獪岳と善逸   作:山筋

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人に非ず武士に非ず

「総員、発動せよ! 最早次の戦いなどと言っていられぬ!」

 

 そう行冥の絶叫が響く。が、実のところ、その場に居た全員が声を聞くより前に痣を発現していた。

 傷を負った三人の中でも、いち早く復帰した伊之助が血を吐きながら構える。

 伊之助は怪我慣れしている。特に何か理由があるわけではない。あえて言えば、山の主になろうと思ったらそれくらいは当り前に起こる事、というだけだ。幾度も半殺しの目にあったし、熊と戦った事もある。まだ日輪刀を手に取る前の話だ。

 だからこそ、彼は人一倍自分の損耗具合に敏感だった。

 どの程度で自分が戦えなくなるか。どの部位をどの程度損傷すればどれだけ機能が低下するか。そして、脆くなった場合の戦い方は、など。

 

(まだ行ける。何も問題はねえ。今んところは、だが)

 

 冷静に体を探索し、そう評価を下す。

 勿論、それが完璧であるとは言い切れない。なにせ、失血による戦闘能力の低下具合は測った事が無いのだから。大抵の場合、失血死寸前の状態というのはもう戦いを継続していい状況ではない。詳しい理屈はしのぶに説明されてから知ったのだが、その前からも、なんとなく感覚では把握していた。

 故に決して出血を侮らず、大量の血を失った場合は一時退却を選んできたのだが。ここに来て、それが徒となっている。

 一度くらい際の戦いを経験し、出血の限界値を把握しておくべきだった。そうしていれば、退けない戦いで限界を見極める事もできたろうに。

 

「ま……頭に食らってねえだけましか」

 

 全集中の呼吸一つで肉を締め、傷口を塞ぐ。これだけでは痛みまで対処できないが、まあそちらは無視すればいい。

 隊士になってから知ったのだが、頭を強打されると足が痺れ、場合によってはそのまま昏倒する。初めて炭治郎から頭突きを貰った時は、ただの偶然かと思ったが。獪岳に顎を引っぱたかれて倒れ込む内に、どうやらそれほど珍しい例ではないと気付いた。

 人も獣も同じ。疲れたり追い詰められたりすると、まず頭から動かなくなる。そうなってしまえば、ただの獲物に成り下がる。いついかなる時も頭を回せる様にしておくのは、かなり重要だった。

 

「カァァァァ……」

 

 もう一息で体に活力を注ぎ込み、突撃する。深入りしすぎないようにだけ気をつけながら、黒死牟の制空権へ入り込んだ。

 行冥は確かに強いが、根本的に武器が接近戦向きではない。天元は、なんでだか知らないが極端に動きを先読みされている。残った二人――特に無一郎――の復帰が未だ叶わない今、伊之助が矢面に立たなければならなかった。

 そこまで理論的に考えていたわけではない。ただ、なんと言えばいいのか。彼の嗅覚は間違いなくそう判断していた。

 接近する間に、赫刀は発動している。他者とは違い、握力だけではなく刀同士を叩き付けて発動できる分、伊之助のそれは楽だった。元から鋸刃というのもあって、多少の刃毀れを気にせず済むというのもある。

 間合いに入り込んだ瞬間、こちらも見ずに七支刀擬きが振るわれる。左足に体重を預け、仰け反るというよりは背後に倒れ込むようにして躱した。目のすぐ先を三日月が通り過ぎていく。刃が増えた分血鬼術が拡張されたため、こういった雑な攻撃にもかなり注意して避けなければならない。

 

(はっ……え!)

 

 しかし、伊之助が驚嘆したのはそこではなかった。情報の獲得をほとんど視覚に頼ってきた黒死牟が、ただの勘だけでこちらを察知している。

 痣の副次効果とされている、五感の鋭敏化。伊之助ほどの者であれば、目をつぶっていても、肌を透過して肉の動きまで察知できるようになる。普段はぼんやりと輪郭が分かる程度なのに。

 鬼が痣を使って、上昇幅がどれほどか分からなかったため、余裕を持たせて動いていた。予想通り――想定していた最大値で――感覚を鋭敏にさせてきた。予想以上でなかった点だけは喜ぶべきなのだろう。とてもそんな気分にはなれないが。

 

(痣を使うと寿命がどうとか言ってたっけか)

 

 実のところ、そのあたりよく憶えていない。伊之助にとって重要なのは勝敗であって、いつ死ぬかなど興味の埒外だった。多分、どこかで聞き流したのだろう。

 肉体付加と、付随する寿命の極端な短縮が痣の欠点だとするならば。鬼には利点しかない技術である。つまり今まで使ってこなかったのは……

 

「舐めやがって!」

 

 安く見られていた。それ以外にあり得ない。

 これもまた事情は不明だが、黒死牟は伊之助を極端に苦手としている。とにかく全てにおいて対応が一歩遅れていた。極端に地力の差がありながら、伊之助が攻め込み続けられた理由だ。

 

「舐めていたのは……果たしてどちらか……?」

 

 しかし。

 痣による能力の上昇幅は、基礎能力に依存する。ただでさえ手が付けられなかった黒死牟は、今や近づくことすら難しい存在になっていた。

 ぞんざいに切り上げているようなそれすら、技術の粋が集められたものであり。発生する三日月は、双刀による全力防御以外では対処できなかった。

 当り前のように押し返される。これでも行冥や天元より大分マシなのだから嫌にもなった。とはいえ、どれだけ愚痴った所で、彼ら二人を生かすには、最低でも刃が届く範囲まで侵入しなければならない。

 

「たかだか……数を頼りにした程度で……死力も果たさず……あまつさえ温存までして……私を倒そうとは……都合がいい妄言と言うより他ない……」

「知るかボケェ!」

 

 認めるのは腹立たしいが、言うとおりではある。いくら柱五人がかりという幸運が転がり込んできたとはいえ、相手もまた上弦の壱。痣を使わず犠牲も無しに、というはさすがに都合が良すぎた。ただの一太刀で全て覆されれば、それこそ認めない方が難しい。

 下らないやりとりをしている間にも、頭が熱でうなされていった。

 短時間に痣の二連続使用。これがもたらす影響は、劇的……というよりも苛烈だった。下手をすればこのまま死ぬという、不思議な確信がある。

 今ですらそう勝算が高いわけでもないのに、この上伊之助と無一郎が動けなくなったら。それこそ負けが確定する。焦ったところでどうにかなる問題ではないと分かっているものの、平常心でも居られなかった。

 

(玉ジャリ親父は俺の状態に気付いてやがる)

 

