獪岳と善逸   作:山筋

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新人鬼殺隊隊士獪岳

 鬼殺隊。それは鬼を殺すことをできる力を持った、ある意味において超人集団の総称である。

 “呼吸”と呼ばれる独自の技術で身体能力を爆発的に上げ、さらに“型”と呼ばれる連動技能で金属すらも両断する。これによって、鋼より堅い鬼の頚を断てるようにしていた。

 これだけ聞くと、どんな化け物の集団だ、となるだろう。獪岳もずっとそう思っていたし、自分がそうなるべく鍛えられているというのもどこか他人事だった。率直に言ってしまえば、そんな人間いるか、である。

 もっとも、そんな風に思っていたのは最終選別を突破するまでだったが。

 正直な所、彼には自分の『地位』とでも言うべきものがよく分かっていなかった。比較対象が師と泣き虫善逸だけで、しかも慈悟郎は片足を無くしているため剣を振るうことがなかった。

 選別会場である藤襲山(教えて貰った)で知ったのは、自分は強いという事だった。客観的に見ても、同世代ではおそらく自分が一番だったろう。

 まあ、単純な強さが対鬼に直接反映される訳でもない。事実、壱ノ型を使えない獪岳は『鬼を殺す能力』という一点に関して言えば上回る者は幾人かいた。中には、明らかに鬼の頚を断てないほど非力で、事実突き技しか使ってなかったのに、なんでだか鬼を殺している意味の分からない女までいたし。

 強さ云々はともかく、今後のことを考えればこれくらいは当然だと後から気付いた。

 藤襲山に封じられている鬼は弱かった。少なくとも、かつて自分が対峙した鬼の半分も力はない。人を食えず飢餓状態が続いているのだから仕方ないだろう。

 この程度当り前に突破して貰わなければ、そもそも戦力に数えられない。鬼殺隊の本音はそんなところか。単に強さで言うなら、善逸でも(怖じ気づいてなければ)倒せる程度しかいなかった。

 七日経って終わった頃には、数えるほどの人しか残っていなかった。すぐに人語を話す鴉を与えられ玉鋼を選んだ。数日後に麓の宿(鬼殺隊縁の宿場らしく、自分以外にも幾人か滞在していた)で、色変わりの刀(通称日輪刀)を渡された。

 この世で唯一、鬼に通じる武器。持った者に呼応して色を変える。

 獪岳が日輪刀を持つと、刀身が黄色くなった。師が持っていたものと同じだ。予想はしていた。雷の呼吸の剣士は大抵黄色らしい。

 刀を受け取った後に『滅』の人文字が入った隊服を渡される。多少重たいが、その分頑丈だった。思っていたより大分実用的だ。てっきり、意識を改めるために支給されるのだとばかり思っていた。

 刀と隊服と鎹鴉。全てがそろって浮かれる者や気を引き締める者がいた。獪岳はどちらでもなく、腰に佩く刀の位置を確かめる。彼らのようにどうこうと思う事はできない。鬼など所詮はたまたまたちが悪い奴に絡まれた、という程度だ。恨みらしい恨みなど、まあないとまでは言わないが。それこそ幼少期に出会ったヤクザ以下でしかない。

 誰一人として余韻を味わう間もなく、いきなり鎹鴉から任務を言い渡された。全員新人なのに、全員別のものを。

 鬼殺隊に入ったのは失敗だったかも知れない。獪岳は心の中だけでぼやいた。それだけ人的余裕がないのだろうが、命がけでこき使われるに足る言い訳にはならないだろう。

 このとき抗議しなかった事を、彼は割と長い間後悔していた。

 東奔西走、とにかく獪岳は戦い続けた。数もそうだが、戦った鬼の種類もかなりのものではないかと自分では思っている。簡素に高い破壊力を持った者から、変わり種だと小さな村で住人全員を洗脳し、神のように振る舞っている者まで。

 初期はとにかく移動、討伐、治療に費やさせられた。これが落ち着いたのは半年以上も経った頃だった。余談だが、風の噂で同期が十二鬼月なる鬼の最高位を討伐したという事で、柱に任命されたとか。

 本部には大分便利に使われ。金も貯まって(というか放置していた。隠という鬼殺隊の補助人員に結構怒られた)仕事にも余裕ができた頃には。獪岳の背丈も目に見えて大きくなり、一年という月日の長さを嫌が応にも実感させた。

 

 

 

 町の雑踏を眺めながら、その男はゆっくりと進んでいた。

 身の丈は五尺を超え、また体つきもいいものだからかなり視線を集まっている。元の顔立ちが鋭いのと、自分を見る目が鬱陶しくてしかめっ面をするものだから、自然と人は彼を避けて通っていた。

 黒一色の半洋服に、どういった感覚なんだか、妙な模様の黄色い羽織を着ている。これがまた不釣り合いで悪かった。おまけに竹刀袋など担いでいるものだから、余計に違和感があった。こそこそと小声で、今更歌舞伎者か何かかと囁かれている。当人らは聞こえないと思っているようだったが、しっかりと耳に入っていた。

 

(ああ、ウッゼェ)

 

 心の中で吐き捨てる。

 昔ならいちいち突っかかり、胸ぐらの一つでも掴みあげていただろう。が、世間慣れしてからは、それくらい無視する程度の分別は身につけていた。精神に呼応するように、顔立ちからも少年らしさが抜け始めている。

