獪岳と善逸 作:山筋
一時前までより大分進みやすくなった。つい先ほどまでは図面の制作すら困難だったのが、唐突な鬼の奇襲頻度すら減っている。
(三人の内誰かが、転移鬼を捉えたのかな)
ぼんやりとした表情のまま、無一郎は考える。
鬼の作り出した空間に無惨が逃げ込むというのは、予想された展開の一つだ。地上であればともかく、鬼の作り出した世界であれば彼らの価値が大きく変わる。三人が柱になったのは、ある種の天恵だろう。
この血鬼術は、いくつかの候補の内、何かを生み出す類いなのではないかと無一郎は考えている。血鬼術の本体はあくまでこの異空間であり、移動させる能力の方はおまけというか副作用なのだろう。鬼を派遣する以外に攻撃が飛んでこないあたり、そう大きな間違いはあるまい。
この手の術は通常の感覚を狂わせる。つまり
事態は確実に進んでいる。どちらに転んでいるかまでは、まだ判断できないけれども。
(僕もそろそろ状況を変えたいんだけど……)
異空間に来てから向こう、既に柱になれるだけの鬼を斬ってきた。が、そんなも、所詮は雑兵。鬼舞辻無惨か、最低でも上弦の鬼と戦わなければ意味が無い。
(ここ、どれだけ広いんだろ)
感情の起伏に乏しい自覚はあるが、そんな彼ですらいい加減うんざりしそうになる。
ここに来てからどれだけ走らされたのか。
特徴的すぎて代わり映えのしない風景に、上下左右、法則性無く作られている道。おまけに気を抜くとどこかへ飛ばされる。そんな中で距離感がどれだけ役に立つかなど分からないが、もう小山一つ超えかねない程には進んだだろう。
相手の理想は、上弦の鬼と柱の一対一を繰り返すこと。対してこちらは多対一に持ち込みたい。面倒くさい事この上なかった。
(僕の所へ襲いかかってくればいいのに)
とは柱全員が考えている事だろう。いや、善逸だけはそうでもないか。
とにかく、今は頭の悪い鼠みたくひたすら走り回るしかない。そう考えていた所で。無一郎は反射的に戦闘態勢を持った。
何かが近づいて来ていると気付いたのは、呼吸を深めた後だ。巨大な気配を隠しもしない、それでいてどこか自然に溶け込ませるようなもの。かなりの速度で迫ってきている。
十中八九柱の誰かだろうと思ったが、油断はしない。他者に擬態する力を持った鬼という可能性もなくはないのだから。
構えてどれほどもしないうちにやってきたのは伊之助だった。相変わらず猪の被り物に、鋸刃を振り回している。
「誰かと思ったら無表情じゃねえか」
「無一郎ね」
軽く訂正する。
とりあえず鬼ではないようだと安心する。さすがに声が届く距離なら気配を読み違えたりしない。仮にそこまで高度な欺瞞であるならば、早かれ遅かれだ。
出会っても伊之助は足を止めなかった為に、無一郎も続く。
「鬼の方へ向かってるの?」
「おう! 上弦の伍を見付けたんだけどな、途中でギョロ目おやじが来て任せろっつうから押しつけてきたぜ!」
「ギョロ目おやじ……?」
誰の事だろう、と頭を捻る。そう言えば、彼は杏寿郎をそんな風に呼んでいたような。
「知ってっか? 上弦の伍は生きてたんだぜ。紋逸の野郎、倒したとか言ってたが生きてたみてえだ。失敗してやんの、ゲハハ! つうか姿まで違った。何が壺の化け物だ、琵琶を持った女じゃねえか」
どうでもいい妄想は聞き流すとして。
順当に考えれば、欠落した上弦の伍――確か玉壺と言ったか。それに変わって任命されたのだろう。恐らくはこの空間を維持している主だ。彼が上弦の伍と交戦したために術が滞ったという所か。であれば、今は妨害を杏寿郎が担当している。
「で、行き先は?」
「一番でけえ気配をビリビリさせてる奴のとこだ。そいつが最強だろうからな」
「ふうん」
と言うことは、上弦の鬼へ向かっているのだろう。無惨は今、毒を喰らっているだろうから、目立つ真似はすまい。もっとも、無惨は太陽以外では殺せないと考えられている。見付けた所で、下手につつくべきではない。
上弦の陸は善逸が真っ先に接触した。上弦の伍は今し方聞いたばかりだし、残るは壱と肆……
「カアアァ! 蛇柱、上弦ノ肆ト交戦中! 上弦ノ壱捜索ニ注力スベシ!」
今の連絡で肆の目はなくなった。と言うことは、消去法で上弦の壱になる。
暫く走っていると。何故か伊之助が振り返り、とぼけた事を聞いてくる。
「なんだお前、ついてくんのか」
「そりゃ行くでしょ」
思わず何言ってんだという面持ちで返す。
各個撃破を狙いたいのはどちらも同じ。都合良く肆、伍、陸を柱が一人ずつ相手しているならば、残りの総力を以て上弦の壱を叩くべきだ。というか、こんなことは事前の会議でも話した筈だが。
伊之助はこちらから自然を外した。というか、何か考えているようだった。走りながら首を捻り、うんうんとうなりなどもしつつ。最終的に何かへ至った……かどうかは知らないが、ともあれ考えるのは止めたようだ。
「まあいいか。俺様についてこい、ハハハハハ!」
「何なのさっきから」
まるで意味が分からない。
実のところ、伊之助には感謝しているし、勝手に恩義も感じている。偶然とは言え、失われた記憶を取り戻させてくれたのだから。特に兄の言葉は、絶対に忘れるべきではなかったもの。言葉を尽くしてもなお足りない。