 悲鳴嶼行冥。目が見えないにもかかわらず、見えている者より遙かに見通す男。

 この状態が黒死牟に気付かれていない事だけは幸いだろう。時間稼ぎをされただけで詰む。その恐れだけはない――だから倒せるという事は、全くないが。

 これに関しては、黒死牟が気付かないのも無理はない。むしろ、未だ表面化していないただの不安を見抜いている行冥の方が異常なのだ。

 

「カァァァ……」

 

 慎重に、全集中の呼吸を行う。

 焦ってもいい。だが、急いではいけない。一度表に出せば、鬼は絶対に見逃さないのだから。

 かつては才能だけで、ただ漫然と使っていた呼吸という力。これを極めると、今まで感覚すら掴めなかった内臓すらある程度動かせるようになった。つまるところ、痣とはこれの発展系なのだ。

 肉体と精神とは、不思議な関係で成り立っている。心が均衡を失うだけで、体にも不調を来たす。肉体が精神に追従しているように見えて、実のところそれだけではなかった。呼吸の技で無理矢理体を押さえ込むと、前のめりになる精神が重心を取り戻す。どちらかが上位に立つのではない、あくまで対等な相互関係なのだ。大抵の場合は、先行した方にもう片方が追従してしまうため、そうは思えないだけで。

 

(そいつを利用すれば、玉ジャリ親父みてえな例外を除いて、心の中が覗かれるこたぁねえ。だけじゃなく、いつでも望んだ俺になれる)

 

 無論、それはできない事ができるようになるなどという、都合のいい話を指したものではない。あくまで理想値(最高値ではない)近くまで持って行けるだけだ。

 ただ、嘘をつくならばこの上ない。敵に対しても、自分にも。

 法則性がない故に、いつまでたっても慣れない三日月の奔流に晒され、落ち着いて考える事もできない。不規則故に、極端に密度が低いという事もあるのだが。残念ながら、付け入れる程の隙ではなかった。

 

(くそっ。ごちゃごちゃごちゃごちゃ……らしくねえ)

 

 刀を翻し、肩に乗せるような形で斬撃を受け流しながら独りごちる。

 あれこれ考えながら戦うのは、自分の流儀ではない……とまで大げさに言うつもりはないが、気質に合っていないのもまた事実。

 

(……いや、そういうつまんねえどうのこうのじゃねえ)

 

 随分と頭が茹だっていた。あるいは、考える()()をして逃げていた。

 直感に頼るべきではないと同時に、直感は正しい。矛盾した考えは、以前獪岳に指摘された事だ。同時に、言語かも。

 弱気な時に現れた根拠のない選択は、ただの逃げ口上。一時凌ぎにはなっても、その後に続かない。しかし、攻め込むのならば。それが正しいかどうかはさておき、選択肢の一つとしては、全く悪くない。選べる物が一つ増えるというのは、小さいようでとても大きいのだから。

 幸運にも、ここには手本がある。目が見えないという大きすぎる欠点を抱えながらも、残りの器官を鋭敏化させ、補って有り余らせた男。高い身体能力という点を差し引いても、この場で最も多い選択肢を持つ、最強の隊士。

 学ぶ必要は無い。猿まねで十分だ。観察したものを即座に憶え、最適な形に移し替える。それができる才覚も肉体的柔軟性も、伊之助は持っていた。

 どんな生き物でも、一足飛びに強くなったりなどしない。同時に、急激な進化とも言える成長をする者がいる。間近で見た。

 

(あいつらに出来て……)

 

 肺から全ての息を追放する。激しい動きの中、呼吸を止めた為に、一瞬頭の動きが止まった。これでいい。頭の構造を再構築するならば、これくらいしなければ。

 

「俺にできねえ筈がねえ!」

 

 人か獣か。今までそうするしかなかった戦い方を、人と獣へ。獣の時間の完成形、あるいは進化形。

 伊之助がこの戦いで初めて、攻撃を受けず、完璧に避けきって前進する。極端な反応速度の上昇に、黒死牟だけではなく行冥すらも目を剥く。実際は、八割ほどを勘で補っているのだが。

 成功は最初の一度だけでいい。再現性の有無は、さしたる問題ではなかった。重要なのは、相手の頭にこういった事が起きるとすり込む事。そして、この瞬間だけは敵の予想を上回れたという事。

 

「死……」

 

 仰向けに仰け反った、むちゃくちゃな姿勢から左手の刀を閃かせる。ただし、これだけでは黒死牟に届かない。刀身を延長した七支刀擬きと、上乗せされた血鬼術の射程距離は、それほどに広大だ。故に、腕関節を外して延長しようと最初から織り込んでいた。

 

「ねっ!」

 

 関節外しの技は一度見せている。ここでそれを使うとは予想されていた。というか、他に手段もないとは思われていただろう。

 余裕を持つ程ではないが、さりとて咄嗟の判断に迷う程でもない。そんな微妙な攻撃の成果は、胸元から首筋までを切っ先で浅く削ぐ程度だった。しかし逆に言えば、そんな無様に食らわざるをえなかった、という意味でもある。

 黒死牟にはある欠点が存在した。咄嗟に人間だった頃の癖が出るという事。

 鬼は不老不死であり、死ぬならば太陽か日輪刀による頚の切断が必要になる。逆に言えば、切断しきられさえしなければ、例え赫刀で焼かれても、痛みに耐えられるかどうかの問題でしかない。

 彼は過去の栄光に縋っているのか、鬼が当り前に行う「頚が切断される攻撃以外は一切守らない」という手段を執りたがらなかった。同時に、時折人間みたく大げさな対処を見せる。本来鬼に必要ない大げさな回避は、明確な欠点。

 だからこそ、伊之助はわざわざ必殺を狙っているような声を上げ、布石を放った。

 

「おおォ!」

「喰らいやがれ!」

「ッラぁ!」

「――――!」

 

 行冥と天元に加えて、復帰した二人までもが畳みかける。それを力尽くでなぎ払おうとした黒死牟はしかし、初動がほんの一瞬だけ遅れた。

 剣を振るうときに、伊之助の鋸刀が引っかかる。無論、偶然などではない。彼の本命はこれだった。

 伊之助に、鬼と綱引きをできるほどの筋力はない。ましてや関節を外している現状、ほぼ握力だけで持たせているだ。筋が思い切り引っ張られ、全集中の呼吸を行っている上でなお痛みが走る。

 作れた時間は瞬きにも満たない。指が限界を迎えて、剣が手から離れ、床にたたきつけられた。

 一度目で余裕を奪い、二度目で迎撃を遅らせる。見えないところまで目を届かせた、伊之助の最大限。

 しかし、それでもなお相手は最強の上弦。刀を振るう事も、ましてや再生成も間に合わない状態で、彼は完璧をあっさりと捨てた。

 無一郎の一撃が、腹を半ばまで割いた。天元が床ごと右足を粉砕し、実弥が頚を狙う――と見せかけて、肘の辺りで左腕を斬った。本命は行冥の鉄球。いかに黒死牟と言えども、鬼の膂力に匹敵する化け物の一撃を、片手で防げるものではない。