 鬼殺隊、階級甲。青年となった獪岳の姿がそこにあった。

 

(なんでこう、人間てのは無駄に多いんだ? もっと散って生きろよ)

 

 鬼を殺して回る旅など初めて一年。町と言える場所に来るなど一度や二度の話ではないが、未だこの和やかな雰囲気には馴染めなかった。

 幼少期、寺時代、修行期間、鬼殺隊入隊後、どれが一番獪岳に影響を与えたかと問われれば、やはり幼少期だ。誰にも寄らず、守られず。ただただ悪を成して生きてきた。大衆という存在は、絶対的な敵である。その他の期間であっても、人がごった返す中で付き合う期間などほとんど無かったわけだし。

 それでも、ここはまだましな方だろう。本当の都会となると、もういるだけで人酔いしてくる。

 仲間以外を敵として見なしてしまうと言うより、根本的に気質と合っていないだのだろう。基本的に夜が仕事場というのは、ありがたいことだった。昼夜の調整が難しいという点を除けば、だが。実際、やけに眠くなったり寝るのが難しかったりというのは、隊員によくある悩みだ。

 鬼の情報を集めるのは隠の仕事だが、実際に見つけるのは戦闘員の仕事である。これは戦闘員以外が鬼に接近すれば当り前に殺されるし、最悪情報も持ち帰れないためだ。戦闘担当の疲弊が大きくなるのは、合理的なんだかそうじゃないんだか。隠に鬼の情報を確定させろと言うのも中々酷な話なので、いいから探せと言えないのも辛いところだ。

 基本的に人嫌いな獪岳は、特に必要の無い時は路地裏を使う。だが、今回はそうもいかなかった。無理を言って余暇を貰ったため、私用は可能な限り早く済ませなければならない。

 

(はよ見つけないと)

 

 急ぐ気持ちはあるが、多少足を速めたところで意味があるわけでもない。

 このときばかりは、自分の人付き合いの悪さを呪った。上手く(というか怒らせず)他者と話せるなら、こんな苦労もなかったのだろう。そもそも獪岳には、捜し物をする場合、誰に声をかけていいのかも分からない。

 もしかしたら、こうして吐き気に耐えながら歩いているのも無意味なのかも。などと考えて心が折れそうになったところで、いきなり叫び声が上がった。

 

「ひったくりよ!」

「誰か捕まえて!」

 

 前方で、喧噪が怒号に入れ替わる。怒鳴り声の他に聞こえるのは、あまり穏やかとは言えない、何かがぶつかり合う音だ。

 

(また面倒くせぇ)

 

 相手すべきかと問われれば、無視すべきだろう。ましてや自分も幾度となく似たような事をしてきたのだから。

 だが、見ないふりをする故があるように、制する道理があるのもまた事実だ。恨みの煮詰まった組織に属しているとはいえ、基本的に善を重んじる。というか、鬼憎しで集まった集団の割に、お人好しが多すぎた。

 獪岳は騒ぎの方へ踏み出すが、すぐ野次馬と逃げ惑う人に阻まれた。仕方なしに息を吸う。“呼吸の応用”、と言うべきか、さわりと言うべきか。腹一杯に空気をため込んで、そして周囲を震わせた。

 

「退け」

 

 短く、端的に。

 その場にいた全員がぎょっとして(それこそ恐慌を起こしていた人間まで)道を空けた。

 大声で怒鳴ったりはしない。少し大きな会話という程度だが、重く響かせたものだ。

 こちらを意識している人間になら怒声を浴びせてもいいが、例えば鬼に襲われているような状態だと、全くの逆効果になる。そういった景況に、この技術は重宝していた。頭に刺さる低い声は、時にわかりやすい怒りよりもよく届く。

 生まれた間隙に向かって踏み込み、走ってくる人影の前で立ち止まった。

 強盗は二人組で、一人が荷物を抱え、一人が短刀を振り回している。刃には血が付いており、幾人か斬ったのだろう。血の量から、重傷者まではいないようだったが。あと分かったのは、相手はおそらくヤクザ者だという事か。

 

(こりゃいい)

 

 ヤクザは嫌いだ。大衆も好きではないが、ヤクザこそが自分たちに一番好き勝手してくれた。叩きのめす相手が奴らなら、少なくとも躊躇はいらない。

 

「どけやガキャあ!」

 

 いかにもな威圧をして、ドスを構える。思わず笑ってしまった。ヤクザという人種は、刃物を振り回しても怯えない人種がいることを頭に入れていない。自分たちもそうだというのに。

 突き出される切っ先を前に、獪岳は軽く足を滑らせた。それだけで脅威の進路上から消える。

 手の甲を押さえて横に滑り込み、腹に膝をたたき込んだ。奇妙な嗚咽を漏らし、ヤクザが勢いのまま転がる。

 何回転したかなど確認せず、荷物を持ったヤクザへ向いた。相方があっという間にやられた事に戸惑っている様子だったが、全力疾走を今更止められず、そのまま突進してくる。こちらには側頭部へ手刀を入れ、よろめかせた隙に腕を捻った。勢いを下に向けられ、真正面から地面に落ちる。後は多少肩関節を痛めつけてやった。

 全て終え、ヤクザを確認する。ドスを持った方は刃物を持ったまま転がったため、体のあちこちを切りながら気絶していた。叩き付けた方は意識こそあるが、痛めた関節を押さえて泣いている。切り傷と違い体内の痛みは堪えるのにこつがいるのだが、教えてやる義理もない。

