獪岳と善逸 作:山筋
これは恐らく似たような五感を持った者にしか分からない話だろうが、一口に『強い鬼の感覚』と言っても色々なものが存在する。
例えば、下弦の鬼は鼻腔の奥をくすぐられるような匂いだった。童磨の場合は神経を触れられるような、痛みすら感じる匂い。そしてこの先にいる鬼は――獪岳のそれと一緒だ。匂いを嗅ぐだけでこちらが叩き潰されそうなもの。
強いという一点に関しては、匂いの種別に差などないのかもしれない。しかし、そこから知ることができるものというのはある。例えば、今から戦おうとしている鬼は『生前の時点で異様な程に強かった鬼』だ。武芸を嗜み、それを縁に生きてきた者。
間違いなく戦いにおいて小細工はない。同時に、小細工も通用しない。仮にこの場にしのぶがいたとして、彼女の戦略は通用しないだろう。『弱い』ただそれだけの理由で真っ先に殺される。
(あの時は四人がかりだった。それもしのぶさんの強力な援護があって初めて成立したもの。多分、他の柱だったら勝てないとは言わないまでも、全員生きて戻る事はできなかったと思う。それと似たような相手に、今度は二人)
炭治郎は戦慄に顔を歪めた。
自分も伊之助も、あの時より遙かに強くなっている。とりわけ縁壱零式を使った訓練により、隙という隙がほとんど埋まっていた。だからこそより強く自覚する。自分たちと上弦の鬼の間にある、圧倒的な力の差を。
強くなれば成る程、上が遠く見える。良くあることだし、鱗滝左近次にも言われた。が、改めて直面すれば、顔を引きつらせるより他になかった。
もっと努力をしていれば、などいう後悔はいつでもしているしいくらでもしている。その上でなお足りないというのは、空しいというより他なかった。守りたい物全てを守るには、何もかもが不足している。ならばせめて、できる事だけでもするしかない。
里の縁近くになると、いよいよ殺気は濃密なものになっていた。鬼獪岳の無作為に発散されたそれとは違い、明確に指向性を持ってこちらを刺してくる。こちらに気付いていると主張している、というよりは挑発か。かかってこいと、強者の目線で語っている。
この鬼に対して正面決戦は愚策なのだろう。炭治郎の足りない頭でも、それは分かっていた。しかし自分はしのぶほど頭が良くないし、何より戸惑えば戸惑うだけ里の人が犠牲になる。
「今更迷ってんじゃねえぞ!」
「っ、分かってる!」
逡巡を伊之助に見抜かれ、叱咤される。それに強く答えた。
近づくにつれて、呼吸がどんどん困難になる。鬼獪岳のそれを数倍濃密にしたようなそれは、ともすれば童磨よりも戦いづらい。強さと、それに裏付けられた自負。これらが揃うとここまで厄介になるのだと初めて知った。気を抜けば常中すら解けてしまいそうだ。
距離が縮まる速度は、想定していたよりも遅かった。多分、鬼はこちらに歩いて近づいてきているのだろう。確実に陽動――ただし放っておけば彼一人で刀匠を全滅せしめるほどの強さを持った。
(他の人が無事ならいいけど)
匂いで追わずとも、既に里の中心部近くで戦いが始まっているのが分かる。今の善逸が手こずっている当たり、確実に上弦の鬼だ。
善逸は――本人は頑なに認めないが――三人の中で一番強い。それこそ頭一つどころの話ではない。多分、炭治郎と伊之助が二人がかりでやっと勝てるかどうかと言った程だろう。柱の中でも中位くらいの実力があるのでは、と炭治郎は踏んでいる。それこそ下弦の鬼程度なら、血鬼術にもよるが鎧袖一触だ。
殲滅担当であろう鬼を善逸が釘付けにしてくれているのは、正直に言って有り難い。
しかし、里を囲むようにして中央の鬼と似たような匂いが漂ってもきていた。間違いなくもう一人の鬼の血鬼術が、誰一人として取り逃がすまいとしている。そちらに関してはもう、里を守護する隊士と善逸が上手くやってくれるのを祈るしかなかった。
肌を刺す感触に触れながら、そこへたどり着く。
そこでは、一人の鬼が悠然と立っていた。全身に入れ墨が入った、強い鬼としては珍しく、完全に人型の鬼だ。鬼は強ければ強いほど、どこか人間離れをする。一見人に見える童磨ですらそうだった。しかし目の前の鬼は気配すら人に近く、雰囲気は柱達に似た――つまり完全に武人のそれ。逆に言えばそれは、対人殺戮、それも強者に特化した存在だという事だ。
それを証明するように、殺気に釣られた隊士の骸も転がって……
(…………?)
