獪岳と善逸 作:山筋
炭治郎が自分の嗅覚に異常性を感じたのは、実のところ、割と年月が経ってからだった。
彼は八人家族の長男として生を受けた。実家は炭焼きの家系であり、まあ、詰まるところ裕福ではない。いや、はっきりと貧乏だと言っていいだろう。服は何代も前から使っているボロボロの着古しを、さらに繕って使い回しているものだ。家だって所々風化して穴が空いており、なんとか屋根だけは補修して雨を凌いでいた。
そんな生活なのだから、当然食うに困る。
日々の糧を手に入れる時に役立ったのが、鼻だった。一度嗅ぎ分けた食用植物は決して忘れないし、かなり遠方にあっても捉える事ができる。キノコ類やら自然薯やらを取っては食卓に彩りを造り、家族に喜ばれていた。
この頃は、嗅覚に対して特に何も思わなかった。
自分は長男なのだから家族を守るのは当然だし、皆が喜んでくれると嬉しい。長男なのだから弟妹を守るのだって当り前。便利ではあったが、それ以外、特に何を思うこともない。多少鼻がいいという程度の認識だった。父が鬼籍に入ってからもそれは変わらない。ただ、食べ物を見付けるのが簡単でいいなというだけ。
認識が明確に変わったのは、隊士としての修行を初めてからだろうか。
罠の匂い。感情の匂い。隙の匂い。訓練を続けていく内に、どんどん嗅覚は洗練されていき。ここらでやっと、自分の嗅覚が普通ではない事を自覚した。
思えば、それには随分と助けられた、と今更になって思う。隙の匂いを嗅ぎ分けられなければ、手鬼に殺されていただろう。初めて出会った、己を分裂させる異能の鬼。本体の匂いが分からなければ、きっと倒せなかった。
はっきり言って、炭治郎は自分が柱に相応しい力を持っているとは思っていない。彼の力を根底で支えているのは、間違いなく鼻があるからなのだから。嗅覚なしでは、凡百とまでは言わずとも、突出した力は無い。少なくとも善逸ほどは働けないだろう。
自分が弱いことなど、よく分かっている。柱になれたのだって、埋め合わせの面が強い事も。
だからこそ、鬼の探索だけは失敗する訳にはいかなかった。
(どこだ……どこにいるんだ、上弦の陸の片割れ!)
焦りで呼吸が乱れるのを自覚しながら、とにかく鼻に全神経を集める。
異空間の匂いは、それはもう酷いものだった。鬼の生み出した空間という事もあってか、そこら中から創造主の匂いがする。その上別の鬼の匂いも混ざっており、さらに突入した隊士のものであろう血臭。鼻が曲がってしまいそうだ。おまけに空間の入れ替えを繰り返しているせいで、匂いが途切れ途切れであり、特定の匂いを探すのが非常に困難である。
一嗅ぎごとに脳が痺れる感覚を味わいながら、しかし炭治郎は捜索をやめなかった。
「へこたれるな、俺! ここでやめたら何の為にいるか分からないじゃないか! 善逸は俺を信じて任せてくれたんだ!」
声に出して叱咤する。
善逸ならば必ず押さえ込んでいる。そう信じると同時に、いつまでもなんて持たせられないとも考えた。死なない鬼をいつまでも圧倒し続けてくれるなど、そんな都合がいい事を考えてはいけない。願望とは時に希望を喰い犯すものなのだから。
(必ず、この中のどこかにいるはずだ!)
