崖際の隘路。まだプラウダ高校と接触する前の事だ。
雨音が強くなる、風が吹き荒れる音がした。フラッグ車を示す三角旗の棒が折れそうなほどに曲がり、キューポラから身を乗り出すことも難しくって車体に身を隠す。私、西住みほに与えられた使命は敵本隊の後方撹乱だ。その為に道なき道を突き進み、戦車一輌が入れるかどうかって道を直走る。焦りがある、私に与えられた時間は少ない。プラウダ高校の隊長であるカチューシャの戦術眼は同世代の中でも群を抜いている。数輌の戦車が抜けている事は勿論、本隊にフラッグ車が居ないことも見抜くのは時間の問題だ。
そうなれば、殿に重戦車数輌を残して、その他の全車輌で闇雲構わずに襲ってくるかも知れない。
私には、蝶野さんやお姉ちゃんのように単騎で無双できる程の強さはない。人よりもほんの少しだけ小賢しい頭があるだけだ。焦燥感に手で胸元を抑える。これは十連覇の掛かった試合、私が撃破された時、その責任が私に向けられるのなら構わない。でも、私が撃破されて敗北した時の責任は全て姉に集約される。負けられない、負ける訳にはいかなかった。万が一では、まだ足りない。万が一の敗北の可能性を億が一、超を超えた限りないゼロの可能性に近づける為に全身全霊を尽くさなくてはならなかった。急がなくてはならない。しかし、フラッグ車だから先頭を走る訳にも行かず、西澤詩織が操縦手を務める赤星小梅の班に先頭を任せる。
雨が大振りになりつつあった。此処を抜ける時はまだ、雨が降らない予報だった。戦車一台分か、それ未満の崖側の道。底には水量を増した川が激しく流れている。予定よりも早い雨にキリキリと胃が痛んだ。でも考えようによっちゃ、この雨で身を隠すこともできる。
水分を含んで緩くなった道、それでも黒森峰の勝利の為に危険を承知で強行した。
この試合の勝敗は私に掛かっている。使命感からの決断だった。
結果、あの様である。
◆
四つの砲撃。最初に放ったのは黒森峰女学園の隊長、西住まほの戦車だ。
西住流の次期当主である彼女の乗組員は、彼女の能力を腐らせない為の選りすぐりである。中学時代から目を付けていた者達であり、他の高校ならばネームドとして名を馳せていた者達。今は西住まほの能力に惚れ込んでおり、彼女の手足として働いている。名実共に黒森峰女学園のトップクラスの実力を持つ彼女達は、同世代の中においてもトップ層に位置していた。
素質と努力、更に云えば訓練の質からしても違う彼女の乗組員に「速さ」の分野で敵う事はない。
しかし西住まほの戦車は、河の向こう岸にあった。彼女の砲弾が届くまでの僅かな時間、僅かに遅れて、引き金を絞ったのはIS-2重戦車。即ち、プラウダ高校のエーススナイパーであり、カチューシャの右腕であるノンナである。だが、戦車砲の雷管が火を吹くと同時にティーガーⅠの砲弾がIS-2重戦車の巨体を大きく揺らした。砲弾の矛先も僅かに逸れて、フラッグ車の後方装甲を掠めた。これによってⅢ号戦車が横にズレて、角度が変わる。そしてIS-2重戦車の後方に隠れていたT-34/85中戦車に照準を定める事が出来た。
偶発的に開けた射線をみほが逃さない。砲撃を指示し、Ⅲ号戦車の砲口が火を吹いた。
だが、カチューシャは、これを避弾経始で受け流す。3名が砲撃を指示する中でカチューシャだけが戦車を前進させていた。それは、ただ単にIS-2に隠れた状態ではⅢ号戦車の急所を打ち抜くことが出来なかった為だ。故に角度を取る為、予めカチューシャは戦車を前進させていた。そしてノンナの放った砲弾がⅢ号戦車を絶好のポジションに誘った事から砲撃よりも回避を指示する。勿論、砲撃そのものを避ける時間は取れなかった為、戦車の角度を付けての昼飯の角度。即ち、避弾経始で受け流した。
返す刃でカチューシャもまた黒森峰のフラッグ車に砲撃する。
これは逃げる相手を止める為、強引に撃ったのでⅢ号戦車に当てることは出来なかった。
だが、Ⅲ号戦車の進路を塞いだ。砲弾に当たらないようにするには、みほは戦車の動きを止める他になかった。
故に全車輌が弾を打ち切った状態でも、みほは崖を背負った状態から抜け出すことが叶わなかった。
僅かな間、呼吸をするよりも早く四人の車長が声を張り上げる。
「「「「次弾装填ッ!!」」」」
インパルスが迸る、四人の戦車長としての才覚が反射した。
脳信号が全身を駆け巡り、息を吐くよりも早く指示を出す。もう一度だ、反吐を吐きそうになる程の緊張感をもう一度、アンコールは二度も要らないと思考を高速で回転させる。灰色の脳細胞は火花を散らしてギュンギュンと回り、思考回路は今にも焼き切れそうな程にバチバチと熱く燃えていた。今、この場に弱音を吐く者はいない。弱音を吐く好機は最早ない、そんな猶予は何処にもない。ドッと流した汗の中、もっと、もっと、速く、ソニックウェーブを超えて、光速の限界領域。オーバーヒートした魂はもう、何処までも突き抜けていくしかない。途中下車不可の夢と野望駅への直行便。大気圏に身を焦がす。彼女達にとって、今、この瞬間が全てだった。
