獪岳と善逸 作:山筋
朝霧を割いて、腕を大きく広げ、深い呼吸を幾度か行う。特に故あっての行為という訳ではないが、全くの無意味でもない。頭を透き通らせ、瞬時に覚醒させるよう務めてきた。人間の体とは面白いもので、そういった儀式を意識と絡め続けると、自然と体が覚える。
最後に吐いた息を見ると、空気は白んでいた。感覚が起きるにつれて、外気も鋭く感じるようになった。刺す、とまでは言わないが、鋭い冷気。もう冬なのだな、と今更ながらに考える。
まだ日も昇らぬ空を遠く眺める。山々に阻まれてまだ日は差さないが、空は白み始めている。
寒さに腹まで締め上げられながら、なんとなしに、意味も無くぼんやりと、広がる光を眺めた。じわじわと広がる白。闇が消されていると言うべきか、光が浸食していると言うべきか。もとより、あるべき姿などというものが存在するとも思っていない。
いや、存在しないでくれと思っているだけか。
人生短いながらに、色々あった、と思う。それを最悪だと言うつもりは毛頭無いが、苦難が多かった事は否定できない。それ以上に、ままならない事も。
それら全て自分の物であったと思いたい。運命などというものに流されたとなど考えたくない。
いつしかそんな風に捉えていた。もっとも、願掛け未満である自覚はある。
体が冷たさに負けぬよう軽く動かしてほぐす。
「そういや、ここに来てもう三年か」
長いような、短いような。自分などがそれほどの期間居着けたという意味ならば、快挙と言えるかも知れない。
あの時――化け物に襲われて川に落ちた時は、死んだと思った。実際、水から引き上げられるのがあと半刻も遅ければ死んでいただろう、とは救出者から後に語られた。
一度死にかける程度ならばそれなりにあるかもしれない。が、二度生き残るとなれば、そうないのではないだろうか。我がことながら、悪運の強さに苦笑いしか出ない。
助けられて一月ほどは、起き上がる事もできなかった。三月は上半身を起こすのが精一杯。半年かかってやっと普通に過ごせるようになり、結局、体から違和感が抜けるまで一年近くも必要だった。
鍛錬と成長のおかげで、今では怪我する前など比べものにならないほど強くなり、背も伸びた。顔立ちも大人っぽくなり、かつての自分は面影しかない。無数の傷も、ほとんどが注視しなければ分からない程度になった。胸元の大きな傷だけは、どうあっても消えなかったが。
まともに動けるようになってから、いろいろな話を聞いた。
この世界の表面を一枚剥げば、超常としか言い様がない存在がいること。獪岳が遭遇した化け物は、本当に鬼と呼ばれる相手だったこと。あの鬼はおそらく、獪岳に目をつけているであろうこと。今のまま戻れば、仲間を巻き込んでしまうこと。
そして、もう一度会いたければ――そうでなくとも生き残りたければ、鬼を倒す力を手に入れなければならないこと。
などという話をつらつら聞いて(真偽が怪しい所も多かったが。なにしろ耄碌ジジイの言葉だ)結局鬼殺の剣士とやらになる修行を受けた。鬼に対抗する手段があるならそれに越したことはない、というのもあったが。それ以上に、ジジイが強かった。いかに病み上がりといえど、義足相手に触れることもできなかったのは忘れられない。
剣の修行と肉体作りを並列して行い、ひとかどになれたのではなかろうか。自惚れもあるが、師の反応を見ればそれだけでもないだろう、と思う。もっとも、これで鬼相手にどれほど戦えるかは未だ疑問だ。
自信も不安の等しくある。が、迷っていられる時間はもうないだろう事は感じていた。
最近は動きを指示される事がほとんど無い。つまりは、指導による伸びしろがなくなってきている。それが完全になくなるまで、寄りかかれるものではないだろう。
巣立つまでに、少しでも気がかりを減らせればいいのだが。
奪われた熱を取り戻すように、上着を羽織った。