 頭を思い切り傾けながら受け流しに注力したことで、なんとか死は避けられてしまった。代わりに、頭の半分が抉られる。

 これらの全てが、赫刀の一撃。痛みに耐えられたとして、再生は確実に遅くなる。上弦の鬼だという事を加味すれば、二秒か三秒か。そんなものだろうが、畳みかけるには十分だ。

 伊之助が関節をはめて刀を拾う間にも、攻防は続いていた。

 残った片足でかなり無理をしながら、なんとか包囲の外へと抜け出す黒死牟。それを先回りするようにして、行冥の手斧が背後から襲いかかった。致命打を狙ったものではなく、こちらが望む以上の後退をさせない為のもの。

 行冥が動かさない事に徹すれば、残りは好きに攻め込める。

 統制が取れた柱三人の猛攻。これほどの暴力でも、黒死牟は余裕を持って対処できた。今までであれば。さすがに四肢のうち二つを無くした状態では、涼しい顔で捌ききる事はできない。

 全ての攻撃が本命であり、同時に支援。いきなり頚を取るなどという欲は誰もかかない。相手に事態を好転させない。それを第一目標とし、確実に手足をもぎ取った。少なくとも四肢の内二つがない状態を維持できれば、攻守の交代は起こらない。後は時間の問題だ。確実に黒死牟が先に途切れる。

 

(いや)

 

 それでは駄目だと、伊之助は断じた。これに頼りすぎてはいけないと分かっていながら、しかし獣の時間で得た感覚を無視もできなかった。

 恐らく誰も分からない。行冥ですら共有できないだろう危険。伊之助だけが、それを見ている……

 伊之助は獣の王だ。山のあらゆる獣を制し、その上に立った。黒死牟も同じ理屈で――しかも比べものにならないほど大きな規模で――頂点に君臨している。詰めに入ったからと言って、忘れてはいけない。

 戦いとはつまり、相手の好きにさせない事だ。などと昔、獪岳が言っていた。それは全く以て正しい。追い立てて仕留めるのは、獣の基本なのだから。

 故に、相手が思うとおりに守れている今の状況はとても良くない。

 覆す方法を考えていないなどありえない。ならば、必ずどこか、致命的な部分で裏切ってくる。このまま押し込めるというのは、弱気を感じてしまったが故の発想だ。

 ならば。

 

(やっぱ俺だよなあ!)

 

 げたげた笑いながら、やや回り込むようにして接近。

 伊之助の復帰に、黒死牟が舌打ちをした――ように見えた。実際は違うだろう。せいぜい一瞥した程度だ。今はそれほど些細な事でも惜しい筈なのだから。

 思った通り、伊之助が混ざっても状況は大きく動かない。確かに黒死牟が攻撃を食らう頻度こそ多くなったものの、頚に届く程ではなかった。

 

(ちっ。やっぱ左腕が上手く動かねえ)

 

 思い切り筋を伸ばされた以上、仕方の無い事だ。肉体の損傷ばかりは、気合いや根性でどうにかなるものではなかった。型の大半が使えない……という事はつまり、今の伊之助は、本当の意味で鬼の脅威たり得ない。

 黒死牟もたったの一合でそれを承知したのだろう。目に見えて伊之助の脅威度を落としている。

 

(つう事は、最高の状況じゃねえか!)

 

 覆面の下で、伊之助は狂暴に笑った。自分を安く値踏みした相手に目に物を見せるなら、これ以上はない。

 一見、無茶とも言える勢いで責め立てた。深く潜り込んでいる分、血鬼術による損傷は大きい。一つ一つは大した事ではなくとも、百二百と積み重なれば話は変わる。今や伊之助の体は、浅い切り傷で元の形が分からない程だった。

 黒死牟は思った。攻め急ぎすぎて、半ば自棄になっていると。

 柱達は思った。なぜそこまで無茶な真似をするのかと。

 伊之助の意図を真っ先に察したのは天元だった。彼らには、どこか似た戦闘理論がある。

 ――手があるんだな。

 ――ったりめえだ。

 ほんの一瞬だけ、視線の交錯。完全ではなくとも、大雑把に意思疎通はできた。まさか、柱稽古中に見よう見まねで憶えた、眼孔の動きによる読心術がこんなところで役に立つとは。

 天元の動きが、またも黒死牟を先読みしたようにすら見えるものへと変わる。もしくは、天元が意図したように動かされている。

 譜面、だとか言ったか。ごちゃごちゃと理屈を言われたが、感覚的なものも多く、伊之助には理解できなかった。だから雑に、本来は無数に存在する選択肢を、全て一択に変更する技術だと勝手に考えている。

 反応速度が極端に上がった反面、動きが精彩を欠く。先ほど使っただろう時もそうだったが、今回はより顕著だ。

 そう言えば、譜面の構築は極端に難しいと、前にぼやいていた気がする。相手が強ければ強いほど、面倒な血鬼術であるほど、環境が複雑であればあるほど、完成に時間がかかる。普通に戦う分にはなくても問題なく、強敵を倒すには時間がかかりすぎるのだとか。

 つまるところ、それだけ使い勝手が悪いものを無理に利用すれば、相応の代償があるのだろう。

 

「テメェこれで失敗したら祟って出るからな!」

「誰に言ってんだ!」

 

 二人四本の剣が、乱舞が如く襲いかかる。ほとんど防御を捨てた特攻。この上で、実弥と無一郎とて合わせている。

 黒死牟が放つ斬撃の数で言えば数分の一といった程度。これでなお防御が成り立っているのだから、最早どう表現していいかすらも分からない。

 無限とも思える剣戟の中――ついに伊之助は、()()まで近づいた。

 放たれるは弐ノ牙・切り裂き。全力ではあるものの何の工夫もない一撃に、背中から天元の怒気が刺さる。獣の牙は当然の帰結として、あっさりと黒死牟に弾かれる。天元から感じるものは、最早殺意ですらあった。

 だが。伊之助が賭けたのはここからだ。

 双刀は、あっさりと手から弾かれた。ここまで軽いとは思わなかっただろう、黒死牟の剣は勢いが付きすぎて、僅かばかりだが体が泳ぐ。

 伸びた腕を真っ直ぐ黒死牟へ向け、手を開く。刃が鬼の頚を断てる距離と言うのは、接触するまで半歩分と少しといったところだ。必要分は、剣をほとんど空振りさせた為に十分稼げている。