 しん……と、周囲が静まりかえる。何秒かたった後、いきなり空気が爆発した。

 

「すげえな兄ちゃん!」

「なんなんだい今の!?」

「よくやってくれた! スカっとしたぜ!」

 

 もみくちゃにされ、中には叩いてくる者までいる。

 鬱陶しいのと気まずいの半々で、どう反応すればいいのか全く分からない。彼にとっては、なんとなく鬼殺隊らしく行動したのと、ヤクザ憎しでしかなかったのだから。

 いくらか遅れてひったくりに遭った者が追いつき、こちらにもやたら感謝をされた。獪岳には渋い表情で手を握られているしかできなかった。

 逃げようにも逃げられない状態で(ついでに誰かがヤクザを縛り上げて)やっと警察が到着した。あまりにも鈍い動きに周囲の目は冷ややかだったが、獪岳だけは一人ほっと胸をなで下ろした。

 警察は、二十歳そこそこの若者と五十路ほどの、頭髪がほとんど白髪になっている年配との二人組だった。後ろにもちらほらといたが、そちらは怪我人を介抱している。

 老人警察の方が状況を確認した後、獪岳に向いた。

 

「坊主、こりゃお前がやったのかい?」

「ちょっと警察さんよ、まさかこの子を責める気じゃないだろうね? 相手は刃物を持って襲ってきたんだよ。まさか大人しく刺されろ、なんて言うのかい?」

 

 真っ先に食ってかかったのは、恰幅のいい中年女だった。何のつもりか、腕まくりなどしている。

 言葉に、若い方はあからさまにむっとした様子だったが。老人の方は人好きのする表情で、簡単に笑い飛ばした。

 

「まさか。俺もせいせいしたさ。だが事情聴取はしなきゃなんねえ。――おっと、勘違いすんなよ。坊主だけじゃなくて盗まれた奴も斬られた奴も、被害者全員にだ。だからおっかない顔を収めな」

 

 ちなみに加害者には尋問だ、と意地悪くしながら。

 中年女は虚を突かれたように口を開け、勢いを引っ込める。どこか敵意を発していた周囲も似たような反応だった。

 

「あたしも悪かったよ。警察さんに当たるべきじゃなかったね」

「分かってくれりゃいいさ。さあ坊主、ついてきな。なんなら茶菓子くらい食わしてやる。芋羊羹は好きか?」

「あー、食ったことねえ」

「そりゃいい。一度食ってみな。緑茶と合わせりゃやみつきになるぜ」

 

 あっさりと場を支配した老人警察は、勢いのまま事を進めた。人を呼んでヤクザを連れさせると、自分は獪岳を先導する。

 道中、老人警察は語り始める。

 

「連中は片山下一家っつう、まあちんけな連中でな。ろくにスリもできねえ阿呆しかいねえ訳だ。お前はここに長くいるつもりかい?」

「用が終わったらすぐ消えんよ。仕事が詰まってんだ」

「そりゃ結構。奴らは独立した連中だからな。根もこの町にしか張ってねえ。お前さんにゃなおさら関係ねえ話になったわけだ」

 

 かかっ、と一笑する。その姿に、なんとなく、人生上手くいっているのだろうなと感じた。何から何まで流されなんとなくで生きている獪岳とは大違いだ。

 駐屯所だから派出所だかにつくと、奥の個室へ案内された。

 約束通りに芋羊羹と緑茶を出され、それをつまみながら受け答えする。

 語れることは多くない。歩いていたらひったくりの声が聞こえ、犯人の前に出て一人を蹴り一人を転がした。

 同じ質問を三度もされ、いい加減うんざりしてきたところで聴取は終わった。丁度羊羹も食べ終わった。中々うまい、だが頻繁に食いたいものでもないな、と事件より甘味に意識を持っていかれる。

 折良くけが人の搬送班が戻ってきて、獪岳も解放されるといったところで。獪岳は自分の目的を思い出した。

 特に理由があるわけでもないが、どのみち当てもない。人の良さそうな老人警察に、質問を投げかけてみた。

 

「おい爺さん」

 

 昔のようにジジイとは言わないだけの分別で。

 

「あん?」

 

 部下からちょこちょこと報告を受けていた老人が、視線だけを向けてくる。

 すぐに答えは出さず、部下にちょこちょこと指示を出した後、改めて向き返った。

 

「あんたここら詳しいのか?」

「詳しいかっつわれるとどうだろうなあ。赴任して五年程度だよ」

「別に町の細けえ裏事情を聞いてる訳じゃねえ。育背翌檜園(いくせあすなろえん)って知ってるか?」

「そりゃ知ってるが……んなとこに何の用事があんだ?」

 

 怪訝そうな様子で、老人警察。だが、と帽子を脱いで頭を掻きながら続けた。

 

「まあおめえが身寄りのねえガキどもに悪さするとも思えねえし。場所を教えりゃいいのか?」

「案内しろよ。もうどこだか分からねえ場所を歩きたくねえ」

 

 心底嫌そうなしかめっ面をする。無駄に多い人も、どこを見ても同じにしか見えない光景も、もう沢山だった。第一この町にあるとやっとの思いで分かっただけで、目的地の正確な場所すら分からない。

 老人掲示は帽子を被り直すと、腰を上げた。

 

