レースはスタートから大きく乱れた荒れた展開になった。
雨粒がレース直前に強く打ち付けるようになりコースはますます重場となっていく。
フランスで走り慣れているウマ娘でさえ顔を引き攣らせるようなコンディションのレースは、真っ先に逃げを引っ張るはずだったウマ娘が大きく足を滑らせ出遅れたことから始まった。
ゲートミス。それは逃げを主戦術とするウマ娘にとっては絶望的な事態だ。
その上、凱旋門賞に出走していたウマ娘で逃げ、先行を主戦術としていたウマ娘は僅かに三人しかいなかった。そのうちあろうことか逃げ遠しようとしていたウマ娘が滑ったのだ。
変わる形でドイツ出身の先行ウマ娘が土壇場で逃げに切り替えた。しかし土壇場故に焼き付け刃に近い走りになってしまう。その真後ろにピッタリつけた先行のウマ娘の方が余程心の余裕は大きかった。
集団はその2人より3バ身離れた位置で固まっていた。
その真ん中にルドルフ、後方にトドロキがついていた。滑った逃げのウマ娘はトドロキの後ろだった。
(く……前が塞がって……)
元々逃げをするウマ娘離れた臆病な性格が多く、集団の中で自らのポジションを抑えることや張り合うのが苦手なことが多かった。
そのため集団を後ろから眺める形になってしまったが、真正面にいたトドロキが一瞬そのウマ娘を見つめた。
背中スレスレを死神の鎌が通り抜けていったような気がして、背筋から恐怖が襲ってきた。
冷たい雨が顔に当たりながら、一瞬頭に浮かんだのはフランツ・ペーター・シューベルトの『魔王』
(Mein Vater, mein Vater, jetzt faßt er mich an!Erlkönig hat mir ein Leids getan!")
ノイズ混じりの誰かの声。堪らずそれから逃げたくなり、前に飛び出した。トドロキの横を通り抜けバ群に飛び込んだ。
ロケットのような突撃でバ群が大きく乱れた。無理やり頭を捩じ込ませたため接触を回避するために左右に避けたウマ娘、理想のコースを外れざるをえなかったウマ娘が続出する。
だがそれはレースの中での小さな混乱でしか無い。1人が割り込んで割を食った。ただそれだけだった。
だがまだ中盤にも差し掛かっていない段階での乱れに精神的な余裕が削られていく。
そんな中ルドルフは暴走するウマ娘を利用して自身の最も走りやすい位置を確保していた。
(トドロキならそうくると思っていた)
ルドルフが今度は先頭で逃げるウマ娘を抑えるために動き出す。
暴走したウマ娘による乱れを利用して、ルドルフは左にいたウマ娘に少し体を寄せた。ロンシャンのターフは広いように見えて実際に安定して高速で走れるエリアがほぼ定まっている。
何度もレースをしてウマ娘が通過する場所は踏み固められ、足場が安定をしているのだがそこから少し外れればそこは土竜によって穴だらけになり地盤から緩んだターフに変わる。そのようなところで速度などが出せるはずもない。それがわかっているからこそルドルフに幅寄せされたウマ娘は外に逃げることはできないし、ましてや後ろには混乱を引き起こす元凶がいる。残された選択肢はルドルフの前に出るしかない。しかし彼女の前に出ればそれは皇帝の放つプレッシャーをモロにくらうと言うことと同意義だった。
(な……なんだこの感覚は!)
負けないと言う気迫や相手を倒すと言う重圧なら走者であれば幾度となく感じていた事だろう。
だから彼女の放つそれも大丈夫、内心ではそう思っていた。だがルドルフのプレッシャーは全く異質なものだった。
背筋をまるで剣先が通過していくような鋭い感覚がする。それが幾度となく迫ってくるように感じるものだった。まるで剣による連撃だった。
そしてそのうちの一つが確実に肩から深く体に食い込むような幻覚に見舞われ、少女は先行でリードを取ろうとする2人のところに向かって駆け出した。
急に飛び込んできた彼女に2人は対処できなかった。接触こそなかったものの、体同士がぶつかるほど近づいたため咄嗟に2人は回避のために左右に広がった。それがいけなかった。
ちょうどコーナーに入ったばかりの位置。そして天候は雨。芝は滑りやすい状態だった。
急激な動きに一瞬だけ足のグリップが消える。
それを戻そうと踏ん張った事で2人が大きく減速してしまう。
一方飛び込んだウマ娘も唐突に正気に戻った。同時に大きく乱されたペースとスタミナにあわてて減速を選んだ。そのペースで前に出たところで最後までスタミナがもたないからだった。
完全にレースは全てのウマ娘によってバ群が形成されるという異常な状態になっていった。
しかしトドロキの二の矢が解き放たれた。
トドロキもルドルフが前を抑えると思っていた。だからこそ同時にルドルフを抑えるためにここで彼女は動く。
まるでファンネルのようにトドロキに背後から狙われたウマ娘が前に飛び出した。だがすぐに冷静さを取り戻したのか減速して周囲に速度を合わせた。あろうことかルドルフの斜め前の位置だった。
(む……前方の抜け場が無い……)
厳密に言えば無いわけでは無いのだが、それは踏み固められたレースではなくリスクが大きい大外回りとなる。
だが最適解を選ぶのならルドルフは大外を回るのがベストでは無いにしろベターな選択だった。
そもそもルドルフの脚であれば荒れた外側でも難なく走れただろう。
だがルドルフは迷った。
大外を回ると言うことは最後の直線での勝負に不安を残すことになる。相手がトドロキならば尚更だった。
そしてルドルフが一瞬の思考に神経を集中していた合間にトドロキは気配を完全に消していた。
ルドルフの聴覚からトドロキは消えた。
前よりも圧倒的に気配を消す能力が上がっていた。ルドルフ自身もここまで捉えられないと言うのは想定外だった。
当然これはトドロキを視界に入れていなかったウマ娘に起こっている事情だった。
トドロキがいつ仕掛けるのか分からなくなった。
そうなれば前を塞がれたままのルドルフは大外に出て自ら仕掛けた方が勝算は遥かに高いと想定する。
「大外をまわれば良い?そんなことはわかっている!」
(だがそのような威厳になんの意味がある!私の誇りは……真ん中を突っ切るただそれだけだ!)
