獪岳と善逸 作:山筋
恐らく悲鳴嶼行冥という人間の人生を他者が客観的に見れば、悲惨と表現するのだろう。そう、行冥は思っていた。ただし、枕詞に「よくある」が付くとも。
両親は幼少の頃、天に召された。詳しい死に様までは知らない。ただ、知ってあまり心地の良いものではない、とは育ての親である和尚の談だ。
生まれついて目を盲いた、体が大きいだけの子供など、当然引き取り手はいない。財産と言える物は、全て親戚を名乗る者達が奪い、雲隠れした。少年であった行冥に残されたのは、本当に自分の体一つだった。
恨みはない。当り前だとすら思っていた。誰が好き好んで、うどの大木を引き取ろうなどと考えるのか。
そんな無能が孤児院に滑り込めたのは、恐らく生涯最大の幸運だ。
和尚は目が見えない行冥を、他の子と分け隔て無く育ててくれた。感謝しているし、この人みたく優しい人間になろうと思った。
永遠に続くと思っていた時間は、呆気なく終わりを向かえる。和尚が寿命を迎えたのだ。
元々、かなりの高齢だった。その上、立地は田舎の山奥にある襤褸小屋。当然、明日に食うものにも困る有様。体力の衰えた老体にとどめを刺すには、十分すぎる条件が揃っていた。
恩師の死に、しかし悲しみに暮れる暇も無かった。孤児院では自分が最年長であり、冬も迫っていた。すぐにでも食料と薪を溜め込まなければ、揃って餓死か凍死か、とにかく碌な死に方はできない。
そこからは激動の毎日だった。常に死と戦いながら、時に成長した子供を見送り、時に努力空しく死んでしまった子を涙ながらに埋める。数年という月日が、あっという間に過ぎていった。
いつしか孤児院の主と呼ばれるようになって、一番憎々しく思ったのは、自分の体だ。闇雲に大きな体は、比例する食料を求める。とにかく頑張って食を細くした。それで空腹を感じていた頃はまだいい方で、一年も経つと、常に体を倦怠感が襲っていた。
明けても暮れても頭がぼんやりする中で、行冥は小さな確信を持っていた。自分は長く生きられない。消えて無くなる前に、なんとかして今居る子供達だけでも一人前にせねば。養い子達の気配を間近で感じながら、その思いは日々強くなっていく。
鬼の襲撃は、丁度そんな事を切々と考えている時だった。
獪岳。子供達の中では年長組に属し、短気ではあるものの、飛び抜けて我慢強く、そして勇敢な子。彼は鬼を引きつけながら、自分達を逃がそうとした。本当ならば、そうするべきは行冥だったのに。
たった一人の孤独な献身によって、化け物騒ぎはなかったことにされた。行冥には、絶対に許せない事だった。
行冥達の済んでいた山は殺人鬼(そうとしか言いようが無かった)が潜んでいる恐れありとされ、封鎖される。ただ一人、真実を知る行冥は、あの化け物の痕跡を探した。鬼殺隊に勧誘されたのは、それから間もなくだ。鬼なる存在が実在すると知らされたのも、同時期だ。
修行を終えた行冥は、すぐに隊士として頭角を現す。給料は最低限を残し、やむなく置いていくしかなかった子供達の孤児院へと送った。
本当ならば、このときに調べるべきだったのだ。自分以外に、同じ孤児院に大金を送っている者の事を。気付けなかったのは、最初の一回以外は全部、藤の家紋の家が気を利かせて送っていたからだ。懐に入りきらない金は置いていくのだとかで。
鬼殺隊には、無欲な者が多い。ほとんど捨てるようにしてどこかに寄付するのも、藤の家紋の家に置いていくのも、実はそんなに珍しいことではないのだ。だから、たまたま送った先が自分と一緒だっただけだろう、と深く考えなかった。
――もしこのときに気付いていれば、獪岳をもう一度抱きしめることもできたのに。本当に……死ぬほど後悔している。
修行に入ってからは、しっかりと飯を食うようになった。胃が受け付けず吐きそうになっていたのも最初だけ。過酷な鍛錬と大量の食事は、行冥の体を枯れ木から巨木へ変化させた。
隊士になってからは、来る日も来る日も鬼を殺し続けた。多分、それで獪岳の敵を取っているつもりになっていたのだろう。
