「海外、と言いましても地域ごとにその特性は異なります。ですが、ミス・シンボリルドルフは欧州レース、それもフランスのレースをほぼメインに走るそうなので欧州の事情について説明しましょう」
早速新たなチームでトレーニングを始めることになったルドルフだったが、体を動かすよりも先に必要な講義があると合田トレーナーは言った。
シリウスには必要なトレーニングを予め伝えていたためアルデバランの部屋にいるのは合田トレーナーとルドルフの2人だけだった。
「まず芝と行きたいところですがコース設計の話からの方がとっつき易いでしょう」
「まず日本のレース場と違いヨーロッパのレース場は高低差とコース場の起伏が多く、そして激しいというのが最大の特徴です。
このためコース適正はむしろ重場、坂路に強い方に依ります。日本のレース場では殆ど見ない特性です」
こうなった原因はいくつかありますが、最大の理由は土木工事の技術の問題です。
「欧州レース場は大抵が200年程前に建設されています。その時の土木技術では平らに慣らしたりというのは難しいのでしょう。ロンシャンレース場などはコースに手を全く加えていない自然そのままと言われていますし」
逆に後になって建設された日本やドバイ、アメリカは軽めで、高低差もさほど無い。日本ダービーが開催される東京レース場の2400mなどロンシャンに比べて高低差は半分も無いくらいです。
「しかしコースの起伏や坂だけでなく芝の種類も影響すると思うが……」
実際起伏などは日本のレース場にも無数にある。
「おっしゃる通り。欧州と日本……というより温暖な地域と寒冷な地域の差でもあります」
例えば凱旋門賞の舞台となるロンシャン競馬場の芝は、よく「深い」と表現されます。
これだけ聞くと単純に芝の草丈が長いと勘違いする事も多いですし事実大体の人は勘違いしていますが実はそうではありません。
実は昨秋のロンシャンの草丈は約9センチ。一方、中山レース場や東京レース場などは通年平均で約12~14センチ。目に見えている芝の“長さ”だけを比較すれば、日本の方が深いことになりますよ。
「確かに聞いたことはある」
それではなぜ「深い」と感じるのか?
「理由は目に見えない部分にあります。芝は地面に「地下茎」と呼ばれる茎を張り巡らせて生育する。日本のレース場で主に使用されている野芝は地下茎が太く、がっちりした網目を形成している。一方、欧州の多くのレース場はペレニアルライグラスという種類の洋芝。野芝とは対照的で、糸くずのような地下茎が土が見えないほど密集して草を支えている」
このため野芝は、脚が着地するとはね返すような性質がある。一方の洋芝は着地した脚が沈み込むような感触。その状態から引き抜く際に、細かい地下茎が靴底の蹄鉄に絡み付く。
それが芝が重いと言われる理由だった。実際欧州から日本にやってくると逆に場が固く脚に響いて痛いとまで言われる。
「とは言っても実のところこの芝の分類もかなり乱暴なもので、欧州でもスペインやイタリアなど南の方は野芝に近い品種で場も日本のそれに近い場合もあります。簡単に分類すれば野芝は暖地型で洋芝は寒地型。日本でも寒冷地の札幌、函館は洋芝の品種に近いですよ」
「北海道の芝は人が歩いた感触はロンシャンと変わらない。実際には洋芝の中でも高温に強い、地下茎が太いといった特長を持つ種類を混合して、コース全体を管理。四季のある気候に適応するよう配合や品種改良をしているため全く同質ではありませんけれどね」
芝の触り心地だけは洋芝、だが踏み込めば野芝。それが北海道のレース場だった。最も更に北の豊原に行けば完全に洋芝のレース場がある。しかし1月から3月までは雪に閉ざされた雪原レース場となる。
「さらには路盤の違いも考慮しないといけません。建造された時期もありますが日本特有の気候故に水はけを重視して地下に砕石を敷き詰め、人工的に整地した日本のレース場。もとからあった自然の土壌を生かしたコースがほとんどで保水性が高く地形に即した起伏も存在する、路盤の硬度が日本よりも低い欧州レース場。これも深く沈み込む要因です」
単純に芝が重いという認識でレースをすれば確実に負けますよ。
感情の殆どない無表情な顔がルドルフを見つめていた。
海外の場への適性を上げるトレーニングと言ってもまずは本人のポテンシャルを確認しなければならない。その為講義の後のトレーニングはまずルドルフの状態の確認からだった。
粗方の確認を終えた合田だったが、何かの違和感を覚えていた。
「ところでミス・シンボリルドルフ、貴女は右回り左回りどちらが得意ですか?」
「タイムで言えば右回りが得意だ」
もっと正確に言えば右コーナーが特段得意というわけではない。ルドルフの体の軸と利き足の二つの要因によって少しづつ形成されていった癖だった。
「なるほどシリウスとは真反対と……では調整に入る前に一度蹄鉄見せてください」
「蹄鉄?」
