獪岳と善逸 作:山筋
呼吸をする度に、肺に響くのを感じる。それでも必死に酸素を送り込み続けるが、体がそれを上手く受け止めてくれているかと問われると、正直に言って否だった。鉛のように重たい体にもどかしさを感じる。
獪岳との一戦以降、隊士としての蜜璃は完全に壊れていた。
この事実は、ごく一部の者しか知らないのだが。実のところ、血鬼術を受けて損傷したのは筋肉だけではなかった。肋骨の一部すら失い、肺にすら亀裂が走っている。早い段階で縫合できていなければ、高確率で窒息死していたと聞いている。まだ生きているのっが運が良かったのと、入れ替わるように柱となった三人が素早く残りの鬼を倒してくれたからだろう。
蜜璃の力は、全盛期は勿論、もうそこらの隊士にすら劣る。肺が悲鳴を上げて、常中を維持できないのだ。呼吸だって恋の呼吸はもう使えない。今は左手一本だけで、半端な炎の呼吸で戦っている。常人離れした筋力を生まれつき持つ蜜璃と言えど、不完全な全集中の呼吸に片手落ちの型ではさしたる戦力にならない。
今の自分が上弦の伍と戦ったところで、善逸の足手まといになるだけ。悔しい気持ちを噛んで耐えながら、とにかく里人の救援に当たっていた。
上弦の伍が生み出したと思われる化け物(壺を背負った魚の体を持つ獣?)は、幸いな事に体して強くない。
いや、身体能力で言えばそこらの鬼を一蹴するほどだが、とにかく知性が足りず見付けて突っ込むことしかしなかった。これで上弦の伍が手漉きなら、もう少し上手い戦い方をしていた可能性が高い。今は、それだけ善逸が追い詰めていると信じるしかなかった。
「みなさん、素早く退避をお願いします。ただし敵を見かけても絶対に分散しないで下さい。守れなくなります」
胸の痛みに耐えながら、それでもしっかり声を出す。残念ながら、大きなとは言えなかったが。
乗っていた木から跳躍し、化け物とすれ違い様に剣を一閃する。壺を破壊すればいいだけなのはかなり気が楽だった。両断となると流石に少し不安が残る。技の精度もそうだが、獲物の長さが三割程度になってしまったため距離感を測りきれないのだ。
人が居る方に倒れ込んでくる巨体を、蹴って反対側に倒す。化け物の数は多く神出鬼没なので安心はできないが、ひとまずの安全は確保できた。
「恋柱、七班撤収完了しました!」
「こちら一三班、同じく外に逃がしきれました! 後は隠が担当します!」
「ありがとうございます。でも、もう柱ではありません。元ですよ」
やんわりと訂正する。
とはいえ、こういう事はよくあるのだと杏寿郎から聞いたことがある。柱はある種の憧れであり、文字通りの精神的支柱だと。故に、引退後も最大限の敬意を払われる。だから柱たるべく自分を律さなければはらない、という言葉と共に。
それができていると確信できる前に、自分は脱落してしまった。それでも敬意を浴びるならば――せめて胸を張らなければならない。
(まだ避難できてない人はどれくらいかしら?)
里人はそう大人数なわけではないが、さりとて隊士全体の刀を作っているのだ。決して少なくもない。
広域かつ無作為に化け物が暴れ回っているのも手伝って、全体を把握できていなかった。本当なら一纏めにして逃がしたかったが。それを言い始めたら、そもそも刀鍛冶の里を見付けられた時点で負けている。
とにかく一人でも多くの人を、と考えていると。蜜璃達を囲むようにしていきなり壺が現れ、次の瞬間には十数体の化け物に変化していた。思わず絶句する。
(討伐状況を把握されてる? それとも倒した数が多いところに自動発生するようになってる? いえ、どっちでもいい! とにかく今はここを切り抜けないと!)
溢れ出たそれらを睨め付けながら、呼吸を一段深くした。
急激な違和感と吐き気が襲いかかってくる。体力は全然余っているのに、肺を中心に痺れが広がり鈍っていく。体が元気なのに動かないというのは、初めての感覚だった。
まだ体が治りきっていなかったため、治癒に専念していた。当然多少なりとも衰えているし、そうでなくとも今までとの差異を把握しきっていなかったのだ。まだ隠としての修行にも入っていない。土壇場になって不調が表面化するのは、ある意味当然だった。
(だからって泣き言なんて言ってられないわ!)
