ま……負けた……
レース場を包む怒号と歓声は、そのほとんどが私ではなくスズマッハに向いていた。負けたのはいつぶりだろうか。初めてのG1の時以降だ。
だけど悔しいと言うか、モヤっとする嫉妬のような感覚じゃなくて、何故だか私の心には安堵の気持ちが広がっていた。勿論悔しさだってあるけれど、それを塗り替えていくように、気持ちがどこか落ち着いていく感じがした。
それはきっと、スズマッハさんが勝ったことに対するもの。彼女が勝ったことにどうして私が安堵しているのか、少し嬉しいような気持ちになるのか……
嗚呼きっと私は……
控え室に戻る途中に契約者がいた。
走り終えた我を静かに迎えにきてくれた彼女は、黙って我を控え室に案内して行った。
汗を拭うためのタオルを頭に乗せられた。垂れたタオルで周りから表情は見えなくなる。
「本当に我は……勝負に向かない」
強者なら強者であれ……上に立つのであれば敗者は必ず生まれるし勝者はその上にいないといけない。
それは孤独だった。その事にようやく気がつけた気がした。だけれどわざと負けたり今更やめようだなんてできるはずもない。ここに上がったのは我の意思だからだ。
ああ、本当におめでとうスズマッハさん。
ルドルフのように相手を笑顔で送り出すこともまたむずかしい。それでもこの祝福の心だけは本物だった。
あれ?どうして頬を涙が流れているのだろう。どうして我はこれだけしか泣けないのだろう。
「……思ったより落ち込んでないんだね」
前の我なら落ち込んでいた。だけれど、なんでだろうね?まだ一年くらいしか経っていないのにこんなに負けて安堵するなんてことができるようになってしまうなんて……
「まあ、彼女が脚を犠牲にしてまで走ったんだ。気持ちで負けたんだろうね」
「問題ない。むしろあれだけされて我が勝っていたら……」
その時は本当に我の心が保たなかっただろう。
「蹄鉄はオーダーメイド仕様に今度からしないともうダメだ」
市販のレース用のモデルでは自ずと限界が来る。前からそう言われていたけれどここになってそれが顕著化するとは……いや逆にこれのおかげで我の心は救われたのかもしれない。
ライブに来れるのかどうかわからないほどの怪我をしていたのは心配も心配だ。けれど、きっと彼女なら大丈夫。無自覚にそう思っていた。
流石にライブでは松葉杖をついてほとんど動くことはなかった。
それでもいつもと変わらない。むしろ喜びに満ちている。見たもの誰もが釣られて幸せな気分になれるそう言う笑顔だった。
ところでフランス語で歌うの難しいのだが?
相手に失礼じゃないように発音に気をつけているのだが合っているのかわからない。盟友は……すごく上手だ。
うう、発音の勉強しなおさないといけないかも。
スズマッハさんが一年以上の治療が必要だと知ったのは1週間後だった。怪我の容態が気になって帰国するスズマッハさんを訪ねた時に言われたのだ。
「隠しても心配するだろうから……」
そう言って素直に教えてくれた彼女はトゥインクルのレースに未練が残っているようには見えなかった。その姿が少し小さく、なんだか力がないように見えてしまって思わず我はレースをやめないで欲しいと言ってしまった。
「トドロキはね、私にとっての目標で、それでレース人生賭けてでも勝ちたい相手だったんだ」
そっか、我は人生を大きく狂わせていたのか…ならば我は最後までその責任を果たすべきだ。
「我は未練たらたらだ!夢のレースの舞台で我を待っているがいい!必ず悪魔神は向かうから!」
「あははは!わかった。じゃあ次はそこで……」
我と走った子たちは多くが怪我で引退したり休養に入ってしまう。
だから……スズマッハさんだけは、まだ夢を見ていてほしいん夢を与えられる存在であってほしい。
我儘かもしれないけれど勝者なのだ。傲慢でなければならないのだ……
彼女を乗せた飛行機が飛んでいくのを見送って、我は次のレースに向けて気持ちを切り替える事にした。
でもやっぱりルドルフはどう思っているのかなって気になって仕方がない。
だけれどそれを直接聞く勇気もない。
「た、タクシー……」
取り敢えず個人タクシーっぽいけどこれでホテルに戻らないと……
「やあお客さんどちらまで?」
「こ…この住所に」
なんかタクシーにしてはスイッチ多くないかな?それになんだか少し屋根が低いような気もする。
「ああ、こりゃかなり遠いけどお嬢さん大丈夫かい?」
気さくな運転手だった。だけれど、返せた言葉は多くない。むしろ頷いて終わってしまった。
「ウマ娘のお嬢さんは初めて乗せるけど、しっかりシートベルトして」
なんか妙にガタガタ揺れているような……それにハンドル交換してる?な、なんだか変なのに乗っちゃってのかな……
エンジンの音もなんだかセダン車にしては高回転大出力のような……
それから先の記憶はあんまり覚えていない。だけれど想定していたのよりもよっぽど早い時間でホテル前に到着していた。
「次のレースだけど、ルドルフの方はサンクルー大賞に出るらしい」
どこかに出かけていた契約者が戻ってきたら我に真っ先に伝えたのは盟友の次の出走情報だった。
不思議だなあ、ルドルフさんから逃げるつもりでここに来たのに、気がつけばルドルフさんを追いかけてレースに出ようとしているなんて……
「サンクルー大賞?」
会場となるサンクルーレース場の名前から取られたG1レースだったはず。
レース場はロンシャンレース場とセーヌ川を挟んだ対岸に作られたレース場だ。
小高い丘の上に建てられていてパリを眺望できる景色のいい場所だ。
レースは左回り2400m。
元々は共和国大統領賞として1904年に創設され、1941年から現在の競走名に変更されたレースだ。
開催からしばらくはメゾンラフィットレース場において2500メートル競走として行われていたが1919年よりサンクルーレース場での開催に切り替わっている。コロコロと色々なことが変わっていった変化するレースとも当時は言われていたらしい。
「強硬な日程にも見えるが……」
そんなルドルフさんは前もジャパンカップに強行軍をやっている。
なにせレースまで2週間しかない。かなりきついスケジュールになる。でもルドルフさんが出来るのなら私にも……だって私はもう逃げないから!