獪岳が本当は生きていて隊士となり、同時に殺された事は、記憶に新しい。彼がまだ誰かの為に戦っていると知ったときは誇らしくあり――同時にとてつもなく悲しかった。生きていたならば、幸せになるべきだったのだ。十分人の為に尽くしたのだから、もう自分の幸福を見付けるべきだった。大人になってまで苦難の道を走るべき子では、絶対になかったのだ……
子供は純粋で無垢で、そして優しい。だから、人の為に容易く命を賭けてしまう。
もう二度と獪岳のような子を生み出さない為に。もう二度と、獪岳のような覚悟を持たなくていい世界のために。
この夜を終わらせるのだ。鬼が居ない朝を向かえるべく。
「おおおおおお!」
まずは、鬼舞辻無惨を殺すに当たって最大の障害である上弦の壱を倒す。
うなる鉄球は、まるで最初からそうであるかのようにすり抜けていった。実際は、自然に見えるほど流麗な動きで躱されたのだ。これとて無作為に放ったものではない。実弥と天元が十分に足止めをしてくれたと判断した上での一撃だ。
途方もない。黒死牟を表現するならば、それしかなかった。
行冥の肉体はとてつもなく優れている。恐らくは人類の歴史を紐解いても、そうそういないだろう。さすがに上弦の鬼ほどとは言わないが、下弦の鬼ならば腕力で勝つという無茶を実現できそうな程に強力だ。
つまり、肉体的性能という面では、行冥と黒死牟にさほど差は無い。ではなぜ、柱二人の助けがありながら有効打を与えられないかと言えば、純粋に技量と経験が違いすぎるからだ。
数百年という研鑽を積んだ天才。侮っていたつもりはないが、それでもなお予想が甘かったとしか言いようがない。
(無論、黒死牟とて欠点がない訳ではない)
完璧な鬼など存在しないので当然だが、とりあえず目立つのは、元隊士という点だろう。彼には刀を庇う悪癖があった。
無論、何が何でもという訳ではない。所詮は鬼の体から生成されたものであり、折れても再生は容易だ。そのために、純度の高い日輪刀(例えば柱が持つものなど)であれば、破壊手段としてはかなり有効であるし。それでも彼は、どうしようもない場合以外、刀を壊されないように動く。
剣士としての誇りからか、ただ人間だった頃を引きずっているのか。
(とはいえ、私が単独では付け入ることなど出来ぬ。ほんの少しばかり、そういう手段もあると意識させるのが精々だ)
岩の呼吸本来の獲物は鎖鎌だ。鎌を手斧に、分銅を棘付き鉄球に改造したのは、行冥の膂力に合わせてだった。まあ単純に、刀という武器を扱うには、彼は色々と大味すぎた、という理由もあるが。
仮に普通の剣士をしていたとしても、行冥が十分に力を発揮するためには、太郎太刀ほどの大きさが必要になる。当り前に、取り回しが悪すぎるため廃案となり、全呼吸の中で唯一刀を扱わない呼吸を選んだ。余談だが、資料を紐解きながら岩の呼吸を復元するのは、かなりの苦労があった。
ともあれ、岩の呼吸は他の呼吸よりも、溜めの動作が大きい。ただ投げただけでは大した威力を発揮しないため、回転させる必要があるのだ。強力な遠心力の分、放たれた時の破壊力は絶大だが。
今までは、足りない助走を、持ち前の恵まれた体で補ってきた。
(今回ばかりは、それでどうにかなる相手でもなさそうだ)
今まで、細やかな動きを軽視していたのが悔やまれる。
いや、単に小細工というならば、行冥とて十二分に積み重ねてきた。ただ、相手がそんなものを鼻で笑う程の高みにいるというだけで。実際、繊細な技というならば、現在共闘している実弥や天元と同等にこなしていた。
大上段から人を見下す、圧倒的な修練と才能に裏付けされた横綱相撲。一切の小手先を小癪と切り捨てた、技の遙か高み。それが黒死牟の正体だった。
上弦の参とは違い、黒死牟は方向性からして隊士と同じ。故に勝つのは、より純度が高い黒死牟だった。そこには奇跡や偶然など入り込む余地はない。
(痣を使うべきか?)