自分達を狙っているのとは別に、逃げた里人の方からも新しい化け物の気配が生まれている。可及的速やかに撃破し、救助に回らなければ。
いざとなれば自分が突っ込む。この中で一番今後の役に立てないのは、間違いなく彼女なのだから。
決めた覚悟は、しかし瞬時に霧散する。避難民を追っていた気配が消えたのだ。一瞬送れて、夜闇を劈く発砲音が鳴り響いた。
鬼なのだか人なのだか判断が難しい気配は、高速でこちらに向かってきていた。それがこちらへたどり着く前に、化け物の一体が背負う壺が粉砕される。隊士でなければ壊せない程度には硬い壺を貫いておきながら、それはなお直進して木にめり込んだ。確認して、初めて正体に気がつく。散弾銃の弾丸だ。それも猩々緋鉱石で精製され、鬼にも有効な。
空を跳ねて現れたのは、かなり大柄な男だった。目は鬼のそれにそっくりだが、隊服を着ている。口に日輪刀を咥え、左手に水平二連式散弾銃を持ち、右手で弾丸を装填。さらに二体を討ち取った。
高い位置にいたのは、間違ってもこちらに当てない為だろう。
一度包囲に穴が空けば、後は簡単だった。化け物は体が大きく、壺に刃を届かせにくいが、逆に言えば通常の鬼より面倒な点はそれだけ。一端外に出た後は、瞬く間に残り一〇匹程度の化け物を退治できた。
一人を逃げた者達が隠に合流するまでの護衛に向かわせ、もう一人を別部隊に付くよう命じる。そして、鬼だか人だか分からない男と向き合った。
(あれ?)
と、顔に見覚えがあることに気付く。急場な上に暗くて最初は分からなかったが、確かに温泉の道すがらすれ違った少年だ。名前は、確か不死川玄弥。無口でぶっきらぼうなところがちょっと苦手な子。
「どっちですか?」
「え?」
「鬼です。どっちにいるか分かりますか?」
目はひたすら鋭く、殺意に満ちている。その様子は、ああ、不死川実弥の弟なのだなと確信させた。なんで鬼のような目になっているのかは分からないが。
とりあえず会話をしてくれる事に安心して続ける。
「里の中心部あたりだけど。そこには善逸くん――鳴柱がいるわ。私たちは里の人を……」
「ありがとうございます」
助ける事に集中しましょう。そう言い切る前に、玄弥は走り始めていた。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて声をかける。
玄弥の足は、常人より速いものの、かといって呼吸を会得している者には劣る、なんとも微妙なものだった。だから散弾銃なども駆使して戦っているのだろう、と簡単に予想が付いた。と言うことはつまり、上弦の鬼に立ち向かった所で無意味という意味でもある。今の自分よりはいくらかマシだろうが……
今でなければ、すぐ追いかけて無理矢理引きずってでも連れ戻すのに。残念ながらそこまでしている暇はない。
「もう!」
身勝手に憤りを覚えつつ、寒気を振り払うようにしながら、すぐに自分が行くべき場所を上げていった。玄弥を追いかけられないなら、この場でまごつくのはもっと無意味だ。
「死に急いだりしちゃ絶対に駄目だからね!」
声が届いたかは分からない。届いたところで、聞き入れてくれるかどうかも。強い決意を秘めた目をした隊士は何人も見てきたし――同じ数だけ失った。今は忠告を聞いてくれていると願うしかない。
誰も死にませんように。単純な願いであり、同時に軽すぎる理想。鬼など相手にしていれば特にそう思う。それでも人死にはごめんだ。ただの我儘だと言われても。
(ごめんなさい、善逸君。そっちいは任せるわ)
心の中で謝罪し、蜜璃は走り出した。自分に課せられた役割を果たすために。
我妻善逸という人間は雑念の塊だ。何かを純化できた記憶というのがほとんど無い。いつもいつもあちこちに目移りしたり、途中で逃げ出したりしている。集中できる環境こそなかった、などとほざくのはただの言い訳か。
人生の中で唯一と言っていいほど、集中できたのが剣術だった。まあ、それにしたって大成したとは言いがたい。今の強さや立場だって獪岳あってのものだ。
いつも誰かに頼って、縋って、かじり付いて生きてきた。成功や失敗を論じられる次元ではない。そもそも一人では何もできないのだから。
(そんなちんけな俺が初めて単独で戦う相手が上弦の鬼なんて、本当に洒落にならないよ)
炭治郎は眠っている間に斬ってるとか妄言を垂れていた。伊之助など、寝ている時の方が強いとか。そんなわけ無いのだ常識的に考えて。だいたいいつも鬼殺隊失格と分かっていながら逃げ続けていた。
目の前で悠然としている上弦の伍、玉壺からは、幸いにも武の匂いは感じない。接近戦の技術だけはこちらに分がある事を期待できる。身体能力も、見た感じさほど高い訳ではなさそうだった。
(という事は、よほど強力な血鬼術を使うと思った方がいいかな。童磨に近いかも)
とはいえ、奴の場合は接近戦もかなりのものだったが。
壺を利用した転移の血鬼術。さほど距離はないと自己申告しているが、同時に早い。“消える”瞬間を捉えるのは困難だが、しかし“現れる”瞬間を見付けるのは比較的簡単である。なにせ先に壺があるのだから。
つまり、それだけでは柱を殺せない。ということは、転移の血鬼術が上弦の伍たる所以ではないという意味でもある。
