獪岳と善逸   作:山筋

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痣の者

 『最強の鬼』とは一体どんな存在を指すか。

 想像することだけはできるし、実際、今まで幾度も考えてきた。腕の一振りで屋敷を倒壊させる打撃。どれだけ斬撃を与えても、斬れていないと誤認させるような再生力。日輪刀すら喰ってみせる貪食性。柱ですら対処不可能な血鬼術。そういった妄想が無限に浮かぶ。

 こういった想像は鬼殺隊の大半が行っているのではないだろうか。鬼舞辻無惨という存在が居るのだから。

 そもそも鬼殺隊は鬼舞辻無惨はおろか、上弦の鬼ですら影を掴めたのは最近の、つまり獪岳の働きによるものだ。それまではあらゆる全てが謎だった。それこそあまりに強すぎて、末端の隊士には上弦の鬼という存在すら教えられなかったくらいに。

 何が言いたいのかと言えば、つまり鬼上位の力は、完全に空想の中にしかなかったという事だ。あまりに雑な言い方だが、鬼の能力とは、理解と対極にある。

 最強の鬼とは一体どんな力を持つのか。

 ある種の答えが、目の前に広がっていた。

 

「ははは、駄目だぜ君達。本気で俺を倒すつもりならもっと頑張らなきゃ」

 

 遅まきながら気がつく。隊士四人に鬼一人、これらの存在が窮屈さを感じることなく十分に戦えるだけの空間は、全て結界だった。

 あらゆる形状の氷像は、どこからでも突如現れる。予兆自体はあるのだが、その予兆を確認してからでは遅い程の速度で生成されていた。それは花だったり、人型だったり、色々。恐らく童磨の意思一つでどうとでもなるのだろう。

 だが、それらに関してはまだどうとでもなる。切る事はさほど難しくないのだから。問題は、水以外の何かで作られた氷と、冷気そのものだ。

 一体何を凍らせて作ったのか、それの強度は水で作った氷とは段違いだった。とにかく極端に硬い。その上、冷たさも段違いだった。刃が触れただけで霜が降り、長く接触していれば手まで凍ると思われる。近づいただけで汗も引っ込むのだから洒落にならない。

 だが、本当に厄介なのは冷気そのものを打ち出してくる攻撃だった。正体不明の氷は、対処こそ難しいものの、体積自体は小さい。だが、冷気の波動は、空気も凍てつくような攻撃を広域に放ってくるのだ。おまけに発動も早く、不可視であるため攻撃範囲を読んで避けるという事ができない。回避と言うよりは、大げさな逃走を余儀なくされた。

 唯一の救いは、手で操らなければ血鬼術の出力、制御能力共に数段落ちるという点だろう。善逸らは、攻撃そのものではなく、童磨の手を見て動いていた。

 もっとも、逆に言うと時間さえかければ、人を殺傷するのに十分な威力の氷を作れるという意味でもある。死角からの完全な不意打ちも警戒しなければならず、刻一刻と神経はすり減らされていった。

 この上、情報にある『息を吸っただけで呼吸を破壊する冷気』にまで気をつけなければいけない。はっきり言って、未だ全員が万全なのは奇跡だ。

 血鬼術の合間を縫って――もしくは童磨がわざと隙間を開けて――接近できる事もあったが。ことごとくをいなされている。

 上弦の弐は接近戦に弱い。それは間違いではなかったが。あくまで血鬼術に比べれば、という話でしかなかった。鉄扇だけで戦っても、十分に階級上位を鏖殺可能な実力を持っていた。一度二度踏み込んだだけで倒せるほど、簡単ではない。

 

(それに……場所も悪い!)

 

 水上通路の上で戦うというのも、不安の一つだ。

 足場が狭くとも不揃いでも戦える。普段、屋根の上で大立ち回りを強要されていたりするのだから。問題は周囲が水である点で、かつそこに浸かってしまえば即座に死が待っている事だ。

 水は上弦の弐にとって武器そのもの。濡れた状態でも大丈夫と考えるのは、もはや楽観ですらない。つま先が触れただけでも壊死させられる、とくらい思っておいた方がいい。

 いつもと同じ戦い方をすればいいだけなのに。踏み外した瞬間、即奈落行きと思うだけで、動きが縮こまった。

 

(分かってた、つもりだったけど! 今まで会ったどんな鬼より強い!)

