【本編完結】とある武術家ウマ娘がトレセン学園に転入する話 −流れ星の転校生−【リメイク版】   作:カンヌシ

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29話 いつの間にか、春は来ていた

 

 

 

 

 

 

 コンコン……

 

 病室のドアがノックされる。その引き戸がガララを音を立てて開くと、1人のウマ娘が入ってきた。

 

 

「失礼するわね、マリンさん」

 

 

 トレセン学園の制服を身に付ける、ウェーブのかかった美しい栗毛色の髪、両耳に青色のカバーをして右耳に緑のリボンを付けた『一流』な風格を放つウマ娘……キングヘイローはゆっくりと病室内のベッドへと近付いた。

 

 

「感謝しなさい。今日はこのキングヘイローがお見舞いに来てあげたのよ。感涙に咽び泣く権利をあげるわ」

 

 

 キングヘイローはいつもの高飛車な様子ではなく、静かに語りかけるような口調だった。彼女の視線の先には……目を閉じて眠る黒髪のウマ娘がいた。

 

 彼女を見つめるキングヘイローの目が一瞬潤んだ。心配そうに口をつぐむ。しかし、彼女は気合を入れて直ぐに凛々しい表情に戻る。

 

 

「さあ、マリンさん。日課のストレッチをやっていくわよ。このキングが『一流』に施してあげるわ!」

 

 

 そう言って、キングヘイローはマリンの脚をマッサージした後に、慎重に膝を持ち上げたり、股関節を伸ばしたりと、整体師から教わったストレッチを彼女に施していく。

 これはマリンの身体の筋肉の衰えを少しでも遅める為の施術だった。希望したウマ娘たちが交代交代で毎日お見舞いに来て、眠り続けるマリンの面倒を見ていた。本日その役目を務めるのはキングヘイローだった。

 

 

 キングヘイローはマッサージとストレッチの最中、ずっとマリンに話しかけていた。学園の様子や、自身のレースの事、そして皆がマリンの回復を待ち侘びている事などを絶え間なく話し続けた……

 

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 一通りの施術が終わり、キングヘイローは花瓶の花に水をやると窓の外の景色を眺めた。青空が広がり、街並みの所々に深緑色の木々が顔を覗かせていた。

 

 あの有記念から、約3ヶ月の月日が流れていた。冬を越して、季節は春へと移り変わっていく時分。トレセン学園には新年度の新鮮な空気が満ちていて、新たな希望を胸にその門を潜るであろう新入生たちを迎え入れる準備が進んでいた。

 

 

 キングヘイローはゆっくりと振り返り、窓枠に手を置いて寄り掛かかる。

 

 そして、マリンに聞こえるように、ポツポツと語り始めた。

 

 

「……マリンさん。外の景色は見たくないかしら? そろそろ河川敷の桜並木に花が咲き始めるわ。きっとウララさんの瞳みたいな、綺麗な桜の花が……」

 

 

 キングヘイローは目を細める。その表情には悲しみと憂いの色が滲んでいる。

 

 

「ウララさんが去年、この病室に来た事は覚えているかしら?」 

 

 

 キングヘイローは思い出していた。ハルウララと共にこの病室へマリンに会いに来た時の事を。ハルウララは眠り続けるマリンをじっと見つめて、笑顔で振り返ってキングヘイローに言った。

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

『キングちゃん、アタシね、これからトレーニングもっと頑張るよ。マリンちゃんといつか勝負するって約束したからね! いっぱいいっぱいトレーニングして、マリンちゃんに勝ちたいんだ!』

 

 

 キングヘイローはその笑顔に息が詰まった。

 

 

『だからアタシ、もうここには来ない。有記念を勝ったマリンちゃんに勝つには、もっともっと、今よりももっとたくさんトレーニングしなきゃ! 宝塚記念の時みたいに、マリンちゃんは絶対……約束を守ってくれる娘だって、知ってるから』

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 

 グズッと病室に啜り泣く声が響く。キングヘイローはその目に涙を浮かべていた。昏睡状態が3ヶ月も続くと、覚悟を決めなければならないと医師は言っていた。

 

 

「あの娘……あれからずっと、トレーニングしてるのよ。今までにないくらい一生懸命に頑張ってるの。必ずマリンさんと勝負をするんだって、早起きが苦手なあの娘が目覚まし時計を沢山買ってきて早朝トレーニングをしてるのよ? フフッ、お陰で毎朝うるさくて仕方ないわ」

 