(確実に血鬼術を二つ以上持つ類いの鬼。上弦の鬼では初めて確認するな)
血鬼術を複数持ちながら、一定以上の強さを持つ鬼はあまりいない。というのも、複数の血鬼術を使いこなすのは難しいからだ。隊士で例えるならば、二つ以上の呼吸を切り替えながら戦えと言っているようなものか。当然、一つに絞って極めた方が強い。
(多分、攻防で血鬼術を使い分けてるんだ。そうすれば切り替えに対する意識の問題はなくなる)
そして、恐らく極めた血鬼術は“攻”の方なのだろう。転移する“防”の血鬼術も悪いとは言わないが、柱を相手するには単純に練度が足りない。そちらを起点にするならば、絶対に壺の出現自体を知覚してからでは遅いほどにする。
これは予想でしかないが。転移の血鬼術はある程度習熟した時点で早々に見切りを付けたのだろう。効果が単純であるが故に発展性がない。彼も壱ノ型しか使えなかったから、できない事を別で求めたくなる気持ちはよく分かった。
(それが、あの魚を生み出す血鬼術な訳だ。それで自分を改造までするのは、さすがにどうかと思うけど)
顔の造形まで変化させる意味は、流石に分からないものの。人間性を捨てるのに忌避感を持たないならば、それは非常に有効だ。
同時に、一つの可能性が思い浮かんでくる。もしかしたらこの鬼の体は、そのものが血鬼術でできているのではないだろうか。
今まで戦ってきた鬼にも、化け物じみた姿の者は多かった。が、さすがにここまで人間離れしている者はいない。誰も彼も、最低限四肢くらいはあったのだ。鬼に変わってしまった事による変化とは根本から違うように思える。元の体すら曖昧になっているのは、血鬼術で常に自分を変化させ続けているのではないか、と仮説を立てた。
(という事は、触れるだけでも危険だ)
最悪、体のどこかが触れた時点で血鬼術の影響下に置かれてしまう。それがどんなものかは分からないが……己の肉体すらこんな風にできてしまうのだ。楽観的な考えは捨てた方がいい。
獪岳に教わった血鬼術の系統のどれにも当てはまらない。それだけでも警戒に値する。
(迂闊に近づけない……なんて思わされている時点で相手の思うつぼかもしれないんだよなあ。ほんと洒落にならないよ)
つばでも吐き捨てたい心地だった。もっとも、鬼との戦いなど、いつも多かれ少なかれこうであると言われればそれまでだ。
善逸の引き出しは獪岳の経験によるものが多い。それが通じなくなると、途端に攻めあぐねる様になってしまうと知った。そういう意味では、まだ童磨の方が迷わずに済んだ。
攻め込み時を見失って惑う善逸を、玉壺が嘲う。
「ヒョヒョッ、死ぬ準備はできましたかな?」
「そんな覚悟を持てたこと、人生で一度だってないよ」
惰性だろうが何だろうが、死にたくないという気持ちだけはいつも抱えていた。おかげで今日まで生きてこれている。ただの惰弱と言われようと、それが我妻善逸だ。
言われて、ふと気がつく。
「なんだ、そうじゃないか」
「ん? どうした、恐怖に壊れたか?」
「何でも無いよ。こっちの話」
勝つためだとか使命だとか、そういうお題目で力を振り絞るには、足りないものが多すぎる。
なら、できないなりに別の目的を持てばいい。相手を倒すために力を振り絞るのではなく、死なないためにひたすら足掻く。自分など、それくらいで丁度いい。せいぜい逃げ惑って戦うとしよう。
「まあ何でもいい。お前達の動きが思いのほか速かったからな、このままでは刀鍛冶を逃してしまう。残念ですが貴方にはすぐに死んで頂きましょう!」
「絶対にごめんだね!」
相手が先手を取る前に、善逸は横へと跳ねた。
これは童磨との戦いで学習した事だが、雷の呼吸は対広域攻撃の対処に向かない。電轟雷轟でも水の呼吸の堅牢さには遠く及ばないのだ。だから、その分を足で稼ぐ。ひたすら縦横無尽に走り引っかき回して、絶対囲まれないようにする。
玉壺が触手と言えばいいのか、それとも手と言えばいいのか、表現に困る体に巻き付いた触腕を体から広げる。展開された無数の腕、全てから壺が現れた。
「魚群・
壺から何が飛び出てきたかまでは、確認する余裕がなかった。
大小様々な手裏剣もどきが視界を埋めるほど発射される。こちらの速度を無意味にする程の物量は、もはや回避の手段を考えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどだった。魚群(と言っていいのかは分からないが)に全進行方向を阻まれながら、善逸は最小限の道を探す。
雷の呼吸 弐ノ型・稲魂・
本来その場で五連撃を放つ稲魂を、走りながら進行方向付近に纏める技。霹靂一閃に次いで突破力に優れている。
なぜ霹靂一閃にしなかったのかと言えば、理由は二つ。一つは、壱ノ型はあくまで直線突撃が前提、自由な行動力を失いたくなかった。二つに、霹靂一閃は一撃だけだが、稲魂なら五連撃、しかも太刀筋を自由に変えられる。この差は大きい。
手裏剣もどきが分厚い上、強度もそれなりにあった。善逸が斬るのに多少でも苦労したものに、周囲の建物が耐えられる筈もなく。次々に粉砕され、中にはそのまま倒壊した建物すらあった。
(まずい!)
