「今年、折神紫と同化していたタギツヒメが作った沼島ヨモツヒラサカイ観測所を破棄することになったのですが…場所が場所なので機材の運び込みと基地の破壊をお願いしたいのです」
朱音は局長席の机前に立つ調査隊に真剣かつ、重々しく要件を言った。
詩織と未久はいつになく緊張していた。
それもそのはずである。その場には真庭紗南本部長、補佐の益子薫、相楽結月学長の姿があった。
相楽が提案がある、と話を遮った。
「朱音、爆薬で一回で破壊すべきだ。あそこの危険性は十五年前に観測基地がヨモツシコメに襲われた事象が周知されているはずだ。爆破であれば、短時間で済む。自衛隊の協力なら…」
「それは不可能です」
結月の冷静ながら強い眼光を受けてなお、朱音は眉ひとつ動かさなかった。
「局長…!」
「イワナガヒメ様から連絡があったのです。基地までの道がすでに隠世の侵食で一般人は通行不可。何より、基地には古い観測機器ゆえにノロが多く使われています。ヨモツヒラサカイと疑わしき場所にノロを残して凶悪な荒魂が顕現するリスクは避けたいのです」
結芽は薫の目が虚空を見ていると気付いた。こう言う時は限って、手がないがリスクも多い事態を避ける手段を考えている目だと知っていた。
(ミルヤさん)
結芽の視線にアイコンタクトでうなづき返した。
「今回の観測所の撤去依頼、イワナガヒメさまからですか?」
朱音はその返答に一拍置いた。
一同の顔と扉を見た。扉前には中に人を入れないために外に特務警備隊第二席の加賀美ミミ、内には第一席の六角清香が立っている。
机の鍵棚を開錠すると、一通の鈴蘭のあしらわれた家紋の印が押された古風な封書が机に取り出され、朱音は慣れた手つきでそれを広げて見せた。
「いえ、今回は違います。折神家および日本政府と不干渉の契約を成した大荒魂たちの集まり、北野座談会(其ノ二十三参照)。その所属している荒魂と、その頭目タテエボシさまの連署で観測所の撤去を要請してきています。その理由は三つ、四国の隠世への門を封じる結界の外に位置してしまっていること、隠世と現世側の荒魂がヨモツヒラサカイに干渉しようとすると関守が妨害すること、近年しきりにヨモツヒラサカイを探る正体不明の存在がいることだそうです。北野座談会との契約上、これは強制力があります」
「それが調査隊である必要はないだろう」
相楽の相楽らしからぬ間髪入れない言葉に真庭と朱音は目を瞬かせた。
「朱音様、不躾な質問で申し訳ありませんが…私が理由ではありませんか?」
結芽は真顔のまま冷め切った口調で問う。
朱音は悲しげな目を向けた。
「そうです。関守はヨモツヒラサカイに侵入する和魂(にぎみたま)と死人の魂以外を排除します。それと対抗しうるのは、かつて関守を切ったことがあるニッカリ青江だけなのです。他にも可能性のある御刀はありますが、どれもヨモツヒラサカイへ送り出すことに一悶着起きてしまいます。タギツヒメの一件は特別でしたからね…事前の調整を舞草が数年掛で行った結果でした。今回は時間がありません。どうか、お願いします」
立ち上がった朱音は深く頭を下げた。
「ミルヤさん、私はかまいません。一人ででも行きます」
笑顔の結芽にやむなしと目を深く閉じ、開いた目は朱音をまっすぐ見た。
「調査隊は観測所の現状と、残留品の調査・回収、そして不要物の御刀による破壊をお引き受けいたします。我が隊の副長が申されたことは、どうぞお聞き流しいただきたく存じます。私たちは誰一人欠けることなく任務を完遂してきた実績があります。今回も完遂いたします」
詩織と未久はミルヤの言葉に背を正した。
相楽はどこか残念そうにため息をついた。
◇
翌日。
国造りの伝説が残る瀬戸内海と太平洋を結ぶ明石海峡に浮かぶ島、淡路島が見えてきた。
「なーにー?いつになくみんな塩らしいじゃん。船酔い?」
船尾近く、未久と肩を並べて船の航跡が長く延びていく。
結芽はかっぱえびせんを摘みながら、時折船の後ろを追ってくるカモメにタイミングよくえびせんを投げた。
カモメは空中でキャッチすると船の横を離れていく。
「…すいません、ごめんなさい。いま、そういう気分じゃないんです」
「十五年前…詳細を聞いたけれど、凄まじいね」
「凄まじいで済みます…?できれば楽な方法がよかったです…」
一個口に摘み、項垂れる未久の横顔を見ながら、自分も緊張しているのを自覚した。
「十五年前…五月十一日、観測所で勤めていた一般の研究員5人と護衛の綾小路の刀使3人と美濃関の刀使1人が正体不明の荒魂の襲撃を受けた。美濃関刀使の機転で全員脱出したけれど、綾小路の刀使二人が写シが発動できない障害を抱えて現役を退き、研究員はPTSDを患って、当時の証言すらままならない…先にその美濃関の刀使だった人が島にいるそうだけど…」