「善財、俺ぁちょっくらこの坊主を案内してくる。留守頼んだぞ」

「山内警部補!? 片山下一家のぼんくら共どうするんすか!?」

「ちょっくらっつったろ。すぐ帰ってくる」

 

 それから、有無を言わさず老人警察――もとい山内は出口へ向かった。背後から何か恨みがましい声が聞こえたが、そよ風ほども気にしない様子を見るに、良くある事なのだろう。

 山内が選んだ道は、獪岳にとってかなり歩きやすいものだった。いちいち正面から来る人を気にして避ける必要が無い。

 

「で」

 

 山内が、獪岳にしか聞こえない程度の声量で呟く。このために人のいない道を選んだのだろう。

 

「おめえさん、何者なんだ? 服の質は悪くねえ……やけに着古した羽織を抜けばだが。の割にゃあ全体的にうす汚え。んでここが一番重要だが、やたらめったら強えときたもんだ。物騒な事を企んでるって訳じゃねえようだが」

「何でそう思う?」

 

 警察が鼻で笑った。

 

「後ろ暗い奴はわざわざ自分から目立たねえよ。警察なんてやってると分かる。人並みに頭の回る犯罪者は、とにかく常に“誰でもなく”なろうとするもんだ。ま、上手くいってるかどうかは別だがな」

(外れ)

 

 呟く。

 鬼殺隊など、それそこ軍隊以上に物騒な事を常日頃行っている集団だ。特に鬼という()()()を殺して回っているのだから、見る人から人から見れば殺人鬼も同じだろう。

 と、ふと気になって、どうでもいい事を聞いた。

 

「人並みの頭がない犯罪者はどうすんだ?」

「おめえも見たろ? 堂々と暴れ回るし騒ぎまくる」

「なるほど」

 

 つまりは、先ほどのヤクザみたいな連中か。

 獪岳はどこまで何を考えた。正確に言えば、どこまで言うべきかだが。

 もちろん、最初からは無理だ。孤児云々は隠すような事でもないが、詳しく言えばどうしたって鬼に行き当たる。鬼そのものは伝承などで伝わっているが、詳細は可能な限り明かさない約束になっていた。人食いの化け物が日本全国に隠れ住んでいるとなれば、それは正しく治安の崩壊だ。下手すれば日本という国そのものの。

 結局、話せるのは要点だけだった。

 

「人を探してる」

「人って……孤児院にか」

「俺にゃ姓がねえんだよ。察せ」

 

 全ての民に姓が許されておよそ半世紀。今は庶民にも浸透しきっている……表向きには。軽いものから致命的なものまで、名乗れない者は多くいた。

 親も分からないほど幼少期に捨てられた者。必要に迫られて姓を作ったが全く馴染みのない者。社会に混ざれずそももそ姓が必要なかった者。いろいろだ。

 

「あー……そりゃ悪いことを聞いたな。まあ、そんなら自分(てめえ)で決めちまったらどうだ? 今はそういう自由がある」

「佐藤だ鈴木だとでも名乗んのか? ま、どの道馬鹿馬鹿しいな。んなもんは必要になった時でいいんだよ」

 

 警察には馴染みのない考え方らしく、怪訝そうにしていた。まあ確かに、彼らが本物の無頼漢を相手することはまず無いだろう。警察が相手するのは、犯罪者だろうがなんだろうが、基本的には市民だ。人でありながら人にあらず、はそもそも勘定に入っていない。

 一応納得したのか、その後は山内の他愛もない雑談が続いた。

 

「――まったくありゃ妙な事件だったよ。都合七度も山狩りさせられちまってな。犯人は見つかんなかったが、それ以降の被害がない事もあって、本部の判断で解決って事になった。煮え切らねえが……警察にも面子があるし、誰にも落ち度がねえ。第一報告者って事で上司はめでたく警部に昇格、おまけに俺も警部補になったっつう訳よ」

 

 警察の事情など(階級がどうのまで含めて)何も分からないため、時折気のない相づちを打つ。

 下らない話をしている間、人気はどんどん失せていった。建物もどこか古くさく、というか率直にぼろくなっている。

 

「なあ、どこ向かってんだ?」

 

 もしかしたら誘導されているのではないか。そんな考えが浮かぶ。

 何かに疑われており、気がついたら囲まれている。ない話ではない。それでもついて行くのは、ただかだ警察の十人や二十人に囲まれたところで、逃げるなど訳ないからだ。

 が、山内は内心になど気付いた様子もなく、どころか小さく驚嘆した。

 

「おめえさん……いや、疎くて当然か。こう言うのも可哀想だがな、孤児院なんていらねえし孤児なんていっそみんな消えちまえって思ってる奴ぁ多い。置くのが許されるのは、誰も使わねえような土地だけなんだよ。育背翌檜園は町の外縁にあんのさ」

「…………」

 

 覚えがありすぎて、何も言えなかった。かつて山奥に追いやられていた自分たち。それに比べれば、まだ“町”に置いてもらえるのは、ずいぶんましのだろう。少なくとも、人としては認識されている。

 程なくたどり着いた場所は、本当に寂れていた。かつての低所得住居区画で、今は再開発を無期延期した、という風体だ。

 だからだろうか、ぼろい家が多い割に、家そのものの大きさにはかなり余裕が見られる。

 育背翌檜園も同じで、作りは悪いながらも広々としている。まあ、所詮は襤褸屋敷を改修したといった程度だが。庭(と言っていいのかは分からないが)は広く、敷地を等間隔に檜で囲っている。これが翌檜の由来だろうか。

