釈然といかないのは私の感覚に過ぎない。外から見れば勝ちは勝ちなのだ。そう思わされたのは合田トレーナーがいる控え室に戻ってきた時だった。
「優勝おめでとうございます。ミス・シンボリルドルフ」
ただ一言。トレーナーはそれだけ言って勝利を喜んでいた。
この人は表情が表に出ないだけで喜びや悲しみの感情は人一倍ある。
素直な褒め言葉がその証だった。
「ありがとう。トレーナー」
だから、この胸に残るモヤモヤとした感情を表に出すわけにはいかなかった。
なるほど、常に仮面をつけ続けるというのはこういう事なのか。
何故だか歓声が、怒号がどこか虚しく感じる。私自身に向けられたものではないような気分にさせられた。
そんなレースから少し経って、半分拠点にしていたホテルでは次のレースや方針をどうするかを聞ける会議を開いていた。
「次走の件ですが二つ候補があります。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスとロートシルト賞です」
イギリスで行われるレース、フランスで行われるレース。より知名度と歴史と栄誉が大きいと言えるのは残念ながらイギリスの方だろう。それは紛れもない事実だった。
「ふむ、その二つか……」
フランスをこのまま制覇するか、イギリスの栄誉を選ぶか。私はトドロキを追いかけてきてはいるが、それでもチームの意向。そしてここで走る意味を彼女だけに頼っているわけではない。
皇帝として振る舞い続けるのであればイギリスのレースだろう。反面イギリスのレース場は走ったことがない。不確定要素が大きい。
「一言言っておくと私はアイリッシュダービーだ」
横で聞き耳を立てていたシリウスが後押しをした。
アイルランドで行われるダービーか。ならば彼女のためにも近い場所のほうがいいだろう。
「KGVI&QESだ」
久しぶりにイギリスの地を踏んだ。
アスコットレース場。
コースは芝のみのレース場で、メインのトラックは1周約2800mの三角形の右回り、最後の直線は約500mある。ほかに、三角形の下の方に繋がるように1600mの直線コースと障害競走が行われるコースがある。
コースの高低は、スウィンリーボトムと称される三角形の奥の頂点にあたる最低地点と最高地点で約22mほどの差があり、ロンシャンの高低差よりも有る。だが上下のアップダウンの回数では実は上がったら上がりっぱなしと言った設計のコース設計だ。
「私の個人的見解ですが、このレース場はかなり特殊と言えます。スタミナが求められると思いますが、日本のスタミナやパワーとは、また異質です。近いのは坂路でしょう。実際のレースで坂路トレーニングのあれが入ってくる感じです」
なるほど、的確な例えかもしれない。あれを上がって下がってをレース中にやるとなればそれこそ力の使い方、かけ方が重要になる。挙句洋芝だ。走り慣れた日本と違い脚を元から引っ張る沈む芝。最悪な組み合わせだ。
「まるで壁だな」
そして高低差のあるコース。
合田トレーナーが持つ10インチタブレットに映し出されているコースの三次元図には勾配に合わせて色がつけられている。
見事に真っ赤、急勾配を示している。
「しかし勾配はロンシャンと比べたら緩い方です。最も日本のレース場とは比べ物にはなりませんが……」
合田トレーナーがタブレットを操作すると、コースの上に線が引かれ始めた。
「KGⅥ&QESは2400m級レース。スタートをすると、すぐに長い下り坂が続いて、 そこからカーブを回って次の直線に向くと、ずっと登り坂。最後は500mのロングストレート。ゴールまでも登りとなります」
かなりハードだ。
「設計ミスじゃねえのかこれ?」
「流石にそれはないだろう。大方、平坦ではインパクトが無いと思っていたのではないかな」
起伏がありコーナーがいくつかあるほうが勝負として盛り上がる。そういう考えがあったのだろう。スプリントレースやストリートレースに似た感覚といえば良いのだろうか。
「良い迷惑だ。好きになれないレース場だ」
シリウスは気に入らなかったようだ。無理もない。このような坂ばかりのコースでは脚の寿命が極端にすり減る。
好ましいものではないのは一目瞭然だった。
「ですがここで開催されるからには好き嫌いは言えません。幸いにもアイリッシュダービーの行われるアイルランドと物理的距離はまだ近いのである程度のフィーリング調査をする時間はあります。対策はその結果を見て立てましょう」
「わかったトレーナー」
だが私より先にシリウスのレースの方が優先度は高い。だからそっちに注力してくれ。
「あんたに心配されるほど弱かねえ」
「ああ、シリウスの強さは私が1番わかっている」
「……チッ、ムカつく」
どうしてそう不機嫌になるのか、シリウスは気難しいのだな。
「キングジョージ6世&クイーンズエリザベスステークス……いつ聞いても長いねこのレース名」
アスコットレース場は日本のレース場と変わらないほどの人で溢れていた。
流石G1レースは各国どこに行っても変わらずの人気だ。
しかし同時にその人々の視線はどこか複雑な様子だった。
流石に勝負服を纏わず人類に擬態をしている我の姿を識別するのは難しいだろう。だがその瞳は語っていた。
最有力候補が外国のウマ娘だなんてと……
だからその瞳から逃れるように我は仮面を付け直す。綻びが出ないように。
「KGQEと訳そう!」
このレースに出走しようと思ったのは直感だった。なんとなく盟友もこのレースに出る。そんな確信があった。
「元がなんだかわからないね」
「何れにしても勝負に変わりはない」
そう、変わらない、レースなのだ。勝負なのだ。
例え、イギリスの有力候補が揃って回避してしまっていたからと言って手を抜くなんてのはもっての外だ。
もうすぐレースが始まる。
相変わらずゲートの中は狭い。本能的にこういった場所を嫌うというウマ娘は、しかし我は例外に値するらしい。この狭い空間がどこか落ち着く。
誰もいない、誰も見えない。だからこそ自分を曝け出せる。
でもそれはゲートが開くまでの束の間の感覚でしかない。ゲートが開ばそこはG1という最高峰の戦場だ。
勝つんだ……! 我は悪魔神なのだから! みんなの夢になるのだから!
