獪岳と善逸   作:山筋

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狛治

 柱三人の『覚醒』とも言える変貌によって戦局は一気に傾くか、と思われたが。それを前にしても、猗窩座は驚異的な粘りを見せていた。

 今までのように簡単にいなされ、転がされる事こそ少なくなったものの。猗窩座はその圧倒的再生力にものを言わせながら、辛うじて全ての攻撃を回避しきっていた。刃の通り道がほんの一分未満ずれただけでも致命傷にならないのをいいことに、とにかく刃を上下に弾き続けている。

 瀬戸際に立たされて、なお猗窩座は笑みを浮かべていた。というか、

 

(この上でまだ精度が……いや、力量全体が増している!?)

 

 初期に遭遇した猗窩座だったらとっくに終わっていただろう。少し前でも、時間はかかれど倒せていた可能性は高い。

 こちらが強くなった上に、破壊殺を頼れなくなって一気に窮地へと立たされた筈だ。実際、彼は今、視線を三方向に飛ばしながら逐一観察して対処をしている。今まで血鬼術に頼ってきた分、それだけでも大きな負担の筈なのに。

 ここにきて、この場に居るのが善逸ではなく杏寿郎だという事実が重くのしかかっていた。実力だけで言えば、確かに杏寿郎の方が上だ。しかし連携を取るという意味では善逸の方が圧倒的に分がある。元々それなりに長く組んでいた上、とどめ専用の壱ノ型しか使えず、誰かに合わせる事が前提の戦い方をしていたのだから余計に。

 合わせる型の僅かな違い、間合いの些細なずれ、そういったものを上手く利用されていた。

 こう言ってはなんだが、破壊殺が機能しない今の猗窩座は異能の使えない普通の鬼と同じである筈だ。少なくとも炭治郎と伊之助にとっては。その上で獅子奮迅の働きを見せている。

 普段ならば気にしない程度の雑音だが、今はひたすらにうるさく響く。連携を合わせきれないというのがこれほど重荷になるとは思わなかった。

 代わらない、どころか徐々に跳ね返されつつある状況に焦りを感じているのは、炭治郎だけではない。杏寿郎どころか伊之助すらも勝負を急ぎ始めていた。全員が、なんとなくだが分かっているのだ。これ以上、猗窩座を好きにさせてはいけない。

 自覚してだろう、杏寿郎は何度か相打ち覚悟の一撃を放とうとしている気配があった。しかしそれも全て潰されている。杏寿郎は、この場で唯一破壊殺による察知が可能な相手だ。同時に実力も最も近い。彼が動けば残りの二人が必ず頚を斬ると知っているからこそ、牽制と先手は徹底されている。

 

(いや、おかしいぞ)

 

 不意に気がつく。

 いくら相手の行動を未来予知に近い精度で読み切れる『破壊殺』と、ほとんど反射で動くことができる程に極められた『古武術』の二つがあるとはいえ。命を賭した攻撃を潰し続けるなど、それこそ圧倒的な実力差がなかれば不可能だ。少なくともつい先ほどまでは、そんな実力はなかった。あったなら炭治郎と伊之助だけの時点で殺されていなければおかしい。いくら気分で実力が上下するとはいえ、武人然とした彼がそこまで手加減をするとは考えづらい。

 ならば、答えは一つ。今この瞬間にも、猗窩座は強くなっているのだ。

 

「ははは、なんだこの感覚は。初めての……いや、久しいのか? 俺が鋭くなっていく。どんどん強くなっていく。俺そのものが『武』になる!」

 

 言葉を証明するように、四つの刃はどんどん頚から遠ざかっていった。まるでそれこそが自然な流れだとでも言うように、方々に散らされていく。これまで波状攻撃に亀のように固まっていた彼は、しかし攻撃に転じる余裕すら見せ始めていた。

 動きの速度が増した訳ではない。攻撃力も体の硬さも変わらない。再生力に至っては多少衰えを見せてすらいる。にも関わらず、猗窩座は強くなっていた。

 あり得ない事が起きてしまった。その事に、炭治郎は戦慄する。

 

(歯車を噛み合わさせてしまった!)

 

 恐らく何でもそうなのだろうが、能力の上昇率というのは常に一定ではない。必ずどこかで壁にあたる、もしくは躓いて停滞するのだ。全く成長しない、ないしは感じ取れないほど細やかにしか上昇しない期間。

 ではその間の修行というのは無駄になるのだろうか。答えは否だ。停滞とは、実のところ習得したものが噛み合わないという程度の事でしかない。

 炭治郎の『透き通る世界』がいい例だろう。今まで自覚も認識もできなかったそれ。戦いの中で初めて理解し、見いだせた。ではそれまでの間、修行を疎かにしていたらここにたどり着けただろうか。絶対に無理だと断言する。『透き通る世界』とは才能でも超常能力でもなんでもない。ただ単に、今まで積み重ねたものが『合わさった』という程度の話でしかないのだ。元々そこにたどり着けるだけの下地は作り続けていた。必要だったのはきっかけのみ。

 訓練とは、いわば一つの成果を生み出すための預金なのだ。

 彼が猗窩座との戦いでそれを掴んだように。猗窩座もまた、命の危機に瀕してバラバラに積み上げてきたものが一つの形を成した。

 言うなれば、これが猗窩座という鬼本来の強さなのだ。それを引き出してしまった。

 

