イギリスダービー。
栄光と歴史があるこのレースの勝者になるのはたった1人だけ。
出走する者達に混ざって白毛が美しく靡いた。
珍しくツインテールをやめて髪を下ろしたトドロキはパドックでいつも通りの名乗りをあげては観客を困惑に貶めていた。
それこそが目的とでも言うように。
「我が生み出す混沌でこの宴も狂宴の場として見せよう!」
日本のテレビ局による中継で言葉にすぐ字幕がつくが字幕も徹底的にトドロキの言葉を訳してしまうため何を言っているのかは大半の人には伝わらなかった。
それでもパドックでのお披露目は済んでしまう。後はゲートに入るのを待つだけとなる。
トドロキの赤色と黒の勝負服にサングラスと眼帯の出立は既に他のウマ娘からは恐怖と敵意を持って迎えられていた。トドロキ自身も薄々その事には気がついていたが、カッコよく勝ったらきっと誰か話しかけてくれると思っていた。
実際には参考にしているルドルフもそうだったがレース直後と直前は畏怖によって基本話しかけられる事はない。案外孤独なのだった。
観客側も誰かがトドロキを負かしてと言う感情が大半だっただろう。そういった空気が出来上がっていたし挑発をしようとするウマ娘もその空気に当てられて少し話しかけづらい様子だった。
そんな中で声をかけてきたのは、意外にもエルグランセニョールだった。
「久しぶりだなトドロキ」
「おお、英雄王!」
「英雄王かどうかは知らないが、今日こそは勝たせてもらおう」
「望むところ!ただし我は必ず祖国へ王冠を送る!」
「もう持っているじゃないか。三つもは強欲だ」
「我は悪魔神!勝手ながら強欲にいかせてもらう」
とは言うが彼女も薄々気にしてしまっていた。自分が勝つ事で誰かが悲しむのではないかと言う事。
それでも勝たなければ意味がないし勝つと言うのはそれらの思いへの弔いの意味もあるのだと、無理やりに納得させてトドロキはゲートに入った。16人建てのダービー。
場はここ数日は雨も降らず曇り空から晴れが見える。良場であった。
エプソムレース場。ダービーの開催場として知られる“レース場の聖地”。ロンドンの南南西約30km、空の玄関口であるヒースロー空港から20kmほどの位置にある。空港からも程よく近くアクセスが悪くないためこの日のレース場は各国からの観客でいっぱいだった。日本からの観客もちらほらと見られる。どうやら旅行代理店が応援ツアーをいくつか売り出していたらしい。トドロキを応援する横断幕も見えた。
コースは蹄鉄型にUの字を大きく描く全長2400mのコース。ダービーは左回りで走る。
(そう言えば我は左回りのコースあまり走っていないな……)
左回り右回り、どちらが得意なのかと言われるとトドロキには応えられそうになかった。
「我に力を悪魔神!」
レースを見届けようとスタンドの最前列に居座っていたタケホープは雑踏と人のざわめきの中から自分に近づいてくる足音を拾った。
音を聞き分ける能力が人一倍長けているタケホープにとって背後から目的を持って近づいてくる相手ほどわかりやすい音はなかった。
ロンドンで買ったハンディキャップを目深に被り直して後ろを振り向けば、そこには2000ギニーでトドロキと最後まで首位争いを演じたウマ娘が立っていた。
「貴女がトウショウトドロキのトレーナーさんでしょうか」
完璧なお辞儀に高貴なる者の持つ気配を靡かせたチーフシンガー。流石にタケホープも肩に力が入った。だけれど平然とした表情は崩さない。
「近いけど私はサブトレーナー。トレーナーは今日本で大事な仕事中」
「初めましてチーフシンガーと申します」
「私はタケホープ、後ろの剣士みたいなのは?」
