獪岳と善逸 作:山筋
まだ空は暗い、しかしあとどれほどもせず太陽が闇を裂くといった頃。善逸はいかにも豪邸と言った風情の門を、音を立てないようにそっと開いた。
明治末期から向こう、東京都心部を中心とした大都市では眠らぬ街と言われるような土地が増えてきた。そういった場所であれば未明でも外歩きに不便しないのだろうが、残念ながら彼が世話になっている煉獄邸一体はそこまでではない。ぽつぽつと障子の向こうから明かりが漏れる家もある、といった程度だ。
暗がりでまだ視界が薄ぼんやりとしている中、善逸は目的もなく散歩する。
目的はない。が、意味まで無いわけではなかった。
そろそろ鬼の時間が終えると思えた頃。彼はその音を捉え、一目散に飛びかかった。
急速に接近し、それへと拳を叩き付ける。高い威力など必要ない。それこそ蚊でも潰す程度で十分だ。
拳の先端に、くちゃりとした感触。感触の気持ち悪さに、すぐさま振り払って手を拭った。
それは、あえて表現するならば虫だろうか。ただし甲殻で覆われていない。全体的に丸く、水っぽい。潰すと内部から液体が飛び散った。何より見た目が醜悪であり、えぐり出した目玉に雑な足を付けた様は、生理的嫌悪を呼び覚ます。
これが鬼の端末だろうとは、柱全員の意見が一致していた。
最初にこの目虫を見付けたのは伊之助だっただろうか。曰く、気色悪い視線が絡みついて来やがる。気付いたときには、かなりの隊士が目虫に捕捉されていた。
鬼舞辻無惨は臆病であり狡猾。その人物評がどれだけ合っているか知らないが、少なくともむやみやたらに動くほど向こう見ずではないのだろう。鬼殺隊の要たる産屋敷を見付けるより先に、太陽を克服した鬼たる禰豆子の捕捉より先に、全隊士の把握を優先した。
目虫が見つかってすぐ、鱗滝左近次は姿を見せなくなった。間違いなく全ての情報を断ち潜んでいるだろう。先んじて彼が見つかっていなかったのは、幸運と言うより他ない。
今まで潜みに潜んでいた監視の目も、一度見つかってからはかなり露骨に、そして派手になっている。
「今月に入ってもう三匹目か」
粘り着く液体の感触を振り払うようにして独りごちる。
目虫の情報は丙以上の隊士に共有され、見付け次第駆除することになっている。とはいえ元々気配が薄く小さいため、発見は困難を極めた。それこそ柱の中でも超感覚を持つ善逸、炭治郎、伊之助以外はさほど成果を上げていない。
自然と三人の動員率は高まった。この散歩もその一環だ。無意味にふらついているように見えて、いや実際どこに行こうと定めている訳ではないのだが。ともかく、これはただの散策ではなく索敵だった。
目虫がどれほどの隊士を把握しているかなど分かるはずもない。しのぶが考えるに、まだ六割前後だろうと言う話だ。恐らく八割に達すれば攻め入ってくる、という予想が立っている。
目標割合に達するのはそう遠い話ではない、とは誰もが思っていた。何せ今は柱稽古のため、全隊士が近辺に集まっている。さして離れていないとはいえ、稽古場所をそれぞれ隔てたのは正解だった。もしかしたら、上はこれを予測していたのかも知れない。
状況は、はっきり言ってあまり良くない。最悪に数えられない限界の線で一番悪い、と言った所か。そのため、柱も態度にこそ出さないものの、焦ってはいた。隊士全体の強化も、個々人が力をつけるのも。
いかに知らされていないとは言っても、隊士たちとて鈍感でなければ無能でもない。 最近、鬼殺隊の空気はひりついていた。
(多分、皆も『もうすぐ』だって気付いてるんだろうな)
つま先で小石を軽く蹴る。
今回で全てを決めるつもりだ。鬼も鬼殺隊も共に。上が焦れてくれば、どうしたって下にも雰囲気は伝わる。
誰が死んで誰が生き残るのか。或いは――考えたくないが――誰一人として生き残れないのか。考えてしまえば、背筋が震えた。自分が死ぬ事は確かに怖い。しかし彼には既に、己の死よりも怖いことができた。隣にいる誰かがいなくなるのは、惨たらしく殺されるより怖かった。
いつも及び腰で弱くてすぐ逃げる善逸にできる事は少ない。何をしようとした所でたかが知れている。だが、何もできない訳ではない。
一通り見回りを終えた後、下宿先の煉獄邸へと踵を返した。頭の足りない自分にできるたった一つの事、鬼舞辻無惨と相見える時まで僅かでも強くなるために。
煉獄邸へと戻ると、見回りをしていた他の柱も戻ってきた所だった。
「ただいまー」
「善逸おかえり」
「遅ぇじゃねえか」
「うむ、そちらはどうだった?」
「一匹見付けました」
「最近多いな。まったく、地味にちまちまちまちまめんどくせえ連中だぜ」
善逸ら三人に加えて、杏寿郎と天元。柱稽古の基礎組だ。先発して隊士の面倒を見ていた彼らは、後半になって新人の流入がなくなってから手が空き始めた。丁度以前と逆の状況になった訳だ。
合同稽古になる夜までは、この五人でちまちまと鍛錬を重ねていた。修行のつらさは変わらないものの、気分的には大分楽である。なにせ実弥と小芭内という、飛び抜けて容赦のない者がいないのだから。少なくとも頭を木刀で情け容赦なくぶん殴られる事はなくなった。
準備を整えながら道場へと向かう。中では既に槇寿郎が控えていた。彼は概ね全ての鍛錬において監督役を務めている。
槇寿郎は最初、ただの飲んだくれた中年でしかなかった。しかし稽古に付き合って酒断ちをし始めてから、どんどん顔つきが精悍になっていった。いや、戻っていったと表現した方が正しいのか。
一昔はどうであれ、意識が確かならばとても頼りになる人だ。そもそもが柱を二十年近く務めた傑物であり、現在最古の柱である悲鳴嶼行冥も若かりし頃はあれこれ面倒を見て貰ったという。それこそ経験は、新米柱などとは比べるべくもない。
さすがに戦って負ける事など万に一つもないが、得るものが多いのは変わらなかった。
「とろいぞガキども。虫ごときを探すのにどんだけちんたらしてやがる」
まあ、傲慢不遜なのだけは変わらないが。
「父上! 本日もご指導ご鞭撻の程お願いいたします!」
「お前は本当にいちいちやかましいな」
が、そんな様子などものともしない杏寿郎。
彼の態度になれているというのもあるだろうが、一番の理由は父の復帰に心から喜んでいる為だろう。これは後から知った事だが、槇寿郎は妻に先立たれたのが原因で荒れに荒れた。それこそ始まりの呼吸と思われている日の呼吸にまで当たり散らすほど。
(最初会った時はこのおっさん頭やべーじゃんってなったよなあ)
とうの昔に失われた技術に激高している姿を見せられば、そんな感想にもなる。
木刀の感触を確かめながら。最近ですっかり手の形にすり減った。腕力が有り余っている組と違って、善逸は物持ちがいい。
互いに声かけなどせず、善逸は天元と対峙した。この面子で鍛錬する時は、大抵この二人で戦う事となる。天元が扱う音の呼吸と雷の呼吸は親戚関係にあり、かなり共通点が多い。といっても何も考えずまるごと参考になるほど簡単な話ではなく、あくまで互いを高めやすいというだけ。強くなるには、やっぱり頭を使う必要がある。