 

 鬼の顔はまだ変色したまま。これだけの力を発揮しながらなお全力を出せてはいなかった。

 正面決戦から搦め手まで何でもござれ。しかもまだ上がある。仮に他の柱が救援に来たとして、勝ち目などあるのかとすら思えてしまう。

 

(できるなら、ここから追い出したい。毒の影響がある内に)

 

 水が近くにないだけで、気分的に大分楽に戦える。

 が、そんな考えは間違いなく相手も織り込み済みだ。だからこそ早い段階で柱を個別に襲撃せず、こんな所で待ち構えていた。同時に、これは細やかながらも弱点になる。上弦の弐は水辺でこそ最高の力を発揮する、と。

 こちらの取れる手段は少なく、やはりしのぶを主軸に戦うしかない。最低限、毒を絶やさないようにしないとそれだけで詰む。

 

(もしこいつがその気になったら、俺達なんて一瞬で凍り付けに……いや、考えるな! できるならとっくにしてるはず、そう思うしかない! 今はとにかく戦わなきゃ!)

 

 もしそれを信じてしまったら、自分は戦えなくなる。そんな確信があったから、努めて可能性を排除した。

 

「チィッ! 遠くからチマチマチマチマチマチマチマチマ! いい加減鬱陶しいんだよ! 近づいて来やがれ!」

「おやおや、そんなに俺が好きなのかい? それじゃあお言葉に甘えて」

 

 言葉と共に童磨の姿がかき消え、伊之助のすぐ横に現れる。

 伊之助が刀を掲げたのは、動きを予測したが故ではなくただの勘だろう。鉄と鉄がぶつかり合い、激しい火花を散らす。この中で一番の腕力と体重を持つ彼はしかし、あっさりと吹き飛ばされた。

 追撃を行おうとするが。それを許すほど暢気な者は、この場に一人としていない。

 炭治郎が冷気の幕を払い、善逸が鉄扇を防御させ、しのぶが腕を突き刺す。毒を打ち込まれた腕は、端から見ても異様な痙攣を始めた。

 一瞬の交差が終わって、互いに距離を取る。さすがに事ここに至っては、しのぶも無理攻めなど考えなかった。

 

(あっ……ぶな!)

 

 伊之助の挑発と特攻は、いい方に働いた。が、そんなものはたまたまだ。

 今は四人と毒の援護で秤を水平に保っている状況。一人減れば、相手が遊び続けない限り確実に負ける。

 

「おや、さっきのとは違う毒だねえ。より強力だぜ、腕がぴりぴり言ってる」

 

 言いながら手をぷらぷらとさせる様は、効果が無いはずないのに、どうしても無意味にしか見えなかった。

 それを肯定するように、童磨が続ける。

 

「でも」

 

 言いながら、童磨はおもむろに腕を切り落とした。

 ぼとり、と腕が落ちる頃には、既に新しく生え替わっている。それこそ落ち始める扇を苦もなく受け止める程の速度だった。

 

「毒は巡らせなきゃ意味が無いんだぜ。ちゃぁんとここを狙わないと駄目じゃないか」

 

 にこにこ笑いながら、人差し指で自分の額をつつく。

 余裕ではない。挑発とも違う。混じりっけ無しに真摯な忠告だ。まるで突きつけられているようだった。何をしたって届かない。

 しのぶから怒りの音が濃く溢れるのを感じて、少し寒気がした。だがそれ以上に、焦りの音もある。

 毒は使えば使うだけ効果が薄まる。実態はどうだか知らないが、少なくとも彼女はそう断定していた。体のどこにでも当てればいいから、確実に頭を貫かなければ弱体化もできないになる。しのぶにのしかかる圧力は増すばかりだ。その一点に限って言えば、頚を切れば殺せる期待を持てる自分たちの方がまだマシだろう。