「燕結芽…あなたはあまり頓着ないかもしれませんが、観測所の事件は巷間でも有名な事件なんですよ。主にホラー方面の都市伝説としてね」
ミルヤの言に首を傾げた。
「本当に結芽先輩は知らないんですね…当時は箝口令が出たそうですが、ネット掲示板に事件の詳細が流れたんです。誰が漏らしたかは不明なんですが、生き残りしか知り得ない情報があったんです。関守の仮称は極秘扱いだったとか…今は事件を知る人なら誰でも知ってますけど…」
そう語った詩織へ振り向き、その関守の名前を聞いた。
「ヨモツシコメ。隠世と現世の理に基づかない…史上最悪と名高い荒魂と…される存在です」
船は淡路島本島を無視して、島の南側に浮かぶ小島…沼島へと着いた。
◇
「たしかこっちを進んで…封印のしめ縄があるはずだから…うん、茂ってるけれどここだね」
山登り用の重装備にリュックサック、さらにはレミントンM870を肩に携行するメガネの女性が先行して茂みをマチェットで払った。そこには錆びたフェンスで囲われており、扉には立ち入り禁止の札とかすれた特祭隊特殊領域観測所の文字があった。その向こう側に朽ちた鳥居に規制線テープとしめ縄に折神家特製の護符が貼られ、その先に素堀りの隧道が深い闇を抱えている。
「昔と変わらず鳥居の先はぺんぺん草一本も生えてないわねー。嫌な空気も変わらずだわ」
隧道の入り口には新しめの測定機器が置かれている。
「恩田累。あれが」
「入口の入り口…観測所はヨモツヒラサカイの入り口から一歩手前にあったの。あの日まではね」
累の軽い口調から、大きなため息が漏れた。
「私の権限であなたに戻ってもらいましょうか、朱音様には…」
「いいの。侵度はレベル3…入れるのは元刀使と祓いを済ませた神官までだから行けるわ。あの観測所を始末しなかったのは心残りだったから」
「累さん…」
累の見たことのない達観したような目を見て、結芽は思わず名前を呼んでいた。
「いいの結芽ちゃん!さぁ行こう…!でもその前に…接近警報アプリを起動して」
全員が特殊神域スペクトラム計を起動した。
「現世では効果はないけれど、通常のスペクトラム計が使えない隠世でもサーモ表示と接近警報で荒魂を教えてくれるんですね」
「そう詩織ちゃん、あと通常の荒魂が持たない共振波の緊急警報装置でもある。昔、御刀だけがアイツの攻撃に気づいてね。そこから着想を得たのよ」
ミルヤは結芽とうなづきあった。
「行きましょう」
「ミルヤさん鍵は?」
「ほい」
結芽が写シを張って強引に蹴り破った。
「えぇ…」
「じゃあ行こ!」
雑草の生えた石畳を進み、鳥居についた護符を封印の言葉を唱えると空間が波打った。すると、隧道の方から風が流れてきた。
背中をさすられるような感覚が刀使一同に走った。
「みんなも感じるらしいね。写シの奥から疼く、行くなって声が」
「ふーっ…」
結芽は前へ進み出ると、護符を外して封鎖線を小柄ですっぱり切った。
彼女が進みだしたので累はマチェットを鞘に納めて隧道へ真っ先に入った。結芽、ミルヤ、未久、そして来た道をちらと確認してトンネルに入った。
言った通りトンネルは生命の痕跡は見当たらない。それどころかトンネルはどこにも通じていないと言わんばかりに一切気温を感じない。
「なんですかこれ…光がないのに視界がある…!」
「ん?そっか、ミルヤさんと累さん以外は隠世を初体験か。不思議なんだけど天地とか液体らしきものとか感じられるんだよね。ただし刀使しかできない…累さんは御刀は?」
「前田藤四郎を借りてきたわ。戦える写シは無理だけど、観測所までの道のりでは体を守ってくれるわ」
トンネルを抜けると、一面灰色と地面は黒の空間が広がっている。灰色は霧雨のようなものが絶え間なく降っているからと気づいたが、手をかざしても雨粒の感覚がしない。
決して視界は広くない。霧のせいである。
「どう?累さん」
「うん、変わってないから…行けると思う。ほら、この杭に沿っていけば観測所よ」
累が先導して進む。
五分ほど歩いていると、キラキラと何かが煌めく突起物が空間内に点々としている。
「あれは…岩ですか?」
初体験の隠世との境界に、詩織と未久は恐怖よりも驚きと好奇心が勝っていた。
「あれは珠鋼の材料、ヒヒイロカネを含んだ雫岩よ。ただし、含有量が少なくてあの岩一つじゃ短刀の御刀一振り分の珠鋼の3%にもみたないけれどもね」
「へぇ…!」
ミルヤが耐深度時計を見ながら歩いてが十五分経ったことを確認すると、直に到着かと累に問う。
「うん…ようやく見えてきた。あれだよ」
彼女の指差した方向に横長の二棟のプレハブ小屋が見えた。
朽ちると言う概念がないのか、新品同然である。