とはいえ、鍛錬も数ヶ月続けてくれば真新しい部分などそうそう見つかるはずもなく。最近では少しだれて、雑談混じりにもなっていた。
「そう言えば」
鬼殺隊でも珍しい(と言っても岩の呼吸ほどではないが)二刀流を捌きながら、ぽつりと。
居合いを使えない善逸が全力を出せないように、天元もまた力を制限されていた。彼の太く分厚い大鉈とも思えるような一対の刀は特殊な形状により、音を超える速度で振るうと空気を破裂させる。たかだか鎖で繋いだだけの木刀にそんな機能を付けられる筈もなく、本来の力は発揮できなかった。
「最近やっと時計の読み方憶えたんだ」
「今更かよオイおっせえなあ」
「だってアラビア数字だローマ数字だとかややこしいんだもん……」
「だもんじゃねえよ気色悪いな」
憶えるまでは割と面倒だし必要なのかとも思ったが、使えるようになるとその利便性を理解した。特に分や秒という単位は革命的だ。今まで一刻というおよそ二時間を基礎単位にしていた事を思えば、その細やかさに目から鱗が落ちる。
西洋時計を重要視しているのは本部も同じだ。日の出までの時間を正確に可視化できるのは、無惨と対峙した時に大きな財産になると考えられている。そのためだろう、時間の理解は義務化されていた。
ちなみに善逸は、柱の中で憶えるのが一番遅かった。伊之助より遅かったのは本気で傷ついたし。まあそもそも伊之助は、西洋時間を知らない組の中で一番憶えるのが早かったのだが。ちなみに二番目に遅かったのは行冥であり、全盲の為に完全な感覚便りで新しい時間感覚を掴むのに苦労していた。
彼は知識がないだけで、地頭はとてもいいらしい。とてもとても傷ついた。最馬鹿は伊之助だと信じていたのに。
「おわっ!」
気を抜いていた訳ではないが。雑に戦っていると、すぐに察知して鋭い一撃を放たれる。
鎖で繋がれた双剣というのは中々厄介で、片方を手放しただけでは落ちることがない。ましてや天元は、刀の先端を指でつまみながら振り回せるほどの膂力を持っている。鎖ごしに振り回すだけで、人はおろか鬼ですら致命傷を与えられた。
下方からあり得ない角度で迫る木刀を、首を捻って躱す。当たれば顎くらいは割れていただろう。
「喋んのはいいが手まで抜くな」
「うっす……」
指摘されるほど緩めた覚えはないのだが。こういった部分で年期の違いが顔を覗かせる。
気を取り直して刀を握る。型は使わない。というより使えない。危険だからといって封じている訳ではなく、互いに慣れすぎて型の出だしを潰すことに慣れてしまったのだ。何よりも先にまず相手を崩さなければ何も始まらない。そんな戦いになっていた。
なら黙って戦えばいいのだが、それはそれで暇を持て余す。
「しのぶさん、どうしてるか知ってる?」
「また唐突だな」
「正直もう他に話題もなくて……」
「俺も気になるっちゃ気になるけどよ。多分、あまり突っ込まない方がいい所なんじゃねえか?」
「なんとなくそうだろうなって察してる」
彼女はある意味、隊士そのものから距離を置いていた。鬼舞辻無惨にも通じる毒を作るためという名目で。
明文に偽りはないのだろうが、動きは控えめに言って怪しかった。蝶屋敷の片隅にある研究室には、継子の栗花落カナヲは勿論、側近と言ってもいい神崎アオイすら入室を断られている。にも関わらず怪しい男女が出入りしているのだとか。
「お館様が何も言わねえって事は順調なんだろ」
「そこは疑ってないよ。元々、俺が進展を気にしたってどうしようもないし」
自他共に認める阿呆の自分では、頭脳労働で役に立てるはずもなく。
本気で知ろうなどとは思っていないし、正体だっておよそ予想は付いている。藤の家紋の家に所属する、鬼に怨みを持った薬師か何かだろう。が、それはそれとして隠されれば気になるのは人の性だ。
「あの二人ってどこの誰なんだろ」
「さあな。知ってる奴って言えば……」
「知りません」
と、注目された炭治郎が即答した。白目を剥く勢いで上を向き、歯を食いしばって唇をすぼめている。
一体何の冗談かと思えるような不細工面は、炭治郎が嘘をつく時の癖だった。あまりにもあまりな表情は、嘘をつかれているより挑発だと言われた方がよっぽど納得できる。それほどの阿呆面だった。そんな状態でも杏寿郎の猛攻を凌いでいるのだから、凄いんだか馬鹿馬鹿しいんだか。
ここまであからさまだと、脱力以外に反応ができない。
「いや別にこっちだって何が何でも口を割らせてえって訳じゃねえんだよ」
「見てて悲しくなるからその顔やめてくれよ」
「うん、その。言えないんだ。ごめんな」
「いいよ。口止めされててもおかしくないし」
鬼の命に届く術を開発している。しかもそれに関わる人間全てが戦う力を持たない。となれば、身元を隠すのも当然だ。
所詮はちょっと下品な世間話でしかない。そこまで気にされると、なんだか悪いことをしている気分になった。というか炭治郎には何をしても悪いことをしている気分になるから不思議だ。
気になるならば直接しのぶに聞いてみてもいいのだろうが。恐怖心が勝ってそれができなかった。どうも彼女は柱(というか隊士)の重荷から解放されて、何かが弾けてしまったらしい。今では完全に危険な研究者だ。どんな薬を作っているのかと聞いて「どんなものだと思います?」なんて笑顔で言われた日には、その晩眠れなくなる自信があった。
会話が一段落ついた所で、今度は天元が話しかけてくる。
「詮無い話やら辛気くさい話やらばっかじゃ気が滅入るからあれだからよ」
どこかうんざりした様子な彼の言葉も分からなくはない。
人間、状況が停滞すると悲観論が広がるものだ。もうすぐ全てに決着が付くという楽観視より、近々鬼が攻めてくるという恐怖の方が強いどちらの方がいいという事はないが、まあ聞かされている方がうんざりするのは確かだ。
「今の時期に珍しくいい知らせがあんだ」
「鬼の人間化薬が完成したとか?」
「そうならもっと大々的に広めてるわアホ」
「そりゃそうか」
鬼舞辻無惨をおびき寄せるためわざと秘している可能性もあるが、ならば間諜が跋扈している現状、誰かの耳に入る訳もない。それこそ噂程度でも出回らないだろう。
かといって、停滞した状況で飛び抜けていい話がある筈もなく。
(ま、何でもいいか)
どうせ与太だろうと思っているが、それを口にしない程度の分別はあるつもいだった。
「甘露寺と伊黒がとうとう付き合ったんだってよ」
「……はえ?」
「いつまでガキみてえな恋愛ごっこしてんだと思ってたんだけどよ、直接言うのは悲鳴嶼の旦那に止められてたんだ。もどかしいったらありゃしねえ。でもま、終わりよければ全て良しってか。祝言を挙げるのは終わってからになるだろうが。ま、細やかだがめでてえ話だ」
瞬間。がつんと善逸の頭に衝撃が走った。
「おわー!?」
目の前で天元がぎょっとしている。
衝撃は精神的なものかと思ったが、どうやら物理的にもそうだったらしい。こちらへと伸びる木刀が、ちょうど脳天へと向かって視界から消えている。彼は驚きのあまりすぐ木刀を手放し、からんと小さな音をたてて床に転がった。
絶叫で、皆も一斉にこちらへ向く。
