推しの子 ヒロイン全員好感度100達成RTA 作:重曹ちゃんかわいい
祖父母にとって…………特に祖母にとって、雨宮吾郎を引き取る事は人生の敗戦処理に近いものだった。
俺の母親は父親に妊娠を機に捨てられた。だから親に相談できず、医者にもかかれず、自宅で出産して、結果的に危機的出血で亡くなったのではないかと噂されていたし、俺もそう思う。
昔、祖母の時代は、専業主婦も多くて、母親の人生の評価が、子供がどう育ったのかが最重要視された時代だった。特に跡継ぎ息子を産んで、その子供がどれだけ、高い地位に居るとかそんなのが人生の評価基準にされていた時代に、母親の件。祖母がどれだけ周りから陰口を言われたのかなんて考えるまでもない。
跡継ぎの息子を産めず、一人娘の教育すらまともに出来なかった。
そんな今ではくだらないと言って、捨てられるような価値観で物事を考える人達がたくさん居た時代だ。祖母が責められているのを薄々ながら感じていた俺は、母親のかわりに生きている事に罪悪感をもって育っていった。だから、あの言葉を否定出来なかった。
「産医になるのね」
その心の底から嬉しく感じているような祖母の言葉の裏が分かってしまったから。
誰とも分からない男と付き合って、逃げられて死んだ馬鹿な娘を育てたなんて言われる人生。そこから母親のような妊婦を生まないような産医を目指す孫を育て上げた…………そんな風に言われる人生への一発逆転の話に飛びついたしわくちゃな顔の小さな祖母の顔を見た。
だから俺は自分の夢を、外科医になるという夢を諦めた。俺が生まれた事によって、母親は死に、母親が死んだ事で周りからの評価を失った祖母の残りの人生を救うにはこれしかなかったから。
狭い田舎で、そんな話はすぐ広まる。周りからの期待とかそういったものを背負って生きていかないといけない覚悟を求められるようになった。
高校は普通の高校だった。偏差値も普通の高校だ。地元の人間はみんなここに通う。ここより偏差値の高い進学校と言われる高校は通学だけでも片道2時間半近くかかる。
そんな地元から離れた進学校でも地元の国立大学は年に数名、九州のトップの国立医大なんて十数年に一人居るか居ないかなんて割合でしか居ない。俺の高校は正直、国立の大学にたまに行ければ御の字という状態だった。
特に九州の老人世代では、東京にいけば地方の国立大学扱いでしかない九州トップの国立大学でも、そこに入れば将来安泰だという信仰のようなものがあった。だからそこより上の大学に行くというのは自慢だったらしく、俺の母親のような妊婦を生まないように医者を目指すなんて話を美談みたいに話されていた。
高校には◯◯大学合格という大きな横断幕を名前入りで晒され、地元の人間がそれを見て、どんな人なのかを聞いて、それが噂話になる。小さな町で、俺が俺ではないような人物として語られているのを気持ち悪さを感じながら、卒業まで地元で過ごした。
東京へ行くのは、これから医学部で六年の間、あの噂が広がって似たような事をずっと言われるのではないかと恐くなったからだ。だから最新の医学を学びたいと言って東京の国立医大を目指し、必死になって勉強をしたのを覚えている。今だから言えるが、まだ、あのときは地元の産婦人科医としてこれからの人生をずっと生きていく事が嫌で逃げ出したかったのだと思う。
俺の高校生の時は医師臨床研修マッチング制度というのが無かった。だから、基本的に研修はその大学関連病院でやる。大学の六年に合わせて研修医の期間を東京で過ごせば、熱が冷めるのではという期待もあった。
産婦人科、というより産科は人気がなかった。まず、労働時間が長い。田舎で二人、三人で回しているような所だと、時間外労働だけで年間2000時間は超えると言われている。正確じゃないのは、待機時間を業務時間と認めて居なかったり、自己研鑽という名前の無償残業もあった。さらに夜勤の際に処置をすると割り増し賃金が発生するのだが、そういったものを無かった事にしたりと、時間、給与ともに闇の部分が大きいので、ブラックボックスになっていて、誰がどれだけ残業をしたのか誰も分からないらしい。
