気付いた時には、知らない天井があった。
だが既視感はある。白で塗装した板材を張り付けた天井、四方にはカーテンを吊るすレールが取り付けられている。
右腕を上げようとすれば、痛みに顔を顰める。包帯が巻かれていた、透明のチューブが繋がれている。負傷箇所は右腕と左足、幸いにも欠損はない。足の一本も失えば、砲手と通信手くらいしか出来る事がなくなる。腕の一本も失えば、戦車長を熟す事も難しくなる。
とりあえず、最悪の事態は逃れることができたようで大きく息を吐き捨てた。
「それにしても記憶が曖昧だねえ」
どれだけ眠っていたのか。身体の感覚からして、一日、二日程度の時間は過ぎていそうだ。
部屋の中を風が流れている、窓が開いているようだ。窓側はカーテンに遮られていて、外を見る事ができなかったが、まだ外は明るいようだ。ベッドの隣を見てみれば、楼レイラがこくりと舟を漕いでいる。そんな彼女の膝の上で開かれた小説、そして病院のベッド脇によく置かれている縦長で収納付きの台の上に置かれた缶ジュースの残りが彼女がお見舞いに来てからの時間を物語っていた。
喉の乾いていた私は、その缶ジュースを手に取って口に付ける。
生温い。茶なら我慢できるが炭酸飲料だと最悪だ。よくもまあこれを飲みかけのまま放置できるもんだと台の上に戻す。病室の扉が開けられる。此処は大部屋だが、ベッドを使っているのは私だけだ。誰が来たのかと視線を向ける、逸見エリカは私の顔を見ると僅かに目を見開いて、口元を綻ばせた。私も微笑み返せば、彼女は気恥ずかしく感じたのか顔を引き締めた。ツンとした澄まし顔、歩み寄る彼女に私は口元に人差し指を立てる。
不思議そうにする彼女は、眠るレイラの横顔を見て、大きく溜息を零す。
「他人ばっかり気遣って馬鹿じゃない?」
「気遣いってのは、心に余裕がある人間がやれば良いんだ。それが巡り廻って自分に返って来る」
「気付かれなかったら意味ないんじゃない?」
「別に見返りを求めてる訳じゃないからねえ。それに本人に返して貰わなくたって良いんだよ」
「……よく分からないわね」
「分からなくてもいいさ。結局は、そうしてあげたいからしているだけなんだからね」
エリカは、不機嫌なままレイラの隣の席に座る。
「だからって、アレはやり過ぎよ?」
「アレとはなんだい?」
「本気で言ってる?」
「まだ目覚めたばかりでね、まだ記憶が曖昧なんだ」
「……試合したのは、覚えてる?」
その言葉を聞いて、気絶する前の出来事を思い出す。
濁流に飲み込まれる戦車、激しく揺れる車内に体勢を保持する事もままならない。全身を打ち付ける中で窓やキューポラの隙間から冷たい水が入り込んでいた。脱出する事はできない、戦車の重厚な装甲を絶え間なく打つ岩か流木か何かに戦車の外に出ても無事で済むとは思えなかった。強く頭を打った。遠のく意識の中で、これは流石に死んでしまうかと思った。戦車の中に残ったのは私一人だけ、脱出する前に戦車と一緒に流されてしまったので致し方なく車内に避難したのだ。
先頭を走っていたのは私だった。二輌目は逸見エリカ、三輌目に楼レイラ。最後尾に西住みほ、フラッグ車に乗る彼女は、万が一が起きた時、すぐ逃げ出せる隊列にしてあった。そして大雨による土砂の被害を受けたのはベッド脇で呑気に眠るレイラの戦車だった。そして私は操縦手を小梅に押し付けて、車外へ飛び出した。
同じく戦車から身を乗り出すみほを手で静止し、レイラ達の救助に向かった。
「……ああ、そうだったねえ」
記憶が鮮明になってきた。
濁流に吞み込まれつつあった戦車に取りついた時、背後から砲撃音が聞こえたのを覚えている。
敵に捕捉されてしまったようだ。
部隊を分断された小梅とエリカは、その場で抗戦を選んだ。
そして、フラッグ車は一輌で逃走した。
「怪我人は?」
「……貴方だけよ」