逃げ遅れた何人かが、そのまま木材に押しつぶされそうになっているのを聞く。散っている木材を弾きながら、三人を半ば殴りつけるような形になりながら回収した。
可能な限り優しく拾ったつもりだったが、相対速度が尋常ではない。全員が呼吸困難になり、気を失いそうになっていた。
「自ら足手まといを拾うとは愚かなり。邪魔な塵と一緒に果てるがいい」
言葉と同時に、今度現れたのは金魚だった。空中で泳ぐそれは、ぷくっと頬を膨らませ、今にも何かを吐き出そうとしている。
正しい選択は何だ――一瞬頭が混乱する。そんなもの、考えるまでもない。即座に距離を詰めて金魚の半分を切り捨て、そのまま鬼の頚を狙う。今助けた三人は、囮として見捨てるのが最善だ。刀鍛冶達は隊士ではないものの、覚悟のできた、言ってしまえば『死んでも仕方の無い』側だ。
が、それを是とはしなかった。善逸も、そして獪岳も。
一〇匹ほどの金魚から、軽く見積もっても数百本の針が飛び出てくる。数だけで速度はたいしたことが無い。少なくとも、人体に致命傷を与えられるほどでは。と言うことは、こちらも当たればただ事では済まない攻撃なのだろう。
雷の呼吸にこれを捌ききれる型はない。獪岳の血鬼術を使えばなんとかなるかも知れないが、残念ながら自在に操るにはまだ検証が足りない。流石に期待できると言えるほどのものではなかった。
まあ、
(じゃ、逃げればいい)
とろい針より早く再度三人を担ぎ、すぐに木々の隙間へ投げ込みながら自分も離脱した。
逃げるのは恥だ。およそ誰しもがいい顔をしない。しかし即座に逃げる事を選べるのは、確かに善逸の強みになっていた。少なくとも、無駄に意地を張って無意味な死を向かえるよりはよほどいい。
幸いにも投げ捨てたのが気付けになったのか、地面に転がった刀鍛冶達は意識を確かにしたようだった。彼らに向かって、即座に告げる。
「逃げろ!」
声を聞き届けた刀匠たちの動きは、あわあわと怒りを覚える程遅いものだった。それを玉壺が見逃さないのも重々承知している。だからこそ、今度は先手を打った。
雷の呼吸 壱ノ型・霹靂一閃
恐らく自在に使える手持ち札の中では、唯一玉壺の知覚を上回れる技。壺から何が現れるより早く、頚を断たんと全身を爆ぜさせる。
玉壺が本気で刀鍛冶を狙っていれば、この一撃で終わっていたかもしれないが。相手もまた、ここを好機と見て狙ってくる可能性を考慮していたのだろう。何の魚だかは知らないが、ギザギザの鋭い歯がこちらに食らいつかんと大きく開いていた。最初にこちらの攻撃を受け止めたのはこれだろうか。
それを一刀両断する僅かな隙に、玉壺が消えていた。いつの間にか無事な建物の屋根に壺が現れ、そこから上半身を生やしている。
「もっと数がいればともかく、三人程度では人質にもなりませんか。どうやら貴方は柱の中でも特別に早い。普通に戦った方がよさそうだ」
「俺の呼吸は雷だからね、遅かったらそれこそいいとこ無しなんだよ」
「いえいえ、誇っても良いですぞ。こと速度という一点においては、確実に私を上回るでしょう。何か一つだけとはいえ、人間に上を行かれたというのは初めての経験です」
玉壺が楽しげに笑う。と言うことはつまり、それを加味してもなお善逸に勝てる要素などないと見込んでの事だろうが。
(ま、それは正しいけど)
ひっそりとぼやく。
仮にこのまま痣を出して戦っても、勝率は五割と少し程度だろう。しかも相手はまだ本気ではない。全力を出された場合は、恐らく二割にも届かない。今の時点で痣を知られるのは、利口とは言いがたかった。せめて相手がこちらの力を読み切ったと思い込み、かつ必殺を願える一瞬だけの利用にしたい。