 そして……

 庭では、子供たちが遊んでいた。かつて自分たちがそうだったように、年長者が年少者の面倒を見ている。肌艶がいいとは言えないが、食うに困っているような痩せ細り方はしてない。服もあからさまに使い古されているが、しっかり補修されているようだ。

 命に手がかかるような環境ではない。上を求めればいくらでもあるだろう。それでも、ここにあるのはかつて自分たちがどれほど望んでも得られないものだ。

 獪岳は、子供のうち六つの顔に目を取られた。知った顔ではない。ただ、面影はある。かつて自分の家族だった者に……。胸が締め上げられるように熱くなった。

 他の顔も探そうとしたが、すぐにやめた。全員がここにいるとも限らないし、第一、年齢を考えればもう“卒業”している頃だ。さすがにそこまでは追えない。

 ……本当に、ここに来るまで長かった。最初のうちは忙しすぎて、見つけ出そうという発想も持てなかった。余裕ができた頃に探し始めたが、そもそも寺の正確な地名も知らない。手探りで全国を回りつつ、時には隠に聞いてみたりして、気がつけば一年。やっと、やっとここまで来られた。帰って、きたのだ。

 遠目に。しばらく獪岳は、その光景を眺めていた。何も言わない老警察の気遣いがありがたかった。

 獪岳は空を仰いだ。珍しくもない晴天だが、なんとなく感謝したくなった。

 そのまま背を向けようとして、

 

「おいおい、声かけなくていいのかよ」

 

 慌てて老警察が肩を掴む。

 獪岳はけだるそうに振り向いて言った。

 

「概ね全員元気だった。それでいいだろうよ」

「だからって顔くらい見せてもよぉ……」

「いいんだよ。俺に関わりがあるって知られるのは、なんつーか、あんま良くねえ」

 

 可能性は低いが、曲がりなりにも甲にまでのし上がるほど鬼を殺した鬼殺隊員だ。関係者に殺意を向けられたとしてもなんら不思議はない。

 言うと、山内は眉をひそめた。警察官の顔で。

 

「お天道様に顔向けできねえ事してるわけじゃねえだろうな」

「少なくとも法にゃ触れてねえだろ、多分。ただ少なからず恨みは買ってる。わざわざ巻き込ませるのも馬鹿馬鹿しい」

 

 答えに、満足したわけではない。その証拠に、目つきは鋭いままだ。それでも続けなかったのは、たとえ真っ当な仕事でもそういう事はあると思い知っているからだろう。警察が、勝者と敗者の確執と末路などいくらでも見てきたはずだ。人間は、ただの嫉妬や利害の対立で簡単に人を殺すことができる。

 獪岳はひっそり頭を振って、思考を止めた。人がどうのなど、鬼を殺して生計を立てている自分が言うような事ではない。

 立ち去ろうとして、はっと気がついた。余計なことがわんさかあったせいで、本来の目的をすっかり忘れていた。

 

「なあ爺さん」

「……その『爺さん』ってのはやめて欲しいんだがな。まだそんな年じゃねえよ」

「じゃあクソジジイだ」

「んだと!? 礼儀を知らんクソガキめ!」

 

 山内は激高し、ついでブツブツと説教を始めた。

 

「全く近頃の若いもんは本当になっとらん。俺が子供の頃なんかはな、親や目上にゃ敬意を払って絶対逆らわなかったもんだ。おかげで今のガキどもはろくに口の利き方も知らねえで甘えっぱなしときたもんだ。古き良き時代はどこに行ったんだか……」

 

 ぶちぶちと、もはや獪岳に関係ない部分にまで文句を言い始めた老人に。にやりと笑って指摘した。

 

「知ってんぜ。それあんたがガキの頃言われてたんだろ。ついでに自分が大人になったら言うまいと思ってたやつだ」

「うっさいわ糞坊主!」

 

 肩を軽く殴られた。

 と、余計な話はここまでにして、本題に入る。

 

「警察のおっさん、一つ頼まれてくれ」

「手間はかけらんねえぞ。これでも忙しいんだ」

 

 獪岳は懐にしまってあった巾着袋を、押しつけるように渡した。

 

「そいつをあの孤児院に渡してくれ」

「おいおい、こりゃあ……」

 

 山内は、袋の中を確認して絶句した。

 大きめの巾着袋には、紐が閉じきらないほどの金が入っていた。それも銅銭ではない。全てが銀貨だ。間違いなくそこそこいい職業の年収数年分はありそうだ。

 

「おめえ、どうやってこんな大金手に入れたんだ? 盗み……じゃねえよな。ちまちまスリした程度で貯められるような額じゃねえ。事と次第によっちゃ、おめえを見逃すわけにはいかねえぞ」

 

 視線が鋭く尖った。もしかしたら、警察のそれよりも。気配といい、ひっそりと腰の警棒に手を伸ばす仕草といい、ただの警察には思えない。はっきり言って、自分たちと同じく人を殺しなれている者のそれだ。

 そういえば、と思い出す。彼くらいの年齢ならば、当り前に日露戦争を経験しているのか。ならば、いよいよとなれば躊躇などすまい。

 もっとも、だからといって元軍人風情に負ける気などさらさらないのだが。

 

