クリスマス直前の12月22日、有マ記念は行われる。
クリスマスに向けて街もレース場もイルミネーションやそれ相応の飾りで飾られ煌びやかな世界を作り出している。
有マ記念もそんな光景が創り出す浮ついた空気の中で開催される。でも走る我々にはそんな浮ついた雰囲気はない。控え室で契約者に最後の体の診断をしてもらっている最中、我はこれが最後のレースになると言う実感がまだ湧いていなかった。来年もまたいつもの通りにレースに出る。そんな日常が実はもう終わってしまうなんて、納得する方が無理というものなのだ。
「熱も保っていない、腫れもない。脚は問題ないな」
脚の検診を行っていた沖野トレーナーは自身たっぷりにそう言った。我の体はここ数ヶ月で急激に疲労が残るようになった。特に一ヶ月事にレースを行う強行スケジュールで体には見えない負担がかなり溜まっている。だから思い切って有マ記念までは休養をメインにした。その判断は正解だったのかもしれない。
「契約者、いや……沖野トレーナー」
「何も気負う事はない。最後の大舞台だ。悔いを残すんじゃないぞ」
最後のレースでもいつもと変わらず送り出してくれる沖野トレーナーに普段と変わらないレースだ。だから大丈夫、そう勇気づけられた気がした。
「今まで、ありがとうございました」
「おいおい、そう言うのは全部終わってから言うもんだぞ。まだお前さんは走ってないだろ」
「それでもここまで来れたのは沖野トレーナーのおかげだから」
これは紛れもない本心で、今のうちに言っておきたかった。
「俺の仕事は、最後までお前さんが走り切ってまた戻ってくるまでだ。だからまだ終わっちゃいねえんだ」
さあ時間だ、行ってこい。
トレーナーが背中を推してくれた。体が全力に耐え切れるのか、最後まで残った不安はこれで吹き飛んだ。沖野トレーナーさん、最後まで走り通します。
「我の最後の凱旋、目に刻むがいい!契約者!」
中山レース場の内回り2500m、我の前に用意された最後の舞台。
一度走ったことはあるけれど、再び走るこの舞台はなんだかあの時と違って見えた。
パドックは自分の前後のウマ娘以外は見ることができない。だからパドックで他の子達がどんな様子だったのかは沖野トレーナーが教えてくれる。
けれどトレーナー曰く全員仕上がりが完璧で参考にはならないらしい。
そんなわけだから我はすぐにターフに向かった。大外を回るコースの三コーナー付近にゲートが用意されていた。枠はそれぞれ、1番シンボリルドルフさん、2番が我、3番がミホシンザンそして4番にスズマッハさん。そして7番にメジロラモーヌさん。
メジロラモーヌさんはタケホープさんが最後まで付き添っていた。
ラモーヌさんもこの有マを引退レースにしていた。ティアラ三冠を史上初で獲得して日本新記録「重賞6連勝」を達成し、ティアラに挑んだウマ娘での生涯獲得賞金記録を塗り替えた彼女は、これからはメジロ家として後輩育成に力を入れることにしたらしい。
まあそのせいかチームスピカは再び現役ウマ娘ゼロに戻ってしまうらしい。でもそんなことはどうでもいいと沖野トレーナーもタケホープさんも笑っていた。
彼女らしい引き際だと思う。その引退レースを我と、ルドルフさんと重ねてきたのは偶然ではない。
そのせいか中山レース場は去年を大きく超える人が集まっていた。もはや会場に収容が出来ず会場の外にまで溢れているらしい。思えばすごく遠くに来たんだな……
今でも実感が湧かない。でも観客席にいる応援幕をあげている人とか学園の生徒とか、結構我を見にきている人もいるんだなって感想は出てくる。
「トドロキ」
ルドルフさんの声だ。
「ルドルフさん、お互いいい勝負をしよう」
「そうだな、本当ならシリウスも来る予定だったが……」
シリウスさんの怪我の事は聞いている。10月の凱旋門賞で故障による競走中止。左足を完全に折ってしまったらしい。復帰は来年の二月になるから有マには参加できなかった。ルドルフさんがあそこで見ているよと指差した方向を見れば、観客席の最前列席にすごく不機嫌な顔をしながら松葉杖をついたシリウスさんの姿があった。
「あら、私との勝負は面白くないかしら?」
ルドルフさんの後ろに音もなくラモーヌさんがやってきた。耳に口元を近づけての囁きに一瞬皇帝が震えた。