「そうか、なら良かった」
ほっと息を零す。そんな私の事をエリカが怒りに満ちた顔で睨み付けて来るものだから、私は左手で手招きした。訝し気に眉を顰める彼女は、身体を私に寄せてくれた。もっと顔を近付けるように手で指示を出せば、彼女は溜息を零して私の手の届く位置まで頭を近付ける。そんな彼女の頭に左手を乗せた。
「心配をかけてしまって悪かったねえ」
「……ッ! アンタねえ……」
「危険なのは分かっていた。でも見捨てる訳にもいかないだろう?」
あの場で咄嗟に動き出せたのは、私とみほだけだった。
試合の勝敗よりも命の方が大切だ。万が一が起きた時を考えれば、動き出さずにはいられなかった。現に私は今、骨を折って入院してしまっている。これは運が良かっただけだ。あの中に四人が居て、パニック状態にあった時、本当に誰かが命を落としていてもおかしくなかった。かといって試合を止められてもいなかった。試合を捨てる訳にもいかなかったので、あの場では、みほを逃す他に取れる手はない。
だからエリカと小梅の取った行動は、あの場では最適解だ。
まあ、その流れ弾で水没した戦車が流されるのが早まってしまったが、そんなのは結果論に過ぎなかった。
おそらく接敵したのはカチューシャだ。
よくもまあ我らを見つけることができたものである。
「むにゃむにゃ……あれ、エリカ? それに詩織?」
エリカの頭を撫で続けているとレイラが目を醒ます。
そのきょとんとした瞳にエリカは耳まで顔を真っ赤にした。
初心な反応に私はケラケラと笑ってみせる。
レイラは、まだいまいち状況が掴めていないようでポケッとした顔を晒していた。
そして台の上に置かれていた缶ジュースに手を伸ばす
「……それ、詩織のジュースよね?」
「私が買って来たのだけど?」
言いながら口を付ける。
エリカが私を見た、友達同士なら気にする必要もないだろうと返す。
レイラは何度か喉を鳴らした後、うげっと声を零す。
「もう気が抜けて美味しくないや。あとで捨てようかな?」
「……それ、詩織が口を付けたわよ」
「そうなの? いる?」
「いや、いらないねえ」
「ならいいや」
エリカはいまいち釈然としない様子で気にする素振りも見せない友達の姿を見つめる。
異性なら少しは意識するかも知れないが、見知った同性相手に気にする方がどうかしている。
他愛のない雑談に少し気も解れたところで私は、二人に問い掛けた。
「試合はどうなった?」
「……あ、えーと、それは」
「負けたわよ」
言い淀むレイラを見かねてからエリカがばっさりと告げる。
私は一言、そうか。と呟いた。
目を伏せる。一度、曾孫似の子孫を思い浮かべた。
そして、二人に向けて笑みを返す。
「よく頑張ったな、二人とも」
エリカが目を見開いて、歯を食い縛った。
その隣に座るレイラがポカンとした顔を浮かべた後、目尻から一筋の涙を零す。
頑張って、上半身を起こし、二つ結いにまとめた頭を撫でてやる。
「悔しいってのは、それだけ本気で頑張って来た証だ。そんな人間を誰が責める」
「……でも、私のせいで作戦が、失敗して……詩織も、怪我、させちゃうし……」
「あれは事故だ、誰のせいでもない。もし仮にあんたが事故に合わなければ、私か、エリカが事故に遭っていたかも知れない」
私は一拍置いて、優しく語り聞かせる。
「だけど、私は怪我をしてしまったが五体ちゃんと繋がっている。誰も死なせずに済んだ、それで十分じゃないか」
嗚咽を零して泣き喚いたレイラの頭を撫で続けてやる。
エリカが眉間に皺を寄せて、鼻を啜る。うるんだ瞳から涙が溢れ出すことはなかった。
強い子だねえ。と私が言えば「ばっかじゃない!」と怒鳴られた。
何時の時代も子の扱いってのは、難しいものだ。
◆
第62回戦車道全国高校生大会。
黒森峰女学園、敗北! 優勝したのはプラウダ高校!
十連覇の夢は果たされず!!