 そのまま伊之助は、熨斗目の襟を掴んだ。

 

「…………!?」

 

 黒死牟が驚愕に目を見開く。なにせ伊之助の取った行動は、あらゆる選択の中で絶対にあり得ないものの一つだっただろうから。鬼――とりわけ血鬼術を使えるほど人を喰ってきた者に接触するのは、基本的に死を意味する。生身で触れれば溶けるように飲み込まれるし、さらに強い鬼であれば、それこそ衣服すらも問題にせず吸収する。

 ましてや今の伊之助には、日輪刀がない。太陽に連なる武器がないという時点で、鬼に傷を与える事などできないのだ。格好からして武器を仕込むような場所はないし、そもそも両腕が塞がっている。全く意味の分からない行動だろう。

 それでいい、と伊之助はにやりと笑った。

 進化した獣の時間。連動して放った玖の牙。天元と行った阿吽の呼吸。武器を手放し打つ手がないという思い込みに至るまで。全て。全てが布石。

 これこそが本命だ。

 観察して気付いた事がある。黒死牟の着物は、肉体のように再生していなかった。多くの鬼は肉体の延長として、衣類を生成している。しかし、黒死牟の着物は再生していなかった。つまり、彼の服は本物なのだ。触れていきなり喰われる事はない。

 なぜ全ての面において劣る通常の服を愛用しているかなど、この際どうでもいい。服の上からならば、一秒か二秒、接触しても問題ない。これだけが重要な事だ。

 

「ウッ……ラァ!」

 

 左腕を黒死牟の右腕に絡め、肩で手首を押さえ込む。外れないように、右手で袖ごと巻き込み押さえた。股関節の辺りに両足を置き、思い切り体を仰け反らせる。

 獪岳に曰く、自分よりでかくて強い相手と戦うならば、関節を狙え。全身の筋肉を比べ合ったら勝てなくとも、相手の一部と自分の全筋肉であれば、一方的に圧される事はまずない。

 一度言語化されれば、成る程と理解できるものがあった。同時に、今まで漠然としてきたそれを、明確な意図を持って狙えるようにも。

 ほとんど蹴飛ばすような伊之助の変則関節技に、黒死牟の体が僅かに傾く。

 右腕は封じられ、左腕は再生の途中。重心を崩され前傾姿勢になり、そうなるよう伊之助が押さえ込んでいる。今までにない、大きすぎる隙。これを感じてくれるだろうという確信があったからこそ、伊之助は頭を思い切り倒した。通り道を作るために。

 ひたすらに重く、熱い鉄の塊が額を擦って通過していく。皮膚を持って行かれた上で焼かれて、今までに感じたことのない痛みがあった。

 炭治郎や善逸のそれが、伊之助をよく理解しているが故のものなら。行冥は圧倒的な身体能力と、それを十全に生かす経験。なにより辺り一面を見透かす目だ。だから、他の誰が見逃しても、彼だけは必ず追いついてくるだろうと信じた。

 予想に一切違わず、行冥の放った鉄球が黒死牟の頭に吸い込まれる。鼓膜を破るような轟音が過ぎ去った所で、伊之助の体は限界を迎えた。

 

「あでっ」

 

 その場にどさりと転げたが、手を突っ張って寝転がるのだけはなんとか堪えた。一度気を抜いたらもう動けない。そんな予感を感じて。

 日輪刀の方へ急いで戻り、剣を取ってから、改めて黒死牟を確認した。男は地面に転がっている。その体は、鎖骨のあたりから上がごっそりとえぐり取られていた。

 勝った……と実感するより早く、背中を思い切り叩かれる。

 

「ハッハッハァ! やったじゃねえか! いきなり真っ直ぐ突っ込んでった時はコイツどうしてやろうかと思ったけどよ!」

「鬱陶しいぞオッサン!」

 

 勢いに乗って肩まで組んでくるあたり、本当に暑苦しい。

 普段ならば意地になって手を振り払いもしただろうが、今の伊之助に、それだけの余力はなかった。いきなり動けなくなる程ではないが、全身が痺れている。感覚から体の損傷状況を探ることも出来なかった。失血と、無茶に体を動かしたツケが、確実に体を蝕んでいる。

 喋る手間も惜しんで、とにかく治癒の呼吸に全力を注いだ。これが終わりではない。まだ鬼舞辻無惨が残っている。

 明滅する視界に活を入れて、周囲を観察する。部屋の中は酷い有様だった。血鬼術の規模こそ童磨に遠く及ばないためか、部屋の隅の方は無事だが。逆に、戦場の中心地はあらゆるものは細切れになっている。

 天元以外の者は、黒死牟の遺体へと近寄っていた。後は崩れて去るだけの肉の塊を……いや。崩れて、いない?

 

「攻撃……いや、距離を取れ!」

 

 行冥の警告と共に、様子をうかがっていた実弥と無一郎が同時に飛ぶ。ほとんど同時に、黒死牟の全身から、数十本の刃が生える。持っていた七支刀擬きと同じく、刀から刀の枝が生えたものが、数え切れないほどに。

 はっきりと、それは異常だった。飛び出た刃は今までの法則を無視して、半透明の三日月を遠距離まで飛ばす。伊之助に飛んできたそれは、天元が弾いてくれた。残りの者は、間一髪行冥の警告が生きて、誰も目立った損傷はない。

 

「クソッタレ!」

 

 天元が伊之助を無視して走り始める。

 最早それを黒死牟と呼んでいいのかも分からないが、とにかく体中から刀身を生み出して立ち上がった。傷口は黒く変色していて、焼けているのが分かる。だが出血はない。むしろ焼けただれた部分を押し出すように、肉が蠢き膨れていた。

 

「殺せ! 奴が何者かへ変わる前に、体をみじん切りにするのだ! 頭がない以上、まだ碌に思考は出来ないはずだ!」

 

 斬撃が。爆音が。鉄塊と斧が。あらゆる攻撃が黒死牟へと殺到し。しかし、そのどれもが体の半ばで止まる。

 

「硬っ……てぇ!」

「刃が通らない……!」

 

 いっそ極端とも言えるほど、鬼の体は強度を増していた。分厚い鉄板をまるで紙切れのように両断する柱の攻撃が、まるで通用しない。

 黒死牟の体が、その場で大きく捻られた。今までの様に、技術の極みを感じさせない、まるで子供が駄々をこねているだけの挙動。しかし全力で動いたそれは、出力はさほどでないながらも血鬼術を発動していた。

 柱立ちが押し戻される。その場にとどまれたのは行冥だけだ。

 

「クソがぁ! 大人しく死んどけや!」

 