振り返って戻った道は、実のところ、なかなかに整えられている。少なくとも人も寄りつかない山奥とは思えないほどに。道は草木が生えない程度には踏みしめられているし、修行に使う場所はちゃんと拓かれている。おまけに、どうやって作ったんだか分からない広大な果樹園まであった。人などほとんど訪ねてこないのに、たかだか数人で食うには絶対余るほどが常に生っている。なのに、寝食をする場所は驚くほど見窄らしい。かつての廃寺がまともに見えるほどだった。
総じて、訳の分からない場所だ。ほぼ働く必要も無く修行に打ち込めるのは素直にありがたいので、文句はないが。
立て付けの悪い扉の下方を軽く蹴って開け、中を覗く。一般的な田舎の民家(つまりは今現在、時代に取り残されているという意味でもあるが)で、囲炉裏を中心に四人寝るのが精一杯の間取り。手前は玄関と台所があり、奥の押し入れにさほど広さはない。並んだ布団は三組であり、うち一つはたたまれている。つまり獪岳のものだ。
行儀悪く草履を蹴って脱ぎ、おもむろに寝ている人間へ近寄って……そのまま上げた足を、顔面に下ろした。
ばすん、と小さな音を立て、枕を踏みつける。あるべき頭はいつの間にか消えていた。いや、頭どころか体全てが消え失せている。
「毎度毎度、何さらしてくれるんじゃ馬鹿もん」
音もなく。
獪岳のすぐ横に立っていたのは、小さな老人だった。彼とてさほど長身な訳ではないが、それより二回りは小さい。六十路そこそこと聞いているが、髪から髭から、全てが真っ白であるため実年齢より年老いて見える。腰がまっすぐなのに杖をついているのは、右足が義足だからだった。
桑島慈悟郎。それが老人の名だ。
片足を失いながら尋常ではない身のこなしをするのは、鬼殺の剣士の中でも最高位である《柱》という地位にいたからだという。まだ鬼殺隊なる組織に入っていない獪岳では、《柱》とやらにどれだけの価値があるか分からない。だだし、おそらく全盛期の三割も力が出せないだろうに、未だに獪岳と戦える能力を持っている。
鬼殺の剣士と、彼らの使う“呼吸”という技術を駆使しなければ対抗できない鬼がどれだけ強いかを端的に表していた。
「うるせえ。ジジイは朝が早いもんだろ」
「まだ日も昇っとらんわ! あと儂を呼ぶときは先生か師範と言えといつも言っとるだろうが!」
「はいはいセンセーセンセー」
「こんの……悪ガキめ!」
「痛ぇよ叩くな」
杖で脛を何度も叩かれる。この親爺は加減というものを知らず、なかなか骨に響く殴り方をしてくる。そんなものも、まあ二年以上も受けていれば慣れもした。
下段に振り回される杖をいなして、もう一人の傍らに立つ。こちらは避けない事など分かっているので、腹に照準を合わせた。
その少年は、慈悟郎とは何もかも真逆に見えた。こいつはとにかくひたすら鈍くてとろい。寝方も汚く、布団を手足が漏れ、いびきまでかいている。おまけに不器用ときた(最後に関してだけは、獪岳も人のことなど言えないが)。
おまけに髪は黄だか金だかに染まっている。出会った当初は普通に黒だったのだが。なんでも修行から逃げ出している最中、雷に撃たれて色変わりしたのだとか。
総じて奇跡的な阿呆であるそいつを、獪岳は容赦なく踏みつけた。
先ほどの軽く乾いた音とは対照的に、ぼごりと鈍い音が為た。続いて上がる、小さな悲鳴。
「ぐえぇ……!」
「起きろグズ」
続いて横腹を蹴ると、さらにうめき声が絞り出される。
はっと目を見開いた少年――我妻善逸は、未だ眠いのか目を瞬かせながら、腹をさすって抗議をしてきた。
「やめろよ獪岳ぅ、なんでいつもいつも俺の腹を踏むんだよぉ」
「踏まれたくなきゃ起こされるより早く起きるか避けるかしろ」
「眠いんだよ……それに、寝てるのに避けられるわけないだろぉ!」
「ジジ……先生は避けてんだろうが」
ジジイと言いかけそうになって、背後から視線の熱気を感じた。また殴られるのも馬鹿馬鹿しいので言い直す。
「寝てて気づける訳ないだろ! できる獪岳とじいちゃんがおかしいんだよ! そもそもなんだよ背後に立っただけで気づくって! おかしいだろ!?」
