「フハハ!アイルランド上陸!」
アイルランドはイギリス本島の北西にある島である。
その島の北部の一部がイギリスに組み込まれ、その他大部分がアイルランド共和国という独立国家となっている。
そのアイルランド共和国にあるカラレース場がアイリッシュダービーの舞台となっている。
国が違えどレース場の中は似たようなもので、パドックでのお披露目もまたイギリスにいた時となんら変わりはなかった。
むしろイギリスのレース場よりも高緯度地域にあるためか比較的涼しい。
日本で7月といえばすでに猛暑となりウマ娘にとってはレースどころではなくなってしまうがこちらではそうでもないようだった。
トドロキにとっても気温が低く涼しいカラレース場は体への負担が少なくすぐに気に入った。
パドックを降りると、何人かがトドロキの事を遠巻きに見ていた。
もしかしてと思いトドロキも顔をじっくり見れば、ダービーの時に一緒に走っていたウマ娘だった。他にもニュースなどで見たことがある顔ぶれがそこにはいた。
エルグランセニョール以外にもダービーから続投で走ろうとやってきたウマ娘はいるらしい。
さらにフランス語も聞こえていた。フランスのウマ娘もいるようだった。
「やあ来てくれたんだねモンスター」
「勇者よ!よくぞ参った」
トドロキをアイリッシュダービーに招待したエルグランセニョールは、いつもの勝負服に金色のラインが追加していた。
どうやら一か月の合間に勝負服を少し手直ししたらしい。
「トドロキ、あまり長話をする必要もない……ここで決着をつけよう」
「望むところ!深淵を持って迎え撃つ!」
(だけどまた一緒に走りたいな……)
トドロキは知らなかった。エルグランセニョールの脚が既に脚部不安寸前だったことを。
エルグランはそれを知っていた。だから脚が保つうちにトドロキと、ホームであるアイルランドで決着をつけたかったのだった。クラシック三冠目では間に合わない。
エルグランセニョールの最後の挑戦だった。
トドロキが他のウマ娘に話しかけられている合間、エルグランセニョールは一旦心を落ち着かせようとコースの隅に寄った。
「迷っているの?」
すぐ近くのスタンド席からチーフシンガーが声をかけたのはその時だった。
「……迷う?何を今更……」
もう既に迷いは吹っ切れた。そう思い込んで、レースに挑むことにした。
「治療に専念すればまだ望みは……」
1年か2年かはわからない。だけれどと続いたチーフシンガーの声はエルグランセニョールの否定する声に遮られた。
「無理だ。私にはわかる。この脚は後1回か2回走れば……」
ダービーの後から引かなかった熱。筋肉に走る若干の違和感。
「ならどうして……」
「このまま負けっぱなしは嫌なんだ。それにこれを走り終えてもまだ1走くらいはできる」
医者の判断ではない。それでもウマソウルはそう言っている。そういう時のウマソウルほど信用できるものはない。
「だからって……」
流石のチーフシンガーも動揺が隠せない。
「貴女は昔から物覚えの悪いやつだ。これは闘争の本質だ。彼女を倒さなければ己にはなれない。一歩も前に進めなくなったんだ……だから全てを賭けて戦うんだ」
もはや意地なのだ。ここまで来てはもう止められない。何がそこまでエルグランセニョールを掻き立てるのかといえば結局は負けたままでいることに耐えられないからだ。
チーフシンガーもレースに全力を注ぐ身である。だからその気持ちも覚悟もいたいくらいに伝わる。だが同時にライバルなのだ。ライバルを倒すのは自分自身だったのだ。そうでなければならない。
そう思っていたが、その役目をあっさりとトドロキに奪われた事に自身の苛立ちが隠せないでいた。
それでもトドロキに対して憎いという感情もなければ、反骨精神があったわけでもない。結局チーフはトドロキと戦う事をやめた身なのだ。
それは自分の目標のため、人生設計のため。そう言い訳をしてモンスターから逃げたのだ。
その後ろめたさがお腹の底に溜まって自分自身を嫌悪していた。
「なら……無事に戻ってきてください。私が言えるのはそれだけ」
「わかっている」