蹄鉄はリギルでは専門の人がトレーナーくらいしかいない為あまり弄ってはいなかった。
精々専門の店で打ち付けてもらうかレース前に検査を兼ねてレース場職員に取り付けてもらうのが常だった。
「やはり、蹄鉄が歪んでいますね……前回交換したのはいつですか?」
「一ヶ月半前だ」
「時期としてはそう長いわけではない…それでもここまで歪んでいるとなると力の掛かり方ですね。レース用はオーダーメイドですか?」
「いや、タイワのレース仕様だが」
レース用蹄鉄は通常の蹄鉄より軽量かつ強度が求められる。それでもトウショウトドロキやシンボリルドルフのようなハイパワーなウマ娘の場合一戦保つか保たないかの瀬戸際なのだ。
「ならばオーダーメイドにするべきでしょう。特に左脚の蹄鉄は念入りに調整しないといけませんね」
ついでに素材や強度など全てにおいて専用品にする必要があると合田は伝えた。
「そこまでか?」
「力をうまく伝えきれないのでは意味がないですからね」
それから2週間は本格的な調整をする事となった。
主に脚の使い方、そして右回り左回りの得意不得意の矯正だった。更に使用するシューズ、蹄鉄の調整も合間に入る。
場所も整備されたコースではなく、あえて欧州のそれに近い未整備の専用コースでする事になった。
合田瑠璃のトレーニングは原則として走り方の修正と体幹の矯正が主だったものだった。
その手法も東条ハナと似ているものであり管理型に近いものだった。だがどちらかと言うと彼女は演出型のトレーナーでありその実力は担当ウマ娘の宣伝やパフォーマンス方法、そして理想を演じさせる事にある。
シンボリルドルフが獅子王ではなく内心として、理想の体現者としての姿を望んでいるのは数日で彼女の知るところとなる。
そこでルドルフには追加で皇帝としての役を演じさせるレッスンも組み込んでいた。
ようやく満足いく結果が出たのか合田瑠璃はトレーニングをしていた2人に調整終了を告げた。
「2人ともよくがんばりました」
「……」
合田瑠璃の言葉に夜鷹が虫に激突されたような表情をする2人。
「なんですかその顔は?」
「あんたが素直に褒めるなんて事あったんだなって」
「短い期間ですが人を褒めるときはかなり遠回しに言うものだと思っていました」
実際に合田の言葉遣いは総じて迂遠。2人からすればよくもまあ咄嗟にそこまで遠回りな言葉ばかりポンポン出てくるものだと言う感想しかない。
それが合田瑠璃が生きてきた中で培ってきたものであるがある意味彼女の言わんとする事が伝わる人と言うのは頭が回る人という証明にもなる。
だから指摘されても彼女は迂遠な言い回しを止めるつもりはなかった。
「色々言いたいですが後にしましょう。2人とも基礎的な調整は終了です。後は各レースに合わせての微調整をしますので現地に行ってからにしましょう」
それは日本を出て2人が海外に向かうという事を示唆していた。
「いよいよフランスか」
「私はイギリスなんだが大丈夫か?トレーナーは1人しかいねえだろ」
だがものの見事に2人の行き先は異なるものだった。
「ミス・シンボリルドルフのレースはまだ時間があります。なので先にシリウスのレースの調整から行いましょう」
航空機の手配はこちらでします。今日はクールダウンをして解散にしましょう。
そう言って合田瑠璃はどこかへ電話をかけるのだった。
シリウスにとってシンボリルドルフは本家のボンボン。それでいて女神の祝福を受けた存在。最もシリウスが嫌いで嫌悪する相手でもあった。
だがそれだけならシリウスはルドルフの事など軽蔑するだけだった。そうではないのは彼女が人格者であり同時に勝利に貪欲なライバルとして相応しいと認めることが出来る性格をしていたからだった。
故にシリウスは嫌悪感こそあれど軽蔑するようなことは無かった。
アルデバランに入る前のそれは不良ウマ娘を取りまとめていた頃から変わらない。
「そういや皇帝様よ、あんたの大事な大事なお友達はどこにいるんだ?」
アルデバランにルドルフがやってくるのは正直常に顔を合わせる事になるため最初こそ不快感があったものの、今となっては軽口を叩けるほどには慣れていた。
そのためかその日に限ってシリウスはあえて避けていた話題を出してしまった。
最もシリウス自身もトウショウトドロキを学園でめっきり見なくなった事に不信感を覚えていた。
ただ海外遠征中は基本イギリスにいた前科があるため今回も海外にいるのではないかとシリウスは考えていたようだった。
だがルドルフの口から飛び出した言葉は予想に反するものだった。
「聞いたところどうやら……」
笠松にいるらしい。
「はい?なんで地方トレセンにいるんだ?」
「詳しいことは不明だ。タケホープサブトレーナーが付き添っているらしいからトレーニングの関係だと思われるが……」
詳細がわからない上にまるで避けられているかのような状況にルドルフと言えど凹んでいた。
「こりゃますます避けられているんじゃないのか?面白えなあ」