自分に言い聞かせるように念じる。
ここと外の空間にどれほどの隔たりがあるか分からないが、距離という意味ではかなりのものがあるだろう。血鬼術はひたすらに不可解な力ではあるが、不可能を可能にしてくれるようなものではない。鬼舞辻無惨が未だ太陽を克服していないのがその証明だ。血鬼術とは、多分人間が思っているより遙かに閉塞的だ。
命の共有、つまりは連続性の否定。確かに大それたものではあるが、必ず制限がある。距離か回数制限か消耗が激しいか、分かりやすくあり得そうな可能性はそのあたりだ。無論、もっとややこしく見付けづらい欠点がある可能性も十分ある。
あり得る事を一つずつ潰していけば、自ずと答えに辿り着く。問題は、それがいつかという事なのだが……
鎹鴉の情報網も鈍っている。炭治郎の位置からでは、単に移り変わる空間に戸惑っているのか、それとも積極的に鎹鴉を殺している鬼がいるのかも分からなかった。
ただ走っているだけの時間は、ひたすらに厄介だった。悪い想像ばかりが過ぎる。あとどれだけの猶予があるだろうか。半刻か、数分か、もしかしたら既に死に体かもしれない。悩みは、疑ってはいけない部分をも惑わせた。
(俺がするべき事を忘れるな! 少しでも早く!)
嘘などつけばいい。それで戦えるならいくらでも。
分からない戦況。進まない探索。仲間の安否。鬼舞辻無惨の状況。あらゆるものがのしかかってくる。酷使しすぎて馬鹿になりかけてる鼻も相まって、今にも吐いてしまいそうだ。一度胃の中を空っぽにすれば楽になれるのでは、などという妄想が浮かんでは消える。
強烈すぎる臭気と精神的な疲労で、いよいよ頭痛を感じ始めた所で。
「…………っ! 見付けた!」
ほんの僅かな、扇げば消えてしまう程度のそれ。しかし、間違える訳がない。これは確かに上弦の陸と同質のものだ。
「待っていてくれ、善逸!」
明確になった道しるべに、嘘も頭痛も忘れ、炭治郎は匂いを頼りに追いかけた。
×××
どかどかとやかましい音を立てて部屋に突入してきたのは、鎹鴉が言った通り、無数の隊士だった。ただし、仲間でない事は一目見て分かる。
表情からは、およそ生気と言えるものが感じられなかった。感情どころか、思考能力すら怪しい。人間が寝たまま目を開いたらこうなるのではないだろうか、と義勇は思った。ぼんやりと目の焦点が合わず、しかし体に込められた力だけははっきりとしている。それが一人二人であれば、そしてこんな状況でなければ、寝ぼけているだけだと思うこともできただろう。
彼らの表情には覚えがあった。かつて戦い、柱を二人も引退に追い込んだ敵。正気を奪われたにもかかわらず、最後は使命感だけで我を取り戻し、自らの頚を断ったあの男、獪岳。この場にいる二十余名が、まるで判を押したように同じ顔をしている。
童磨との戦いで消えた無数の死体。それの再利用――
怖気の走る光景だった。人を人とも思わない、まさに鬼畜の所業。
激憤しそうになるのを必死で堪え、頭を冷たくするよう務める。死者を弄ばれて怒るのは正当なものだ。正しさに身を任せるのは心地よい。ただし、待っているのは破滅だけだ。
いずれ彼らの無念と屈辱は晴らす。その役割を負うのは自分でなくていい、という事を強く念じた。
「隊士の鬼……ではなく、隊士の兵器……。実用化していたのか」
「そうだよぉ。今はアタシの忠実な奴隷さ」
誰に問いかけた訳でもなかったが。意外にも、答えは返ってきた。
隊士達の奥にいて見えなかったのだろう、傀儡鬼が道を空けると、一人の女性がやってきた。白い髪に紅い目のとんでもない美人だ。それこそ顔立ちで言えば、匹敵するのは胡蝶しのぶくらいだろう。反面、格好は奇妙なものであり、宇髄天元の妻達であるくのいちの格好を、さらに扇情的にしたような姿だ。あまりにもあまりな格好すぎて、性的な何かより滑稽さが先立つ。そして、背中から無数の帯が生えていた。