珍しくウマ娘にしてはスーツを着たやや大柄なウマ娘にタケホープは視線を持って行かれた。どことなく漂う覇者としての風格。だけれどそれはまだ未完成な状態だった。
「エルグランと同じチームのサドラーズウェルズですわ」
「始めまして、サドラーズと呼んでください」
口数はそこまで多くはない。そんな印象だった。それでも見た目の割にはそこまで固くなさそうな雰囲気を出していた。
「よろしくサドラーズ、ところで君達はエルグランセニョールの応援にでもきたのかな?」
イギリスレース界での注目。そしてトドロキの連覇を止められる存在の1人。ゴシップ紙やワイドショーはそのように彼女を囃し立てていた。
「そんなところです。ついでですのであの白毛の子のトレーナーの顔を見ておきたかったのですが……」
「私はチーフシンガーに誘われました。噂は常々聞いています」
そこまでチーフシンガーが喋ったところで、レースが始まった。
ゲートが開き一斉にウマ娘が飛び出していく。
歓声が一段と大きく聞こえる。
「話したいことがあるなら聞いておくけど?」
コースの方を向いたチーフシンガーの目に不安が宿る。タケホープはそれを見逃さなかった。
「イギリスの意地とあの子の意地。どちらが勝つか最後まで見届けましょう」
「……もしかしてエルグランセニョールはどこか悪いのかな?」
不調の情報は極力漏れるわけにはいかない。一瞬耳を立てたチーフシンガーサドラーズウェルズ。
反応を見てタケホープもエルグランが何らかの爆弾を抱えている事に気がついた。
「悪いわけではありませんが……」
「ふぅん……まあいずれにしても勝者は1人だ」
たとえ爆弾を抱えて走ろうと、それで勝ちが貰えるわけでもない。同情しないというのは嘘になるがそれはそれとしてタケホープは勝者はトドロキだと信じている。
トドロキのスタートは早かった。その上今までとは違う先行の位置にいた。
今までなら序盤を過ぎる頃には減速して後方にいるはずだった。
トドロキより後ろにいるウマ娘達も基本的にはそのように考えていた。彼女の脚質は捲り。だからすぐに後ろに行く。
最初こそ頭を抑えられたと焦るも彼女はすぐに下がってくる。そう思っていた。
「先行?」
サドラーズウェルズは映像でしかトドロキを見ていない。それもイギリスに来てからのレース映像のみだ。
「いんや、彼女は捲りだよ」
重場なら今まで通りの動きをしただろう。だがレース場は良場であった。雨も少なく湿度も落ち着いていて、芝も地面も幾分か固かった。少なくともトドロキが今まで走ってきたイギリスのレース場の中では最高に良かった。
だから、彼女にとってはその場は恐ろしく軽く走れた。
洋芝にも慣れてしまえばどうということはない。
今のトドロキならハイスピードを維持しつつも2400mを十分に走り切ることができる。
タケホープは内心ガッツポーズをとっていた。
スタミナは重場で2400mを余裕で走り切れる程度まで鍛えた。トドロキが根を上げる寸前まで追い込んだから当然だった。
だがスタミナがあれば良いと言うわけでもなかった。だけれどその点はタケホープは心配していなかった。
スタミナ管理はトドロキには才能という形で元々備わっていた。タケホープはスタミナ管理…要するにレースでゴールする瞬間にスタミナを使い切る方法を叩き込んでおいた。
レース中にスタミナが切れても、レース後にスタミナが余っていてもダメ。きっかりと使い切る。
その結果が今のハイペースなトドロキだった。序盤を過ぎてもまだ先行位置にいるトドロキにエルグランセニョール以外の全員が焦る。
一瞬振り返ったトドロキ。
その視線と交差した2人のウマ娘が急に加速した。
先行位置から見下すような、嘲笑うような目線だったからだ。
(調子に……!)