と、そこでふと違和感に気がついた。
鬼から新しい、濃い血匂はする。これは(怒りこそ感じるものの)何もおかしくない。だが戦った隊士三人の内二人は喰われ、僅かな血痕と服だけを残して消えているが、一人はまだ生きていた。それこどろか気絶だけして大した怪我もない。
よくよく観察してみると、殺されたであろう里人も『選別』された形跡がある。殺され喰われた者もいれば、無傷で放置された者もいる。どちらも等しく鬼に遭遇しただろうに。
この差は何なのだろうか。刀鍛冶として高い技能を持った者だけを選別した? いや、その可能性は低い。炭治郎達ですら、技術の程度までは判別できないのだ。そういう血鬼術だという可能性もなくはないが……だからといって、生かして残す理由というのもない。第一、殺されていない隊士の理由にだってなっていないのだ。隊士は問答無用で殺す。少なくとも、今までの鬼はそれを規範として向かってきた。
「ほう、来たのは二人だけか。玉壺の作戦は失敗だな。さすがは柱だ、判断がいい。とはいえ、一番強い奴を持って行かれたのは少々残念だが」
にやり、と好戦的に笑いながら、鬼。彼の目から、上弦の参だという事が見て取れる。
「ハハハ! そういうお前はあっちの鬼より強えな、当たりだぜ! 俺がぶっ殺してやる!」
「これ以上好き勝手はさせない!」
「その意気や良し。さあ、精根尽き果てるまで戦おうではないか。簡単に死んでくれるなよ!」
目の前で起こされた殺戮。そして鬼から感じ取れる、決して消えることのない濃密な血の匂いと死の気配。それらに対する激情を飲み込んで、炭治郎は構えた。同時に思う。これ以上、目の前の哀れな存在を生かしてはいけない。
「伊之助!」
「命令すんな!」
二人は即座に左右へ別れ、挟み込みながら刃を走らせる。望は常に必殺の一撃。
水の呼吸 壱ノ型・水面斬り
獣の呼吸 弐ノ牙・切り裂き
三本の剣による連携はしかし、簡単にいなされてしまった。正確に言えば、頚に届く攻撃だけを弾かれる。伊之助の刀一つは上弦の参の肩を深く裂いたが、それは無視された。一瞬にも満たない間に癒着する。
さらに追撃とばかり、二人の頭へと拳が走った。殺意を込めた容赦のない一撃、まともに食らえば容易く頭部がはじけ飛び死ぬだろう。
極まった一撃だが――来ることが分かっていれば避けるのは容易い。炭治郎は首を捻って、伊之助は仰け反ってそれを躱した。掻い潜ってさらに返そうとするが、それは断念した。鬼が自分の不死能力に当て込んで、攻撃を食らってでも殺すという意思を見せていたからだ。多分、炭治郎と伊之助、どちらが囮になってどちらかが頚を切ろうとしても、この鬼は容易く掻い潜った事だろう。
距離を開けて再び構える。
上弦の鬼は強い。そんなものは大前提だ、最初からわかりきっている。しかし今は、それ以上に気になることがあった。
「伊之助」
「あァ、分かってらあ。あの野郎、俺達が型を決めた瞬間に避け始めやがった」
炭治郎の懸念に、彼もまた気がついていた。
相手を囲み、姿勢から可能性のある動きを想定して、型を決める。当り前の手順だ。問題は、型を決めてから
読心の血鬼術はあり得ないだろうし、意味が無い。そもそも上位の隊士となれば、考えるより先に体が動くのだ。仮に心を読めたとして、それから動くのでは遅すぎる。だからこそ、この現象は不可解極まりなかった。どう考えても相手の対応が早すぎる。
「成る程! 見事な目と勘だ。お前たち、年齢はいくつだ?」
「え? 十五歳だけど……」
「俺も同じくらいだぞ、多分」
いきなり予想外の質問をぶつけられ、思わず正直に答えてしまう。
「若くして柱となるだけあって、才に溢れている。残念ながら、
「竈門炭治郎」
「嘴平伊之助様だ!」
「そうか、では炭治郎に伊之助、お前達、鬼にならないか?」
いきなりの提案に、意味が分からずぽかんとする。
「お前達の力、
感極まった様子で語る上弦の参――猗窩座に、炭治郎は思った。ああ、この人はとてつもなく純粋なのだ。鬼かどうかなど、本当はどうでもいい。力を求め続けた結果、今の位置にいるというだけだ。
