セントレジャーステークスは1776年にレースや勝負事が好きだったアンソニー・セントレジャー将軍らによって創設された。
このレースの特徴的な点は当時、レースはヒート競走が盛んだった中で珍しい一回限りで勝負がつくレースだった。
ヒート競走は同一の組み合わせで複数回のレースをおおこない優勝を決定する方式の競走である。1回の競走は1ヒートと呼ばれ、あるウマ娘が2回ないし3回優勝するまで続けて行われた。
デッドヒートの語源の由来ともなっている。
そんなレースが主流だった中で異色だった1回限りで勝負が決着するセントレジャーは人気を博した。
この成功がきっかけとなりオークスやダービーも作られたのだから近代レースのを始祖と言うべきレースでもある。
その後、ヒートレースが現在の一回きりのレースにとって変わられた後にクラシック体系が成立する。その最中に始祖のレースであるセントレジャーもその中に組み込まれるようになった。
何度か開催地を変更されていたが、現在ではドンカスターレース場で行われている。
クラシックの中では長距離に入るレースでは芝コース1マイル6ハロン115ヤード。メートル換算で2921mで行われる。
20世紀の初頭まではダービーを制する早熟性。そして3000mと言う長距離を走破するスタミナを併せ持つウマ娘が最上のウマ娘と認識されていたからセントレジャーステークスはクラシックレースの中でも最高の権威を誇っていた。
ただ、現在になってはこの権威も随分と後退した。距離適正、期間などがあるが、交通の便が圧倒的に良くなった事で類時期にダービーとほぼ同じ距離を走る凱旋門賞、チャンピオンステークスなどの選択肢が増えた為有力な出走者が減ったからと言うまことに欧州らしい事情だった。
長距離レースの衰退と言う問題も抱えているのが更に足を引っ張っていた。
だがその年のレースは違った。
トウショウトドロキ。日本からの刺客はBHBに大きな波紋を呼んでいた。
“確かに権威は落ちているし有力候補は軒並み別のレースに行ってしまう”
“だがそうなればトドロキの思う壺。層が薄いレースでは
そういった意見が相次ぎ、トドロキと接戦を繰り広げたエルグランセニョールが脚部不安で離脱してしまった事もその意見に拍車をかけていた。
トドロキの向かう先敵なし。イギリスの暗黒時代などと三流ゴシックがヤジを飛ばす事態にまでなっていた。
しかしそれ故に、セントレジャーステークスにはトウショウトドロキに対抗心を燃やすウマ娘が揃った。
最も当の本人は別の事で問題があった。イギリスウマ娘は知らない、彼女の適正距離の事だった。
3000m近い長距離でありトウショウトドロキにとっては適性外のレースとなる。
ドンカスターレース場に近いホテルを取った沖野達は、そこで最後のミーティングをしていた。
「長距離の対策は合宿でみっちりやった。後はお前次第だ。適正の壁、破っていけ」
2400mまでは勝負が可能だったポテンシャルは、合宿中でのトレーニングによりなんとか3000mまで出せるように調整されていた。
その代わり筋肉の白筋、赤筋と中間筋のつき方が変わったりしたため元々適正だった1600m台での総合力が低下していた。しかし長距離で勝つためにはそうせざる終えなかった。
「中距離から長距離とか短距離からマイル程度ならなんとか俺でも適性を変更することは出来るが……まあそれも限界はある。筋肉ってのは生まれつきで殆ど決まっちゃうからな」
その割に適正距離を伸ばす方向へはある程度持っていけると言うのだから沖野の実力がわかる。
「出走前日にそれを言うのか契約者よ」
「平気だ。あんたは俺が調整したんだ。適正もバッチリ。兎も角行ってこい」
不安やプレッシャーに極端に弱くメンタルの調子が必要以上に出るトドロキ。それでも沖野は伝えるべきことは伝えておくべきだと考えていた。
「お、そういえば後でラモーヌを空港に迎えに行ってくる。食事はタケと取っていてくれ」
ラモーヌは学業との兼ね合いもありセントレジャーの観戦の為にイギリスに来るのが1人遅れていた。
「流石に前日に食べ過ぎて太り気味とかにはさせないから安心して行ってきてね」
「……ふ、太り易くないもん」
むしろトドロキは食べても太らない体質だ。逆に食べないと体重が一気に減ってしまう。
体重の増減は彼女の場合脂肪ではない。筋肉などから減っていくから体重維持、強いては筋肉維持の為に食べないといけないのだ。極端な体質である。
だがそれを言うとメジロラモーヌは黒い笑顔になる。
彼女はその真逆で体質が太りやすい方にデリケートなのだ。その為食べる量だけでなく1日の運動量すら細かく調整しないといけないのだ。
ある意味最も沖野が不得意とする体質だ。ここら辺の管理は管理主義のチームリギルの方が合っている。それでも性格ではスピカが1番しっくりきていると言うのだからメジロラモーヌというウマ娘は難しいのだった。
それでもなんとかなっているのは元々ラモーヌがメジロ家の傑作とまで言われるほどの才能とそれに見合う知識と頭の回転を持っていたからだった。
セントレジャー当日は珍しく天候が良かった。前日まで曇っていた空は曇のない快晴。クラシック三冠がかかったレースを祝福しているかのようだと実況の放送がレース場には流れていた。
パドックで各ウマ娘がお披露目されるたびに声援が上がる。
その中でも一際大きいのがトウショウトドロキだった。
現在のところ最有力のライバルはコマンチラン。長距離を主に走るウマ娘だ。セントレジャーと同じドンカスターの3000mを走るG3レースでレコードを叩き出した有力ウマ娘だった。
「本当に大丈夫なんだよねトレーナー」