座り直して、ばしばしと布団を叩きながら駄々をこね始める善逸。
その様子を見て、獪岳はひっそり嘆息した。またか。善逸はだいたい月に二、三度ほどの頻度でこうなる。こうなるとひたすら甘やかす以外はずっと我儘を言い続けるので、適度に無視するのがいい(全く相手にしないと尾を引く。面倒くさい奴だ)。
ぐちぐち続ける善逸の言葉を聞き流しながら、たまに相づちを打つ。
この時点で慈悟郎は、台所で朝食の準備をする……ふりをしていた。普段は細かい雷親爺の癖して、面倒くさい事は割と獪岳に押しつけてくる駄目親爺でもある。
ひとしきり愚痴を聞いてから、膝を抱える阿呆な弟弟子の頭を叩いた。
「いい加減にしろ。はよ味噌汁作れ」
「……うん」
気が済んだのか、素直に頷く善逸。その間に、慈悟郎が自家製漬物を取り出している所だった。
獪岳が米を炊き、慈悟郎が漬物他一品用意し、善逸が味噌汁を作る。決めたわけではないが、自然とそうなった。
準備を終えて、全員が座る。一斉に手を合わせた。
「いただきます」
食事時は、静かなものとはならない。善逸がわめき、慈悟郎が反応する。獪岳もたまに話に参加した。
だいたいいつも騒がしい。静かなのは、寝る前か起きた直後くらいだろう。しかし、それを嫌いだとは思わなかった。
これが、獪岳の三度目の日常だ。
目の前、ほんの指一本分もない距離を、銀光が通り抜ける。
のけぞらせていた姿勢を戻すと、対象も持ち直していた。空振ったのは隙も見せない。いや、そもそも当たるとも思っていなかっただろうし、当然獪岳も当たってやる気などないが。
相手の前進に合わせて、刀を振り上げる。と言っても勢いなどほとんど無い、本当にただ持ち上げただけといった程度だ。
しかし、敵はぎょっとして勢いを緩めた。勢いをつけた直後、喉元に切っ先を向けられたのだから当然だが、それにしたって迂闊すぎる。
慌てて急停止し、背後に飛ぼうとする――下手だ。悪い癖が出た。何かあるとすぐ逃げようとする。良い言い方などなく、はっきりと腰抜けなのだ。時には踏み込んだ方が安全だというのが未だに理解できていない。
後退に合わせて踏み込む。同じ逆方向への移動でも、反転するかを考えていたいか否かの違いは大きい。ましてや相手は、特に意味も意図もなく突っ込んできた。こんなのは闇雲でしかない。なぜその思い切りの良さを使うべきと気に使えないのか。戦術という言葉が頭にないのか、と幾度目かの呆れを感じた。
今度こそ刀をそこそこの威力で振るう。敵は慌てて腹を守るよう刀を構えた。
まあ、動きそのものがただの布石なのだが。
肘の角度を変えて、軌道をすとんと落とす。そのまま膝裏を強打しようとして……筋を痛めてもう戦えないなどとわめかれても厄介だとふと考えた。肘を緩めて打撃点を上げ、太ももに峰をめり込ませる。
敵、もとい善逸の顔が七変化する。最後は真顔になり、青ざめてびっしり冷や汗をかいた。
最後に、ぼろぼろ涙など流しながら。
「いっ……だあああぁぁぁ!」
とてつもなく情けない悲鳴を絞り出した。
殴られた太ももを撫でようと恐る恐る指を伸ばし、触れた瞬間に引っ込める。まあ、当り前に痛かったのだろう。
そんな様子など全く無視し、獪岳は刀を担いだ。
「はよ構えろグズ」
「痛いよおぉぉ……もう無理だよぉ、動かないよぉ、やめようよぉぉぉ」
「動かねえようにやる訳ねえだろ。とっとと構えろ」
痛いのは分かっているが、とは言わない。調子に乗るから。
切創と挫傷なら、後者の方が直後の痛みが強い。というか、鋭い刃で切られた場合というのは、概ねしばらく痛みを感じないものだ。無論尾を引くのは切り傷の方だし、痛みで動けなくなる程だと、そもそも筋肉が使い物にならない。
つまり、関節でもない場所を金属の棒でちょっとひっぱたかれたくらいで動けなくなる事などない訳だ。同時に、これくらいで動けなくなるなら先には死しかない。経験でよく知っている。