実力という面を抜きにしても。恐らく行冥だけが、黒死牟に付け入れる人間だろう。
決断を躊躇してしまうのは、命惜しさなどではない。この後に控える鬼舞辻無惨は、当り前に黒死牟より強いという前提で動かなければいけないからだった。痣の消耗がどれだけ激しいかは、依然使用した四名が語っている。今から使って、朝日まで持つとは到底思えなかった。しかも、痣を使った所で勝てる見込みがある訳ではなく、現状を打開できるかもしれないという程度なのだ。
(とはいえ、ここで柱の誰かが落ちては元も子もない)
黒死牟の考えは分かっていた。行冥の読みが鋭い訳ではなく、至極当り前の判断として。
つまりは、無一郎と伊之助が参戦する前に、柱を二名脱落させようとしている。単純な足し引きだ。三人以上の状況を作らせない。彼らの復帰に間に合うよう、こちらを追い詰めてきている。かといって無理に戻しても、息切れからすぐに死んでしまうのは目に見えていた。
(上弦の上位に対してもおおよそ強さの見当を付けたつもりだったが、まさかここまでとは)
さすがに柱が三人がかりで
既に実弥が持つ特異体質、酩酊の稀血までもが攻略されている。それに比べれば、既に知っている呼吸などものの数ではないだろう。
「だああ! クッソ硬ぇ! どんな防御だってんだ! 動きは地味なくせにド派手な真似しやがってよ!」
「文句垂れてんじゃねえ宇髄ィ! ンな余裕ねえぞ、崩されるならお前のとこからだ!」
「分かってん……だよ!」
天元の攻撃はしかし、いとも簡単に潜り抜けられ、容易く反撃が飛んでくる。端から見れば、まるでわざと攻撃を外しているようにも見えた。
状況が変わらなければ、そのうち天元が殺される。それがはっきりと分かってしまった。
別に、天元が弱いわけではない。屋台骨の問題だ。隊士と言うならば、行冥と実弥はそれしか知らない。対して天元は、芯に『忍者』としての技術がある。
雷の呼吸を元とした速度を生かす動きは、ともすれば単調とも言えた。それを忍びの変幻自在な手管で補っているのだ。間違いなく隊士で一番多彩な男であるし、なんなら爆薬などを自作すらする。日輪刀なしで隊士同士が戦えば、最後まで残るのは必ず宇髄天元、そう言い切れる奴ではあった。
だが、ここに来て剣士としては一枚劣る影響が如実に表れてしまった。ほんの瞬き分、音の呼吸は性質そのものが劣る。黒死牟にとっては、それを見抜くのも突くのも、造作も無い事だろう。
「っ!」
「駄目だよ、伊之助」
背後で焦る気配。伊之助が思わず飛びだしかけたのを、無一郎が静止してくれた。
無一郎が冷静で助かった、と胸をなで下ろす。半端な状態で入ってきたら、間違いなく一太刀で殺されていただろう。しかもそれで天元が助かるわけでもない。全く無意味な死だ。
「お前達の相手も悪くはないが……些か小癪……。そろそろ……あのお方を迎えるために……いい加減にしなくてはな」
ぞっとする声と共に、月の呼吸――無一郎で言うところのツクヨミ舞踊――が放たれる。当り前に、知らない型だった。
三日月の血鬼術も、使い手が黒死牟でなければこれだけ凶悪な性能にはならなかったのに。無一郎が把握している型以降は、血鬼術との併用を前提としている。無駄がなくなった、というのは少し違うか。あえて言葉にするならば、より適合している、と言ったところだろう。他の鬼全てに存在した、血鬼術と持っている技法の間にある、僅かな隙間が存在しない。
互いに手口を理解し合うと、射程距離の延長すらも、神がかった剣技と同等の厄介さを見せていた。
ただでさえ黒死牟の刀は、通常のものより長い。この上で血鬼術まで使われると、中距離までの戦闘をこなす行冥にすら、攻撃を届かせる事ができた。攻めあぐねているのは、何も黒死牟の技量が高すぎたり、天元と実弥が一合ごとに姿勢を崩されているからばかりではない。気を抜けばこちらが何かしらの行動を起こすより早く三日月が迫ってくる、それがどっちつかずの状態で戦わねばならない最大の理由だ。
