日が沈むと、海からゆっくりと月が浮かび上がってくる。
大洗の夜は暑さこそあれど、暗闇の中から聞こえる波音が今日を過ごした誰もの心も落ち着かせてくれる。
ゆったりとした港町の夜が流れている。
コヒメと結芽、そして詩織は、海の景色が見えるホテルの浴場でゆったりとお湯に浸かりながら、今日の自分の労を労った。
「お風呂きもちぃ〜、なんだか久しぶりにはしゃいじゃったよ」
「はじけるみたいにはしゃいでいたよ、よーっぽど溜まってたんだね」
「そうなのかな」
窓側に平泳ぎして、顔を上げるとまんまるに黄金に輝く月が海面を瞬かせている。
「不自由とかしてないの?どうしてもコヒメちゃんを守るためには」
「うん、わかっているよ詩織ちゃん。でも、部屋の中でこれといった不自由はないの、紫先生も、弘名も、美炎お姉ちゃんも、私が望めば運動も、本も、テレビも、ネットも見せてくれ。さすがに子供だから全部を見るのはダメって言うけど、弘名がこっそり教えてくれることもあって、だからなのかなぁ…私の肌を見たでしょ?今日だって人前に出ても違和感はなかったでしょ?どんどん人になって来てるの、ワケは全然わからないんだけど」
「じゃあ…えっと…」
「大丈夫だよ詩織ちゃん、ストレートに言ってくれて」
詩織は逡巡したが、振り向く顔はそうした事柄には慣れっこだと余裕の笑顔だった。
「じゃあね、うん。禍神の自分じゃなくて、人間になる自分に付託したってこと?荒魂を捨てて」
「禍神にはなりたくないのはあってるよ。けれど、荒魂であるのは完全に捨てられないかな」
湯船から立ち上がると、手をかざして闇の中から刀を引き出した。その瞬間、肌は真っ白になり琥珀色に輝いた。
「私が私自身の力を使いたいと望めば、姿はあっという間に荒魂の私に戻っちゃうの」
小狐丸を闇の中に戻すと、水彩絵の具をたらすように肌に赤みが戻った。
「ねぇ、詩織ちゃん、結芽さん。どっちの私が好き?」
その質問に詩織は目を瞬かせ、わからないと言わずと告げていた。だが、結芽は首を傾げて笑顔だった。
「わたしはコヒメちゃんのあるがままの姿が好きだよ、自分の現れた本当の理由もまだわからない。けれど、自分の身に起きる変化を受け入れなくちゃいけない。でも、コヒメちゃんはまっすぐにそのことに向き合って、答えを出そうとしている」
結芽は立ち上がると、コヒメと並んで月を見上げた。
「わたしさ、こう思うの。心は人間になりたいと願うけど、体が荒魂なら、両方であればいいんだって。わたしも冥加刀使だったから、どっちなのか考えたことがあるの、そういう扱いを受けたこともあった。でも、どっちつかずだったから人とは違う経験もできたし、普通とは違う方法で病気も両親とのことも乗り越えた。だから、私は私って言う人間なの、普通の刀使だし、普通の女の子だけど、どっちでもあるし、どっちでもある」
「両方…」
詩織もコヒメの隣に立って、笑顔を見せた。
「今日、一日一緒に過ごして、それと今まで話に聞いてたコヒメちゃんのこととで、私って今ここにいるコヒメちゃんに会えたのが嬉しいって思えるよ。きっとこの出会いは、この先も大事な出会いになると思うの…ごめんね、はっきり言葉がまとまらなくって」
コヒメは濡れた髪を掬い取って、そっと左手で撫でた。
「詩織ちゃん、結芽さん、ありがとう。まだ答えはでないけれど、ちゃんと胸を張ってみんなに私を伝えられるようにするよ。特別なんかじゃない、私自身の姿と言葉で」
コヒメのお腹からぐぅという音が浴室に響いた。
「あははは!お腹すいちゃったんだ!」
結芽の笑い声にまじって、小さく笑う詩織の声も混ざった。
コヒメはカーッと顔を赤くした。
「さぁ行こう!そろそろお夕飯の支度もできてるだろうし!今日は豪勢な海鮮づくしだって!」
「わぁ!わたしお魚って食べるのも大好き!」
「ふふ、私も!」
◇
食事を済ませ、敷かれた布団に寝転がりながらコヒメ、詩織、未久は持って来たトランプでババ抜きをはじめていた。
「ねぇミルヤさんたちは」
「たしかお風呂入ってくると一階に行きましたよ」
