あなたは都会の真ん中で黒トンボを見かけたことがあるだろうか?
わたしはある。故郷の清流にいたのをよく覚えていたので、余計に奇妙な光景に思えた。
黒トンボは川の綺麗な場所にしか生息しないと聞いたことがあるので、気づいたら消えていた黒トンボの存在が奇妙で何かの予兆じゃないかと思ったが、何も起こらなかった。思えば私が不可思議なことに出くわすのはいつも唐突で、まったく予感も予兆も無しに、気がつけば当事者となって事態に関わらざる終えなくなっている。
以前は退屈を持て余していたので暇つぶしが増えたと喜んでいたが、年長になって背負うことが増えると、今度はなるべく嫌なことには出くわしたくないと思い始めている。この体然り、その謎やら事件が解けたところで、私にはどんな運命が待っているのか。
だけれど、今回の話はちょっと違う。それは誰でも起こることではないが、刀使にはよく起こること。
刀使の、それも普通の刀使がかならず一回は経験して、あっさりと終わる。ほんとにきっかけさえあれば、こんなことかと、日常の些細な会話の出来事や、はたまた昔を思い出した老人がそんなこともあったと、孫にその解決方法を教えたりするものだ。
だが、この『刀使によくある出来事』は、友達や年上から聞いた話がほとんど役に立たないという点で、人によってはひどく悩むものになる。
これは、わかればどうといことのない、よくある話である。
特別警備隊第四席の引退の二ヶ月前、彼の部屋に転がり込んでからはや三ヶ月。
朝六時にタイマーが鳴り、豊執は朝食の準備を始めようと共同キッチンに向かう後ろ姿がぼんやりと見えた。
体を起こすのと同時に扉が閉まると、あくびをしながら洗面台の前に立った。
鏡の前に立つと、洗面台のあるユニットバスの光景しか見えない。左右を確認して、それから鏡に回り込むように右へ左へ体を動かした。
ようやくどういう状態か理解したが、なぜそれが起こるのか理由がわからなかった。
「え、ええ!? なんで鏡に私が映んないの!?」
目を擦っても、ほっぺをつねっても、もう一度ベッドに入って目を瞑ってからもう一度鏡に向き合っても、やはり自分の姿が見えない。
しかし、目には自分の手も、胸も、足も見える。
試しにと御刀の身に映るか確認すると、そこには間延びされた寝起きの自分の姿が映っていた。
スマホの画面でも試すと、映っている。
ふたたび鏡を覗いたが、やはり自分の姿は確認できない。
コンパクトミラーや、髪を整える時に見る卓上ミラーなど姿が見えるものを片っ端から確認したが、やはり鏡には自分が映らない。
「わっ」
朝食をカゴに入れて持ってきた豊執は、食卓に一面並べられた反射物にたじろいだ。
「結芽さん、寝起きにどうしたんだい?」
「いや、ええと、変なこと言うとね」
「うん」
「私、鏡に映らないの」
「起きたんだ。まぁ、びっくりすることでもないよ」
豊執は卓上の鏡を除けると、二人分のランチョンマットを置いて、食器を置き始めた。目を瞬かせる結芽を横目に、オーブントースターのノブを回して二人分のサンドを金網の上に乗せて蓋を閉めた。
「聞いたことないんだけど」
口を一文字にする彼女に、豊執は笑顔で答えた。
「刀使には原因はわからないけれど一度は起こる怪異があって、それは気づいたら治っている。って言うんだよ。ある日突然、鏡に自分の姿が映らなくなる。なんだろうと、色々考えていると突然治る。大抵は一日か二日で終わっちゃうみたいだね」
彼女の横に回り込むと、結芽も彼の姿が見える鏡をみた。
「そこには誰がいる?」
「ともくん」
「僕にはね、結芽さんが不安げな顔してる」
「あのさ! わたし真剣にさ!」
「うん、だから僕にはわからないんだ。君の姿が見えないのは、君だけなんだ」
「え……?」
この現象は刀使にしか起きない、そしてその異変は刀使である個々人にしか感じれない現象である。
サンドが焼き上がると、熱いたまごサンドを皿に移し、彼女の前に置いた。
「警備隊のみんなにも聞いてみたらどうだい? 僕じゃ、現象を知ってても体験できないことだからさ」