 もう止血がどうのなど言っていられない。伊之助も混ざったが、状況は全く変わらなかった。

 ハリネズミのようになった鬼は、最早剣士とは言えない。それこそ、誰がどちらから攻めてくるかすら気にする必要が無かった。至高の技術を十全に扱っていた今までとは真逆に、今の彼は暴力の化身。ただむやみやたらに動くだけで全てを切り裂き、柱の剣技すら受け付けないほどの強度すらをも併せ持つ。

 頭が半ばまで再生すると、体にも変化が現れた。肉が刀を飲み込み始めたのだ。それは体から生えている物だけではなく、手に持っていた刀すらも。

 体に吸収された刀は、黒い斑模様となって黒死牟を守っていた。体の所々から生えている蜘蛛の足みたいなものは、剣代わりの武器か。そして一際目立つのが、背中から生えた無数の太い触手だ。短い棘を生やし、まるで手足みたく有機的な動きをしている。顔は……もはや人間だった頃の面影もない。口が大きく割れて牙が飛び出て、頭から大小二本の角が生えている。血管を何倍にも太くしたようなものが浮き出て、酷く硬質的なものとなっている。

 変異黒死牟。伊之助には、最早彼を鬼と言っていいのかすら分からなかった。

 

「おぉ……おおお……」

 

 黒死牟の口から漏れたそれは、声なのかただの音なのかも分からない。ただ一つ、消えかけた戦意が溢れ直したことだけは分かった。

 

「すぐに仕留めろ!」

 

 行冥から、悲鳴のような指示が飛ぶ。理由は、戦ってみてすぐに分かった。

 黒死牟の動きが、頭が再生してなおとてつもなく荒い。今までの面影など無く、まるで素人だ。どころか、ほとんど子供が駄々をこねているだけにも見える。甲冑組手くらいは使えていたのに、それすら出してこない。だが、それは決して容易い相手になったという事を意味しなかった。

 

「クソォ!」

「刃が……全然通らない――!」

 

 赫刀と痣の組み合わせで、なお攻撃が通らない。

 恐らくは、全身から飛び出た刀を吸収した際にできた、あの黒い斑模様のせいだろう。鬼の体でも飛び抜けて硬い部分を使って生み出すのが武器だ。体の一部なのだから、体内にある状態が一番性能を発揮できるというのも、理屈には叶っている。

 言ってみれば、黒死牟は超常的な技を持った鬼から、普通の鬼になった。ただし、ひたすら硬く、強く、赫刀すらものともしない再生能力を持つ。

 

「めちゃくちゃ硬ぇ! 削れねえ!」

「俺も駄目だ! 爆発でも揺らぐ程度にしかならねえ! 悲鳴嶼さん!」

「分かっている!」

 

 岩の呼吸 壱ノ型・蛇紋岩・双極

 今まで行冥は、黒死牟が巧みすぎて渾身の一撃を繰り出せなかった。というか、そもそも援護に集中するため、型すらほとんど放てていない。

 しかし、黒死牟が技術をかなぐり捨てた今ならば。倒すのが難しくなった代わりに、攻撃そのものは当たるようになったなら。鬼殺隊最強の男が真骨頂を発揮できる。

 鉄球と手斧が、緩く弧を描きながら、猛烈な勢いで襲いかかる。今までは繰り出す機会を与えられなかった、混じりっけ無しの全力。

 大仰すぎる攻撃に、他の隊士全員の息は合っていた。というか、むしろこちらの方が正道だ。訓練時に打ち合わせたのは、行冥がいる場合は、彼を中心に戦いを組み立てるというもの。おかしいというならば、彼が援護に徹しなければならなかった今までだ。

 実弥と無一郎がそれぞれ両腕を、伊之助と天元が背中の触手を止めて、防御させない。簡単な、とは決して言えない。技術と思考を捨てた代わりに、鬼の身体能力は桁違いに上がっているのだから。それでも獣であるならば、一秒一瞬の妨害くらいはできる。

 蛇紋岩・双極は、寸分の狂い無く黒死牟の頚へと噛みついた。そして――負けたのは牙だった。

 

「なんと……!」

 

 最高最大の一撃は、しかし通じなかった。

 確かに黒死牟の頚には、大きな切り傷とへこみが存在する。しかし、切断にはほど遠かった。その跡すらも、鉄球と斧が弾かれる頃には回復している。僅かに漂う肉の焼けた匂いのみが、攻撃が命中した証だった。

 

「私一人では無理だ!」

「クソが! つくづく無茶苦茶な野郎だなァ!」

 

 黒死牟が体をわななかせると、あっさりその場から全員が弾かれる。今までのように、射程圏内へ潜り込むのに一苦労ではないだけマシではあるものの。踏み込んだ際の危険は数倍だ。

 刀を持っていた頃は、攻撃がかすれば、本当に少し斬れただけにしかならない。しかし、あの雑に過ぎる体に僅かでも触れれば。周辺の肉ごとごっそりと持って行かれるだろう。

 

「ヲヲヲヲヲ!」

 

 奇妙な雄叫びが上がると同時に、床が破裂する。気がつけば、大きな拳が視界を覆っていた。

 

「あ――」

 

 必死になって体を傾ける。体が咄嗟に迎撃を選びそうになったが、それは理性で無理矢理ねじ伏せた。何気ない一歩で床を割るような相手の一撃は、どうしたってまともに対処すべきではない。

 傾けた頬から首にかけて、無数の擦過傷ができた。攻撃には触れていない。完璧な回避をしたのに、余波だけでこうなった。

 

「っぶねぇ!」

 

 総毛立っているのを自覚しながら、距離を置く。もし一歩目で足場を壊し、速力が半減していなかったら。伊之助はもうこの世に居なかっただろう。

 攻撃は察知できている。予備動作だって大きい。なのに、対処が全く間に合わない。知性がない故か、予測も難しかった。全ての動きを最適化したが故に速い今までとは真逆の力。

 相手が動いてからでは対処が間に合わない。が、そんな事は全く恐れるような事ではなかった。問題は、遠からず黒死牟が意識を取り戻すだろう点。恐らくは、頭をまるごと吹き飛ばしたのが功を奏したのだろう。

 今はまだ、本能のままに暴れているだけだ。しかし、これに人の意思が宿ったら。ましてや相手は現代最高の戦闘技術を持つ者。運用されるのが歩法だけでも、こちらを全滅させるのに十分な力を持っている。

 黒死牟が意識を取り戻すのはいつだ――いや、その前に殺しうる攻撃を見付けなくては――ごちゃごちゃ考えている間に死人が出るかも――

 

(どうしろってんだ!)