 本来最大戦力たるしのぶに決定打がない。それはつまり、残り三人の重要性が跳ね上がったという意味でもある。

 いかにして毒を有効活用し頚を刎ねるか、もしくは他の柱到着を待つ。選択肢など童磨の都合一つで決まってしまうとしても、必ず自分たちが決めなければならないと思わなくていいのはいくらかの救いだ。

 だが、そのためには最低でも胴体に一撃を決めて貰わねばならない訳で。全力で彼女の支援をする必要がある。

 

(上手くいかないもんだなぁ)

 

 相変わらずの、死ぬよりマシというだけの難易度。

 

(獪岳は、こんなの相手にどうやって時間稼ぎできてたんだ)

 

 理屈の上では、今の善逸は獪岳と同等だ。いや、壱ノ型を使える分だけ上かも知れない。

 しかし、どうしたって同等以上の働きをできる気がしなかった。

 

(高望みが過ぎるぞ、俺。獪岳の技だって所詮は付け焼き刃、本物とは比べるべくもないって分かってたじゃないか)

 

 獪岳の全てを引き継いでおきながら、同じだけの力を発揮できない。善逸が振り回されている証拠だ。

 無いものをねだるくらいなら、できることに集中する。大丈夫、獪岳に信じて貰ったんだからそのくらいはやってみせるさ。そう、半ば祈るように念じた。

 隊士が鬼の殺し方をよく分かっているのと同様に、童磨も鬼狩りを逆に狩る方法――それも上位――をよく理解していた。隊士の命は速度、もっと言えば足場だ。上位の者ほど足場を選ばなくなるし、この場に居る四人も、精神疲労はあれど問題なく動いていた。

 だからこそ、童磨は着地点を氷で覆い始めた。それも、全面に貼り付けるのではなく、不揃いな網目状にしてこちらの集中を足下へ持って行かせようとしてくる。

 今まで、不安定な足場というのはいくらでも経験した。踏めば割れるような緩いものも。しかし、滑る足下というのは初めての経験だ。それも足を付ければ必ず滑る訳ではなく、いちいち見分けて踏み込まねばならない。どんどん守勢に傾いていくのは仕方の無い事だった。

 そして、ここにもう一つ問題が発生する。しのぶがやけに突撃するのだ。

 確かに、今の戦況を維持ないしは攻勢に回るためには、毒が効いている事前提ではある。が、だからといって相打ちになど持ち込まれても困るのだ。

 仮に非情な判断を下し、しのぶの命を代償にして攻め込む決断をしたとする。それならそれで、他の柱が到着してからにして貰わなければ問題だ。今の面子で毒が効いている内に頚を落とせる保証は、全くできない。この中では決定力が間違いなく一番の善逸がそう思ってるのだから、彼女が分からない筈もないだろうに。

 まさか自分たちより経験豊富なしのぶが焦っているわけもないだろうから、何か手がある筈だ。だが、それにしたって手の内も分からないのでは、どう援護して良いのやら。

 まごついている間にも、童磨はどんどん復調していった。顔にはまだ変色が残っているものの、血鬼術と本人のズレとでも言えばいいのか、とにかくそういったものが時間ごと、無くなっていくように感じる。それはつまり、こちらを狙う攻撃の誤差が少なくなるという意味でもあった。

 童磨は極氷結や冷気砲といった大技をあまり使わない。もしくは使えない。その代わり、通常の氷で物量を補っている。後者ですら切るのも生半ではないのだが。

 物量重視は制御が甘いが、毒の分解によってそちらの精度が高まっていく。これによって相性の差も表面化してきた。

 善逸と伊之助は制圧能力に低い。しのぶに至っては、制圧専用の型そのものを持っていない。広く叩き潰す技を持っているのが炭治郎だけだった。

 

「おやおや、随分苦しそうじゃあないか。まだ何か考えているんだろう? 早めに出した方がいいんじゃないかな」

「うる……っさいんですよ!」

 