必要な時に、必要な力を、必要な分だけ。分かりやすい原則であるが、これを実行できる者はまずいない。
(こういった悩みは、得意ではないのだがな……)
痣という賭けに出られない以上、取れる手段はもう一つだけ。即ち、踏み込み。
今まで距離を置いて戦っていたのは、当り前に、岩の呼吸が接近戦に向いていないからだ。これでも行冥の膂力と、鎌が手斧になったため、本来よりは大分ましになっている。接近専用の型(もとい悪あがき)もあるにはあるが、これに関してはほぼないものと考えている。
黒死牟に張り付く危険は、ともすれば痣の使用より高い。なにせ全体を俯瞰して見られなくなる。盲目な為、元々目に頼って気配を察知してはいないが、それでも意識の上では大分別だ。つまるところ、他の二人が危険な時、間に合わない可能性が高くなる。
それでもこれを選んだのは、より多くの柱を残すならば、こちらの方が勝負になると思ったからだ。
忘れてはならない。この戦いはあくまで前哨戦であり、本番は鬼舞辻無惨である事を。後の戦いへ、より多くの柱を残す事こそ行冥の役割。
(意表を突けるとまでは思わん! 二人は全力で呼吸を回復に回している。あと少し稼げれば、戻ってくる筈だ。そこまで行ければ、誰も欠けずに鬼舞辻無惨を迎え撃てる!)
行冥の左胸へと突き出されてくる切っ先を、斧の内側、背と柄で絡めるように受け止める。そして、あらん力を込めて下に落とした。刃は軌道を変えて、浅く床を削る。
いくら力を入れた方向が違うと言えど、元の筋力に差がありすぎる。斧を持った右腕が、肩までみしみしと音を立てた。
(どうする? ここで剣を折るか? お前の流儀に反するだろう!)
実弥の天元の反応はとてつもなく早い。既に黒死牟の皮一枚まで刀が迫っている。
しかし。なおも、現代最高の技を持つ男。刀を、上に跳ね上げる形で手放した。つまるところ、行冥の力を利用して回転させるように。さらに姿勢を僅かに低くすると、側で半回転。
「すり抜け……!?」
そう思えるほどに、黒死牟の動きは鮮やかで、かつこちらの動きを読み切っていた。
だがそこまでする事は、行冥にも分かっていた。一番避けにくい部位、つまり胴体へと向けて、左の鉄球を振り抜く。相手の体を破壊できるかなど二の次で、とにかく当てる事だけを目指した一撃だ。
既に回避の動作中。避けるのはさすがに無理だろうと思っていた。忘れていたのだ。避けるというのはあくまで手段の一つでしかない事を。
背面の状態で、黒死牟の右手が鉄球へと触れた。行冥に見えたのはたったそれだけだ。攻撃が見える姿勢ではないし、ましてや力が入れられる角度でもない。それなのに、鉄球はあっさりと押し返され、明後日の方向に流された。
ただ触れただけのようにしか見えない動作に、一体どれほどの技術が込められているのか。武の深淵とはこれほど深いのか。盲目が故に、他者の体内まで把握できる行冥にすら理解できぬ境地だ。
が、見惚れている暇などない。ぞっとしたものを感じて、咄嗟に両手の鎖を手繰った。
鎖を円環状にして、黒死牟を締め上げるようにする。考えての行動ではないし、何を狙ったわけでもない。あえて言うなら経験がそうさせた。このままであれば、三人とも死ぬと。
多分、その選択は正解だたのだろうと思う。
黒死牟はさらに姿勢を低くし、ほとんど臥せるような形になった。伸ばした左手には、回転していた剣の柄が乗る。
さらに続いた柱の攻撃に、しかし黒死牟は深入りしなかった。地面を滑るような足捌きで、あっさりと包囲の外へと抜けていく。下段に構え直して、超然とした空気を纏い直していた。あっさりと――決死の行動を零に戻される。