だが、それはそれとして彼の人となりを掴みきれずにいた。何というか、こう、どうしても噛み合わない。多分、見ている世界が違うのだろう。前から頻繁に主張している『強さ』への拘りは、彼に理解できないものだった。
無一郎が強くなったのは、あくまでお館様に恩義を返すため――今となっては、兄の弔いという意味もあるが――役に立てるなら戦う必要だってなかった。たまたま一番向いていたのが隊士だった、それだけの話でしかない。
(多分、上弦の壱を一人で倒すとか考えてたんだろうな)
無謀極まる目論見だ。いっそ頭の病気を疑うほどに。
ほとんど一人で倒した前上弦の伍たる玉壺も、かなり玄弥が手助けしている。まあ語ったのが善逸であるため、大げさに玄弥を持ち上げた(もしくは押しつけた)可能性も低くないが。ましてや上弦の弐と参など、柱数人がかりでも勝利はかなり運の要素に助けられている。それらを超える鬼に単独で当たろうなど、無謀もいいところだ。
そういった意味では、ここで合流できてよかった。あやうく貴重な柱を無意味に一人失う所だったのだから。
進んでいくうちに気付く。伊之助の足が鈍っている。
「どうしたの?」
ぱっと見だが、彼に外傷はない。今までの事を考えれば、疲労という事もないだろう。
いや。足が重くなっているというよりは、押し返されている、そんな表現の方が正しい気がした。まるで強力な向かい風の中を、無理矢理かき分けて進んでいるように。
「おめぇは……いや、分かんねえか。どうせもうすぐ気付く」
意味を理解できずに、首を傾げる。
まあ不調でないならいいか、と割り切るしかなかった。これが決戦でなければ、撤退して貰うという選択肢もあったろうが。残念ながら、ここには安全圏すら存在しない。
などと暢気なことを考えられていたのは、ほんの少しだけだった。
変化は唐突だ。いきなり、全身の毛が総毛立つ。何事かと考える暇も無く、次は寒気がした。それらの正体が剣気によるものだと気付いたのは、暫く経ってからだ。とてつもない、というよりは途方もない重圧。それこそ最強たる悲鳴嶼行冥すらをも軽く凌駕する。
足が竦む。体が前に出ようとしてくれない。本能が全力で逃げろと叫んでいる……
言う事を聞かない体を動かすには、かなりの労力が必要だった。一歩ごとに精神を鑢にかけられるような感覚。上弦の壱を目視すれば、その程度では済まないだろう。が、それらより驚いたのは。
(とんでもない精神力だ)
伊之助に対して。
彼が人間離れした触覚を持っているのは知っている。鈍感な無一郎ですらここまで感じるのだ。伊之助にとっては全身を針で突き刺されているに等しいだろう。
超人的な感覚を持つことに対し、無邪気にうらやましいなどと思っていた自分を恥じる。今までずっと、鬼を見付けるのに便利だ位にしか考えていなかった。彼らはずっと、こういった世界で逃げる事もできずに戦っていたのだ。
怖気はどんどん増していく。そこに居るだけで死ぬのではないだろうかと思える程になっていた。
「付くぞ!」
「うん、分かるよ」
言葉と共に、伊之助が大げさな扉を蹴破る。
内部は、これまでの部屋とは趣が違った。そこら中に柱が立っており、それらは二本一対として設えられ、頭の高さより少し低い程度の位置で仕切られている。ほぼ正方形の間取りで、大体道場の倍くらいの広さ。つまりは上弦の壱が柱と戦うのに十分な大きさとしてこうなったのだろう。天井はとてつもなく高い。
そして、部屋の中心に。
化け物がいた。
これまで相対した鬼など比べものにならない怪物。近づいただけで全身をなます斬りにされそうな様すらある。
それは、一言で言うなら異形の武士だった。衣服こそ熨斗目に袴で刀を佩くといった、時代は感じさせるもののそう突飛なものではない。少なくとも他の鬼と比べれば。体も長身である以外は人間そのものであり、鬼を感じさせない。
顔だ。本来二つであるべき目が六つある。人間を辞めた、いっそ狂気的な顔でありながら静謐な空気を纏っているのに、感覚を狂わされる。圧力と空気、どちらを信じればいいのか分からなくなった。今までの経験や柱としての自信、全てを否定された気さえする。
既に戦闘態勢を取っているこちらに対し、上弦の壱――黒死牟は柄に手を触れさえしない。ただうっすらと首を動かし、こちらを一瞥しただけだった。
(何者……? いや、最低でも武士、最悪だと元隊士)
即座に当たりを付ける。これは全くの勘だが、後者だと思った。なんとなく、佇まいがそう感じさせる。
多分、一人だけだったならここまで冷静に考えられなかっただろう。一人でも仲間が側に居るという事実が、正常な思考を働かせた。単独で接触していたら、迂闊に攻撃圏へと入って手痛い反撃を貰わなかった自信が無い。
ぞっとするほどの寒気が満たす中、伊之助は気丈に刀を向けて叫んだ。
「おうおう! てめーが上弦の壱だな! 確か
「……黒死牟だ」
どこか冷めた様子で、黒死牟。いや、これは生まれ持った気質か。
伊之助が割り込んでくれた事で、一息入れる余裕が出来た。そのことに感謝し、全集中の呼吸とは違う深呼吸をする。それだけで、無一郎の中から余計な全てが消えて無くなった。
記憶を無くし、自我もが薄まって。その中で得たものの一つ。精神制御――つまりはいついかなる時も心を最良の状態に持っていく能力。
剣を持って半年で柱になった。つい最近の事だ。経験で言うなら、それこそ新人三人よりも浅いだろう。