痣を使うと寿命がどうの、という問題はこの際どうでもよかった。それより問題なのは、痣を使った上で届かなかった場合だ。もしそうなった場合、じりじりとすり潰されるのは目に見えている。痣による能力の向上を隠すのは、相手に全力を出させないのと同じくらい重要だ。
つまるところ、これは化かし合いだ。どちらが最後の一瞬まで、相手に嘘をつき続けられるか。
もっとぶっちゃけると、一人では相手に勝てる気がしない。可及的速やかに援軍なりなんなりが来て欲しかった。柱などという高望みはしない、せめてこの場に居て即死しない程度の実力があれば、できる事が大幅に広がる。
とはいえ、それがまず無理だろうとは分かっていた。玉壺は上弦の伍、つまり上弦の鬼で下から二番目だ。炭治郎と伊之助が向かった方の鬼は、もっと高位の鬼である可能性の方が高い。下手をすれば上弦の壱と戦っていると考えれば、善逸はまだ大分ましな方だ。
常任の隊士はもっと無理だろう。ただでさえ最初の襲撃で数が半減しており、逃がすべき人達に十分な護衛ができていない。実のところ、一番重要かつ人手が欲しいのがこの部隊である。
鬼殺隊にとってはいつものことだが。どこもかしこも人不足だった。実のところ、人を充足させられて先手を打てた化野と万世極楽教の件が異例なのだ。
三人が逃げ切るのを確認するより早く、善逸は体を深く沈めた。頭の中から彼らの事は抜けている。はっきり言って、これ以上面倒は見られなかった。余裕がないのもそうだが、そこまで彼らの安否に気を遣っていると思われる事の方が遙かに不味い。
(この状況、どう考えたって俺が『助けに駆けつける』側なんだよなあ。助けて貰うんじゃなくて。ああやだやだ。大体上弦の鬼と一対一で戦ってるのに、この上でまだ誰かを助けなきゃいけない状況なんてことある?)
愚痴りまくるが、それで状況が変わってくれる事などあるはずもなく。ましてや敵が容赦してくれることなど、もっとなかった。
「一万滑空粘魚」
玉壺の壺から、本当に一〇〇〇〇匹いるのではないかと思える数の、これは飛び魚だろうか。とにかくそんなような魚が、群れで襲いかかってくる。これほどの物量が相手になると、もうどの呼吸を扱うかなど関係なくなるだろう。魚は一匹一匹が妙に湿っており、これも触れたら危険な気配がする。
善逸は即座に砕かれた建物の中へ身を隠した。当り前のように魚群は善逸を見付け、追いかけてくる。式神と同じく、それぞれに意思なり敵を見分ける能力でもあるのだろうか。空間使いの玉壺だ、本人が目の見えない範疇を正確に察知していても特に驚きはない。
邪魔になる魚だけを切って、飛び散る液体は完全に避けた(やっぱり絶対に危ないやつだった)。時たま完全に退路を封じられた場合は、壁に体当たりして無理矢理穴を開ける。柱ほどに頑丈ならば話は別だが、薄ければ体当たりで簡単に通り抜けられた。鍛冶場ならこんなに簡単な作りはしていなかっただろう。そういった意味では、戦場が居住区で助かった。
逃走範囲はどんどん狭まり、魚に囲まれつつある。しかし、逃走ももう終わりだ。こちらが攻勢に出るという意味で。
善逸はなにも、里の中を無意味に走り回っていたのではない。玉壺と善逸の直線上に、進行を阻むような硬い部位がない位置を聞き分けていた。線で結ぶことさえできてしまえば、柱の中でも随一と自負する突破力を阻む事はできなかった。
雷の呼吸 壱ノ型・霹靂一閃・神速
足の負担から何度も使えない技を一つ繰り出す。薄壁をぶち破りながら、音すら置き去りにするような速度で一直線に向かっていった。
こちらの動きに驚き、玉壺が泡を食って体を引っ込める。反応される事は十分に織り込んでいたため、善逸は即座に刀を縦に切り返した。威力と速度は下がるものの、それでも十分に玉壺を追走する。