 余裕の笑みを浮かべる童磨に対して、しのぶはいかにも苦しそうに悪態を吐く。ここまで酷ければ、もう相手に気付かれていないと思う方こそ無理がある。

 しのぶの能力が、ある時を境にして格段に下がった。善逸の耳に届いているのは、異音を通り越してもはや内臓の悲鳴だ。実力そのものも、もはや柱と言えないほどに低下している。

 恐らく体の不調に何かがある。しかし、その何かを使う前に死んでしまうのではないか、という危惧が生まれ始めた。

 現状でもしのぶは決して弱くない。しかし強くもない。精々上級隊士といった所だ。鬼の人間的な興味(多分、食欲だ)はまだ彼女にあるようだが、戦いそのものの脅威としては、もう完全に他三人を見ていた。

 

「……おやぁ?」

 

 こちらに集中し始めて、今し方気付いたという風に、童磨が善逸を見る。吐き気を覚えるような視線ではないが、無論心地よい訳でもない。純粋に『疑問がある』と言った類いの視線。

 

「君の動き、妙に……ええと、名前は何だったかな。そうそう、獪岳だったっけ、彼と似ているねえ。同じ呼吸の使い手だからってだけじゃないみたいだね。面白いなあ。俄然興味が湧いてきたぜ」

 

 童磨の意識がこちらへ傾いた事で、こちらもまた意識してしまった。或いは、させられてしまった。

 そこに代償なるものがあるのかは分からない。ただ一つ、正解は『無視』だと分かっていた。分かっていたのに……

 喉に粘り着くものを感じる。つばを飲み込むのがとんでもなく難しい。やめておけ、と理性が語りかけていた。だが――本能だけではない。断じて――心の奥底に堪る澱みが、あらゆる静止を振り切って口を開かせた。

 

「獪岳を、殺したのはお前だな? なんでそんな事をする?」

「? 君達は人間で俺は鬼だぜ。当り前じゃあないか」

 

 動揺のために、氷柱が体を掠めた。

 相手が冷気使いである事唯一の利点は、怪我をした時の出血が少ない点だろう。体以上に心が冷えている今、一つもありがたいと思えなかったが。

 違う。否定する。聞きたいのはそれではない。

 やめろ。聞くな。奥底から叫ばれる声。戦いに必要ないのだから、わざわざ知ろうとしなくていい。

 それでも。

 それでも。

 それでも――

 決して無視できぬ疑問。何故、獪岳はあんな目に遭わなければならなかったのか。

 

「獪岳を、あんな、酷い人形にしようとしたのは……お前か?」

「確かに彼を鬼にしようって提案したのは俺だぜ。でも見解の違いかな、俺は彼のためを思ってやってあげたんだよ。結果的には、そうだねえ。思った通りの結果ではないけど、失敗でもないかな。きっと彼もあの世で喜んでくれてるぜ」

「喜ぶ……? 喜ぶだって? 無理矢理仲間を殺させられて、お前たちのいいように扱われて、何をどう喜ぶって言うんだ!」

 

 深い怒りに絶叫する善逸に。しかし童磨は、なぜか哀れみの視線を向けていた。

 なぜそんな顔をするんだと技が緩んだ所を、彼は畳みかけてきた。攻撃も、言葉も。善逸に見せつけるように、はらはらと涙する。

 

「君は同じ呼吸の使い手なんだから、近くに居た期間くらいあるんだろう? 気付かなかったのかい? 彼の精神は病み、壊れていたんだ。他者に自分を映してしか、喜びや楽しいという事を感じ取れなかった。俺が今まで会った中でも飛び抜けて可哀想な子だったぜ。だから思ったんだ。せめて、これからは鬼として自分のためだけに生きればいいって。結果は、心を無くしちゃってたけど。でも最後に暴れる事はできたんだ。絶対に喜んでくれているよ」

 

 あくまでニコニコと笑いながらほざかれる言葉。怒りで頭がどうにかなりそうだった。

 

「そんな身勝手な言い訳と解釈で……お前は獪岳を利用したのかぁ!」

「よりにもよって君達がそれを言うのかい?」

 