「法は犯してねえっつったろ。詳しくは言えねえ。ヒシュギム? シュヒギム? だかなんだかがある。ほれ」

 

 と言って、獪岳は担いでいた竹刀袋を開けて見せた。中から出てきたのが竹刀ではなく真剣だと知って、山内は目を丸くした。

 

「こいつで稼いでる」

「帯刀禁止令違反だ馬鹿野郎」

 

 刀を竹刀袋に隠し直している途中、すぱんと頭を引っぱたかれる。まあこうして見せたのも、騒ぎでも起こさなければいちいち取り締まる警察などいないからだが。無論、帯刀して事件など起こそうものなら、かなり重い刑罰が上乗せされる。

 

「まあとにかく、学がなくとも一芸持って命をかければ、案外稼げるもんだよ。警察なんてしといて、本当の意味での命がけが金にならないとは思ってねえだろ?」

 

 命をかけられるというのはそれだけで金になる。場合によっては、命そのものが。全国を見て回れば分かるが、日本もまだまだ安定しているとは言いがたい。政府の権能が行き届いているのは都会だけだ。

 あと普段金使わねえし、とどうでもよく付け加える。

 理解はしたが納得はしていない。表情を翻訳するならそんなところだろう。

 

「なんでこんだけ金持ってて見窄らしい格好してんだ」

「使ってねえから貯まるんだよ。贅沢なんざしてみたのはこいつだけだ」

 

 言いながら足を上げ、指さした。

 

「西洋靴か」

「ああ。仕事でも役立つかと思って買ってみたんだが……」

「期待外れだったろ」

 

 にやり、と老人がにやつき、ついでに足を慣らして見せた。革でできた西洋靴は、制服、警棒と並んで警察の標準装備である。

 底意地悪さが板に付いている。いたずらっぽいと言うか何というか。これで嫌みを感じないのは、ある意味才能だろう。

 うんざりと肯定する。

 

「全くだ。つま先は硬えわやけに蒸れるわ、おまけに足下が柔らかいとやたら滑る。よくこんなもん履いてられんな」

「俺たちゃ基本町中でしか働かねえからな。山歩きなんてさせられた日にゃ、皆そろって文句たらたらよ。うちの女房なんぞも高えのにやたら欲しがってなあ、どんだけ使えねえかこんこんと説明しても分かっちゃもらえねえ」

「ほんとになあ」

 

 こればかりは生意気の一つすら思いつけなかった。

 鬼殺隊の基本は足だ。いくら呼吸を会得しようと、どうしたって身体能力では人など鬼に及ばない。ではどうするかと言うと、緩急で速度を誤魔化す、つまり変則的な動きで見失わせるのだ。あらゆる面で人を凌駕する鬼だが、目だけはさしたる違いが無い。付け入るというには細やかすぎるが、それでもありがたいものではある。

 何が言いたいかと言うと、大前提として足の指が地面をしっかりつかめなければいけない。草の上などで滑る西洋草履は、実用面で言うならはっきりと糞だった。

 

「金がある理由は分かったが……それを踏まえて、これはおめえさんが渡すべきだと思う」

 

 その辺のおじさんみたいな表情から一転して、威厳ある老人の顔に変わる。巾着袋を突き返そうとはしてこないが、かと言って受け取ったと言うにも微妙な位置で掴んでいる。

 

「小僧――いいか、小僧だ。お前はまだ大人じゃねえ。おめえがやろうとしていることは、間違いなく“善”だ。こんな仕事してんだ、良い事をした人間が報われない姿なんて山ほど見てきた。だからこそ、良い事を認められる機会がある時くらい、ちゃんと認められるべき。俺はそうさせてきた」

「いらねえ」

「あ?」

 

 即答した獪岳に、山内は眉をひそめる。

 

「誰に認められるとか、そんなもんいらねえ。あんた、嫁に感謝されるために汗水流して、時には人に嫌われてまで警察してんのか? 違えだろ。ただただ、身内を守るためだ。つまんねえ事なんて、知らなくていい」

 

 男は。

 一瞬目を見開いて、次に閉じた。そのまま何秒か沈黙した後、視線に乗っていたのは哀れみだ。

 

「……いいんだな?」

「二度も言わせんな。それに、どこの誰とも知れねえ奴が投げ込んだら、下手したら難癖つけてお上に没収されかねねえだろ。その点、警察なら身元がはっきりしてる」

「俺がこいつをちょろまかすとは思わなかったのか?」

「それこそ俺の見る目がなかった以外になんつえるんだよ。それともあれか、地の果てまで追いかけてぶっ殺すとでも言えばいいか?」

「そりゃ勘弁願いてえな。俺もいろいろ経験したが、お前より強いと感じたやつはいなかった」

 

 最後に、仲間の姿を目に焼き付けて。

 警察の仮面を捨てて、ただの好々爺となった男へ挨拶代わりに手を振った。

 

「ちょいと待て」

「あん?」

 

 もう話など無いと思っていた所に、声をかけられ、立ち止まって振り向く。

 

「最後まで小僧やおめえってのもなんだろ。名前くらい教えてけ」

「獪岳」

「獪岳……んん? 獪岳?」

 

 なぜだか、男は言葉に詰まっていた。何かを思い出すように、いや、懐かしむようにだろうか。

 いくらか思案した後、老人はけたけたと笑い出した。何かが面白くて仕方が無いと言った風に。

 

