【本編完結】とある武術家ウマ娘がトレセン学園に転入する話 −流れ星の転校生−【リメイク版】   作:カンヌシ

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28話 懐かしい場所、懐かしい温もり

 

 

 

 

 都内のとある病院の待合室で、シンボリルドルフが長椅子に腰掛けている。

 

 その様子にいつもの英姿颯爽な雰囲気は無く、俯いて悔恨に両手を握り締めていた。

 

 陽はとっくに落ち、病院の面会時刻もそろそろ終わる頃だった。他のウマ娘たちが寮の門限で帰った後も、ルドルフはそこに残り続けた。

 

 胸の中の重石が、彼女をその場から動かしてくれないのだ。

 

 

 コツ、コツ、とリノリウムの床に足音が響く。ルドルフがその音のする方に視線を向けると、マリンアウトサイダの保護者である老人が歩いてきていた。

 

 彼女はすぐに立ち上がり、老人に頭を下げる。

 

 

「お久しぶりです、角間氏」

 

「久しいな、シンボリルドルフ。ドウザンがバカやらかしたあの時以来か?」

 

「光陰如箭……ええ、あれからもう2年経ちます。その節は大変お世話になりました」

 

 

 シンボリルドルフは老人と向き合うと、目を瞑り再び頭を深く深く下げた。それは挨拶ではなく、謝罪をする為だった。

 

 

「この度は、お孫様のマリンアウトサイダに起きました事を、心からお見舞い申し上げます。そして……申し訳ございませんでした。この事態は、予見できたはずでした。私が生徒会長の権限を使ってでも止めるべきだったかもしれません。ですが、私には出来なかった。レースを走る彼女の姿を見たかったばかりに……」

 

 

 老人はふむ、と頷く。

 

 

「座りなされ、シンボリルドルフ。『皇帝』が簡単に頭を下げちゃあいけねえよ」

 

 

 老人が長椅子に腰掛ける。遅れてルドルフも躊躇いがちに腰掛けた。

 

 

「……失礼します」

 

 

 ギギ……と金具が音を立てる。暫く2人は無言のままだった。ルドルフは、レース場での事を思い返していた。

 

 

 マリンアウトサイダがターフに倒れた後、彼女は待機していた救急車によって直ぐに都内の病院へと搬送された。事前に彼女の心臓については知らされていたので、救助隊がいつもに増して迅速に対応できるよう配備されていたのが幸いしたのだ。

 

 危険な状態だったが、彼女は辛うじて一命を取り止め、現在も集中治療室にて治療を受けている。予断は許さない状況であると医師からは告げられた。

 

 

 

「そう難しい顔をすんじゃねぇ、アイツは大丈夫だ」

 

 

 老人がルドルフに言った。

 

 

「……っ、しかし」

 

「アイツの背中を押したのは俺だ。そして走る事を選んだのはアイツだ。お前さんに責任はミジンコ程も無えよ」

 

 

 老人はルドルフの眼を覗き込む。同じようにルドルフも老人の目を見つめ返した。その老人の眼差しには、不安の色は一切無かった。明鏡止水、まさにその境地に達した武人の眼だった。

 

 ルドルフはいつの間にか、安堵している自分に気が付いた。彼は自分の孫娘が危険な状態であると言うのに、何故こんな眼をしていられるのだろうかと、不思議に思った。

 

 

 そんな事を思っていると、不意にルドルフの頭に、老人がポンと手を置いた。そのまま彼は優しく労わるように、ルドルフの頭を撫でた。

 

 その手は幾千もの修羅場を超えて生き抜いた武人の手だった。そして、多くの苦しみも悲しみも知っている手だった。撫でられる毎にルドルフの心から緊張と罪悪感が消えていった。

 

 

「お前さんは気負い過ぎだ。『皇帝』と呼ばれていようが、俺からしちゃあまだまだ子供だ。手が届かなかったからと言って要らん罪悪感は抱かんで良い。自分の手の届く『間合い』を把握しな。武術と同じだよ」

 

「……はい」

 

 

 老人はルドルフの頭から手を離して、続ける。

 

 

「ミドリなら大丈夫だ。俺が鍛えたんだ。アイツはそんなヤワじゃあねえ」

 

「……すみません、本来なら私の方が、彼女の家族である貴方を励まさなければならないはずなのに、私の方が元気づけられてしまいました」

 