或いは、鬼にされた時に、ただそれだけしか
「あのお方からは『花札の耳飾りをした小僧を殺せ』と言われているが、最近はあのお方もとても気分がいい。頼み込めばなんとか鬼にして頂けるかもしれん。どうだ炭治郎、それに伊之助。あと、今玉壺と戦っている柱だって入れてもいい。共に競い合おうではないか!」
語る鬼の顔からは、禍々しさを感じない。むしろ童のように無邪気ですらあった。
「謀っていると思うか? ならば誠意の証として、俺の血鬼術を教えてやろう。我が血鬼術は『破壊殺』、森羅万象を読み取る力を持っている」
「感知特化の血鬼術……!」
「俺らの剣を読み取った絡繰りはそれか」
厄介極まりない。炭治郎は口の中に苦い物が広がるのを感じた。
ただでさえ身体能力でも格闘能力でも上回られている。その上、相手の動きを察知するのに特化した血鬼術を持っているのだ。例えるならば、戦いの中に万が一を持ち込ませない能力だろう。地力で劣る以上、勝ち目はほぼないと言っていい。
もし勝ち筋があるとすれば、善逸が万全の状態でこちらへ援軍へ来た場合だろうが。明らかに高望みだ。彼とて上弦の鬼を相手している。玉壺という名前と扱う血鬼術から、上弦の壱でないのはほぼ確定だが。どちらであれ安い相手ではない。
「どうだ、炭治郎。聞けば、お前は妹を人に戻すのが目的らしいではないか。人と鬼だから駄目なのだとは思わんか? 人と人、鬼と鬼、その間に何ら違いはない。お前が鬼になれば同じ事ではないか」
「断る! 俺は決して鬼になんてならない!」
「ふむ……では伊之助はどうだ? 見た限り、お前にそんな拘りなどないだろう。鬼となって永遠の戦いの環に身を投じようではないか」
「……それは俺か?」
「なに?」
珍しく、と言っては失礼だが。仮面の下からでも分かるほど、彼は真面目になって語った。
「俺が鬼になったら、それは『鬼だから強ぇ』って事になるんじゃねえのか? それじゃ意味ねえだろ。人だから弱えとか、鬼だから強えとか、本当に強い奴はそんなもんの外側に居んだよ。俺ぁ嘴平伊之助だから強え! そう胸張って言えんだ! 鬼だとか人だとか関係ねえ!」
「は、はははははは!」
宣言に、猗窩座は高笑いをする。
「成る程、道理だ! 俺も上弦の参だから強いのではない、鬼だから強いのではない。猗窩座というただ一つの我だから強いと胸を張っている! だからこそなのだよ伊之助。その力、失われるのが俺は我慢ならん。もう一度言うぞ伊之助、鬼になれ! そうすればお前は『自分の強さ』を追求し続けられるのだ!」
「断る! どうしてもやるってんなら、俺をぶっ殺してからにしやがれ!」
「ふふ……善き哉。ならばまずお前たちを半殺しにして、あのお方の前に引きずり出すとしよう。嘆いてくれるなよ、力の序列とはそういうものだ」
語り、猗窩座が腰を深く落として構える。今までの強烈な殺気とは違う、純然たる闘気が周囲に満ちた。
「若き柱よ、俺にお前たちの可能性を見せてくれ!」
言うと同時、猗窩座の足下に紋様が浮かんだ。雪の結晶のような形に加え、方位に数字が割り振ってある。まるで西洋で作られたという時計のようだ。
これが彼の血鬼術を可視化したものなのだろう。もしかしたら、地面に足を付けていない状態ならば察知されないかもしれない、と一瞬考えたが。その希望的観測は即座に捨てた。上弦の鬼が扱う血鬼術、それも恐らくは近接戦闘に特化した感知能力。ただ浮いていただけで気付かれないとは思えないし、試す気にもまたなれない。仮にこの仮説が間違っていた場合、空中で為す術もなく殺されることになってしまうのだから。
炭治郎と伊之助は同時に疾駆した。炭治郎はわざと、伊之助は無自覚に、互いが互いをかばい合えるような位置取りをしながら。
斬閃の雨を、しかし猗窩座は危なげなく対応していた。時には好きに斬らせ、時には刃を弾き、時には刀の腹を押して軌道を変えながら。それでいて、当り前のように反撃してくる。
素手故に間合いが狭い、それだけが唯一の救いだった。もし彼が剣の達人だったら、既に負けていたかも知れない。
(型は……多分多用しない方がいい! ただの勘だけど!)