「わかった。でも、今鏡見えないから髪セットできないの! ご飯食べたら手伝って」
「いいよ、じゃいただきます」
「いただきます……」
カプセルタワービルから最寄りは新橋で、そこから乗り換えなしで鎌倉へと行ける。
一時間後、管理局本館にある特別警備隊控室には、古いが使い勝手の良い机が四つ備えられている。それとやや新しめの簡易な机が窓近くにもあり、その席が結芽と沙耶香の席である。元々は新館の司令室からのリアルタイムの情報を確認するためのモニターが複数備えられていたが、警備隊向けにタブレットとノートPCが六台支給され不要になっていた。今は秋の職務委譲に向けて、新体制の四人のバックアップをしている結芽と沙耶香の仕事机である。
結芽が最後に入ってきて六人が揃うと、沙耶香が号令をかけて起立し、点呼。出席を確認すると、隣部屋の局長執務室に入り朱音と朝の日程確認を行なった。
「清香と澄は予定通り長船から二泊三日の赤羽刀の移送作業の護衛任務に、結芽は朱音様の国立博物館展覧会の記者会見へ同行し護衛、私糸見沙耶香とミミ、歩は待機任務と時間があれば鎌府で補習。以上、みんな怪我のないよう確認第一で」
沙耶香がそう号令をかけると、控室へと戻ってきた。結芽の髪型がいつもと結びが違うことに気がつき、沙耶香は結芽を呼び止めた。
「うん、実は『見不』が起きちゃって、鏡見ながらセットアップできないの」
「じゃあ、例の彼氏にやってもらったの」
沙耶香はいかにも不満げな顔をしていたが、何かと集まってきた清香たちがその事実に驚いた。
「結芽ちゃん、刀使になってもう六年になるんだよね? 遅すぎない? みんな刀使になって一年か二年目に経験することだよ」
「しらなかった。え、じゃあミミも、歩も、澄も、沙耶香ちゃんも……?」
一同は首を縦に振った。
今朝のことを言うと、結芽に『見不』に関して見聞きしたことがないということにも驚かれた。
ミミは急いでコンパクトミラーをもってきて、結芽と頬寄せて鏡を見た。
「結芽先輩には私しか写ってないの???」
「そうだよぉ、そんな悲しい顔しないでよ」
「だってー! 私の大好きな結芽先輩が私と一緒の姿が見えないなんてー!」
「じゃあ」
スマホを取り出すと、二人で笑顔で自撮りした。
「写真には写るみたいだよ、ミミちゃんにはあった?」
「知らなかったですー!! でも、ミミには『見不』があった記憶がないんですよ。すぐに治っちゃて忘れたみたい」
スマホの画面を覗いていた歩にも『見不』について聞いてみた。
「冥加刀使になっていたときに起きましたよ。色々滅入って、本当に身に起きているか信じてなかったと思います。治ったのは沙耶香先輩に倒された直後でしたよ、たぶん何が間違っていたか気づけたからかもしれません」
「気づく……なんかヒントになりそうだね。澄ちゃんは」
「わたしは中等部二年のときに、最初は不安になりましたけど同級生のみんなは一度はあるって教えてくれて、そしたら翌日には治ってました。その夜の同級生や先輩たちと遊びに行く夢を見たので、それがきっかけだったのかなと」
「ふぅーん、本当に人それぞれなんだね。清香ちゃんも」
「もちろん。たしか、小竜景光から縁を切られて落ち込んでた時に起きたかな。わたしも澄ちゃんと同じでみんなに支えてもらって、気づいたら治ってたよ」
結芽は沙耶香の顔を見つつミミとゆらゆらとニヤニヤしながら、聞いてほしいか無言で尋ねた。
「いじわる」
「ふふ!ごめんって、で、沙耶香ちゃんはどうだったの」
「タギツヒメが単独で活動を始めた時期に、可奈美に敵わないことに自暴自棄になってたことがあって、そんな時に『見不』が起きたの。薫に聞いたら、誰しもがもっている自分を支える存在を認識すると治るって、私は強さよりも相手に向き合える心が大事だって気づいた時に『見不』が治ったの」
「自分を支えてくれる存在」
「大丈夫、きっと見つけられるよ」
東京都台東区上野公園の正面に聳えるのが国立博物館である。
