14人でが出走するレースは真っ先に飛び出したカツラギエースが先頭で幕を開けた。
大逃げ体制に入ったカツラギエース。途中で垂れるから十分追いつけるという絶妙な距離と速度で、全体のペースが自然と彼女によって形成されていく。
やや遅いスローペース。
バ群が全体的に縦長に伸びて、シンボリルドルフとチーフシンガーが中程、トウショウトドロキとミスターシービーが後方位置につけていた。
だがそんなカツラギエースと後ろの差はあっさりと埋まり始めていた。
先行位置にいたサガスが加速してカツラギエースにピッタリくっついたのだ。
カツラギエースをマークした形になったが必ずしも本人はそれを望んだわけではない。これはルドルフがゲート内で隣になっていたサガスに逃げをするウマ娘をマークさせようと画策していたからだった。
それが功を奏した。元々ルドルフやトドロキのようなレース支配型とのレース経験が無かった上に煽られると熱くなる性格。脚質が逃げと先行よりだった事の全てが噛み合った。
ジャパンカップは例年の傾向としてスタートの飛び出しは日本のウマ娘の方が鋭く、そして早い傾向にある。そのためレースは序盤こそ日本ウマ娘が先頭側に行きやすい。それが海外ウマ娘の中でも先行や逃げ切りを得意とするウマ娘には気に入らない。
それはサガスも同じだった。
凱旋門賞ウマ娘というプライドもあったのだろう。
初手で飛ばして無理にでもカツラギエースを抜こうとする。
カツラギエースとしてもそんなの想定外だった。
そもそも逃げ切り策を取ったのは彼女が他の三冠ウマ娘に前に出られたら絶対に差し切れないという根本的な力の差を埋める為に仕掛けた一世一代の番狂せだ。
それに追い縋ってあわよくば抜かそうなんてしてくるのは大馬鹿野郎くらいだ。なにせ彼女はレースでスタミナが保つギリギリの走り方をしているのだ。
それより数段早い逃げ戦術なんてやろうものならそれこそ潰れる。
(凱旋門賞とか知ったこっちゃないけどそんなアホな加速するくらいなら……)
だからカツラギエースは脚を緩めざるをえなかった。
背後からの突き上げて来る強いプレッシャーと殺意の波動に長時間耐えていたら気力の方が先に消えていってしまう。
それにカツラギエースの逃げよりも早いペースで走りたいのならそうさせるつもりロンシャンよりも高低差が少ないものの、東京レース場は走りやすい場所ではない。
後方のトドロキが1コーナーに入る。
そこで彼女は真正面で蓋をするように走るシービーをパスする為にイン側に入り込んだ。
体をギリギリまで内側の柵に近づけて、シービーが塞ぐコースのさらにイン側を攻めて上がっていく。
まだスパートをかけるには早いがここでバ群の中にまで潜らないと勝てない。そんな予感がした。
シービーをパスして順位を上げるがだからと言って掛かりのように前に前に行くわけではない。前方を走る黒鹿毛のウマ娘の後ろであえてノイズのような足音を立てる。
音に敏感なウマ娘であればあるほどその音は嫌に耳に残り背後から追い立てられているように聞こえるものだった。
つられて黒鹿毛の子が加速。大レースのプレッシャーもあって完全に自分のペースを忘れていた。
そのまま加速してルドルフの前に出ようとした彼女が一瞬ルドルフと目が合った。
(……あ!)
鋭く冷めた瞳に睨まれて、頭に上がっていた血が引くように冷静になっていく。実際にはプレッシャーに当てられて怖気付いてしまっただけだが、それでもこのまま加速して行ってもこの皇帝がこうして遅いペースで走っているのだから自分が掛かってしまっていたのだということに気づいた。
そのままスルスルと減速していきルドルフのやや後ろあたりに収まった。
肝心のルドルフは調子が上がっていなかった。パドックでのお披露目の時もやや調子が悪そうな状態をひた隠しにしていたが、さすがのレースとなればそんな調子の悪さは致命的な欠陥となる。
気力はあるのだがそれに対して体が追いつかない。
(く……やはり病み上がりでは!)
