カサマツトレセン
岐阜県にある地方トレセン学園の一つであり、カナザワトレセンとは地方トレセンとして姉妹学園協定を結んでいる。
最もカナザワトレセン学園と違うところは。笠松レース場と学園が一体化しており地方レースを学園の母体組織、URA中部日本が学園ごと運営している点にある。
全国どこを見てもこれはカサマツのみの試みであり学園運営資金をレース売上金で補填する経営上の合理化政策の一端でもあった。
そのカサマツトレセン学園には、ある時期から見慣れない少女が出入りしているとの噂があった。
白毛で、眼帯をしたウマ娘。それに該当するのは現状1人しかない。イギリスG1を悉く蹂躙し英愛ダブルダービー、更にジャパンカップと有馬記念まで掻っ攫って行った理外の怪物。
もはや公然の秘密となったトウショウトドロキの訪問はかれこれ2週間に及んでいた。
そんな彼女はカサマツトレセンの端っこにある古い練習用コースに入り浸っていた。
本来カサマツトレセンの学生しか学園の設備は使用できないが、申請をして学園生がいない合間であれば部外や他校であっても使用は可能だ。
現実問題としてカサマツ生徒が常に設備のほとんどと使っているから申請しても使用ができないというだけ。古い練習用コースは基本誰も使わないのがこの場合は吉と出た。
「欧州…特にフランスのレース場は大体コースに手をほとんど入れていない。それに近いコースを保有しているのは中央だとチーム固有のコース。実は一般的に使用可能なのだとカサマツのこのコースだけなんだ」
初めてその練習場に来たトドロキは、疑問に思っていたがタケホープの言葉に一応は納得していた。
「随分とぐちゃぐちゃだが本当にこれでフランスのレース場と同じなのか?」
「水捌けが悪くて常に重場くらいな感じが丁度いいのさ」
実際に走ってみれば確かにロンシャンを走った時の感覚が思い起こされたトドロキだった。
重い場に慣らした方が良いというのはタケホープの現役時代からの持論のようなものだった。
軽い場になった時にはそれはそれで調整は必要だが重い場よりも即席での修正が効きやすい。それに重い場ならスタミナの鍛え上げが坂路並みになる。ただし坂路の方が脚への負荷が少ない。
だが坂路の欠点として平地での走りに変な癖がつきやすい傾向にあった。特にトドロキは変幻自在に走りを変える故に癖すらも吸収しかねない。
だからより実践に近い重場トレーニングの方が相性が良いのだった。
「これでフランスに何処まで対処できるか……それにしてもトドロキ……なんだか心ここのあらずだけど平気かな……」
ルドルフと何かあったというのは以前から聞いていたタケホープだったが、それがいまだにメンタルに影響を及ぼしているとまでは想定外だった。
それでもベストタイムを更新し続けるのだからやはりフィジカルはとんでもなく強いのがトウショウトドロキというウマ娘だった。
既に三本目の走りを終えてクールダウンのランニングに入ったトドロキを見つめている影がある事に気がついた。
「む……」
まだデビューした様子はない。デビュー前のウマ娘だろう。葦毛の長い髪を無造作に伸ばしている。何処か体操服やシューズがくたびれた様子なのを見てタケホープは練習帰りの子なのかなと思った。
「そこの葦毛の子!見学かな」
「そうだ。ここのコースが使われているのは初めて見たからな」
確かにそのコースは長い合間放置されていた場所だ。使う前に芝刈り機を入れたがそれでもコースのやつれ具合は相当なものだった。
そんなところをずっとトレーニングに使っていれば流石に興味本位で観にくる生徒も出るだろう。そう、タケホープは納得した。
「ほほう、ということはここの生徒かな」
体操服と制服は学園ごと指定だが、予算の関係もあり基本的にはURAの運営する学園は地方中央関係なく何処のトレセンも同じものを使用している。その為他校から来ている場合見分けがつかないのだよ
「そうだが……」
まだ幼さが残る顔つきながら、その瞳には確かに炎の揺らぎがあった。
どうやらトドロキの走りを見て本能が刺激されている様子だった。
「見たところまだ本格化は迎えていないけど……これは良い、君は間違いなく成功するよ」
タケホープの見立ては間違っていなかった。それでも世間では葦毛は活躍する事がほとんど出来ない。というジンクスを皮肉って葦毛は走らないなどと言われている状態だった。
それならば白毛などはもっと走らないが白毛のウマ娘自体がごく稀少であり挙句レース界に身を投じているのは歴代で数えても五本の指匂い入るくらいしかいない。
そもそも居ないのだから皮肉もジンクスも無いのだった。
「そうだろうか?」
「うん、地方でも中央でも活躍できる。私が太鼓判を押しておくよ」
フリーだったら少なくともタケホープがスカウトしていたくらいだ。それだけのポテンシャルが彼女にはあった。
「ところで貴女達はここで何をしているんだ?」