本来後方にいるはずの捲りの戦術を取るくせに前にいるのが気に入らなかった。その苛立ちをトドロキは利用した。
スパートのような加速で2人がトドロキを追い越した。
元々このレースに出走するウマ娘の中でラビット役を演じていたのは2人だった。トドロキの前にいた2人がそれだ。そこにラビットでもなんでもないウマ娘が混ざり込んだ事でラビット側は困惑した。
(もうスパートだっけ⁈)
1人だけならただの掛かりと思われたが、2人も同時に、それもトドロキは真後ろだから彼女が何かしたと言うわけでもなさそう。と言う先入観が働き2人もまた釣られる形で加速していった。
今までとトドロキが自身より前にいる相手にしか干渉してこなかったため必然的にトドロキの後ろなら大丈夫と言う考えがあったのだろう。
「何をしたの?」
スタンドで見ていたチーフシンガーは冷や汗をかいていた。
「別に何をしたわけじゃない。レース前の挑発と本質は何も変わらない」
レース中に本能を直接挑発するなんて無茶苦茶を出来るのも世界に何人いるのかだが……
レースは大きな左コーナー中盤に入っていた。
既にこの時点でトドロキよりも前方4人は5バ身離れていた。だが顔は苦しそうだったし既にスパートをかけるスタミナも切れていた。
距離はあっても既に勝ちの目は無かった。
そのため必然的に残る11人はトドロキをペースメーカーとせざるを得無かった。
「……タイム速い?」
「コーナーに入ってから少し加速していますわ」
トドロキはペースメーカーが大の苦手だった。それでもこの戦略を取るならどうしても一時的にペースメーカーとしての役割を果たさなければならない。
それならばとタケホープは彼女にラップ走法を教え込んでいた。
体内時計が正確でなければ刻めないものだったが、一時的、短距離だけなら狂いが少なくなんとか使えると判断したのだ。
トドロキが時間を正確に刻んでいられるのは3ハロンが限界。それでも誤差は出る。
ぶっつけ本番なところはあったが、トドロキは更にやや加速してペースを引き上げた。
コーナーと言う脚に負担がかかりスタミナが減りやすいところで更に気付かないうちに加速する。毒のようにその効果は脚に蓄積していく。
当然それは本人もだが、スタミナは2400mできっちり使い切るのを頭に叩き込んでいるから大丈夫だと判断したのだった。
唯一それにかからなかったエルグランも、後ろから追い上げるウマ娘に煽られ走りにくさを感じていた。
だがスパートはコーナーが終わってからの最終直線。600mの区間だと決めていた。だからじっと耐えて、周囲に惑わされない走りに徹する。
エルグランセニョールがスパートをかけた。
トドロキはエルグランセニョールと同時にスパートをかける。既に垂れていた前方4人を追い越して一気に駆け上がっていく。エルグランセニョールもそれに追いつこうとするが同時にスパートをかけたと言うことはその分、後ろにいたエルグランセニョールの方が不利だった。それでもトドロキに肉薄していく。
他の10人は毒が回っているせいでスパートが鈍っていた。
スタンドからは2人の一騎打ちへの応援や怒号が響き渡る。
本来捲りのスパートを先行位置でやったトドロキ。
流石に普段よりも加速が鈍るがそれでもエルグランを引き寄せまいとトップスピードを引き上げる。
(……く!まだだ!)
「まだ!終わらない!」
エルグランがもう一段ギアを上げた。1バ身離れていた距離が縮まっていく。
(あと少し……)
頭差。もう鼻差にまで迫っていた。
だが、それでも……
歓声がエルグランの耳に強く聞こえるようになった。気がつけばゴール板は後ろにあった。
息も絶え絶えに掲示板を見れば、そこに表示されたのはトドロキの番号。2番手のエルグランとの差は鼻差。
……間に合わなかった。
鼻差のまま、それでもトドロキは逃げ切った。
その事実がエルグランの胸に残る。清々しいとまでは言わない。しかし僅かに届かなかったその距離が、逆に闘志を靡かせた。
「流石だトドロキ……君を侮っていた事を謝罪する。2度と思うまい」
「フハハ!今更悪魔神はそのような事気にも留めないよ」
(それより一緒に走れて楽しかったからこれからも……)