獪岳と善逸   作:山筋

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新米奮闘

 強い。それが竈門炭治郎が鬼と戦って真っ先に感じたことだった。

 足下から溢れる闇が縦横無尽に暴れ回る。幸い威力は全力で抵抗すれば拮抗できる程度だ。が、とにかく切れ味が洒落にならなかった。弾いた波濤だけで周囲にある建物を簡単に輪切りにしてしまうのだ。そんなものが、周囲五間を包むほど膨大に存在する。

 

(おまけに……)

 

 とにかく包まれればその時点で終わりだ。がむしゃらになって動いていると、近くに匂いを感じた。いや、これほど近距離になるまで追い込まれていた。

 かなり無茶な姿勢で体をずらす。そうしなければ、同じく誘導されていた伊之助と激突していただろう。

 もっとも、その程度で窮地を脱出できたわけではない。もはや二人は完全に囲まれていた。猫一匹通り抜ける程の合間もない闇の包。そして、一斉に放たれる刃。

 

(戦いが上手い!)

 

 接近自体には、伊之助も気がついていた筈だ。その上でどうしようもなかった。これを言い表すならば一つしか無い。実力が違いすぎる。

 善逸は一人、鬼を挟んで反対側で戦っていた。持ち前の速力で躱し続けているものの、距離を詰められる様子は全くなかった。どころか、闇の波を捌くために刀を抜きっぱなしだ。

 彼最大の長所は、神速の移動から放たれる居合いだろう(というか呼吸の型をそれしか見たことがない)。その彼が納刀できないという事は、呼吸の技を封じられているに等しかった。

 

「伊之助!」

「おうよ!」

 

 長く語らう必要は無い。ただ呼びかけるだけで、それに応えてくれる。

 二人は背中同士を合わせた。その勢いのまま反転、僅かに作られた勢いを利用して、互いに深く息を飲み込む。

 水の呼吸 参ノ型――

 獣の呼吸 肆ノ牙――

 無限とも思えるような刺突が隙間無く襲いかかる。まるで処刑を待つ罪人のようだと思った。これから行うことが失敗すれば、正しくその通りになるだろう。

 流流舞

 切細裂き

 二人同時の連続攻撃。十重二十重に突き出される穂先を、考える余裕もなく切り落としていく。砕け飛び散る破片が皮膚を薄く裂いていった。が、そんなものは気にしていられない。とにかく腕を動かし続け、やがて勢いが弱まり、包囲に使われていた闇も薄まった所で。

 

「今!」

「分かってらあ!」

 

 水の呼吸 肆ノ型・打ち潮

 獣の呼吸 壱ノ牙・穿ち抜き

 炭治郎がまばらになった闇を寸断し、伊之助が隙間をこじ開ける。

 闇の鞠から脱出した所で、休める余裕などなかった。脱出口を予測して待機していた特濃の闇が巨大な槍となって、脱出口ごと突き刺そうとしている。二人は互いを蹴り合って、なんとか直撃だけは避けた。脇腹にはかすり傷が作られたが、この程度で済んだなら上々以上の成果だろう。なにせ標的を失った槍は、そのまま対面の家を穿ち、吹き飛ばしさえしたのだから。

 一カ所に集まれば鬼の思うつぼ。炭治郎は鞠をを迂回して左に走り、伊之助は屋根へと飛んだ。

 これだけ大規模な血鬼術を連発しておきながら、いささかも衰えた様子はない。むしろ何事もないように、一カ所にとどまって鼠を弄ぶ猫のような笑みをたたえている。

 

(考えろ! 見つけろ! まずは暴くんだ!)

 

 額にびっしり溢れる汗を拭う間もなく、炭治郎は脳を今までに無いほど高速回転させた。

 獪岳は厳しいが優しい人間だった。善逸曰く、口は悪いしすぐ手が出る。突き放すような事を言うのもしばしば。でも、絶対に仲間を守ってくれる。世界一優しい厳しさなんだ。炭治郎も匂いと、そして実感として、よく分かった(殴られるのに関してだけはだいたい善逸が悪いと思ったが)。

 教えてくれていた。鬼との戦い方、そして鬼への生き残り方。全てを伝えていた。あとはそれを自分のものにするだけだ。

 真っ先に思い出したのは、始めて戦った異能の鬼だ。影を使い、闇の中に隠れて、三人に増える鬼。一人一人は普通の鬼以下の身体能力しかなかったが、代わりに三位一体の連携は厄介この上なかった。恐らく禰豆子がいなければ負けていただろう。

 離吽はあれの完全上位互換だ。数こそ増えないものの、十倍以上の闇を操り、あまつさえそれを攻撃にも使える。変幻自在で、活用も一辺倒ではなく考えて扱われていた。おまけに、恐らく本人も弱くない。いくら削った所で血鬼術は目減りせず、これは予想だが、砕いた刃は闇に回収され、量は常に一定を保っている。闇に包まれれば、この世からあらゆる痕跡を消すかのごとく感知できない。

 みっともない泣き言なのは分かっていたが、真っ当な手段でこの鬼を打倒する手段が一つも思い浮かばなかった。自分一人では近づく事もまず無理だろう。これと同等の鬼を単機で押さえ込んでいる獪岳は、いったいどれほどの実力を持っているのか。

 

「ははは! やっぱり全く話にならないねえ! でもいいさね、弱いくせに威勢だけはいいガキは嫌いじゃないよ。いい悲鳴を上げてくれるからねえ!」

 

 離吽は鬼殺隊をただただ刈り取る対象としか見ていなかった。この状況において、それは全くもって正しいとしか言い様がない。

 彼女は、鬼としての力で言えば鼓の鬼に数段劣るだろう。しかし、どちらが厄介かと問われれば、間違いなくこちらだった。

 

(鼓の鬼は弱体化していた上に、血鬼術の一部を奪われていた。その上戦いも、あまり上手いとは言えなかった。強い血鬼術を持ち、生前から戦いを知ってて、精神にも余裕がある。たったそれだけで、鬼はこんなにも変わるものなのか!)