戦車道新聞の見出しを見て、溜息を零す。
此処は黒森峰女学園、校舎の一角。機甲科が戦車道の活動を続ける為に必要な書類整理を行う為の部屋を便宜上、隊長室と呼んでいる。此処には過去5年分の戦車道に関わる資料がまとめられており、先輩方が書き連ねてきた他校の対策ノートも保管されていた。そこに今年の情報をノートに書き連ねる磨或レンの姿もあった。本来であれば、隊長がするべき業務を彼女が自ら名乗り上げて、作業に没頭していた。
私達は負けた。私達が思っていた以上にプラウダ高校は強かった。
あのナターリアという三年生の副隊長を私達は見誤っていた。彼女には目新しい作戦を思いつく頭もなければ、目覚ましい指揮能力を持っている訳でもない。ただの戦車好きだった。プラウダ高校が誇るソ連製の重戦車を前に押し出して、攻める訳でもなく、逃げる訳でもなく、誰でも思いつくような陣形を敷いて、粘り強く戦った。それだけだ、それ以上の事は何もして来なかった。凡庸だと判断した彼女は、正しく凡庸であり、特別な事は何もして来なかった。
だから私達は相手の陣形を崩すこともできず、敵本隊を倒し切るまでに必要以上に時間を掛けてしまった。
それが結果として、黒森峰女学園の敗因になった。
土砂災害に巻き込まれた戦車が居て、部隊を分断。
フラッグ車は逃走中。嵐の影響で通信は遮られて、その情報が入るのも遅れた。
結果、救援に向かうのも遅れた。
通信が入った時、私は本隊から離れて救援に向かった。
まだ敵本隊を倒し切れていなかった為、必要最低限の車輌を引き連れて向かった。
そしてフラッグ車の車体を捉えた時にはもう、妹は敵戦車に捕捉されていた。
敵は二輌だった、相手のフラッグ車も居た。相手も満身創痍だった。
だが、それ以上に妹は限界だった。
もう間に合わないと判断した私は狙撃による援護射撃を行った。
極限状態の中、相手は私達を上回った。
先にフラッグ車の白旗が上がったのは、黒森峰女学園の方だった。
それから、みほは部屋から出て来ていなかった。
今は彼女の友達である赤星小梅が付いているが、様子は芳しくないようだ。
白旗の上がるフラッグ車の中から引き摺られるように車外に姿を現した私の妹は、虚ろな目をしていた。
手を伸ばそうとする私の姿を確認した時、彼女は急に蹲って地面に吐瀉物を吐いた。
ごめんなさい。と繰り返す妹に対して、口下手な私はなんて声をかければ良いのか分からなかった。
何か喋らなければいけないと思った。
だが、何かを口にする前に妹は倒れて、気絶してしまった。
それ以後、妹は顔も合わしてくれなかった。
私には黒森峰女学園の隊長として、やるべき事がある。
それが今は、歯がゆかった。
◆
大雨の中、逃走する中でまだ戦車に残された詩織が流される姿を見た。
背後で砲撃戦が始まっている。逡巡する頭の中で戦車はもう生身では、助けられない位置まで流されてしまった。ギュッと目を閉じた、自分は託されたのだ。見捨てた彼女から目を背けて、せめて、勝利だけは勝ち取らなければならない。と心を殺して指示を出す。冷静ではなかった、自分では無自覚だったけど焦っていた。勝たなきゃ、勝たなきゃ、って出した犠牲に追い立てられるように頭を回転させていた。次から次に浮かぶ作戦案にバツを出し、救いを求めるように姉に通信を飛ばし続けた。狭窄する視野に何処を走っているかも分からなくて、早く本隊と合流しなきゃって必死に逃げ続けた。そして気付いた時には、もう自分が何処にいるかも分からなくなってしまっていた。
キューポラから身を乗り出して空を見上げた。方角を確認する為に太陽を探したが、太陽は真っ黒な雨雲に隠されていた。嗚呼、と目を細める。自分は何をしているのだ、と泣きたくなる想いに目を細めた。雨が降っていた、頬を打つ雨には果たして涙が混じっていたのか。心はもう折れてしまいそうだった。
