「ちょっと良いかしら?」
レースの前に話しかけられる場合大抵は挑発か煽りである。特にヨーロッパレースでは挑発行為は度が過ぎていなければ十分認められている行為であるし挑発くらいで気が逆立ってレースに支障が出るのであればそれもまた実力の一つという風潮があった。
それはトドロキも知っていた。また本人は自覚がないだけで何回もされていた。ただ、それを自覚したのはこの時が初めてだった。
「日本からわざわざ来たの?まさかそんなことないわよね」
「約束したからな!」
「はっ、叶えられない約束なんかしてくるあたり貴女その人に追い出されたんじゃないの?」
トドロキからすればルドルフの事を暗に言っているように聞こえたし、言った本人も半分は無茶な約束なんかさせてと言う思いはあった。
ただ、それがトドロキの逆鱗に触れた。
「そのようなことがあるはずがないだろう!」
「どうだかね。身の程知ってからにしたら?」
元々トドロキは自己肯定感が恐ろしいほど低い。その代わり信頼している相手へは自分自身以上に大事にする性格だった。それゆえに自分に対して何かを言われても構わないが、信頼している相手への侮辱は極度に不機嫌になるのだった。
気がつけばトドロキは言い返していた。相手のウマ娘が不機嫌な、少し怯えたような顔でトドロキを睨んでいた。
半挑発に乗って相手が怒り心頭な状態になったことを喜びたかったが、どうにも触れてはいけない事に触れた気がしてならなかったのだ。
それでも怒りが入れば冷静さは失われる。もとよりそれが狙いだったと気持ちを切り替えてそのウマ娘はゲートに足早に入って行った。
気を逆立てたままのトドロキはそのままゲートに入った。
通常、怒りを持ったままレースを走れば集中力が続かず繊細さに欠けてしまいミスが多くなる。そうなればレースには勝てない。
だけれどトドロキは逆に怒っている時の方が頭が冴えて集中するタイプだった。
このタイプには挑発は逆効果だった。その結果はレースに現れる。
英語のアナウンスが流れて、ゲートが開いた。
2000ギニーステークスが行われるニューマーケットレース場はコースがL字を描く特徴的な形をしている。二ギーステークスもある時期まではこの直線部分を利用した直線レースであったが、レース場改修と修繕補修の関係で数年だけはコース中盤にL字コーナーを含むコースとなっていた。
スタート直後からトドロキはあえて前にはいかなかった。OP戦の映像を見てそのように仕掛けてくると思っていた一部のウマ娘は肩透かしを食らった。そのまま誰とも競う事なく定型的な捲りのポジション。最後尾に着いた。
沖野から見れば、意外とおとなしいスタートを切ったものだと一瞬思った。だけれどそれはすぐに覆される。
レース序盤から集団最後尾付近が不安定になる。
トドロキと同じ捲りの戦術のために後ろにいた2人が、極端に加速した。まるで見えない何かから逃げるように、焦るように走り出した。それも、バ群の真ん中を突っ切るようなコースで入ったためにバ群が大きく混乱した。
大抵はラビットが加速し損ねてここで加速したと思ったのだろう。
だけれど実際にはこの2人には別でラビットがいたしそのラビットはラビットでレース前方に出て典型的な逃げをしていた。バ群が若干乱れ、掛かった2人がバ群前方で蓋をしていたチーフシンガーを煽ってしまった。
煽られたチーフシンガーは一瞬だけ脚に力を入れてしまい、すぐに冷静さを取り戻す。
ただ、無闇にスタミナを持っていかれたのも確かだった。
2人が暴走した原因は不明だった。
だけれど集団やや後方にいたエルグランには原因が見えていた。
(足音を消して近寄って威圧しやがった⁈なんて無茶苦茶な)
足音を消す。というよりも相手の足音に完全に被せて音を目立たせなくする。集中すれば聞こえただろうが走っている最中にそこまでの音は聞こえない。
そして近づいたところで音と殺気で相手を掛からせる。言ってしまえば簡単だったがそれをするのは技量もさることながら気配を完璧にコントロールすることも必要になる。
そう簡単にできるものではない。
(策士?やはりそんなものなんかじゃない!)