「累さんストップ!念の為にみんな写シを張って」
結芽の言葉に全員が黙って鯉口をわずかに切ると、白い光を身に纏わせた。
「神域スペクトラム計は?」
「反応なし、周囲にも接近するものがありません」
「よし、じゃあ先行するね」
累の手にする古い鍵が新品同然の南京錠にするりと入って、開錠した。
ガチャ…。
「あの時から変化がないなら、昔のバッテリーが生きてるはず」
累が思い出すようにスイッチを押すと、古いブラウン管のモニターや観測装置に囲まれた部屋が姿を現した。
古い菓子袋や、私物の雑誌がついさっきまで人がいたと感じるほどに朽ちることなく、時間も感じさせなかった。
「うわ…あの時のまんまだ…」
累は唇を噛みながら、奥の接続しているもう一棟の扉を開けた。
「ここが休憩室兼仮眠室、研究員たちのノートも」
宿題を進めたままテーブルに問題集とノートが広げられたままであった。
詩織はその一冊のノートを手に取った。
「やりかけの宿題そのまま…この数II問題の解答全部間違ってる!このノートは…」
「ミ、ミルヤ!!さぁ処分を始めましょうか!!じきに現世の入り口に回収機材の運搬員が到着するから!さ!さ!さ!」
結芽らを仮眠室から追い出して扉を閉めた。
(くそ…くやしいなぁ…)
累の曇った顔を見たミルヤは手早くタブレットに回収リストを表示した。
「では、リストに沿ってノロの回収をはじめましょう」
「「「はい!」」」
◇
ミルヤたちは手順に沿って機器からノロを取り外していく。
「えーっと十二番の基盤を切って、百五番の増幅機を…」
蓋を外された本体に体格の小さい詩織がカメラ内蔵のライトを額につけて潜り込み、中に入り込めない累が映像を見ながら指示する。
「それが直接ノロ容器の端子に繋がってるから慎重に抜いて」
警告文と封印の護符が貼られた黒い箱から古いタイプの太いUSBケーブルを慎重に引き抜いた。
「取れました。あとは固定してるネジを外せばいいんですね」
「うん、落とさないように気をつけてね」
「はい…!」
詩織はブラックボックスを固定してたネジを全て外し、その手にずっしりと重みのある物体を外へ引っ張り出した。それを未久の首に掛けられたクッション材が厚く貼られた布製のカメラケースへと慎重に入れた。
「まず一つね!あと十二機!」
「恩田さん、機器は破壊しなくていいんですか?」
「あーこれでも十分だけど、念には念をいれてだね。さっき線を切った基盤引っ張り出して」
「これですか」
「そうそう!これをね…」
累は詩織から受け取った基盤を袋に入れると散々に割って砕いた。
「…そんなに雑でいいんですか?」
詩織は拍子抜けしていたが、累は笑顔だった。
「この観測機は隠世を観測してはならないという禁忌を犯した装置なの。すでに設計図は破棄されてるから、核の基盤であるこれがなくなれば二度と使えないわ。こういうのは物理的破壊が一番効果的よ」
「それでわざわざ次郎太刀を指名したんですね」
「念には念を入れてこの基地も木っ端微塵にしたい…って朱音様のご注文だからね。最後は大太刀で瓦礫の山にしてしまいたいそうなの」
結芽もミルヤの指示でブラックボックスを回収した。
「よっと、未久ちゃん」
「はい」
持ってきたカメラケースは五つ。九つの機器からは十一のブラックボックスが収められた。
「じゃ、これで回収は完了!」
「累さん」
「なんだい結芽ちゃん」
結芽は真剣な面持ちで後方の通路に目を向けた。
「隣の部屋の私物、持ち帰るべきじゃありませんか?」
「…」
累の言葉が詰まった。
「あー…置いていこうか…」
「ダメです、恩田累。処分するなら現世ですべきです。犠牲になった人の手元に返したくないことも、あなたにとっても忌まわしい記憶なのもわかります。しかし、持ち帰らなければ永遠にここに残ります」
「そうだよ。いいの?間違いだらけの数学のノート残しちゃって」
「き、気づいてたなー!?」
「ノートに名前書いてあったよー」
「あの隠した一瞬で…!でもそうね、ちゃんと決着つけなくちゃね…」
累と詩織に未久は残っている私物をまとめやすいように整理していく。
「燕結芽、次はこちらをお願いします」
「はーい」
基地内の観測資料は簡易シュレッダーにかけていく。
あっというまにゴミ袋が満杯になっていく。
「ん?」
結芽は紙が張り合わさったとある資料に目が留まった。糊の貼られた場所を剥がすと、それはノロ同士の共鳴から強大なノロの移動を観測するグラフ表と何かのメモ書きだった。
「これってヨモツシコメの観測記録でしょうか?」
ミルヤは結芽の見る資料を見て、その丸がつけられた異常な反応数値。
「これは見逃していましたね…お手柄です」
「こうやって張り付いてたんです。糊でぴったりと」