考えながら、炭治郎は可能な限り型の使用を控えていた。
歴戦の鬼だけあって、恐らく水の呼吸は見慣れているのだろう。あくまで感覚だが、獣の呼吸よりは楽に対応されている気がする。そちらに関しては、伊之助の癖がかなり強く出ているのも無関係ではないだろうが。
恐らく炭治郎が持つ手札の中で、猗窩座に有効なのは義勇から直に教えられた拾壱ノ型たる凪のみ。これにしたって攻撃に主眼を置いたものではない。
いや、そもそも決定打がどうのと考えるより先に、実力差がありすぎる。猗窩座の頚を狙うには、彼は強すぎた。間違いなく命と引き換えにしても頚は断てないだろう。この場には、しのぶのような『万が一』を起こしうる者もいない。
他にも厄介なところがある。
「ははは! お前達、いいぞ! もっと力を見せてくれ!」
猗窩座の特性だ。
その攻撃的な性格とは裏腹に、彼は限りなく防御依りの技能を持っていた。思想が水の呼吸に近い。とてつもない判断力で喰らっていい攻撃と喰らってはいけない攻撃を選別し、甘い攻撃があれば即座に命を貪ろうとしてくる。血鬼術も合わさり、まさに鉄壁の防御を誇っていた。
かと思えば、攻撃に緩さがあるわけでもない。本人にとっては牽制程度だろう一撃でも、まともに食らえばひとたまりも無い。それこそ刃を立てた刀で受けてなお、鋼が軋む程なのだ。
猗窩座の体は特別硬い訳ではない。むしろ強度で言えば、上弦の鬼でも一番下なのではないかと言うほどに脆かった。それでもなお隔絶した力を見せてくるのは、偏に武道家としての完成度故だ。この鬼は、例え鬼でなくとも、血鬼術が使えなくとも柱に比肩するほど強い。数百年の研鑽という言葉に嘘偽りはなかった。
「分かるだろう、俺とお前達の違いが。根本的に技を練り上げた時間が違うのだ。お前達はここへ来るべき人間だ。人など辞めてしまえ! 鬼はいいぞ!」
哄笑しながらも攻撃を加えてくる猗窩座には、まだまだ余裕がある。とはいえ攻撃を緩めてくれている訳でもない。死んだらそれまでと考えているのだろう。
「ちっ! 埒があかねえ!」
舌打ちをしながら、伊之助が大きく右腕を振りかぶる。
獣の呼吸 玖の牙・うねり裂き
変則的な軌道、というよりは、ほぼ腕を放り投げるような感じで、刃閃が走る。
やはり猗窩座は攻撃の『意思』を持った時点で、既にそれを察知していた。頚を狙ったそれを右腕で受けようとするが、刃は急に跳ね上がった後、滑り落ちるように軌道を変える。
今、伊之助が取れる手段として、それは恐らく必殺に近かったのだろう。しかし不規則な動きの分軽くなってしまったそれは、容易く左手で弾かれてしまった。
水の呼吸 陸ノ型・ねじれ渦
伊之助が両手を塞いでくれたのを好機と見て、炭治郎も型を放つが。これすらちゃんとした形になる前に、柄頭を蹴り上げられて防がれる。
予想外の対応に姿勢が崩れ、さらに後ろ蹴りが顎へ向けて飛んできた。回避は間に合わない。歯を食いしばりながら、あらん限りまで息を吸った。
水の呼吸 弐ノ型・水車
弾き、捻られた刀の勢いに逆らわず、そのまま全身を捻らせて型に繋げる。回避しつつ横転した刃が太股を狙うが、これは無視された。膝の裏から股関節に向けて斜めに寸断するが、炭治郎が地に着く頃には既に繋がっている。
(ッつぅ!)
