ガネー賞に勝利したもののいつまでも勝利の余韻に浸っている訳にもいかない。
トウショウトドロキのレースメイクは普段使わない奇策に近い動きだったが、やはり最終的にルドルフはやってきた。
最後の最後、ほんのわずかにトドロキが先行できただけだった。
「いくら洋芝で慣れていないとはいえ……あそこまで迫るか」
こちらはロンシャンレース場は2回目。地の利はあったのにも関わらずだ。
タイムだってベストタイムを更新している。
やはり皇帝。甘くはない……
或いはトドロキの方にも問題があったか。いや、コンディションは整えた。だとすれば……やはり不調の原因はメンタルか。
そこまで酷いわけではないのだろう。だが無意識のうちに何かが引っ掛かっている。そんな感じがした。
ならばそれを解消する手助けをするのもトレーナーの仕事。
「ねえトドロキ、ちょっと散歩しない?」
ガネー賞の次の日は冷却と脚の休養も兼ねてトレーニングはお休みにしている。だけれどトドロキは1人でどこかに出かけるタイプではないからこうして話すタイミングは幾らでもある。
「フ、フランスで散歩するというのも悪くはない!」
ならば話は早い。なるべく目立たないような服装を選んで来るように言ってから身支度をする。
少しして小部屋から出てきたトドロキと共にセーヌ川の方に向かって歩き出した。
知名度ほどセーヌ川は綺麗なものではない。都市部を流れる川は大体どの国も変わらないけれどドブ川に近い。それでも異国の景色だからなのか気持ちは紛れる。
「我は……どうしたら良いのだ」
川沿いを歩き出して30分。ずっと無言だったトドロキが口を開いた。
トドロキにとってシンボリルドルフは夢への賛同者で、そしてトドロキの背中を押してくれた恩師でもある。
そんな彼女が自らの行いで涙を流す結果になった。それにひどく落ち込んでいた。ルドルフにも考えがあったのだろう。悔しい気持ちがあったのだろう。そう考えたら誰が悪いとかそういう話でもない。
「ヤマアラシのジレンマみたいなものかな」
全員の歯車が噛み合わなかっただけ。けれどそれでこのままズルズルと引きずり続けるのも良くはない。
「……そう、なのかな……」
「だけどレースで手を抜くなんてことは出来ない。ねえ、トドロキにとってルドルフってそんなに心が弱いの?」
トドロキはその言葉で目に光が灯った。他人のために怒ることができる。それくらい優しい子なんだよね。レースに向かないくらい優しすぎるだけで。
「そんなはずはない!盟友は鋼鉄の心を持ちどのような逆境でも乗り越えていくのだ!」
「ならトドロキも乗り越えていくんじゃないかな?」
「それはそうだけど……だがそれと嫌われるのは……」
なんでそこでトーンダウンするんだろうねえ。でもそれがトドロキのが可愛いところだろう。
「ルドルフはそんな事じゃ嫌ったりしないと思うよ。むしろライバルだって思って気にいるんじゃないかな?」
まあ兎に角としてルドルフと話をつけるにはイスパーン賞だ。
そこでどちらが勝つにしても……話をさせないといけないな。だとするとあの合田トレーナーにも話をつけないといけないなあ。あのトレーナー苦手なんだよなあ。
ただまあ悪いやつではないからなあ……
イスパーン賞は1897年の7月にパリを訪問したイラン皇帝ナーセロッディーン・シャーを歓待するために特別に開催が行われたレースが基礎となっていると言われている。
言われていると不確定なのは第一次、第二次大戦を挟んだ結果多くの資料が戦火に消え、またレースの開催も出来なかった事からフランスのレース史に数年の穴が空いているためだ。
1897年のレースは3000m級と長距離なのに対し現在行われているイスパーン賞は1850mと約半分の距離になる。
トドロキには問題のない距離なのだが、今のトドロキは2000m級がシニア級では多いからと調整距離が2000から2400の合間に来るようにしていた。
前回のレースから一ヶ月開くとしてもやはり懸念は残る。
それでももう本番はすぐだから今からどうすることは出来ない。それ以外でできることを全力でやるしかなかった。
「は、残念な顔の方があんたにはお似合いだ」
帰ってきたあいつはしょげかえっているかと思っていたがそういうわけでもないようだった。
「……言い訳はしない。次は勝つ」
ただ一言。その瞳には次のレースへの獰猛な獣が潜んでいた。
それは学園に入る直前の獅子の姿そのものだった。私が昔に憧れたその姿そのものだった。
本家と分家という境はあったが、それでも私は親父に連れられて本家に入り浸っていた。丁度よく個人所有のトレーニングコースもあったため私も嫌じゃなかった。
シンボリルドルフが練習を見にきては楽しそうに私を蹂躙するところ以外は。
悪気があったわけじゃないのだろう。というかあれは完全の才能の差だった。
フィジカルモンスター睨みつけたらボコボコにされた結果プライドは傷ついた。だがそれよりもその走りに惹かれたのも事実だった。
だから昔からあいつが走ることを疎む集団が気に食わなかった。まあそのことに気づいたのも結構最近だったが。
だがあいつはいつしかその獅子としての牙が丸くなっていった。まるで世間の疎みに自らを合わせていくかのような感じがした。それが許せなかったしそんなことをするあいつ自身も嫌いになりそうだった。
やはり皇帝様なんかあいつには似合わない。あいつには獅子として暴れている姿の方が良い。
世間も、ルドルフのやつも皇帝である事に拘る。そんなお行儀の良い姿が好みか?挑戦者を受け止めて叩き潰す意地の悪い姿が好きか?