 

 思わず罵る。

 理不尽などというものは、そこら中に溢れていた。隊士などしていれば、特にそういったものを見る機会がある。だが、さすがにここまでどうしようもない存在だと、山のように暴言を浴びせたくなった。

 

「こいつの体は、今や鬼舞辻無惨に限りなく近い! 同時に攻撃を当てるのだ!」

(んなこた分かってんだよ!)

 

 八つ当たりだと分かっていながら、内心でそんな言葉が自然と出た。何を再認識したところで、手の施しようがない事実は変わらない。

 

「玉ジャリ、なんか手はねえのか! そのうち誰か死ぬぞ!」

「無茶を……くっ!」

 

 変異黒死牟の腕に鎖を絡めた行冥が、一瞬の時間稼ぎもできず引きずり転がされる。曲がりなりにも今まで対抗できていたのが、まるで嘘のようだ。

 まるで行冥の妨害などないかのように変異黒死牟は暴れ、その度に彼は叩き付けられる。幾度目か、全く意味が無いと知って、やむなく鎖を解き退避した。

 

「オイオイオイ、冗談じゃねえぞォ……!」

「悲鳴嶼さん、大丈夫か!?」

「私は問題ない。が、これはさすがに不味いな……」

「無四郎! そいつの正面に立つんじゃねえ!」

「無一郎だよ。分かってる、けど逃がしてくれないんだ」

 

 全身から異常な量の汗を流しながら、消え入りそうな声が返ってくる。それこそ声を出すだけでも辛いと言うように。

 とはいえ、無一郎が集中的に狙われているのは、ある意味運がいい。獣程度の思考しか持たない変異黒死牟と、自分の姿を陽炎のように欺瞞する霞の呼吸は、非常に相性が良かった。彼以外が狙われていたら死んでいた、と思える程度には。

 が、それも猶予はあまりない。

 変異黒死牟が戦いを『学習』している。或いは意識が『覚醒』し始めているのか。動きから合理が見え始めているし、事実、無一郎はどんどん追い詰められている。遠からず、身体能力に飽かせた戦い方ではなくなるだろう。

 弱点を考えようにも、そんな余裕はない。いや、今までだってあったとは言いがたかったが、今回はそれ以上だ。長大な射程距離も、緻密な剣技も、型に連動することで最大の力を発揮する血鬼術も失った。

 代わりに得たのは、ただひたすらに単純な力。とにかく強く、硬く、手数を多く。しかも、今までの鬼にあった、強度のむらがまるでない。まるで子供が考えた最強を体現したかのような生物。経験と技術の極みにあった先ほどまでほどではさすがにないが、攻撃を入れられる余裕だってほとんど無い。

 無一郎が逃げる事に注力し、四人が暴れる触手を掻い潜りつつ攻撃を入れる。最大の力が出せないというだけであって、この状態でも血鬼術の三日月は発生した。見た目の数倍は殺傷域が広く、接近だってかなりの命がけである。

 伊之助はわざと半呼吸、動きを遅らせた。触手が他の三人に集中している隙に、触手の根元を上下で噛みつく。

 獣の呼吸 陸ノ牙・乱杭咬み

 

「食い破ったるぁ!」

 

 獣の呼吸で一番殺傷力がある技だ。鋸状の刃という利点を最大限に生かし、斬るのではなく削る。

 触手と刃の間で、激しく火花が散った。確実に削れてはいる。が、速度はあまりにも遅く、背中がまるごと鉢植えみたくなっているそれを両断するには余りにも心許ない。ましてや、再生する速度の方が上であり。太陽の力に対して一段階抵抗力を高めた今となっては、日輪刀すら吸収されかねない。

 刀を肉に捉えられるより速く、体ごと引いた。すぐ後に、腕より太い触手が床ごと空間をなぎ払う。

 

「これも効かねえ! どこなら斬れんだよ!」

「一人でやろうとするな! 三人以上が同時に同じ位置を当てるのだ!」

「クッソ!」

 

 という事はつまり、伊之助と天元はほぼ戦力外になる。

 二刀流の性質上、必殺の型は二本の刀で挟み込むようなもがほとんどだ。根本的に、一撃の威力は両手持ちの剣士に劣る。連携を取るだけならばともかく、攻撃を多重に当てようと考えた場合、足手まといになりかねなかった。

 足止めすらろくに出来ない以上、最早伊之助にやれる事はない。など。

 

「冗談じゃねえ!」

 

 意味が無いから何もしない、などと恥ずかしげもなく言えるのならば。最初から、戦いの世界に身を置いてなどいない。

 どれだけ無意味に見えても。細やかでも。できる事は必ずあるはずだ。

 負けてもいい。失敗してもいい。くじけたっていい。でも、逃げるのだけは、絶対に許せない。一度逃げてしまえば、嘴平伊之助は嘴平伊之助として生きていけなくなるだろう。

 

(思考は捨てろ)

 

 望んだのは、獣の時間のさらなる拡張。というよりも、自分自身の主導権を獣の時間に明け渡すという事だった。

 

(頭で考えんな。肌で全てを判断しろ。俺は、それが出来るはずだ)

 

 かつて、嘴平伊之助という名も知らず自覚もなかった頃。そうやって生きてきた筈だ。あの頃に戻ればいい。ただし、力だけは今のまま残して。

 死ぬ気はさらさらない。だが、命を賭ける覚悟はある。後は全てを本能に任せようとした、その一瞬前。

 

「完成した!」

 

 天元が、歓喜に声を上げた。

 次の瞬間、彼の動きが極端に鋭くなる。やっている事自体は今までと変わらない。攻撃を避け、いなし、避け、隙があれば頚を狙う。ただ、全ての精度がとてつもなく上がっていた。それこそ、いきなり別人になったのかと頭が混乱するほど。

 うなる触手を、あらゆる物質を砕く豪腕を、余波の血鬼術に至るまで、全て予知でもしているかのように掻い潜る。

 影響は彼だけに留まるものではなかった。伊之助達柱も、そして変異黒死牟さえもが天元の思い通りに動かされている。まるで雁首揃えて演技でもしているような、奇妙で気色の悪い一体感。

 払った刀でほんの少しだけ姿勢を崩させ、追撃に実弥が体を掬い上げた所で気付く。これが譜面だと。

 以前にも譜面は見たことがある。柱稽古で完封された事だってあるし、先ほどまでも、不完全ながら譜面を見せていた。

 これまで天元が完成した譜面を見せなかったのは、黒死牟の力が想像の埒外だったからだ、とはなんとなく分かっている。相手を読み切れないというのは、天元にとって極端に苦手な相手だったのだ。