「やはり強さとは闘争の中でのみ生まれる! やはりそうだ、俺の考えに間違いはなかった! 謝罪する、鬼狩り達よ。俺は今の今まで不完全な状態でお前達と戦っていた。感謝する、鬼狩り達よ。俺を殺しうる実力を持っていてくれたからこそ俺は次の段階へと進めた。俺はまた一歩『頂』へと近づいたのだ! 嗚呼、今なら胸を張ってあのお方に言えるぞ! 俺は童磨を超えた! 我こそ上弦の弐に相応しいと!」

 

 猗窩座の技に呼応するように、破壊殺すらも進化を始めていた。今まで直視しなければ捉えられていなかった炭治郎と伊之助の動きを、ほとんど見ずに把握しかけている。透き通る世界も獣の時間も未だ解けていないのに。

 闘気、と彼は言っていただろうか。破壊殺は恐らくそれに反応、ないしは呼応するものだった。今は違う。領域内の『動体』を捕らえていた。性質としては、恐らく炭治郎の透き通る世界に近い。

 ただでさえ対人間において無類の強さを持っていた上弦の参。彼はこの上で対人に特化した成長を遂げている。悪夢だなんだという思いすら超えて、彼に勝てる方法などあるのかとすら考えてしまった。それほどまでに、今の猗窩座は極まっている。ただ強いなどという陳腐な言葉では片付けられない高みだ。“至高の領域”というものに拘る理由が、ほんの少しだけ理解できる。

 

(いや、余計な悩みを持つな! 今はどうやって猗窩座を倒すかだ!)

 

 自制するものの、だからといって冴えた答えなどは思いつかない。彼の絶対的防空圏は、既にあらゆる妖刀魔剣を引き抜いてなお届かない域に達している。

 鬼の中でも、唯一人以上と言える異能を持たない鬼。それこそ破壊殺すら、炭治郎達が持つ超感覚の延長線上でしかない。それは逆に言えば、人の可能性をそのまま叩き付けられているに等しかった。

 彼我の差は少しずつ覆されていった。炭治郎らの誰一人として、まだ衰えてはいない。覚醒状態も奇跡的に続いている。その上でなお押し込まれ始めていた。計り知れぬほど急激な速度で、猗窩座の力が増しているのだ。

 とっくに誰かを犠牲にした相打ちは通らない。透き通る世界と獣の時間の優位も、もはやごく僅かだ。柱が三人もいながら、戦場は完全に制圧されている。

 相変わらず、三方向から同時攻撃を仕掛ける。

 

(あ……)

 

 そこに発生した雑音が今までより大きいと感じた時には、既に猗窩座の行動は終えていた。

 縦に振り下ろされた炭治郎の刀を捻って、杏寿郎のそれへと当てる。伊之助の双撃は片方を捉えられ、纏めて捻り態勢を崩さされていた。三人同時に、次手を放つ態勢を取れなくなる。

 ほんの一瞬の出来事だ。今までの猗窩座なら、一人を狙うのが限界だっただろう。その間に横やりを入れて窮地を脱出することだってできた。が、今の猗窩座ならば。三人纏めて屠る大技を放つに十分な隙だった。

 

「悲しみはしない。鬼となってまた逢おう――」

 

 次に来るのは、無差別全方位攻撃。攻撃を先読みせずともそれが分かった。

 頭よりも先に体が死を感じた。刀を掲げて頭部を守ろうと勝手に動く。が、それが無意味なのは分かっていた。防御というよりは雑に挟んだだけの剣が、猗窩座の打撃に耐えられる訳もない。仮に頭が無事だったとして、代わりに全身が穴だらけになるだろう。

 猗窩座の両腕が視認できないほどの速度で動かされる。もはやこれまでか、そう思ったところで。

 

「あガアああぁぁ!」

 

 禰豆子が横合いから、思い切り猗窩座に体当たりした。

 いや、燃料が切れかかっている彼女に、もう体当たりと言えるほどの力は残っていない。ほとんど寄りかかっているだけと行った方が正しいか。もう碌に動けない禰豆子にできたのは、それが精々だったのだろう。

 猗窩座は術式を中断し、禰豆子を投げ飛ばす。宙を舞って枝の上に乗せられた彼女に対して、忌々しげに叫んだ。

 

「戦死の戦いに割って入るな愚か者が!」

 

 絶叫を聞きながら、炭治郎は考える。

 

(やっぱりおかしい)

 

 忘れかけていた疑念が蘇る。

 そんなに禰豆子が邪魔なのならば、いっそ行動すらできないまでに破壊してしまえばいいのだ。勿論、そんな事をされる前に炭治郎が割って入るつもりではあるが。炭治郎の覚悟はさておき、猗窩座にはそういう選択肢があった。今回に限らない。今までもずっと。

 いや、それ以前に技を中断したのだっておかしい。彼が最後の技を発動できる時に、まだ禰豆子は抱きつけていなかった。制空権に入って来たのなど無視して、全て吹き飛ばす事が可能だったはずだ。何故そうしなかったのか。

 頭の中を、ぐるぐると色々なものが駆け巡る。ただの偶然ではない。それが欠点なのか、それとも単に本人の拘りなのか。事情は知らないが、必ずそこに意味はある。少なくとも猗窩座にとってそうするべき必然性が。

 

(思い出せ、思い出すんだ俺! 鍵は既に見ている筈だ!)