八つの帯は、重力に逆らってふよふよと浮いている。それが血鬼術なのは疑いようがない。問題は――
女の目に、はっきりと刻まれていた。上弦の陸。鬼の最高戦力が一角、十二鬼月。柱が鬼殺隊の要であるように、鬼の支柱だ。
だからこそ、疑念を抱かずにいられない。
「上弦の陸は我妻が交戦中の筈だが」
「ん? ああ、お兄ちゃんね。アタシたちは二人で一つなのよ」
聞けばべらべらと喋ってくれる。単に口が軽いのか、それとも分かっていてもどうしようもない事なのか。後者であれば、かなり面倒な話だ。
(いや……)
小さく否定する。
正解がどうであれ、壊れた足ではできることなどたかが知れていた。ましてや後ろに守るべき人がいたのでは、遠距離からの攻撃に徹されただけで完封されてしまう。
鬼の気配から、大雑把に強さを測る。上弦の鬼というには物足りない、それが正直な感想だった。話に聞いた、一つ上の上弦の伍や、鬼となった獪岳の方がよほど強いだろう。下弦の鬼よりは強いが、上弦の鬼と言うには物足りない。そんな所か。少なくとも、義勇の足が完全であったなら、倒すのに苦労はないだろう。
(なら、今でも多少は対抗できる、か……)
可能な限り抵抗して、なんとか救援が届くのを待つ――と見せかけておき、本命のくいなとかなたが逃げ切る時間を稼ぐ。彼女らを見失う程に距離を取らせられればなお良い。
女はにたにたと、小馬鹿にする視線でこちらを見ている。
「本当なら柱を始末したいんだけどねえ。あのお方から塵掃除を命じられちゃったの。だからその分、すぐに始末をつけなきゃ、ね!」
最後の一句と同時に、ゆらめいでいた帯が伸び、各々に襲いかかってきた。
ある帯は斬撃であり、ある帯は刺突。天井や床を容易く斬っている所を見るに、強度は鋼以上だろう。それでいて布地の柔軟性も失わない。変幻自在の攻撃が複数同時に襲いかかってくる様は、必殺と表現してもいい。のだが。
(……工夫が足りない)
義勇はそれらを、容易く一蹴した。
攻撃は確かに強力だが、同時に血鬼術の性能任せでしかない。能力で押し切るには、些か堅さも速さも不足していた。確かに下弦の鬼とは比較にならない力ではあるのだろうが、所詮はそれだけ。
あえて言うならば、脅威を持っていない。
恐らくだが、彼女が上弦の陸というのは間違いではないのだろう。しかし、全くの正解でもない。上弦の陸に列せられている方は、女が語るところの『兄』であり、こちらはあくまでおまけだ。
とはいえ、付随品が無意味に存在するという訳でもあるまい。何か意味があるのだろうが……さすがに明かすのは無理そうだ。
「なによコイツ、こんなにあっさり……!」
女は、美しい顔を歪めながら呻いた。が、すぐにはっとする。
「そうか、アンタがあの出来損ない人形に負けたって言う柱ね。チッ、どんな間抜けかと思ってたけど、案外やるじゃない」
「そう言うお前は弱いな。今まで兄頼りだったか」
安い挑発だったが、案外簡単に乗ってくれた。女は見るからに不愉快と言った様子で、こちらを睨んでくる。
「舐めた口を利いてくれるじゃない、足を壊されて碌に動けないポンコツ風情が……!」
「なら、ポンコツに攻撃を全てたたき落とされたお前は何だ?」
「このっ!」
あとは、まあ。どうでもいい事だが、あまり口も上手くないらしい。いや、上手くないのは頭の方だろうか。
怒りにまかせて帯の攻撃を連発し、片っ端なら刻む。これを繰り返してくれている限りは安全だが、さすがに頭が茹だっていても、数十回も繰り返せば冷静になる。女は舌打ちをしながら、帯を引っ込めた。
「腐っても柱ってわけね」
「俺は腐ってない」