「『老成持重』ってやつだ。年季が違う」

 

 

 老人の言葉で、ルドルフは表情を和らげた。マリンの容態への不安は拭えないが、ここで項垂れていては『皇帝』として彼女に顔向けできないと、少し自信を取り戻した。

 

 

「お前さんはそろそろ帰りな。門限はとっくに過ぎてんだろ」

 

「……後少しだけ……ここに居ても、良いでしょうか?」

 

 

 老人はチラリとルドルフを見て、腕を組んで背もたれに寄りかかる。

 

 

「好きにすると良い……」

 

 

 再び、待合室に沈黙が訪れる。ルドルフも老人も、ここに居ない者たちも皆、ただひたすらにマリンの為に祈っていた。

 

 

 彼女が帰ってくる事を信じて、待つ事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………

…………

………

……

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

……

………

…………

……………

 

 

 

 

 

 

 

「…………………んぅ」

 

 

 

 陽の眩しさに黒髪のウマ娘、マリンは目を覚ます。彼女はゆっくりと身体を起こして眼を擦った。

 

 そよ風が草と土の匂いを運んで来て、遠くから鳥の鳴き声も聞こえてきた。

 

 

 

「……あれ、何で私……?」

 

 

 

 マリンはぼんやりとした意識で周囲を見渡すと、自分が屋外に居る事に気付いた。服装は普段着として実家で着ている薄手の袴だった。

 

 彼女は外で無防備に寝るなど、いつもならあり得ないはずなのに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 

 

 

「んん……んっ!? あれ、パーカーは!? どこ、どこに行った!?」

 

 

 

 マリンは外出するなら必ずあのパーカーを身に付けていた。自分の周囲をキョロキョロと探すが緑色のパーカーは見当たらなかった。

 

 

 

「どこ!? どこかに置いて来たのかな、探さなきゃ……! って、ここは……」

 

 

 

 マリンが遠くまで見渡そうとして立ち上がると、そこは自分の知らない場所だった。草原が広がっていて、遠くの方には雑木林がある。少し先に車が通った轍の残る畦道が丘を越えて続いていた。

 

 

 

「……ここは、何処だろう? 知らない場所のはずなのに……なんだか『懐かしい』……草の匂いも、鳥の声も、花の色も……何で……」

 

 

 

 マリンはゆっくりと歩き出す。パーカーはこの辺りには見当たらない上、じっとしている理由も無い。とりあえず、遠くに続く畦道に沿って先に進む事にした。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 それはマリンにとって不思議な感覚だった。知らない場所のハズなのに、この先の『目的地』に向かって彼女の脚は勝手に進んでいた。

 

 この道の先に何があるのか分からないのに、そこを目指さなければならないと何かが彼女を急かしていた。

 

 そして暫く歩いていると、道の先に何やら横に大きく広がった建物と、柵に囲まれた広場のような場所が見えた。

 

 

 

「あれは何だろう、牧場かな……? でも、牛も羊も飼われていないみたいだ……誰か居ないのかな」

 

 

 

 マリンはその牧場らしき場所を目指すことにした。人が居ないか確かめようと、広場の柵に沿って歩き続けた。

 

 

 

(ここは……やっぱり何か動物を放牧する施設なのだろうか。バケツや綱、飼料箱とかが置いてある。何に使うのか分からない物も沢山あるけど……)

 

 

 

 マリンは興味深げにそれらを少し眺めると、建物のドアを開けて中を覗き込んでみたりもした。しかし、誰も居ないようだった。勝手に入るのはマズいと思い、外の方を探索する事にした。そうやって、更に奥まで進むと……

 

 

 

「あれ、ここって……坂路?」

 

 

 

 柵の突き当たりまでたどり着くと、広場の横に何やら整地された一本道が遠くまで続いていた。そこはまるで、トレセン学園の坂路トレーニングコースの様な印象があった。

 

 

 

(でも、ここはウマ娘がトレーニングする場所にしては作りが大雑把過ぎる……もっと何か『大きな動物』が走っていく為に作られてるような……でも……)

 

 

 

 マリンは胸を押さえる。自分の中の何かが、その場所に強く反応していた。

 

 

 

「……この感じは、何だろう……? 自分がそこで走った事があるような……何で……」

 

 