「何いきなり止まってんだテメェ! 危ねえだろうが! いや直撃させといて危ねえも何もねえが!」
かなり強く叱られる。が、内容が全然頭に入ってこない。
衝撃の発生源から、生ぬるい何かが伝わってきた。心地よいとは言えない感覚が、毛穴をさすりながら少しずつ広がっていく。ゆっくりしているようでその実、かなりの速度で伝達していた。
「……おい、本気で大丈夫か? 結構派手に血が出てんぞ。何か言えよ怖えって」
「ハハハ、食らってやがんのだせぇ!」
「我妻少年、大丈夫か? 宇髄、彼は一体どうしたんだ」
「知らねえ。どうでもいい雑談してたらいきなり止まったんだよ」
「チッ。何やっているんだこの馬鹿助は。おい竈門、救急箱を持ってこい」
「はいっ! 善逸、大人しくしてろよ!」
槇寿郎の指示で、炭治郎がどたばたと道場を出て行く。自分のために。だが、そんな姿すらどうでもよかった。本当に、何もかもどうでもいい。たった一つの事以外は。
善逸はよたよたとした足取りで前に進み、天元の服を掴んだ。半ば胸ぐらを掴みあげるようにして。
「今……なんて言った?」
善逸が言葉を発したことで少しだけ安心したのか、表情が崩れる。
「動くなっつわれてんだろ。大人しくしてろ。頭の傷は出血が派手になりやすいとはいえ、強打すりゃほっといていい傷でもねえんだ」
「今なんて言ったって言ってるだろうがぁ!」
びくり、と伊之助以外の全員が体を跳ねさせた。
善逸は気が弱く押しに弱く、騒ぐことはあれど怒鳴る事はない、と思われている。実際それは間違いではない。ただし、女が絡まなければ。もっと言えば、間近に他人の色恋沙汰がなければ。
「いや、んな事より……」
「甘露寺さんと! 伊黒が! 付き合ってるって言ったかぁ!」
「しっかり聞いてるじゃねえかよ」
振り回されながらも、呆れたように、天元。普段ならここで拳骨の一つも入るのだろうが、あまりの剣幕に気圧されていた。
事実を(嫌々ながら。ほんっとうに嫌々ながら)認め、強く唇を噛んだ。皮膚が裂け、肉を貫くのも気にしない。頭頂部から溢れるのと同じ物が零れたが、それだってどうでもよかった。ただ頭の中で、否定したい現実と認めざるを得ないことが喧嘩する。
「……おい、お前本当に怖いからやめろって。目が血走ってるし流れてる血のせいで血涙に見えてんだよ」
「どうでもいいだろそんなことおおおお!」
「まあ……お前がいいってんならあえてどうこうは言わねえが。おい嘴平、お前それなりに付き合い長えんだろ? 大丈夫なのか?」
「こいつはいつもこうだぞ」
「そうか。そうかぁ」
何故か疲れた声を出されてしまうが、それも右から左へと流す。
なぜこの状況で夫婦が誕生すると言うのか。しかも鬼殺隊でも飛び抜けた美人であるしのぶに匹敵する蜜璃と。これから命がけで戦おうというのに。そもそもどこまで行ったのだろうか。接吻はもうしたのか。もしやして、あれやこれやまでしたというのだろうか。
善逸などまだお付き合いすらしたことないのに。お付き合いすらしたことないと言うのにだ!
「ああああああァァァァァァ!」
「おい、ついにぶっ壊れたぞ」
「だからいつもだ」
「ヤベェなこいつ」
彼は、この状況であっても手放さなかった木刀を強く握りしめた。そして一目散に外へと走り出す。
天元が僅かに追ってこようかという雰囲気を出していたが、実行される事はなかった。こと直線距離を疾駆する能力において、善逸の足下に及ぶ者すらいない。どうしたって追いつかないのはわかりきっていた。
もはや邪魔者はいない。全てをなげうって、頭の中を怨念で満たす。
「伊黒小芭内許すまじ!」
向かう先は当然、蛇柱の修行地だ。
稽古場までは結構な距離がある、が――雷の呼吸の使い手にとって、距離などさほど重要ではない。並の使い手では一刻かかっても、善逸が本気で走ればものの一〇分強といった程度。
柱稽古の地はすぐに見えてきた。
そこは概ね一般的な造りだった。つまり、大きな平屋が一棟建っており、ある程度の庭があり、その周囲を柵が囲んでいる。看板がないのだけを無視すれば、一般的な田舎の剣術道場といった所だ。
日光がたっぷり入るよう考えて建てられており、内側からは剣戟の音が少ないながら聞こえてくる。あと何故か、とてつもなく逼迫した呼吸が複数。
本来ならば正面に回って表から入るべきなのだろうが。残念ながら、今の善逸にそこまで理性は残されていなかった。屋根から飛びこんだ勢いのまま、そして感情のままに、天窓を蹴破って内部へと乱入する。
当り前に、突然の来訪者に全員がぎょっとする。小芭内などはこちらの首を刈り取る寸前だった。直撃する寸前になって、あわてて剣を止めていたが。
「おい、いきなりどうした。まさかお館様に何かあったのか? 頭から流れてる血は何だ?」
「何か、だって? しらばっくれやがって……」
善逸が体を揺らしながら、小芭内の方へと向く。
周囲は奇妙な光景だった。自分の足で立っているのは二人だけで、残りは縦横で柱に括り付けられている。また、縛られている全員が涙目だった。地獄のどれかには、こんな光景があるのかも知れない、などと考える。
まあ、今の自分ならば地獄程度簡単になぎ払える。そんな根拠のない自信が溢れていた。
「裏切り者、伊黒小芭内!」
「……はあ? 何を訳の分からん事を」
びっと向けられる木刀に、彼は呆れかえって返した。
周囲にいる隊士の反応は半々といった所だ。疑いと疑念が入り交じっている。蛇柱ほどの人間が裏切るわけというものと、それでも鳴柱が言うのだからというものと。
混乱している彼らの様子など無視して、善逸は続けた。
「今更誤魔化すのか!」
「だから何の話だと……」
「甘露寺さんと結婚するって話だよおおおぉぉぉ!」
喉が張り裂けんばかりに絶叫する。この世にある不条理を全て叩き付けるような、魂の叫びだった。
が、必死な善逸に比べ、残りの人間はただぽかんとするだけだった。いち早く状況を理解したのは、やはり小芭内だ。彼は顔面を覆面の上からでも分かるほど真っ赤にしながら怒鳴り上げる。
「貴様……」
「どこまで行ったんだよ! まさかヤったのかこの状況で! あ! その反応、行くところまで行ったんだな!? ずるいだろおおお!」
「おいやめろ本当にやめろ糞餓鬼ィィ!」
善逸はうおんうおん泣きながら崩れ落ちた。誰が見ても引くこと間違い無しの惨めな泣きっぷりだった。
「その」
混沌の中、小芭内と戦っていた隊士がぽつりと呟く。
「おめでとうございます」
「お前後で殺すからな」
「ひえっ、やぶ蛇だった……」
端的に死刑宣告を受けて、彼はしょんぼりした。
全身の力が抜けるのが一瞬だったならば、活力が戻るのもまた一瞬だった。悲しみや悔しさ、やるせなさといったものが波のように引いていき、代わりに寄せてきたのはただただ純然たる嫉妬。それは砂浜全てを洗い流すように、善逸の内部で荒れ狂った。
むくりと立ち上がる。今まで見たいな、頼りない挙動ではない。体幹を支える筋肉に力が満ちて、誰が見ても一流の剣士と分かる立ち振る舞いだった。
「許すまじ」
「何が許すまじだ屑め。こんなふざけた真似をしてただで済むと思うなよ……!」