 

 涙を拭うと、キングヘイローは窓際から移動して、椅子をベッドの側に寄せて座った。マリンの顔を覗き込んで、彼女の手を両手で優しく包み込んだ。

 

 

「みんな、貴方が帰ってくるのを待ってるのよ。『シリウス』のトレーナーとチームメイトたちも、貴方のお友達も、ウララさんだってずっと……目を覚ましてよ、マリンさん……っ! お願い……お願いだから……」

 

 

 ポタリとキングヘイローの涙がマリンの手にこぼれ落ちた。

 

 すると、マリンの手が微かに握り返した気がした。キングヘイローは気のせいだと思った、しかし……

 

 

 ピクン、ピクンとマリンの指が動いた。キングヘイローは目を見開いて、マリンの顔を今一度覗き込んだ。

 

 

「っ……!!」

 

 

 キングは驚きに息が詰まった。

 

 マリンが瞼を揺らして、微かに目を開けていたのだ。微睡む様にまぶたを動かしている。

 

 

「嘘……マリンさん……マリンさん? 私の事が分かる!? キングヘイローよ!! 大変っ……とにかく、か、看護師さん!! それとお医者様!!」

 

 

 誰かー!マリンさんが!マリンさんが!とキングヘイローは病室を出て大声で助けを呼んだのだった……

 

 

 窓の外の鳥たちは変わらぬ調子で、陽気の中を飛び交い、春の訪れを喜び唄っていた。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 コンコン

 

 ノック音がして、病室のドアが開かれる。ドアが開く前から騒がしい様子だったが、開けるとなお騒がしくなった。

 

 

「マリンさーーん!! お見舞いに来ましたよ!! 今日はなんと、『シリウス』のみんなで来ちゃいました!! あ、でもトレーナーさんはどうしても外せない会議があるそうなので、チームメイトだけです!!」

 

「スペちゃん、ここ病院だからもう少し静かに……」

 

 

 そんな元気いっぱいな声で入って来たのは『日本総大将』スペシャルウィークだった。その後ろにゾロゾロと他のウマ娘たちも続いて入ってきた。

 

 マリンが奇跡的に目を覚まして2週間と少し過ぎた。その間も『シリウス』のメンバーは毎日誰かが必ずお見舞いに来ていた。

 

 

「おーーっし、マリン! 今日はこの前よりももっと凄えボドゲを持って来たぞ! ナント最大40人で遊べちまうんだ! アタシが39役を演じるから、マリンは1人な! 39人居れば誰か1人はマリンに勝てるだろ! 今日こそはその連勝記録をストップさせてやるぜえ…………ってアレ? マリンの奴どこだ?」

 

「あら、確か看護師の方はこちらに居るとおっしゃってましたが……まだリハビリから戻っていないのでしょうか?」

 

 

 ゴールドシップとメジロマックイーンがピコピコとシンクロして耳を動かす。血が繋がっているのかと疑うくらいに彼女たちの仕草は似ていた。

 

 

「ええー、マリンさんどーしたのかな? ハヤヒデから授業ノート預かってきたのに」

 

「お手洗いに行ってる……かも?」

 

「待っていればそのうち来るだろう。その間に林檎でも食ってるか」

 

「ブライアンさーん、それお見舞いの品物だからマリンさんが来てからですー!」

 

 

 病室は一瞬にしていつもの『シリウス』のトレーナー室と化した。マリンはこの雰囲気にいつも心を和ませていたが、本人は今ここには居ない。皆が首を傾げていると、外からパタパタと足音が聞こえてきた。

 

 そして誰かが部屋の前に来て、ドアを開けた。皆がそこに視線を向けると、この病院の看護師が慌てた様子で入ってきた。

 

 

「すみません! マリンアウトサイダさんはもう戻っておられますか!?」

 

「い、いえ……私たちも先程来たばかりで」

 

 

 マックイーンが答えると、ハァ〜とため息をついて看護師は疲れた顔をして言う。

 

 

「マリンアウトサイダさん、また病院から脱走したみたいです……今週に入ってから2度目ですよぉ。もう塀を飛び越えられるくらいに回復したのは喜ばしい事ですが、安静していて欲しいのに……(泣)」

 

 

「「「「「え……えええええ!?」」」」」

 

 

 シリウスのウマ娘たち(の数名)が驚嘆の声を上げた。ブライアンはボリボリと林檎を丸齧りしていた。

 

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

 