不足が多い中、彼が自信をもってこれだけは誰の追随も許さないと言えるのがそれだった。平静を保っていると騙せれば戦える。
とはいえ。
黒死牟は血鬼術まで死んでいった隊士が残しているものの、それ以上の情報は無い。多分、直接対峙したナントカさん(カイガクだったか?)は、もっと詳しく分かっていたのだろうが。悲しいかな、内約を理解できるだけの実力を持った者は、全員戦死している。もっとも、手足を失い失血死寸前で朦朧としていた相手にそれを望むのは酷かもしれないが。
完全に手札を暴いておきながら、周囲の未熟で完全に残せなかったというのは、皮肉としか言いようが無かった。
(できれば、時間稼ぎも兼ねてもう少し探りを入れたい所だけど……)
鎹鴉はここに来る前の時点で放っており、そのうち他の柱もやってくるだろう。
ただ、無一郎には見ず知らずの相手が興味を引きそうな話を振るなどという高度な真似はできなかった。むしろ会話そのものが苦手である。それは記憶を失う前も同じで、よく兄を怒らせていた。単純に相手に合わせた話し方というのが分からない。冨岡義勇にも並ぶ口下手さを放置していたツケがここで回ってきた。さすがに彼ほど露骨に嫌われてはいないが。
結果として、無一郎の心配は杞憂だった。伊之助が我関せずとガンガン突っ込んでいった為に。
「やい! お前元隊士か!?」
「然り……」
「なら柱だろ? ビリビリ来やがる、一発で分かったぜ」
「其れもまた……是である……」
こういう時、相方がおしゃべりだと楽でいいな、とどうでもいい事を考えた。とにかく、観察に集中できるのは有り難い。
「元隊士の鬼は……許せぬ……?」
「あ? 知らね。お前の事情になんか興味ねえし。重要なのはお前が最強の鬼で、それを倒せば俺が最強だって事だ!」
「成る程……解りやすい。不可能であるという点を除けば……。獣気を纏う柱か……面白い者も……いるものだ……」
言葉はぼそぼそとしているようだが、裏腹に透き通ってもいた。やけによく響く。ここが静かだというのもあるだろうが。
受ける印象としては、悲鳴嶼行冥が近いかも知れない。
「そこのお前も……」
と、いきなり黒死牟がこちらへと視線を向けた。
思わず(嫌悪感もあって)眉をひそめる。
「僕?」
「気に覚えがある……懐かしい……。名は何だ……?」
「……時透無一郎」
ふむ、と黒死牟は軽く顎を撫でた。
それが隙であったならば、無一郎は躊躇することなく斬りかかっていただろう。実際、いつでも型を発動できるようにはしているのだ。霞の呼吸は、比較的距離が空いても有効なものでもあるし。
攻勢は、すぐ否定せざるを得なかった。斬りかかった瞬間、逆に胴体を裂かれる自分が確かに見えた。確かに彼のそれは油断であるし、隙でもあったのだろう。ただし、その程度、ものともしない程に実力差があるというだけで。
こんな状態ですら勝てる姿が思い浮かばないというのは厄介な事だ。殺し方が解らないだけならば、対抗のしようというのもある。しかし彼我にあるのは、純然たる実力差による隔絶。正に打てる手がない。というか、そもそも対抗する手段があるのかという気さえしてくる。いくら戦う気概を取り戻したとしても、ただの一合で斬り伏せられたのでは意味が無い。
「振る舞いにも……少しばかり残っている……か……」
「さっきから何の話?」
「血の話だ……」
さっきからずっと、全く意味が分からない。
(無意味な事を言って惑わせようとしている?)
そういった類いの者ではないと分かっていても考えてしまうのは。言葉を一人で完結させているからだろう。
都合がいいと言えばいいのだが、さすがに意味深すぎて不気味だ。
「分からぬのも致し方なし……。お前は私の子孫だと言う事だ……。もっとも……『継国』という名は途絶えて久しいらしい」
「だから?」
興味ないように答えはしたものの、態度ほど内心は穏やかではなかった。
自分の先祖が鬼である……いや、さすがにこれは穿ちすぎか。人間だった頃に作った子供だろう。先祖がどうだったからと言って恥や屈辱を感じるほど潔癖症ではないが、さすがにいい気もしない。そして当り前に、剣才が彼譲りだったからといって、感謝もなかった。
黒死牟の視線が、意識ごと外れる。次の言葉は、語りかけていると言うより独り言に近かった。
「上弦……さすがに減りすぎた……。私の血族であれば……鬼の才もあるだろう。あのお方に上申してみるか……」
「人を無視して話を進めないでよ」
「お前の意思など……些事極まる……。とはいえ……まずは試すか。死んだならばそれまで……」
黒死牟が刀に手をかける。小さく舌打ちした。
稼げた時間はさほど長くない。とはいえ、いきなり刃を交えていた可能性を考えれば、あまり文句を言えるものでもないだろう。距離や道順にもよるが、足の速い天元ならば、そうかからず到着するはずだ。
呼吸を作り直しながら、切っ先を僅かに落とす。霞の呼吸において最大の力を発揮する位置――から少し下に。攻撃よりも防御を意識した。伊之助は、いっそ融通が利かないくらい前のめりなので、この方がいいと判断した。
余計な自己主張はしない。どうしたって攻撃それ自体は伊之助の方が上手いのだから。任せてしまった方がいい。
(剣は抜かさせない――!)