 心底呆れきったという様子で、童磨が嘆息する。視線には、侮蔑すら含まれていた。

 全く訳が分からない。なのに、どうしてだろう。今の彼を見ていると、寒気が止まらない。喉元を刃物で撫でられているような感覚。

 

「獪岳の感情移入共感を最も利用したのは、他ならぬ君達鬼殺隊じゃないか。俺が彼を利用したって言うなら、君達は何なんだい? 鬼殺隊こそ真に、彼を奴隷扱いしていた存在じゃないか。さんざんこき使っておいて、いざ他人にされたら非難するなんて、卑劣甚だしいぜ」

 

 台詞に。言い返す言葉などあろう筈もなく。

 善逸は、頭から全ての血が失われていく感覚を感じた。

 童磨の言葉は本当ではない。人は、手と手を取り合う生き物だ。修業時代だって、助け合って生きてきた。だが、果たしてそれは本当に公平だっただろうか。

 善逸が獪岳を助けるより、助けられた方が圧倒的に多い。そこに頼りすらしていた。再開した後だって、ほとんどおんぶに抱っこだ。人間は助け合ってこそ真の喜びを見いだす、その考えは今も変わらない。本物だ。だが、童磨の言葉だって、嘘ではない。嘘は、ない。

 

「俺はこれでもいろんな死にたい気持ちや心の病を見てきたんだぜ? 彼を見た時から一発で分かったさ、「ああ、病んでるな」って。近しい人間が全く気付かなかったなんて思わないな。だから分かるよ。君は見て見ぬ振りを、いや、都合がいいから無視したんだ。彼の幸せがどこにあるかなんて、実のところ全く考えないでね」

「おい紋逸、何やってやがんだ!」

 

 自分の土台を構成していたものが、急に崩れていく。それに遭わせるように、善逸の動きもまた、精彩を欠いた。

 均衡が崩れる。解毒でも精彩を欠いたしのぶでもなく、よりにもよって調子がいい自分の所で。童磨は徹底して善逸を狙い、他者はそれを助けるのに無茶をしている。

 まただ。視界が滲むのを自覚しながら思う。また、自分は足手まといだ。ちょっと強くなったからと言って、獪岳の技術を受け取れたからと言って、弱い性根は変わらない。獪岳も言っていたではないか。それは変えなければいけないと。

 今も昔も、我妻善逸はただの臆病な足手まとい。

 

「自分の、自分だけの幸福を追求する事は悪かい? そんなわけがない、だろう? 幸福を分かち合うだなんだとお為ごかしを言った所で、結局は“己に”幸福があるかどうかなんだ。君は獪岳の幸福を否定したくなかったように見えてその実、実は自分が彼の幸福を搾取していたと自覚したくないだけさ」

「善逸君、聞いてはいけません!」

 

 無理だ。だって、それは善逸の耳が良すぎる事を度外視しても、胸を引き裂く言葉だったのだから。今までさんざん目を背けてきたものの先がそこにある。

 圧され続ける善逸を助けようと、皆が必死で戦った。だが、そのほぼ全てを童磨は無視した。それこそしのぶの毒が胴体に命中しようがお構いなしに、穴となった善逸を落とそうと攻勢を強める。

 今まで秤が水平であった以上、これは相手にとっても無茶攻めな筈だ。だから善逸さえ立て直せば反撃できる。できるのに、体がどんどん痺れていった。

 

「君はもう、十分人から幸福を奪ったじゃないか。それなのに、これから獪岳が得る筈だった幸せを拒絶しようだなんて、さすがに非道すぎるぜ。自分の尺度だけで人の幸福を語るなよ。その傲慢で、一体どれほどの鬼を殺してきた? いやいや、鬼殺しが悪いって言ってるんじゃあないぜ。君達からすれば当然だ。でもね、鬼には鬼の言い分ってものがあるんだよ。そいつを無視して一方的に叩き付けるだけなら、もはや義憤ですらない」

「駄目だ! 手を止めるな、戦うんだ善逸!」

 