グラフ表をミルヤに渡すと、サインペンで描き殴られた四つ折りのメモを開いた。
「後世に…脅威を警告するためにグラフを残す。これはタギツヒメと近似値を示すがそれにあらず。また、マイナス値を示すヨモツシコメにもあらず。このグラフをもとにした報告書は折神家によって破棄と箝口を指示された。これを目にした者がこの記録という名の証拠を正しく扱う人間であることを祈る…タギツヒメでもヨモツシコメでもない存在…?」
「なにこれ…初めて見たわこの数値」
累はミルヤに見せられたグラフに絶句した。
「私が見たことある荒魂の基礎数値はこれの半分よ!ミルヤ、これ以外にある?」
「探しましょう」
総出で探したが、結芽の見つけた糊付けされたグラフのみだった。
「緊急性がありますね…すぐに現世へ戻りましょう。ここでは全ての通信が途絶したままです。手早く遺留物をまとめてください十五分後には出ます」
「ミルヤ待って、ノロの運搬規定なら一度の運搬はノロの合体リスクを考慮して封印筒がない場合は1リットルまでよ。全員は無理よ」
「たしかに、ブラックボックス一個あたり150ml…700ml分の2ケースをここに残って見る人間が必要ですね。予定通り、私と山城未久が残りましょう」
待ったと結芽が手を上げた。
「この資料の重要性は累さんとミルヤさん二人で報告するべきです。現世に戻ってからの回収班との調整もありますしね。ミルヤさんの代わりに私が残ります。それに、私の方がそのヨモツシコメに対応できる可能性が高いみたいですから」
「いいのですね」
「時間が過ぎたら予定通り私と未久ちゃんも基地を破壊して出発します」
ミルヤにあの書き殴りのメモを託した。
「構いません。もしもの時は自分たちの生命を優先してください。いいですね?」
「了解です!じゃ、荷物まとめましょ!」
荷物をまとめ終えると、累は結芽に過去について話したいと言った。
「あの日は今まで通りの穏やかに警備任務が終わると思ってたの。でも、計測機器が一斉にマイナス値を叩き出して、機器統括のPCが警告音を出しながら落ちたの…それから、空気が振動するのと同時に隠世が基地を侵食。この空間内では刀使は常に台頭しているから御刀が写シを張って心と体を守ってくれたけれど、研究員二人は痙攣と嘔吐しながら気絶。脱出する時にかろうじて一人が起きたけれど、寝ていてくれた方がマシなくらい幻覚や判断力低下に悩まされたの」
「そこにヨモツヒラサカイが現れた…と?」
「あいつは全容が見えない。視認できない。けれど、黒い目をした人の顔らしきものが見えるはずよ。刀使三人で相手してかろうじて逃げられたけれど、私以外は写シに障害…写シをまともに張れなくなる病気を抱えて刀使を引退せざるを得なかった。二人は共通してヨモツシコメに腰を軽く叩かれたそうよ…私は運良く逃れられたけれど、私も触れられていたら今この場にいなかったかもね」
「なんで腰なの?」
「刀使の写シの核は子宮の奥、骨盤の中心にあるの。そこに一番近くて影響を与えられるから…かもしれないわね」
顔を赤くした未久がお腹をさすった(其ノ八参照)。
「都市伝説として聞く話ではそもそも斬撃は当たらないと聞きました」
その未久の質問に斬撃は効くわ、と答えた。
「問題は…奴には死がないのよ。足止めはできるから、それで油断せず逃げること!あとは相手に夢中になって道に迷わないことかな」
「道のり十五分なのに迷子は考えずらいですが…」
「私もそう思うわ!一応はマーカーは記してあるから、それを目印にすればよっぽど大丈夫…でも、くれぐれも気をつけてね…!」
「「はい!」」
ノロの入ったケースと装備を抱えた累、ミルヤ、詩織は基地を出た。
「燕結芽、時間合わせを」
「はい」
結芽は左袖をまくって腕時計を出した。クォーツは隠世の干渉を受けて振動がブレるため、機械式時計の方が良いとされている。折神紫から任務時に与えられたボールウオッチのロードマスターを大事に使っている。
「11時50分に合わせます」
「1分後の50分…はい!」
「15…10…5、4、3、2、1...0」
「合いました!」
「では、くれぐれも無茶はしないように」
「はい、ミルヤさんも打ち合わせ通り」
結芽はいつも通りの不適な笑顔を見せ、ミルヤは笑顔で頷いた。
「では出発!」
最後尾の詩織が手を振りながら遠のいていく…やがて霧雨の中に三人の姿は完全に見えなくなった。
◇
「さて…未久ちゃんもう一度特殊神域スペクトラム計を確認しよう」
二人端末を出すと、変わらずの表示だったが十秒ごとに隠世の次元の小さなひずみの移ろいが表示される。また、隠世の侵度レベルも変わっていない。
「侵度も基地の前で止まってます」
「累さんからもらったクォーツ時計は?」