 

 殺すべき人間と活かすべき人間の選別。強さでは確実にない。それならば刀鍛冶を見逃す訳はないのだから。

 二つの遺体も残さず喰われた隊士。傷一つ無く気絶させられただけで生き残ったのは、長い髪を一纏めにした女性だった。

 はたと気がつく。最初は意識していなかった。そこまで余裕はなかったし、体して意味があると思っていなかったから。しかし改めて思い出すと、猗窩座から逃げ切った者は、年齢に問わず全て女性だったのではないだろうか。

 

(女の人は、殺さないし食べない……?)

 

 ほとんど確信して呟く。

 鬼にも『偏食家』はいる。しかし、猗窩座のそれは全く毛色が違った。殺す事すら厭うというのは、明らかに偏食の域を逸脱している。ただの『鬼としての拘り』でない事は確信できた。もっと強迫観念めいた、いわば執念、いや、呪いに近い。

 気付いたときには、炭治郎は叫んでいた。

 

「猗窩座! なんで女性を殺さない!?」

「……? 訳の分からない事を。殺して欲しいのか?」

 

 全く意味が分からないといった風の猗窩座に対し、炭治郎はなおも続けた。

 

「違う! お前が女の人を殺さないのは理由がある……いや、殺せないんじゃないのか!? そこに()()()()()()()()()があるんじゃないのか!」

「俺を惑わせて時間稼ぎでもするのか? 夜明けも近い今、そんなものに乗るつもりは……」

「なんとなくだけど分かったんだ! お前は人を捨てていない! 自分の中に、必ず人間だった何かを残してる!」

「さっきからごちゃごちゃと」

 

 猗窩座の顔が歪む。意図して作ったのではないとはっきり見て取れた。

 心の奥底に仕舞った、或いは隠した柔らかい場所に言葉が触れたのだ。確信して、炭治郎はさらに言葉を続けた。それこそ刀すら投げ出さん勢いで。

 

「負けるな猗窩座! お前が言ったんだ! 俺は強いって! だったら鬼なんかに負けるな! 戦え! 逃げるな! 人間だった頃を思い出せ!」

「やめろ! 俺は逃げてなどいない!」

「負けるなぁー! お前は誰なんだ!? 鬼にされた程度で負ける男じゃないんだろう!? 自分から逃げるな! お前はそんなものに負けない筈だ!」

「やめろと……言っているんだぁ!」

 

 悲鳴のような絶叫と共に放たれた乱舞が、辺り一面を区分無く抉る。あまりの暴風に、防御だけでは追いつかず吹き飛ばされた。今までのように洗練された技ではない。技術を乗せただけと言った風のそれは、むしろただの暴力だった。

 後ろに下がりながら、跳ね飛ばされる石やら土やらを弾いて飛ばす。いくら余波とはいえ、鬼の膂力で弾き飛ばされたものだ。石つぶて程度であっても、頭蓋骨を貫くには十分に過ぎる。

 

「おいこれ今までとは別の意味でやべえぞ!」

「とにかく今は防御に専念するんだ! 炭治郎少年にも何か考えがあるはずだ!」

「すみません何もありません!」

「無計画か! しかしやってしまったことは仕方なし!」

「ありがとうございます!」

 

 あらゆる死の猛威が過ぎ去った後。爆心地に居た猗窩座は、頭を掻きむしっていた。

 これ幸いにと挑もうとした伊之助を、杏寿郎が手で制する。

 猗窩座はうめき声を上げていた。苦しみから染み出ている、と一声で分かる煩悶。呼吸が荒い。吐息が不規則に吐き出される。彼が何にうなされているのかを測るのは難しい。

 だが、ただ一つ。彼は今正に戦っているのだと、それだけは分かった。

 やがて声が静まり。顔を上げた猗窩座の頬には、涙が伝っていた。

 

「炭治郎……」

「お前は、猗窩座なのか?」

「そうだ。同時に、違う名がある事も思い出した」

 

 失意の中、彼は涙を流しながら呟く。全身が弛緩したように力を抜いていた。

 ならば、希望があるかもしれない。そう思って、炭治郎は叫んだ。

 

「共に戦おう! 人間である事を思い出したお前なら、不可能じゃないはずだ!」

「いいや、無理だ」

 

 俺は、と猗窩座がぽつぽつ語り始める。

 

「間抜けで無能な男だったよ。人だった頃も、鬼になってからも。間違った道ばかりを歩んできた。その中で、俺を正しく導いてくれる人もいたな。でも、俺は彼らを守れなかった。どんな手を使ってでも守らなければいけなかったのになぁ……。いつもそうだ。ただの役立たず、それが俺だ」

 

 言葉は、ただのうわごとだった。それこそ整合性があるかどうかも分からない。

 彼は両手を見下ろしていた。そこに何が乗っているのだろうか。或いは、何もかもを取りこぼしてしまった後悔だけを見ているのかも知れない。

 猗窩座は俺だ、となんとなく炭治郎は感じた。家族を皆殺しにされ、鬼となった禰豆子すらも残らなかった場合の竈門炭治郎。それが彼なのではないだろうか。

 

「沢山人を殺した……鬼になってから、鬼になる前も……。今更……どの面を下げて人間に戻れる? もうどこにも行けやしない。鬼から、殺した人達から、守れなかった人から逃げる事こそが許されないんだよ、炭治郎。俺に残ったのは、はは、武だけだ。本当に必要なものなど何一つ残らなかったのに、こんな物だけが手の内に収まっている。無様で、滑稽で、なんとも皮肉な話だ」

 

 涙を流しながら、猗窩座は頭を上げた。瞳には、ただ虚ろだけが残っている。

 そして、拳を持ち上げながら呟いた。それは、恐らく哀願だったのだろう。

 