 言われたって、頑張っても体が上手く動かない。どうやって使っていたかを忘れてしまったように。

 どれだけ頑張っても、言い訳が出てこない。少なくとも、自分を騙せそうなものは。ああ、今までのただ怯えて逃げているだけの、何も考えず剣を振るっているだけの、なんと楽だった事か。

 もう『本当』を知る術など無い。だからこそ余計に突き刺さった。童磨の言葉には、確実に、こちらを揺らすための嘘が含まれている。だが、どれがそうなのかなど、分かる者はいない。もうこの世には、いない。

 嘘でもいい。だれか、戦えるだけの答えを。誰か、誰か……

 

『馬鹿が、テメェは何やってやがる』

 

 虚空にのみ囁かれる言葉。

 よく聞き慣れた声だった。怒りと呆れ、半々になって耳朶に響く。へこたれた時、失敗した時、逃げだそうとした時。いつだってこんな風に声をかけられた。

 

『そもそもがお門違いだってんだよ。いいか、よく聞けよグズカスクズ。俺は確かに壊れてたかもしれねえ。そうだとしても、自分で決めた。いいか、誰に言われたんじゃねえ、俺が俺であると自分で決めたんだ。あのアホは語るに落ちてんだよ。てめぇの尺度で俺を勝手に測りやがった』

 

 乱れかけた呼吸が戻ってくる。いつの間にか、体にも力が満ちていた。

 これは幻聴なのかもしれない。自分が作り上げた都合のいい妄想なのかもしれない。それでもいいと思った。今、戦えるだけの力になってくれるならば。

 

『お前の知ってる俺と、奴が語る俺、どっちを信じる? 野郎の言葉は全部詭弁だ。テメェの足りない頭だって、ちょっと考えりゃ分かんだろ、俺が好き勝手にさせられてそれで良しなんてなる人間じゃねえって』

 

 逃げ回っていた今までから一転、その場にどっしりと構えて、花のような意匠をした氷柱三つを断ち切った。おや、と童磨が首を傾げる。

 一切合切を忘れて、或いは無視して、声にだけ身を委ねた。そこにあるのは肯定でも否定でもない。ただ、我。

 

『忘れんな。んでもって間違えんな。お前の俺は()()()()()。ずっとな。どこにも行きゃしねえ』

 

 小馬鹿にする、しかしどこか慈愛も含んでいる声。聞き飽きていたと思っていたのに、涙が出るほど懐かしい。

 

『行けよ』

(うん、行くよ。もう迷わない)

 

 前傾姿勢になって、鬼に牙を剥く。この力は、かつて上弦の鬼にすら爪痕を残したもの。

 童磨が咄嗟に“水以外の氷”で作った盾を展開する。が、善逸の一撃は、そんなものは容易く寸断し、刃の後を鬼の体に刻みつけていた。今までは凍らされそうで迂闊に触れられなかったそれを、平気で撥ね除ける。冷気は、雷の呼吸の使い手が放つ最速に近い剣閃に、全くもって追いつかなかった。

 出血は大量、しかし一瞬。上弦の弐ほどともなれば、体をほとんど両断するような一撃とて、かすり傷ほども効いていないだろう。だが、価値は大きい。相手の切り札が一つであろう極冷気攻撃をものともしないと証明した事。二つは、善逸が完全に立て直した――いや、以前以上に強くなって蘇った事。

 

「お前の欺瞞はうんざりだ……!」

「あれれ? 完全に砕けたと思ったんだけどなあ。ちょっと見込みが甘かったか。こいつはもしかして『ぴんち』ってやつかい? あははは」

 

 あくまで軽い調子のままほざく童磨を無視し、肺の中で呼吸を破裂させた。

 雷の呼吸 参ノ型・聚蚊成雷・束

 本来、相手を囲んで全身を切り刻む型。太刀筋をいじって、首、左腕、右足に集中した。首と左腕のものはあっさり防がれるが、足は切る事に成功する。ついでに角度をつけて肉片を飛ばすようにしたので、再生には数瞬かかる筈だ。その隙を突くようにしてしのぶが飛び込み……