「ここに!」
未久の左腕には機械式時計とクォーツ式腕時計が巻かれている。
「ヨモツシコメの接近時に一番わかりやすく反応を示すそうだけど…」
「探知半径1キロに反応はありません」
「私たちが来たことでどんな反応を示すか未知数だけど…まだ時間あるし、簡単に腹ごしらえしよっか」
未久はリュックから日持ちするタイプのパンや缶詰に栄養バーを出した。
「なにがあるかわかんないから、とりあえず食べとこ」
結芽は自身の鞄からおにぎりを未久に手渡した。
「あ!ダメだって言われてたじゃないですか!」
「ちゃんとしたの食べないと動けないよ〜私の彼お手製だからおいしいよ」
「むぅー!結芽先輩ったら!」
さらにおかずが入った弁当も出てきた。
「はい、お箸ね。いただきます!」
「いただきます!」
出発までの三十分。
簡単に昼食を済ませた二人は栄養バーをポケットに詰め、残りをリュックに詰めた。
「のこり五分だね。御刀の準備しよっか」
「次郎太刀が外にあるので先に入り口にいます」
「おっけー!」
帯剣装置に和泉守兼定とニッカリ青江を佩き、リュックを背負ったまま椅子に腰掛けて、未久のいない隙に大きなため息をついて脱力した。
「んーっ眉間に皺寄ってたかな…早く戻りたい…」
水筒の水で喉を潤すと、そのまま脱力したままで時計の文字盤を見ていた。
ふと、写シが張った。
「ん?」
ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴヴヴッヴヴッヴヴヴヴ
警報音がなった。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
警報音が鳴った。
部屋をつんざくような警報と空間を包む振動が、結芽の胸の奥から今すぐにでも逃げろとせき立てる。
「未久ちゃんっ!!!」
駆け出して入り口を出ると、次郎太刀を手に写シを張ったまま空を見上げる未久の姿があった。
「深い侵度の隠世に酔ってる…未久ちゃん!しっかりして未久ちゃん!!!」
肩を揺らすと目を泳がせながら、結芽の姿をはっきり確認した。
「は!はいっ!」
「腕時計はどう?」
「えっわぁ!」
クォーツ時計は凄まじいスピードで秒針を刻んでいた。
「ケースは持ったね」
「は、はい!肩掛けしてます!」
「私も持ってるよ…抜刀して基地を破壊しよう」
未久は鞘を抜き払い、切先を天頂に向けた。
結芽も兼定を抜いて周囲を警戒する。
「いきまーすっ!はぁああああああああああ!!!!」
飛び込んで行った未久は次郎太刀で施設を何度も叩いて、木っ端微塵に破壊していく。
「そうだスペクトラム計…え?」
サーモ表示は基地一体を真っ赤に表示していた。
「どぅぉせいやああああ!!!!」
施設は跡形もなく破壊され、瓦礫の山が積み重なっている。
「よし…結芽先輩!おわっ」
振り向いた目の前に、大きな黒い両眼。
生を闇に糊塗せんとする深い深い黒。
その球体は目の前の何をも写し込まない。
皺よった巨大な人間の白い顔を前に血の気がサーっと引いた。
視界が化ける。それの存在を正確に知覚できない。
「エイッオォォオオオオオオオオ!!!!!」
結芽はその巨大な頭部を袈裟に一刀両断した。
動きが止まった。
「行くよっ!!!」
震える未久の手を引きながら、後ろでずるりと頭の半分が落ちたナニモノかが霧に消えるのを見る。
「マーカー…は見える!よし!」
道に打ち込まれた蛍光塗料の印に沿って歩いていく。
引っ張る未久の腕がまだ震えている。
「未久ちゃん」
「はぁはぁ、だ、大丈夫です。怖いと体が動かなくなる悪癖、また出ちゃいました」
結芽は振り向くと、汗でじっとりと額を濡らし、しきりに周囲を見る未久の姿だった。
「深呼吸しよう」
大きく吸って、吐いて。大きく吸って、吐いて。
「ちょっと落ち着いた?」
「は、はい…」
「歩きながら状況を確認するよ。未久ちゃんが基地を処置中に、基地がヨモツシコメの反応で真っ赤になってたの。私は勘で現れる位置を予測して切った。有効だったけど、全長は4メートル近くあったね。デカいし、怖いわ」
結芽の飄々とした口調に未久は少し安心した。
「でもこれで処置は完了しました。スペクトラム計では…追ってきてませんね」
「このまま警戒しながら進もう」
「はい…!」
マーカーに沿って十分歩いた。
だが、様子がおかしい。景色が違う。
「出入り口の方向ってあんな風に暁みたいな赤い色してましたっけ…?」
「あんなにいっぱいあった雫岩も見えない…」
結芽はフラッシュライトをかざして、途中にある管理局管理を示す看板を見た。
「はっ?え?あああ!」
未久は文字盤が左右反転上下逆さまになった看板を見て、思わず声を上げた。