「俺はあのお方の呪縛から逃れられない。そんな力があれば、最初から記憶も何もかも失って狗などやっていなかったのだから当然か。だが、仕方が無い……全て俺の間抜けさと弱さが招いたのだから。本当に仕方が無い……」

 

 こぼれ落ちる何かを振り払うように、猗窩座は目を強くつぶり。同時に開きながら、構えを取った。

 

「頼む。せめて武人として死なせてくれ。生まれた価値など何もない俺に、ただ一つ残されたものなのだから……」

 

 彼の覚悟に、しかし炭治郎は答えに窮した。

 他の願いならば、何でも聞き届ける覚悟はある。しかし今の彼は禰豆子と同じ、もはや人の天敵ではない。もしかしたら、禰豆子がそうなる可能性があるように、彼も人間に戻れるのではないか。そんな風に思えて仕方なかった。

 確かに人を殺すことは許されない。それでも、罪を雪ぐ機会くらいはあってもいいではないか。

 

「……承知した」

「煉獄さん?」

 

 しかし、杏寿郎が真っ先に応える。彼の瞳には、燃えさかる意思が宿っていた。

 

「炭治郎少年、無粋だなどと陳腐な事を言うつもりはない。彼の罪は到底あがなえないなどとも。だがな、彼は決めてしまったのだ。自分の死に時は今だと、そう決断してしまったのだよ。ならばそれに応えよう。我々剣士ができる、せめてもの弔いだ」

「でも……」

「ごちゃごちゃと言ってることはよく分かんねえけどよお。おい、上弦の参、お前は強ぇ。俺はぜってえお前の事を忘れねえぜ」

「……感謝する」

 

 ここに至って、もはや言葉を尽くすのは愚だと悟らざるを得なかった。猗窩座も、杏寿郎も、伊之助も、皆が決めてしまったのだ。最後に決めなければいけないのは炭治郎だ。

 なおも言葉が出そうなのを振り切って、炭治郎は夜空を仰いだ。暗く、広く、鬼を知っている者にとっては恐怖の世界。しかし今だけは、ただ悲しさが漂っていた。

 炭治郎も構えると同時、痣と透き通る世界を最大値にまで引き上げる。

 

「俺は……妹だけじゃない。本当は、鬼もみんな救いたかったんだ」

「夢物語だ。しかし、悪くない願いでもある。できれは生きていた時代に、お前のような男に逢いたかったよ。いや、逢っていたのか? 駄目だな、古い記憶でよく分からん。本当に、昔の……昔の記憶だ」

 

 わかり合えても、混じり合う事ができない。世の中にはそういう事もあるのだと、分かっていても受け入れたくなかった。それを突きつけられたのがたまたま今日だった、それだけの筈なのに。口惜しさだけは、どうしても消せそうになかった。

 猗窩座の闘気が、先ほどまでと同等かそれ以上まで増幅する。本当に、ただ戦士としての自分以外を捨てていた。

 これは生存競争であると同時に介錯だ。これ以上、彼を鬼舞辻無惨に使わせてはいけない。ならば、最後の願いくらいは叶えてやってもいいのではないだろうか。

 禰豆子が四苦八苦しながら絡まった枝を解いて地面に落ちる。それが、開戦の合図になった。

 もう小手先の技は使わない。既に出し尽くしたし、型ほど洗練されたものならばともかく、細かい技など既に見切られているだろう。加えて伊之助との相互技(と言っても勝手に炭治郎が合わせてるだけだが)も大体は見せきっている。

 

(なら、ここでもっと強くなるしかない!)

 

 正直、現時点の自分にこれ以上伸びしろがあるかなど分からない。既に出し切ったと言ってもいい状態なのだから。同じ悩みは伊之助と杏寿郎も抱えているだろう。

 猗窩座の戦い方はあからさまに代わった。今までのように高度な技術で押しつぶす戦法をとらず、むしろ粗暴さを前面に出してねじ伏せようとしてくる。いや、どちらかと言えば原点回帰という印象を受ける。戦い方を人の頃のそれへ戻した。粗野な部分を武術という型にはめ込んだような、なんというか、とても人間らしい戦い方。

 戦い方は変われど、なおも力は圧倒的。中にはまだ見ていない技も飛び出てくるが、それは透き通る世界を凌駕する程のものではなかった。

 が、炭治郎はそうでも伊之助と杏寿郎は違う。炭治郎の覚醒は『観』と『守』に偏ったものだが、彼ら二人はあからさまに『攻』向きのものだ。さすがに今までと同等とはいかない。二人が慣れるまで、なんとか自分が繋がなければ。決断して前へ出るものの、それすらお見通しだった。

 猗窩座の手が虎爪の形に変化する。それで虚空を、いや、大気を裂いた。

 

「乱式・散り火花(ちりひばな)

 

 言葉通り、まるで火花が散るように空気が弾ける。全方位無差別連打のように、狙いを定かにしない雑な打撃の中に致命的なものを潜ませるものとは性質そのものが違った。それこそ散り火花は、透き通る世界でも見切ることができない。本人すらどこに飛ぶか分かっていないだろう。大気の刃は何もしなくても自分を素通りしていくかもしれないし、逆に全てが体を引き裂こうと牙を剥くかもしれない。

 こんな不確実で曖昧な技は、今まで猗窩座は使ってこなかった。これは隊士にも多いのだが、技術が洗練されればされるほど、想定外の効果を嫌う。それをあえてここで、しかも炭治郎相手に出してきたと言う事は。

 

「ここまで見せられれば嫌でも理解する。お前が俺自信すら感知できない、筋肉の微細な動きを読み取っているのだと」

(やっぱり、対俺に特化した技!)