この日は去年の暮れに国内で行方不明だった旧国宝だった三振を刀剣類管理局が発見、それをこの年、東京国立博物館に寄贈。それを記念した国立博物館所蔵品の国宝刀剣を勢揃いさせた美術展が開催されることになり、朱音がその開催式典に賓客として招かれた。
式典の合間、取材を受ける朱音をやや離れて見守る結芽は肩を叩かれた。
「結芽」
「ん? その声は真希おねえさん」
「ん、久しぶり、こんなところで奇遇だね」
「本当だよ、私は朱音様の護衛だけれど、真希おねえさんは?」
真希はバックから一枚のリーフレットを手渡した。
「今回の展覧会に必要な展示ケースの受注を受けたのが僕のいる会社なんだよ。僕は営業だけれど、学芸員さんと展示デザイナーさんのアイディアを展示ケースの制作現場に繋げる仕事をしているよ。まだまだ先輩たちの力を借りてだけどね」
「へぇー! 大活躍じゃん」
「ありがとう」
結芽は思い出したように、真希にも『見不』がいつ起きたか尋ねた。
「へぇ懐かしい。そうだね、中等部二年のとき御前試合の予選会で、勝てるかわからない先輩にあたりそうで、卑屈だと落ち込んでた時になったかな」
「それで、どうやって治ったの」
「それでも勝ってやるって、鏡を前に頬を叩いたら。パッと」
「自分の姿が見えたんだ」
「おかげで優勝したよ、その年から君に出会うまで負けるイメージが一切湧かなかったね」
「なら、真希おねえさんにとって大事なことだったのは」
「必ず勝つ自分さ、御刀もそれを望んでいたんじゃないかな。でも腕だけじゃ本当に大切なものはわからない。短慮な僕を仲間や、薄緑が成長させてくれた、そのきっかけだと思っているよ」
朱音が移動し始めると、真希も仕事に戻ると言った。
「じゃあ、また再来月に」
「うん! またね」
管理局のクラウンには夕日が差し込み、街並みがあっという間に過ぎていく。
朱音の隣に座る結芽は何気ない会話の中、ふと『見不』について尋ねてみた。
「折神家の大正時代の研究成果では、現世と隔世で本来存在しないはずの写シが隔世に作られた時、現世側の実体が隔世に引っ張られるために起きる現象と言われています。でも、写シを生み出す御刀は肉体と精神を隔世に繋ぎ止めるので、起きるのは刀使自身が無自覚ながら隔世に実体が攫われたと錯覚している状態なんです。でも、あなたは精神が隔世へ離れる現象を体験しているはずです。御刀があなたをノロの精神侵食から守るために精神を隠世の写シと同化させ、現世では昏睡状態になった」
「覚えてないけれど、あの時の心が体験したことはまだ……つらいです」
結芽は目を瞑り、ゆっくり深呼吸した。朱音はやさしく手を添えた。
「大丈夫ですよ。『見不』が起きたということは、正常に戻っている証拠です。つらい時はみなさんや私を頼ってください」
特別警備隊となった親衛隊が白い目で見られる中、四人にもっとも親身になって支えてくれたのが朱音だった。彼女はこれは折神紫からの人材継承と言っていたが、もっと早くタギツヒメを抑えられていれば四人にも別の出会い方があったと責任を感じ、後輩の刀使たちが好きなのだという気持ちを内にも外にも隠さなかったゆえだった。
「ありがとうございます。朱音様」
結局、翌朝になっても鏡に自分の姿は見えなかった。
朱音様のおかげで「大切な人たちの居場所を守りたい」ことに気づき、きっと大丈夫だろうと確信しただけに、何が自分には足りないのかわからなかった。大きめのため息をつくと、豊執が結芽の後ろから顔を出した。
「どうだい?」
おそらく自分がいるだろう場所の後ろに彼は立ち止まった。
「だめみたい」
しばらくして、そっかと言って彼女の両肩に手を添えた。
「大丈夫、ちゃんとここにいるから」
「あ」
見えた。寝覚め姿の少し髪の荒れた姿の自分が立っている。ひどく深刻ぶった顔がそこにはあった。
「そっか、私もみんなと一緒にいるんだ。よかった」
自分の表情がおもしろくて、つい笑い出してしまった。彼の困った顔もたまらなくおかしかった。
そんな、ささいな、わかれば当たり前のことばかりの、つまらないお話である。
……了