強行したツケが回ってきたようで数日前まで体調を崩していたのだった。要は彼女、病み上がりだったのだ。それでも周囲を牽制しいつも通りのレースが表面上出来ているあたりルドルフの底力の恐ろしさが東条ハナには伝わっていた。
普段よりも呼吸が上がりやすい中でルドルフは後ろの牽制に隣を走っていたウマ娘を利用する。
さっき掛かりかけた黒鹿毛の子も含めて2人が後方に下り、トドロキの右外側と前を塞ぐ形になった。典型的なブロック。だが本人たちの意思ではないというのがこのブロックの異常性だろう。
流石のトドロキもすぐにそこから抜け出すことはしない。焦れば逆に刺激してしまい余計に出にくくなる。その上特段ペースを抑えられているわけではないから後でどうとでもなると考えたのだった。
全てを見ていたチーフシンガーとミスターシービーはこの2人に巻き込まれたら碌なことにならないと自分のレースをする為に距離を置く。
特にチーフシンガーは気配を消して体格の大きなカイザーシュテルンの影に隠れるようにして体力の温存を図った。
第3コーナーに真っ先に入ったのはサガスだったが、彼女はこの時点でもまだスタミナを残していてトップスピードを維持していた。だが足の疲労は想像以上に溜まっていた。
後ろにいるカツラギエースが風除けとして利用しているものの、疲労の原因はコーナーに入るたびに背後から睨んでくる視線を感じてしまうからだった。コーナーで無意識に後ろを見てしまう彼女は、その度にトドロキと目が合って、殺意のようなものが混じった視線を向けられて脚を早めては我に返って脚の動きを抑制するを繰り返していたからだった。
癖を利用されているが、酸素が足りない脳でそれを矯正するのは非常に難しいものだった。
それに後ろを確認して早さや距離感を考えるのは逃げの戦略の基本である。
最初から最後まで追い付かれないように走る。その為には後ろの観察も必要になる。
逃げのもう一つの走り方だった。それを逆手に取っていたトドロキだったが、本来ならカツラギエースが先頭を取るだろうという漠然とした予測で彼女に対して使うべき手段だったのだが、当人は2番手の位置で前ばかり見ているせいで効果が及んでいなかった。
前方に対する仕掛けを終えたトドロキもそのままコーナーに入った。
3コーナーは他のコーナーに比べて最適コースの部分に大きめの轍が出来上がっている。上り勾配でのコーナーであるから他と比べて地面を踏み込む力が強くなる傾向があるからだ。
その為全員がよく最適解として走る場所が他より数センチだけ沈み込んでいる。
その沈み込みこんでいる端の位置に加速するようにトドロキは飛び込んだ。集団から少し外側に膨れ上がった位置。だが押し出される形で右側を塞いでいた黒鹿毛のウマ娘はその溝から押し出される。普段何気なく走っていても溝などを使い遠心力を抑制する。それが出来なくなればコーナーでは膨れ上がるか減速するかの二択しかない。トドロキは脚を溝の淵の僅かな盛り上がりに合わせて擦り付けて走る事で外に膨れる速度でも無理やりグリップを保っていた。
その分蹄鉄や靴への負担は増える。彼女の走りは蹄鉄と靴を一回のレースで使い潰すが今回に限ってはレース終了まで保たない可能性があった。
それでもやったのはトドロキの天性的な第六感が働いたから。
外側に押し出され速度も落とせずグリップを確保できない黒鹿毛のウマ娘が大きく外側に膨らんだ。隙間が出来上がる。
飛び込むようにしてトドロキがそこに入り込んだ。
上り坂で全員が少しづつ速度が落ちる中で速度を変えずに走り続けるトドロキは相対的に周囲からは加速しているように見えた。
トドロキの前を塞ぐ形になっていたウェルノールが押さえ込もうと加速した。上り坂での加速は想像以上に体に負担をかける。心拍数が跳ね上がり血を全身に送り出そうと肺と心臓の筋肉が余計な運動を行い体力を奪っていく。
この瞬間こそ、それを許容できると判断したが最後の直線にはもう一度上り坂が控えている。そこで体力が保つかと言われたらウェルノールは否と答えただろう。それでもトドロキに張り合ったのは結局彼女を前に出したら追いつけなくなるという確証があったからだった。
ルドルフを相手にする場合もそうだが強者を相手にする場合皆揃って強者を前に出さまいとする動きをする。前に出られたら追いつけない。追い越せない。心のどこかにある諦め、妥協。
確かにただの強者なら有効な手だが、トドロキにとっては障害にはならなかった。
トドロキがスパートをかけた。一気に順位を上げて先頭に追いつこうとする。
(なるほど!ここでロングスパートか!大きく出たね……でもロングスパートは君の特権じゃないよ)
それを予想していたシービーが同時に加速。
2人の蹄鉄が軋み、変形しながら力をターフに伝えていく。
2人が先頭争いをしているサガスとカツラギエースに追い縋る。
既にサガスはスタミナが切れつつあった。
トップスピードの維持も難しくなっている。
それでも今だにカツラギエースを抑えるだけの速度を出しているのだから侮ることはできない。
(来たか!)