内心呻きながら、僅かばかり距離を開けた。左脇腹を掠めただけの蹴りが、妙に体の内側まで響いている。これは鬼としての特性なのか、それとも真の格闘家はこういった真似を平然とできるのか、どちからまでは分からないが。
今の一撃で浴衣がほとんど吹き飛んでいた。体に絡みついて邪魔な襤褸切れを破いて捨てる。
普段、隊服の恩恵を実感した事はないが。このときほど来てくれば良かったと思ったことはなかった。基本的に鬼の攻撃を耐えられないため忘れられがちだが、あれはとんでもない防御力を持っている。素肌で鬼と向かい合うのがこんなに不安だとは思わなかった。
「成長している」
一瞬、猗窩座は攻撃をぴたりと止めて語り出した。
「つい先ほどまでのお前ならば、今の一撃で死んでいただろう。しかし対処してみせた。これがどういう事か分かるか? お前は戦いの最中に育っているのだ! 確かな下地が日の目を見たのか? それとも戦の高揚からか? とちらでもいい。この瞬間、この短期間ですらお前達は強くなっている! これが百年と続けばどうなるのか……ははは、是非見てみたいものだ! 味わい尽くしたいものだ! これはなんとしてもお前達を殺して、あのお方の前に連れ出さねば!」
闘気がさらに増し、感覚すら狂わせる濃度となる。
かつて獪岳が言った。戦いにおいては、精神とは可能な限り平静に保つ物だと。力に上振れはあっていい、しかし下振れがあってはならない。
猗窩座はそれの真逆を行く戦士だ。自発的に気分を上下させ、実力を跳ね上げる。それは格下にころっと負ける可能性を秘めている反面、格上を凌駕しうる能力があることの裏返しだ。
つまり、現時点でも勝ち目のない猗窩座は、まだまだ強くなる。
(気持ちよく戦わせちゃ駄目だ!)
思うものの、これと言って手立てがある訳ではない。猗窩座からしてみれば、自分たちはとても『戦い甲斐のある相手』なのだ。自然と気合いが途切れる事は期待できない。あまりにも噛み合いすぎている。
動きの精度を高められて一転、炭治郎らは守勢を強いられた。攻撃を試みて居ないわけではないが、如何せん対応が早すぎる。常に先手先手を打たれて、次第に打てる手がなくなっていった。
何か特別な事がわるわけではない。工夫をこらした訳でもない。ただただ当り前の技術を極端に高めれば、これほどの絶技になろうとは。正面から突破するという意味において、猗窩座は上弦の弐よりもよほど手強かった。
「まだまだだ! そうだろう? まだまだ強くなる! 待っていてやるほど俺は暢気ではないぞ。今すぐ強さの次元を上げるのだ! それこを至高の領域に近いところまで!」
「くそっ! シコーだかなんだか訳の分からん事ばっが言いやがって!」
「伊之助、攻め急ぐな!」
「分かってら! 俺に指示すんじゃねえ!」
実のところ、もう一つ不利な点がある。それは刀だ。
現在炭治郎と伊之助が持っている日輪刀は、あくまで間に合わせのものでしかない。間違いの無いように言えば、これとてけして悪いものではないのだ。ただ、彼ら専用に調整されたものではない。
炭治郎はまだいい。刀の色が水色な当たり、前任者は水の呼吸の使い手だっただろうから。しかし伊之助は違う。そもそも、隊士に二刀流を扱う者など、それこそ柱の宇随天元しか見たことがなかった。それだけ使い手が少ないという事だ。結果、彼は同じ刀匠が別の使い手にしつらえた不揃いな刀の使用を余儀なくされている。
普段ならば気にならないほど小さな差異。しかしこの局面においては、あまりにも重すぎる足枷だった。
「刀が気になるか?」
指摘され、思わず動揺する。
拳圧を飛ばす攻撃が、右肩の上を掠めた。直撃すれば潰され、掠めれば刃物の様に鋭い一撃。頬を撫でて血が吹き出る。
「人とは不便だぞ。鬼になればそんな心配などいらない、自分の体を好きなように変容させればいいのだからな。お前達とて見てきただろう、体の一部を武器として生み出した鬼を。つまらない意地など張るな。人などとっとと辞めてしまえ」
「目的が違う! どうやって強くなったかじゃない、何のために強くなったかなんだ!」
「細けえ事は知らねえ! 強さに言い訳するような奴が本当に強えのか、あァ!?」
