年末となる12月31日。我にとっては変わらない毎日の一つであって、年越しで夜更かしするとかどこかで初詣と初日の出を見にいくとかとそう言う事はしない。いつものようにベッドに入って規則正しい時間に起きる。
ほぼ毎年がそれだった。
学園でも半数はそのように過ごすらしく、我が寝ている合間に消灯延期で寮の娯楽室がずっと点灯していて明るい以外特に変わりはなかった。
そんなわけで年の初めと言うのはなんとも変わらず特別感もなくやってくる。一応G1出走ウマ娘として取材申し込みなどが多く我もまたメディアへの露出度は増えていた。だから元旦は兎も角3日から取材と写真撮影が入っていた。
どうもヨーロッパ行きの日程との兼ね合いもあるらしい。
と言うわけで着物の着付けをしたりスズマッハ姉妹とルドルフさんの珍しい組み合わせで初詣に行ったり契約者からお年玉を貰ってしまったりしていたらいつのまにか日は経っていた。
ヨーロッパ行きの日付は非公開にしてもらったおかげで野次馬が空港にやってくることもなく静かに旅立つことができた。我の身にかかる賞賛は賞と共に貰い受ける事こそ重要だから。
大型のジェット機にはイギリスの航空会社のカラーリングが施されていた。正直どこの会社なのかはわからない。
ヨーロッパ行きの便ならなんでも構わないのだから。
ヨーロッパ、正確な目的地はイギリスのヒースロー空港だ。そこから移動して後はURAが抑えた宿泊施設に滞在しつつイギリスレースを戦う。
URAから海外レース出走の保証を受けているとは言えそのお値段なんと80万円。結構お高い。我の場合だからものによってはもう少し値段は抑えられるものの、安易に手を出して良い制度では無い。
一応利子と返済期限が無いから実力があってレースに勝てれば一戦で簡単に返せる。
ただ、ヨーロッパのレースは賞金が少ない。だから結果によっては中々厳しい返済を迫られる事になる。それでも海外へ挑戦する時代の開拓者ならんとする者達は少数だが存在する。
そしてもれなくこの制度を利用する。ホテルや航空機の手配、トレーニングをするための施設の貸し出しまでやってくれるのだから至れり尽くせりだ。
それでいて我の場合三冠に挑むまでの滞在費を含めてこの値段だ。安いと言えば安い。
だが実のところ、我の心配はお金の事などでは無かった。
朝日杯の賞金で十分支払いが可能だからだ。我の心配は……
「飛行機怖い……」
生まれて初めて乗る飛行機の方だ。これに9時間も閉じ込められるとはこれ如何に。
「なんだ怖いのか?」
契約者がニヤけた顔で隣から覗き込んだ。
「わ、我が脚は大地を踏み締め悪魔神の軌跡を残すためにあるのであって天使達の住処に向かうのは……」
正直飛行機がどうして飛んでいるのかの理屈を言われたところで怖いものは怖いのだ。窓席ではなく通路側の座席だったから窓を見なければなんとかなると思っていた。……浮遊感がもう嫌だ。しかも考えたく無いのに足元の下は高空にいるのだと思うと吐き気が……我は高所恐怖症なのだが?尋問ではないのか?
「怖いなら目を瞑って寝ておけ。エコノミーだからどうせ何時間も起きてたら色々苦痛になる」
そう言って契約者は我を慰めることも落ち着かせることもなく目を瞑って寝始めてしまった。ま、待つのだ契約者!
「前までビジネスクラスだったんだけどURAもけちんぼになったもんだねえ」
タケホープさんがそんな昔話を溢していたがビジネスもエコノミーも乗ったことがない我には全くわからない。
「わ、我は構わん!」
案外飛び立ってから目を瞑っていたらいつの間にか夢の中に落ちていた。
意識が覚醒した時には本当に空港に着いてた。まるで瞬間移動である。途中何度か目を覚ました気がするが覚えていない。あ、機内食食べてないや。楽しみだったのに……でも怖いのも嫌だしなあ。
悶々としながらも時差ボケ寸前の体で移動した先はチェスター市。イングランド北西にある都市だ。
イギリスで今回使用許可が降りたトレーニング場は、意外な事にBHBのものだった。BHB…theBritain Horsegirl Racing Board日本で言うURAのような組織でありつい去年にジョッキークラブから統括権限を移譲されたばかりの組織だ。そんな組織だったがその権限と権威は相当なものでBHB保有のレース場、トレーニング場がイギリストレセン学園とは別途でいくつか点在している。そのうちの一つがチェスターレース場だ。
現在稼働しているレース場では世界最古のレース場である。ただしレースは殆どが5月のメイ・フェスティバル期間中にしか行われない。一応未勝利戦や子供向けレースなどは時々やっているそうだが、基本的には練習レース場としての役割が強い。特にイギリスの地方トレセンは半数が自前のトレーニング場を持たない。その代わり併設されるようにこうして公共化している練習場やトレーニング場が運営されている。
ここチェスターレース場も昔はトレセン学園が近くにあったのだが、何十年も前に統廃合を受けて今では空き地となるばかりだ。
更に1月から3月にかけては雪が降るため若干の降雪と雪解けによる重場での練習になる。好んでそんな季節に走りに来る人もあまりいないせいかほぼ貸切状態だった。
レース場は今日は見にきただけ。スタンドからコースを俯瞰して観察するだけにとどめる。
「取り敢えず3月のイギリスOP戦でレースの感覚を掴んでもらう。それまでは場に慣れることを重点的にするぞ」