 

 戦慄しながら、防戦一方の炭治郎らに。

 今までほとんど見ているだけだった離吽が、頭上で十字を結んだ。それを解放するのと同時に、叫ぶ。

 

「血鬼術 絡み冥海破(からみめいかいは)!」

 

 今までなど比べものにならないほどの闇の柱、それが彼女の周囲に三本も立った。明らかに予想していた闇の総量を超えている。あれほどの力ですら、本気ではなかった。

 柱は飛沫をまき散らしながら、螺旋状に走った。もう家の一棟二棟などという次元の話ではない。区画全てを抉り取っていった。地図そのものが塗り替えられるほどの大破壊。

 さらに飛び散る黒い水滴までもが刃になっている。こちらは人を殺すほど強くはないが、隊服の上からでも突き刺さる程度の威力はある。人の体は鬼のように、簡単に治りはしない。少し筋肉を傷つけられただけで動作の質は極端に下がる。そして、これを全て避けきるのは不可能に近い。

 即死でも削りでもどちらでも構わない。まさに攻撃の極みにある技だ。

 だが。炭治郎は確実に感じていた。膨大な血鬼術を攻撃に割り振りすぎたが故の、隙の糸を。

 

「任せたぞ!」

 

 それ以上の言葉は要らなかった。

 ここで始めて、善逸が納刀する。雷のような、周囲を震わせる深く響き渡る呼吸。その代償は、完全な無防備だ。

 炭治郎は更地になり、砕かれ落ちた家の壁を蹴り上げた。それが善逸の右側を守り、自分は左に回って刃の花吹雪をとにかく切り落とす。

 雷の呼吸 壱ノ型――

 作られた瞬きほどの間隙、それだけで十分だった。善逸の体が獪岳もかくやという速度で消失する。幻想の雷光を迸らせ、一直線に鬼へと向かう。だが、

 

「それを考えてないと本気で思ったのかい間抜けぇ!」

 

 離吽の呵々大笑。持っていた小刀を連続して投げる。鬼の力で放られたそれは、銃弾などよりよほど威力があるだろう。空中で走り、方好転できない善逸に、もはや死以外の運命はない。

 善逸だけならば、の話だが。

 

「猪突猛進! 猪突猛進!」

 

 両雄の間に割り込む人影。伊之助がのこぎりのような刀を大きく振りかぶって、疾駆する小刀へと突っ込んだ。

 獣の呼吸 捌ノ型・爆裂猛進

 どれだけ早かろうが威力があろうが、少数かつ来るのが分かっていれば彼にとって苦でもなんでもない。全ての小刀を弾くと、空中で体を捻り、まるで背中を足場のように作り直す。

 霹靂一閃・(かさね)

 善逸が伊之助の背中に乗り、二度目の霹靂一閃を放つ。

 近距離での再加速。いかな上位の鬼と言えど、これにはさすがに反応しきれなかった。

 闇と雷、二つが交差する。

 善逸の着地と同時に、離吽は大量の血を口と首から溢れさせた。背を向けた善逸は相手を確認すらせず走り出し、そして絶叫した。

 

「失敗した!」

 

 首の皮一枚で繋がっている。切断しきれなかった。

 失敗した? いや、違う。避けられたのだ。善逸が空中で再度の足場を手にした時点で、これ以上の対抗手段がないことを悟った。だから、逃げに専念された。

 離吽は右手でちぎれそうになる頭を無理矢理押さえ、怨嗟の声を響かせる。

 

「グゾガギ、グゾガギ、グゾガギどもがあ!」

「散れえ!」

 

 伊之助の声に、全員が反射的に動いた。

 離吽の足下が急激に膨れ上がり、瀑布が生まれた、周囲にある何もかもを爆風が吹き飛ばす。炭治郎はなすすべもなく飲み込まれ、吹き飛ばされた。

 かなりの距離を転がされたにも関わらず、目立った傷がないのには幸運と言うより他ない。血鬼術であらかじめ建物も何もかものを削り飛ばされていたのが功を奏した。もし町並みがそのまま残っていたら、何にぶつかっていたかも分からない。おかげでいつ受け身をとるかにだけは苦労しなかった。

 すぐに起き上がり、状況を確認する前に叫ぶ。

 

「たたみかけろ! 日輪刀でつけた傷は瞬間的に治らない! 勝つなら今しかないんだ!」

「舐めるんじゃないよカスどもの分際でえ!」

 

 離吽が片手を地面に触れる。強力な鬼の――血鬼術の気配。それこそ今までのものなど比べものにならない。

 

六道四道大獄道(りくどうしどうだいごくどう)!」

 

 一点に集まっていた闇が、不揃いに拡散した。あぜ道に作られた水たまりのようだ。所々不自然な膨らみがあり、それが不規則に流動している。なにより、そこにはもう、離吽の姿は存在しなかった。

 

「おい、まじいぞ!」

「どこにいるか分からないんじゃ対処のしようがない!」

 

 次々に悲鳴が上がった。

 伊之助は地面の代わりにされてしまった闇をげしげしと蹴っている。昔に出会った闇の鬼のように、すぐ飲み込まれるという事はないようだが。代わりに泥のように体に粘り着き、動きが、とりわけ呼吸の戦士数少ない鬼に対する利点の瞬間的な速度が奪われた。