「ハハハ! 全くお前達は、どこまでも俺を楽しませてくれる! そうだな、意地の一つも張れなくて何が強者だ! だが分かっているのか? 意地というのは……より強き者の言い分が通るのだ!」
破壊殺――
猗窩座が初めて、自分の技に名を込めて呟いた。命の深い部分が警報を鳴らす。
「伊之助ぇ!」
一言だけ叫ぶのが精一杯だった。が、伊之助は言葉に応え、炭治郎の背中に回る。
鬼芯八重芯
水の呼吸 拾壱ノ型・凪
極限まで高められた破壊の連打と、極限まで研ぎ澄まされた絶対防壁が交錯する。
拳の暴風は、数こそ童磨の花びらに遙か劣っている。しかし、一発一発に込められた殺意――攻撃力が桁違いだった。打拳の一つ一つを垂直に捉えながらなお圧し負ける。乱れ打ちでありながら『個』を叩き潰すための技。
一撃を捌くごとに、刀の衝撃が骨にまで伝わる。ただ強烈なだけではない、全ての攻撃が急所を的確に狙っていた。一つくらい防ぎきれなくてもなんとかなった童磨のそれとは違う。一つでも見落とした時点で、炭治郎ごと伊之助も死ぬだろう。技名の通り、これは芯まで砕くものだ。
命からがら全てを退け、しかしそこで安心などしていられない。
破壊殺という血鬼術を相手した場合の、唯一と言っていい利点。それは、地面を見るだけで相手の位置を確認できることだ。
鬼芯八重芯は盛大ではあるものの、単なる囮。本命は、型の終わりで身動きの取れない炭治郎の腹だ。前蹴りに似た形で斜め前から飛んでくる。分かっていても動けない。
「させっかよ!」
伊之助が刃を揃えて、攻撃を正面から迎え撃った。しかし、流石に体の柔軟な伊之助でも、これは無茶だったのだろう。みしりと体から悲鳴を上げさせ、炭治郎を巻き込んで後ろに吹き飛ばされる。
木と伊之助に挟まれるようにして、炭治郎は潰される。強い衝撃に、体が息を吐き出せと命じてくる。視界をちかちかさせながらも、それだけは堪えた。
猗窩座がこの好機を見逃さない事など、もはや考えるまでもない。
(伊之助、ごめん!)
「ぐえっ」
半ば被さるようにしていた伊之助を、蹴って退かす。そして上半身の力と残った息だけで、とにかく渾身の技を放った。
水の呼吸 漆ノ型・雫波紋突き
突き出された拳に、水の呼吸唯一の突き技が深く刺さった。肘を砕き二の腕を通過して、型の向こう側まで抜ける。刀で受けたとはいえ鬼の拳と木に挟まれて、肋骨が悲鳴を上げた。
ここまでされておきなが、しかし猗窩座には僅かも痛痒を与えていないのだろう。貫かれた拳などお構いなしに、もう一本の腕で殴りかかってくる。
刀を捻って姿勢を崩させ、同時に自分も鬼の膂力に負けて体が傾く。双方を利用して、なんとか必殺の一撃を回避した。無茶苦茶になってしまった一撃にも関わらず、猗窩座の拳は木をくり抜いている。それだけ力の流れに無駄がない証拠だ。
人間ならば刃物を使ってやっとたどり着ける境地に、猗窩座は平然と立っている。これが彼の語る『至高の領域』なのか。ならば確かに、殺戮能力において猗窩座を上回る者は鬼殺隊にいないだろう。――そんなもの、欠片も欲しいとは思わないが。
「糞ァ!」
即座に復帰した伊之助が、頚に向かって剣を薙いだ。元々距離を取らせるのが目的だったため、これは簡単に避けられる。
炭治郎の刀には猗窩座がわざと千切って残した腕が残っていた。それが風化を始めるより早く、彼の腕は肘あたりまで再生している。
「どんどん強くなっている。が、そろそろ限界が近いようだな。分かるか? それが人の体だ。どれほど気力があっても、伸びしろが残っていても肉体が付いてこない。ああ、もう喋るのも辛かろう、無理に返事をする必要はない。次に目覚めた時、お前達は同胞だ」
全力で否定してやりたいが……残念ながら、今はその一言すら惜しい。とにかく息を整えるのに集中しなくては。
腕の再生を確認し、指先の感触まで確かめた猗窩座が迫ってくる姿が、妙にゆっくりと見える。こちらはまだ呼吸で痛みすら消し切れていない。伊之助も似たような状態で、腕の痺れからか、剣を持ち上げるのが辛そうだ。
日の出はまだ遙か遠い。少なくとも、それによる討伐、ないしは相手の撤退を期待できる程ではなかった。
(やめろ、考えるな)
ここで為す術もなく死んだらどうなる? 彼の言うとおり、鬼にされてしまうのか。それとも無に帰すのか。
柱にまでしてもらっておきながら、何も為し得ないまま。
(考えるな!)