「なんなんだよいきなり。人の名前聞いといてよ」

「いいや。ただ、おめえが孤児院にわざわざこんな大金を届けに来た理由に合点がいったってだけだ」

「?」

 

 言っている意味が全く分からず、眉をひそめるしかない。

 無視して歩き出すと、背後から強い忠告が飛んできた。

 

「死ぬんじゃねえぞ!」

 

 声量もだが、今までで一番の強い言葉だった。

 

「おめえは必ず生きて、もう一度ここに来るんだ! んでもって、今度は顔を見せられるようにしてやれ!」

「まあ……できたらな」

 

 煮え切らない答えを残して、人気の無い場所を選び進んだ。

 心残りがないとは言えない。年長組が達者かどうかは依然不明だし、行冥など足取りすらつかめない。まるで何者かに痕跡を消されたようですらある。公的機関を利用できない以上、それ以上に関してはもう無事を願うしかない。

 

(ま、与太郎の俺にしちゃ上出来か)

 

 そのまま裏道に差し掛かろうというところで、ふと足を止めた。不釣り合いな西洋靴を脱いで草履に履き替えたのだ。強度こそ低いが、やはりこちらの方がちゃんと踏みしめている感覚がある。

 靴は背嚢へ、丁寧にしまい込む。

 とりたてて物に頓着がない獪岳であったが、さすがに草履の七十倍もした西洋草履を捨てる勇気はなかった。

 第一の目的を終えて、獪岳は次に藤花紋の店を探した。こちらには苦労しなかった。元いた町の名は(俗称とはいえ)知っていた。老舗な上にかなりの大店で、しかも、藤の家紋の一族は、鬼殺隊の強力な支援者だ。

 孤児院から育背翌檜園から町三隔てて。故郷と言うには馴染みが少なすぎる場所に、獪岳は立っていた。

 

(あれから何年だか。ここは全く変わらねえな)

 

 のんきだが排他的な人間の気質。補修ばかりで新築された建物など皆無の町並み。いかにも時代に取り残された服装ばかりの人間。そして、ここにあるものだけが幸福だと疑わない目。何もかもが当時そのままだ。

 未練も興味も無い町中を素早く抜けて、山道へと舵を取る。ここは……少しだけ変わった。道が荒れている。昔なら、歩くのにわざわざ草を踏む必要は無かった。

 昔とは違う。もう違うのだ。進む度に消える面影が、思い出を塗りつぶす。

 そこへたどり着くのに、思いのほか時間がかかっていた。道が悪くなっていたせいだ、と獪岳は自分に言い訳をした。

 かつて。

 自分たちが生活していた場所。苦労ばかりだったが、細やかながらも、確かに幸福の存在した家。少年期と幼年期の境目時代、ここに全てがあった。今はない。何も、ない。足跡と言っていいかすら分からないものだけ。

 すでに建物と言えるものはなかった。寺は完全に倒壊し、半ばで折れた大黒柱だけが物悲しく倒れかけながら立っている。屋根であった部分には、所々苔むしていた。

 裏手に回る。

 何度手を加えただろう。補修に補修を繰り返し、誤魔化して使っていた薪小屋。いや、薪小屋だったもの。今はもう腐り風化して、廃材としての価値もない。維持する人間が何年もの間いなくなれば、まあ、こんなものだ。

 どれもこれも、皆が必死になって維持していたのだから、誰もいなくなればこうなるのは当然だろう。残っているのはかつて人がいた残滓と――思い出の空しさだけ。

 何もなかった。かつてを思い出させるものが、何も。

 本当は……少しだけ、期待していたのだ。ここにはまだ行冥が残っていて、幾人かの子供を引き取り、苦しいながらも小さな幸せを噛みしめて生きている。相変わらず自分に無頓着なおっさんに挨拶の一つでもして、獣を狩ってくる。今なら罠などに頼らなくても、走って追いつくことができた。皆に肉を振る舞ってやって、別れの挨拶をして、また来る、などと言って……

 全てが泡沫と消えた。

 

「そうか」

 

 行冥の行方も一応捜したが、杳として知れなかった。

 他の奴らは、生きるだけならどうとでもなるだろう。しかし、盲いた行冥に限って言えば、仕事を探すのも難しい。今の稼ぎなら、人の五人くらい簡単に養える。いざとなれば、小さな家でも買ってそこでできることをさせればいいと思っていた。多少借金をして、また孤児院を開いてもいい、などとも。

 夢は、所詮夢でしかない。現実が都合良かったことなどない。

 廃屋……というよりただの塵山に近づいた。屋根だったものに潰されて、中の様子はひたすら分かりづらい。それでも一応、金に換えられそうなものは回収されているようだ。二束三文の品しかなかったため、誰かに盗まれたという事もあるまい。仲間らの当座を支えてくれた、と思いたい。

 と、足下に。何か陶器の破片を見つけた。

 何かと思って手に持ち、つぶさに観察する。薄汚れ、ひび割れ、ひたすら分かりにくかったが、どうやら割れた香炉の破片のようだ。

 子供らが逃げる時に香炉を持参したはずだから、その余りだろう。荷物を探す時には既に割れていたか、それとも古すぎて金にならずうち捨てられたか。

 獪岳はそれを幾ばくか眺めた後、そっと懐にしまい込んだ。

 正直なところ、なぜそんな事をしたのか分からない。こんなものでも思い出の残滓だと思ったのかも知れないし、あるいはただの感傷か。

 らしくない自覚はあった。彼は己の過去に、何も残さなかった人間だ。それが今更形見のようになど、皮肉でありお笑いぐさであり。自分でも何をしているのか分からなかった。

 その場を去る前に、一度だけ振り返る。襤褸小屋なのに騒がしく、笑いに溢れ、ちょっとした注意の言葉が飛び交う。そんな、幾度となく見てきたものが、幻想としてあふれかえった。二度と見る事ができない光景。