「ラモーヌ!そんなことは……」
「冗談よ皇帝さん。でも私は皇帝よりも獅子が好きだけれどね」
そういえばラモーヌさんとはこうしてレースで走ったことはなかった。
「それにトドロキ、貴女ともこうして一度走りたかったのよ。退屈させないでちょうだいね」
後そこのお友達の事も忘れちゃダメよ。
ラモーヌさんの言葉に弾かれるように振り返るとスズマッハさんが睨んでいた。
「引退する前に一度最後の賭けをしたかった。ただそれだけ」
それだけ言うと彼女は足早にゲートに向かっていった。
「彼女は怒らせると怖いぞ」
ルドルフさんこそラモーヌさんにえらく気に入られているよね。
「どうしてだろうな?まあ良い、ゲートに行こうか」
「そうだね」
言葉数は相変わらず少ない。でもこれで良いんだ。
係員のウマ娘に誘導されてゲートに入った。我が最後だった。
声と音が静まる。何があってもこれが最後のレース。
最後なんだと言う気持ちは湧き上がってこない。まだずっと走っていたい。
レースが始まった。勢いよく飛び出したように見えて、先頭争いには加わらない。ほぼ5人が並んで先頭。そこから抜け出てレジェンドテイオーさんとスズマッハさんが先頭を争う。そのすぐ横をサクラサニーオーが一気に捲り上げていった。
後ろから来たからきっとルドルフさんがけしかけたのだ。後ろで一瞬プレッシャーがかかった。
コーナーに入っていく。我の前まで降りてきたスズマッハさん。真後ろにはミホシンザン。我の位置は5番手、ちょうどバ群の合間。
前後を挟まれた。右側は柵が迫る。左はルドルさんが前にいたウマ娘を押し出す形で塞いだ。
ここは、後ろに下がる。まだレースは序盤も序盤だ。
流石に判断が早い。先行争いに参加するように見せかけて前方を先走らせようとするのを押さえ込んだ。同時に彼女を囲うようになってしまったのは予想外だったが、彼女は囲んだところで意味がない。コーナーが終わる前にすぐに戦略を切り替えて後退してきた。柵に勝負服が擦れるか擦れないか、そのくらいのギリギリをせめてミホシンザンと位置を入れ替えていく。
さて、私は最後尾。だがこの位置からならレース全体が見える。メジロラモーヌは私より二つ前。黒鹿毛のクシロキングが私を塞ぐ。意外と隙がない。さっきまでサクラサニーオーがいたが彼女は前に行ったがクシロキングだけは私を抑えるポジションを崩さない。
右コーナー終わりで左に意図的に膨らむ。外からクシロキングを追い越す。彼女のペースで走っていると仕掛けたいところで仕掛けきれない。私を抑えようと前に出ようとする。だが目の前にメジロラモーヌがいるため彼女は右に避けるしかないが右側はバ群だ。
一瞬だけメジロラモーヌが私を見つめてきた。速度が速いと言いたいのだろうか?だが私にとってはこの速度が2500mでトドロキを差せる速度なんだ。
直線の後半、急坂が迫る。
本来なら速度を下げるところだが、ここは上りの入りだけ速度を維持する。一気に前との距離が狭まって、並んだ子が2人前に出ようと無理に加速した。それをトドロキが絡め取った。
影のようなものが伸びているような気がして、先に出ていった2人が今度は私の前に降りてきた。
同時に冷静になったようで速度は私と同じ状態になる。
勝ち筋を潰してきたな。
先頭争いをしたのは失敗だったかもしれない。だけれど後ろでルドルフと重なっていても私の勝つ確率は低くなってしまう。同じスパートを同じ位置でかけてもルドルフさんやトドロキには届かない。だから少しでも前に行こうとした。
だけど先頭は抑えられてしまった。後ろにはトウショウトドロキ。近い、真後ろにいる。音と気配でわかる。
少しでも私がミスをすれば、巻き込まれて吹っ飛ぶんだぞ!わかっているのかトドロキ!
恐ろしいけど、その技術の凄さに嫉妬してしまいそうだ。
先頭を5人が形成するから誰が逃げと言うわけじゃなくバ群が先頭になって再びコーナーにはいる。内回りのバックストレートになったら2人が仕掛けてくるはずだ。なら、それに備えるべきだ。私は誰かを操ったりすることはできない。でも前を切り開くことは出来るから。
体右側に負担がかかる。それを見越して靴と蹄鉄を調整していた。コーナーなら私の方が速い!