「俺だって甘露寺さんみたいな超美人と付き合いたかったんだあああ! なんでアンタみたいな陰険でねちっこい奴にぃ!」
「誰が陰険でねちっこいだ!」
恐らく、その場にいた誰も察知する事はできなかっただろう。柱二人の木刀がぶつかり合い、つばぜり合いを始めたのは。
「どうやら一度ぶちのめさんと立場が分からないらしいな」
「うっ、ううううぅぅぅ。俺だって、俺だってさあ。一度くらい女の子と口づけしてみたかったんだぁ」
「……話が全く通じんか」
そのままなし崩しに、蛇柱対鳴柱の戦いが始まった。
結果から言えば、蛇柱の辛勝だった。
元より善逸には勝ち目がなかったと言っていい。壱ノ型が封じられた善逸に対し、相手は全ての型を自在に使える。地の利も小芭内にあった。なにせそこは、彼が得意とする、障害物が極端に多い場所だったのだから。善逸とてそういった場所での戦闘経験がない訳ではない(童磨と戦った時とか)。とはいえ、専門的に鍛錬をしたのでもなかった。どうしたって対応能力に差は生まれる。
均衡を保っていられたのは最初の三〇分だけであり、残りの時間は徐々に圧されていき、一時間も経つ頃にはタコ殴りにされて終わった。
小芭内は抵抗できなくなった善逸の顔をしこたまぶん殴ると、息を荒らげたまま吐き捨てる。
「今日は終わりだ! そこの馬鹿は外にでも捨てておけ!」
最後、腹に一発蹴りを入れてから、彼は道場を出て行った。
その場で仰向けに転がり、顔をさする。全体がぱんぱんに腫れ上がっていた。骨折はさすがになかったが、それ以外は何でもいいという勢いで叩かれている。今や彼の顔は元の面影を探す方が難しい。
修行の終わりを確認してか、ひとまず隊士達は柱から解放されていった。柱同士の戦いがよほど怖かったのか、例外なく顔が引きつっている。中にはちょっと漏らした者までいるようだった。
死ぬほどボコられたために、善逸もいくらか落ち着く。顔に刺激があると痛いので、なるべく揺らさないよう上半身を持ち上げて座った。
全員が解放されたあたりで、そろそろと(漏らした者以外の)隊士が集まってくる。
「あー、鳴柱、大丈夫っすか?」
「顔中いてぇ」
「そりゃまあ顔面が焼いた餅みたくなってますからねえ」
「後で鏡見たら怖くなるような事言わないでよ……」
良く言えば気さく、悪く言えば舐められた風に話しかけられているが、善逸の場合はこれが普通だった。年齢で言えば炭治郎、伊之助、無一郎も同じような扱いを受けてもおかしくないのだが、彼らはしっかり頭がおかしいと認識されている。
「それで……」
そわそわしながら、隊士が肩を叩いてきた。
気付けば、柱に括り付けられていた隊士達もどこか落ち着きなく集まってきていた。
「蛇柱と甘露寺様が結婚を前提に付き合ってるって本当なんですか?」
「甘露寺様って誰よ」
「知らねえの? 元柱だよ。ついこの間まで恋柱やってた」
柱という存在は知っていても、顔まで知っている者は、実は多くない。柱ごとに補助する人員はだいたい決まっているためだ。最近は異例づくしで忘れそうになるが。
善逸だって獪岳から話を聞くまで、柱が九人という事も、どころか柱という存在すら知らなかった。彼とて名前は同期だと言っていた二人だけしか把握してなかったし。
雁首揃えている者達は、今まで生きた障害物にされていた事など忘れたかのように楽しそうだ。柱二人の戦い、当然どちらも腕は確かなため、誰にも被弾しなかった。それ故の余裕かも知れない。
当然おっかなびっくりといった様子の者も多かったが、それでも止めようとはしなかった。娯楽に限界まで飢えていた証拠だ。なんだかんだ、無責任に話せる他人の色恋沙汰は最高のネタである。
善逸は顔の代わりに、首へと手を添えた。殴られすぎてむち打ちになっている。それでも治療を受けるほどではないあたり、拷問の訓練でもしていたのではないかと疑う手腕だ。
「宇随さん……えっと、音柱が言ってたし、多分本当だと思う。あの人謎の情報網持ってるから」
本人は元忍者だと言っていたが、果たしてどこまで本当なのやら。個人的には「お前みたいな目立ちたがりの忍びがいるか」と言いたい。
どういう絡繰りかはさておき、耳聡さは本物である。そもそも鬼殺隊とは別の情報源があるというだけで計り知れない価値だ。
「へー。あんな「色恋沙汰なぞに現を抜かすな」みたいな顔してる人がねえ」
「ああいう人に限ってやることやってんだよなあ。ちくしょう、うらやましい」
「ずりぃよあんな美人をさあ」
「誰だか分かんねえ……」
「ほら、最近隠に入って訓練してる、桜色の髪の毛を三つ編みにしてる人だよ」
「あーあー。あの別嬪さんか」
「知ってるか? 甘露寺様ってゲスメガネの餌食になってたんだぜ」
「素直過ぎんだろ甘露寺様。あの改造隊服渡されて目の前で焼くか顔面陥没させるか以外の対処してる人いるの初めて知ったわ」
「すげえ格好だったぞ。胸元思いっきり開かれてるし、スカートはとんでもなく短いし」
「前田の奴、調子に乗りすぎて風柱に怒られたらしいぞ」
「それでも辞めないんだから本物だよあいつ。頭イカれてやがる」
彼らの会話で、甘露寺の格好が勝手に改造されたものだと知った。まあ確かに、あの防御力が低そうな出で立ちはあまり宜しいと言えない意図をもって作ったとしか考えられないが。とはいえ非常に眼福だったので、善逸個人としては、前田某によくやったと言ってやりたい。直接言ったら女性隊士から袋叩きにされるだろうから、心のなかでだけの声援だが。
「彼女、かぁ」
誰かの呟きに。その場にいる全員が表情を暗くした。
「なあお前ら、彼女いる?」
「いるわけねえだろこんな仕事してて」
「そこら中飛び回るから、娼館通いが精々だよ……」
「いつ死ぬかも分からねえから下手に彼女なんて作れるもんか」
「引退してからになるよな……」
「最後に彼女がいたの、いつだったっけ」
空気が一気に沈む。
そんな様を見て、しかし善逸は唇を尖らせた(そこも例外なく腫れているため、傍目に変化は感じ取れなかっただろうが)。
「いたことあるだけいいじゃないか。俺なんて未だに女の子から好かれた事ないよ」
え、という、吐息に喉がひっかかっただけのような音の後。
「それはさすがに……」
「付き合ったこともないとか引くわ」
「ええと、ドンマイ!」
「泣くぞおまえら。いいか、柱が声をあげて転げ回りながら泣くぞ」
「そんな脅迫初めて聞いたわ」
こんなに酷いことを言われたのは生まれて初めてだ。もしかしたら女の子に騙され、借金を肩代わりさせられた時より傷ついたかもしれない。
さすがの彼も、分別どころか自意識すら失っている禰豆子を彼女と言う事などできなかった。本気で惚れている。嘘などない。ただし、それと彼女が自分の方へ向いてくれるかは別問題だ。
今までは、ただ自分の話を静かに聞いてくれるだけで満足していた。しかし、その先を考える時期が来たのかもしれない。まずは独りよがりなのを直さなくては。自分が楽しいだけで相手がつまらないと思っている事ほど空しい話はないのだから。
「てか鳴柱はなんで蛇柱にばっかり怒ってるんだ? 嫁さん云々で言うなら音柱だってそうだろ」