滑り出しは順調だった。気持ちいいくらいに飛び出せた。飛び出しすぎて、やっぱりいつも通り減速して後ろの方に待機する格好になった。久しぶりに得意なスタートが切れた気がした。
「焦っているなトドロキ……」
ルドルフさんは私よりも一つ前にいた。
その前はイギリスのウマ娘達。案の定私達の進路を塞いで蓋をする形で走っていた。
ただ、蓋をするとしても結局はみんな勝ちたいもの。いつまでも蓋をしたままでいられるわけもないし、綿密に打ち合わせているわけでもない。おそらく今の位置関係は成り行きでそうなっているだけ。一時的共闘はあっても永続的な友好はレースには存在しない。なぜなら勝者は1人だからだ。
レースにおいて連携プレイなど存在しない。個人プレーによる集団行動しかないのだ。
だから付け入る隙はいくらでも産まれる。ルドルフさんも同じことを考えているだろう。既に各人はそれぞれの位置を把握してスパートをかけるまでそのポジションを維持する体制に移っている。
ルドルフさんが少しだけ右に寄った。なら我は左だ。それと前のウマ娘の足音に紛れ込む。気づかれないように接近する。ルドルフさんは私の動きを把握していたようで、あえて私が捉えた子にプレッシャーを与えていた。
そこにトドメとして我が足音を大きく立てる。
弾かれるように目の前の子が飛び出した。ブロックはあっさりと穴が空いた。
ルドルフさんがそこに入り込む。穴を広げる気だった。
入り込んだ挙句少しだけ左右に振れる。
割り込んできたルドルフさんに対して左右の子は、きっとこう思っただろう。
後釜に入ったならきっと盟友も我を潰そうとしている。
今はその流れに乗っておいた方がいい。だから盟友に対しても左右から挟むように、隙間を埋めるようにして近づいていた。
そこにいきなりルドルフさんが左右に振れたのだ。
左右を詰めていたため少し振れただけでも接触しかねない。我も盟友も小柄だが、レースではたとえ小柄であっても大柄であっても接触すれば双方大事になる。
だから必然的に2人は左右に逃れようとした。ただ、右側の子はさらに内側にもう1人いたことを失念していた。内ラチに追いやられたその子は、前に逃げるか後ろに逃げるしかできなかった。それでとった行動は前に逃げる。その分体力を消耗するものの、後ろに逃げれば前を蓋される形になると思ったのだろう。だから我はそれを利用して前に出た。
小柄な我は少なくとも前に逃げた子よりも体の幅には余裕があった。
下りが終わり上りになる。目の前にいたウマ娘が露骨に減速した。だからそれを利用して左に飛び出し回避する。丁度ルドルフさんも前に進み出した。
順位を上げるために少しづつ加速する。それに釣られて周りも加速が始まった。さて、そこまで加速させても自分まで加速していたのなら意味がない。
普通ならそう思う。けれど決定的に違うのはルドルフさんも我もレースを支配している側だということ。その分だけ息の入れ方、体の休ませ方を自由にできる。体力の消耗を抑えることができるのだ。
それは最終直線になった時に真価を発揮する。
逃げでずっと先頭を走っていたウマ娘はこのレース場ではかなりハイペースだった。それは多分ルドルフさんが何か仕掛けたからだろう。そのせいでもう脚は残っていない。
真っ先に前に出たのはルドルフさん、我はその後ろ……
けれどまだ十分射程圏内。
もっと前に……
「汝、皇帝の神威を視よ!」
ルドルフさんの声が聞こえた気がした。
途端に足が重たくなった。急減速しているような、けれど足の速さは変わっていない。
多分さっきの言葉が引き金。周囲の景色が一変するような感覚と、脳に流れ込むノイズのようなもので視界がおかしくなる。
スズマッハさんと走った時と同じだ。あの時は砂漠だったけれど今度は違う。それは視界に重なってはいるものの、はっきりとイメージできない。ただ一つイメージできるのは、皇帝、王としての品格と姿。彼女の後ろ姿のようなものだった。
だが、我も悪魔神!そのようなものに惑わされるほど目は見えていないわけではない!
想像するのはイメージを塗り替えること、絵の具で絵を塗りつぶすように……我が1番好きな黒色で潰していく。
心の中で3秒数えたらもう大丈夫……そう、大丈夫なのだ。
視界がようやく戻ってくる。足の感覚も元通り。
けれど……
「く……距離が!」
脚の重さは取れたけれどルドルフさんの背中は遠い!間に合え……間に合え!
少しづつ追いつく背中。そのまま横にのがれて追い抜かそうとして、ルドルフさんが加速した。
「負けるかあああ‼︎」
「私も負けられないのだ‼︎」
なりふり構っていられない。持てる全てを出し切ったつもりだった。
けれど現実というのは無情なもので、ゴール板を通過する直前に頭ひとつ分抜け出たのはルドルフさんだった。