下手をすれば自分が呑まれる。次のターゲットにされたのはレース前にトドロキを煽っていた元凶だった。
トドロキの表情が厳しくなる。丁度隣を走っていたエルグランは少しだけ距離をとって巻き込まれるのを回避する。
トドロキに狙われたウマ娘にとっては災難だった。
真後ろから首筋を焦がすように当てられる殺気に、一瞬後ろを振り向けば、影が落ちた顔に片目だけがギョロリと自分自身を睨んでいたからだ。
こうなってしまっては彼女はパニック寸前だった。
頭の中に何故か賽子が振られる音がする。
「あちゃあ、完全にキレてるじゃん」
スタンド席からタケホープはトドロキの顔がかなり険しくなっているのが見えた。
「そういやあいつ怒ったところ見た事なかったが……」
「あれは静かに怒るタイプと見た」
タケホープ自身も静かに怒る方だったからなんとなくトドロキのことがわかる様子だった。あれは徹底的に持てる手段を持って報復するやつだった。
誰が怒らせたのかは知らなくてもこのレースは大荒れだなとタケホープは独言を吐いた。
3人目がトドロキの前から逃げ出そうとして右に逸れるように加速した。距離をとりつつもあまり体力を消耗しないように逃げたつもりだったのだろう。だがすぐにコーナーに入ってしまう。
加速したのが仇となり外側に膨らんでいく。膨らんでくるウマ娘に煽られて2人が一緒に外に膨らみ、想定していたコースから外れて別のウマ娘のコースを支障しかける。
違反にはならないもののコースが一時的に入り乱れ、集団の真ん中からコーナー内側にかけて開口部が出来上がる。
そこに真っ先に飛び込んだのはトドロキではなくエルグランだった。
このままこの位置にいてはトドロキに翻弄される周りに巻き込まれてしまう。少し距離はあったが彼女にとってはまだ許容範囲内だった。
ただ、彼女が飛び込んで抜け出そうとした直後に、脚が大きく沈み込んだ。
(しまった‼︎場が悪いところだった!)
いくら曇りで良場とは言えなくても数日雨が降っていないし大丈夫。普通ならそう思うだろう。だがコーナー内側のそこだけは水捌けが他より悪く、この段階でも地面が乾かず芝を支えている土の方はややぬかるんでいた。
普通ならコーナー終わりで全員がやや膨らんでいるから目立たなかったが、エルグランは卓越したコーナースキルと力で空いたスペースを通り抜けようとした。そのせいで脚が深く沈み込みスパートが大きく乱れたのだ。
歩数にして3歩。その3歩分は思うように加速ができずぬかるみが脚の放つ力を受け流してしまい動きが鈍った。
それでもそこを抜けたらエルグランの本領が戻る。
エルグランのスパートに周りが驚くも、チーフシンガーだけが合わせてスパートをかけた。
2人が加速して、減速が始まっていたラビットを追い越した。
ただ、2人は同時にレースが大荒れになっている原因のウマ娘の事が頭にあった。
(トドロキはどこですの?)
(あいつはどこだ?)
「闇に呑まれよ!」
トドロキの声が2人の真横からした。
エルグランがスパートをかけてから少し遅れつつも、彼女はあえて開けた場所よりもやや外側、膨らんでいったウマ娘達と肩が接触するギリギリの位置を、煽るようにしてスパートをかけていた。僅かでもコーナー外側にトドロキが膨らんだら接触して事故になる。その不安が頭をよぎってか余計に距離を取るもの、減速して後ろに逃げるものが相次いだ。その中でも1人逆に前に逃げようとしたウマ娘を風除けに使い、足音をうまく誤魔化してはスパートをかけて抜け出していた2人に近づいていった。
さらにエルグランの足音に自分の足音を紛れ込ませて真横に躍り出たのだ。
そのまま加速して2人を追い越そうとする。トドロキ本来の持ち味であるロングスパートが炸裂していた。
洋芝もすっかり気にせずに蹄鉄を歪ませ、廃棄寸前に追い込みながら2人を突き放そうとする。
芝が捲れ上がってちぎれた葉っぱが宙を舞う。赤色のコートが靡いては、まるで閃光のように流れていく。
「な、舐めるなああああ‼︎」
「待ちなさい‼︎」
エルグランセニョールがトドロキをいかせまいと加速して並ぶ。チーフシンガーも意地で加速する。