霞の呼吸 肆ノ型 移流斬り
強烈な緩急を付けた状態で接近。胴体半ばほどまでを薙ぐ気持ちで振り切る。本当に斬れるとまでは期待していなかった。最悪、柄から指を離させられればそれでいい。二の備えには伊之助が居る。
そして、無一郎の刀は空を切った。
(…………!)
攻撃を避けられたどころの話ではない。そこには誰もいなかった。
視線など切ってなどいない。寸前まで、確かにそこにいた。頭が混乱する。
敵を見失った状態で突っ立っている程、無一郎は間抜けではない。しかし、どこに居るのかも分からない状態では単純に飛び退くくらいの事しかできなかった。動きつつ、すぐに周囲を見回す。
「ラぁ!」
伊之助が、無一郎がいたのとは全く別の方向に飛びかかっていた。進行方向を追えば、柱に隠れて見えづらいが確かに黒死牟がいる。
放たれる獣牙。どんな獲物でも食い破る必殺の刃はしかし。次の瞬間、伊之助は仰向けにひっくり返っていた。
彼自身、何が起こったか分からない様子だった。目を白黒させているのが被り物ごしにも分かる。刀は振り切っており、攻撃を受けたわけでもない。ただ、そうなるのが当り前かのように転がされている……
俯瞰して見ていた無一郎だからこそ気づけた。黒死牟は切っ先を掴んで投げたのだ。いや、それを投げたと表現して正しいのかは分からない。伊之助が作った力を乱して崩したというのは、ある種の理想論でありただの夢想だ。
遮二無二斬りかかる。ほとんど捨て身だった。そうしなければ、間違いなく伊之助は殺されていただろう。
そして、また黒死牟は消える。
今度はしっかり観察していたにも関わらず、またしても目で追う事はできなかった。剣が当たる直前に、まるで最初からそこに居なかったかのように失せる。
無一郎は足を止めて構える。とにかく伊之助が立つまでの数秒、時間を稼がなければならない。相手の位置が分からず、無防備な仲間まで背負っている。そんな姿を上弦の壱相手にさらすのは、極端に神経が摩耗した。
幸いに……かどうかは分からないが、追撃はなかった。黒死牟は、最初そうであったのと同じく緩やかに、しかし重苦しい空気を発しながら佇んでいる。
とりあえず、すぐに始末する気は無いらしい。これだけの実力差、殺すだけならいつでも出来たはずだ。どういうつもりかまでは知らないが。
これだけの力を見せられれば、さすがに伊之助も無駄口は叩かない。力を感じ取っただけなのと、実際に味わったのとでは違うのだろうか。
(瞬間移動の血鬼術?)
さすがに二度も見失えば、可能性を考慮しない訳にはいかない。
入ってきた情報では、血鬼術は一種類だった。甲以下と柱二人の戦力差、見せざるをえなかったと無理矢理こじつける事も不可能ではないが。直感でしかないものの、多分違うだろうと否定する。
(今のはただの足捌きだ。ただ、こちらが認識できない異次元の技量だっただけで)
ただ歩く、走るという動作に、思わず寒気がする。
黒死牟と対峙した甲は雷の呼吸の使い手で、確か善逸の兄弟子だったか。ということは、速度で強引に引っかき回したため有効でなかった、というあたりか。後は、共闘した上弦の弐の血鬼術が邪魔だったという可能性もある。
なんであれ分かったのは、たった二人では全く相手にならないという事だ。
戦慄するこちらをよそに、黒死牟はどこかぼんやりとこちらを見ていた。
「悪くはない……が、取り立てて良くもなし……。やはり最有力は……あの男の兄弟弟子だという……鳴柱か。さすがに上弦も減りすぎた……。やはり……戦って生き残った者を推挙すべき……か? 死んでしまったならば……それが運命だったというだけの事……」
呟きは、至極身勝手な算段だった。怒りは覚えたものの、吐き気を催す程ではない。
「伊之助」
ぽつりと、小声で話しかける。鬼の聴力を考えればあまり意味が無いかもしれないが、やらないよりはマシだ。
「時間稼ぎに徹するよ」
「ふざけんな……と言いてえ所だが。あれには勝てる気しねえ」
そうもなるだろう。剣士に刀なしで圧倒されれば。
現実問題としていつかは倒さなければならない敵ではあるものの、今すぐにというのは絶対無理だ。戦力を低下させない事だけを考えたら、今すぐ逃げるべきですらある。見失ったら今までの苦労が水の泡だし、そもそも逃がしてくれるわけもないので無意味な仮定ではあった。
上弦の弐は四人で倒していた。当時も三人は(さすがに今よりは弱いものの)柱と言っていい実力を持っていた。しかもあの時は上弦の弐に稚気があった上、しのぶのとっておきが上手く決まったからという要因が大きい。
(本当なら、誰かが来るまでに耐久力くらいは調べておきたかったけど……)
もたらされた情報は有益なものばかりだったが、それで全てを暴けたとは言いがたい。超人的な技量もそうだが、見ていた者が理解できていないものは伝えようがない。件の甲が生還していれば、また別の話だっただろうに。
一撃で倒せるような鬼ならば話は別だが、鬼を相手にした時、真っ先に調べるべきは血鬼術と耐久力だ。攻撃力は考慮されない。人間では、どうしたって触れられた時点でほぼ死ぬのだから。
素の強度と再生速度。概ね知りたいのはこの二点だ。