 

 読めれば読めるほど見切れない技を放たれ、仕方なく攻撃に回していた意識を防御へと転じさせる。

 水の呼吸 弐ノ型・水車

 どこに飛んでくるか分からない以上、体全体を守るように型を放つしかない。およそ行動できる全位置を覆っている以上、水の呼吸で最も機動力に富んだ水流飛沫ですら対処に不安があった。

 『破壊殺』という血鬼術と、『式』と呼ばれる古武術の型。やはりこれらの組み合わせは異常なほど噛み合いすぎている。

 唯一の救いと言えば、根本的に彼の収める古武術が本人の気質と噛み合っていない点だろう。破壊殺は言わずもがな、守勢で最大の効果を発揮する。そして猗窩座も、どちらかと言えば『守る』という意識が強い。しかし収めている技は主に短期制圧向けであり(まあ無手で武器を持った相手にたらたら戦いを長引かせるような流派があるとも思えないが)、防御の型は新しいというか、恐らく鬼になってから編みだしたもの。僅かではあるものの、練度に差があった。唯一の隙らしい隙だ。

 本人に自覚のあるなしまでは知らないが、必要だと判断したからこそ守備の技を編み出してきたのだろう。

 散り火花も、あくまで牽制の技。剣士に剣を届かせない事に重点を置いており、殺傷力は二の次だ。

 伊之助と杏寿郎が復帰する僅かな合間を縫って、さらに追撃が飛んでくる。飛翔する拳圧。これも微妙に型を外して、完全な読み切りを不可能にしている。とはいえ大雑把にでも攻撃部位を把握できるのは、散り火花より対処しやすい。体を横に滑らせつつ幾重も刃を走らせて回避。

 これらの動きは、全て猗窩座の掌の上だ。いいように扱われ、近づかせて貰えない。弾いたはずの攻撃がなおも襲いかかってくるというのは、思っていたより遙かに厄介だった。

 相手の意図も伝わってくる。伊之助か杏寿郎から潰そうとしている。彼にとって、炭治郎が盾役をこなすのが一番厄介なのは明白だった。問題は、相性が悪い伊之助か、それとも実力は近くとも戦い方が噛み合う杏寿郎か、どちらを狙っているかだ。

 もっとも、どちらを狙っていようと、させるつもりは毛頭無い。

 

(俺は二人の盾。みんなそう思ってる。それこそ俺自身だって。だからこそ……)

 

 水の呼吸 参ノ型・流流舞

 攻撃を受けながらも、無理矢理体を刃が届く範囲にねじ込んで。猗窩座が残り二人を警戒しながらも炭治郎を突き放そうとするが、打ち下ろされる鉄槌を肩にかすらせながらも、体を小さくしてさらに深く潜り込ませる。

 刃どころか、互いがちょっと体を動かしただけで接触しかねない距離。さすがの猗窩座も意味が分からず、困惑しながらの肘打ち。

 

(想定外の無理攻めなら、そっちだって崩れざるをえないだろう!?)

 

 意図しない雑音はただ厄介なだけでしかない。しかし、わざと生み出した雑音であればどうだろう。それはこちらが崩れるだけでなく、相手の間合いも歪ませる。

 水の呼吸 壱ノ型・水面斬り

 恐らく水の呼吸で一番多用している技であり、同時に最も頚を斬るのに適した型。体が密着するほどの至近距離からそれを放つ。頚を狙ったものではなく、仮にそうしたとして当たるとも思っていない。標的は左脇腹から右胸にかけて。一時的に上半身全ての機能を不全にする。

 目的は半分だけ成功した。体を半分とまでは言わないものの、体を深く抉れる。しかし、相手は武術の達人たる猗窩座。刃が潜り込む寸前に放たれていた右拳は、確実に炭治郎の能力を削いでいた。

 左肩に激痛が走る。ただ打撃による衝撃ではない。痛いだけなら呼吸でいくらでも補えるし、それに冒されながらの戦いにも慣れていた。問題は、鎖骨が折られた事。

 

(左腕が上がらない!)

 

 筋肉には力が入る。しかし、それを支えるための骨がなければ意味が無い。これで事実上戦う力を失ってしまった。

 猗窩座の強みは、長い年月研磨されてきた技術もあるが、それ以上に膨大な戦闘経験を下地にした対応能力だ。上半身を裂かれた事実を即座に受け止め、頭を吹き飛ばしてくるべく膝が迫ってくる。

 技と言えるほど練り上げられたものではないが、それでも鬼の筋力で放たれれば、依然変わらず必殺だ。ただの防御では、獲物ごとへし折られる。ましてや今の左腕では刀を引き抜けるだけの力が入らないのだからなおさら。

 

(死……ぬ、もんか!)

 

 ただでさえ低い姿勢、そこからさらに体を沈めて、ほとんど横たわるような姿勢になる。

 膝だけはなんとか躱せた。ただしこの回避は、次には絶対続かず、とりあえず今だけ生き残る為だけの行動。次の展開は猗窩座が動き出すまでもなく簡単に予想が付いた。上げた足の踏み落とし。恐らく最も原始的で、同時に転がった相手を無手で一番殺したであろう技。今度こそ、どう行動しても致命傷になる。

 まだ抜けていない刀に負ぶさるようにして、猗窩座に思い切り体当たりを行った……いや、行おうとした。その一瞬前、炭治郎の頭に異変が起きる。

 体から力が抜けていく。あらゆる感覚も鈍化し、意識を強く保てない。まるで相手と自分の間に分厚い布を何枚も挟まれたようだ。透き通る世界と痣も終わりを迎え、全てを見通す力が消える。

 

(そんな……時間、切れ……!)