 マリンは突然湧き上がってきた感情に戸惑っていた。しかし、いつまでもじっとしている訳にはいかない。仕切りのように何層か柵が張ってある場所を、マリンはそれらを飛び越えて、更に奥に進んだ。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

「わぁ……ここ、は……」

 

 

 牧場の外れには、草原が広がっていた。雄大な大地の上に、緑がどこまでも続いている。

 

 

「綺麗だ……でもやっぱり知らない場所なのに……何で、『懐かしい』って感じるんだろう……」

 

 

 

 マリンが草原を眺めていると、背後から2人の男性の話し声が聞こえた。マリンは耳をピクッと動かした。声はゆっくりと近づいて来ているみたいだった。

 

 マリンが振り向くと、いつの間にかすぐ側に2人の男性が立っていた。マリンは驚いてビクンと身体を震わせるが、その2人はマリンを見るとホッと安堵した表情になった。

 

 1人は古ぼけたジャンパーを着ている初老の男性、もう1人はスポーツジャケットにジーンズを着た若い男性だった。2人はマリンの事は認識しているようだが、マリンには話しかけずに2人で会話を始めた。

 

 

 

「やぁっと見つけたよ。コイツ、隙を見せたらすぐに脱柵するんだ。地頭が良いのに気性も荒いしな。調教師泣かせな馬だよ、全く」

 

 

(ウマ……調教師……? 何のことを言っているんだろう)

 

 

「ははは……まあでも、頭が良い分コースも直ぐに覚えてくれるのはありがたいですよ。■■■■君と会えば、暫くは大人しくしてくれるでしょう。彼、確かここに来てるんですよね?」

 

 

「えっ…………」

 

 

 

 ドクンとマリンの心臓が鳴った。よく聞き取れなかったが、彼女はその人物を知っている気がした。

 

 

 

「すみません! 今、誰とおっしゃいましたか!? もう一度……もう一度お聞きしても……!」

 

 

 

 マリンが話しかけても、2人は聞こえていないかのように会話を続けていた。するとスポーツジャケットの若い男性が、額に手で日除けを作り、草原の方を見つめ出した。

 

 

 

「ああ、居ましたね彼。ほら……向こうの方に」

 

 

「え……?」

 

 

 

 ピューーーイ!

 

 

 

 と、指笛の音が聞こえた。その瞬間、またマリンの心臓がドクンと鳴った。彼女はその音を知っていた。『あの人が来たんだ』……何故だかそう強く強く思った。

 

 マリンは音のする方をゆっくりと向いた。その視線の先には……

 

 

 

 

 

 緑色のパーカーを着た『あの人』が立っていた。

 

 

 

 

 

「あ……ああ……っ」

 

 

 

 マリンは震え出した。心臓が飛び跳ね、呼吸が上手く出来なくなる。目の裏が熱くなってくる。

 

 

 

「あっ……あぁ…………」

 

 

 

 歩き方すらも忘れてしまったかのように、マリンの脚は動かなかった。

 

 

 

「ほら……」

 

 

 

 マリンの横で、初老の男性が初めて彼女に言葉をかけた。

 

 

 

「行ってこい、『マリンアウトサイダ』」

 

 

 

 

 

 ダッ……

 

 

 ダッ……

 

 

 ダッダッ……

 

 

 ダッダッダッダッダッ……!

 

 

 

 

 マリンは『あの人』へ向かって駆け出した。最初はもつれるようだった走りも、次第にしっかりとした走りに変わっていく。

 

 だがそれは、レースの為の走りではなかった。娘が父親に向かって駆けていくような、心のままにただ前に進む為の走りだった。

 

 

 

 

 マリンは思い出した。

 

 

 

 

「はぁっ、はあっ……んくっ……はぁっ!」

 

 

 

 

 走りながら、その目から涙が溢れていく。彼女はただがむしゃらに脚を前に進めている。

 

 

 

 

「はあっ、はあっ……! 会いたかった……!」

 

 

 

 

 草原に立つ『あの人』の顔が見えた。それは決して幻ではなかった。

 

 

 

 

「ずっと……探してた……!」

 

 

 

 

 視界がぼやけても、マリンは構わずに走った。

 

 

 

 

「どこにも……居なかった……!」

 

 

 

 

 彼は両腕を広げて待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おとうさんっ……!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マリンアウトサイダは、その腕の中に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おとうさんっ……おとうさん、おとうさん、おとうさん……!」