「鬼! 悪魔!」
「なんでもいいから早くしろ」
「ちくしょー!」
やけくそに叫びながら、善逸が納刀した。柄に手を添え、腰を深く落とし。
ただ深いだけだった呼吸が、次の瞬間、比喩でも何でもなく鳴った。ぴりぴりと宙を舞う木の葉でもはじけさせるような様子と共に、情けないだけだった少年の気配が膨れ上がる。
その圧力には、誰であっても脅威を感じるだろう。放たれる一撃はまさしく必殺、先ほどの一撃を雷のようなと形容するならば、今度は正真正銘雷神の一振りだ。
が……獪岳は短く嘆息した。もし正対していないのであれば、頭を抱えていたかもしれない。鍛錬の監督している慈悟郎が、視界の外でひっそり頭を振っているし。
呼吸音が高まり切り、善逸が体を消失させる寸前。獪岳は足下にあった手頃な大きさの石を、無造作に蹴り転がした。
先ほどとは別の意味で、善逸の姿かが消える。踏み込んだ足が石に引っかかって盛大にすっ転び、股裂きになった。
獪岳は合わせて前蹴り、というか頭の進路上に足の裏を置いただけか。とにかく突き出した足に、善逸が自らめり込まれに来た。重たい衝撃と、妙に生々しい感触。ぐきりと首が曲がった。
「お前な」
崩れ落ちた善逸に、なんと声をかけていいか迷う。
と、足があり得ない方向に曲がっていた。股関節が外れたらしい。仕方ないので、足を抱いて固定し体重を乗せる。はめ込むと、蛙が潰れたような呻きが上がった。はめ直して、ついでに先ほど痛打した太ももを叩いてやる。善逸の体が痙攣した。
「何度も言っちゃいるが、呼吸は全ての力を底上げしてくれるし、とりわけ“型”は強力無比な力だよ。でもな、絶対じゃねえ。特に“型”は文字通りの“型”だ。順手が決まってる。分かるか? 同じ呼吸の使い手なら返すことそれ事態はさほど難しかねえんだ。だから小手先の技でつなぎをする……なんてこたあ再三言ったはずなんだが」
何度目だろうが一向に理解しない。
獪岳も善逸も、呼吸や型それ自体は一応扱えるようになっている。今度はそれを有効に使うため、わざわざ危険のある組み手などしているのに。なぜこうも、一番頼ってはいけない所へ真っ先に頼るのか。苛立ちに思わず踏んづける。
「まあまあ獪岳、そのへんにせい」
横やりを入れたのは、今まで黙ってみていた慈悟郎だった。
穏やかなそれに、獪岳は眉をひそめる。
「善逸とてできるならやっておる。できんもんは仕方がない。ならできる一つを極めればいいんじゃ」
言われると、口の中に苦い物が広がった。決して態度には出さない。見せてしまえば、傷つくのは師なのだから。
獪岳と善逸。この両者は、呼吸の使い手としては半人前だろう。それも永遠に。
雷の呼吸。それが、彼らの習う剣技の名だった。これには段階がある。一段目に、壱ノ型を覚えること。二段目に、残り五つの型を覚えること。
雷の呼吸において壱ノ型は全ての基礎であり、どの型も最終的に壱ノ型へ収束する。
どちらも、適正のない型が全く使えないという訳ではない。事実、型単体でやろうと思えばなぞる事くらいはできるのだ。ただ、呼吸と合わせると途端に狂う。素質と食い違うのだろう、とは慈悟郎の弁だった。
皮肉ではあった。血の気が多い獪岳には牽制技だけが使え、臆病な善逸こそ突撃しかできないのだから。
壱ノ型しか使えない善逸。そして、壱ノ型のみ使えない獪岳。どちらも、雷の呼吸の使い手としては出来損ないだ。一つか二つの型を使えない剣士は数多くいた(らしい)が、二人とも、欠落の仕方が致命的だった。
「そのできる一つを生かすためにこうしてんだろ」
「だからといって、叩きのめし続けたところで身につくものでもなかろう。お前たち二人が儂の後継者、二人で一人の剣士なんじゃ」
言ってくれるのは、本当にありがたい。初めて言われたときは、涙を堪えるのに必死だった。
まあ、それはそれとして寄りかかれるものでもない。命に関わるのだから。