(きましたわね……)
4コーナーが終わる。理想的な、一般的な刺しのスパート位置で堅実なスパートを決めたルドルフとチーフシンガー。
周囲のウマ娘もそれに続こうとするも、翻弄され続けていたせいで彼女たちほど伸びが鋭くない。
勝者争いは加速する4人と先頭で粘る2人に絞られたように見えた。
チーフシンガーとルドルフがシービーとトドロキを外側から追い抜かそうとするルートをとった。
だがルドルフの末脚に覇気が見られない。加速が鈍く3人から少しづつ離される。
(く!保ってくれ!)
上り坂。高低差はそれこそロンシャンよりはマシなものの、最後のスパートをかける位置で始まる坂は体を重く引っ張る。
ついに耐えきれなくなったサガスが逆噴射した。
真後ろにチーフシンガーがいた。
(少し早いか!)
(計算通り)
(はああああ⁈)
ルドルフにけしかけられ、本来ならトドロキを抑える為にルドルフが仕込んでいた罠は、そのトドロキに利用されチーフシンガーに襲いかかった。
サガスは減速する際後ろを考慮してやや内側に寄って避けようとしていた。
しかしトドロキをパスしようとしてトドロキの内側に回り込んでいたチーフシンガーのコースを蓋をしてしまったのだ。
坂が終わり残り300mを切るタイミングで減速を強いられたチーフシンガー。
回避してから再加速しても既に間に合わない。
(あああああ!やってくれましたわ!やっぱりあいつは嫌いですわ!)
今だに先頭にいたカツラギエースもサガスをマークせざるをえなかった為予想以上にスタミナを削られていた。
逆噴射こそないものの、速度は少しづつ下がっていた。
追い上げきれないシンボリルドルフでさえ追いつけるくらいだ。
カツラギエース、ミスターシービー、トウショウトドロキの3人が並んだ。
残り100m。
カツラギエースが脱落。上がってきたルドルフが3番手に浮上するがそれ以上追いきれない。
(こんな……体の不都合で‼︎)
半バ身の距離が詰められない。
残り40m。
ミスターシービーの鋭くなっていた瞳から力が抜けた。
「やっぱり速いね。だけど……アタシが!」
一瞬シービーの頭が僅かに前に出る。誰もが勝ちを確信した。
観客の歓声がトドロキの耳に一際大きく響いた。自らが轟かせたのではなくミスターシービーが轟かせた。
それが琴線に触れた。
「戯言を‼︎」
歩幅が大きくなる。これ以上使えるスタミナはない。足の回転は早くはならない。ならば最後の手段で歩幅を伸ばしストライド走法に切り替えた。
膝や関節部が悲鳴を上げる。
脚の動きはそのままに歩幅だけが大きくなった。脚を壊すのを覚悟の上で土壇場での走法変更は、さらにトドロキの体を前に出した。
再び並んで、シービーを突き放した。
その直後にゴール板を通過する。
『2人並んでゴール‼︎僅かにトドロキが先行したか!』
実況の放送が酸欠で頭痛を引き起こす頭に響く。
コース内側の柵に手をかけて倒れ込むのを防いだトドロキは掲示板を咄嗟に見上げた。
審議が入っているのか1着は今だに点灯していなかった。
「おめでとう。いやあ早かったねえ」
「まだ確定はしていない……」
「いやあれは決まりだよ。確かに君の方が出ていたさ」
ミスターシービーの声が湧き上がった歓声に掻き消えた。
着順が掲示板に表示されていた。