唇を噛みながら、結芽は元来た道を見た。
「さっき、あの基地であった振動がない…まるでひずんでたよう…に」
ひずみ…それは未久も体感していた。明らかに空間ごと歪んだ。
「この窪んだ岩…たしか左右逆も、それも来た道側の向きです!」
「看板の左右上下の反転…まさか…真逆の道を来たっ!?」
その事実に思わず結芽も鼻白んだ。
「スペクトラム計の…戻った先の反応は…?」
「真っ赤です…」
結芽は一瞬だけ目を瞑ってから、二択を上げた。
「中央突破か、基地を迂回か…」
あの得体の知れない存在に、二人の意見は一致していた。
「迂回しましょう!幸い、道はあの基地までまっすぐ続いてます!」
「…よし。背中、任せたよ」
「今度は…怯みません!」
二人はここまでの経路図と基地を包んでいたひずみの範囲の認識を突き合わせ、その外周を左に大きく回って残っているマーカーのポイントへ回ることになった。基準となるのは先ほど倒したと思わしきヨモツシコメが残したひずみの反応。
これがまだ神域スペクトラム計に残滓として残っていた。
二人はすぐに偽の道を外れて迂回し始めた。
「問題はあいつの反応が薄れていっていることですね…」
「顕現したら反応が強く出るタイプなのかも…それまでこの霧の中に潜んでるかも知れないね」
「それにしてもどうやって私たちの位置がわかったのでしょうか?」
「もしかしたら私たちの刀使に由来するものなのかも…でもこの侵度だと写シを解けないし、また襲撃のリスクもある。仕方ないけれど…進もう」
移動しながら刻々と変わる位置が自分たちの現在地を指し示す。
だが、スペクトラム計に黄色の濃い反応が現れた。
「進行方向だね…しかも横に広い」
「避けると基地近くの反応に近づきすぎます」
「ん、突っ切って行こうか」
霧の中を慎重に進んでいくと、そこは白い竹藪であった。
一度立ち止まったが、進むことにした。
「たぶんだけど…現世のものが隠世に再現されることがあるの。それは写シや荒魂に深く縁故のある空間が再現されるみたい…」
サワワ…
だが、結芽は以前に現世と隠世の間で体験したものとは異なる感じがした。
まるで海の底深くで獲物を死んだように待つ深海生物のような、押し殺すような独特な殺気である。
サワワ…
サワワワ…
サワワワワワ…未久…
未久…こっち…
「おねぇちゃん?え?どこ?」
結芽はようやくさっきのような空気を震わせるものが周囲に包まれていることに気がついた。それはまるで脳と鼓膜を蓋しようとするものだった。
サワワ…
サワワワ…
サワワワワワ…結芽…
結芽…
頭はそれを耳で聞いたものと錯覚するが、体は耳には笹の葉が擦れる音しかしないと言っている。
「あーともくんの声がする…」
結芽…これは幻聴だ…早く切れ…
「うん、ともくんならそう言ってくれる!」
右往左往しながら混乱する未久は横目にニッカリ青江も抜き払って、竹を散々に切り刻む。
竹の節が目となって赤い目を露わにし、枝を結芽に向かって伸ばした。
「まださっきのほうが…怖い!!!!」
触手ごと竹のごとき荒魂を切り飛ばす。
そうしていると、未久へ攻撃を集中させるのか叫びながら悶え始めた。
「精神攻撃っ!意志の強い未久ちゃんでもこれか!」
「ああああああ!いやあああ!おねぇちゃん助けて!怖いよ!」
結芽が何に見えてるかわからない。だが明らかに恐怖と殺意が混濁した目つきであった。
「未久ちゃん!未久ちゃん!!!やばい…聞こえてないな…なら!」
後退りながら、背中を狙う枝の触手を切り払う。
そして、未久が大きく腰を沈めて隠剣の構えになった。
「消えろ…バケモノォオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
甲高い樋鳴りとともに次郎太刀が凄まじいスピードで走る。
結芽はとっさに頭を下げると、竹藪の荒魂が一気に斬られ薙ぎ倒された。
サワワワワワ…
「ああああああああああああ!いあやああああああああ!ああああああああ!」
竹型の荒魂は倒された。だが精神干渉された未久の混乱が治らない。
「まっててね…!」
結芽は未久の繊細さを無くした大ぶりの切りつけを避けて、彼女の頭を胸元に抱き寄せた。
「未久ちゃん、大丈夫」
「あ、ああ、あああ…」
「由依さんはここにいないよ。でも、現世で元気なのは未久ちゃんがよく知ってるでしょ」
未久は暴れなくなり、結芽の背中に両腕を回した。
「おちついた…?」
「はい…いい匂い…」
「こら」
御刀を持つ手だが、背中を優しく撫でた。
「もう大丈夫です」
「…ごめんね」
「…!いえ、いいんです!」
未久は声を張って結芽に笑顔を見せた。
これだけ後輩に精神的な影響が起きているにも関わらず、自身には何も起きていない。