 ただし、今ならば違う。変異黒死牟の能力は、予想以上ではあっても予想外にはならない。天元にとって、この上なく相性がいい存在へと変わっていた。

 ここだ――そう全員が確信する。いっそ超常的とも言える性能と、高度な戦闘技術を兼ね揃えるまでの僅かな時間。天元の譜面が機能している間にしか、もう勝ち目はない。

 死と隣り合わせとは思えないほどに体がよく動き、面白いように攻撃が当たる。幾重にも轟音が響き、同じ数だけ攻撃を成功させていた。

 それでもなお、変異黒死牟を倒すには至らない。

 攻勢が上手く機能するようになったのは喜ばしいが、あくまでそれだけだ。要である頚への同時攻撃には至らない。いかに理性を消失したと言えど、相手は黒死牟。易々と弱点を突かせてくれるほど、安い相手ではなかった。

 千日手……にはならない。以前優位に立っているのはあちらであり。こちらが体力の限界を迎えるまでもなく、強さの許容限界を超えてくる方が早い。というより、既に秒読みの段階だ。

 しかし、同時に信頼もある。勝利の目がないまま、天元が「完成した」などと言うはずが無い、と。

 

(動かされてるみてえで癪だが)

 

 苛立ちはあるが、天元に向けた物ではなかった。自分の不甲斐なさがとんでもなく口惜しい。

 ごちゃまぜになった勘定を抱えながら、しかし、全く不愉快でないのが不思議だった。

 

「やってやンよぉ!」

 

 到達しかけていた獣の時間の到達点、そこへ辿り着くのを放棄する。無闇に変化を与えれば、譜面に余計な歪みを与えるだけだ。ただし、いつでも突入できるよう、心の準備だけはしておいた。予想外なんて事は、いくらでもあり得る。

 譜面が敷かれてどれほど時間が経ったわけでもないのに、じりじりと焦りが生まれる。変異黒死牟が目に見えて戦闘技能を使い始めたというのもあるが、それ以上に、戦況に全く変化が見られないからだ。

 最適な瞬間があるという理屈は分かる。分かるが、堪えられるかは話が別だ。矢面に立たざるをえない無一郎など、既に死にそうな顔色をしている。

 ひたすら天元の筋書きに沿うだけの時間が過ぎていき。それはいきなり起きた。

 天元が鎖双刀の先端を持ち、射程距離を延長させて振るう。しかし、それが向かった先は鬼の頚でも、ましてや黒死牟ですらなかった。彼の足下、さんざん斬られ、砕かれた床の片隅に、巾着袋が転がっている。それと刃の先端が、接触するか否かという所で。

 突如、大爆発が起きる。

 何が起こったのか、全く理解できなかった。無一郎もそうらしく、構えは解いてないものの、驚愕で動きが止まっている。

 

(斬撃の爆発……なわけねえよな)

 

 明らかに彼の日輪刀で起こせる爆発の限界を超えている。ましてや発生源が違った。包丁を巨大化し、中央当たりが半円形に抉れているのが天元の得物だ。音の爆発はそこから発生する。それに、あくまで空気が反響して爆発が起きるため、今のように黒煙までは上がらない。

 二人が硬直している間にも、残った三人は即座に呼応し、疾駆していた。煙の向こう側に見える変異黒死牟の姿は、上半身しかない。下半身が消し飛んだ訳ではなく、崩れた床の中に埋まってしまったのだろう。

 三位一体の強襲になる筈だった攻撃は、しかし。当の天元によって崩された。

 

「オイ!」

「何を……!」

 

 天元は刃を振るわなかった。代わりに――驚くべき事に――変異黒死牟に組み付く。

 横から飛び込み正面から抱きつくような形だ。ただ手足を絡めているようにしか見えないが、それも忍術か何かなのだろう。日輪刀を繋ぐ鎖を背後に回し、相手の腕を絡めながら、刀の半円形に開いた場所同士を引っかける。

 刀を回しただけでは生まれる余白を、自分の肉で埋めた。ここから自由に動くためには、両手が体に密着し動かない状態で、日輪刀を破壊するか。もしくは天元の体を吸収するしかない。

 そして、変異黒死牟は後者を選択した。

 ずぶずぶと体を飲み込まれながらも、天元が叫ぶ。

 

「俺ごと殺れ!」

 

 言葉にはっとして、伊之助は駆けた。実弥と行冥は、既に憤怒の表情を浮かべて猛烈な攻勢を見せている。連続で横殴りにされている黒死牟の頭が、左右に激しく揺れた。

 伊之助と無一郎も背後に回って、頭と背中を集中的に切りつけた。薄皮を一枚一枚剥ぐような感覚が、ひたすらにもどかしい。こうしている間にも、天元は吸収されているというのに。なんとか彼が生きている間に、こいつを殺さなくては。

 

「ぐぅ……お……。何……が……!?」

 

 まだ勝負を決定づけると言えるほどの傷を与える前に、苦痛に呻く声が上がった。獣の雄叫びではない、人間のそれが。

 

(間に、合わなかった!)

 

 吐き気に似た感覚が、喉からせり上がってくる。自分達の戦いだけではない。この道筋に至るまで発生した、全ての犠牲が泡と消える。

 

「体が……」

「逃がさねえよ。お前はここで俺と死ぬんだ」

 

 犬歯をむき出しにして、精一杯嘲る天元に対して。黒死牟はあくまで淡々と答えた。

 

「ならば……貴様を飲み込むまでの事……」

 

 天元以外を意に介さないのは、どれほど急いだところで、致命傷を受ける前に抜け出せると踏んだからだろう。それは正しい。全く以て正しい。これだけ、ほとんど無防備な相手に攻撃をしておきながら、多少の切り傷という程度しか与えられていないのだ。

 だが。それを一番理解して居るであろう天元は、なお嘲りをやめなかった。

 

「胡蝶は天才だ。だが、どうしようもなく才能がなかった」

「何を言っている……? 気が触れたか……」

 

 語っている間にも、彼の体は目に見えて減っている。黒死牟の死までは――まだ遙か遠い。

 

「あいつの作り上げた毒は、確かに革新的だった。だが、そいつを十全に扱うには矮小に過ぎたんだ」

「…………」

「ははっ、テメェも間抜けだなあ! 体がでかくて! 毒に耐性があって! 山ほど服用しても動きの精度を落とさねえ! 俺みたいな奴が使うってのが正解なんだよ!」

「ぐ……ごぶっ!」

 

 いきなり、黒死牟が大量に吐血した。

 劇的とすら言える変化はそれだけではない。変異黒死牟を化け物たらしめていた、体の黒い斑点がぼろぼろとこぼれ落ちていく。いや、それだけではない。全身に亀裂が入り、少しずつ崩壊させている。天元の仕掛けた何かが、変異黒死牟の再生能力を上回ったのだ。