意地と意地がぶつかりあい、コースで火花が散った。3人が一列に並んでゴールへスパートをかけていく。
残り100m。トドロキの目が細まる。
左右に並ばれるのは想定外だった。本来ならここで突き放すつもりだった。だけれどそんな状態でも勝ちたいと言う強い意志とその意志から放たれる底力とは別に頭は嫌と言うほど冷静になっていた。
まるで走っているのが自分ではなく、意識だけが誰か別の存在によって突き動かされているように客観的に感じられた。
走っている場所もターフではあったが同時に幼い頃見たアニメに出てくる草原のようなところも同時に幻視していた。
体も呼吸を忘れかけ酸素を求めて肺が苦しく伸縮と膨張を繰り返し、それでも負けたくないと言うただ一つの感情で意地と意地をぶつけ合わせて、レース管理すら忘れた暴走とも言えるスパートをしていた。だけれど、不思議なことにまだ脚は残っていた。それどころか軽くなっていた。
洋芝を早く、スタミナを最小限に抑える走り方、その理想系に無意識になっていた。左側で並んで走るエルグランセニョールとチーフシンガーの脚の動かし方と、歩幅、脚の蹴り方まで無意識のうちに真似ていたのがどこかで歯車があった瞬間だった。
(これならいける‼︎)
脚の回転をここに来てさらに上げた。トドロキの頭が横並びから抜け出た。
「……な⁈⁈」
「……‼︎」
2人が驚愕する。さらに一段ギアを上げたトドロキを捕らえられない。スタンドからは小柄な白い影が飛び出たように見えた事だろう。
1人がつぶやいた。閃光と……
(こいつ……そこから加速するか‼︎)
(認めましょう……貴女は強い!)
2人のウマ娘を突き放し、前に出たトドロキ。再加速しようにもスタミナがここに来て尽き果て、根性だけではどうすることもできなくなったチーフシンガーとエルグランセニョールとの合間の差がどんどん離れていく。
ゴール板。最も速くそれを通過したのは白毛の少女だった。
割れんばかりの歓声が怒号のようにレース場を支配していた。
速度を落とし一周のウィニングランをするも、流石のトドロキもそのままコースにへたり込んでしまった。
肩で荒々しく息をしては必死に呼吸を整える。
暴れていた心拍数を戻し脚の震えを抑えようとする。いまだに彼女に実感はなかった。
勝ったにしては心の底から込み上げてくる喜びはまだない。頭が現実に追いついていなかった。
「おめでとう、挑戦者。君はこのレースで王者として輝いたのだ」
頭上に影ができて、誰かが話しかけてきていた。それがエルグランセニョールだと言うことに気がつくのにたっぷり10秒かかった。
(我は三冠を狙うと言ったから……ここで躓くわけにはいかなかったのだ。あれ?なんで笑って……)
トドロキは初めて自分が笑っていることに気がついた。
純粋に勝ったことが嬉しかった。その実感がようやく追いついてきたからだった。
「言っただろう。我が勝つと」
立ち上がっても身長差でまだ見上げることになるエルグランの顔を力強く見つめながら、まずは一勝。次の宴で会おう。と一言だけ言ってトドロキは沖野のところに駆けていった。
その途中で蹄鉄がついに壊れてトドロキの靴から垂れ下がった。
「毎回破棄寸前までだったのに、今回はついに壊したか」
「蹄鉄が力量不足なのだ!我の魔力を込めれば……」
「無茶を言うな。レースに適合してる蹄鉄はそれしかないんだから」
「あと2回。闘うか……」
同じ三冠を争うのなら同時にトドロキとの勝負も3回残っている。その事実にエルグランは嗤っていた。
次は必ず勝つ。リベンジだ。
「恐ろしい速さでした。いえ…あれは蹂躙……」
そばにいたチーフシンガーもその笑みに若干引いていたほどだった。幸いなのはトドロキがそれを見なかったことだろう。見ていたら必ず泣いていたはずだ。
「王の走りだよ。身を焦がすほどに強い……」
なにせこの2人以外の全員がいまだに芝の上で息を整えざる終えない程に、体力を消耗させられていた。
皆相当な実力者だった。それが1人の小柄なウマ娘にいいように遊ばれてしまっていたのだ。
「まさしく革命だな」
その日、イギリスG1レースのウィニングライブのセンターに初めて日本のウマ娘が立った。
その事実は、世界を駆け巡った。