「ああ……フランスに行くからその調整をね」
「フランス?凱旋門というやつか?」
フランスという言葉に葦毛のウマ娘は首を傾げた。元よりフランスのレースをほとんど知らなかったからなのだが。
「それもあるけど他にも色々とね」
「海外か……凄いな」
純粋な感動だけがそこにあった。海外のレースは彼女にとっては遥か向こうの事。そこで走るなど想像もしていなかったのだろう。
「君も海外に興味はないかい?私は国内の方が好きだけど」
無論海外に出るということはその分難易度も超えなければならない実力も壁も桁違いに高くなるが、挑む決心さえあれば後はなんとかなるとタケホープは思っていた。
「私は……まだ決めていない。もう少し考えてからにするよ」
「その方が良い。この場で急に色々決めちゃうのは良くないからね。でもあの子の走りはぜひ見ていってよ」
参考になるかどうかは不明だったが、トウショウトドロキの走る姿勢や足の運び方、息継ぎ、軸のブレの無さは一級品に近い。
走りが早いウマ娘はその姿勢や体軸のブレの無さに共通点がある。要は上下左右に無駄に揺れたりリズムの乱れがないのだ。
その辺りが葦毛のウマ娘の参考になるかどうかは未知数だった。
だがタケホープには必ずこの子も大きく化けるという確証があった。だからあえて名前を聞くことはしなかった。
少なくとも今はまだトウショウトドロキの方が最優先だ。
今年のガネー賞は、4月の28日に行われる。例年よりやや早い日付になっている。現地で慣らすために3月の終わりにはフランスに飛ぶことになっていた。
雪のない最適なコースをいつまで使えるかどうかも分からない中ではタケホープも気を緩めるわけにはいかなかった。
沖野はメジロラモーヌのデビュー前の調整につきっきりになってしまったから尚更だった。
だからその葦毛のウマ娘がその後どうなるか。それを知るのはその少女が中央に移籍して様々な人の記憶に焼き付く存在になってからだった。
フランスは日本と違い国土が四角に近い。南北に細長い日本と大きく違うところだが、その国土にも関わらず日本と同じでパリに人口が集中しやすい傾向にあった。
特にレースが開催される日にはそれ相応の人々が各国から観戦に来る。
フランス版URAとも言えるレース統括機関であるフランスギャロが行う、ヨーロッパのシーズン最初のG1レース。それがガネー賞である。
例年パリロンシャン競馬場の芝2100mで施行するシニア級G1であると同時にヨーロッパ全体のG1で最も最初に行われるだけあってレース前の2、3日からパリ全体は一種のお祭り状態になる。
ヨーロッパ各国から集まった観光客と観光客を呼び込もうとする各種業界の動きを合わせて経済効果は毎年数億ユーロにも及ぶ。
そんな街の中でもレース関係者が押さえておくホテルがいくつか存在する。そのうちの一つにURAが抑えた部屋があった。
トウショウトドロキはその部屋にいた。
なお隣の部屋はシンボリルドルフだった。
トドロキはフランスに来て調整を開始した1週間後にルドルフまでもがフランスにいることに大泣きした。
ルドルフと勝負して彼女の悔しい顔を見るのが嫌だからとフランスに来たにも関わらず何故かフランスにルドルフがいるのだからそれもそうだった。
本来ならトドロキよりも一ヶ月先に欧州にいたルドルフだったが、シリウスのイギリスでのレースなどもあってフランスに来るのが遅れていたのだった。
そうしてトドロキは絶賛フランスまで来て持ち直していた調子が一瞬で崩れ去り絶不調になっていたのだった。
それでもタケホープと合田トレーナーの計らいで2人がばったり出会したりしないよう時間を調整することでなんとかトドロキのメンタルも回復していたのだった。
「トドロキ、ルドルフも同じレースに被せてくるらしいから……覚悟しておいてね」
「契約者よ!それは悪魔が囁く地獄の言葉だぞ!」
「仕方がないでしょう。ルドルフだって負けっぱなしは嫌なんだろうからさ。それに今まで通りに勝てば良いんだよ。ね?」
ね?と言われてもとトドロキも内心で独言を溜め込むも、ガネー賞はもう出走をやめますとは言えなかった。
トドロキにとって走ることは、すでに自らの本来の夢だけでなく誰かの希望にもなり、誰かが喜ぶものでもあった。
その事に気づかないトドロキではないし何よりもここで出走を取り消せば今まで勝利を積み重ねる上で潰してきたであろう敗者達に顔向が出来なかった。勝者は常に勝者であれ。
誰かと友達になる事ができず、自らを演じて人格をも弄ろうとして歪んだトウショウトドロキというウマ娘のある種の脅迫概念のようなものでもあったのだ。
「後……いつまでも逃げ続けるなんて出来ないからね。戦っていくしかないんだよ。逃げ場なんて何処にもないんだから」
それはタケホープがヒール役として、その道を歩んだ時からの信念でもあった。
「り、理解している……」
トドロキは既に逃げ場を無くしていたのだった。