 ほぼ同時刻、トレセン学園の正面門から1人のウマ娘が外周トレーニングを開始しようとしていた。頭に濃いピンク色の鉢巻をして、トレーニングウェアを着た小柄なウマ娘だった。

 

 目に桜模様が浮かぶ彼女の名は『ハルウララ』。まさにこの季節の名を身に体現したウマ娘だった。

 

 

「よぉ〜し! 今日は河川敷の方まで走っちゃおう! 桜が満開に咲いてるかもしれないしね! うーん、鉢巻うまく結べてるかな? 髪を結ぶリボンも切れちゃったし、いつもキングちゃんに結んで貰ってたからなぁ」

 

 

 ハルウララにはいつもと違う所が一点だけあった。彼女はポニーテールではなく、髪を下ろした状態で鉢巻を巻いていた。その鉢巻も上手く巻けていなかった。何度キュッと締め直しても、どうしても少し緩んでしまうのだった。

 

 

「まっ、きっと大丈夫だよね! しゅっぱーつ!」

 

 

 と、ハルウララは元気に駆け出した。河川敷へ向けて、タッタッタッタッと、彼女の軽快な足音が段々と遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

……

………

…………

 

 

 

 

 

 

 それより少し後の時刻、太陽が南中するまではまだかかりそうな時間帯。

 

 青空が澄み渡る長閑な風景の中を、黒髪のウマ娘が散歩していた。彼女は病院から少し離れた河川敷の歩道を歩いていた。

 

 

 彼女の名は『マリンアウトサイダ』、トレセン学園の制服の上から緑色のパーカーを着て、病院から脱走してきた身なので顔を隠す為に頭にパーカーのフードを被っていた。ヒト用のパーカーなので耳は軽く押さえつけられている。

 

 制服はチームメンバーに病室に持ってきて貰ったものだった。その他にも色んな雑貨を(主にゴルシが)持ってくるので、病室はまるでテーマパークみたいになっていた。それも楽しいのだが、流石にずっと閉じこもっているのは性に合わなかったので、マリンはこうして病院を抜け出してきたのだった。

 

 それは、彼女がある一流のウマ娘から聞いた話が、どうしても忘れられなかったからだった。

 

 

「わぁ……凄い……! 本当に、綺麗だ。キングさんが言ってた通りだ」

 

 

 フードを外したマリンの目には、満開の桜並木が映っていた。お見舞いに来ていたキングヘイローからこの話を聞き、彼女は無性にこの桜を見たくなったのだった。病院にはまだ暫く入院しなければならないと言われていたが、今これを見る機会を逃してはいけないと思ったのだ。

 

 

 ビョオオオ……と風が吹き、数枚の桜の花びら運ばれてきた。マリンはフワフワと飛んできた1枚を右手で捕まえる。

 

 手を開いて見ると、綺麗な薄桃色の花びらが手のひらを転がっていた。病室では感じられなかった『春』がそこに在った。

 

 また風が吹き、手のひらの花びらもフワリと風に乗り、その仲間たちと一緒になって飛んで行った。マリンはその光景をどこかで見たような気がしていた。

 

 

「そっか……いつの間にか、春が来てたんだ……」

 

 

 マリンはまた少し歩いて、一本の桜の木の下に設置されたベンチに腰掛ける。背もたれに寄り掛かると脚が楽になり、深く息を吐いた。彼女が思っていたよりも、この散歩は身体に負荷がかかっていたらしい。ウマ娘の肉体とは言え、3ヶ月以上も動かなかったとなると体力は大分衰えていた。これでも脅威的な早さで回復していると医者は言っていたのだが。

 

 

「ふぅぅ……武術の修行も、レースのトレーニングも、一からやり直しだなぁ……」

 

 

 マリンはベンチで暫く休息を取ってから病院に戻る事にした。目を閉じて、耳を澄ませると、まるで自分が周囲の環境と一体になったかのように感じた。

 

 

 風の音、鳥の鳴き声、川のせせらぎ、車のエンジン音、自分の呼吸音……

 

 

 遠くで女の子が「待ってぇ〜〜!」と叫ぶ声……段々とそれが近付いてきた。

 

 

 

「……ん?」

 

 

 マリンはまぶたを上げる。声のする方を見ると、濃いピンク色の帯のような物がヒラヒラと風に舞って彼女の方へ飛んできてきた。

 

 マリンは無意識に手を伸ばしてそれを掴んだ。それにはどこか見覚えがある気がした。

 

 