次に訴訟が多い。流産の確率は全体の10%~15%もあるし、高齢出産だと25%にもなる。まずこれが理解されないし、最も、問題なのは、妊婦の方が死ぬ確率も決して低くないことだった。
日本の妊婦の死亡率なんかは世界水準でもかなり低いが母体が死ぬ可能性だって無いわけじゃない。年間100人未満とはいえ、死者は出ている。それを理解してくれる患者さんは多くない。だから医療ミスだと叫んで訴訟を起こす。
だから母体の死のリスクをさげる為に今は帝王切開が多くなる。世界機関の調査によると、世界では帝王切開が必要なのに出来なかった妊婦の人よりも必要無かったのに帝王切開をした妊婦が多いらしい。先進国はリスク管理の為だけに切るケースが多い。それくらい訴訟リスクが無視できないくらい高い。
長時間労働かつ、給与の未払い問題を抱えていて、訴訟されるリスクが高い仕事。避ける人が増えるのも当然の要因しかなかった。
特に今は、婦人科の不妊治療が儲かることもあって、それ専用の病院もだいぶ増えた。そっちで定時に帰って3000万、4000万稼げる。という話を本気にした産婦人科医も少なくなかったし、少子化が続くとされていたので産科そのものの将来性も疑問視されていた。
その厳しさを何度も聞いて、産婦人科学会の「産婦人科は外科と内科の技術を学べる科になります。外科と内科を悩んでいる人は1度、産婦人科で研修医として働きませんか?」という言葉に縋って、駄目なら、外科に転科する余地を残している事が心の支えだったことを覚えている。
6年間、逃げて、でも必死に勉強して、できる限りの事をした。祖母の言う、母親のような妊婦を出さないために医師を志した雨宮吾郎で居るために。
祖母が体調を崩し、研修医として働く場所も地元の病院になった。祖母はもう長くなかったし、最後に地元で働く俺の姿を見たいと言ってきたのを無下には出来なかった。本来なら出身大学やその関連病院で研修を行うべきだったが、それも出来なかった。大学とまったく関係のない病院に勤務するというデメリットの大きさは承知していたが、祖母の願いが最優先事項だった。
地元ではあれから六年も経つのに、噂話が流れてきていた。俺の評価は母親のような妊婦を生まないように産医を目指す青年のままだった。
周りからそんな視線を向けられながらも研修医として休む暇も無く働いた。労働時間とは労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものであって、そうでなければ労働時間ではない。手術や処置等の見学をする事はもちろん、実際に処置することも自己研鑽という名で働くことになる。医者の世界とはそういうものだと言われたことは今でも覚えている。
祖母の介護をしながらも夜勤や休日のオンコールにも病院へ行く。同じ大学の同期と比べてしまい逃げ出したかった事もあったが、逃げられなかった。母親のような妊婦を生まないように産医を目指す雨宮吾郎はここで逃げるような人間ではないからだ。
そんな時にさりなちゃんと出会った。
物心がついた時から病気に苦しんでいて、でも夢に向かって目を輝かせていた少女だった。死んだ目をして夢を捨てて周りの言うことばかりを聞いて働く俺にとって、その目はあまりにも眩しかった。
母親のような妊婦を出さないために医師を志した雨宮吾郎なんかではなく、そのままの俺を好きだと言ってくれるさりなちゃんとの時間は俺にとってかけがえのないものになっていった。
研修医はローテーションで色々な科を回る。変わってもさりなちゃんとの時間は確保する為に、ただでさえ少ない休日に仕事に来たりなんだりしていたのは自分でもかなり入れ込んでいたと思う。
でも、そんな時間も長くは続かなかった。さりなちゃんは出会って1年も経たないうちに亡くなり、俺はここで唯一、俺自身を見てくれた人を失った。
それは奇しくも研修医としてのローテーション勤務が終わって、産婦人科医として働き始めるタイミングだった。
母親のような妊婦を生まないような産医になると誓ったらしい俺は、生を祝福されなかった子供を抱える妊婦の対応に同行することが多くなった。
祝福されて生まれてきた子が大多数を占めるが、強姦され妊娠した人、知的障害があって騙されて妊娠させられた人、妊娠と同時に恋人に逃げられた人なんかも少なくない数が居る。