単純に硬い場合や、極端に柔軟性があって刃が通らない敵というのもごくたまに居る。再生能力はもっと厄介で、中には斬撃そのものが意味を成さない程に治癒が早い上弦の参みたいな例があった。どちらの場合でも、隊士そのものの天敵と言っていい。例外は、なんかひたすらにごっつい鉄球を振り回して何でもかんでも破壊する行冥くらいだろう。
さすがに防御力が上弦の参並という事はあるまいが、下弦以下だと思うのも、きっぱりと希望的観測だ。
(赫刀がどれだけ通用するのか……)
恐らく、焦点はそこだろう。どちらにとっても。
太陽の力を放出する日輪刀。対策を取っているかもしれないし、取りようがないものかもしれない。触れられなければ意味が無いというなら、既に対策済みとも言える。
柱で最高の技量を持つのが前水柱である冨岡義勇。彼の才能に鬼の中でも上位の身体能力、さらに数百年研鑽を詰める時間があったならば。足下にも及ばない事に関しては、納得するより他ない。
「伊之助。出し惜しみはなしだよ。全力で行く」
「おうよ!」
言って。最初に痣、次に赫刀を発現した。
本当ならば、痣は使わず数を頼りに倒せれば最上だった。痣は諸刃の剣だ。一時的に人間を超人に変えてくれるが、代わりに体力の消耗が激しい。どれだけの時間使っているかにもよるが、下手をしたら無惨と戦うときに無力となる。炭治郎は上弦の参と戦った時に、危うくこれで死にかけていた。痣は頼りになる技術だが、頼りすぎるのは危険。柱が全会一致で出した結論だ。
痣の者となった柱二人を見て。黒死牟は満足げに頷いた。
「其れで良い。今際の際を見定められぬようなら……すぐに斬っていた……」
言葉を聞ききる前に。無一郎と伊之助は、それぞれ別方向に飛んでいた。
室内がどういった意図を持って設計されたのか知らないが、せっかく障害物があるのだから利用させて貰う。六つの目を欺けるとはさすがに思っていないが、それでも剣筋を一瞬隠せるだけでもありがたい。
痣を発現した柱二人の波状攻撃。決して弱くはないはずだ。連携だって、伊之助と無一郎はそれなりに高い方である。呼吸の相性だって悪くない。にも関わらず、着物に一筋の切れ目を入れる事すら敵わなかった。
足捌きだけではない。技術一つ一つの練度が桁違いだ。軽く揺れただけのように見えて、制空権から紙一枚逃れている。軽く刃が交えたように見えてしかし、絶対に姿勢と威力が有利な状態だ。あらゆる技法で遙か後塵を拝しているのに、身体能力すら桁違い。
隊士の基本的な戦術は『奇襲』だ。とにかく相手の目や意識を掻い潜って頚を狙う。丙以上が普通の鬼を倒すときなどは真正面からねじ伏せる事もあるが、基本的には闇討ちである。これは、どうしたって人間では鬼の身体能力に並び立てないからだ。
人に比べて、鬼には必ず二つの利点がある。肉体と時間。
つまるところ、技術を極めた武人系の鬼に後れを取るのは当り前の事だった。それも、こちらのやり口を熟知している元隊士となればなおさら。
黒死牟はあららさまに全力ではなかったが、かといって殺さないようにと手心を加えている程でもない。例えるならば、そう、あまり気乗りしていない、その程度に見えた。彼にとっては、いかな柱と言えど赤子同然なのだろう。
(というか……)
垂天遠霞を放つ。渾身と言っていい一撃だ。
しかし、それは斜めから軽く合わされただけの剣に容易く弾かれる。はっきり言って、威力など何も無いように見える一撃なのに、まるで巨大な棍棒で叩かれたかのような衝撃だ。
(どんな技術ならこうなるの……!)
もはや技それ自体が神技を超えて妖術の領域だ。
救いと言えるのは、今のところ血鬼術を使ってこない点だろう。
実のところ血鬼術は、強力無比であればあるほど無条件で使用できるものではない。何気ないように見えて、必ずどこかに発動条件がある。
黒死牟のそれは予想がされている。高度な呼吸の使い手にのみ現れる、型に伴う幻影を物理的な影響力が持ったものにするというもの。つまり型の使用、ないしは本気の斬撃でしか出す事ができないのだろう。もっとも、あまり意味のない情報だと言ってしまえばそれまでだ。こちらは軽い一発を捌くのだって必死なのだから。
同時攻撃、時間差、前後、上下、左右……あらゆる方法を試してなお届かない。
これだけの力量差を見せ付けられて、血鬼術を使わせていないと自惚れる事はできなかった。使うまでもない、あっさりとそう判断されている。あるいは、使うほどこちらが強くないか。多分後者だろう。
普通に戦っても即死しない。しかし、その気にさせるほどにも強くはない。それが、奇しくも均衡を作っていた。
作っていた、という事は。全て黒死牟の胸三寸であり。
「ふむ……様子見は……もう良いか……」
そう思われてしまえば、あっさりと覆されるものでしかなかった。
彼は特別威圧したつもりなどないのだろう。しかし無一郎は――恐らく伊之助も――皮膚が引き裂けんばかりの鳥肌に襲われた。
月の呼吸――
そんな声が聞こえた気がした。
(あ……死ぬ……)
地に足がついた状態で。姿勢も万全でありながら。なおそんな確信を持たずにいられない。
六つの目がこちらを捉えている。死の宣告そのもの。
伊之助は吹き飛ばされ、派手に血をまき散らしながら宙を舞っている。死んでないのは分かるが、同時に助けも期待できない。
ぐゎん、と頭が揺れた。物理的なものではない。傾いた視界がやがて全く別の光景へ移り変わって、それが走馬灯と呼ばれる物だと気がついた。