 

 

 

 涙声を上げて、マリンは彼の胸に顔をすり寄せる。それは競走馬だった彼女がいつも彼にしていた仕草だった。

 

 

 

「会いたかった……ずっと探してた……! ずっと待ってた……おとうさん……おとうさんっ……!」

 

 

 

 そう父を呼び続けるマリンを、彼は力強く腕の中に抱き締める。マリンは彼の匂いに、包まれていた。ずっと求めていた彼に、やっと会えた。その懐かしい温もりを全身で感じていた。

 

 

 

「……ごめんな、マリン。会いに行けなくて、本当にごめん。でもずっと見ていたよ。マリンの走る姿をずっとずっと、な」

 

 

 

 マリンを包む彼の腕に力が篭もる。マリンは子供のように声を震わせて泣いた。

 

 

 

「おとうさん、おとうさん……おとうさん!!! うあああああああああ!!! ああぁ……ああああああああぁぁぁ……!!!」」

 

 

 

 世界を超えて抱き続けた願いが、その思いが、涙となって溢れ出す。『彼』は静かに、マリンをその胸に優しく抱き続ける。

 

 

 

「おとうさん……私、走ったよ。たくさん勝てば、おとうさんが来てくれると思って……でも、走れなくなっちゃった……走ると胸が苦しくなって……それでも会いたかったから……会いに来て……欲しかったから……!」

 

 

 

 彼はマリンの頭を宝物に触れるように、優しくゆっくりと撫でる。

 

 

 

「ああ、分かっていた。お前は才能に溢れる馬じゃなかったのにな……頑張ったな、マリン。お前は他のどの馬よりも頑張った……頑張っていた」

 

「おとうさん……おとうさん……!」

 

 

 

 マリンはより深く、彼の胸に顔をうずめる。彼女はこの温もりをずっと求めていた。ずっと感じていたかった。

 

 

 

「お前の走りは、届いていたよ……悲しい結末を迎えるしかなかった馬たちにも……無念に沈んだ馬たちにも……ほら、見てごらん」

 

 

 

 彼は優しくマリンの肩に手を置いて彼女を離す。マリンは名残惜しそうに彼の胸から顔を上げる。そして、周囲の景色がいつの間にか変わっている事に気付いた。

 

 

 

「これは……この光は……」

 

 

 

 マリンと彼は真っ暗な空間に無数の光が漂う不思議な場所にいた。まるで宇宙の中を浮いて立っているみたいだった。ずっと遠くまでその光は続いていた。

 

 マリンがその光を見つめていると、彼女の周囲に幾つかの光が集まって来た。その中の一際大きな1つの光がマリンを労わるように、愛しむように擦り寄った。それに続くように、小さな光たちが彼女の周りをくるくると回った。マリンは知っていた。その光の温もりを……

 

 

 

「おかあ……さん? みんな……あ、あああ……う、ぁああ……っ!!!」

 

 

 

 マリンはその光を抱き締める。二度と会えないと思っていた母の温もりを感じた。共に牧場で育った子供たちとも、また一緒になれた。

 

 

 

「ごめんなさい……!!! 私だけが……私だけが!!!」

 

 

 

 それを聞いて、彼が再びマリンの頭を撫でて抱き寄せる。

 

 

 

「違う、謝らないで良いんだ……お前のせいじゃない、マリン。仕方のない事なんだ。あの世界では、心無い決断を下さなきゃならない時もあるんだ。どうしようもなかったんだ」

 

 

 

 彼はマリンの頬に手を当てる。

 

 

 

「だけどお前は、そんな暗く狭い世界を走り抜いた。この子たちの分まで、立派に走ってくれた。それだけで良いんだ。お前の走りは、多くの悲しい馬たちの供養になれた。謝る必要なんてどこにも無いんだ、マリンアウトサイダ……俺の愛馬」

 

 

「ぐすっ……うぁ……ぁあああ……!」

 

 

 

 マリンはその光の1つ1つと触れ合う。光たちはマリンに触れる度に一際強く輝いた。再会を喜ぶように、彼女に感謝しているように。そしてマリンは彼と向き合い、再び抱きついた。

 

 

 

「おとうさん……今度はずっと一緒だよね? もう、離れないで……置いて行かないで……!」

 

 

 

 彼は少し寂しそうな顔をして、子供を諭すようにマリンに語りかけた。

 