産科は世界でもっとも美しい光景と最も醜い光景が混じる世界なのだと改めて思わされる。
妊娠は誰もが喜ぶ事じゃない。子供ができたと知って、逃げる恋人が少なくない。そうなった時に出産をするか、しないかの決断をする為に、現在の民事執行法では行方を眩ませた逃げた父親から養育費を取れない事などを説明し、出産した場合に起こる事や、頼るべき機関の紹介なんかもしないといけない。
女性が結婚相手は大企業勤務か公務員にしなさい。という理由が、養育費を払うより、会社を辞めるリスクが高ければ、離婚しても養育費が貰えるという理由が大きかったなんて知りたくもない知識ばかり増えた。
産科医は、命を守る事だけが仕事じゃない。患者の今後の人生に大きく関わる出産した後の人生への影響も考慮して、患者に寄り添っていかないといけない。特にこの時代は再就職なんてパート以外だと難しかったから、出産は本当に人生の岐路だったからだ。
説明をすると大抵は堕ろす決断をするケースも多かったが、産むと決断してからやっぱり止めたいという人も居て、そうなった場合は悲惨な光景が広がった。罵詈雑言が飛ぶ光景は忘れられなかった。
使命感から産婦人科医になった人は多く居た。でもそういった光景を見て擦り切れて辞めてしまう人は少なくない。同期だった産婦人科医も、婦人科だけのところにしたり、外科や内科に転科してしまう人もいた。両親から祝福されて生まれた子供が居る一方、両親から要らないと殺される子供が居るという現実と向き合わないといけないのは思ったよりも精神にくるものがあるので、辞めた人を責められなかった。
産んだ方が不幸になる可能性が高い女性が多く居た。俺の母親のように。
そして、産んだ責任を取らない親が居た。さりなちゃんの両親のように。
地元の人にそういった人達のフォローをする事が期待されていた俺は、専門医になるための勉強と平行して何度も何度も立ち会ったり、メンタルケアの仕方の勉強会に参加したり、支援制度を学んだりする事になった。
それが、周りの望む雨宮吾郎だったからだ。
ずっと病院に居るような生活を続けて、色々な病院で帝王切開の執刀経験を積みつつ、勉強をして学会にも出ていくと30歳になる頃には専門医になっていた。一応だが、一人前の産婦人科医として認められたという事らしい。そして、やることが無くなった。
もちろん、勉強することなんて山ほどある。よりよい医療を提供する為に自己研磨をすることも大事な仕事だ。でも、田舎の病院で出来る事は限られているし、より高度な医療を学ぶなら東京というか出身の大学に戻る方が良い。大学病院なら無料で論文を読めるが、町病院は経営の都合上、そんなことも出来ないので、勉強できる範囲も限られる。
そして、俺自身の熱意がそこまで無くなっていた。なんのために働いているのか分からなくなった。
そんな時だった。アイが俺の所へ来たのは。
アイは典型的な妊娠の責任を取らない恋人に捨てられた妊婦だった。普通なら、中絶をするかしないかを選ばせて、産む決断をするなら生活保護の手続きや各種行政機関の支援を斡旋してもらう必要がある。
アイの給与だとまともに子供を育てられる資金もないし、双子なことも考えると帝王切開になるリスクも高い。そうなると、復帰時期は大幅に伸びる。普通分娩なら軽く運動ができるようになるまでに3ヶ月から1年ほどだが、帝王切開の場合、数ヶ月延びるケースもある。休業が1年から1年半となると復帰できるのか微妙だし、その間のB小町のことをどうするのかという問題もあった。
最悪なのは、そんな事務所やメンバーに気遣って、体が万全ではないのにB小町特有のダンスを、仕事をこなしていき、体調を崩してしまう事。
だから、本来ならちゃんと言うべきだったんだ。
でも、さりなちゃんの…………そしてアイの言葉と瞳を見て、言えなくなってしまった。
本来なら、キャリアか子供かの決断を覚悟する事を言うべきだった。本来なら、生活保護の手続きを勧めるべきだった。本来なら、役所と連携しておくべきだった。
俺は母親のような妊婦を生まないような産医になった雨宮吾郎なら絶対にしない決断をここでした。