 さらに、ある意味こちらの方が深刻だ。闇に隠れた離吽を、こちらは誰一人として察知できない。

 最悪の想像が炭治郎によぎった。もしかしたらこの闇はただの血鬼術なのではなく、闇自体が離吽なのではないか。つまり、離吽を探すこと自体に意味がない。だとすれば、本当に打つ手がなくなる。

 闇の全てから声が響く。隅々まで均等な声量で。

 

『もう遊んじゃやらないよ。あんたらはじっくり、確実に殺してやるさね』

 

 言うが早い、闇溜まりに無数の波紋が生まれた。これ自体に攻撃力はないが、沈む足を四方八方から乱れて引っ張る。まともに走れない。

 

「みんな! とにかく走り続けるんだ!」

 

 予感があった。もしこのまま全身が飲み込まれたらどうなるのだろうか。

 かつて影を扱う鬼に飲まれた時は、呼吸はできずとも体を動かす事自体はさほど難しくなかった。だが、これだけの粘度があるならば。それこそ身動きも取れず、窒息死してしまうのではないか。

 全員が走り始めるが、動きはあまりにも緩慢だった。とにかく足を上げるのに苦労する。

 また、波紋に紛れて小さな津波が襲いかかってくるのも問題だ。こちらは低いとはいえ、攻撃力がある。一撃で足をもがれる程ではないが、それでも肉をこそぎ落とされそうではある。言うまでもなく、今の状況で食らえば致命傷と大差ない。

 さらに、水面の膨らみから、唐突に腕が生えた。そこから何本もの持っていた刃を投擲してくる。ただでさえ足下に気を取られている時にされると、それを捌くのも難しい。

 だが、小刀の雨に晒されながら、伊之助が笑った。

 

「ゲハハハ! こいつの投擲、さっきより全然下手くそだぜ! これならなんてことねえ!」

 

 言葉に、はっと気がつく。

 

「そうか! 頚を断たれかけて、鬼が万全な訳ないんだ! 逆に言えば、治りきられたらもう勝機はない! みんな、踏ん張れえ!」

「踏ん張れったって、どうすりゃいいんだよ!」

「俺に敗北二文字はねえ! 真っ直ぐぶっ飛ばしてやるぜ!」

 

 こんな時に、伊之助の威勢の良さはありがたかった。善逸は……まあ仕方ないと思おう。現状は、彼にとって一番力を発揮できない環境だし。

 

『あたしが多少衰えた所で、あんたたちが強くなったわけじゃないんだからねえ! 必殺の血鬼術の前に沈むがいいさ! そしたら今までの家畜みたく、餌にしてやるからさあ! 無駄なんだよ、無駄無駄あ! 結局お前たちは、何もできない食料でしかないんだよ!』

「けして無駄なんかじゃない! 人の命を奪ってのうのうと生きるお前たちに、何かを生み出して人に分け与えることを知らないお前なんかに、絶対に無駄なんて言わせない!」

 

 ひときわ息を大きく吸う。

 この闇は水の柔軟性を持った泥だ。それはつまり、水くらい弾けるという意味でもある。

 水の呼吸は防御に偏った技。悪い足場で扱える型の一つや二つある。腰を思い切り捻り、そして地面に刃を向けた。

 水の呼吸 陸ノ型・ねじれ渦

 大量にまとわりついてひたすら重くなった刀を、深い呼吸で得た力で無理矢理振り抜く。浅くなった闇泥の上で、二度ほど足踏みした。今まで踝近くまで埋まっていたが、今では草履が沈む程度になった。

 僅かに生まれた隙を逃さず、さらに次の型へと繋げる。

 水の呼吸 拾ノ型・生生流転

 生生流転は、水の呼吸の中でも特殊な、攻撃に特化したものだ。攻撃を繰り返せば繰り返すほど、威力が上がる。幾度となく回転を繰り返し、地面を満たす闇をとにかく削り続けた。

 

「単一郎やるじゃねえか! つまり全部ぶっとばしゃいいんだな!」

 

 伊之助も真似をして、とにかく足下を切り刻み始める。足場が自由になり始めた事で、彼の動きは飛躍的に良くなっていった。

 

『チィッ! とっとと死ねばいいものを、小賢しい!』

 

 離吽が煩わしげに吐いた。ここに来てやっと、始めて苛立ちを見せる。

 今や血鬼術は攻略されかかっていた。後はどちらの体力が先に尽きるかになる。その場合、恐らくは大技を使い続けている離吽が根を上げるだろう。

 故に、彼女は先手を取った。

 畝の一つから上半身を出して、両手を闇の中に突っ込んだ。それを思い切り持ち上げて、振り抜く。炭治郎に狙いをつけて。

 

「血鬼術 血の針」

 

 数十という数の槍が、炭治郎を取り囲むように襲いかかる。

 まずい、と思ったときにはもう遅かった。生生流転に全力を出していたため、今から回避行動に移せない。そうでなくとも面制圧のごとき攻撃を捌ききるのは不可能だっただろう。背中の筺がかたりと音を立てるが、それもあまりに遅すぎた。

 

(あ……死ぬ)

 

 覚悟というよりは、悟りを感じた時。

 急に、炭治郎の体が吹き飛んだ。あまりの速度に何が何だか分からなくなり、固い地面に叩き付けられる。

 着地した場所は、離吽の領域外だった。受け身という発想を持つ間もなく吹き飛ばされ、肩を強打した。何が何だか分からず、それでも体をさすりながら立ち上がると。背中に妙な違和感を感じた。

 さすってみる。何か固い感触。取り出して見ると、それは小柄だった。

 

(これが刺さって、俺ごと外に引っ張った……?)

 

 としか思えない。

 筺と肉体の僅かな合間を縫い、囲うような血鬼術の抜け道を見切り、精緻かつ強力に投擲して逃がした。

 炭治郎ははっとして鬼を――離吽ではなく阿漢の方を――見る。獪岳は相変わらずあの鬼と戦っているが、しかしちらちらとこちらを気にしているのも分かった。

 

(あの鬼と戦いながら……俺たちの援護までしていた!?)