「ん、ありがとう」
エレベーターで一階に降りてくると、ミルヤと智恵はロビーにある休憩所で話し合いをしていた。
「ミルヤさん、智恵さん、おそくなりました」
「ううん、コヒメちゃんに目的を話すのは結芽ちゃんに任せちゃうから、仔細の詰めは私たちに任せて」
「そういってもらえると助かります」
結芽は智恵の隣に座ると、赤羽刀復活時の即時御刀復帰書類には、既に朱音の印が押してあるのに気がついた。
「仕事はやすぎない?」
それは、と言いながらミルヤは後ろの席に座る赤い短髪の体格の整った男性の肩を叩いた。
顔は細く引き締まっているが、目はやや細いが不思議と明るさを感じさせた。
「あ!朱音様の夫さんの折神
「ひさしぶりだね燕さん、ニッカリ青江の写しを作るときに協力してもらって以来だね」
「はい!そういえば
「もちろん!実は今日も連れて来ていてね、今はぐっすり寝ているからその隙に打ち合わせさ。明日は二人にも立ち会ってもらおうと思ってね」
「でも、うまくいきますかね」
どうだろうかな、そう呟きながら赤黒く焼け身になっている小太刀の写真を机の上に置いた。
「朱音はまちがいなく写シは生きていると言っていた。それを確認したのは十五年前と聞いてたから、ミルヤさんにも事前に鑑定をお願いしたんだけど」
「写シは間違いなく生きていました。でも、何かに怯えて閉じこもっているような、暗くか細いものでした。これは燭台切光忠の再刃に成功した時も、使い手が御刀の声を聞いています。それは生み出す炎ではない、殺し尽くす炎が焼かれる無数の命の声を刀に流し込んだ結果、耐えきれずに赤羽刀と化したと」
赤羽刀は、その扱いや、使い手の思念を汲み取り、時に珠鋼に含有するわずかなノロが珠鋼を守らんと暴走する現象の結果に生ずるものである。ましてや、これから復活させようとする御刀は本来平気であるはずの炎を介在して、多すぎる死と恐怖を吸っている。
「コヒメちゃんのような特別な存在なら、この宗近作と伝わる御刀から炎の呪いを祓ってくれるかもしれない…でも、コヒメちゃんが苦しむなら私は宗近の赤羽刀を叩き折りますからね」
静かだが、結芽の覇気は三人の背中に寒気を走らせた。
「わかっているよ。責任は俺が取る。だから、燕さんにはコヒメちゃんの命を第一で頼む」
少し息を吐くと、にっこりと笑顔になった。
「その言葉が聞けて何よりです」
◇
翌朝。
朝食を済ませると、ミルヤと智恵、結芽を介してコヒメが呼ばれた真の理由が話された。
「赤羽刀の声を聞いて、再刃する…」
「水戸徳川家が所蔵していた御刀は、関東大震災の折に被災し赤羽刀になりました。どれも由緒のある珠鋼を使った御刀です。それがこの時の火災で焼け落ちる現象が起きました。本来ならありえない現象ですが…」
「行きます。わたし、赤羽刀と話してみます!その御刀にどんなことがあったかわかりません…でも、普通の人ができないからこそ、私が呼ばれたならやってみるだけです!」
「御刀がどういう反応を示すかわからない。もしかしたら、コヒメちゃんを苦しめるかもしれない。やめてもいいのよ?」
智恵の不安そうな顔に自然と笑顔を返していた。
「なせばなる!ですよ、ちぃねぇ!結芽さん!ミルヤさん!」
明るく朗らかな表情に昨日までの不安は見えなかった。ミルヤと智恵は互いに頷き合い、水戸へと連れていくことを決めた。
車で三十分ほど、水戸市内に水戸徳川家ゆかりの品々を所蔵する博物館がある。
この日は休館日であり、コヒメと赤羽刀の接触は博物館の刀剣専門の展示室で行われることとなった。
薄暗い展示室内で、その中央に展示ケースから出された三条宗近作と伝わる小太刀が刀台に掛けられていた。
博物館の館長、学芸員、重要な関係者、そして特祭隊から復元事業のトップを務める折神正峰、折神茜の子供である正音と明音が来ていた。二人とも今年で四つになる、正音はおとなしく目元が母親似、対して甘え盛りの明音は父のようにやや目元が細い、父の正峰の足にぴったりしがみついていた。そして、調査隊の面々と、特祭隊の職員である瀬戸内智恵である。本来はコヒメの世話役である折神紫、安桜美炎、新多弘名は一時間ほど遅刻している。