天元は柱で唯一の、そして歴代でも数少ない現役柱でありながらの妻帯者だ。確かに思うところはある。あるのだが。
「なんて言うか、全然実感ないんだよな。奥さん見たことないし、一緒にいてもそんな話題全く出てこないしで。嫁がいますって口だけで言われるのと、連れ添ってる姿を直接みたの見たいな違い、なのかなあ?」
「……こんなこと言いたかないけど、鳴柱は対人経験少なすぎでは? 見ないと分からないって、大分酷いぞ」
「う……そうかな。そうかも」
心当たりがありすぎて何も言えない。
牛込區では生きるのに精一杯で、特に仲のいい相手はいなかった。修行時代は慈悟郎と獪岳のみ。正規の隊士になってからは結構な期間単独行動であり、炭治郎や伊之助と出会ってから、やっとまともな会話をするようになった。後は事務的な会話か、さもなければ一方的に好意を伝えて振られるの繰り返し。改めて、碌な生き方をしていない。
後は、話を聞く前に相手を知りすぎたのも原因だろう。さすがに既婚者という情報だけで怒れるほど浅い仲ではない。目の前でいちゃつかれたり、小芭内のように知己の美人とくっついたというならばまだしも。
「ま、いいじゃないの」
と言いながら、一人の隊士が肩を組んできてにっと笑った。
「もうすぐ鬼舞辻無惨は倒される。後は鬼を全滅させるまでさほど時間がかかんないさ。そすりゃ、何も帰ってこなくたって……時間だけは取り戻せる。ごく普通に、みんなと同じように、人生をやり直せばいいんだ。したらあれだ、俺達だって彼女の一人作るくらい協力するよ。なあ?」
呟きながら、周りを見る。答えるようにして次々と声が上がった。
「そろそろ結婚するような歳になって、女経験一つねえんじゃ仕方ないよな」
「どうせその分だと女の口説き方も知らないんでしょ?」
「みんなで集まってさ、都会へ女の子ひっかけにいくのもいいかもな。振られたら振られたで、残念会って事で呑みに行くのも多分楽しいぜ」
「そう、だな。そうかも」
和気藹々と話しているが、それがただの強がりだと誰もが分かっている。
ただでさえ隊士の損耗は激しい。ましてや次の戦いは、過去最大規模かつ過去最高の戦力を投入してくるだろう。ここにいる何人が生きて戻れるのか。はっきり言って、誰一人残らなくてもおかしくない。
それでも、ただのつまらない願望と誹られようと、希望は必要だ。明日がある。明日を夢見る事が許される。そう思えるのは、多分、誰が思っているより遙かに重要だ。
「じゃあ全部終わったら、口説き方を教えて貰おうかな」
力なく笑う。多分、とても不細工な笑い方だった。
「俺はそろそろ戻ることにするよ。まだ修行の途中だったし。君らもせっかくの降って湧いた休みなんだから、ちゃんと明日に備えなよ」
「やめろよせっかく忘れてたのに!」
「アンタに動けない中、木刀を全力で振り回される気持ちが分かるのか!?」
「……来た時から思ってたけど、なんで縛られてたんだよ」
問われ、全員がしょんぼりと肩を落とす。
「弱い罪だとか憶えない罪だとか、なんかそんな事を言われたよ」
「避けるべきものを避けてきっちり攻撃を当てるって理屈は分かるよ、分かるけどさあ。さすがにこれはないだろ? ただの拷問だよ……」
「柱同士の戦い見て思ったんだ。ああこの人達、当り前のように俺達を避けるんだな、こっちに恐怖を与えすらせず戦える、強さの次元が違うんだって」
そんなものはただ経験の種類が違うだけ、というのは簡単だ。しかし、それを口に出せばただの嫌味だろう。天才という人種には無数の種類があり、その一つに経験を直感的に吸収できると言うものがあるのくらい理解できる。恐らく善逸はその類いだ。
痛みと恐怖で憶えさせるという意見には一理あるし、効率的でもあるだろう。ただ、善逸では絶対に選べない選択ではある。
些かやり過ぎだと思う反面、柱の中にも一人か二人くらいは、そういう人が必要だろうなとは思う。
「まあその、頑張って」
「口添えしてくれたりは」
「年上だし柱としても先輩だしな上、そもそも他人の稽古内容には口出しできないよ」
「そうだよなあ」
はあ、と次々漏れる小さなため息。この修行が本当に怖いのだろう。
自分が稽古を受ける側じゃなくて良かった、と改めて思いつつ。頭部からの出血でいい感じに頭も冷えて、溢れていた激情も今はさざ波程度だ。
「それじゃあ、またね」
「ああ。また会おうぜ」
「今度はもっと気の抜けた場所でな」
「あんたも頑張れよ、柱」
互いの健闘を祈りながら、善逸は来た道を戻っていく。勝手に抜け出してきた事を、謝ったら許してくれるかなあ、などと悩みながら。
ちなみに。
これはまるっきり小芭内が悪いのだが、彼は口止めを忘れていた。そのため噂は千里を走りほんの数日後には鬼殺隊全体が知るところとなる。
このせいで、その後の柱稽古は苛烈なものとなったし、天元と善逸は小芭内に殺す勢いで殴られた。またしても誰だか分からなくなるまで顔を腫らした善逸は、さすがに世の中の不条理を嘆いたとかなんとか。
×××
ある日の夜。柱全員が集まり、座っていた。
いや、稽古が終わってから集合するのは毎夜の事だ。普段と違うのは二点。この場に現役の柱しかいないのと、代表たる悲鳴嶼行冥の正面に全員が正座している事だ。
普段と違いすぎる空気に、僅かな緊張が生まれる。それほどに、行冥が生み出す雰囲気は逼迫していた。
「皆に改めて話がある」
元々浮き沈みが極端にない声色だが、この時は一層深いものだった。
「いや、誤魔化すのは良くないな。これは私の願いであり、懇願だ」
彼の言葉を遮る者はいなかった。それほどまでに、行冥から疲れが見える。
死ぬほど悩んだのだろう。何度も何度も吟味したのだろう。どれだけ一人で抱え込んだのだろう。現役の中で最古の柱であり、同時に前お館様たる耀哉からの信認が最も厚い男。彼がここまで思い悩むのならば、前お館様の言葉以外にあり得ない。それがどうしても承服しかねるものだという事も。
巨躯が小さく見えるほどに考え続け、そして己の意見を吐き出すことにした。
「――私はこれから先代お館様を裏切る。頼む、どうか付いてきて欲しい」
×××
夜を心地よいと思ったことはない。海の底みたく沈んだ世界は、いつだって己を閉じ込める檻でしかなかった。昏い昏い、まるで全てが死滅したと錯覚させる場所に浸されて味わえるのは苦痛だけ。そこらで漫然と生きる塵と同じようにもがけと言われている錯覚を何度も感じ、吐き気すら憶えた。
昼に思いを馳せたこどなどない。たかだか光の薄膜が、自分の足を遮る。以前は当り前に歩めていたのに。なぜ太陽の光だけが鬼を溶かす力を持っているかは知らないし、知りたくもない。忌々しいそれから得られるものは苛立ちだけだ。いったいどれほどの永い時、輝ける場所を睨んだ事か。
だからといって昼や夜の境がなくなればいいとは思わない。それは負けを意味する。誰がどう思おうと関係ない。心に敗北したという烙印を刻まれるのが重要なのだ。それは許されない。絶対に許されない。
故に、自分自身が太陽を克服する。相手が負けるのを期待するのではない、自分がねじ伏せて勝つ。それができて初めて――鬼舞辻無惨は完璧たり得た。