黒死牟は、僅かに首を傾げながら、行冥を観察してきた。
「ふむ……曲がりなりにもとはいえ……私の力に抗うか……。単純な筋力で言えば……“奴”以上か……」
「“奴”?」
いかにもな風に眉をひそめながら、行冥。
実のところ、さほど気になった訳でもなかった。が、相手からわざわざ時間を浪費してくれるのは有り難い。今は一分一秒が金よりも貴重なのだから。
とはいえ、相手もそれほど耄碌していなければ、こちらを甘く見積もってもいなかった。小さく頭を振る。
「もはや……存在しない人間の話などしても……詮無い事」
呟きに、今度はわざとではなく眉をひそめた。
小さな違和感。今まで自然体だった体に、僅かなひびが入っている。心の傷か、人の名残か。何であれ、初めて見せた隙だ。逃す手はない。
黒死牟の口ぶりや雰囲気から推測するに、“奴”なる者は人間であり、同時に行冥より強かった。少なくとも力以外の面では数段優れていた事は間違いない。そんなことを察するのは簡単だった。なにせ、黒死牟はわざと表に出し、見せていたのだから。
わざと知られていい情報を表に出し、隠された真に暴かれたくない秘密。恐らく目が見えない故に、人一倍気配に敏感な行冥でなくば気づけなかっただろう。
これは……嫉妬? それもただ羨んだのではなく、とてつもない執着まである。
「身内に、自分より優れた者が居たか」
「知った風に言う……」
苛立ちに身をよじった黒死牟に――実弥の剣が届く。ほんの薄皮一枚、着物を僅かに裂いた程度に過ぎない。無意味に見えて、とてつもなく大きな事だ。なにせ彼らは、今までその程度の事すらできなかったのだから。
“奴”とやらは、思っていたより遙かに大きな存在だ。黒死牟が、今になっても“奴”の呪縛から逃れられないくらいに。そこを少しばかり突いただけで、精細を思い切り欠く程に。
「お前はその者の強さから逃げて鬼になったのだな。哀れな」
「戯言を……べらべらと……」
黒死牟の攻勢は厚くなったが、反面、対処は楽になった。いくら技術に違いがなくとも、無駄な攻めっ気が足を引っ張っている。ましてや黒死牟の意識が過剰に行冥へ集中したため、相対的に、他の二人に大きな裁量が配られた。
不適な笑みを浮かべながらも、内心嘆息する。こういったやり方は、全く以て好きではなかった。好悪で測っていい場面ではないと分かっていても、嫌悪感が先立つ。根本的に不得手な分野でもあった。
「自覚がないのか? お前は、鬼に成った時点で負けているのだ。永遠に勝つ術を……いや、勝負する権利すら失った」
「その口……切り裂いてくれる……!」
もはや取り繕う事もできずに、彼の能面みたいな顔がひび割れた。精神に呼応しているのか、血鬼術も行冥へ向かう割合が多い。
反対に、行冥は陰鬱としたものを抱えていた。人の心を理解したふりをして切開し、穿り回す。畜生にも劣る所業だ。外道としか言えないやり口に、喉へこみ上げてくるものを感じた。最悪なのが、こんな真似を続けなくてはならない事。
心の揺らぎから、察せられるものはいくらでもあった。そこからさらに当たりを付けて、とにかく痛みを与えられそうな言葉を探す。
「お前は自ら鬼になったのだな? ……そう言えば、遙か昔、鬼殺隊を裏切って鬼舞辻無惨にお館様を売った隊士が居たという。それがお前は。なんと……弱い」
「私は強い……誰よりも……貴様程度よりもずっと……!」
「相手を倒すだけの力に意味など無いと、何百年経っても分からぬのか。悲しいほどに情けない。獪岳は、お前の何百倍も強かった」
「貴様の言葉は……いちいち神経に障る……」
相手に感じていた罪悪感は、いつの間にか憐憫へと変わっていた。