嗚咽を抑え込んだのは、託された使命があったからだ。
私は逃げ出した。犠牲を払って、逃げたんだ。勝つ為に、勝利する為に、逃げたのだ。
だから試合に勝たなきゃいけなかった。
どうにかしなくてはいけない。
考える、考えるんだ。現状を打破する手段を考えるんだ。
そんな難しい道じゃなかった。
道なき道ではあったけど、ちゃんと戦車が通れる道ではあった。
何処かで道を間違えたに違いない、分かれ道を思い出せ。
そして頭の中にある地図を辿るんだ。
「………………」
森の中、雨音にエンジン音が混ざる。
履帯が地面を踏み締める音を耳にして、警戒心を高めた。
この音は黒森峰女学園が保有する戦車の音ではない。
程なくして、砲撃音。風を切る一発の砲弾が私が乗るⅢ号戦車の装甲を掠める。
その後で、ゆっくりとT-34/85中戦車が姿を現した。
第二次世界大戦でドイツ相手に猛威を振るったソ連の主力戦車だ。
その砲口が今、私達に向けられている。
「手間を取らせるわね」
T-34中戦車のキューポラから身を乗り出したのは、プラウダ高校の小さな隊長さんだ。
彼女は獰猛な笑みを浮かべて、私を睨み付ける。
私が、これまでの人生で感じた誰よりも強い殺意に、私の身体が僅かに身を竦ませる。
「さあ、覚悟は良いかしら西住妹? 狩りの時間よ」
Танки вперед! との掛け声と共に二輌の戦車が新たに姿を晒す。
T-34/76中戦車にIS-2重戦車。相手を睨み付けたまま、無言で操縦手に戦車前進の合図を送る。二重の砲撃音、その僅か数秒前に戦車を動かした事で砲弾を躱す。逃走戦を開始する。私は託された、絶対に撃破されてはいけない。本隊と合流して、体勢を立て直す。そうする他に、もう私が見捨てた彼女に出来る事なんてなかった。
Ура! の掛け声と共に追いかける三輌の戦車を睨んだまま、戦車を駆けさせる。
「やるわね西住妹! だけど鼠捕りはナターリアで慣れてるのよ!」
ナターリアというのが誰の事だか分からなかったが実際、彼女達の動きは洗練されていた。
逃げるのに精一杯で装甲は削られるばかり、履帯だって何時、外れるか分からないギリギリを強制された。それでも耐えた。耐えて、耐えて、耐え忍んだ結果、開けた視界に私は絶望する。崖だった。茫然とする中、本能が操縦手の方を叩いていた。回頭指示。相手から見て、斜めに逸らした姿勢は昼飯の角度、避弾経始で相手から放たれた砲弾を後ろに逸らす。
追い詰められた、二輌の戦車が前に出る。
IS-2重戦車の影に急所を隠すT-34/85中戦車、そのキューポラから身を乗り出す小さな隊長さんが笑みを浮かべる。
「やあっと追い詰める事ができたわね。貴女、ナターリアよりも手応えあったわよ」
そこで自分が崖際まで彼女に誘導されていた事実を知る。
僅かに顔を動かして周囲を見渡す。崖下には川の濁流、逃げ場はない。
土砂交じりの川、生身で放り出されたならば無事では済まない。
ギュッと目を閉じた。
覚悟を決めて、ゆっくりと相手を見据える。
「……まだ戦意を失っていないようね。良いわ、最後まで容赦はしない」
カチューシャが手を振り上げる。
「これで決着よ、西住流!」
振り落とされる直前、遠くから砲撃音が鳴り響いた。
砲弾が風を切る音、その数秒後にT-34/76中戦車に着弾する。
黒煙を上げる。その戦車が白旗を上げる瞬間を、私とカチューシャは呆然と眺めた。
そして通信機に声が入る。
『みほ、助けに来た』
お姉ちゃんの優しい声が聞こえた。
「にぃしぃずみぃぃぃぃッ! 此処で間に合わせるのかッ!!」
カチューシャがドス黒い声を絞り出す。
憎悪を込めた顔、その瞳の先には確かに私の姉の姿があったのだろう。
私は下唇を噛んで、残る二輌を睨み付けた。
『やれるな?』
「うん!!」
此処が最終局面、四つの砲撃音がほぼ同時に鳴り響いた。