明音は最前列で緊張の面持ちのコヒメを見て、ズボンを二度引っ張って父である正峰に尋ねた。
「おとうさまー!あのおねぇちゃん、何をするのー?」
その大きな声にとなりの正音が小さくしーっと指を立てた。
「明音、しずかにしないと…」
「でも気になるよ、まさねーっ!」
正峰は正音の言う通りだよと優しく言いながら、あのお姉ちゃんはこれから奇跡を起こすんだよと言って、明音は目を輝かせてじっとコヒメを見つめた。
ミルヤは書類や関係者がいることを確認し、コヒメへと改めて向き直った。
「では、コヒメはじめてもらえますか」
「はい!」
刀台へ進み出ると、闇の中から白銀の鞘に収められた小狐丸を取り出した。
そして、その姿もかつて禍神と恐れられた人型の荒魂に近しい姿になっていた。
肌は白く、目は琥珀に輝き、髪の合間に赤い瞬きがちらつく。
二段ある刀掛の下の段に小狐丸を収めると、二刀は共鳴するように白い輝きを放った。
(やはりコヒメさんの刀は正真正銘の小狐丸のようですね… )
ミルヤの思いをよそに、傍に立った結芽へとコヒメは行きますと告げた。
「がんばって」
ちらと笑顔を返すと、すぐに真剣な表情に戻り、その小太刀を手に取った。
コヒメの中に流れ込んできたのは燃え落ちた全ての命の最後だった。
理不尽に降りかかる火の粉、払っても火がつけば最後、たちまち火は体を包んでいく。
火災の渦が、鳥も、犬も、花も、植木も、家も、人も、なにもかも燃やし尽くす。
その心なき炎が、あらゆる命の断末魔を吸って際限なく膨らんでいき、それがコヒメにも入り込もうとしてくる。
「怖いよ…怖いけど」
目をしっかり見開き、大きく深呼吸するとコヒメの内から山吹色の炎が湧き立ち始めた。
「宗近…!死のイメージに飲み込まれないで!炎は自分自身もそこから生まれたものも命を奪う!でも、炎はそれ以上に命を生み、育む!私の内には珠鋼もノロも持つ山吹色の炎が燃えたっている!あなたにもあるはずだよ!命を生み出す、炎のイメージが!」
心象世界を包む赤黒い炎に向かって、刀をまっすぐ構えると刀身に山吹色の炎が纏った。
「恐れないで!炎を!はぁーっ!」
振り下ろした剣はあっという間に黒い炎を追い散らし、コヒメの前に晴れやかな空と大きな川の景色が見えた。
「これは」
大きな川を必死に泳ぐ少年と、それを応援する橋上や船上の人々、そして少年の泳ぐ先には葵の御門の旗印を立てた殿様とその家来が少年を見守っていた。殿様の傍に拵えに包まれた小太刀の姿があった。
川の流れに何度も流されそうになる、その度に力を振り絞って旗印の方へ泳いでいく。
(頑張れ…あともう少しです…さぁ、あともう一息)
「この御刀の声…」
少年は河岸の岩にしがみつき、流れを掻い潜って川から出ると息を切らしながら崩れ落ちた。
家臣たちが駆け寄る中、殿様が少年のそばに寄り、彼の体に羽織をかけた。
「千代松、まちがいなくお前はわしの息子であり、常陸国水戸を治める器になる!」
小姓に持って来させた小太刀を、息子である少年へと差し出した。
「その足で立ち、この宗近の小太刀を受け取れ!」
「…はいっ!」
足を踏ん張り、まっすぐ立つと、頭を下げながら御刀を受け取った。
少年は苦しそうに息をしながら、小さく笑みを浮かべた。
(我が主人さまはこの日より苦難を乗り越えられ、立派な大名へとなりました。思い出させてくれてありがとう。私の燃えた地は、主人との大事な思い出の地なのです。燃えていく隅田川の命に耐えられなかった。みな同じ思いだったからこそ、焼け身となって深く閉じこもった。だが、また育めばいい。主人様を育て、主人様が育てたように)
コヒメの手の小太刀は強く輝き、コヒメの内なる山吹色の炎の力を借りて、倶利伽羅の彫り物が施された直刃紋の御刀がその輝きを取り戻した。
明音と正音はその神秘的な光景に目を輝かせた。
「おとうさま、綺麗だね」
「ああ、奇跡が起きたんだよ。二人とも、今日のことを忘れちゃいけないよ」
「うん」
傍に立っていた結芽が一番驚いていた。