「おーーーい、捕まえてくれてありがとーー! それアタシのなんだーー!」

 

 

 タッタッタッタと軽快な足音が近付いてきた。マリンはその声を知っていた。仲の良いウマ娘たちの中で、マリンは目覚めてから唯一そのウマ娘には会っていなかった。ダンスレッスンの仲間たちがお見舞いに来た時も、彼女だけは来なかった。

 

 そのウマ娘がベンチの横で立ち止まる。マリンは座ったまま、彼女の方を向いた。

 

 そこにはトレーニングウェア姿の……マリンのライバルが立っていた。

 

 髪を下ろしていて、鉢巻もしていない彼女は、マリンには一瞬見知らぬウマ娘に見えた。しかし、その桜のような瞳は決して見間違える事はなかった。

 

 

 

「……ハルウララ……」

 

「……マリンちゃん……?」

 

 

 

 プルプルとハルウララは震え出した。そして……

 

 

 

「マリンちゃんだーーーー!!!!!」

 

 

 

 マリンの耳が少し痛くなるくらい、嬉しさが爆発したような元気溌溂な大声で、ハルウララはマリンの名を呼んだ。

 

 

 

 

…………

………

……

 

 

 

 

 

「そっか〜、不思議だねぇ〜。心臓の悪い所、もう全部無くなっちゃったの?」

 

「無くなった、と言うのは間違っているかもしれません……形が正常に近いものに変化していたみたいです。お医者様も不思議がっていました。魔法か奇跡としか思えない、ウマ娘の謎は深まるばかりだ……と、おっしゃってました」

 

「ふ〜〜ん、よく分かんないけど良かった! マリンちゃんはまたレースに出られるんだよね? アタシね、マリンちゃんと本気で大勝負がしたくて毎日いっぱいトレーニングしてるんだ!」

 

 

 ピコピコと耳を動かして、キラキラした目でハルウララは言った。その変わらない笑顔を見て、マリンも微笑んだ。

 

 ハルウララはマリンから鉢巻を受け取ったが、まだそれを巻いていなかった。

 

 

「ええ……キングさんから聞いていました。でもすみません。私の復帰はまだまだ先になりそうです。体力も戻っていませんし、筋肉も大分落ちてしまいましたから……」

 

 

 それを聞いて、ハルウララは心配そうな目でマリンを見つめた。

 

 

「でも安心して下さい。すぐに元気になってみせます。調子を取り戻したら、真っ先にウララさんと勝負をします。約束……でしたからね」

 

 

 ハルウララは再び春のお日様のような笑顔に戻る。見る者に勇気と元気を与える、天真爛漫な笑顔に。

 

 

 

 

 その後も2人は会話を楽しんだ。マリンはハルウララの視点から見た学園の話を、時々笑いながら聞いていた。そんな穏やかな時間がゆっくりと過ぎて行った。

 

 そして、今度はマリンが語る番になった。

 

 

「キングさん以外だと……私が目を覚まして、真っ先に駆けつけてきたのはルリイロバショウでした。病室に入ってきて、私を見るやいなや泣き出して、私に抱きついてきて……私が想像できないくらい、心配をさせてしまってたみたいで……申し訳なく思いました。他の皆さんにもとても心配をかけてしまったと思うと……」

 

「ううん、そうじゃないと思うよ! マリンちゃんが目を覚ましたのがとっても嬉しかったんだよ。だって、マリンちゃんの小さい頃からのお友達なんでしょ? きっと誰よりも嬉しかったんだよ! だからマリンちゃんもみんなと一緒に『嬉しいぃ〜〜!』って喜べばいいんだよ」

 

「そ、そうですか……一緒に『嬉しい』……と。そうですよね……」

 

 

 初めは暗い表情だったマリンも、ハルウララにつられて明るくなっていた。彼女は続けてフワリとした優しい笑顔で語る。

 

 

「その後に来たドウザン姉さんも、泣いて私を抱きしめてくれました。姉さんが泣いてるのを見たのは初めてだったので驚いたのを覚えています。続けてトレーナーさんと『シリウス』のみんなも来て、騒がしくて看護師さんに怒られてました。クラスメイトのBNW3人とアヤベさんとトップロードさんも授業を抜け出して来てくれて……そこにオペラオーさんとドトウさんまでやって来て、火に油を注いだような大騒ぎになって、その日は結局みんなお医者様に追い出されてしまって……ふふっ」

 

 

 笑顔で語るマリンの話に、ハルウララもニコニコと耳を傾けていた。

 