幼少期。それも、兄と二人きりになってしまうずっと昔の話だ。
はっきり言って、ほとんど記憶にない。少なくとも鮮明では。父がいて、母がいて、兄がいて。それが世界の全てだと無邪気に思えていた。全員の顔がどこか水彩画の様に朧気で、自分は彼らを見上げている。
父は舞いの練習をしていて、三人がそれを眺める。祭りの時期が近かった、のだと思う。ここら辺も曖昧だ。よく憶えていないのにそう判断できるのは、習慣そのものは両親が生きていた頃からさほど変わっていないからだった。山間で、半ば人里を避けるように生きていた自分達にとって、祭りとは数少ない村人と交流ができる場。こういった所で何か出し物でもできなければ、本当に村八分とされてしまうのだと今なら分かる。
家には刀があった。といっても、さほど貴重なものではない。先祖が没落武家であり、浪人をしていた時期もあったので捨て損ねたというのが事実だ。実際、金に困った時、あっさりと手放しているし二束三文にしかならなかった。金属についた価値であり、とうに刀としては終わっていたのは明白だ。
ともあれ、刀と一緒に剣術も伝承していた。これもまた、幼心に何の価値があるのかと首を傾げたものが。
刀と違い、技は父の拙い腕でも洗練されたものだと分かった。
思えば。
片鱗は色々とあったのだろう。例えば、陸ノ型である霞消を洗練させ、月の霞消と改めた。何故月と名付けたのか。いくら三日月型の斬撃だと言っても、例えようは他にいくらでもあったはずだ。
月に思い入れがあった訳ではない。ただ、いつでもそこにあった。例え昼であっても、父の刀にそれが映し出されていた。
そう。無一郎はこれを
月の呼吸
ツクヨミ舞踊
細部は違えど、まるで鏡写しのように構え。ほぼ同時に一撃が放たれる。
闇月・宵の宮
「――ほう……」
刀同士が中間点で激突する。姿勢が同じならば、膂力で劣る無一郎が押し巻けるのは当り前だった。刀ごと大きく後退させられる。だがそれでも。
(無傷で乗り切った!)
右腕は痺れているし、胸元の切り傷も決して浅くはない。が、動きを阻害しない程度ならば、傷と言う程ではなかった。どのみち、体は朝まで持てばいい。
なんとか踏ん張って体勢を戻した無一郎に、今まではなかった色の視線を向けてくる黒死牟。
「月の呼吸……それも、私が改良する前に存在した古の……。そうか……呼吸も途絶えてはいなかったか……」
まじましとした様子はしかし、呼吸に対するものではないと分かっていた。興味は依然、無一郎の方へと向いている。
途中、伊之助が「隙アリいいいぃぃぃ!」と叫びながら突撃しひっくり返されていた。隙を突くつもりなら叫ばなければいいのに。いや、黒死牟を相手にしたら叫ぼうが叫ぶまいが、どのみちではあるだろうが。
「霞の呼吸を相手にした事はある……月の呼吸も……途絶えていないのなら使い手くらい、居るだろう……。だが……二種類の呼吸を……無理なく使い分ける隊士は初めて見る……」
どこか狂気すら感じさせる目が、無一郎を射貫く。今まで彼から感じていた、理性のような何かは消えていた。ある意味、今更やっと鬼らしくなった、と言えた。もしくは分かりやすい獣か。
「俄然……鬼にさせたくなった……」
「ならないよ」
「お前の意見など……聞いていない……。あのお方を前にすれば……何人だろうとも塵芥に同じ……」
物言いに、思わず眉をひそめた。自分が道具扱いされたからではない。言葉に違和感を感じたからでもない。彼があまりにも本音からそう言っているからだ。
鬼は多かれ少なかれ、鬼舞辻無惨に隷属している。恐怖であったり崇拝であったり、種類は様々だ。が、だからといって、ここまで混じりっけの無い感情というのはまず見ない。生前の記憶を保持しているならばなおさらで、少なくとも無一郎は、人の記憶がありながら恐怖以外で従っている者を初めて見た。
上弦の壱は力に対する拘りが強い。強者――正確に言えば力を積み重ねたという自負がある者――は、どこかに自信があるはずだ。己の実力に対する圧倒的な信頼。そういったものが全く感じられない。
洗脳の効果、にも見えない。何かしら理由があるのか、それとも無一郎が見抜けないほど隠すのが上手いだけか。
(気色悪いな)
どうでもいい事だとはいえ。感情の向け口を黒死牟と無惨、どちらにすればいいのかすら分からないのはさすがにぞっとする。或いは自分が、もしくは他の柱も、こんな風にできてしまうのかもしれない。
もしくはこれが、黒死牟の強さを根底から支えるものかのかもしれなかった。であれば。
(そんなもの、僕にはいらない)
切って捨てる。
ほんの少し前までであれば、何も思わなかったかも知れない。しかし過去を取り戻した今であれば、はっきりと言える。無一郎が欲しいのは人としての強さだ。人を捨てて、ましてや鬼舞辻無惨のような人でなしの奴隷になってまで強くなどなりたくない。
誰かを守れない力に意味など無いのだ。それを思い出せた。
月の呼吸 伍ノ型・月魄災渦
ツクヨミ舞踊 伍ノ型・
ツクヨミ舞踊及び月の呼吸において、唯一振りかぶらずに放てる、つまり鍔迫り合いの状態で放てる技。触れ合う刃が火花を散らし、爪痕は床にまで届く。そして当り前のように、無一郎の身には三本の跡が刻まれた。
(っく……!)