コヒメはどの荒魂も持っていなかった輝きの炎を発していた。そして、その輝きはかつて美炎が生み出した内なる炎と同じ色であった。
(ああ、コヒメちゃんは受け継いだんだ…カナヤマヒメと美炎さんの炎を…)
◇
紫、弘名、そして美炎が玄関に到着した。
後ろめたさからか結芽の背中に隠れて、じっと三人の顔色を伺った。
「結芽、ごくろうさま。コヒメをここまで誘導してもらって手間をかけた」
「いいえ、もともと大洗旅行に連れていく予定だったみたいですし、それに私は弘名さんのシナリオに乗ったまでですよ」
コヒメは驚いたように飛び出て紫と結芽の顔を交互に見て、弘名に目を向けると無表情で両手ピースしながら、カニハサミのように指を閉じたり開いたりしていた。
「あ!また弘名に隠し事されたよー!」
「いぇーい、大洗の休日作戦ver.2大成功〜ぉ」
「ずるい!事前に言ってくれたら、飛び出したりなんか…しなかった…のに」
「気にしなくていいんですよ〜、今回のサプライズ旅行の立案者は美炎さんですから」
「え」
気まずそうにコヒメの前に立った美炎は、そわそわしながらなかなか話し出せない。
「ほら美炎ちゃん、ちゃんと言わなきゃだめよ」
智恵の一言に小さく頷き、そして意を決して、いきなり彼女を抱きしめた。
「み、美炎?」
「本当にごめんね!いつも部屋に閉じ込めてばっかで、それで人になる現象が進行しててなかなか外に出せなくなって、でもコヒメを閉じ込めておくなんて私できないから、紫様とちぃねえと弘名に手伝ってもらって、正峰さんのプロジェクトに便乗して大洗に旅行に行く計画してたの」
体を離すと、すでに泣き出している美炎の顔があった。
「コヒメ、美炎はお前を調査隊に預けている間、関係各所に頭を下げて回っていたんだ。遅れたのも既に実働してたお前の護衛部隊を調査隊に委託しなおすことを、現地の刀使部隊に説明に言ってたからだ。お前の気持ちを推し量ってやれなかった私たちの責任だが、美炎は許してやってくれ」
紫の言葉を聞いて、小さくため息をついた。
「あいかわらずだね、美炎って。でも、昨日すっごく楽しかったよ!美炎に見せられなかったのが残念なくらいだったよ!だからね、ありがとう!私を連れ出してくれて!」
コヒメは満遍の笑みであった。
「うぅ〜コヒメぇ〜!」
またコヒメに抱きついて離れなくなった。
「暑いよ美炎!」
結芽は何か思いついたのかニヤリと笑った。
「ここ黙ってたお詫びをせがんでもいいんじゃない?旅行の日程はまだ二日あるんだし」
コヒメは少し考えて、紫に顔を向けた。
「あの!今回、再刃した宗近の小太刀、私に預けてもらえませんか?」
「ほう?それはなぜだ?」
「あの宗近、昔の私を知ってるかもしれないのです!私がなぜ人間と荒魂のどっちつかずの存在か、私は知りたいのです!」
コヒメはたとえ口実があろうがなかろうが、この宗近を扱いたいと言うかもしれなかった。それほどに覚悟の定まった表情をしていた。
「よかろう。だが少し手続きに時間がかかるぞ」
「それは心配いりませんよ、紫お義姉さん」
子供二人は美炎が離れたコヒメに抱きついていた。
「正峰。なるほど、コヒメを復活した赤羽刀のテスターにするのか」
「そうです。データーは多い方がいいですし、これからも赤羽刀の復活に協力してもらえるなら、所有団体からもぜひにと言ってもらえると思いますよ」
「わかった。あなたに任せる。さぁ、みんなお昼にしよう」
「いいですね紫様!そうだ!網焼きバーベキューのお店行きましょ!」
「いいな。結芽の提案に反対の者は?」
いないと見ると、挨拶を済ませてから車で出発していった。
なおコヒメの元に宗近の小太刀が届くのは一ヶ月半後のことである。
…了
「ところでミルヤさん、私たちもこのままあと二日とも同行ですよね?」
「何を言ってるんですか燕結芽、剣舞会の書類は金曜に提出しますので昼食を食べたら即刻都内に帰ります。帰ってからから突貫作業になりますから、そのように」
「…しおりん、今日は何曜日?」
「ええっと…水曜日かな未久ちゃん…」