バカ言え、ルドルフの凄さは私が1番知っている。あいつは皇帝の立場に収めていいやつじゃない。
あいつはそんなところに収めていい存在じゃない。だが昔からあいつはいけすかない。いつも誰かが作り出した幻想を自分が体現するように枠に収まろうとする。それが嫌いだった。
だからあいつを怪物たらしめてくれる唯一の存在。トウショウトドロキにどこか嫉妬する。
その位置には私が、私が居たい。私の場所だ。
だが同時に今の実力じゃそこに手が届かないというのも事実だった。
それが悔しくもあって、心の底でモヤモヤする。だがルドルフに相応しい姿を引き出せるのがあいつしか居ないなら今はあいつに全てをベットする。
「だがな、トドロキ……いつかその場所は私がもらうぜ」
さあ私のレースが始まる。手始めにイギリスのダービーだ。
今はせいぜいそこで足掻いているがいいさトウショウトドロキ。いつか私はあんたもルドルフも超える。
「……どうしたシリウス?」
「いや、今のあんたの顔が最高に好きだからだよ」
獲物を狙う狩人の目。いつかその瞳のあんたと勝負したい。それは紛れもない私の本心だった。
ああついに来てしまった。
一度だけ。そのつもりで全力を尽くしてレースしたというのに、心が晴れたというのにやはり私はあの子とまたレースしたいと思ってしまった。
薄々気が付いてはいた。結局言い訳や目的なんかどうでもよくて私にはトドロキと全てを賭けて勝負するという手段が欲しかった事。
だから結局……これで脚が壊れようとも良い。そう思って走ることにした。
ああ、レース生活がトドロキに始まってトドロキに終わってしまうなこれは……だけれど悪い気はしない。
もう前回のような大逃げは使えない。だけれど、私の走りは大逃げなんかじゃない。さあ、最後の勝負よ。私は全てを賭ける。貴女は、何を賭けて走るのかしら?
皇帝にばかり目を向けているならその顔はこちらに向けさせてあげる。
イスパーン賞……その出走登録はギリギリになった。
それほど私は悩んでいたからだった。黒沢トレーナーにはなんとお礼を言ったら良いのやらだ。
本来なら私は国内に専念するはずだった。けれどトドロキが海外にまた行くと言い出して、国内レースで彼女と戦えなくなるのがどうしても嫌になってしまったのだった。
全てを賭けて、それで負けたにも関わらず未練がまだまだタラタラトウショウトドロキ心を支配していたようだった。
ロンシャンの芝に脚を下ろした時から私は女々しいのだろうという実感が湧いてきていた。
周りを見渡せば殆どがフランスのウマ娘。
その中で日本のウマ娘は私含めて3人。んー……多くない?普通いても1人くらいでしょ。
なんで海外のレースに3人も同じ国の子が混ざるのよ。実質日仏交流戦になってるじゃない。
だけれどそれを望んだのは私だから何もいえない。
ああ結局私はあの子の呪縛から逃れることはできないのだ。私はあの子に勝たなければ前に進めない。
勝ったとして脚が保つかどうかも分からない。だけれどこうして闘いたいという闘争本能が抑えきれなくて、トレーナーに無理を通してここに立っている。
調整期間もそんなにあったわけじゃない。ロンシャンの芝だって最近少し走って感覚を体感したくらいだ。
それでいて前に使った一世一代の戦法はもう見せてしまったから使えない。
ああこんなにも不利な状態だったなんて……だけれどそれでも私は負けられないのだ。
負けたくないのだ。
パドックでの印象はトドロキもルドルフさんも調子良さそうだった。
私はどうなのだろう?客観的に自分自身を見つめることはできないからどういう状態なのかは分からない。
黒沢トレーナーは私を送り出す時に良い調子だと言って送り出してくれた。
ならばきっと私は好調なのだろう。
ああもうすぐレースが始まる。パドックからコースに戻ったらゲートがそこには用意されていた。
ロンシャンのレースは2400m級が有名だけれど今回は1850m。
短いけれどだからといって高低差が緩くなるわけでもない。
ゲートに入って仕掛けるポイントを思い出しながら、一体どれだけこのレースが荒れるのか、それに巻き込まれないようにするにはどうするか。
結局はいつものようにトドロキ対策を考えてしまうのだった。
ガタリと音がして、ゲートが開いた。