 善逸は、とっさに彼女を抱えて転がり逃げた。

 もの言いたげなしのぶだったが、今はもう、己の勘よりこちらの五感を信じているのか、言葉にはしなかった。

 こちらを小馬鹿にするように、ゆっくり足を再生させながら、童磨が呟く。

 

「良かったのかい? 千載一遇の好機ってやつだったぜ」

「もう毒は通用してないんだろ。分かってんだよ」

 

 彼の“正常な音”はとっくに覚えていた。炭治郎や伊之助も、それぞれのやり方で記憶しているだろう。鬼の胸元は毒々しく変色しているが、それは見た目だけ。中身はもうとっくに“正しい音”だ。

 まるで子供を褒めうような様子で、手を叩きながら笑みを深めてくる。

 

「よく分かったねえ! どうやったんだい?」

「誰が教えるか」

「すげないなあ。俺はこんなに君達と仲良くしたいって言うのに。本当に、理解したいんだぜ。獪岳にそうしたように」

 

 激発しそうになるのを必死で堪え、呼吸を貯めた。本人がその気かどうかは知らないが、これはただの挑発、もしくはこちらを少しつついてみているだけだ。乗れば元の木阿弥になる。

 童磨が小さく体を払う。と、今まで毒々しく変色していた皮膚の色が一瞬で元に戻ってしまった。信じられない器用さだが、とっくに分解していた毒を、皮膚部分だけ避けていたらしい。

 

「これでもう、俺に毒は通用しないんじゃないかな。おまけに頚も切れないんじゃ、事実上三対一になってしまったぜ。ああ、可哀想だなあ。体格にも剣士の才能にも恵まれない、おまけに頑張って習得した調薬も無力になってしまった。柱なのに足手まといなんて、哀れだなあ」

「ほん……っとうに、鬱陶しい男!」

 

 放っておけば本当に反吐でも出しそうな勢いで、しのぶが吐き捨てた。

 あくまで善逸の感想だが、童磨は嘘つきではない。ただし、生粋の詐欺師だ。信じても無視しても、必ずどこかで躓く。そういう意味では、彼の言葉を聞いてしまっている時点で失敗だと言えた。

 だがあらゆる問題全て、善逸が覚醒した事で有り余る。

 あれだけ苦労した極冷氷が、まるで水で作った氷像と同じ感覚で両断できる。冷気の波動も、善逸を捉えるにはあまりに遅かった。それこそ今なら、避け損ねた者を抱えて範囲外まで抜ける事すら容易い。

 厄介な氷の霧、これを撒かれたが、根に見えなくとも氷が擦れ合い割れる音は聞こえるのだ。直接的な攻撃と言うにはあまりに軽いそれは、簡単に切り散らせる。

 

「おいおい、本当かい? これはちょっと洒落にならないなあ」

 

 ――善逸はあずかり知らぬ事だが、この現象は実弥が待っていたものでもあった。

 そもそも善逸は、今まで獪岳の劣化模倣品でしかなかった。技術一つにしたって獪岳と同等のものを得たが、それを完全に使いこなしていたとは言いがたい。ましてや運用やらといった要素まで含めれば、言っては何だが、普通の強い雷の呼吸の使い手でしかなかった。そういった要素も、実弥が善逸の弁を頭から信じていなかった理由だ。

 だからこそ、彼は適合を促した。技術を選択して使わせるのではなく、判断するより早く体を動かせるようにする。長年使い慣れた技術のように体へ染みつかせれば、惑っても、少なくとも型だけは十全に発動できるだろうと。彼が極めた壱ノ型と同じように。

 下地はあった。実弥がそれを、丁寧に丁寧に舗装し続けたのだ。

 今――獪岳という歯車が、善逸にかみ合った。

 

「まるであの日の獪岳みたいじゃあないか」

 

 自覚できるほどに、善逸の強さが跳ね上がる。

 童磨に言わせるならば、つい先ほどまでは、柱の隅っこにひっかかるかかからないか程度の強さだったのだろう。だが今の善逸は、柱と比較しても中堅、つまりは獪岳とほぼ互角の力を持っている。