 

 今更になって気がつき、何も言えなくなる。どう考えても二体の鬼を同時に相手取るより難しい。一体どれほどの実力があれば、そのような真似ができるのか。

 

(って、そんな事考えてる場合じゃない!)

 

 面倒を見られているなら、なおさら期待を裏切ってはいけない。戦線復帰すべく、すぐさま走った。善逸の方へ。

 

「合わせろ!」

「分かった!」

 

 走り回る善逸の着地点に向けて、炭治郎は剣を振り上げる。

 水の呼吸 捌ノ型・滝壷

 膨大な流水が叩き付けられるがごとき一撃は、ただの一発で闇の沼を打ち払った。

 確かな足場を得た善逸は、極端な前傾姿勢を取りつつ抜刀術の構えを取った。独特の呼吸音が近くで反響する。三人の中で最も殺傷能力が高い、否、殺戮能力の高い一撃。

 

「させるかい!」

 

 離吽から、再び無数の攻撃が放たれた。先ほどの槍じみたものほど重そうではないが、代わりに数は数倍。全てを捌いて善逸を守り切るのはさすがに不可能だ――思いながらも刀を構えた時だった。また小柄が振ってきた。

 無数の小刀に横やりを入れた小柄は、連鎖的に他の攻撃も巻き込んで、大半を明後日の方向へと飛ばす。残ったのは、炭治郎でも十分に打ち落とせる程度の数だった。

 

「ひっ」

 

 離吽から悲鳴が上がり、再び闇の中に逃げようとする。

 当然だろう。鬼が一番警戒する相手は、善逸に他ならない。いや、恐怖を感じざるをえないと言うべきか。誰だって、自分の頚を落としかけた相手を一番気にする。

 だからこそ、これがただの布石だとは思うまい。

 

「いただいたぜえ!」

 

 全くの意識の外から声が上がる。

 始めて気付いたというように、離吽が声の方を向いた。猪の化身であり、散切り刃を振り上げた、鬼を刈り取る閻魔の姿。反撃に対する恐怖すらなく、ただただ一直線に抹殺を行う化生じみた鬼狩り。嘴平伊之助。

 離吽の体が急速に消えていく。伊之助もけっして遅くはない。ただ、それより闇が飲み込む方が早のが分かった。

 千載一遇を逃した――

 そう思った時だ。

 消えつつあった女の胴体を、刀が縫い付けた。黄色い刀身のそれが深く鍔元まで貫き、女の動きを止める。それが決定打となった。

 獣の呼吸 参ノ牙・喰い裂き

 水平に交差した刀は、驚嘆に見開かれたままの女の顔を、高く高く打ち上げた。

 

「ッ獪岳は!?」

 

 鬼を退治した余韻すら味わわず、善逸が屋根の上を見る。この場で助ける人間など、一人しか存在しない。

 獪岳は無手だった。刀を投げた姿勢のまま、至近距離で鬼と対峙している。

 色変わりの刀。そして呼吸の技術。この二つは共に、鬼に対抗する無二の存在だ。どちらが欠けても鬼には勝てない。その一つを手放した獪岳には、もはや死以外の結果などなかった……

 それでも善逸は、全力で飛んだ。霹靂一閃は一歩で数間を飛び越える。だが、どうしたって武器の届く距離にいる鬼より早い一撃にはならない。

 誰もが獪岳の死を悟って。

 しかし彼の表情は冷静なまま、鬼の目の前で柏手を打った。はっきり言って、何の意味も分からない行動だ。鬼に対してあまりにも無力。だと思われたが。

 

「ギィ、アアアアア!」

 

 なぜだか鬼が顔を押さえて、悲鳴を上げた。

 一瞬、だが雷の呼吸の使い手にとっては十分過ぎる隙。善逸の一閃が、鬼の体から頚だけを切り取った。

 転がる阿漢と離吽の頚が、丁度向き合うよう同じ位置に転がったのは、偶然か必然か。彼らは今まで猛っていたとは思えないほど穏やかに呟いた。

 

「負けちまったなあ離吽」

「そうだねえ阿漢。こんなのあのお方以来だよ」

「へへっ、ちゅう事は俺らは今度こそ地獄行きか」

「いいじゃあないかい。あたしゃ楽園なんざご免だよ」

「まったくだ。ぶっ殺して、ぶん盗って、俺たちゃそうやって生きてきた。これからもそうだ。ずっとそうだ……」

「今更お天道様の元なんてこっちから願い下げさね。地獄大いに結構。今度は閻魔相手にでも喧嘩売ってやるさ」

「ああ……愛してるぜ、離吽……」

「あたしもだよ、阿漢……」

 

 呟いて。囁いて。最後まで己を変えず顧みず。ただ受け入れて、二人の鬼は塵と成って消えた。

 彼らの行いは絶対に許せるものではない。それでも。最後の時くらいは、穏やかでもいいのではないだろうか。たとえ地獄行きだとしても、二人一緒にいるくらいは認められるべきなのではないだろうか。

 そう思いながら、炭治郎は視線と手を合わせていた。

 などと、静やかな気持ちでいられたのはほんの少しだけだった。

 獪岳と善逸が屋根から降りてくる。わめき立てる善逸を、獪岳が面倒くさそうにあしらっていた。

 

「獪岳の馬鹿! なんで刀投げるんだよ! 本当に死んじゃう所だったんだぞ!」

「あーうるせえうるせえ」

 

 珍しく本気で怒っている善逸に、獪岳は面倒くさそうに耳をほじっている。ついでに、小指についた耳くそをふっと息で飛ばした。

 