「このまんまにはできねえだろ。多少荒っぽくてもたたき込まんでどうする」
「どこが多少じゃ! 悶絶しとるだろうが!」
「言って分かんねえんだから痛めつけるしかねえだろ! 甘やかすんじゃねえクソジジイ!」
「誰がクソジジイじゃクソガキ! 儂は優しくしとるだけだろうが!」
「だからそれじゃ覚えねえっつってんだろ耄碌ボケ親爺ィ!」
「やり過ぎだと言っとるのが分からんのか威勢ばかりの餓鬼め!」
互いに何を言ってるかも分からなくなって、最後には殴り合いを始めた。
防御無視でとにかく拳を叩き付ける。中身はひたすら下らないが、呼吸の使い手同士がやれば、かなりの迫力ではあった。
喧嘩、というには鈍すぎる音を聞きながら。善逸は脱臼した内股をさすり、ある意味凄惨な光景からそっと目をそらした。
「獪岳もじいちゃんもさ、休ませてくれるのはいいけど俺を無視するなよー……」
ひたすらしょぼくれた呟きは。残念なのかそうでもないのか、誰の耳に届くこともなく、風と骨肉が潰れる音にかき消された。
ひとしきり善逸をすっ転がした後(全身青痰だらけになった。今は大分薬臭い)、獪岳と、ついでに善逸は慈悟郎にどこぞへと連れられていった。
普段は踏み入らない森の中。動植物の気配が強く、膝まで伸びる草のせいで足下はどこか頼りない。まだ辛そうによたよた歩く善逸に合わせ、草を蹴ってはいるが、これだけ鬱蒼とされればどれほど意味があるのか。
歩き始めてから、先生はどこかおかしかった。具体的にどうと言えるものではないが、とにかくひりついている。普段は鈍く、泣き言の三つは言う善逸が無言でついてきているのだからよほどだ。
進むうちに、獪岳はふと既視感に襲われた。
ここを知っている気がする。馴染みがある場所でないのは確かだが。自然というのは細かく区別しづらく、ともすれば位置感覚を失いやすい。それだけに、意図的なごまかしが入る事はほぼなかった。森に慣れれば、見たことがある場所とそうでない場所をより分けるのは簡単だ。獪岳からしてみれば町の中の方が迷いやすい。
なのに、ここだと判別できなかった。初めての感覚に、夢幻の中でも歩いているような心地になる。
「……なあ先生、いい加減どこに向かってるか教えろよ」
落ち着かない心に背中を押されて痺れを切らす。
反応はなかった。少なくとも、それらしいものは。
慈悟郎は歩調を緩めぬまま、少しだけ首をかしげた――こちらに向こうとしたのだろうか。分からないが、結局それ以上動かず告げられた。
「黙ってついてこい」
突き放すように言われてしまえば、追求する言葉もなくなる。
子供じみた反抗心なのは分かっていたが、むっとしつつも黙って続いた。
しばらく、誰一人として話さない時間が続いた。善逸が据わり悪そうにしているが、今の獪岳は気遣う気分でもない。
無言の時間がどれほども続かぬうちに、目的地に気がついた。
滝だ。かつての住処みたく、勢いだけではない。迫力に見合った水量を感じる。一度飲まれれば、よほど運が良くない限り死ぬだろう。絶対、と言い切れないのは、まあそういう事だ。
(なるほど)
まだ全容を表していない自然の大きさを前に、ぽつりと。
自分が流され、そして助けられた場所。が、そんな感傷に浸るため、わざわざ引っ張り出した訳はない。
答えを探す――いや、探しているふりをしているだけか。本当は分かっている。目をそらしたところで、時間稼ぎにもならない。この三年間、ずっと考えないようにしていたものがやってきた。かつて幾度も語られた最終試験。
今日こそが終わりの時なのだ。
振り返った師の顔は、嬉しそうで、悲しそうで。そのはっきりしない表情が、余計にもう誤魔化しようがないのだと知った。
「この川は七本の支流が集まってできていてな。近所では七支川などと呼ばれておる。おかげで、ここに流れ着いたもんはどっから来たかなど全く分からん」
いつも端的な彼に似合わず、妙に回りくどく言ってくる。