ゲートに入る時間が来た。与えられた番号ではエルグランセニョールが最後にゲート入りする。
全てを賭けて、あのモンスターを撃墜する。その一点のみが彼女の走る理由だった。
天性の負けず嫌いが出走する。
「果たして彼女は、怪物の首を撥ね飛ばした英雄となるのか……神なる獅子の贄と化した哀れな小娘となるのか」
そっと2人の会話を盗み聞きしていたタケホープはこのレースの結末にしか興味はなかった。
カラレース場のコースは右回りの蹄鉄型をしており2400mのダービーレースで使用されるダービーコースは三層あるコースの真ん中を使用する。スタート直後から右に緩くカーブしながら坂を上り、外を回るプレートコースとの合流点付近から右に大きく折れ込むコーナーとなり、坂を下って約500mの直線に入る。直線入り口は平坦だが、ゴールまでじわじわと坂を上る。
アップダウンが激し目のコースとなる。そのためスタミナの配分を間違えればゴール直前の坂で減速を余儀なくされる。さらにゆったりとした坂が多いため感覚では坂であると分かりづらいという難しいコースとなっているのだった。
開始直後からエルグランセニョールは綺麗なスタートダッシュを決めた。
彼女は今まで基本的に刺しバとしての頭角を表していた。だが実を言えば彼女は本来先行の方が好きな方だった。
得意と好きが少し異なるためか彼女が本領を発揮すると先行とも刺しとも言えない中途半端な位置に行くことになる。だがかえってそれがトドロキとの位置関係を広げることになった。
同じくスタートで前に出たトドロキはすぐさま後方に下がり、後方の位置についた。
序盤なら距離があればトドロキの影響を直に受ける可能性は少なくなる。ただし他のウマ娘に巻き込まれやすい位置でもある。
バ群前方よりの中に彼女は隠れるように入る。それにバ群を形成する周りのウマ娘は警戒度を上げる。だがそれが狙いだった。
エルグランにとっては走りなれたレース場。しかし周りは決して走りなれてはいない場所。力の入れる位置や抜く位置。体にしっかり染み込んだそれらに従うように、ゆるい坂を駆け上がっていく。
やや右にカービングしているため左脚の踏み込みを強めにしてコーナーを駆け抜けて行く。
エルグランセニョールを刺しだと思っていたウマ娘が、その刺しバに先行されているのが気に入らなくて加速をした。
それに釣られて何人かも前に出て行く。冷静にそれらを見送ったエルグランだったが、後ろからピリピリとした気配を感じる。
直後に前方に出て加速していたウマ娘達が急に減速を始めた。まだコーナーのはるか手前だ。
それらウマ娘がエルグランセニョールの前方を蓋をするようにして塞いだ。
(やってくれるな!)
今のがトドロキの仕業だというのは明らかだった。
このまま前に飛んでいけば道は開けたであろうが、一瞬振り返った時にトドロキと目線が合ってしまい、その冷徹な瞳に頭に上がっていた血がすぐに戻ってしまったのだ。
もうすぐきつい右コーナーに入る。まだ距離があるとは言え既にトドロキのせいかエルグランセニョールの後ろ3人が大きく乱れていた。
掛かってしまっつのかバ群カラ抜け出そうとコーナー外側に膨らんで外から抜きにかかった。全員フランスのウマ娘だった。
(ここでスパートは早すぎる……あれは保たないな)
イギリスウマ娘はトドロキに対してかなりの警戒をしていたが、フランスウマ娘は他国の事と侮りがあった。その上日本ウマ娘がイギリスクラシックに勝利していてもそれはイギリスウマ娘が不甲斐ないからだと思っていた。
そのツケは今になって支払っていた。
エルグランセニョールは仕掛けるポイントを直線に入った直後からと定めていた。
だからトドロキを気にせず、前だけを見て自分の走りを最後までするつもりだった。
背後で異音がした。
自分の脚音が大きく聞こえる中、僅かな違和感に耳が反応した。
(まさか……)
3人が掛かって後ろにいた人数は少なくなっていたはずだ。それですぐそばから異音が僅かにしたとなればそれは、彼女がいるということだ。
トドロキは真後ろにいた。
脚音を隠すように歩調と歩幅を合わせ、同じ速度でピッタリくっつくようにして駆け抜けていた。
(後ろにいるのか?)