 

 肝心な時に、と思わず自分を罵った。

 これはある意味、当然の結果だ。この中で唯一の防御に富んだ呼吸の使い手、仲間を守るという役割を一手に引き受ける事となる。ましてや杏寿郎が来る前は、格上を相手に命を削る勢いで体力を消費していたのだから。誰が最初に力尽きるかと問うなら、炭治郎以外にあり得ない。

 少しでも猗窩座の姿勢を崩そうとした決死の行動は、ただ彼に寄りかかるだけになってしまった。

 竈門炭治郎は終わった。これを真っ先に理解したのは、本人ではなく猗窩座だった。破壊殺の力だろう、今まで全く感じ取れなかった炭治郎の闘気が、いきなり弱々しく近くに現れたのだから。

 均衡が崩壊した。もはや上弦の参を留める手立てはない。それを理解して、彼は炭治郎を引き剥がす手間すら惜しんで残りの二人に相対した。

 

(何か、何かできることはないのか!?)

 

 されるがままに振り回されながら、炭治郎は必死に考える。

 自分が力尽きたという事は、伊之助だってそう長くは持たないだろう。或いは次の瞬間にだって動けなくなってもおかしくない。

 痣が解けたから痣のない柱相当に戻った、などという都合のいい話はない。消耗が過ぎて、常中に慣れている者が全集中の呼吸を維持するので精一杯、それが痣の強制解除という状況だ。

 思考にさほど時間はかけてない。だが、その間にもみるみる二人の負傷は増していった。強さの桁を一つ変えた上弦の参に対して、もはや痣持ちの柱が二人がかりでも力不足となってしまう。

 このまま自分は相手にもされない。ただ二人が殺されるのを見送っているだけ。

 

(そんなのは……ごめんだ!)

 

 体を無理矢理絡みつかせるのだっていい、噛みついたっていい。例え全てが猗窩座の前に無力だろうと、体を引き千切られようと。何もしないよりはマシだ。ほんの僅かでも、彼らの助けになるよう動かなくては。

 思いを反映した肉体は、しかし上手く行動に移せず。ただ全身に思い切り力を入れる、という形で現れた。

 慣れ親しんだ、水の呼吸の基礎たる正眼の構え。思い切り足を踏ん張って、全身の関節を硬直させた。刀が刺さったままなのは不幸中の幸いと言えるだろう。これで距離が離されていれば、本当に何もできなかった。

 

「あああぁぁぁ!」

 

 裂帛の気合いと共に、とにかく体全体の筋肉を引き締める。こんなことで鬼の膂力をせき止められる訳がない。刺さったままの刀も、折れるか曲がるかするかもしれない。それでも、ほんの僅かに動きを遅らせられればいい。そう考えて。

 返ってきた答えは、猗窩座の絶叫だった。

 

「あ、ぎぃ! なん、だ、これ、は!」

 

 それは、炭治郎にとっても青天の霹靂だった。漆黒の刃が朱く変色している。いや、それだけに留まらず、熱を持っていた。

 ただ熱いだけでない事は、猗窩座の様子からすぐに分かった。炭治郎の嗅覚が察知する。それは単に熱気を発しているにあらず。この匂いは太陽だ。陽光に限りなく近い、いや、日輪刀が内包している太陽の力が熱と共に発散されていると言った方が正しいのだろうか。

 赫刀。そんな言葉が思い浮かんだ。見たままだが。

 この現象は、ただの偶然ではあるまい。極端に圧力をかけたか、それとも摩擦が理由か。いや、事情などどうでもいい。今はこの好機を逃してはいけない。

 

「おおお!」

 

 握力は維持したまま、刀を無理矢理翻し、とにかく猗窩座の体を抉っていく。

 苦悶に喘いだ猗窩座が逃れるべく、炭治郎の腕を切り落とそうと手刀を落とした。

 苦痛に呻いた事、そして反射的に炭治郎を狙ってしまった事。一つ一つは、付け入れる程の隙ではない。しかしこの場において二拍分の遅滞は、あまりにも致命的だった。

 

「少年!」

 

 炎の呼吸 弐ノ型・昇り炎天

 炭治郎と猗窩座の間にある僅かな隙間を縫うようにして、上へと燃えさかる炎。肘から先が跳ね上げられ、空高く宙を舞った。

 この時点で、猗窩座はもう杏寿郎を意識にすら収めていなかった。分かっていたのだ。彼が炭治郎の救出に全力を注いだのは、残ったもう一人を信頼しているが故であると。しかし、太陽の針に縫い付けられた上に片腕では、どうしたってそれを止めきれるものではなかった。

 獣の呼吸 弐ノ牙・切り裂き

 両側から十字に抉ろうとしてくる獣の爪を、腕を挟んで止めんとする。

 猗窩座の体は鬼全体で見ても、決して強度がある方ではない。再生能力頼りでは、さすがに伊之助の一撃は止められないだろう。ただし、これは筋肉が緩んでいる前提での話だ。刃が体に触れると同時に筋肉を引き締めれば、両側から肉が剣の腹を押さえ込む。鬼の中でも猗窩座にしかできない白刃取りだろう。