「死ななかったんだからいいじゃねえかよ。第一、俺ならあそこから女の頚を落として、速攻切り返して男も殺せたっつうの」

「だからってわざわざ危ない橋を……!」

「それに」

 

 善逸の言葉を遮るようにして。多分獪岳が微笑んだのは、気のせいではないだろう。

 

「お前が来る。そう思った。したら来た。そんだけだ」

 

 言われ、善逸は顔を真っ赤にしながら口をぱくぱくさせ。やがてにっこにこに笑いながら、それでも形だけの文句を続けた。

 

「だからってやっていい事じゃないだろ。次からもう、本当にやめろよ。まったくまったく」

 

 言いつつ、獪岳の肩をぺちぺちと叩いている。された方は多少鬱陶しそうにしていたが、とりあえずされるがままになっていた。若干、グーで殴りたそうな仕草は見せていたが。

 獪岳は刺さったままの刀を引き抜こうとして、ふと手を止める。何かを落とすように幾度か手を払った後、柄を握った。

 全体像が露わになり、月光に反射する黄色い刀身を見る。どこからどう見ても、普通の日輪刀だ。恐らく刀としての性能も大差ないだろう。にも関わらず、この圧倒的能力差。いつかそこに自分もたどり着けるのだろうか……炭治郎は、いつの間にか彼の剣閃に憧憬を抱いていた。

 と、ふとそこで思いつく。

 

「あの、獪岳。いくつか聞きたい事があるんだけど」

「ん?」

 

 納刀している彼は、戦闘時の緊張感とは比べものにならないほど弛緩している。といってもいつもピリピリしている(というか意識を緩ませきらない)人なので、あくまで比較的でしかない。

 

「これ、投げたの獪岳だよな。なんでこんなもの持ってるんだ?」

 

 言いながら、小柄を取り出した。自分の背中を引っ張ったものと、血鬼術を迎撃してくれた物の二種類。

 刀身を確認した限り、日輪刀ではない。いや、仮にそうだとしても、二寸もない刀身では頚を斬れるだけの長さはないだろう。せめて小太刀程度はなければ。

 獪岳は渡された小柄を受け取って、刀身を確認した。

 炭治郎を引っ張った方は、先端が多少刃こぼれしている程度だったが。さすがに血鬼術の迎撃を行った方如何ともしがたく、鎬まで半ば断たれているものまであった。まだ使えそうな一本だけをしまって、残りは鞘ごとその場に捨てられる。

 

「あると便利なんだよ。目くらましくらいにはなるし、上手く使や今回みたいに人が助かる事もある。ちゃんとした投擲術を会得してる事が前提だけどな。ちなみにその辺にある石でも可」

 

 へえ、などという気の抜けた返事だけが出た。

 実際に見せられればその有効性は疑いようもない。これだけの事ができれば、戦いの幅も広がるだろう。とりわけ遠距離攻撃が得意な鬼への対抗手段として申し分ない。自分もちょっとやってみようかな、と思ったと所で、ひっそり肩をつつかれた。

 

「獪岳の真似しようっていうならやめた方がいいぞ。あいつ、ただの投石でもそこらの人間を軽く殺せるほどの威力と精密さで投げられるからな」

「怖っ」

 

 他に出る言葉がなかった。

 人間は簡単に死ぬ、というのはあくまで鬼殺隊という殺伐とした組織に所属しているからの感想だ。普通に生きていれば人などほいほい死なない。案外しぶといものなのだ、人間とは。それを簡単に殺せる能力があると言うのは、凄いを通り越して引く。

 気分を切り替えて、もう一つの質問を問いかけた。

 

「あとこっちの方が気になったんだけど、最後の猫だましで、なんであんなに鬼が苦しんでたんだ?」

 

 ある意味こちらの方が謎だった。

 鬼は基本的に不死であり、それが理由かは分からないが痛みには非常に鈍い。例外は日輪刀で斬った場合であり、これは切創というよりは火傷のような痛みだとか。藤の花の毒はどちらかと言えば麻痺のようなものであり、痛みを与えるものとはまた違う。

 鬼に“苦痛”を与えるのは、実は殺すより難しいのだ。これも鬼舞辻無惨の秘密を暴くのが難しい一因とされている。

 鬼に“肉体的苦痛を与えて怯ませる”というのは、余人が思っているより遙かに難しい。

 

「そりゃ簡単だ」

 

 獪岳が袂に手を突っ込み、何かを取り出した。

 

「こいつ何でも持ってやがんな」

 

 炭治郎があえて言葉にしなかった事を、伊之助が代弁した。

 手に持たれていたのは、小汚い小さな布袋だ。中身を少しだけ掌に落とす。それは粉状で、元は白かったものが薄汚れたような色をしている。他に、これといった特徴はない。本当にただの粉だ。

 

(…………? なんなんだろう、これ)

 

 鼻をひくつかせて、匂いを嗅いでみる。よく分からなかった。

 嗅いだことのない匂いなのではない。ただ、複数の匂いが混ざり合ってこれと判断できる材料がなかった。もう少しで分かりそうなのに、分からない。始めて感じる妙な感覚だった。

 

「ひとつまみ舐めてみろ」

 

 言われて、三人が粉の山から、指にうっすら乗る程度の量を取って口にする。

 

「辛ぇ!」

「……塩?」

 

 妙な雑味はあるものの、それは間違いなく塩だった。予想外すぎて思わず呆ける。

 

「藤の香で燻した塩だよ。こんなもんで、と思うかも知れねえが、案外馬鹿にもできねえ。鬼っつったって所詮元は人間だからな。数少なくはあるが、まんま弱点が通用するもんもある。奴の前で手を打ったのはただのはったり、本命は塩の粉末を目にぶっかけてやる事だった訳だ」