生前も、そして今も。黒死牟という男は、とてつもなく上昇志向の高い男だったのだろう。しかし不運にも、彼の近くには“奴”なる絶対に超えられない壁が存在した。実際の所、“奴”とやらより黒死牟が何もかも劣っていた訳ではないのだろう。しかしこういった手の人間は、得てして相手の得意分野で自分を比較してしまう。
さぞや、生きるのが苦しかっただろう。
人間とは本当に行き詰まれば、時に絶対してはいけない選択を選んでしまう生き物だ。彼にとって、それが『鬼になる』という事だったのだろう。
行き詰まった故の行動だからといって、殺人が許されるわけではない――それを他ならぬ黒死牟が一番理解していると、痛切に感じ取れた。力、強さ、誇り。そういったものの裏側に隠された、こびりついて離れない罪の意識。
ある意味、自負というのは最後の拠り所なのだろう。自分は悪くない、ではない。そんなものは、己が求めたものに比べれば些事であると誤魔化すための。
今、自分がしていることが正しいとは思わない。そんな事で、正当化をするつもりは全くなかった。ただ、顧みる事もできずに死ぬのは、とても空しいことに思えて仕方なかった。
これはある種の介錯なのだろう。黒死牟を、人でなしな裏切り者のまま終わらせはしない。それが相手にとっていい事か悪い事かまでは分からないが、とにかくこのまま死なせては駄目だと感じた。
「自分の弱さを認めろ! お前はもう、その段階まで堕ちてしまったのだ」
「口を……閉じろと言っている……!」
「図星を突かれていない者は、激高などせん」
「……いい加減」
彼に自覚はあるのだろうか。その怒りは、自分に対しての裏返しだと。
無駄口の多さに、実弥と天元が怪訝に思っている。挑発にしたって、口数が多すぎやしないかと。それでも黙っていてくれるのは信頼故か。実際は私情であるため(実用的な意味もないではないが)、胸が痛む。
目を狙った突きを、鎖で受け止める。黒死牟の膂力と刀の強度で放たれるそれは、鎖など簡単に切り落とすだろう。しかし行冥の持つ武器は、柱達の中でもとりわけ純度が高い猩々緋鉱石が使われていた。強度に差はなくとも、含有する陽光の濃度は違う。結果、触れるだけで血鬼術は減衰し、鬼の体は僅かながら焼ける。
普段は多少攻撃力を落とせるといった程度でしかないが、今相手にしているのは剣士。獲物の切れ味を無くせるというのは、この上ない利点だった。
「名は?」
「なに……?」
「名を何と言う」
「つまらぬ事を……。知っているだろう……黒死牟だ」
「違う。お前の人間だった頃の名だ。忘れていないのだろう」
半ば当てずっぽうだったが、根拠のない事でもない。目つきが細まったのを見るに、正解だったようだ。
「そのようなものは……とうに捨てた……」
「名は捨てられん! 過去もだ! お前が鬼になってから何十年、何百年と経ったにも関わらず憶えているのがその証拠だ!」
「ただ忘れておらぬだけ……そこに意味など無い……」
「真に意味を見いだしていない者が長々と憶えているものか。ましてや鬼のほとんどは生前の記憶を持っていない。忘れたいならいくらでも手段はあったのだろう。そうしなかったのは、忘れてはいけないと思ったからではないのか? その痛みを!」
「努めて忘れる程の価値もなかっただけの話よ……!」
刀と斧が真正面からぶつかり合う。行冥の体が、思い切り後ろへ反れた。
単純な力勝負で押し巻けた事は数あれど、勝負にもならず一方的に弾かれたのは初めての経験だった。
入れ込みすぎた。そう思ったときには遅い。さらに血鬼術が襲いかかってきて、それからは天元が守ってくれた。追撃の手も、実弥が押さえ込んでくれている。
体に力を吹き込み、攻撃と同時に叫ぶ。
「ならば何故剣を使う! なぜ人の技を振るう! なぜ血鬼術を剣技の上に成り立つものにした!」
