではなかった。

 盲目であるという障害はあったが、それを乗り越えるものを持っている。少なくとも、行冥はそう思っていた。

 調子にもよるが、残りの四感を使っておよそ五十歩の間合いは細部まで判別できる。百歩以内ならば、大雑把に物の配置を把握できる。尖った感覚を使ううちに、五十歩以内なら目を使うよりも精緻に見極められる事を知った。

 普通に生活する分には過剰に過ぎたし、有効活用する日など来ることはないと思っていた。たまに()()()()()()頭が痛くなる事もある。厄介ごとだらけだったが、今だけは、そんな力がある事に感謝した。

 今さっき作られたばかりの道は、蛇行しながら川へと向かっているのに気がついた。

 実のところ、行冥はほとんどそこに向かったことはない。目の見えない彼が近づくのを、誰も良しとしなかった。させてもらえたのは、せいぜいくみ上げた水を運ぶ程度。それですら、今の年長組が台頭してからはさせてもらえてない。

 流されればまず助からない。そんな場所に引き込む理由など、少なくとも行冥には一つしか思い浮かばなかった。

 

「どうか早まった真似だけはしてくれるな……!」

 

 明るい未来の見えない願いには、見て見ぬふりを為ながら。

 子供の足でも無理なくたどり着ける程度の距離が、まるで数日分にも感じる。走っても走ってもたどり着かない。もしかしたら永遠に。そんな風に感じていた。

 終わりは、皮肉を感じるほどあっさりとしたものだった。

 徐々に近づいていた破壊音が、唐突に止む。ちょうどせせらぎが聞こえ始めたあたりだった。心臓が跳ねる。体温が上がる。それらと反比例するように、頭から血の気が引いた。

 たどり着いた瞬間、ほとんどの感覚が消える。同時に、最悪を知った。

 感じた気配は一つだけだった。二つでも、全くの無でもなく、ただ一つ。それも、今まで感じたこともないもの。人のようで、そうでない。獣のようで、そうでない。荒々しく、同時におどろおどろしいもの。間違っても――獪岳のものではなかった。

 鬼。そんな言葉が、咄嗟に頭へ浮かんだ。

 

「クソ、クソ、クソがァ!」

 

 気配の主が、崖際でそこらに当たり散らしている。地を蹴り、木を叩く。そのたびに激震が走っていた。形は人だが、膂力は猪が束になっても敵わない。あらゆる生き物を無理矢理一つの生物に集約したような、圧倒的精気。しかし、相反するように生気は乏しい。思わず自分の感覚が狂っているのではと疑った。

 駄々っ子のように八つ当たりしている鬼に、行冥はよたよたと近寄りながら声をかけた。一縷の望みをかけて。

 

「獪岳……」

 

 呟きに、鬼はやっと闖入者の存在を確認したのだろう。暴れるのをやめて行冥に視線を飛ばし、そしてどうでもよさそうに鼻を鳴らした。

 

「ちっ。今度は堅くて不味そうな奴かよぉ。とことんついてねえなぁ」

「獪岳はどうした!」

「あぁ……?」

 

 鬼は言われた瞬間こそ怪訝そうにしていたが、すぐに気がついた。慰めにもならないと言いたげに、忌々しそうに吐き捨てる。

 向きかえって、腕を振るった。その拍子に何かが落ちる。布、だろうか。ただの布にしては違和感がある。まるでぐっしょりと、何かで濡らしたかのような。

 べちゃり。耳障りな音を立ててそれが落とされ。

 化け物はいともたやすく嘲った。

 

「あのガキャ殺してやったよぉ。死んで、テメェから川に落ちやがったぁ。ふざけやがって、死ぬなら俺に食われてからにしろってんだよぉ」

 

 言葉の後半は、耳に入ってこなかった。短い、しかし致命的な言葉だけが、耳の中で反響する。

 死んだ。誰が? 獪岳だ。何故? 自分たちを庇って。どうして……どうして自分は生きている? なぜ……目の前のこいつはのうのうとしている?

 湧き上がる感情に、行冥は名前をつける事ができなかった。おそらくは人生で、初めて感じるものだ。ふつふつと胸の内から焼いて、全身を汚染しようとする。こんなものがあるなど思ってもいなかった。

 そして――次に聞いた言葉も、また致命的なものだった。

 

「他のガキどもも逃げたよなぁ? なら、テメェをさっさと殺して、ソイツらも喰っちまわねえとなぁ、きひひっ!」

 

 目の内側が何かに染まる。理性が介入する余地など無い、純然たる情動。悲鳴嶼行冥という個人に割り振られた獣性と、その解放。

 気付いた時には、彼は鬼を襲っていた。

 顔面を殴り飛ばし、引きずり倒し、馬乗りになり、ひたすら拳を振り下ろす。鳴り響く破滅の音。それこそ鬼が奏でたものにも劣らない。体を千切れんばかりに動かすたび、大地がひび割れた。

 拳を握ったのなど始めてた。ましてや誰かに向けるなど、考えたこともない。これほど恐ろしい力を振るっておきながら、何の躊躇もない自分に怖気さえする。

 それでも、今だけは考えるべきではないと念じて、ひたすら体に命令を続けた。仇討ちか、守るためか、そんな事も分からない。どちらでもいい、そういうことにして、激情に身を任せる。

 何もかもをため込み、何もかもを吐き出して、そして自分の向く方法に無事な物など何一つとしてなくなった頃。

 いつしか、日差しの暖かさを感じた。気配は、なくなっていた。

 異様に鋭くなった感覚の端に、無数の人が触れる。警官だけではない。おそらく町人が、鍬や鋤を持ってやってきている。破壊後を目の当たりにしたのか、大分警戒しているようだったが。