「ちなみに、藤の香の効果ってどの程度なんだ?」

「お祈り程度だよ。ないよりはマシかと思ってな」

 

 それもそうか、と納得した。藤の香で燻った程度のものにそこまで効果があるなら、鬼狩りはもう少し楽になっている。

 ちなみに、と獪岳は続けた。

 

「鬼に関係なく塩は小袋一つ分持っといた方がいい。山の中で迷った時、塩舐めて水飲んでれば一週間くらいは生き残れる」

「まずその状況に陥るのがとてつもなくやだよ……せめて文明圏で活動させてくれよ……」

「上層部にでも言え」

 

 憮然とした物言いは、なんとなくそんな経験をしてきたのだなと思わせた。あるいはそういうことをほいほいしてくれるから、そんな仕事ばかなり回されるのか。

 想像し始めたらちょっと怖くなってきて、炭治郎は考えるのをやめた。

 

「さて、行くか」

「行くって、どこへ?」

 

 刀を竹刀袋に隠す獪岳に、善逸が問いかけた。

 獪岳は肩をすくめてそれに答える。

 

「めちゃくちゃ働いて死ぬような目に遭って、そんでもって生き残った。そしたら、後はやるこた一つだよ」

 

 どこか鋭さと刺々しさを感じさせる笑みは、どうしてだか、普通に笑うよりよほど彼に似合っていた。

 

 

 

 よほどの寒村でない限り、眠らぬ場所というのはある。正しくは眠らないのではなく、旅人が来る度にたたき起こされるというのが正確だが。

 炭治郎も鬼殺隊に入って始めて知った事だが、この“眠らぬ場所”は町の規模と、交流の多さによって変動する。それこそ以前行った浅草などは、町全体が夜にもかかわらず光に溢れていた。

 ここ篠窪の場合は、正直に言って浅草とは比べるべくもなく小規模だ。だが、交通都市という特性からか、中央通り近辺だけは小規模ながらも夜を通して光がともっている。さすがに土産屋などは開いていないが、飲食店や居酒屋の類いは大抵営業していた。賑わいもかなりのものではないだろうか、というのはただの肌感覚だが。こういう町の中心部は、むしろ夜こそがかき入れ時なのかもしれない。

 その深夜営業店の中の一店舗、中でも『高級飯店』に類する店へ、獪岳に連れられ三人は案内されていた。

 炭治郎のみならず、善逸や伊之助までもが店内を見回す。皆の感想は同じだった。つまり、自分たちは場違いなのではないか。

 

「な、なあ獪岳。ここ全然落ち着かないんだけど……。もっと別の、なんか、気安い場所の方がいいんじゃないか?」

「馬鹿言え。そこらの安い飲み屋なんて入ってみろ。うるせえわ酔っ払いに絡まれるわ、挙げ句の果てに喧嘩が始まるわろくなもんじゃねえ」

「いや、そもそも何するつもりかも分かんないんだけど」

(というか入ったことあるのか、飲み屋)

 

 妄想の中で、獪岳が飲んだくれながら同じ酔っ払いを蹴手繰り回す。そのあまりにも似合いすぎて、炭治郎は思わず頭を振った。さすがに失礼か。

 店内の印象としては、かなり落ち着いた所、だった。話し声やらは結構聞こえるのだが、半個室になっており、仕切りで姿までは見えない。内部は広々として、店員の制服も清潔かつ統一されている。実はこれは、結構珍しい。同一規格とはいえ、新しい服を新調し続けるというのはかなり金がかかるのだ。これだけでも店の格式が低くないと分かる(そういった意味では、鬼殺隊の財力はもう想像の埒外である)。

 やや怪訝そうな店員に個室へ案内されると、獪岳はとっとと注文を始めた。

 お品書きを眺める。すき焼き屋、なる店で料理は数種類のみのようだ。と言っても、肉や野菜の種類(部位?)は色々選べるようだが。副菜は結構な種類があるし、酒はそれ以上に多かった。

 しばらくすると、大きく底の浅い鉄鍋が運んでこられた。他にも米と足し汁(割り下と言うらしい)、追加の食材がたっぷり。

 目の前で香ばしい香りが漂うと、途端に空腹を自覚した。そういえば、最後に食事をしたのは昼だったか。

 気がつけば、皆が鍋をつついていた。

 

「うめえ! なんだこりゃ! とにかくうめえ!」

「俺、本物のすき焼きって初めて食ったよ!」

「本当にうまいなぁ。皆にも食べさせてあげたかった」

「相変わらず騒がしいなお前らは」

 

 この味はなんと表現すればいいのだろう。醤油が元なのは間違いないが、強い甘みがある。間違いなく砂糖が大量に入っている。明治以降、粗糖が大量に入ってきたらしく、庶民でも手が届くようになった。それでもけっして安価ではない。ましてやこれほど強烈な甘さを出すとなれば言わずもがな。

 本当に、とにかく滅茶苦茶うまかった。今まで食べてきたものが劣るという意味ではない。ただ、庶民的な料理と高級料理がどう違うのか教えられた気がした。

 食べ物が半ば無くなった頃に、獪岳が店員を呼びつける。

 

「米が足りねえ、飯櫃で持ってこい。肉と野菜も、とにかくじゃんじゃん寄こせ」

「ご注文は承りましたが……その、お代の方は大丈夫なのでしょうか?」

 

 女性の店員が、四人を回し見ながら疑わしげに問いかけてくる。

 次々と(主に伊之助に)奪われていく鍋の中身に少し意識を奪われながら。言われるのも仕方ないだろうな、と炭治郎は自分たちの姿を顧みた。

 はっきり言って、獪岳以外は酷い有様だった。埃くらいははたき落としているが、服には所々傷があるし、よく見れば血の跡も分かるだろう。止血はしたし包帯も巻いたが、その程度で誤魔化しきれるものでもない。そもそも服からして特にいい物を着ている訳でもないのだし。伊之助を見て目元が引きつった事実からは目をそらす。