野心を抱えて幾星霜。ついにこの世のあらゆる不条理をねじ伏せ、頂点に君臨する日が来た。
屑の量産型鬼を作り続けたのも、吐き気を催す阿呆共に我が高貴な血を与えたのも、目を覆いたくなるような無能どもに名と地位を与えてやったのも、全て。全て全て全て、今日という日に集約される為だ。
国内を探せば数百はありそうな中規模都市の郊外。寂れたとまでは言えないが、しかし生活感にも乏しい、いかにも遠くない滅びを予感させる武家屋敷。どこにでもあり、代えが効き、退路の確保も容易。確かにある程度所在を隠しつつ、人の出入りが怪しくなく、理に適った拠点だ。万が一の場合、己の安全を考えなければ、と枕詞が付くが。
(奴らはいつもそうだった)
憎き血族。忌まわしき過去。唾棄すべき遺物。
そいつらに迫ったことは、無かったわけでもない。幾度か、特に呼吸という技術が生まれる前は、無数に鬼殺隊という組織そのものの首へと指をかけた。
成功しなかった理由は簡単であり、同時に理解に苦しむ決断のせいだ。奴らはいつも、当主を生け贄にして組織を生存させた。鬼の気配が迫っていることを察知すれば、次代のたった一人だけを残して家族諸共わざと皆殺しにされる、などという頭のおかしな真似までやらかす。
そうやって鬼殺隊は、何度も瀕死になりながら生き延びた。もはや蘇ったと表現した方が正しいかもしれない。
しかし、つまらないいたちごっこもこれで終わりだ。
鬼殺隊の有無など心底どうでもいい。少し目障りだというだけ。そんなものは、いや、あらゆる全て、太陽を克服した鬼さえ手に入れば解決する。
外壁からは想像もできないほど手入れの行き届いた庭に降り立ち、屋敷の方に視線を向けた。
夏でもないのに、寝室へと続く襖が開かれていた。何者かを招くように。或いは、待ち構えるように。
(こちらの動きを予見していた……。まあ、しぶとさだけは一人前の産屋敷ならばあり得ない事でもないか。自分達が絶対に死にきらない時節を読んで、こちらを誘い込む。いつもの手と言えばそれまでだな。ただし、以前までとは状況が違う)
一つは、両陣営が奪い合う『太陽を克服した鬼』が生まれ、産屋敷側がそれを確保した事。
もう一つは、鬼舞辻無惨直々に来訪してやり、全力で奪いにかかっている事。
これは鬼殺隊にとっても賭けの要素が大きい筈だ。なにせ産屋敷の壊滅は、一時的な鬼殺隊の機能停止を意味する。
太陽を克服した鬼は、こちらに奪われるくらいならば始末されてしまうだろう。それを避ける為に、わざわざ鳴女に大量の血を与え、合図と同時に周辺全ての人間を取り込むよう命じておいた。外部との連絡手段さえ遮断してしまえば、おびき寄せた時点で用済みとばかりに太陽を克服した鬼が始末されてしまう可能性も低い。万が一そうなってしまったのならば、とっとと撤退すればいいだけだ。回収するのは上弦の鬼だけでいい。
太陽を克服した鬼。確かに稀少で喉から手が出るほど欲しくはある。ただし、無理をしてまで、つまり腹いせに鬼殺隊などを殺して回るほど拘る必要もなくなった。
ここで喰えれば最上の結果。しかし、相手の短気で殺されても諦めは付く。なにせ確証を得たのだから。鬼を産みだし続ければ、いずれはまた太陽を克服する者が現れるのだと。
それが分かった以上、もう太陽を克服した鬼よりはいくらか信用度の高い『青い彼岸花』を無理に探す必要もなくなった。となれば、世界中が船で繋がる現代、わざわざ日本に留まり続けた意味もうしなう。千年あれば、また次の太陽を克服した鬼が現れるだろう。いや、大陸に渡り天敵が居なくなった状況ならば、もっと時間を短縮できるだろう。
それでもここにいるのは、散々近くを飛び回っていた鬱陶しいハエ共を蹴散らしてやってもいい。それだけの、いわば稚気から来るものだった。
「佳い夜だ。今日だけはそう感じる」
目の前に眠る半死体から視線を上げて、夜空を眺める。
点々とちりばめられた星屑に、およそ千年もの間、唯一感じる事のできた月という光。腹立たしさばかりだったそれも、これで見納めだと思えば、いくらか胸がすく思いだった。最後の一度くらい、愛でてやらない事もない。
「お前はどうだ、産屋敷……ああ、そう言えばお前の名前など知らないな。興味も無い」
「そうかい? 私はずっと君を求め続け、片時も名を忘れたことはないよ、鬼舞辻無惨。私は産屋敷耀哉。別に憶える必要もないけれど」
改めて目の前の男(と傍らに座る女。多分妻だ。所詮おまけだが)を見て、奇妙な感覚に囚われていた。
彼らには散々手間をかけさせられた。少しばかりは顔を拝んでやろうと思ったが、それだってただの戯れだ。気分次第では会話などせずにくびり殺す選択を取っていたかも知れない。それほどまでに、産屋敷一族は長い間邪魔をしてきた。
しかしいざ対面してみると、激しい感情を抱けない。一体どういう現象なのか、少なくとも無惨の知識には該当するものがなかった。
「しかしなんとも」
屋敷の中へ土足で入り込む。
産屋敷は愚か、その妻も止めようとはしなかった。恐らく、意味がないからだろう。この状況で無惨から逃げる術はない、という意味ではない。何をする必要も無く、遠からず産屋敷は死ぬ。
布団の上に転がされ静かにしている彼からは、強烈な死臭と血の匂いが漂っていた。
一体どんな病を患っているのかは知らない。少なくとも体表の大部分は崩れているのは分かった。裂けた皮膚から血が滲み、それは体中を包帯で覆わなければならないほど。体の衰弱も相当なものだが、顔面はもっと酷い。口、鼻、目、耳、あらゆる穴から腐敗臭じみたものが漂っていた。
「散々私を邪魔してきた男がこの様とは。なんとも無様で、そして拍子抜けだ」
「これは天罰なんだよ、鬼舞辻無惨。君は知っているかな? 産屋敷は君の血族なんだ。君が鬼に堕ち、天に唾を吐き付けた。だから産屋敷は代々病弱で、誰も彼も三十を前に死んでしまう。君への天罰が、巡り巡って私たちに振ってきているのさ」
「なんだそれは」
あまりの言葉に、鼻で笑って返す。
「詭弁か? 言い訳か? それとも私のせいにして我が身の不幸を慰めているのか? あまりに下らなくてため息も出ない。それを何と言うのか教えてやろう。八つ当たりだ」
「なんと言われようと、私は在るべき姿に戻す。今もなお、人へとまき散らされている呪いを解く為に」
「呪い? 呪いだと? なんと愚かな。哀れに思えてきたよ、産屋敷。呪いなどというものは存在しない」
つまらない妄言を吐き散らす男が心底哀れに思えてきた。同時に嫌悪も。
「世に鬼が生み出された。鬼は人を喰わなければ生きていけない。だから喰っている、ただそれだけの事だとなぜ分からない。今まで人は喰う側にしかいないという幸運に恵まれていた。鬼の登場でそれが終わっただけでしかないのに。詭弁ですらないぞ。貴様はただの気狂いだ」
「ならばどうして、君は太陽を克服しようなどと思ったんだい? 君の弁で言うならば、それこそが正しい形だ」
思わず反撃に、息を詰まらせる。