さあ、もう一度だ。この場に居る四人には、それぞれ引けない理由が持っている。
意地が彼女達の集中力を繋ぎとめていた。
◆
IS-2重戦車は先の砲撃により、履帯を破壊されてしまっていた。
故に片側しか履帯を動かすことができず、旋回速度が大幅に激減してしまっている。砲塔を回す以外の手段では角度を付ける事も難しく、これでは敵フラッグ車に照準を合わせることは難しかった。少なくとも姉と共に西住流を学び、姉に負けず劣らずの才覚を持っている西住妹が相手では不可能に近い。故にノンナは猶予1秒未満の状況下で限界まで思考する。ゼロコンマ5秒で状況の掌握、Ⅲ号戦車を確実に仕留める為に我らが同志カチューシャが駆るT-34/85中戦車が距離を詰める。しかし、これに対応しようとⅢ号戦車は相手の射線から逃れるようにバック走法で旋回し、引き撃ちの姿勢を見せた。だが、カチューシャもまた致命傷を受けないように相手から見て昼飯の角度を維持し続けている。1対1のドックファイトに自分のすべきことは何か、考える事ゼロコンマ3秒。そしてゼロコンマ1秒以下のスナイパーとしての直感がノンナの引き金を絞らせる。
「ごめんなさい、カチューシャ」と呟く彼女が照準を定めたのは、T-34/85中戦車の後方であった。
放たれた砲弾は、的確にT-34/85中戦車の後部装甲を穿った。
衝撃にカチューシャの戦車は一回転し、軌道がズレる。そして、彼女が進むべき道先をティーガーⅠの砲弾が空を貫いた。間一髪、しかし、咄嗟の事だったとはいえカチューシャの被害も大きい。砕けた履帯が濡れた地面を打ち鳴らす。横滑りするT-34/85中戦車は、まともな走行ができなくなった。だが自分の砲撃によって、無理やり角度を付ける事もできた。
今です。とノンナが呟く声と同時にT-34/85中戦車の砲口から白煙が吐き出される。
それと同時にⅢ号戦車の砲弾も放たれた。
極度の緊張感で研ぎ澄まされた集中力が奇跡を起こす。絶対に外すまいと雨粒を筒状に割く二発の砲弾は、互いのど真ん中に目掛けて放たれていた。故に射線が重なった。互いの弾頭がかち合って、大きな火花を散らす。甲高い金属音と共にⅢ号戦車の砲弾は、T-34/85中戦車の砲塔を掠める。
そしてT-34/85中戦車の砲弾は、Ⅲ号戦車の履帯を穿った。
砕け散った金属片。砲口はまだ、互いを戦車の中心に狙いを定めてある。
故に二人の戦車長は、歯を食い縛って叫んだ。
「「次弾装填ッ!!」」
さあ、もう一度だ。
◆
砲手は今にも泣き出しそうになっていた。
極度の緊張感で吐き気すら催すが、今は泣き言を思う事すら許されない。口の端から涎を垂らし、霞む視界に震える指を必死に制御して、ただただ音に集中する。合図を待っていては間に合わない。何百、何千と繰り返して来た反復練習。こと此処に至っては、運の要素はない。積み上げてきた練度がものを云う。照準から目を離せない。装填手の服の布地が擦れる音、戦車砲の尾栓を開いて、砲弾を載せる。拳を握り締めて、砲身の中に叩き込んだ。閉鎖機が閉じる音を聴く、その時間すらも惜しんで引き金を絞る。優れたかるたの名手が音が音になる前の音に反応するのと同じように、脳が音を認識するよりも早く、全身で空気の揺らぎを感じ取って砲弾を発射した。
雷管を打ち鳴らして、白煙と共に砲口から砲弾が飛び出す。
螺旋回転を画く弾頭の行く先を確認するよりも早く、車内が大きく揺れた。直感でわかる、撃破された感触。でも、何処から? 真正面からの砲撃ではなかった。シンと静まり返る車内、戦車長席に座るカチューシャが唖然とした顔を青褪めさせていた。「にし……ずみ……まほ……」そのカチューシャが辛うじて絞り出した名前が自分達を撃破した者が誰かを示していた。装填手と砲手は此処一番で最高の働きをした。しかし黒森峰女学園のトッププレイヤーである西住まほの乗組員は、それ以上の働きを見せた。
故に装填から砲撃までのトータルタイムはカチューシャ達を上回っていた。
だが、それは────
『撃破、Ⅲ号戦車ッ! フラッグ車の撃破を確認、よって優勝はプラウダ高校ッ!!』
──対岸との距離の差を埋める程ではなかった。
大雨の中、この激戦をリアルタイムで観ていた観客席の観衆、お茶の間、パソコンの前で観戦をしていた者達が皆同様に歓声を上げた。ある者が拳を握り、ある者が手を叩き、ある者が立ち上がり、ある者が飲み物を零し、ある者が足を机にぶつけて、各々の反応でこの高校戦車道史に残る歴史的快挙を讃える。
そんな反応も露知らず、カチューシャは顔を伏せて両手の拳を握り締める。
「やった……やったわ! やったのよ! あの黒森峰に、西住まほに! あの西住姉妹に勝ったのよ!! 私達、みんなの勝利よ!!!」
その日、カチューシャの目元が赤く腫れていた事を指摘する者はだれ一人として居なかった。