 刃が鬼に、深く突き刺さった。久しく感じていなかった、肉を裂く感触。脆くなった、というよりは弱くなった。あからさま過ぎるほどの衰弱。

 

「日輪刀を壊すか、俺の体を喰うかなら、当然俺を喰うわなあ! その方が全然簡単だ! お前はまんまと()()()()()って訳だ!」

「貴様ッ! 離……れろ!」

「耳が腐ってんのか? 言っただろ! テメェは俺と死ぬんだよ! 本当なら無惨の糞野郎にブチかましてやるつもりだったが、テメェで我慢してやるって言ってんだ! 光栄に思いな!」

 

 狂気にすら思える哄笑を上げながら、天元は語り続けた。

 体中の穴という穴から血を噴き出している。既に半身近くを失ったのと、黒死牟の体から無理矢理排除されようとしているので。体の中をかき回すような、悍ましい感触があるだろう。そんなものすら受け入れている。いや、この姿を見てなお、正気が残っていると言えるほど、伊之助は図太くない。

 

「ある意味幸運だったのは、テメェの変体だ。ゴフッ……ゲフ……。随分代謝がいいみてえだなあ。一瞬で毒が回りやがった。グ、ゲ……。もっと遅いことも、覚悟してたんだが、杞憂だったか」

 

 もう天元の言葉は、誰に聞かせているのかも分からない。もしかしたら、ただのうわごとだろうか。

 誰も答える事はしなかった。伊之助も。ただ、両目から涙がずっと零れ続ける。

 これ以上毒の塊を吸収する事はできない。日輪刀を砕く力も残っていない。かといって、着々と体は崩されている。詰みだ。一人、尊い犠牲の下に、上弦の壱を討ち取った――

 

「私が……このような……死に方を……。武士……として……」

「はっ」

 

 黒死牟の戯言を、天元が鼻で笑い飛ばした。

 

「駄目だね。自分の罪を噛みしめて、ただの化け物として死ね」

 

 やがて――

 四人の刃が、かつて上弦の壱だったものをすり潰し。肉と塵の見分けがつかなくなった頃には、天元の体は半分ほどになっていた。

 彼の残した顔は。地獄ですら味わえないような陵辱を受けて、なお穏やかだった。

 全員の痣が一斉に消える。意図したのではなく、皆が皆、限界だったのだ。

 伊之助は歩こうとして、しかし失敗しその場に倒れ込む。その後にどさどさと音がした。気が抜けてしまったのだろう。まだ終わりではないと分かっていながら、体が動かない。気力だけで動いてきたようなものなのだから、ある意味当然だ。

 唯一立っていた行冥が、今までの機敏さが嘘のように、のそのそと天元へ近づく。そして、彼の頭に手を触れた。

 

「すまない、お前の亡骸を連れていく事はできない。せめて額当てだけは……必ず妻達に届けると誓おう」

 

 呟き永結び目を解き、懐にしまい込む。優しく額に手を添えて瞼を閉じさせ、手を重ね合わせ涙を流しながら祈った。

 そんな光景が、何故だろう。涙が溢れそうなほど気に入らなかった。

 落としてしまった刀を鞘に収め、立ち上がろうとする。だが、足が痺れているように言う事を聞かない。何度か叩いてみたが、言う事を聞くようにはなってくれなかった。小さく舌打ちをして諦め、張って進む。

 

「伊之助、何やってるの?」

「決まってんだろ、無惨の野郎を探してぶっ殺すんだ」

 

 無一郎の問いに、半ば吐き捨てるようにして答えた。

 体が上手く進まない。そう言えば、左腕も痛めていたと思い出す。ああ、苛々する。激情を溜め込まずに、床を叩いた。弱々しいそれは、木の板を割る事さえできない。

 ……なんでこんなに心が揺れているのか、本当は分かっている。

 仲間が殺された光景は、いくらでも見てきた。しかし、長く一緒に居て、共に高めあい、時には笑いながら肩を組み、同じ使命を抱いて戦うと誓った者が。()()が殺されたのは、これが初めてだった。

 いい奴だった。面白い奴だった。気の合う奴だった。殺されていい――奴じゃなかった。

 この感情を何と言えばいいのか、伊之助には分からない。ただ、どうしようもなく腹立たしかった。碌に役立たなかった自分の弱さが、化け物になってまで生にしがみついた黒死牟が、自分の体を爆弾にして死んだ天元が、全ての元凶たる鬼舞辻無惨が。何もかもが許せない。

 

「伊之助。座って休め」

「うるせえ! まだ糞野郎がいる! 残りの上弦だって生きてるかもしれねえ! こんなとこで休んでられるか!」

「……お前も分かっているのだろう? 無闇に動いても意味は無い。ましてや今の我々では足手まといだ。鎹鴉は、既に本部へ討伐の報を持って行った。返ってくれば、戦況と敵の位置を知らせてくれる」

「分かってる……分かってんだよお!」

 

 滲む視界は堪えようもなく、力なく何度も床を叩く。

 天元が遺してくれたのは、戦果だけではない。時間もだ。

 今なら、彼の『譜面』がよく見えてくる。恐らく、変異黒死牟の力を知ってから、ずっと考えていたのだろう。鬼を可及的速やかに倒しつつ、残った柱が回復するだけの余裕も作るにはどうすればいいかと。

 数々の手管と策を重ね、裏をかき、たった一人の犠牲であの化け物を倒せた。その価値は、よく分かっている。――だから何だと言うのだ? 彼が上手くやったから、自分達が最大限の戦力を残せたから。そんな事で、死を納得など出来るはずがない。

 

「そんでも俺は……!」

「気持ちは痛いほど分かる。我々も同じものを抱いているのだ。だからこそ、今は休め。宇髄の献身に報いる為に」

 

 ぐぅ、と伊之助の喉から呻きが漏れる。返す言葉など、最初からない。これはただの我儘であり、駄々をこねているに等しい。

 

「まだ戦えんだろォ。じゃあ休め」

「どうせやるんだったら宇随さんが望む事をしようよ、伊之助」

 

 実弥と無一郎にまで釘を刺されれば。

 最後にもう一度だけ床を殴りつけて、伊之助は仰向けに転がった。体を大きく広げて、全集中の呼吸に注力する。

 

「必ず……糞野郎をぶっ殺すぞ」

 

 言葉は、語りかけているようであり、自分に言い聞かせているようであり。

 

「ああ。必ず今夜、決着を付ける」

「うん、そうだね」

「当り前の事をいちいち言うんじゃねえよォ」

 

 上がってきた同意に、伊之助は小さく拳を握った。

 

 

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