 店員の疑念に気にした様子もなく、獪岳は巾着袋を放り投げた。慌てて店員がそれを受け取り、袋を開けて愕然とする。

 

「そんだけありゃ足りないって事はねえだろ。早くしろ」

「は、はいっ! ただいま!」

 

 慌てて去って行く店員を、ぽかんと見送る。

 早々に鍋へと戻った獪岳に、さすがにはっとして聞いた。

 

「あれいくら入ってたんですか!? あんまり多すぎると、さすがに足りるか不安なんですけど」

「誰がお前らになんぞ払わせるんだよアホ」

「いや、でも奢って貰うのも……」

「甲は使い切れないくらい給料貰ってんだよ。今回だって食って寝る以外に必要なのは小柄と塩の補充だけだ。いつも邪魔になった分は藤の家紋の家に捨てってるしな。そもそも俺は食わせてやってるんじゃなくて、お前に《食え》と命令してんだよ。分かったらたらたらふく食え」

 

 きっぱりと言われて。炭治郎は苦笑しながら、食事との格闘を再開した。なんで善逸がここまでなついているのかがよく分かる。

 皿に残った食材を全て鍋に入れながら、ふと獪岳は気付いたようにこちらへ向いてきた。

 

「そういや禰豆子はどうしたんだ? 食わねえのか?」

「禰豆子は鬼になってから食べ物を食べないんだ。その代わりに寝るんだけど」

「まあ、問題ねえなら構わねえが」

 

 労ったというよりは鬼の生態が気になるという様子で、淡泊に鍋が煮えるのを待つ作業に戻っていく。

 それからしばらく。全員が満腹で動けなくなるほど食い、宿へ戻った。布団に入った瞬間、全員が泥のように寝た。それまで、獪岳は一言も今日の戦いについて言及しなかった。

 翌日の朝それとなく聞いてみると、細かい悔恨など噛みしめるよりまずは体だ、と言われた。嘘ではないだろうが、全くの本音でもないだろう。思い返すまでもなく、駄目な部分はとっくに指摘されている。もっとはっきりそういう所を出せば、いろいろな人に好かれるだろうに。それを選ばないのか、選べないのか。

 食べるだけ食べ寝るだけ寝て、怪我はともかく体力だけは充実した。

 朝というには遅く、昼と言うには早い。半端だったためか、人通りがまばらな隙間の時間。

 町を出ようとした時、誰かが駆け寄ってくる。

 

「お、お待ちください鬼狩り様!」

 

 息を切らしながら追いすがってきたのは、初老の男、だと思った。なぜか確信が持てないのは、彼の奇妙なちぐはぐさが原因だろう。

 身なりはいい。まず間違いなく町で高い身分なのだろう。しかし、その他全てが抜け落ちている。顔立ちはさほど年老いてなさそうに見えるのだが、散見される白髪に疲労で落ちくぼんだ目元にと、外見から年齢を察する事ができない。

 おまけに、周囲からの視線だ。行商は何事かとチラ見しただけだが、町の住人からはあからさまに嫌悪の色があった。中には鍔を吐き捨てる者や、そそくさと退散する者までいる。軽んじられているなどという程度の話ではなかった。とてもではないが権力者への対応ではない。なにより、当人がそれを甘んじて受け入れている。

 

「鬼狩り様、鬼狩り様が頑張ってくださったおかげで、私たちは……」

 

 まだ呼吸も整わぬうちに、続けようとする。だが声が聞き取りづらいのは、そのせいだけではなさそうだ。

 言葉を言い終えぬまま、唇を強く噛みしめた。痩せ細った手で胸を撫でながら、やがて嗚咽が漏れる。

 

「我々のせいで、四名もお亡くなりになってしまい……それでも私は化け物に逆らえず、鬼狩り様のお慈悲に縋るより他なく……」

 

 漏れ出るのは、弁明か謝罪か。本人にすら分かっていなさそうだ。

 

「なんと言えば……」

「頑張ってなんてねえよ」

 

 唐突に、獪岳が男の言葉を遮った。不意に視線が獪岳へ集まる。

 彼の顔からは、表情を読み取ることができなかった。ただ、匂いからはなんとなく良く思っていない事だけは分かる。さすがに理由までは分からないが。

 感情がつかめない顔つきのまま、続けられる。

 

「俺たちゃ呼ばれてただ斬っただけで、一晩で終わりだ。苦労なんざなにもねえ」

「いや俺たちはめっちゃ苦労したよ。あの鬼クッソ強かったよ」

 

 善逸がぼやきだか合いの手だか突っ込みだかを入れるが、当り前のように相手されない。

 

「ぱっと殺って終わりだ。怪我らしい怪我もしてねえ」

「死ぬ思いしたしめっちゃ怪我もしたよ。無傷だったの獪岳だけだよ」

「本当の怪我ってもんがどういうもんか教えてやろうか? お前の体で」

「かすり傷でした!」

 

 獪岳がこれ見よがしに握った拳をちらつかせると、善逸は直立不動になった。

 そっかー善逸はこうやって黙らせるのかー。などとどうでもいい事を考える。

 

「とにかく、俺たちは何も頑張ってねえ。ただ仕事をこなした、それだけだ。お前みたいに長い間鬼の脅威に晒された訳でも、一人でも多く生かすために仲間から後ろ指指されながらも鬼にへりくだった訳でも、ばれれば処刑されると分かってて鬼殺隊(俺たち)に内通した訳でもねえ。お前のそれに比べりゃ、全部一瞬だろうよ」