 しかし、相手が悪い。伊之助はここからさらに繋げられる型があるのだから。

 

「こんくれえしてくると思ってたぜぇ!」

 

 獣の呼吸 参ノ牙・喰い裂き

 鋸状の刃を最大限に利用した、肉も骨も区分無く、全てを咬み千切る獣の牙。一度聞けば永遠に忘れられないような、人体を少しずつ破壊していく音が響く。

 

「ラあああぁぁぁ!」

「うおおおぉぉぉ!」

 

 猗窩座の筋力と、伊之助の参ノ牙。勝負は頚を射程圏内に捕らえられた時点でついていた。

 ギザギザに作られた刃が、交差して抜けていく。派手に吹き飛ぶこともなく、ころんと地面に転がった入れ墨だらけの頭。それが、勝者を雄弁に物語っていた。

 二度ほど小さく転がった頭が、こちらを向いた状態で止まり。その顔には、とても穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「……見事」

 

 人の心を取り戻した鬼が、他の鬼と同じように崩壊を始める。賞賛の言葉と混じり合ったそれに、三人は呆然と立ちすくんだ。

 緊張の糸が切れ、一人、また一人と倒れ込むようにしてその場に座り込む。

 はっきり言って、勝利の実感などなかった。崩れゆく様を見ながらも、まだ猗窩座が再生して立ち向かってくるのでは中という予感が消えてくれない。それほどまでに、上弦の参の力は異次元だった。

 何一つとして確信できない状態で、急に炭治郎の胃袋がひっくり返る。頭をよじる暇も無く、その場で大量に嘔吐を始めた。がたがたと全身が震える。体が寒くて仕方が無い。指先に至るまで言う事を聞いてくれない。痣という命の消耗から、さらに無茶を重ねたつけを払うときが来た。意識すらぐらぐらと回転し、気付いたときには地面と頬が接触している。

 

「大丈夫、か。炭治郎、少年」

 

 苦しそうに杏寿郎が呟くものの、彼にしたって余裕があるわけではない。言葉がつっかえつっかえなのがそれを証明していた。そもそも炭治郎以外の二人だって、消耗具合は彼より少しましと言った程度なのだから当然だ。

 

「は、ひ。らぶん、しには、しにゃい、れふ」

 

 舌も鈍らな状態で、なんとかそれだけ吐き出す。

 言葉に嘘はない。本当に、極端な疲労状態にあるだけだ。寿命を大分縮ませたという実感だけは、残念ながらあったが。

 さくり、と音がした。めくれ上がった地面を踏みしめる音。

 いつの間にか、禰豆子が起き上がっていた。顔色は極端に悪く、彼女も余裕など全くない事は一目見て理解する。が、それでもなお、禰豆子は猗窩座へと向かっていった。行動に誰も文句を付けなかったのは、彼女から敵意やらと言った物が一切感じられなかったからだろう。

 ふらふらと千鳥足で猗窩座の頭まで辿り着き、そして彼女は、慈しむようにして彼の頭を撫でた。

 

「……恋雪?」

 

 呆然と、猗窩座がそんな名前を口にする。

 誰だかなど当然分かるはずもない。ただ、とても大切な人の名前だと、それだけは分かった。

 一瞬呆けていた猗窩座だったが、すぐに自嘲した笑みを浮かべる。

 

「いや、失礼だったな。お前は禰豆子。竈門禰豆子だった」

 

 彼は遠くを、果てしない彼方を禰豆子ごしに眺めていた。何を見ているのだろうか。優しい夢であればいい、そんな事を思った。どれだけ間違いをしようと、罪を重ねたとしても、死に際くらいは安らかであってもいい。独りよがりな傲慢かも知れないが、願わずにはいられなかった。

 

「ご免よ、父さん……。師範、恋雪……。俺は地獄へ行く。もう会えないけど、謝っておきたいんだ。今まで忘れていた事を……そして、みんなに背いてしまった事を。守れなくてご免……約束を……守れなくてすまない……」

 

 人であった頃の記憶をはっきり取り戻した。鬼の中に混じる匂いから、人間らしさが溢れている。

 彼はもう猗窩座ではない。

 自分にただ一つ残されたものに殉じた。それが幸福であるとも、ましてや救いになったとも思わない。しかし結果だけははっきりと残っている。あらゆるものを失っても、それがどんなに無価値であったとしても、最後の一つからは決して逃げなかった。貫き通した。

 

「お前の名前を教えてくれ」

 

 もう立ち上がる力も残っていない杏寿郎が、それでも背筋を伸ばしてはっきりと声を上げた。

 

「俺は猗窩座……」

「違うだろう! お前は猗窩座ではない!」

 

 はっきりと断言する杏寿郎に、彼は小さく目を見開いた。

 

「頼む。俺達をここまで追い詰めた戦士の、本当の名前を知りたいのだ」

「そう、か。そう言ってくれるか。……狛治。人間の時は、そう呼ばれていた」

 

 もう鬼ではなくなった男――狛治が、自分の名前を噛みしめるようにして呟く。

 杏寿郎が精一杯に胸を張って宣言する。

 

「俺は鬼を許せない。私人としても、鬼殺隊の一員としても。しかし、狛治は堂々たる男で、そして強かった。何よりも心が。炎柱、水柱、獣柱が狛治の姿、確かに見届けたぞ。胸に刻む、絶対に忘れない。俺達の言葉など何の意味も無いだろうが……これだけは告げたかったのだ」