てっきり契約者は着いて早々にトレーニングをするのかと思っていた。トレーニングの頻度や内容までは細かく指定しない契約者だが、いつやるかはある程度指定してくる。今まで一緒に過ごしてきてだんだんと契約者のことがわかってきた。
「まあ、流石に着いて早々にトレーニングを始めるのは体にも悪いから数日かけて生活リズムと食生活に慣れてもらってトレーニングはそれからだな」
確かに一理ある。
「よおし、トドロキ!ロンドン行くぞロンドン!」
タケホープさんは元気に観光に行こうと言い出した。着いて早々に観光。遊びに来ているとしか言えないけれど数日はトレーニングも無理にやるわけにもいかないから確かに観光で気を紛らわすのも大事かもしれない。
「我は近場のリバプールに…」
空港で見つけたイギリスの観光ガイドを引き出して、おすすめの場所を探していく。
ついでだから客引き対策の台詞も覚えておかないと。
足が重たい。雪と水を含んだ重場が酷く足を引っ張る。
雪は午前のうちに降り止んだけれど場の悪さは一段と増していた。日本の重場でももうちょっと軽いくらいだ。8本走っただけで息が上がる。視野がふらつき始めた。
ゴールとして設定されたポイントを通過。足がもつれてバランスを崩しかけた。
「おーし、ストップだ。芝の感覚は分かってきただろ」
いやと言うほど分かった。洋芝で重場は恐ろしくスタミナと速度を持っていかれる。
「流石に本命のレースは5月だからもう少しマシだがイギリスはあまり天候が良い日がない。重場を前提にしておかないといけないからな」
それでも5月あたりは多少晴れる日はある。と言うか雨が降ると言うより曇っている日が多いと言うのがイギリスの天候の特徴だ。晴れる日があまり無い。
だからわざわざ天候の悪くなる……場が最も酷くなるタイミングを待っていたのだ。
生えている芝の種類が違うから良場でも走り方が変わるのに、それに雨と雪が足されるのだから脚の負担は相当だった。
その上にあまり速度も出ていない。タイムも体内時計で計算したがかなり遅い方だった。
3月に行われるOP戦までになんとか仕上げないと……
あ、焦るな。焦って無理をして怪我なんてことになったら最悪だ。有マ記念だってリードホーユーさんは結局……
うん、だから焦っちゃだめ。
ウマ娘の脚はガラスの脚。無茶をしたらそれだけすり減って壊れる。壊れるまで使った脚は生涯にわたって尾を引くことになる。
「更衣室に着替えとドリンク用意しておいたから飲んできて。戻ったらストレッチして体整えようか」
「……そうさせてもらう。悪魔神にも安息の刻が必要だからな」
後すっごい疲れた。靴もこの一回でかなり裏がすり減ってる。明日には使い潰しそうだった。
そう考えると靴とか蹄鉄とかの消耗品関係も揃えないと……イギリスで売っているので大丈夫かな?
更衣室に向かったトドロキを見送った沖野は8本走った全てのタイムをもとに区間速度を紙に書き込んでいた。
「流石だな……」
溢れたのは感嘆のため息。
「そうだね、初めて洋芝を走ったにしては随分と良いタイムだ。これならいけるかな?」
それを横から覗き込むタケホープもまた目を鋭く光らせた。
8回目はほぼスタミナ切れでふらついていたにも関わらずそのタイムは他の7走よりも最も良い。適応している証拠だった。
「いや、まだだ。OP戦ならともかくG1を走るなら……」
近年のデータから勝つのに必要なタイムを割り出し、それをタイムの下に書き込む。
「あと2秒縮めたいかな」
「まだ4ヶ月あるから大丈夫だよ」
そして季節は巡り寒かったイギリスもやがて暖かくなり春の陽気となった。
OP戦。国際グレードを導入している関係で日本もイギリスもレースグレードと走者のレベルは実質的に変わらない。
特に3勝クラスOP戦までならイギリス国内のウマ娘しか普通は出走しない。それ以上のG3以降にならなければヨーロッパ各国のウマ娘はやってこないのだ。わざわざ自国でもやっているOP戦に出ないで他国のOP戦に出るような面倒なことはしない。
そんなOP戦に日本からやってきたトドロキは当然のことながら奇異の目で見られた。
凱旋門などを行うフランスなら前例がいくつかあるがイギリスに至っては殆どそのようなことがなかったからだ。
イギリスの共通勝負服に袖を通しているが白毛ツインテールと眼帯でただでさえ風変わりなのに東洋人であると言うことが更に目を引いていた。
わざわざ中山レース場で収録したファンファーレを持ち込んだカセットでかけては気分をレース開始の状態に持っていくと言う奇行とも思えることまでしていれば尚更だ。
「あーあ、ありゃ完全に挑発されてるわ」
「挑発されていることに気づいているのかな?」
タケホープの聴力であれば何を言われているかくらいは分かるが、あえてそれを無視した。
「大丈夫だろう。あいつ語学に関してはすげえ頭いいしよ。多分挑発されても押し返すだろう」
以前のトドロキなら挑発されれば逆に凹んで沈んでしまうだろう。だが確固たる目標を持っている彼女であれば問題はない。沖野は観客席から彼女を見つつ安心した。
やはり本人は気にした様子もなく相変わらず高笑いとカッコイイポーズを決めて完全に意気揚々としていたが……
「あれじゃ挑発した側がなんだか可哀想だ」
それでもレースは無情にも始まろうとしている。
番号の関係でトウショウトドロキが最後にゲートに入る。彼女のイギリスレースが始まった。