ひどく落ち着いて目の前に対処している。
まるで前にも同じことがあったように…。
記憶の底に封じた幼い日の『死』の記憶がちらつく。
「いいや…今は気にしちゃいけない」
「結芽先輩、どうかしたのですか」
「ううん、なんでもない!あともう少しで…」
霧の中にあの無数に点在していた雫岩たちが姿を現した。
未久は何かを見つけて駆け出した。
「結芽先輩ありました!マーカーです!結ばれた看板も正位置ですよ!!...結芽先輩?」
スペクトラム計を見ていた結芽は端末をポケットに押し込んだ。
「来るよ」
警報音が鳴った。
またあの振動が空間を包む。
「今度は負けない…!」
無数の手が未久の背中に伸びてきた。
「ふんっ!」
腰を左に回すと切先が右背中に回ってきたヨモツシコメの胴に突き立てた。
その長大な刀身のためにヨモツシコメは動けない。
「デカい頭…胴長…ハルキゲニアみたいな触手…初見殺しの淫らなヤツッ!結芽先輩!」
「うんっ!」
ヨモツシコメを荒魂なら必要十分以上に二刀で切り捌いた。
「よし!今のうち…っ!」
背中に強烈な悪寒が走った。
指先一本。
たったそれだけで写シの全てが持っていかれそうな喪失感に襲われた。
人生二度目の走馬灯が走った。
だが、自身の大切な人々の今の顔が流れた途端、内から溢れんばかりの力が流れ出すのを感じた。
「わたしは…生きてるんだっ!」
左腕が本能的にニッカリ青江で背に触れようとした手を切り払った。
半身を翻しながら勢いのまま兼定で眼前の巨大な両目に横一閃を引いた。
「結芽先輩っ!!」
「一体じゃない!!二体でもないかも!!」
ヨモツシコメは一体ではなく、神話の通り複数体の可能性が高い。ならば彼女たちを感知する条件がある。
それは、御刀だ。
御刀がこの振動と霧に共鳴して聞こえない共振を起こしている。クォーツを狂わせるのだ、珠鋼に特異な振動を当てることなど造作もないだろう。雫岩に反応しないのは純度の関係、ヨモツシコメは珠鋼の塊に反応して攻撃してくる。
数千年、ヨモツヒラサカイが禁忌の地だったのは、ここ自体が生身の人間を通さないための結界として作られているからなのだと気づいた。
彼女はこの状況と事実に対し、即断即決した。
「未久ちゃん!マーカーのある道は空いている!!進んで!!」
「でも!」
「行け!!こいつらバラバラにするのに邪魔だから」
「…わかりました!すぐにしおりんを連れて戻ってきます!!」
未久は駆け出した。
笑顔の結芽はすぐに集中力を上げた。まだ先ほどの指一本の後遺症があるが、冷静である。写シもある。
両頬が吊り上がり、アルカイックスマイルになる。
「さぁて…目で見えれば色々わかるんだけどなぁ…だったら」
道を抜け出すと、一個の雫岩を兼定の鎬で大きく叩いた。
キィィイイイイイインッ…
さらに隣の一個も叩いた。
「来い…来い…」
霧の中にゆらりと二体が最初に叩いた岩に寄ってきた。
背を低くする結芽のわずか7m先にいる。
「ここでようやくシルエットか…でも十分!」
迅移で前後左右に並ぶヨモツシコメに向かって飛び込んだ。すれ違いざまに散々に、バラバラに輪切りにし再び岩を鎬で強く叩いて離れる。
「これで各個撃破していけば…」
だが、同じように3体、2体、1体、4体、2体、3体と斬ったが一向にキリが見えない。
道に付かず離れず動いていたが、写シの持続時間に難のある結芽は倦怠感を感じ始めていた。
「まずい…」
膝を突きかけたが、踏ん張って二刀を構えた。彼女はすでに肩で呼吸していた。
そして、自身の周囲をぐるりと囲むようにシルエットが浮かんでいるのに気づいた。
「5…7…9…13か…もう十分だね…脱出しよう!」
再びの悪寒。
指先が触れる。
今度は生存本能が優って恐怖よりも気合が勝った。
みんなの元にちゃんと帰るという、強い意志。
「はぁああああああ!」
背後に現れたヨモツシコメを散々に切り払った。
だが、振動と霧、そしてヨモツシコメの写シへの直接干渉が結芽の気力を根こそぎ奪う。
「あーもー!やったなーぁ!!...はぁはぁ」
自身の頭を兼定の柄頭で殴った。
「あったまいたい…朦朧とする…体は動くはずなのに、頭がとろっとろな気分…」
その暇、結芽が混乱する一瞬のうちにシルエットは濃くなり、ぼんやりとあの黒い両目が彼女を囲んだ。
視界が歪む。
もはや絶望も、これから来る『死』も感じ取れない。
「あーあ!結局弱いんだー!おねえさんな結芽!」
幼い自分が見える。13の時の、茶の親衛隊服を着てる。
「こんな程度の奴らに囲まれて背中とられるなんて恥ずかしいんだー!あははは!」
うるさい。昔の自分がうざい。最悪の幻覚だ。
「でも助けてあげる。だって結芽は結芽だもん!」
は?何を言ってるの?