渾身の一撃はしかし、なんとか避けきられてしまった。善逸が斬れたのは壺だけだ。からん、と小さな音を立てて半分になった瀬戸物が転がり、代わりに地面から敵が見上げてきて。
「ああああぁぁぁ!」
大絶叫を上げた。
「貴ッ様アアア! この私の壺を! よくも割ってくれたな、この芸術を理解できぬ猿めがァ!」
「え? いや、そんなこと言われても戦いだし……」
あまりのぶっちぎれ様に、思わずタジタジになって答えるが。そんなこと玉壺にはお構いなしだった。
「戦いだろうが何だろうが、やっていいことと悪いことがあるだろうが! 芸術とはこの世の宝だぞ!? それをあっさりと永遠に失わせておいて、貴様はなんとも思わんのかこの非人間が!」
「えぇー……鬼にそこまで言われるの?」
なんだか勢いに圧されて、本当にこちらが悪いことをしている気になってきた。いやいや、と否定しながら言い返す。
「じゃあなんで戦いの場に壺なんて持ってくるの」
「いくら戦場だからといって、美術品につばを吐き捨てるような真似など誰がすると思う!?」
「普通は芸術より命を選ぶと思うけどなあ」
「ド低脳めがァ! 少しは芸術に理解を示す姿勢を見せたから、死んだ暁には我が最高の芸術にしてやろうと思っていたというのに! この私の好意を踏みにじりおってェ! 許さん、絶対に許さんぞ糞餓鬼がァァ! ぶっ殺してやる!」
「なんで俺こんなに怒られてんだろ」
もはや黄昏れるしかなく、そんなことを呻いた。
こんなに怒られると、命の危機とは別種の恐怖がわき上がってきた。なんというか、こう、関わりたくないし関わっちゃいけない的なものが。
「
即座に音で察知し、善逸は街の外へ飛んだ。玉壺本人と、他所に設置された壺七つ、計八つの壺から、巨大な蛸足が溢れ出て、一切の区分無く叩き潰し始める。その威力たるや、里が一瞬で沈んだ程だった。
(なんて威力!)
最初にこれを遣われていたら、里人を逃がそうとする前に全滅していた可能性すらある。それこそ瞬間的な火力で言えば、あの童磨すらをも上回るだろう。それだけに、これには相応の消耗があると思いたいが……
地形には、幸運と不運が混在する。今までは善逸に対し、幸運に働いていた。遠距離からでも一瞬で距離を詰め、頚を断てる技があると思わせた時点で十分に役立ってくれたと言える。しかし、ここにきて運が逆転した。
くだけた木材が周囲に飛び散り、何もかもを無関係に吹き飛ばした。中には木に叩き付けられ、へし折っているものまである。当然、人間がそんなものを喰らえばひとたまりも無かった。
余波だけでも、それは十分に台風じみていた。瓦礫が山のように飛散し、自分に直撃しそうなものをより分けるのも難しい。とにかく木々の合間を縫いながら、連続して電轟雷轟を放って後退し続ける。
射程距離が長い蛸足もまた厄介だった。とにかく非常に斬りづらいのだ。非常に柔らかく、なにより弾力がある。その上どれだけ斬っても即再生してきた。これに飲まれながら生きて出られるのは、恐らく“凪”を使用した炭治郎くらいだろう。
体中から浅いながらも傷を作りながら、やっと圏外に抜けられた。そこで気がつく。蛸足が追ってこない。
(そうか、これを遣っている間は動けないんだな)
だから初手で使わなかった。これで殺しきれなかった時、生き残りを探す手間が極端に増える。鬼にとって、刀鍛冶は全滅させなければ意味が無いことの証左だ。
同時に、見えてきたものもあった。
(これが玉壺の最大出力、そうでなくとも全力に近いはずだ。多分、壺を同時に出せる数も。といっても、この中をすり抜けて頚を狙うのは現実的じゃないけど。それに、瞬間移動の血鬼術にも限度がなんとなく見えてきた。最大でもこの蛸が暴れている範囲が、瞬間移動の最大距離。人間だか物体だか、ともかくそういうものを感知できるのもこの範囲に限られる!)