一瞬、怪訝そうな顔をされてちょっと傷ついた。
「なら、こいつらにやって貰おうじゃない」
そう言うと、隊士だった者達が一斉に構える。
「動くな」
無意味であろう事は分かっていたが、一応告げる。
鬼獪岳は、下弦の鬼二人がかりの血鬼術で操られていた(と、前お館様が分析していた)。そこまで厳重に操ったのは、指示に対し無作為に従ってしまうからではないか、という可能性が浮上した。だからこそ声をかけてみたのだが。
まあ当然、予想が正解だったとして対策していない筈もない。戻ってきたのは、女からの嘲笑だけだった。
「あはははは! こいつらの耳に届くわけないだろ! アタシの帯で、ずぅーっとアタシの声を聞かせてるんだからさ!」
(成る程)
つまり、予想から予防策まで、概ね全てが正解だったというわけだ。問題があるとすれば、対処法も予想通りに存在しないという点だろう。
僅かだけ女に意識を残し、大半を隊士鬼へと割り振る。独特の呼吸音が乱立しているのを見る限り、全員が問題なく全集中の呼吸を使えると見た方がいい。
遺体の大部分は万世極楽教攻略戦の時に回収した筈だ。であれば、獪岳ほど高位の使い手はいない。とはいえ、呼吸への適性が低く、身体能力が思うほど伸びなかっただけで剣の腕は良かった者もいるだろう。異能の鬼となった者だっているはずだ。そういった存在が鬼の肉体を手に入れたというだけで、十分問題ではある。
(後は、この体でどれだけ戦えるか)
炭治郎との訓練で、自分の能力は、全盛期の三割ほどまで落ち込んでる事が分かった。加えて、血鬼術に囲まれた経験は数あれど、鬼に袋叩きにされる経験は覚えがない。
初めての戦況、相手は剣の玄人であり、しかもこちらは動けない。
「お館様、俺の側を離れないで下さい」
「分かった」
暗に、ここから先は保証できないと言ったのだが。伝わってくれただろうか。
(時間は十分に稼いだ)
息を深く、鋭くする。下半身に力は込めない。どうせ踏ん張れないのだから、腰から下の力などないも同然だ。ならばその分、上半身に全てを込める。
(後は一人でも多く道連れにするのみ)
義勇が死んだところで、大した失点ではない。輝利哉を守り切れないのは悔やんでも悔やみきれないが。
後に続けるためには、ここで戦力を削り取る。心優しい隊士と遭遇し、その者が仲間殺しと惑って死んでしまうのを防ぐために。
思考の読み取れない顔のまま、複数の隊士鬼が走り出した。想定より一回り早い。同時に、想定したよりは強くない。
数の暴力とは恐ろしいものであるが、同時にそれは、連携ができていればという大前提がつく。この場合の連携とは、互いの技術を生かし合う、というものではない。それより手前、他者の邪魔をしないという意味だ。
はっきり言って、二十人以上という人数は、たった一人に群がるには多すぎる。押し合いへし合い、互いの邪魔をして、碌に剣も振れない始末だ。
集団対集団ならば問題など無かったのだろう。彼らの剣や体には、隊士のものと思わしき無数の返り血が付着している。
(生前の技術を十全に活用することはできる。ただし、新しく物事を考えられはしない)
およそそんな所か。ならば、状況はいくらか楽だ。隊士は頚を集中的に守る訓練などしていない。
碌に間隔も取らない上、背後からも押されているため無茶苦茶な動きをする隊士鬼。隊士としての能力をほとんど発揮できていない攻撃を食らうほど、義勇は耄碌していない。
散発的な攻撃をいなし、返す刀で三人の頚を斬る。さすがに今の状態では、刀の届く全員を介錯するに至らなかった。ほとんどは腕なり胴なりを斬って、後退させるに留まる。
便利な道具の利点は、使い方が簡単な事。欠点は、運用できる状況を使い手が用意しなければいけない事。