「いや……はは……上等だ。こんなに愚かな俺の終わりにしては、上等すぎる……。ありがとう、杏寿郎よ」

 

 言い終えて、狛治は目をつぶった。

 

「さらばだ――」

 

 彼の体が夜空に溶けきる前に。朝日が、狛治の全てを洗い流した。

 

「っ! ねず……!」

 

 不味い。禰豆子に避難を促そうとしたが、どうしたって間に合わないのは分かっていた。周囲は戦闘の余波で崩れ去り、もはや遮る物は何もない。今の力を使い切った彼女では、どれほど急いでも木陰に潜り込めないだろう。杏寿郎とて力を使い果たしているし、伊之助に至っては寝息を立てている。

 こんな風に終わってしまうのか。もっと上手く戦えていれば、いや、その前に禰豆子を進ませていなければ。こんな終わり方をせずに済んだのではないだろうか。後悔がぐるぐると頭の中に巡り続け。

 そして。

 いや、しかし。

 太陽の匂いと、禰豆子の匂い。その両者が矛盾なく成立している事実に気がついた。

 陽光を背にしながら、禰豆子がかつてのように微笑んでいる。幼い頃そのままであったが、確かに鬼になった後に見せた無垢なものではない、『竈門禰豆子』が元来持っていた微笑。

 

「おにい、ちゃ。がんばった、ねえ。がんばった」

「ねず、こ……ああ、ああぁ……! ねず」

 

 ぼろぼろと涙が止めどなく溢れる。

 人に戻れた訳ではない。彼女から鬼の匂いは消えていないし、特徴的な目も牙もまだ変わらない。それでも、人としての比重が大きくなったのを感じた。鬼としての匂いも、以前から漂わせたものとは変わっている。

 今まで何も見えてこなかった。希望が、なかった。

 禰豆子がいかに人を襲わなくとも、所詮は鬼。いつか人を喰ってしまうか、それとも自分が禰豆子を置き去りにして死んでしまうと言う絶望の未来を考えない日はなかった。

 何が鍵になったのかなど、炭治郎如きに測れる筈もない。一度も人を喰わなかったのが良かったのか、眠り続けていたのが効いたのか、力を出し尽くした事に意味があったのか。もしくは狛治の最後を慈しんだのが引き金となったのか。

 どうでもいい。やっと一歩前に進めた。希望が表れた。

 今までの道が間違いでなかったと、そう信じることができた。

 言葉も出せずに、ただ涙を流しながら禰豆子を見守って。

 

「おい、炭治郎少年!?」

 

 昏倒する前に聞いたのは、杏寿郎のそんな声だった。

 

 

 

   ×××

 

 

 

 ――時を同じくして。

 

「ははは」

 

 含み笑いをする化け物が一人。

 

「はははははは!」

 

 誰も居ない空間で、小窓を除きながら哄笑する。

 楽しくて仕方が無い。嬉しくて仕方が無い。これを、ずっとずっとずっとずっと、千年もこの時を待ち望んでいたのだから。

 

「よくやった猗窩座よ! 貴様は愚かだったが、完全な形で役割を果たしてくれた! 記憶を取り戻した時は殺してしまおうかとも思ったが、戯れに生かして良かった! 柱の一人でも道連れに死んでくれればと思ったが! 貴様はそれ以上の成果を残したぞ! ついに生まれた! この世に――太陽を克服した鬼が!」

 

 そこらに配置してある薬瓶やら何やらを、全て薙ぎ倒していく。こんなものは、もう必要ない。

 傀儡鬼――確か獪岳とか言った。まあどうでもいい――の血鬼術により、鬼舞辻無惨の力は完成した。そして竈門禰豆子を取り込む事により、鬼舞辻無惨の存在すらも完全なものとなるだろう。もはや恐れる物は何もない。何者にも害されぬ、完全なる『永遠』を手に入れられるのだ。

 

「鳴女、聞こえているな、鳴女よ。全ての鬼を撤収させろ。もはや分散して放置させておく意味は無くなった。集め終えたら、お前は産屋敷邸の捜索と竈門禰豆子の探索に全力を注げ。見付け次第、総力戦を仕掛ける」

 

 本当ならば監視を続け、夜更けと共に強襲したいが。さすがに太陽が出ている間まで監視させるのは現実的ではない。忌々しくも頭の回る産屋敷の事だ、たった一日の空白で完璧に禰豆子を隠すだろう。

 焦る必要は無い。いざとなれば禰豆子を殺す決断くらいはしてみせるだろうが、奴らにとっても太陽を克服した鬼は格好の餌だ。必ず自分を呼び込もうとするし、罠だと分かっていてもそうするしかないと理解している。

 だから、これは競争だ。来る約束の時まで、どちらがより強大な戦力を蓄えておけるかという。

 くく、と堪えきれぬ笑いを含ませる。

 

「あと少しで、悲願が叶う。その時まで精々怯えているがいい、産屋敷よ」

 

 残った上弦の鬼は三つ。壱と肆と陸だ。ああ、鳴女に血を与えて上弦の伍あたりに据えるのも悪くない。どうであれ、死にづらいという意味では最高峰の鬼ばかりが残ったのは僥倖だ。

 もっとも、上弦の鬼など今となってはおまけに過ぎない。自分さえいれば十分なのだから。露払い程度がこなせれば、文句を言うつもりはなかった。

 

「速く明けるのだ、俺の為の世よ」

 

 小さな部屋で、怪物は独りごち続け。

 その日、日本最大級の製薬会社が壊滅した。

 

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