 昔を振り切るように頭を振って、獪岳はその場を後にした。

 これで全てがなくなった。

 自分のやるべき事が、本当に全て。

 

 

 

 目指すものも守るものも何もなく生きるのは難しい。あらゆる目的を達成して、彼は初めてそれに気がついた。

 無為に生きるのはひたすらに空しい。苦痛ではない。ただただ虚無があるだけだ。

 だが人間というのは不思議というか何というか、そんなものにも慣れてしまうものだった。鈍くなったわけではなく、そうであるのが当然になる。ただし、今までと変わらないかと問われるとそれは少し違う。

 獪岳も例に漏れず、少しだけ変わった。金を貯めなくなったのだ。

 今までは金を仲間らに渡すという目的があったが、それも達成した。あの金でどれだけ持つかは分からないが、最年少であった沙代が卒業する程度までは持つだろう。といっても町中に作られた孤児院の維持にどれだけ経費がかかるかは分からない。元々勘定が苦手であるし。だがまあ、少なくとも飢える事はあるまい。

 彼はとりあえず、実用面を全く無視した金の消費を試みようとした。

 その使い方は、一言で言って雑だった。荒い、ではなく雑。

 好きな物を食おうとして、そもそも自分の好きな食い物がない事に気がついた。では何か物を買ってみようと考えたが、欲しくないのにかさばるなど本気で邪魔である。そもそも、獪岳にとって金とは生活を楽にするための道具だ。鬼殺隊に入って生きるに充足している以上、欲しい物そのものがない。

 無駄に高い飯を食ってみた。肉はいいと思うが、善し悪しが分からない。無駄に高い宿にも泊まってみた。眠れればどこでも同じだろうと思った。小物やら何やらは、元より買う気にもなれない。袖に意味の無いものを入れて戦うのは、なんだかもう可笑しいを通り越して頭痛がしてくる。

 そもそも金に触れる機会すらほとんど無かった人間に、金をぞんざいに扱うなと言う方が無理だろう。

 衣食住はあるだけでいい。その他の欲求はないどころか、むしろ邪魔なだけ。そんな彼が最終的に見つけた金の使い道が、博打だった。

 博打と言っても大したものではない。そもそもヤクザが大手を振って開いていた賭博場など、明治前に潰されている。大規模な賭場が消えたわけではないが、流れ者が入れるほど暢気ではなかった。金のために信用を蔑ろにすれば、検挙される。

 故に獪岳が入れるのは、警察も洟も引っ掛けない小さな所ばかりだ。一握り程度の金を持って、すべて擦るまで賭ける。勝つのが目的ではないのでこれでよかった。馬鹿馬鹿しいが、鬼探しの外れを引いたときの暇つぶしには、案外重宝した。

 必要な分以外は博打に使う。無くしたら無くしたでいい。当然それでも大量に余るが、そういった場合は藤の花の家紋に立ち寄った時に置いてきた。忘れ物だと思い気付くと追ってくる者もいるのだが、要らんと一言言えば案外引き下がってくれる。金に頓着しない鬼殺隊員は結構多いと聞いた。

 鬼の単独討伐やら共同戦線やら、あらゆる任務をこなした。数年経つ頃には、討伐数はゆうに六十を超えていた(同僚に頚を譲ったものまで含めれば、さらに増えるだろう)。獪岳と組んだ者は生還率が極端に高いため、さらに便利に扱われるようになったが。ちなみに、それ以上に隊員と諍いも起こすため、一部では蛇蝎のごとく嫌われている。

 そんな生活を続けて数年。

 獪岳に鎹鴉が囁いた。依頼はややこしいもので無い限り、鎹鴉から伝達されるので、それ自体は特におかしな事ではない。

 任務に、彼は人知れず呟いた。

 

「ああ、もうそんな時期か」

 

 このところ、ずいぶん時の流れが曖昧になっている。暑いか寒いかくらいでしか判断していない。だから忘れていた。

 基本的に鬼殺隊には、先輩後輩の概念はない。これは同期でも年齢がバラバラだというのもあるが、一番の理由は、隊員は基本的に単独行動だからだ。日本中に散り、闇に潜む鬼。これを炙り出して始末するには、纏まって行動ができず、結果同志に合う機会そのものがあまりない。鬼を殺す技能を持つ者が少なすぎる。

 まあできない人間を省くための最終選別なので、文句をつけるのもお門違いではある。

 鎹鴉からの伝言。内容は、新人三名を担当せよ。

 つまりこの三人は、最下層の鬼を幾人か倒したという事になる。

 第一の壁、最終選別。第二の壁、野良の鬼の退治。この二つを超えて、名実ともに鬼殺隊と認識された者たち。彼らの生存率を上げるべく、経験豊富な剣士と幾度か実践を共にする事になっている。それも、強い鬼を相手にして。

 鬼殺隊第三の壁、鬼殺隊が“本当の意味で”対峙しなければいけない鬼との邂逅だ。

 

 

 

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