多分、隊士鬼はまだ製造に成功して間もないのだろう。検証が十分ではない。だから、こんな一度で分かる失敗を実践でする。
「ちっ、使えない不細工どもだね!」
状況をよく分かっていない上弦の陸を尻目に、義勇は悩んだ。
いくらこの女が阿呆でも、これだけ盛大に失敗をすれば修正してくるだろう。次からは、一度に襲いかかってくるのは四人か五人と言ったところか。次からはここまで上手くいかない。
(上弦の陸までなら、一歩で届く)
いつ襲われてもいいように警戒しながら、密かに計算した。
女は難敵ではないとはいえ、安い相手でもない。一度攻撃を食らってみて思ったが、あの帯はどちらかと言えば防御向きの能力だ。幾重にも重ねられたら、さすがに斬るのは難しい。それこそ防御に徹されたら、突破できるのは行冥くらいだろう。その上、一撃で仕留められる保証もない。
女の正面を隊士鬼が囲っているのも邪魔だ。一足というのもあくまで障害物がなければの前提であり、片足が機能しない以上、一度着地してしまえば二度目はない。
(それに……)
義勇がこの場を離れるという事は、お館様を見捨てるという意味でもある。
八歳という年少でありながら、しかし少年はこの状況に、顔色一つ変えなかった。彼に聞けば、答えは至極簡単に返ってくるだろう。やれ、と。自分の命を掛けた程度で、上弦の鬼を倒せる可能性が僅かでもあるなら迷うな、と。
分かってしまうからこそ聞けなかった。理性がそうするべきだと叫んでいても、どうしてもその選択だけは取れない。
死に方に価値があるから。そのために全てを投げ捨てられるほど、人間は簡単ではない。今更未練がましい自分に、思わず苦笑した。錆兎に対する罪悪感を乗り越えたと思ったらこれだ。つくづく、女々しい自分に嫌気がさす。
「大丈夫です、お館様」
取るべき選択を取れないならば、その責任くらいは果たす。
「全て斬ります」
「あははは! まともに動けもしない奴が大きな口を叩く!」
浴びせられたのは嘲笑は、義勇のみならず輝利哉にも向けられたものだろう。刀も振るえぬ年齢なのに胸を張る少年を、滑稽だと侮っている。
鬼の脅威を知りながら、なお正対して気丈を保つ。それがどれだけとてつもない事か、鬼が知る事は永遠にない。
歴代の柱が、産屋敷当主に従う理由が分からない。悲しい存在だ。想いがどれだけ人を強くしてくれるか、知る機会を得られないのだ。
「コオォ……」
息を深くする。体が熱く、脈が跳ねるようになる。身体能力を限界まで高めたが、痣は出さなかった。走ることが出来ない以上、能力を上げすぎても意味が無い。
密かに右足を確かめる。力が入るどころか、地面を踏んでいるかどうかも分からなかった。当り前すぎて、感想も湧かない。
この世に奇跡は存在するし、不思議だって山ほどある。ただ、それらは都合がいいものばかりではない。少なくとも、重要な局面だからといって、いきなり足が動くような優しさは。だからこそ、隊士は己を練り上げている。
都合のいい奇跡ばかりを期待してはいけない。それは、何の苦労もせず神に祈っているのと同じだ。
「アンタとまともにやり合うのは馬鹿馬鹿しいみたいだし、時間をかける訳にもいかないのよねえ。引退した柱ごときに使うものじゃないけど、お兄ちゃんが考えた対柱の技を使おうかしら」
語りながら、指でなまめかしく唇を撫でる姿は、まるで遊女だ。
そう言えば、天元がた吉原の遊郭で鬼探しをしていたと思い出す。義勇は勝手に、社会の裏側に潜んでいると思っていたが。もしかしたら、遊女自体が鬼だったのかも知れない。
隊士鬼の体が、ぶくぶくと膨れ上がる……というのは、ただの見間違いだった。着ている服が蠢いていたため、肉体が変調を起こしたように錯覚した。隊士鬼の服装に、上弦の陸の帯が混ぜられていたのだ、と気付く。