「私が一番強くなれる手段を取って……何の不思議がある……」
「ただ暴力を振るいたいだけならば、もっと他に優れた手があっただろう! 隊士であったならば分かっているはずだ、呼吸と、それに付随する型など所詮は手段の一つにすぎんと! これが拘りでなくて何と言うのだ!」
それこそ、柱ほどの者ならば分からないはずがない事実。隊士にとって重要なのは全集中の呼吸であって、その延長上――というより、ただのおまけ――である剣技にまで執着する必要は無い。
はっきり言って、鬼と全集中の呼吸、組み合わせとしてはこの時点で十分なのだ。剣は必要ない。隊士が刀を必要としているのは、猩々緋鉱石で作られた道具で鬼の頚を破壊しなければならないからだ。刀が多いのは、あくまで刃物である利点と、持ち運びやすさを折衷した結果こうなっただけである。事実、玄弥は散弾銃という現代の利器を運用していた。もっとも、銃は弾丸として猩々緋鉱石を異様に消費するため、推奨されているわけではないが。
三日月の血鬼術と月の呼吸の組み合わせは確かに強力だ。だが、鬼の身体能力と他の血鬼術であれば、黒死牟はもっと厄介になっていたのは想像に難くない。いや、剣技は忘れずともいい。だが、剣技ありきの血鬼術である必要はまるでなかった。
彼から連想できる姿が話に聞いてある。記憶を無くしてもなお体術に拘った、上弦の参。猗窩座、もとい狛治という存在。
この二人は、とてもよく似ている。
「お前は負けたままで良いのか! 己に、鬼舞辻無惨に!」
「五月蠅いと言っているのだ……!」
「っ――! 飛べ!」
悪寒を感じた瞬間、咄嗟に叫んでいた。全員が防御態勢を取り、遮二無二後退する。
鎖から、耳が痛くなるほどのけたたましい音が連続して放たれる。斬撃というよりは掘削だった。技は洗練されたまま、破壊的な血鬼術の乱流。
嵐が過ぎ去って、確認すれば。黒死牟の刀は異様な形に変形していた。元々長かったそれはさらに延長され、刀の中間からさらに刀が伸びている。実用的に見えないそれはしかし、三日月が増えた理由なのだろう。刃一つにつき一筋しか三日月を生み出せないならば、刃そのものを増やしてしまえばいい。とても単純な解決方法だ。
「なんと禍々しい……」
「これでも……私に拘っていると言う気か」
行冥は小さく頭を振った。
禍々しいと表現したのは、刀に対してではない。黒死牟の精神そのものに向けたものだ。人から鬼になり、異形の顔を作り出し、もはや刀とも言えない獲物を持ち出しながら――それでもなお、剣士としての自分に縋っている。
自覚は、無いのだろう。それがことさら哀れを誘った。
「どうやら私は……無自覚に……少々手心を加えすぎていた様だ……。お前達を上弦へと推挙するにしても……間引きは必要……。足掻き……生き残った者にこそ……資格ありと見なす……」
何を言っても通じない。悟らざるをえなかった。どれだけ言葉を尽くそうと、耳を塞いだ者には届かない。
「っしゃ! 行くぜ!」
「呼吸が戻りました」
休んでいた無一郎と伊之助が、参加を表明する。一応気配を手繰ってみたが、痣による極度疲労からは抜けているようだった。
(最早これまで……)
悲しみに、自然と涙が零れた。これを最後の感傷だと決める。
瞬きで雫を振り払った後には、戦意だけを残した。ここまでを我儘に付き合わせた。これ以上は、本当に道連れを作る。
せめて人として屠ってやりたかった。夢を見てしまったのだ。狛治という前例があったために。鬼になってしまっても、人によっては人間として終わりを迎えられるのではないかという。最早それも叶わないならば、後は全力で戦うだけ。
鉄球を回しながら、斧を構える。そこにはもう、今までのように優しさが挟まる余地のない、鬼殺しの仁王がいた。