小さな街をまるまる飲み込む程なのだから、決して小さくはない。
とはいえ、相手は一時的にこちらを見失っているには変わらないのだ。今のうちに、何か手を考えなくてはいけない。
背中を預けている半壊した建物、これは研場だろうか。砥石やら水場やら、里の外でも見たようなものが転がっている。善逸だって使ったことはあった。といっても、簡単に仕上げるだけで、本職の研ぎ師にはほど遠いが。
と、そこで使えそうなものを見付けた。ごそっと取り、袂……は破れているので、刀帯に無理矢理ねじ込む。
蛸足の動きが鈍ってきた所で、善逸はそれを投げつけた。遠く、かしゃんと音がすると共に、蛸足の一部が一瞬にして消える。
持ってきたのはノミだ。恐らく刀に意匠を施す為のものだろう。日輪刀に彫り込むのだから、もしかしたらこれの刃先も猩々緋鉱石で作られている可能性が高い。ただの鉄よりは打撃力で期待できた。
意識外の攻撃に、玉壺は上手く動揺してくれたようだった。蛸足の動きが乱れる。
(ここが好機か? いや……)
僅かに悩み、そして否定した。
投擲は、ほぼ初めてにしては上手くいった方だろう。獪岳の経験をそのまま流用できてよかった。
しかし、この距離から必殺は望めない。さすがの霹靂一閃・神速でも、これほど遠方から一足飛びとはいかなかった。痣を使ってもだ。どう足掻いても玉壺に対処され、こちらは切り札を失う。
(逸るなよ、俺。今は根比べの時間だ。相手が一つ失敗してくれたんだから、有効活用しなきゃいけない)
飛び出したくなるのを必死に抑える。思い出すのは、獪岳の言葉だ。お前は突撃癖がある、前に出ていい時とそうでない時をちゃんと考えろ。絶対に忘れてはいけない、偉大な先輩にして兄の言葉。
弧を描くように走りながら、連続してノミを投げる。やはり、この距離では知覚も届いていない。いくらかノミをたたき落とされる事はあったが、順調に壺は破壊できた。
同時に、また見えてきたものがあった。この状態でも、玉壺は自分の守りを固めない。本人に限って言えば、壺を割られたところで何ら痛痒を与えられない事が確定した。消耗……は日の出までに間に合うか分からない上、自分も持たないだろうから、そちらは狙えないが。可能な限り壺を無駄に出させ、逃げ道を塞いだ所で痣と併用した霹靂一閃の連続使用、恐らくこれが一番勝率が高いのだろう。
半分ほどの壺を潰したところで、ついに蛸壺大阿鼻が引っ込んだ。丁度いい、こちらもノミが尽きた。
ノミが飛んでくる位置から、大雑把にこちらの場所は把握していたのだろう。重要なのは、真っ直ぐ善逸のいる方向ではなかったという点だ。察知できることを誤魔化すには、少々大きすぎるずれ。これで知覚と転移範囲の推測が確定する。
二段階に跳躍して、善逸の視界から消える。これは背後に居るのだとすぐ分かった。下手に奇をてらって真正面だなんだに来ることはない。どれだけ慣れた所で、背後が一番手を伸ばしづらい事実は変わらないのだから。
故に、速度は落とさないままかなり無理をして体を捻り。固い物同士が甲高い音を立てて接触する。相手を斬るための攻撃ではないため、善逸は容易く吹き飛ばされた。
「腐っても柱……せこい真似をしてくれる」
「とっとと頚を切られてくれれば、俺もせこい真似をしなくて済むんだけど」
「黙れ。死ぬのは貴様だ」
玉壺が血管を浮きだたせて吠えた。
ああ怖い怖い嫌だ逃げたいほんと怖い。さすが数々の柱を退けてきたと言うだけあって、彼の怒りから発せられる圧力はどの柱より上だ。柱という重責がなければもう逃げていたかも知れない。炭治郎あたりは、長男だからというよく分からない理由で戦い続けそうだが。
そのまま襲いかかってくるかと思ったが。玉壺が明後日の方を向いたかと思うと、斬りかかる前に姿を消した。直後、壺が粉砕される。
発砲音と誰かが近づいてくる足音を聞いたのは、玉壺が別の場所に現れてからだった。人の中に少しばかり鬼を混ぜたような、奇妙な音。もう一度放たれた弾丸、今度は玉壺に軽々受け止められていた。
飛び出てきたのは、不死川玄弥だった。
「見付けたぜェ……上弦の伍か!」
「我が芸術を理解できぬ蒙昧の輩が二匹。なんとも悍ましい夜だ」
互いに殺意を叩き付けながら吐き捨て合う。なんかちょっと似てるな、と思わなくもなかった。人の話を聞いてるようで完全に無視している当たりが特に。言ったら袋たたきにあいそうだから言わないが。
(けど、この音どういう事だろ?)