 それらを無視して、行冥はのそのそと動きだす。全身が痛い。激しい運動と呼吸のせいで、それこそ胸まで痛みが走っていたが、手を伸ばした。

 うち捨てられた布きれ。乾いたのか、表面がかさかさし、崩れて剥がれ落ちる。僅かに残された、子供の残滓。守るべきだった存在。

 

「あ……」

 

 抱きしめて、体が震えた。目が熱くなり、頬を流れる雫が止まらない。心が、やっと溢れることを許されて、行冥は思い切り涙を流した。

 

「あああああァ!」

 

 慟哭が響く。気配が騒がしくなり、まっすぐこちらへ向かってくる。どうでもいい。

 大きな体を子供のように丸めて、彼はひたすら叫び続けた。

 夜が明けた。

 時はひたすら無慈悲に、巡り巡る。獪岳の命も、彼の感情も、何一つとして考慮される事はない。

 後悔、懺悔……あらゆるものを噴き出しながら、行冥は涙を流し続けた。枯れて心が器に収まるまで、ずっと、ずっと……

 

 

 

   調査報告書

      報告者・園田鋼太郎 警部補

 

  《事件概要》

 九月二八日 午前二時五一分発生

 被害者・悲鳴嶼獪岳(戸籍のない孤児であるため姓名共に正確なものではないが、便宜上こうしておく)

 被害規模・山間森林に広域の損壊

 

  《備考》

 九月二八日 午前二時三五分 清水山四合目にある廃寺を不法占拠(現在の土地、建築物所持者ともに不明)している孤児集団七名が下山、詰め所にやってくる。

 最初は要領を得なかったものの、悲鳴嶼翔太(十一歳だと自己申告)の発言により、武装集団、ないしは猛獣の襲撃を受けたと判断。寺で焚いていた香を嫌っており、それを焚きつつ下山するよう指示された(指示者は被害者である悲鳴嶼獪岳)。責任者である悲鳴嶼行冥は悲鳴嶼獪岳を追跡した。悲鳴嶼行冥は盲目であるため、追跡能力には期待できないものと判断した。

 午前二時五一分 事件と認定。

 午前三時七分 山内巡査部長を中心とした山狩り部隊を編成するが、直後に近隣住民が集まってくる。話を聞くと、清水山から土煙が上がっているとの事。確かめると、確かに煙が上がっている。また、よく耳を澄ますと木が倒されているのであろう音も聞こえた。

 重大事件であると改め、出動人員を増員する。また、町民から有志も集まった。余談であるが、集まった者の中には、これは鬼の仕業だと言う者がいた。

 午前四時十五分 寺に到着、近辺の捜索開始。広域の破壊後を発見。

 木々は軒並み薙ぎ倒されており、地面は抉られている。十五尺の巨人が巨大な刃物を持って暴れ回ってもこうはならないだろうと思える跡だった(注意:報告は正確に行うべし。一体何による破壊後だったのか)(回答:本当にそうとしか言い様がありません。詳しくは現場検証をお願いします)。

 午前五時三分 追跡は順調。ただし途切れることのない破壊後に士気は崩壊寸前であった。事実、民間人がすぐにでも逃げ出さなかったのは、この場で孤立したくないからだった、と後から証言がある。そのため追跡速度は極めて遅かった。

 午前五時二〇分 血痕を発見。土や木片が血液の上に乗っている事から、逃走した悲鳴嶼獪岳のものだと断定。

 午前五時二八分 日の出。一部町民から安堵の声が上がる。後から確認すると、鬼は日暮れ後にしか活動しないから、らしい。ほとんど間を置かず、鳴き声が響く。破壊後の先にあったため急行。

 午前五時三一分 悲鳴嶼行冥を保護。話を聞こうとするも極度の錯乱状態であったため、まともな回答は返ってこず。曰く、犯人(便宜上こう称する)は子供を食おうとしていた、自分は犯人を殴り続けた、との事だが打撃跡以外の痕跡はない。殴ったと勘違いしていると思われる。犯人は逃亡、行方は分からず。

 現場には大量の出血が確認され、川へと向かっていた。血痕から、犯人に切りつけられて川に落ちたと判断。川の勢いから、捜索は危険であると判断。ここに来るまでも少なくない血液を確認してたため、生存が絶望的であったのもある。

 午前五時五〇分 これ以上の成果はなしとして、悲鳴嶼行冥を連れて下山。

 九月二十九日 入院中の悲鳴嶼行冥に事情徴収。真新しい情報は確認できず。ただし犯人と会話をしたという話から、少なくとも一名は人間がいた(この可能性は悲鳴嶼獪岳の行動から察するに低くなかった)。

 九月三十日 孤児たちは隣町の新設される院に収容されることが決定する。それまでは町の預かりという事で、藤代家が引き受けを立候補。警察がこれを承認。

 十月一日 悲鳴嶼行冥退院。彼も天涯孤独の身であるため山狩り含む諸費用問題が発生する。しかし、産屋敷本家が悲鳴嶼行冥と交渉を行い、身元引受人となった。追徴や再度の事情徴収がある場合は、必ず産屋敷氏を通すこと。

 十月十八日現在、犯人は捕縛されていない。

 

  《追記事項》

 近隣の町でも行方不明事件がいくらか報告されている。本件との関連性は不明。本部は事態を重く見ており、本格的な調査を検討中。

 清水山を中心とした六座には立ち入り制限を通達済み。

 なお、現在に至るまで悲鳴嶼獪岳の遺体は見つかっていない。

 

 

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