いくら酷似した型を使えるようになったと言っても、練度がいきなり追いつくものではない。そもそもぶっつけ本番で使えるのだって、無一郎ほどの才能があってこそだ。
(半年……いや、一ヶ月でも前に思い出せてれば)
霞と月を合わせた新たな呼吸を生み出すと言わないまでも、黒死牟を止めるには十分な技術を得られたろうに。
さっきまでは黒死牟に殺意はあれどあまり本気ではなかった。今は真逆、殺意こそ消失しているものの、かなり本気で無一郎を試している。負けてすぐ死ぬ事はなくなった代わりに、遙かに強い。一切の虚飾なく、真正面からねじ伏せてくる類いの強さだ。
少しでもやる気を出した黒死牟に対し、成せる術というのはほとんど無い。無一郎が知っているツクヨミ舞踊は玖ノ型まで。対し、残された記録から推測するに、黒死牟の月の呼吸は優に三十を超える。知らない型が来たら霞の呼吸で対応するしかないが、おいそれとなんとかなるものではない。つまり、無一郎がまだ死んでいないという事は、黒死牟もそれを承知していて玖ノ型までしか使ってきていないという事だ。
痣を使っている。これだけで、たった一人で下弦の鬼を殲滅出来るほどの力を上乗せされているというのに。未だ黒死牟の本体には傷一つ付けられていない。せっかくの赫刀が全くの無意味だ。
脳が沸騰しそうなほど頭を回し、とにかくほとんど当てずっぽうな予想を続ける。
ツクヨミ舞踊 陸ノ型・
共に必殺の一撃を連発し合う。一発一発で押し潰されそうにながらも、なんとか型だけは崩さぬよう努める。連弾を維持したまま、同時に呼吸を切り替える。
霞の呼吸 伍ノ型・霞雲の海
脳のみならず、体中が発熱して吹き飛びそうになった。瞬きにも見たぬ間とはいえ、二つの呼吸を同時に行使するのは自殺に等しい。が、泣き言など言っていられない。負ければ本当に泣く事もできなくなるのだから。
霞雲の海は嘘だ。実際に型の発動寸前まで行きはしたが、これは布石。相手が騙されたと判断できたところで、さらに型を切り替える。今度は実際に体が軋む音がした。
霞の呼吸 漆ノ型・朧
無一郎が持つ型の中で、唯一黒死牟が知らないと自信を持って言える技。極端な緩急差によって姿を見失わせ、真正面からの奇襲を敢行できる。性質としては、善逸の使う陰電荷に近いか。ただし、精度はさすがに桁が違う。攻撃の一切を捨てて次に繋げる為の歩法とは、比較にならなくても仕方ないが。
下から掬い上げるように頚を狙ってなお、防がれる。と言ってもさすがに面食らってはくれたようで、初めて意識を無一郎へと集中させられた。
この形は実績がある。訓練で行冥にすら一杯食わせられたものだ。
背後から、伊之助が極端に低空から疾駆する。しかし、命を脅かすには半歩短い。或いは半歩遅い。そう判断するだろう。行冥がそうしたように。
獣の呼吸 玖の牙・伸・うねり裂き
威力を犠牲にし、完全な遠心力だけで振るう特異の技。元あった玖の牙をさらに変形させたもの。
さすがの黒死牟も半歩分をこんな形で潰してくるとは思わなかったのだろう、初めて動揺が顔に出た。
が、それも一瞬だけ。すぐ無一郎を力任せに押し、さらに地面を削るように半月を描きながら伸・うねり裂きまでもを弾いた。伸・うねり裂きの長所は相手の裏を突くわざとしてこの上なく優秀な事。欠点は、初速以降力を込められない事。察知は難しくとも、迎撃は容易だ。
半月の斬撃だと思っていた技が、勢いを維持したまま振りかぶられる。そこで気がついた。これは思いつきのやり方ではない。一体多数を前提とした型だ。無一郎の知らない玖以降の型。
月の呼吸 弐拾捌ノ型・
歯を思い切り食いしばる。勢いに乗って後ろへ飛ぶという案は破棄した――間に合わない。下げていた右足に重心を乗せて、左手で峰を押さえ、全力で力む。
頭上から、まるで巨大な鉄槌を落とされたかのような衝撃が走った。足が板間を踏み抜き、めり込んでしまう。生み出された月の血鬼術が、頭皮を浅く裂いて血が流れた。
さらに迎撃があれば、防ぐ術はもう無かっただろう。必要な一瞬は、伊之助が左手による伸・うねり裂きで稼いでくれた。おかげでなんとか間合いの外へ出られる。もっとも、黒死牟にとっては一歩で十分間合いに入れられる程度の広さだが。
いつの間にか詰まっていた息を大きく吐き出す。伝ってくる血は、幸運な事に拭う程ではなかった。
(あれも駄目、これも駄目……)
一連の流れは、無一郎と伊之助が組んだ際、一番確実性の高い連携だ。それでなおこの有様。結局相手には、指一本触れられなかった。驚かせただけで倒せるならば、誰も鬼狩りに苦労などしない。
何より痛いのは、間違いなく黒死牟が知らない二つの型を使ってなお動揺させただけという点だ。これ以上の手は思いつかない。少なくとも、訓練では編み出せなかった。
時間経過と共に、どんどん通じる手段がなくなっていく。軽く流していい話ではなかった。もしかしたら、救援が来た時には、二人揃って戦力外となっているかもしれない。
(まったく、冗談じゃないよ)