眉をひそめて考える。
以前に会った時、玄弥はこんな音を立てていなかった。いや、近い音はあったのだ。ただそれは、あくまで呼吸の違いによる誤差だと思っていたけで。しかし今は、完全にそれが鬼のものだと分かる。
一度疑問を持てば、次々に湧いてきてしまった。隊士にしては走る速度が遅いだとか、しかし膂力は並の隊士を凌駕しているだとか。およそ普通の人間ではない。
が、まあそんなものは後から確認しても事足りる。今は味方が増えたのが、何より価値があった。
「玄弥、とにかく相手にちくちく嫌がらせして! その間に俺が頚を……」
「うるせぇ! 俺が頚を切るんだよ!」
「えぇ……」
なんかまた意味も無く怒られた。どうしろと言うのか。
今日は何も悪くないのに怒鳴られる事が多い日だな、とか現実逃避する。厄介な敵に厄介な味方。マシな部分が何一つとしてない。
「じゃ、じゃあ俺が補助するから、玄弥が頚を切って、ね?」
「最初からそう言えやカス!」
「……はい、なんかすみません」
もう帰って寝ようかな、なんて思えてきた。この扱いの連続はそれでも許される気がする。
「ヒョヒョッ。柱にもなれぬ塵が私の頚を斬るとは、またとんでもない妄言を吐くものよ」
「だから今てめぇの頚を斬って柱になるんだろうが」
互いに狂暴な笑みをたたえ合う。が、次の瞬間。
雷の呼吸 肆ノ型・遠雷
善逸は、玄弥の背後に向かって型を放っていた。来たばかりなので仕方の無い面もあるが、玄弥は玉壺の血鬼術に全く対応できていない。が、これは宙をすり抜けていった。背後への転移は見せかけだ。そうだと分かっていても、彼を守るためにそうしなければならない。
玄弥が振り向いたのは、善逸が型を放ち終えた後だった。彼はそれを察して、背中以外を警戒すべきだったのだ。棒立ちになって善逸の姿など追いかけている暇があったら。
(動きが鈍すぎる!)
だがそれ以上に、玄弥の動きが遅い事に苛立ちを覚え、内心で罵倒した。判断は初見の相手なのだから仕方ないにしても、体の使い方がまるで隊士のそれではない。
結果、当然のように玄弥は捕まった。
壺の中から伸びた触腕、さらにその先からもたれた壺から、水が溢れる。あっという間に玄弥を包んでしまった。流れ出た水は空間に固定され、水鉢となって彼を内側に拘束してしまう。
「血鬼術“水獄鉢”。早くも一人終わりましたな」
「玄弥のアホおおおぉぉぉ!」
全力で罵る。なにやっとんねんこの馬鹿が。
「さてどうします? 彼を助けますか? それとも見捨てて戦いますか?」
「助けさせてなんてくれない癖に」
「当然ですとも。彼は人質、そうでなくとも、そこに死にかけている隊士がいると分かっているだけでも気が散るでしょう?」
舌打ちをする。その通りだ。死んでしまったならばともかく、まだ生きている以上、見捨てる事はできない。
選択肢が極端に減り、同時に考える事とすべき事が増える。
この水鉢はどれくらいで壊せるのか、そもそも壊せるものなのか。雷の呼吸は他の呼吸のように、吹き飛ばす類いの技は持っていない。もしそれを要求された場合、玉壺を速やかに殺す以外の解放方法がなくなる。当然、そんなことができるのならばとっくにやっていた。水鉢の中に封じられている玄弥はどれほど持つだろうか。見た限り毒性はない。つまり、呼吸を止めていられる時間がそのまま限界点になるだろう。直前に深く息を吸っていたなら、少し時間を期待できる。そうでなければ、それこそ色々な
(助けるには、相手と状況が悪すぎる)
酷い言い方だが、この場における玄弥の――というか隊士の――命は優先順位が低い。最悪を覚悟しなければ……
と考えている内に。なんでだか、玄弥は水を飲み始めていた。
さすがにこの行為には、善逸と玉壺、二者が同時に絶句する。自分より体積の多い水など、どうやったって飲み干せる訳がないのだ。まさか飲んだらそこだけ穴が空く、とでも考えているのだろうか。善逸は口を半開きにして、玉壺は嘲笑を止めない。
だが。善逸の耳だけが、その変化を捉えていた。
異音が膨れ上がる。玄弥にあった鬼の部分、それの奏でる音の比率が、一気に増していった。まるで体を人でありながら鬼にして行く、とでも言わんばかりの勢いで。
玉壺の高笑いが止まったのは、彼も変化に気がついたからだろう。水鉢の体積が明らかに減っている。玄弥が肌ですら水を吸収し始めたからだ。
それがすぼまり、地力で破壊できるようになった頃。見た目はまだ人と言えたが、しかし彼の体から放たれる音は、もう人間と言えない程になっていた。日輪刀で縮小された水鉢を突いて破り、彼の体が地面へ落ちる。幾度か咳と深呼吸をして、立ち上がりながら壮絶な笑みを見せた。
「俺に餌をくれてありがとう」
「なんだ、なんだ貴様は!」
上弦の伍の問いに、彼は答えなかった。ただ一つ、はっきりしている事がある。
今までの非力と違い、彼の力は上弦の鬼と戦える次元まで押し上げられた。