「配下の鬼を生み出す必要なんてなかった。生み出した存在を支配する必要も。山のような鬼を作り続け、適正のない者は自滅させ、配下には自分の名を呼ばせる事すら許さない。そこまでして、太陽を克服する事に拘っている。君の行動は、全く以て弱肉強食の理に沿ったものなんかじゃないんだ」
静かに穏やかに、しかし絶対の自信を持って告げる。
「全ての要因は、鬼舞辻無惨ただ一個人の為にある、ただの傲慢だ。欲望のため踏みつけにしてきた者達の怨みが集まって、今があるんだ。正当化なんてさせないよ」
少しばかり、苛立ちを外に漏らしながら遮った。
「だったら何だ? それこそ強い者がものを言わせるのは、人の世の習わしだ。そいつらは、弱いから何も守れなかった」
「その通り。だから奪われた者が剣士となって、強欲な強者に逆らうんだ。もう分かっているんだろう? 鬼殺隊は、君が思うほど弱くないんだ」
「口の減らない……」
しかし、間違いではない。
あの思い返すのも忌々しい男――継国縁壱。あれが息絶えた事で、最盛期を迎えていた鬼殺隊は一気に衰退した。しかし一度生まれた呼吸の技術は絶えず、以降数百年、連々と受け継がれている。その中のどこかで、柱という役職も生まれた。
故に無惨は十二鬼月を編成した。一番面倒な柱を排除するための強い鬼を。結局、下弦の鬼は大して役に立たなかったが、まあ上弦共はそれなりに役割を果たしていたと言える。事実、最初期の木っ端までもが上弦入りしていた頃はともかく、百年以上と内部の入れ替わり以外で上弦の鬼が変わる事はなかった。
均衡が崩れたのは、本当に最近。上弦が立て続けに三匹も討たれた。いくら数を頼りにしていたと言っても、上弦の鬼にまで届く刃となったのは看過できない。
柱が上弦の鬼を倒せる程強くなったと同時期に太陽を克服した鬼が生まれたのは、どこか運命の皮肉を感じた。
「だったらなおのこと、竈門禰豆子を渡せ。あれさえいれば、もう余計な鬼を作る必要などない。私としても、目障りな私以外の鬼など産みたくないのだからな」
「分かっていて聞いているんだろう? 要求には応えられないよ。人を塵とすらも思っていない君が完全な永遠を手に入れて、次にする事は何だい? 静かに慎ましやかに生きていくと思うほど、私も私の子達も暢気ではない」
産屋敷が妻に手伝われながら体を持ち上げ、睨む。目など見えていないだろうに、正確にこちらを射貫いていた。
「君が太陽を克服してしまえば、今度こそ残虐性に歯止めが利かなくなるだろう。私の予想では、人にとって最高の結果でも、自分を頂点とした独裁国家を作ると見ているよ」
「私が使ってやろうと言うのだ。感謝したまえ」
「人間に鬼はいらないと、そう言っている」
無惨は疲れから肩を落として嘆息した。
「平行線だ」
「分かっていた事だろう?」
「ふん。元より貴様に理解を求めるつもりなどない」
などと言いはするものの。最初はそれこそ、ここまで話をしてやるつもりもなかった。
産屋敷個人に力など無い。まあ鬼殺隊を編成し、それを代々受け継いできた事くらいは褒めてやってもいい。が、それだけ。こんな半死体の男、何の価値もない。ない、はずだ。
喉を少しつまんだだけで死ぬ。ただ死ぬ事だけを望むなら、放置だっていい。奴の言葉などただの戯言だ。言には産屋敷の理しかない。無惨にとっての理は、全く別の位置にある。どちらが正しいという事はなく、どちらが押し通せるか、それだけ。
噛み合わないのならば排除するしかないし、とっとと排除すればいい。なのに、目の前の男の話を聞かなければいけないと思わせる、妙な感覚が染みこんでいた。
殺意も敵意も持っている。すぐに滅ぼしたい因縁も。しかし、実行をなんとなく止めてしまっている。気色の悪い感覚だった。不快感を一切感じないのが余計に。
(こいつらもそうだ)
思いながら、視線を庭へとやった。
そこには二人の子供が居る。無惨は全く意に介していなかったが、子供らは宿敵の登場に動揺する事もなく、まるでそうして当然かのように会釈し招いてきた。
今は何のつもりだか知らないが、唄など歌いながら手鞠遊びをしている。顔立ちからして、これらも産屋敷の人間だろう。何のつもりかは分からないが、少なくとも無意味な行動ではない。いかにもそこらのガキに見えて、腹の中ではずっと何かを企んでいる。歴代の産屋敷がそうだったように。
産屋敷の人間に、頭の出来に差はあれど覚悟のない阿呆は一人としていない。その程度には認めていたし、そうでなければとっくに滅ぼせていただろう。
いつ殺されるとも分からないだろうに。この無駄話が終われば確実な死が待つと分からない訳もないだろうに。なのにこいつらは寂然としており、殺意はおろか敵意すら感じない。当然、恐怖も。現在この屋敷にいる四人全員、生かされるはずもないと分かっていながら。
(落ち着け、惑わされるな。私が来ると考えていたのならば、こいつらは必ず罠を張っている)
ふ、と小さな吐息。
(何を企んでいようと意味は無い。今の私は限りなく完璧に近い。後は太陽だけ、それこそ今なら継国縁壱が来たところで無為な程に完成された。後は太陽さえ克服すれば、私は唯一無二の、それこそ神が如き存在になる)
日輪刀ごとき細やかな太陽の残りカスでは自分を殺せない。確証はないが、確信は持っていた。
産屋敷のぼやけた話に付き合いすぎて、少しばかり繊細になっていたのだろうか。
持つ者が暴虐を振るうのは当然のことだ。それはもはや権ですらなく、摂理そのもの。そんなことは公家や武家が廃れた今でも変わらない。かつての特権階級が商人と入れ替わっただけ。人権などというものは所詮、犬を飼い慣らすための餌だ。昔と同じように首輪で繋がれていることに気付きにくくしたに過ぎない。
なればこそ、そういった連中のさらに上に無惨が君臨するのは至極当然のことだ。道理を理解していないのは間違いなく産屋敷であり、その飼い犬達たる鬼殺隊。今更天意などというつもりはないが、とにかく当り前を行っているのはこちらの方だ。そこに正義など必要ない。
こほ、と小さく咳き込む音。産屋敷がそのか細い吐息とは裏腹に、結構な量の血を吐いた。
「君は本気で理解していないんだね。その先に永遠などないと」
「また妄言か」
切り捨てつつも、殺しはしない。ここで手を出してしまえば、なんとなく負けた気になってしまう。それはとてもつまらない。
もっとも、別に言い負かそうと思っている訳でもないのだが。好きなように喋らせるだけ喋らせて、最後には殺す。所詮、戯れの延長だ。
「不老不死になった所で、所詮は個だ。そんなものは永遠ではない。君が目指しているものはね、そこらにある石ころと変わりないんだよ」
「愚かな……。ただ一人、特別であるが故の絶対者だ。そこらの凡百が同列である事こそが異常なのだ」
「……悲しいね。君は誰も顧みず、誰にも顧みられず生きてきたんだ。だからそれがどれだけ価値のないものか知ることもできない。それは――死んでいるのと変わらないよ」
「つまらん生死観だ。生臭坊主の説法と大差ない」
「真の不滅とは、人の想いなんだ。引き継がれるそれは決して色褪せる事はない。証明したのは他ならぬ鬼舞辻無惨、君自身だ」