滝壺に着いても、慈悟郎は背を向けたままだった。どこか遠い場所を見ている……どこかそんな風に感じた。
「あの日、水くみをしている時に木片が流れてきおってな。いや、それ自体は珍しくもなんともない。なにせ、この川は流れる可能性のある物ならなんでも流れてくるのだからな。だがその時は目を見開いたもんじゃ。なにせ明らかに血がついておったんじゃからな。儂は急いで川を遡った」
そこでふと言葉を止めて、慈悟郎は何歩か進んだ。水辺に立って、初めて視線を下げる。
「ここだったな……死にかけで意識もないのに、必死に掴んでおった。なんとしても生きようという意志を感じた。確信したもんじゃ、この子は強くなると。出会ったのがこの場なのも、どこか運命を感じたもんじゃ。儂はその子を担いで、必死になって家へ戻った。片足なのは苦労したが、走るだけならどうという事もない」
水流に晒されて露出した岩の一つを撫で、老人はとても懐かしそうに微笑む。
「その後の事は語るまでもないな、獪岳よ。お前は儂の予想以上に強くなった。これほどの実力になりながら、なおも儂の元に置きたいというのはただの我儘じゃろう。お館様に対しても、これ以上不義理は働けん」
ぽつぽつと独白――そう、独白だ。けっして語りかけではない――しながら、寂しそうに頭を振った。
顔を上げ、二人を見たときの顔は。いつもの厳しい指導者の顔だった。
「獪岳よ、お前に卒業試験を言い渡す。雷の呼吸の使い手が超えるべき壁はただ一つ。何をしてもいいし、どの型を使っても構わん」
慈悟郎の目は鋭かった。左腕を、指先までまっすぐ伸ばす。
「滝を斬れ。それができれば、立派な雷の呼吸の使い手じゃ」
「え……?」
理解できないと間の抜けた声を上げたのは善逸だった。まるで、この時が永遠に続くと思っていたとでも言うように。
そう思うこと自体は、獪岳には否定できなかった。仲間が全て病死するまで、そして鬼に襲われて川に落ちるまで。彼も、少年と同じように永遠を信じていた。今の今までですら、三人の生活がどこか終わらないと思っていたのだから。多分、人とはそういうものだ。
獪岳が滝の真正面にある岩に飛び乗った。おそらく卒業試験のために誂えられ、今まで無数の雷の呼吸の使い手がそうしてきたのと同じように。
善逸と慈悟郎の顔は見ることができなかった。振り向けば自分の顔も見せてしまう、それが許せない。
数秒目を閉じ、開いた。全身がそうだったように、眼球に水の飛沫が降りかかる。雨ほど露骨ではなく、霧ほど優しくもない。いかにも半端に感じたのは、おそらく自分の心持ちが原因だろう。
刀を抜き放ちながら、獪岳は呼吸をだんだんと深くした。そして滝に、もとい卒業試験へと悪態をつく。
(悪ぃな、俺はへそ曲がりなんだ)
嫌らしく笑った。
この試験における課題は、まああえて悩むほどのものではない。
雷の呼吸は壱ノ型が大前提、基礎にして奥義である。つまるところこれは、壱ノ型で滝を両断するのが求められている、というか常道なのだろう。逆に、獪岳が試されているという事は、壱ノ型が使えなくともこれくらいはできると見込まれているからのはずだ。
剣を構える。呼吸が轟きへと変化した。
壱ノ型 霹靂一閃ならば滝を横に割る。歴代の使い手も、ほぼ確実にそうしてきただろう。だから、そんな素直な真似はしてやらない。
一瞬だけ切っ先を落とした。ひび割れたような呼吸は、ただの息を超えて雷へと進化する。おそらく全ての呼吸に共通するであろう極意。息を吸って吐くという、大抵の生き物が行う単純作業を、必殺の力にする。
――伍ノ型 熱界雷・
雷の呼吸、唯一の対空技。跳ね上げた剣は、まるで斬撃を飛ばしたかのように滝の頂点まで昇った。半透明の薄衣が剥ぎ取られ、湿って輝く岩肌が姿を現す光景は、掲げられた刀をより一層強調していた。ほんの数秒後には、何事もなかったかのように再び幕が下ろされる。
後に残ったのは、水滴を払い納刀する男だけ。