 

「そう言えば、ついこの前にアカネダスキさんもお見舞いに来てくれました。『良かったなぁ!』って泣きながら言ってくれて……『嬉しい』……そうですね。とっても『嬉しい』です……私」

 

 

 マリンは両手を胸に抱きしめて、その喜びを噛みしめるように言った。

 

 そしてハルウララはアカネダスキの名前を聞いて何かを思い出したように耳をピコーンと立てた。

 

 

「そう言えばマリンちゃん! アタシ、マリンちゃんが有記念に勝ったお祝いを言ってなかったね! おめでとう!」

 

「ありがとうございます。でも……私、あの時の事はよく覚えてないんです。有記念に勝った事も、その後に倒れてしまった事も……気が付いたらベッドの上で……その間の記憶も何も無くて、まるでタイムスリップしたかのような感じだったのです」

 

 

 マリンは俯く。チームのメンバーにも、他のウマ娘たちにも同じ事を言われたが、その度に申し訳なく思っていた。

 

 

「あ……そうだったんだ。ごめんね、アタシ変なこと聞いちゃった」

 

「いえ、気にしないで下さい。お医者様も言っていました。昏睡する前の記憶は曖昧になることが多いそうです。私もあのレースの事を完全に忘れてしまった訳ではありません。僅かにですが、覚えています。第3コーナーを過ぎて、仕掛けようとしたら胸が苦しくなって……それで……それ、で……」

 

 

 

 ビョオオォォ……と再び風が吹いた。無数の桜の花びらが舞い上がって彼方へと運ばれてゆく。

 

 その光景は、どこかで見たものと重なった気がした。

 

 マリンの中に、ほんの微かな記憶が蘇っていた。

 

 心臓の拍動を感じた、あの後の記憶が。

 

 

 

「それで……ゴールが見えて……ただその先に行きたくなって……それだけを思っていて……」

 

 

「……マリンちゃん?」

 

 

 

 

 ポタリ、ポタリとマリンの手に『雨粒』が落ちた。

 

 

 

 

「あ、れ?」

 

 

 

 いつの間にか彼女の頬が濡れていた。視界が水に飛び込んだように、ぼやけていた。

 

 

 

「私、なんで、泣いて……」

 

 

 

 途端に、胸がギュウと苦しくなった。喪失感で骨も内臓も、身体の中身が全部消えてしまったみたいだった。

 

 

 

「なんで……どうして、こんなに、胸が……」

 

 

 

 どこまでも落ちていきそうな、耐え難いほどの喪失感がマリンを襲った。

 

 

 

 

「…………えっ…………?」

 

 

 

 

 だがマリンは気がつくと、その顔はふんわりとした温かなものに包まれていた。

 

 ハルウララが、マリンの頭を胸に抱き寄せていた。

 

 優しく、まるで宝物を扱うような手つきで、マリンの頭を慈しむように撫でていた。

 

 

 

 

「……頑張ったね。他の誰よりも、ずっとずっと……頑張ったんだね」

 

 

 

 

 ハルウララの髪が春風に吹かれてふわりと揺れる。その顔はまるで聖母のように微笑んでいた。

 

 彼女の温もりが、春の木漏れ日のようにマリンを優しく包み込む。

 

 

 

「あ……っ……」

 

 

 

 マリンの感情はぐちゃぐちゃで、涙が溢れてきて、止まらなかった。闇のような喪失感の中に、確かに温かく光るものが在った。けれど、それが何なのかマリンには分からなかった。嬉しさと寂しさを混ぜたような言葉に表せない切なさで、胸がはち切れそうだった。

 

 けれど……同時に『満たされている』とも感じた。

 

 

 

「うっ……あぁ……あああああぁぁぁっ……!」

 

 

 

 マリンは泣いた。子供のように、ハルウララの温もりに包まれて、彼女の胸の中で声を上げて泣き続けた。

 

 

 

「頑張ったね……」

 

       「………ひぅっ……うん……」

 

 

 

「また、走れるよ。思いっきり……みんなと一緒に」

 

        「っ…………うんっ…………」

 

 

 

 ハルウララは、一層強くマリンを抱き締めた。

 

 

 

 

 

「『おかえりなさい』……マリンアウトサイダ」

 

 

 

 

 

 優しい春風が花びらを舞い上げた。

 

 2人を包むように、桜の雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 





次回

30話 『ようこそ、君のネオ・ユニヴァースへ』
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