足音が聞こえない。自分の脚音で隠れてしまう。されると恐ろしいほど分からない。
(流石だ……だが!)
後ろにいる限り前には行かせない。足音が聞こえなくてもそこにいるのだとわかってしまえば、案外トドロキはわかりやすい存在だった。
エルグランセニョールの思考とトドロキの思考がほぼ同じであるからこそ相手がどう動くのかよくわかったのだ。
コーナーが終わりを告げる。
急曲線を描いていて下っていたコースが一瞬平坦な直線になる。
足を挫きやすいポイントであるが、それゆえにそこで加速しようとするウマ娘は殆どいない。
だけれど走り慣れているエルグランセニョールは迷わずそこで加速。スパートに入った。
前方を塞いでいたウマ娘の隙間を縫うようにして突き抜けた。若干肩がぶつかったもののそのくらいは許容範囲だった。
無理やり道を切り開いて加速して行くエルグランセニョールも流石に後ろのトドロキが付いてこれるとは思っていなかった。下手をすれば下り坂から平坦に変わるポイントで足を挫きやすい。さらに急なコーナーであるから内側になる右足側は負担がデカくなる。
だからあの場所を過ぎたあたりで加速してくるだろう。
一気にバ群を抜け出し、逃げとして、ラビットとして序盤から加速し続けていたウマ娘をあっさり追い越す。
そこで違和感に気づいた。
(なんだ?この嫌な気分……)
後ろの方で空気が乱れたようなそんな感じだった。後ろに振り下げた腕が、僅かな空気の乱れを感じ取った。
(まさか……)
「闇に……呑まれよ!悪魔神!」
「トドロキ‼︎」
ずっと後ろにぴったりくっついていたのだった。スパートを同時にかけて、最初から、追い上げるなんてことなどせずにずっと背後でスパートをかけて前に出るタイミングを窺っていたのだ。
陰から飛び出し、右に慎重に出てきたトドロキがエルグランセニョールに並ぶ。目の前には上り坂。ゴールまでは50mを切っていた。
だがここまできて負けるわけには行かなかった。
スパートを掛け直しスタミナを削り切り、気迫も燃料として燃やして、トドロキと並びかける。
いくらスリップストリームでスタミナの消耗を抑えたとは言えトドロキも限界に近いはずだった。元々2400mは彼女にとっては長い。さらに上り坂でのデッドヒートはスタミナをあっさり消費させて行く。だけれど、トドロキも負ける気は全くなかった。
雄叫びを残して、並んだまま、トドロキとエルグランセニョールの2人はゴール板を通過した。
同時にターフにへたり込む2人。脚を酷使したためか2人とも震えていた。
「どっちだ?」
掲示板にはなかなか1着と2着の表示は点灯しなかった。
写真判定に入ったのか審判達がテレビ画面を見ながら協議していた。
十分くらいだっただろう。エルグランセニョールにもトドロキにも永遠に感じられる時間だった。
表示された結果に、エルグランセニョールの瞳から涙が流れた落ちた。
側で見ていたトドロキは一瞬の放心とその後に押し寄せる感情を表に出そうとして隣を見て感じた。感じ取ってしまった。
「……あ、そ、そっか……」
結局のところどんな美辞麗句を重ねた所で『勝者の栄光』とはうず高く積み上げられた[敗者たちの礎』の上でしか成り立たない。
(今自分自身がいる場所がそうだ……)
ならば礎を踏みしめ精一杯輝くしかあるまい。どれほど鈍く、どす黒く見えたとしてもだ。
TOPIC
トドロキは目を離すと食生活が壊滅する