 

 言葉に。炭治郎は、どこか足下が覚束ない心地を味わった。

 獪岳は最初から全部知っていた。あるいは察していたのか。目の前の彼が鬼と内通して、町人を生け贄に差し出していた。表向き鬼の側に立ちながら、裏では鬼を殺すべく――あるいは追い出すべく――手を尽くしていた。

 鬼は許せない。人を殺す存在が許せない。命を弄ぶ鬼舞辻無惨が許せない。竈門炭治郎という個人にある正直な気持ち。

 そういった心が自分をどれほど圧してくるか、知っている。ましてや長い間となれば、いつ心が壊れても可笑しくなかっただろう。

 彼の行為は到底許せないし理解もできない。だが、今の姿を見て、全てを否定することもできなかった。

 無力であるという事がどれほど空しく哀れかをよく知っている。自分には教えてくれる人がいた。力をくれる機会さえあった。それら何もかもがない時は、きっと、目の前の男みたくなるしかないのだろう。

 

「だから」

 

 獪岳が気だるげに男を見る。吐く言葉にも強さは何もない。

 ただ、

 

()()()()()()()

 

 呟きは、奥深くまで男の心に染み渡った。

 男は呆然とした表情のまま、ぽろぽろと涙を流し始めた。雫はとどまる事を知らず量を増やしていき、顔がくしゃくしゃに歪み、最後には顔を押さえた。今まで溜め堪え続けたものを全て吐き出すように、男が呻く。

 

「も、申し訳ありません……鬼狩り様の前で、無様な姿を……申し訳ありません……申し訳ありません……」

 

 袖でいくら顔を拭っても、表情すら取り繕えない。溢れる全てのもので、顔面がぐしゃぐしゃだ。

 幾ばくかそのまま待ち。男が顔を上げたときは、歪ながらもなんとか精一杯の笑みを作りながら、囁くように言った。

 

「ありがとう、ございました」

 

 それが、やっとの事で絞り出せた言葉だった。

 別れを告げて(男はほとんど言葉になっていなかったが)、街道を真っ直ぐ上る。町が見えなくなったところで、ずっと不機嫌だった伊之助が口を開いた。猪の面の上からでも、目元が険しくなっているのが分かる。

 

「で、なんであの糞野郎を許してんだ?」

「何の話だ?」

「とぼけんじゃねえ。あいつは仲間を売った屑だぞ」

「だから許してねえよ。少なくともあれが仲間だったら半殺しにしてる」

「あ、全殺しにはしないんだ」

 

 余計な事を口走った善逸が引っぱたかれる。頭の中に何も入っていないのではと思わせる軽い音がした。

 嫌悪も露わに、獪岳は続ける。

 

「必要だからそうしただけだ。あいつだけでもこれから幸せになろうと思ったら、町を出て行くしかねえ。少なくとも周りにとってあいつはただの裏切り者だ。誰に理解されなくとも、少なくともあいつはすべきことをした。後はまあ、本人と周り次第だ」

「じゃあ、みんなのために?」

「ためって程ご大層でもねえな。言ったろ。必要だった、そんだけだ」

「彼らはこれから、幸せになれるかな……」

「無理だろ。少なくともすぐには」

「え?」

 

 即座に断言され、炭治郎は獪岳を見た。

 諦めの匂いと悲しみの匂いと、そして多くを占める慣れの匂い。最後の一つが、鬼が過ぎ去った後というのがどういうものかを物語っている。

 

「人は変わらねえ明日を信じるのは簡単なんだ。それが楽園でも……たとえ地獄でもな。だが、変わった明日を信じるのは、思っているよりも難しい。恐る恐る今日を生きて、『いつも』が来ないと、『いつも』が来るんじゃないかと怯えながら過ごすんだ。そんでやっと明日が変わったことに気がつく。実感を得るのはさらに先だ。変わった今日を受け入れられるのは数ヶ月、もしかしたら数年後かもしれねえ」

 

 言いながら、獪岳は頭を振る。

 言葉には実感があった。同時に、炭治郎に心当たりも。あの日、唐突に細やかな幸福が壊されるまでは、その時が永遠に続くと思っていた。もしかしたら、今ですら禰豆子を人に戻して時を戻そうと、まだ夢の中にいるのかもしれない。

 

「俺たちにできるのは『変える』所までだ。変えた事を知らしめるには、まず本人の努力が必要なんだよ。もうできる事はねえ。今を見ようとしたときに、俺の言葉が効いてくる……かもしれねえ。その程度の、お守り代わりにもなりゃしねえもんだけどな」

「俺は、いいと思った。うまく言えないけど、とてもいい言葉だったって思うんだ」

「解釈なんて好きにすりゃいいさ」

 

 伊之助はまだ得心いっていない様子だったが、それ以上何も言わなかった。

 分かれ道に着いたところで、獪岳が首を鳴らした。やっと解放された、とでも言うように。

 四人だったのが、三人と一人に立ち直す。そして、両者で向かい合った。

 

「これでお守りは終わりだ。お前ら、死なねえ程度に……」

「カァー!」

 

 語り始めで、鎹鴉がやってくる。声の届け先に困った獪岳は、首に手を当てていた。

 

「獪岳、善逸、炭治郎、伊之助! 直チニ那田蜘蛛山ヘ向カウベシ! 複数ノ鬼ヲ確認! 注意セヨ!」

 

 言うだけ言って、去って行く鳥を目で追った後に。

 正面から、深い、深い嘆息が聞こえた。

 

「お前らとは、もうちょっと長い付き合いになるみてえだな」

 

 面倒だ。その様子は些かも隠していなかったが。不快を感じている匂いだけは、全くしなかった。

 

 

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