 

 

「マリン、よく聞いてくれ。俺は……今はお前と一緒には居られない」

 

 

「っ!? どうして、やっと会えたのに! やっと、やっと……」

 

 

 

 すると、彼女の後方から声が聞こえた。それは段々と数を増していき、ついには合唱のようにマリンを呼ぶ声の束となった。

 

 マリンは振り返る。すると、立っている場所よりもずっと下の方、そこにオレンジ色に眩しく輝く光の渦があった。

 

 それはまるでトンネルのようだった。その奥から、自分を育ててくれた老人や幼馴染み、トレーナーやトレセン学園で出会った仲間たちの声が聞こえてきた。

 

 

 

「あれは……『みんな』の声……」

 

 

「マリン……その世界で、その人たちはずっとお前を心配している。お前の為に祈っている。帰って安心させなきゃ駄目だ」

 

 

「っ! でも……でもっ! 私はおとうさんと一緒に居たい! ずっと、ずっとそれを願ってた……!」

 

 

 

 彼は真っ直ぐにマリンの瞳を見つめると、少しだけ厳しい顔つきになって言う。

 

 

 

「マリン……お前は、あのハルウララとライバルになったんだろう。そして、いつか勝負をすると約束しただろう。喧嘩の約束をすっぽかしてここに来てるんじゃない、バカ娘」

 

「おとう……さん……」

 

 

 

 マリンが涙をいっぱいに溜めて彼を見つめると、彼はフッと優しい笑顔に戻った。

 

 

 

「俺はそのレースが見たいんだ。お前がハルウララと走るレースを……叶うのなら、見てみたいんだ。なぁ……『ミドリ』」

 

 

 

 彼は再びマリンを強く強く抱き締めた。

 

 

 

「……俺は『ウマ娘』のお前には、走るだけじゃない、色んな生き方を知って欲しいんだ。『自由』に生きて欲しい。それが俺の願いなんだ。その世界には、お前にそれを教えてくれる先達が沢山居るだろう。生きてくれ……俺の分まで、もっと自由に」

 

 

「おとう……さん……」

 

 

「ああ、ただ……これは置いていけ。俺も同じようなモノを持ってるんだ。1つも2つも変わらないからな、俺が……預かってやる」

 

 

 

 そう言って、彼はマリンの胸に手をかざした。「あ……」と言う彼女の胸から青黒い光が抜け出てきた。マリンは胸から一切の苦しさが消えた。彼がそれを引き受けてくれたのだと、理解した。

 

 

 

「もう時間だな……マリン、どうか生きてくれ。お前はまだ、思いっきり走って良いんだ」

 

 

 

 マリンの目から涙が溢れる。すると、彼女の身体はフワリと浮かび上がった。オレンジ色の光の渦に、ゆっくりと落ちる様に吸い寄せられていく。

 

 

 

「待って……待って、おとうさん! まだ、もっと、一緒に居たい……!」

 

 

「マリン……聞こえてくる声に耳を澄ませるんだ。みんな、お前を待っている。大切にするんだ、お前がその道で得たものを全てな……」

 

 

 

 マリンの耳に、『みんな』の声が聞こえてくる。トレセン学園での輝かしい日々が、その思い出が胸の中に蘇る。

 

 

「っ………みんな………!」

 

 

 みんなの所に戻りたい、彼女のその思いも確かに本物だった。

 

 

 だから、マリンは叫んだ。誰よりも彼女を愛してくれた若き厩務員に向かって。

 

 

 

「おとうさんっ!! 私の旅路は、きっと貴方に……おとうさんに繋がっているから! だから、いつか……いつかまた……」

 

 

 

 その言葉に、彼は微笑んで答える。

 

 

 

「ああ、いつか……な。だけど今は『寄り道』をしろ。お前にとって大切なものが、そこにあるはずだ。そう教わっただろう? マリンアウトサイダ……」

 

 

 

 マリンの身体が光の渦に落ちていく。眩しさで、彼の顔が見えなくなっていく。

 

 

 

「おとうさん……! おとう……さん……」

 

 

 

 マリンの意識は光の中に溶けて消えていった。マリンが最後に見たのは、寂しそうだが、同時に満足そうな顔で微笑む『父』の姿だった……

 

 

 

 

 

 

 





次回

29話 いつの間にか、春が来ていた

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