死の恐怖も、失う冷たさも知っている。だが、ここまではっきりと喉元に突きつけられたのは、思えば初めてではないだろうか。
その程度で立ちすくむ事こそないものの。どうしたって意思に体がついていかない。
分かってはいるのだ。気合いや根性では決して届かない領域というものがある。だからこそ才能や努力といった言葉がある。ならば、それらを持ってすら届かない位置にあるものは何だろうか。理不尽? 天災? 或いは、絶望?
まだ戦える。心は折れていない。せめてそれを主張するように、炭治郎は刀を構えた。伊之助も、少なくとも心だけは前のめりになっている。
猗窩座が嬉しそうに笑う。
「そうだ。それくらいの心意気を見せて貰わなければ、俺が認めた甲斐がないというもの。次は『永遠』の中で会おう。戦い続けよう。お前達なら、きっと上弦の鬼にまで至れるだろうからな」
命を刈り取る拳が振り上げられたその時。肩紐がぷつりと千切れた。
かつん、と木の根に当たり、落ちた筺が小さな音を立てる。筺はとっくに限界だったのだろう、その衝撃で割れてしまった。内側から出てくるのは、今まで寝ていたであろう、十歳にも満たない姿の禰豆子。
今まで寝ていただろう彼女が、はっと目を見開く。炭治郎と伊之助を見て、次に猗窩座を確認し。瞳の中に怒気を滾らせた。
体がぐんぐん大きくなり、炭治郎とさして変わらない程まで成長する。竹の猿轡からうなり声を上げ、鬼特有の瞳を爛々と輝かせ、爪が鋭く伸びる。体には、那田蜘蛛山で見た時のように、体に蔦が巻き付いたような紋様が浮かんでいた。
「うううガアアアァ!」
「お前があのお方が言っていた、呪縛から逃れた鬼か」
猗窩座がつまらなそうに禰豆子を見た。彼にとって、禰豆子は何ら興味をそそられる相手ではなかったのだろう。
が、そんなものはどうでもいい。妹を見て、炭治郎は思い出していた。暫く使っていなかったため忘れていた、痣という力を。
全集中の呼吸を極端に高める。動悸をわざと異常な次元にまで高め、体が燃えるくらい熱くなった。全身の血管が隆起し、それらの影響は体の不調にまで及ぶ。全ての痛みを忘れて、筋肉が盛り上がった。刻までゆっくり流れている気がする。見れば、伊之助も同じようにしていた。
痣というのは、言うなれば寿命を捧げて一時的に能力を高める技だ。発現した者は例外なく二十五歳までに死んだと言うが……同時に、痣を使い続けて二十五歳まで
(それでもいい! 今使わないでいつ使うって言うんだ!)
命の消耗、上等だ。こんなもので良ければいくらでも捧げてやる。無念の中、禰豆子を残して死ねるものか。
「は、はははははは!」
再び、猗窩座が嘉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「お前達、痣の者だったのか! 痣持ちと戦うのは一体いつぶりだ!? そうか、これからだったのだな、お前達が死力を尽くすのは! ますます気に入った、全てを俺にぶつけてこい! あらん限りの力を見せてくれ!」
戦いの渦に飲まれて。猗窩座が語るところの次は始まった。