時を切り取れば、彼の技は無意味だと言ってもいい。しかし、その場にいた二人は、彼が濁流を治めたと確かに知っていた。
周囲に薪散らかされる飛沫を受けながら、獪岳は反転した。そこには、尻餅をついて唖然としている善逸と。
嬉しいような、悲しいような。なんとも言えない表情で佇む師の姿が映った。
その光景に。獪岳はとびきり意地悪く嘲て見せた。
「どうだよクソジジイ。やってやったぜ」
「生意気なクソガキめ。……まあ、見事だとは言っておいてやる」
悪態に、慈悟郎は顔を引き締めて、いつもの少しばかり不機嫌そうな表情を作り直す。良い反応とはお世辞にも言えないが、それでも、しみったれた面の百倍はましだと思えた。
至近距離で津波を被ったため、今更濡れるも糞もないのだが。それでも軽く跳ねて、川縁に着地した。
師匠と弟子、二人同時に鼻を鳴らし。互いが互いの頭を叩いたのは、ほとんど同時だった。
卒業試験を終えれば、鬼殺隊隊員になれるかと言うと、実は違う。育手の印可とは別に、“最終選別”なる試験を受けなければならない。
実のところ、呼吸を修めるよりも“最終選別”を突破する方が難易度が高いのだ……とは師の言葉だ。印可だけなら何年も鍛えればもらえるが、最終選別は一度限りだ。つまりは、無事鬼殺隊に入るか、死ぬかだ。
選別方法は至って単純。武器を持って鬼が跋扈する土地(何という名の山だったか)に放り込まれ、七日生き残る。それだけだ。卒業試験が技量を測るためだとすれば、最終試験は生存能力を観るためのものだろうか。
滞在中に鬼を倒す必要は無い。ごく少数ではあるが、育手に育成されていない者も参加するのが理由だ。その場合は当然鬼に通用する武器などないため、そういった人間への救済措置だとか。鬼を殺せる武器もないのに鬼を躱し続けるような能力があれば、鬼殺隊も諸手を挙げて歓迎するという事だろう。昔より遙かに強くなった獪岳とて、そのような真似をする自信はない。
ともかく、鬼殺隊において最難関かつ、最低限の力を試される場である。
さすがに人外の化けもに対する者を探し出そうというだけあって、通過率は極めて低く、多少上下はあるものの三割弱だという。七割以上の人間が出発点にも立てずに死ぬ計算だ。選抜された人員でこれだ。一般人などは、それこそ抵抗もできないだろう。かつての自分のように。
こんな事を考えたのが三日間、卒業から今日までの話だ。
旅立ちの朝の。
「獪岳、準備はよいか?」
「準備ったってな」
口うるさいジジイの言葉を背に受けながら、小さな背嚢を担いだ。
たいした荷は入っていない。六食分の食料に幾ばくかの金、後は袋を摘まんでいるだろう虫くらいか。共同生活に私物といえるようなものは、そもそも得る機会すらない。そのため持ち物と言えば、本当に食い物と刀、後は『桑島慈悟郎の弟子の証』である羽織だけだ。
「見ての通りだろ。気をつけるほどのもんはねえ」
そんな程度にしか言葉はない。
肩紐を確かめて振り返ると、ぼろぼろ泣く善逸が目についた。すんすん鼻を鳴らして、堪えようとしているそぶりもない。
「寂しがりかよ」
「だって獪岳がいなくなったらじいちゃんのしごきが全部俺に集中するんだぞ! 行かないでくれよ、俺を助けてくれよぉ」
「じいちゃんではなく師範と呼べ! あとお前は獪岳の半分でも真剣に鍛えんか!」
「ほんとにグズだな、おめえは」
弟弟子に対しては、情けなくないと思った時こそないが。さすがにここまでだと、もう何を言っていいかも分からなくなる。
呆れかえりながら、視線をちらりと横に動かす。
「ジジイ、こいつの修行は今日から三倍にしろ」
「誰がジジイだ。四倍あたりにするか」
「なんで増えるんだよ!」
「五倍な」
「いいや六倍じゃ」
ついに鼻水までまき散らす様を見ていられなくなった、という訳でもないが。
冗談を真に受けて泣きじゃくっている善逸に進み出て、頭を軽くこつんと叩いた。
「いてっ」
小さな呻きを上げて、こちらを見上げてくる。
「お前は弱ぇ」