解かれ膨れた帯は、主に二カ所へと集中した。
一つは首。硬く巻き付いた様はまるで鉢金のようだった。この程度であればまだ斬れない事はない、が、先ほどのように容易くとも行かないだろう。
もう一つは刀だ。こちらは鍔に巻き付き刀身と水平になるようにして、左右に四つずつ並んでいる。多分、日輪刀をそのまま流用しているため、血鬼術で直接触れ続けるのは難しいのだろう。単純なやり方だが、手数が一気に五倍になったと考えると、笑える話ではない。
徹底して物量を増やす。分かりやすい強化だ。対柱というのも、あながち自画自賛とは言い切れない。
「血鬼術・
さあ恐れろとでも言いたげに、上弦の陸は示威して見せた。が、義勇の反応がない為に、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
実際は、血鬼術の規模に十分驚いている。ただ、顔に出ないだけで。
「ふん、まあいいさ。とっととアンタ達をぶち殺して、他の隊士どもを掃除させて貰うよ」
五名の隊士と上弦の陸、全て合わせれば五十に届きそうな程の攻撃が、一斉に振りかぶられる。瞬間、義勇は悟るしかなかった。
(どうにもならない……)
足が一歩分でも耐えられれば、或いは一人であったならばまだしも。二人で切り抜ける手段は、どれだけ幸運が重なろうと存在しない。
特に意図した訳ではなく。体が自然と、最後に放つ型を決めていた。記憶の中にしかいない錆兎に追いつきたくて、報いたくて。やっと、ほんの少しだけ胸をはれるものとなった拾壱番目の型。最後の最後に、継がせる事が間に合ったそれ。
構えた刀は。
斬撃を左方に集中する。右側からの攻撃に対しほぼ無防備になるが、どのみち壊れた足のせいで力を入れられないのだ。これは義勇も最近気付いた事なのだが、自分にできないならば誰かに任せればいい――
波濤が部屋の中へと雪崩れ込んできた。
水の呼吸が陸ノ型・ねじれ渦。義勇のそれと比べれば大分荒々しいのは、走ってきた勢いを殺し切れていない為だろう。
義勇の死角を補いきった男は、羽織をなびかせ、二人を守るようにして前に陣取る。
「水柱、竈門炭治郎! お前が上弦の陸の片割れだな!?」
いつの間にか大きくなった背中に。
都合のいい奇跡など信じてはいけない。しかし、人事を尽くした結果ならば。軽んじていいものではないのだろう。
「冨岡さん、お館様を連れて今のうちに!」
「ああ」
即答し、輝利哉の手を取った。
今までは、逃げる事に価値を見いだせなかった。絶対に振り切れない逃走は、逆に本体の足を引っ張りかねない。しかし、ここに炭治郎が着たならば、完全に撒ける目が出てきた。二重の欺瞞になる。
「行かせると思ってるのかい!?」
「させない!」
上弦の陸も判断は速かった。今まで以上の密度で帯が迫ってくるものの、容易く炭治郎に切り落とされている。当然だ。片足を失った義勇風情にできて、炭治郎にできない事など何一つとしてないのだから。
敵を炭治郎に撒かせながら、義勇は小声で耳打ちする。
「妹君の順路は外します。追跡がないのを確認でき次第、合流を目指そうと思います」
「いや、これは良い機会だ。このまま逃走を続け、少しでも司令部の存在を隠す。上手くいけば、鬼の目を全て私に集められるだろう」
義勇は目を剥いて、思わず輝利哉の方を見た。
言葉にも態度にも迷いはなく、瞳からは決意が迸っている。気丈な姿だ。先代お館様の血筋を感じさせる。同時に、とても悲しいと思った。たかだか八歳の子供に、ここまでの覚悟をさせなければならない。自分が同じ頃など、甘ったれの洟垂れだったのに。
そう願われた以上、全力で応える。覚悟を新たにして、義勇は戦場を炭治郎に任せた。