「その理想論の為にお前は死ぬか」
「もう一度言おう。私個人の生死は全く重要ではない。私の意思は子供達に引き継がれ、必ずや君を滅ぼすのだから」
無惨は肩を落とし、小さく頭を振った。また平行線だ。
「分かってはいたが、無意味な時間だったな」
「なら無意味ついでにもう一つ聞かせて貰いたいな。君が死ねば、鬼も全て消える。そうだろう?」
「そうだ。だから何だ?」
どうでもいい話だ。
元々、自分以外の鬼は嫌いだった。己と同列に並べられる存在など反吐が出る。だから鬼を作るとき、あらゆる制約を課し生殺与奪の権を握っていた。自分が死ねば鬼が全滅するのも、わざわざそうしたのではなく、諸々の結果そうなっただけでしかない。
実際、太陽を克服した後は気に入った鬼以外は全て始末するつもりだった。まあ、今のところ一匹も生かしていいとは思っていないが。
あり得ない仮定として、自分が死んだ後。そもそも鬼などどうでもいいのだ。
すげない答えに、しかし産屋敷は微笑む。
「君にとってはどうでもいい話だろうけどね、我々にとっては朗報だよ。なにせ、君さえ殺せれば全ての事柄に始末が付く」
「つくづく、夢物語をほざくのが好きな奴だ」
けふ、こふ、とまたもや咳。今度の吐血量は先ほどより多い。
顔を上げた男の顔は、血に塗れて凄惨だった。場違いな微笑みが一層際立たせている。
「さて。つまらない話と、時間稼ぎに付き合ってくれてありがとう。私はもう死ぬだろう」
「違うな。殺されるのだ」
止めていた歩みを再開して、ゆっくりと近づいていく。
「なぜわざわざ私が貴様の元まで来てやったと思っている? ただ殺すだけなら、そこらの鬼を放つだけでよかったのに。貴様を喰うために、わざわざこんな場所まで来てやったのだ。記憶の中にある、竈門禰豆子の位置を抜き取るために」
わざわざ一人で足を運んだのはそのためだ。万が一にも、他の鬼に出し抜かれる訳にはいかない。
どういった理由かは不明だが、竈門禰豆子は鬼の呪縛から逃れている。万が一、竈門禰豆子を喰った鬼が太陽を克服するという特性と同時に、呪縛の解除まで引き継いでしまったら。そいつが逃げだし、見失ってしまったら。今までの全てが徒労となる。
どれだけ面倒でも、こればかりは他人に任せられなかった。
「私は何も知らないよ。適任者に任せているさ」
「ならば次はそいつを喰えばいい。そうすれば居場所などすぐに割れる」
今までの長広舌とは比べものにならない、なんともつまらぬ辞世の言葉を聞き流しながら。伸ばした右手で頭に触れようとした、その時。いきなり複数の気配が、屋敷の中へと飛び込んできた。
(速い。柱か)
これが産屋敷の考えた罠か、と一瞬考えたが。すぐに否定する。ここまで派手に引きつけておきながらただの奇襲というのは、あまりにも稚拙すぎだ。
何か別の狙いがある。そう見ていいだろう。
闖入者の中でも突出した速度を持つ一人が、こちらへと真っ直ぐ突っ込んでくる。まずはそいつから始末しようと手を振って、しかしそれは掠りもしなかった。
(?)
思わず眉をひそめる。
攻撃は避けられたのではない。そもそも位置が見当違いだったのだ。
無惨は真っ直ぐ攻撃してくると予想していたが、黄色い髪をしたそいつ――確か玉壺を倒した奴だ。善逸とか言ったか――はこちらなど見向きもせず脇を通り抜けた。鬼の王たる無惨をして速いと言い切れる速度で背後へと回り込む。
何のつもりだか知らないが無駄だ。確かに速度だけは見るべき所があるものの、根本的に総合的な数字が違う。打撃を与える前に感知された以上、人間ごときに出し抜かれる事はあり得ない。
今度こそ命を刈り取ろうとして。しかしその前に、差し迫ったものがあった。
黄色頭より一歩遅れて、巨大で煌々と赤熱した何かが迫ってくる。こちらは間違いなく無惨を狙って。
左手でそれを受け止め、即座に舌打ちする。
(熱い……! これは猗窩座の邪魔をした力か!)
気色の悪い童磨と違い、猗窩座にはとても期待をしていた。実際、記憶を取り戻した点を加味しても、彼は期待に応えたと言っていいだろう。実力を黒死牟に匹敵するまで高めたのは元より、何より己の存在を鬼より高次元の何かへと変化させかけていた。生き残って入れば、さぞやいい素材になっていただろう。
順当に行けば、猗窩座が勝つ筈だった。別所にいた者も含めて、実に四匹もの柱を始末して帰ってきただろう。そうならなかったのは、あの忌々しき耳飾りを引き継いだ糞餓鬼、竈門炭治郎が日輪刀を燃えさかる何かに変えて、猗窩座を縛ったからだ。
(再現性のある力だとは思っていたが……まさかここまで簡単に実用化できるものだとはな)
飛んできた、棘の付いた大きな鉄球そのものはたいしたことない。せいぜい肘近くまで潰れた程度だ。だがそれ(見たまま赫刀とでも呼称しようか)は、確かに無惨へと痛みを与えていた。質こそ比べものにならないが、かつてあの忌まわしき継国縁壱が使っていたものと同質だろう。
実に数百年ぶりの感覚、怒りよりも驚きが勝る。懐かしいそれを味わってやってもいいのだが。次に考えるべきは次手だ。もはや脅威でなくなった鉄球を振り払い、背後へと視線を向ける。黄色頭が何かしらを仕掛けてくると確信して。
しかし。そこにあったのは、予想外の光景だった。
黄色頭が産屋敷とその妻を小脇に抱えている。二人の顔に映し出されているのは驚嘆。
(これは産屋敷にとっても想定外の事なのか? いや、それすら嘘の可能性もある)
産屋敷を優先すべきか、それとも敵の思惑に乗らない事を優先すべきか。逡巡は一瞬だったが、それが失敗だった。恐らく隊士の中で最も速力に優れているだろう黄色頭にとっては、瞬きの隙でも十分。すぐに即始末できない距離へと離脱した。
うんざりとしながら、内心呟く。
(これだからつまらぬ野蛮は嫌なのだ。どうでもいい事でいちいち煩わされなければならん。そのため、戦闘に適した鬼どもを集めていると言うのに)
一度逃がされれば、追うのに手間がかかる。無論、産屋敷の吸収を諦めた訳ではない。ただ、業腹な事に一端棚上げせねばならないのも変わりなかった。
(急ぐな。余計な事を考えるな。鬼狩りどもを殺して回ればいいという状況は何も分かっていない)
気配を探ると、庭にいた子供二人も回収されたらしい。まあそちらは跡継ぎでもないだろうから心底どうでもいいが。
あっという間に産屋敷邸は無惨ただ一人になってしまった。
今更逃げ出してどうするつもりか。鬼殺隊ほぼ全員の所在地把握は既に終えている。仮に血鬼術の発動できない昼に移動したとしても、さすがに全員を雲隠れさせる事は不可能だろう。後は、分かっている相手から再度追跡すればいいだけ。
盤上に駒が出揃ったと確信したからこそ動いたのだ。こんなことは延命にもならない。それを予想していない筈もないだろうに。
結局の所、意図が掴めない。どうにも動きがちぐはぐ、それに尽きる。
「まあいい」
まだ夜になったばかり。鬼の招集と強化も既に終わっている。奴らが逃げるならば、囲んで閉じ込めるなりしてしまえばいい。
そんな事を考えながら後を追おうとして。
唐突に、紅蓮の世界へと引きずり込まれた。