トドロキが真後ろに迫っているのはルドルフ自身がよく分かっていた。気配を消していても、音を被せていても確かにそこにいる。感覚でもなんでも無い。トウショウトドロキならばそうする。彼女だからこそそうすると言う妄信にも等しいものだった。
だからこそルドルフが取ることができる手は一つしかなかった。
トドロキによって蓋をされた正面を強行突破する。バ群は前に抜け出すためにある。
普段のルドルフからは想像できない荒々しいものだった。
間も無くフォルスストレート。偽りの直線に入る。バ群全体の速度は雨の中だと言うのにハイペースになっていた。
そのためバ群が左右に伸び始めた。なんのことはない。正面突破を試みたルドルフを抑えようとして速度を上げた結果だった。
そんな中でルドルフ自身はと言えばしっかりとコーナーをパスしており外側へ膨らむことを一切許容しなかった。
当然その脚にはとてつもない負担となってのしかかっていたが、それすらも彼女は力の加減と走法の微調整だけで乗り切ったのだった。
前方を押さえていたウマ娘が外側に膨らんだ事でルドルフの前には道が出来ていた。
間髪入れずにフォルスストレートに入ったタイミングでスパートをかけた。
ゴールまでの長いロングスパート。しかし彼女のスタミナなら確実に保つ。そしてそれについていけるのは現在凌ぎを削っているウマ娘たちの中では1人だけだった。
他は殆どがルドルフとトドロキの撹乱によってスタミナを奪われていた。それでも純粋なレースだったとしても2人に届くかどうかは怪しいところだっただろう。
「……ッ!」
ルドルフの独走状態。しかしそう感じているのはルドルフだけで、同時に彼女自身も背後についてきている存在を、知っていた。認知できなくてもわかっているのである。
しかしだからと言って彼女は勝ちに行くことを捨てたわけでもない。
そしてそれを何より理解していたのはトドロキだった。
(早い!あれだけ前を塞がれて……ロングスパートをしているのに……)
真後ろでスリップストリームについてもなおトドロキの脚を消耗させるほどルドルフは速かった。圧倒的な重圧と純粋な速さにトドロキは覚悟を決めた。
打てる手は打った。最後は自身の底力がものを言う。勝ち筋を潰して自らの勝利確率を上げてなお、最後は自身の持てる全てを出したデッドヒート。
ルドルフの影から飛び出したトドロキは同時に潜むのをやめる。ルドルフの耳にも彼女の足音が、荒い呼吸が、跳ねそうになる心臓の音が間近で響いた。
(そうだ!その位置で観ていてくれ、私の……皇帝としての力を!君に示す戦いの姿を!)
(負けない!憧れだったルドルフさんを超える!それが我の……)
憧れを越えようとしたウマ娘と、理想の体現者になろうとしたウマ娘。
横一直線に並んだ2人がフォルスストレートを抜け最後の直線に入った。一段とギアが上がり大荒れのロンシャンレース場を爆走していく。
実況の声も、スタンドの歓声も全てが2人には聞こえなかった。
聞こえるのは雨の音と互いが奏でる足音のみ。心臓の音も荒い呼吸の声も今だけは潜んでいた。
トドロキの視界で緑の火花が散った。
「私は……絶対だ!」
トドロキは確かにその時、理想の体現者としてのシンボリルドルフをみた。今まで理想の共有者だった少女は、気がつけば遥かなる坂の上に居た。
(やっぱりルドルフさんはすごいや……)
トドロキよりも一歩前に、ルドルフは既に抜け出していた。
勝利とは極論を言えば相手より少しでも前にいればいい。それは合田トレーナーが説く皇帝と言う象徴だった。
少しの差。しかしそれを絶対的に、隔絶した差として魅せることが出来れば良い。
ルドルフは無意識的に理想の体現者、皇帝としての姿の二つを同時に表していた。
真後ろに迫る足音を聞きながら、ルドルフとトドロキはゴール板の前を通過した。
2:24:80、2:24:81それがレースに君臨した2人が残した爪痕だった。