本来ならぎりぎりまで判断を延ばさず、帝王切開に決断してしまった方が訴訟リスクは下げられたが、アイドルとして、そして出産からの復帰時間を早める為に、判断を遅らせたりと、本来ならしない選択ばかりしていた。
そうして、バレれば周りから罵倒され、なにもかも失うかもしれないリスクを背負ってまで子供が欲しい。幸せになりたいというアイに触発されてか、俺もかつての夢を思い出していった。
祖父母は亡くなり、その同世代の人達もどんどん亡くなっていって、俺の話をばらまいていた祖母が居ないからか、知らない人も出てきた。というか俺がそんな熱意に溢れた人間に見えないというのもある。義務感でやっているというのは見ていれば分かるから、年寄り以外はそんなに気にしなくなっていた。
もういいんじゃないか。そう思うようになった。祖母に医者になりたいと言って、15年だ。15年頑張った。そろそろ、自分の為に生きても良いんじゃないか。より良い医療を学びたいとか言って、転科を隠して東京へ行って、昔から声をかけてくれた教授や先生を頼って、また一からやり直してもいいんじゃないかと思うようになった。お金なんていい、夢を追いかけ直してもいいんじゃないか。と思えるようになった。
だから、アイの事を任せられる病院や子育て支援のNPO団体なんかの紹介をして貰えないか、かつての恩師や友人に電話をかけて、アイの退院予定日の後に休みを貰って、会いに行く事にした。そして、その時に自身の事も相談しようとした。
妊娠後の復帰の時期の調整をする医者は必要だったし、授乳中の使える市販薬は多くない。だから体調を崩したら病院にいかないといけない。病気になった時に口の堅い人を紹介して貰った方が都合が良かった。
俺の通っていた大学は三指に入る学閥で系列病院も沢山あった。そこに勤める友人も沢山居たから都内であっても力になれる事はあった。
俺が死んで居なければ。
別にそれはアイの出産予定日の前でも良かった。なんなら電話だけでもよかったのかもしれない。
でも、転科の事なんかを相談したかったから、それを怠った。
だから、最低三ヶ月目から軽い運動を許可するはずが、二ヶ月もすると復帰をしてB小町特有の激しいダンスをしているし、子育て経験のない女性に子育てを丸投げにするとかいうとんでもない事が起きた。
相談できる婦人科の医者が居ないし、子育ての経験がないから仕方ないし、壱護さんは別に悪い人ではないが、やり方は母体というか、母親に対しての不理解と無関心が滲み出ていた。結果としてミヤコさんの不満が爆発した。
俺が転生者でなかったら、もう駄目だっただろう。俺の決断と俺の失敗が不幸な女性と子供を作る寸前までいった。なにより、俺がさりなちゃんの人生を壊してしまうかもしれなかった事が許せなかった。
母親のような妊婦を生まないような産医になることを捨てて、自分勝手に生きた結果を見せつけられたようだった。
だから、今度は、アイとルビーを幸せにする事だけに専念することに決めた。自分の幸せとか夢とかを考えず、二人の幸せだけを願い、生きる。前世の失敗を取り返す、前世で出来なかった事をする。その人生を選んだことに後悔はない。
かなをどうにかする方法はある。あるが、これはただの俺のわがままだ。アイとルビーのために生きると決めたはず。そしてなにより、これは苺プロがこの業界で生き残る為のカードだ。俺が勝手に切るわけにはいかない。
みんなに不自由をさせてまで確保したカードを俺がすり減らしていい理由がない。
だから、仕方ない。あの事務所は長くない。何年保つかわからないが、その時までできる限りの事をしてフォローすればいい。これが正解のはずだ。割り切ることも大切だ。大人はみんなやっていることだ。俺も大人なら割り切れ。子供でもプロなんだと言い聞かせろ。
アイとルビーを守る。その目的の為に見なかったふりをするだけでいい。前世での失敗を繰り返すような事があってはならない。だからアイとルビーの事だけを考えて、最善手を打てば良い。
理屈では分かっている。だが、それだけの事が俺にはできないでいる。
「お兄ちゃん?」
未だ、覚悟を決めきれない俺の目の前には幸せにしたいと願った少女がいた。