少しだけ背後が離れた気がした。同時に足音が消えた。他の人の足音に紛れ込んだのか?いやそういうわけじゃない。気配も消えている。こんなところで後ろを振り返るわけにはいかない。トドロキ、貴女は一体どこに?
私の前はちょうど誰もいなくなって、少しコーナーが速いからかジリジリと前に出ていく。
少なくともトドロキよりは前にいる。
流石に前方が横一列で塞がってしまうとなかなか前に出るのは容易ではない。
想像以上にコーナーが早いスズマッハさんが前に出ようとして前方集団を軽く掻き乱した結果1バ身先では薄く左右に伸びた横一線が生まれていた。直線に入ってしまったから誰かが前に出ようとスパートをかけないとそう簡単には崩れない。
一度大きく足を踏み込んで必要以上に大きな音を立てた。けれど横一列になっていると1人2人が掛かってもすぐに冷静に戻ってしまう。
ふと隣に気配がした。横目で隣を見るとメジロラモーヌさんが一瞬だけ見えた。少しづつ前に上がってきている。ペースがやや乱れ気味になっているようだ。明らかに加速している。
ルドルフさんに仕掛けられたのかな?でもそんな感じの表情ではなかった。反対側を見るとミホシンザンも上がっていた。こっちは少し焦っているようだった。なるほどメジロラモーヌさんも誰かを使って前をこじ開けようとしているんだ。
直線区間がもうすぐ終わる。コーナーが迫ってくる。
このコーナーの出口で私は、勝負をかける!
流石に2500mをシニア級のベテランやクラシック級の同期と混ざって走るこのレースは難しいところがある。駆け引きの特性が強く出ているわね。ティアラとは大違いだわ。でも、いつか立ちたかった勝負の舞台でみっともない真似は出来ないわ。勝負どころはこの先コーナーを超える手前、トドロキとは一瞬並んだけれど再び離されて今はやや前方。コーナー頂点部分で柵に当たりそうになる際どい所を駆け抜けていっていた。相変わらず怖いもの知らずね。そのまま大外側に膨らむようにして最大の速さでコーナーを処理しようというのね。
残念だけれどそのような無謀は私には出来ない。だから私は前をこじ開けるのよ。さあそこを退きなさい。
真っ先にスパートを切ったのは最後尾でずっと抑えた走りをしていたシンボリルドルフだった。
コーナー中盤から一気に加速していくロングスパートを切ったのだ。それに続く形でメジロラモーヌもまたスパートをかける。2人が早い段階でスパートをかけた事で僅かにバ群が乱れて、空いた空間をメジロラモーヌがこじ開けるようにして前に出た。コーナーが終わったところでスズマッハが、そして最後にトウショウトドロキが前に飛び出した。
何人かは追従しようとするも、半数ほどはスタミナの予想以上の減りにスパートをずらさざる終えない。
息が荒くなり酸素がどんどん消費されていく感覚にトウショウトドロキは思考が少しづつ鈍っていくのを感じた。
(あとは純粋な力比べ!ルドルフさんとの距離は1バ身!ラモーヌさんも距離はほぼない)
ならばとメジロラモーヌを風除けとして使いつつ、内側から追い越しにかかる。メジロラモーヌもそれは想定していた。けれど反対側を抑えるように並びかけてきたスズマッハによって動きの選択を絞られた。
(まだ、ルドルフさんに勝つんだ!)
トウショウトドロキが体を前に倒した。深い前傾姿勢で再び再加速を始める。叫び声のような雄叫びが響いた。
走法をピッチから、少しづつ脚を着く間隔を伸ばすスライド走法に以降しつつ、ピッチの時のように足を前に運ぶ速度を上げていく。太腿や関節部に莫大な負荷がかかって脚の寿命が一気にすり減っていく。一歩間違えれば骨折すらしかねない走りに、けれどそれゆえに2人を引き離しシンボリルドルフに迫っていく。気がつけば坂を突破してゴールまでの距離は僅か30mを切っていた。シンボリルドルフも最後の踏ん張りを効かせる。
どちらが勝つか全くわからない。デッドヒートだった。
そして歓声が響き渡った。