 あの日、上弦の鬼二人を相手しながら、片方を死の寸前まで追い詰めた程の力に。

 ましてやあらゆる血鬼術が善逸は初見でも、獪岳は知っている。剣が、技の全てを教えてくれている。

 

「あはははははははは!」

 

 童磨が哄笑する。まるで奇跡に立ち会ったかのように、かつて知ったものを懐かしむかのように。

 

「凄いじゃあないか! これはどういう類いの夢なんだい? あの時に見た命の輝きをもう一度眺められるなんて思いもしなかった! 俺はいつもそうなんだ。頭がいいからね、知らず知らずでも正解を引く。あの時の選択は正しかった……」

 

 あれだけ執着していたしのぶも、もはや見えてない。

 だからだろうか。彼はあっさりと、善逸の逆鱗に触れた。

 

「あそこで獪岳を殺していなければ、鬼にしていなければ、この光景を垣間見る事はできなかった! 凄いよねえ、彼は()()()()()()事で永遠となったんだ! ああ、人が鬼に喰われる以外で永遠を生きる方法があるなんて! 彼もあの世でさぞや喜んでくれてるだろうぜ!」

「お前が……」

 

 聞かされた瞬間、善逸の呼吸が速くなった。体の中を膨大な熱が駆け巡り、心臓が異様なほどに早くなる。かといって体の運用が雑になる事もなく、むしろ精緻の極みにあると言っていい。

 まるで自分自身が雷の呼吸と一体になったような心地を感じる。今の自分ならば、目で追うのもやっとだった童磨の動きも遅く感じる。

 

「獪岳を語るなあああぁぁぁぁ!」

 

 咆吼と共に放たれた閃光が、鉄扇の盾を掻い潜り、腕を高く跳ね上げた。

 もはや自分の動きや判断に僅かほども迷いもない。吸い込まれるように水上通路に降り立ち、そして踵を返して童磨に向いた。

 

「最初から、悪くはないと思ってたんだ。でも、予想以上だったね」

 

 呟きながら、一対の扇を扇いでいる。両腕は揃っていた。腕をつけ直した訳ではないのは、彼の足下で崩れつつある腕を見れば分かる。

 もっとも、全てどうでもいいし関係ない。どれだけ再生能力が高かろうと、頚を切れば勝ちなのだから。今の自分ならば――獪岳と力を合わせた我妻善逸ならば、それが可能だと断言できる。

 善逸一人で言ったのならば傲慢を通り越してただの能無しだが。この刀と一緒なら、無謀を可能性へと変えられる。

 

「痣の者を見るなんて、何十年ぶりかなあ」

(痣?)

 

 言葉の意味が分からず、そのまま反芻する。

 ふと、足下の水辺が視界に入り込んだ。少しだけ視線を下げて、ちらりと観察する。

 確かに顔には、見覚えのない文様が浮かんでいた。まるで雷が逆に落ちたかのように、頬から額にかけて顔の右半分にだけ走る黄色い紋様。入れ墨にしたって半端だし、そもそも色鮮やかすぎて違和感しかない。

 

「可哀想にねえ。それが浮き出てしまったら、君は……」

「どうでもいい」

 

 言葉を途中で切り捨てる。

 そう、何がどうであろうと関係ない。善逸にとって重要なのは、体に何かしら通常ではあり得ない事象が起きている事と、恐らくはこれのおかげで身体能力が跳ね上がったという事のみ。

 その後なぞ知ったことか。泣き叫ぶのでも無様に暴れるのでも、全部全部、目の前の鬼を始末してからでいい。

 

「お前を殺す。今まで喰ってきた人達と、獪岳の分まで報いを受けろ」

「うん、悪くない啖呵だね。そういうの、嫌いじゃあないぜ。だから敬意を表して――君が死んだ後、鬼になれるよう取り計らってあげようじゃあないか。嬉しいだろう? 君が獪岳の後を継ぐんだ」

「糞食らえ」

 

 本音と交ざった、精一杯の強がりを吐き捨てて。今もなお同調を高める獪岳の力に、精一杯己を重ね合わせた。

 

 

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