「無理させたくないけど……トドロキは走る?」
契約者は脚の心配をしているのだろう。確かに我の脚は前のレースでかなり負担をかけた。本来なら一ヶ月は間を空けたいところだ。それは素人の我にもわかる。
「我は……走る」
「わかった。ルドルフとうまく行く事を祈っているよ」
「契約者は祈るのではなく実現へのレースを引くのではないかな」
ついでに勝ち負けを見るのではないのだろうか……
「これは一本取られた。でも勝ち負けで言えば勝ってほしいよ。負けるのは悔しいからね。でもそれ以上に走るからには本人が納得できる走りをして欲しいんだ」
あえて私はサンクルー大賞に出走することをタケホープサブトレーナーに知らせた。トドロキはきっとやってくる。相応思いがあったからだ。
1日後に結果は合田トレーナーの口から聞くことになった。
「案の定被せてきました」
合田トレーナーには何も言わなかったけれど口ぶりからして私が伝えたというのはバレているようだ。隠し事はこの人には出来そうにない。
「わかりきっていた事だ。彼女はもう逃げない……」
「そうミス・ルドルフ。貴女は皇帝であるという事を望んでいますが,むしろ貴女は獅子王の方が相応しいと思います」
「いや,私には皇帝の方がいい。これからのことも考えれば……」
「なるほど、では予定通り皇帝として彼女を迎え撃つプランを提示しましょう」
シリウスはきっとそれを気に入らないかもしれないな。彼女は獅子として暴れる方が好きなようだし私にもそれを求める。いや、私もシンボリ家の血が流れている。だから獅子なのだ。それに私も闘志をむき出しにしている方が楽だ。だがそれではダメなのだ。人を導く立場に何れなるのであればそれに相応しい役を演じなければならない。それは今からでないと間に合わない。
だから、たとえ獅子としての私がいなくなっても構わない。
「だが皇帝だからと言って彼女に不甲斐ない走りを見せるわけにはいかないな」
そうだ。皇帝だろうと獅子だろうと私は私だ。全力で彼女を迎え撃つとしよう。不甲斐ない走りをしたお詫びだ。そうでなければ私は彼女と対等には話せない。
サンクルー大賞は久しぶりの2400m。そして私も彼女も走ったことがない新たな戦場だ。彼女にとっても仕切り直しで私にとっても初めてのコース。
だからこそサシで対等に勝負ができる。そう思っての事だった。
例年なら12人は出走するレースだったけれど、その時のレース出走者は8人だけ。どうやら私とルドルフが走るからと出走を回避する動きが目立ったらしい。
マルゼンスキーの時のレースのようだ。だが相手を非難することも怒ることもできない。
出走回避というのも一つの戦略なのだ。
パドックに上がる前のトドロキを通路で偶然見かけた。
「やあトドロキ、こうして直接話すのは久しぶりかな」
「る……ルドルフ」
咄嗟に頭を下げようとするトドロキを制する。何も謝るようなことは彼女は何もしていない。
「謝らないでくれ。君との勝負で君の理想足り得る姿を見せられていないのは事実だ。体調が優れなかったとか、そういう言い訳はいくらでもある。けれどそれは言い訳に過ぎない」
一度言葉を区切れば彼女は少し俯いていた。
「だから、今度は私が君の理想を体現しよう。見ていてくれ」
「あ……うん……」
トドロキは逃げるように踵を返してパドックに向かっていった。
どこか焦燥に駆られているようなそんな感じがした。
しかし彼女は行ってしまった。そしてレースはもうすぐ始まる。
パドックでの彼女の様子はわからない。
だがいずれにしても私は理想と体現者として、レースに君臨するだけだ。