さすがに辟易とする。力の差は理解していた、で片付けられるほど簡単ではない。間違いなく渾身の連携だったし、一番通じそうな攻撃でもあった。他の何なら通じるのか、ちょっと思いつかない。
そろそろ本格的に、考えたくなかった事を考慮すべきかも知れない。つまりは、捨て駒にすらなれないと。どのみち、ここまで実力に開きがあれば、柱が結集した際に役に立てるか怪しい。
痣も使い始めて、結構な時間が経つ。訓練時、痣の使用は推奨されなかった。むしろ禁止されていたと言ってもいい。痣を発現すれば二十五歳で死ぬという話は、さすがに眉唾物ではあるものの。発動の条件を考えれば極端に寿命を縮めるのは間違いない。行冥が使った場合など、最悪一晩で死ぬ事となる。体に極端な、それこそ寿命を消費するほど負荷がかかる技の検証など出来るはずがなかった。そのため、痣を出しながら限界まで戦った炭治郎から推測するしかなくなっている。
いったん痣を収めて休憩できれば、また発動も出来るだろう。ただし、一晩に二度の使用は命の保証がない。
「伊之助」
「ちょっとヤベェな」
軽く問うてみると、そんな答えが返ってきた。いつでも前のめりな彼から出てくる、初めての弱音。どれだけ追い詰められているかを端的に表している。
ツクヨミ舞踊は所詮、月の呼吸の下位互換。霞の呼吸も、朧を使った事でネタ切れだ。今のより高度な連携は、まあない事もないが、あれ以上に不意を突けるものは存在しない。
「お前はどうだよ」
「何もないよ」
出せる物は全て出した。お手上げだ。
「じゃ、どうすんだ?」
「決まってるでしょ」
当然、最後まで足掻く。
目標を大きく下方修正してしまう事になるが、最悪、どちらか一方だけでも生きていれば情報を伝えられる。最低限を目標にしなければならないとは情けない限りだ、そう考える程度には、無一郎にも責任感はある。同時に、これは柱の位返上も已む無しだなと考えた。まあ、生きて帰れればだが。
会話は聞こえていたようで、黒死牟は言ってくる。
「鬼になる覚悟が……できたのか……?」
「つまんねえ冗談はやめろ」
「お前と一緒にするな」
「ふむ……やはり手足の一本も切って……無理矢理あのお方の前に連れ出すか……」
やってみろ、などと強がる前に。無一郎と伊之助は、痣を収めた。
それでこちらが諦めたと思うほど黒死牟は間抜けではないし、彼らが気付いた事を感知できないほど鈍感でもない。既に戦闘力を大きく減退させた二人を無視し、そちらへと視線を向ける。
方向はほとんど同じだが、三つの気配はそれぞれ別の場所から飛び込んできた。
いずれも日本人離れした巨体。派手な出で立ちに特殊な形状の大刀を二刀流にした男。全身傷だらけで鬼もかくやという形相をした男。前者二人の巨人よりなお頭一つ大きく、鎖で繋いだ手斧と棘付き鉄球の威圧感だけで人を殺せそうな男。
宇髄天元。不死川実弥。悲鳴嶼行冥。三人の柱が、同時に辿り着いてくれた。
「随分派手にやってんじゃねえか。よく俺達が来るまで足止めしてくれた」
「よくもやってくれたなあ、クソ鬼ィ」
「二人とも、よくぞ堪えてくれた。後は我々が受け持とう。しばし休み、呼吸を整えてくれ」
彼らを睥睨しつつ、ぽつりと、黒死牟。
「ふむ……いずれも練り上げられている。何より……長く柱を務めているな……闘気の密度が違う……」
しかし、と続ける。
「少々……暢気に構えすぎたか……。増援が来る前に……片を付けるつもりだったのだがな……」
「柱の名はそれほど軽くない」
「柱など容易く蹴散らせるが故……我々は上弦と呼ばれる……」
黒死牟と行冥の会話は、何気ないもののように見えて、強烈な気を叩き付け合っている。
伊之助はなおも挑もうとしていたが、肩を掴んで止める。疲弊しきった状態で混ざっても邪魔になるだけだし、第一、軽く引っ張られただけで姿勢を崩す様ではまともに戦えない。
「気をつけて。相手は元隊士で、呼吸を使う。それと、報告があった血鬼術は、本気の斬撃でしか発生しない」
「なるほど、上弦の壱にまでなった絡繰は呼吸ありきか。地味で情けねえ奴だぜ」
「そこまで分かりゃあやりようはいくらでもある。テメェらは回復を急げ。
柱三人と上弦の壱。空気すら歪む、威圧の乱流。仕方ないとはいえ、眺めているしかできない自分を歯がゆく思う。
「ちっ……くしょう!」
「悔いるよりまずは憩息。可能な限り早く復帰できるように」
三対一と五対一では事情が全然違う。相手にもしかしたらと思わせられるだけでも十分に役立てるのだから。
ここ暫く止めたことのない全集中の呼吸を意識的に切り上げ、とにかく体力の回復に努める。心臓を落ち着かせ、血液の流れを穏やかに、肉を労って体温を下げる。少なくとも、どっと押し寄せた疲れの為に、震える体が整うまでは続けなければ。
伝えるべき事は伝えた。前情報もあって、彼らなら十二分に生かしてくれるだろう。偶然極まるが、形としても上弦の壱に柱五人の投入という、ほぼ最善になっている。後は成果を出すだけ。
その時が早く来るよう、無一郎は戦場をつぶさに観察しながら、必死に呼吸を整え続けた。