ドンカスターレース場に流れる熱気と人々の多さに気圧されないように気を張り詰めたタケホープは沖野に尋ねた。
タケホープとしては大丈夫だと言う確証が欲しかった。だが沖野の口から出た言葉は、その予想を裏切ったものだった。
「まあ今まで通りの走りをしたらダメだな」
その言葉に反応したのはメジロラモーヌだった。
「あら?そうだったのですか?ですが長距離トレーニングしていましたわよね?」
ラモーヌ自身も併走とスタミナを上げる為にトドロキのトレーニングに付き合わせていた。だから彼女がどのようなトレーニングをしていたのかも大まかにわかっていた。
「ああ、だから体のポテンシャルだけならなんとか保つように調整した」
「じゃあどうして?」
レースがスタートした。歓声が大きくなる。
中にはファンの人だろうか。ウマ娘の名前を叫んでいる人もいた。
真っ先に飛び出したのは白い髪の毛と赤色の勝負服を纏った少女。トウショウトドロキだった。サングラスと眼帯で目線は見えないがどうやら調子は好調のようだった。
「体じゃない。集中力さ」
「集中力?」
「あいつの強みは周囲の状況を素早く把握して即座に戦略を組み立てる能力だ」
体のポテンシャルだけならあのエルグランセニョールや無敗の皇帝ルドルフよりも若干だが劣る。それでもなんとかやってこれたのは卓越した観察眼と素早い戦略の組み立てだった。
正しくもう1人誰かが直接指揮を取っているかのようなものだ。
「ただそれだけに集中力が人並み以上に求められる。一度どの距離まで集中力が続くのかを調べたんだ。何度も模擬レースを行ってな」
歓声が大きくなる。直線が終わり左回りのコーナーに入った。未だトドロキは先頭で、それどころか後方をさらに突き放していた。ラビットとして走っているウマ娘すら遥か後ろだ。
「結果は2600m。集中力ってのは数ヶ月でどうにかできるものじゃない。数年単位で伸ばしていくものだし個人差が大きい」
だからトレセン学園入学時点から彼女の集中力強化をしていても間に合わない。
「じゃあ2600m以降は……」
絶望的なのではないだろうか。タケホープが言いかけたところで沖野は笑った。
「言っただろう。今まで通りで走ったらダメなだけだ。ならば今までの走りとは全く違う走りをするんだ」
そういえば未だにトドロキは先頭で一人旅をしていた。
スタート直後からずっとトドロキは先頭を、それもだいぶ後方を突き放す大逃げをして走っていた。
2番手との合間は20バ身ほど離れているのではないだろうか。タケホープにはそう思えた。
「でもトドロキさんは逃げは苦手ではなかったのですか?」
メジロラモーヌがタケホープに変わって尋ねた。
「別にあいつは逃げが苦手ってわけじゃない。逃げで最も汎用性があって最も勝率が高い走法であるラップ走法が極端に苦手で出来ないだけだ」
逃げと言うのは極端な事を言ってしまえばたった1人で最速タイムを叩き出すように走れば良い。そしてそれが最も難しい事でもある。
「じゃあ逃げはどうするのさ」
「大逃げって知っているか?」
質問に沖野は質問で返した。
「一歩間違えれば逆噴射の破滅逃げですわね」
実際に1500mを通過したトドロキの足は遅くなっていた。2番手との合間にできていた差が縮まっていく。
最初こそトドロキの大逃げに全員が意表を突かれたものの、大逃げをしたのであれば途中で速度は遅くなる。最後まで続くはずがない。そう言う思いがあり実質的に先頭を演じていた2番手に合わせて掛からずペースを保っていた。
「まあ長距離で大逃げかますやつってのは殆どいない。だが……むしろ長距離の方がこの走法は使える」
案の定1500mと言う折り返し地点でトドロキは減速をしていた。
(減速?3000m保つスタミナで?しかもスパートをかけていたわけじゃないのに?)
タケホープがそう思った直後だった。7バ身差まで縮んでいた後ろを振り返ったトドロキは確かに笑っていた。
残りは1000mを切った。そこでトドロキが再度加速した。今度はスパートをする激しい加速。後ろを置いてきぼりにする加速に掛かった。
まさか逃げがスパートをかけるなんて思っていなかったのだろう。1200mほど残したままの加速。ロングスパートだ。ここで仕留めなければ間に合わなくなる。そう全員の考えが一致した。
「逃げて……足を溜めた?」
大逃げで生まれた差で脚を一度溜め、再び加速する。スタミナ管理が失敗すれば破滅逃げになるそれを初めて、それもG1と言う舞台で行ったのだ。通用するかも不明。成功するかも不明。博打だ。
「一定以上の距離を離したらその分アドバンテージが生まれる。その合間にスタミナを回復させてスパートをかける」
「出来るの?そんな事……」
「出来るようにする為に浜辺でトレーニングさせたんだ。できなきゃこっちが困る」
それでもトドロキのスパートは通常の捲りの時よりも遅い。ジリジリと背後との差が詰まっていくが、その差はもどかしいほどに届かない。
ようやく、100mを切ったところでコマンチランが追いついてきた。残り3バ身。
その差が少しづつ縮んでいく。トドロキの背中が手に届きそうな距離になる。
だが、それでもトドロキには届かなかった。
ゴール板がトドロキのすぐ隣を通過した時、コマンチランは半バ身まで迫っていた。
それでも、トドロキを捉えることは出来なかった。彼女が逃げてスパートをかけると言う事を知っていたらもっとやりようがあっただろう。
「うわあ……」
「感動とかより衝撃のほうが大きいですわね」
「本当にクラシック三冠取っちまいやがったからな。流石だ」
トドロキが柄にもなくはしゃいでいる姿を見ながら、沖野はつぶやいた。