「やっちゃえ、甲斐」
地鳴りと共に地面をつん裂き現れた金色の龍は、その巨大な顎門でヨモツシコメを喰らい、噛み砕いていく。
鎧袖一触、先ほどの苦戦が嘘のように倒されていく。
「じゃあねー。また夢か現世でね。まぁそんな頭で動けたらだけど!あはは!」
ウィンクするとマーカーの道沿いに立ち塞がるヨモツシコメを散々に切り捌いてから、霧の中に姿を消した。
「はぁ…はぁ…うぅあぁ!」
力を振り絞って走り出した。
マーカーに沿ってひたすら道を駆け上がっていく。
やがて霧が薄まりはじめ、光が差してくる。
「結芽先輩!!」
誰かに抱き止められた瞬間、写シが解けた。
そして意識が飛んだ。
◇
橙色の光が差し込む。
視界がはっきりしてくると記憶が蘇る。
布団を出ると、窓から夕焼けの海が見えた。
大きく息を吸うと、生と死の混じった潮の香りが結芽に現実を強く意識させた。
「生きてる…」
「燕結芽。起きたのですね」
「ミルヤさん」
優しい笑顔の彼女はペットボトルの水を差し出した。
結芽は本能的に栓を開けて喉に水を流し込んだ。
体の奥に染み渡る感覚が広がっていく。
「ふぅ…」
「加減はいかがですか?」
「写シの使いすぎで若干気だるいですけど、平気です」
「何があったか聞いてもいいですか」
「もちろんです!」
そして未久を逃すまでのことを話した。
「甲斐…と言ったんですね」
「それが夢か幻か判断がつきませんでした。もしかしたら自力であの包囲を抜け出したかもしれません」
「ですが、あなたに隠世の大荒魂である甲斐の記憶は」
「ないです。姿形も聞いてません。真希さんと寿々花さん、それに智恵さんから私の救出時に立ちはだかったという話は聞いてます。たしか南无薬師瑠璃光如来の写シを封じてたと聞いてます」
「討伐したメンバーしか姿を見ていません。ですが、姿形は一致します。おそらく本物です」
「じゃあ、幻覚と思っていた幼い私も…」
「燕結芽、あなた自身に関して謎の理由がはっきりするまで、他言無用でお願いします」
「はい、余計な心配を二人にもさせたくないですから」
引き戸を引いた音共に未久が結芽に駆け寄って抱きついた。
「ゆ、ゆめせんぱいぃ〜っ!うぇえええおきてくれたよぉぉおおおおぉぉ」
ポロポロと涙を流して泣き腫らした未久を見て、緊張の糸がほぐれた。
顔を上げると詩織と累の姿もあった。
「ただいま!未久ちゃん、お互い無事に帰ってきたね!ありがと!」
結芽は優しい笑顔で未久の頭を撫でた。
帰る場所を思い浮かべられた。それが生死を分けた。
結芽はこの場にいる仲間たちに感謝した。
◇
沼島のヨモツヒラサカイ入り口は報告を受けた朱音によって即日封鎖が決定。
翌日にも燕結芽のニッカリ青江によってヨモツヒラサカイとの縁を破断。
隧道を山城未久の次郎太刀によって破壊、封鎖する。
なお、ヨモツシコメは仮称である。
十五年前、恩田類が聞いたカノモノの声を呼称として用いた。
正式な表記は『ヨ毛ツ滓コ罒』である。
了…
本話のインスパイア元となった遷移圏見聞録に感謝いたします。
アナログホラーで怖いですが、ぜひ『ユガミ警報』と『うごめく林道』は必見です。
ぜひご覧頂ければ幸いです。