「え? う、うん。知ってるけど」
なんでだかかけらの反骨心もなく、当然とばかりに答えられた。そんなものだろうな、と分かっていたため特に衝撃もなく続ける。
「ほっときゃすぐに死んじまう。でも逃げんな。戦え」
「あれ? 遠回しに死ねって言ってる?」
妙に愕然としている善逸。妙に傷ついた様子も見せている。これもまた無視した。
「逃げるのは許さねえが、代わりに助けを呼べ。そうすりゃ――俺が行ってやる」
言われ、ほんの僅か、善逸がぽかんと口を開けた。何を言われたのか理解できないという風に。そのまま何秒か言葉を噛みしめた後、理解したのかどうなのか、やたらめったらにこにこと笑い出した。
「う、うん! 俺も、えっと、……分かったとは言えないけどさ。絶対怖いのは変わらないし、多分逃げると思うし……。でも頑張って耐えて、必ず助けを呼ぶよ。それと……その……獪岳めちゃくちゃ強いから、そんな事ありえないと思うけど。獪岳が助けを呼んだら……俺が助けに行こうと……助けられるようになろうと、思う」
「百年早えよ、洟垂れ小僧」
気持ち悪くにやにやしている金髪頭を、かるく叩いてやる。
頭を押さえて脇に追いやり、続いて視線を向けた相手は桑島慈悟郎。自分の師であり第二の父。まったくらしくなかった行冥と比べれば、むしろこちらこそがそうだと言えるかも知れない。
「先生」
「なんじゃ改まって、気色悪い」
相変わらず口が悪い。だが、腹が立つと共にどこか安心もあった。
変わらない。ただそれだけの事に、安堵がある。
「感謝してる。俺を助けてくれた事も、剣を教えてくれた事も、全部。なんだかんだ、貰うことばっかりで、そういや何も返せてねえんだよな」
「本当になんじゃ? 悪いもんでも食ったか?」
「同じもんしか食ってねえだろ」
吐き捨てながら視線をそらす姿に、なんだか可笑しくなった。隠してはいるが、耳が赤い。
(照れることもあんだな)
わざわざ指摘しないのは、家族としての礼儀とでも言うのか。十余年も生きていれば、その程度は察することができるようになっていた。
「体に気をつけろ。年寄りなんだから、一度調子を悪くしたらぽっくり逝っちまうからな。――長生きしろよ」
「――――!」
何か言おうとしたのは分かったが、聞こえたのは返答ではなく歯ぎしりの音だった。普段はずけずけとものを言うが、甘えられたり素直にされたりすると口を閉じる。性根が天邪鬼なのだ。自分にも似たところがあるからよく分かる。
あえて反応は待たずに、軽く手だけ振って歩き出した。もう振り向かない。言うべきことは言った。これで、もう悔いはない。たとえ二度と会えなかったとしても。
終わりの時を選べずとも猶予があるというのは、思いのほか気分が良かった。
だから、
「獪岳!」
師の叫び声が届いても、歩調を緩めることすらしなかった。
「お前は……お前と善逸は、必ず鳴柱になる! 強くなれ! 強くなって……人を助けて……必ず、自分も幸せになれ!」
何を言われても、獪岳はやはり反応を返さなかった。ただ、口の中で言われたことを噛みしめる。柱――鬼殺隊最強の九人に与えられる称号。そんなものになれると言うのは、社交辞令なのか師馬鹿なのか。まあ、悪くは思わない。
幸せ。幸せか。
慈悟郎は知っていただろうか。どうだろう、他人の幸せなんて理解できるか分からない。少なくとも獪岳には、他人の幸福など予想くらいしかできなかった。
仲間がいて――家族がいて――俺はずっと幸せの中にいたんだよ。心の中でだけ返す。
不幸はあった。当り前に苦痛も。それは、幸せがあることと矛盾する訳ではない。どんな人生だって悩みは尽きないだろう。心のどこに線が引かれているか、多分その程度にしか変わらない。
さっき言ったように、十分なものを貰ったのだ。もう持ちきれない程に。それを指摘しないのも、また礼儀だった。あまり行儀が良いとは言えないが。
久しぶりの独りは、大きな暖かさと少しの冷たさを感じた。