メジロの娘。   作:宮川 宗介

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登場人物:メジロレム
※オリウマ娘注意です。

誕生日:4月22日
体重:ふっくらとした、いい仕上がり。
身長:158センチ
スリーサイズ:89・58・85



第十一話

そろそろ吹く風に、金木犀の香りが混じる季節になってまいりました。

天高くウマ娘肥ゆる秋、などと申しますとおり、この季節はウマ娘にとって一番過ごしやすい季節でもあります。

 

「はっ……ふっ……」

 

しかしそんな季節の風を楽しむ余裕もなく、わたくしはひたすらに学園のダートコースを走り込んでおりました。

 

すべては天皇賞で勝利するため、ひいては当代最強のウマ娘・メジロラムを倒すため。

 

ライスシャワーさまのご自宅からお暇してすぐに、わたくしとトレーナーさんは学園のトレーナー室に直行し、彼女からいただいたノートを元にして様々な議論を交わしながらトレーニングメニューを組み立てました。

 

いただいたノートにはダートコースを走るにあたってどのようなことを意識し、どんなバ場状態のダートをどれぐらいのタイムで走ればよいかまで、詳細に記録されておりましたが……。

 

もちろんこれらをそのまま実行しても、ライスシャワーさまと同じような結果や肉体が手に入るわけではございませんから、このノートを参考にしながらも、わたくしに合ったトレーニングメニューを模索していかねばなりませんでした。

 

しかし、このダートに特化したトレーニングは、今のわたくしにぴったりだったかもしれません。

トレーニング毎にコースが変わらなければ脚元が安定し、もう一つの課題である【中距離向きのフォーム】の改造も取り組みやすい、という一面があるからです。

 

天皇賞まで、およそあと三週間。

距離の克服、スタミナの強化、フォームの改良と問題は山積しておりますが、残された時間は決して多くはありません。

 

「ふぅっ……」

 

ダートのマイルを走り終えたわたくしは、とりあえずのゴール地点で一息つきます。

 

今日のトレーニングメニューは、キャンターでの1600Mの2本と、800Mダッシュ2本、それにレースを意識したギャロップでの2000M走り込みです。

 

ライスシャワーさまはもう少し長い距離でトレーニングなさっていたようですが、わたくしの距離適性と脚の具合を考慮すれば、今のトレーニング量はほぼ限界に近いものでした。

 

「メジロレムさん。精が出るね」

 

声がした方に顔を向けると、そこには長身でどこか高貴な雰囲気を纏わせたウマ娘が立っておられました。

 

「シンボリライザ生徒会長閣下。お久しゅうございますわ」

 

わたくしは久しぶりにお声掛けいただいた現生徒会のトップに君臨する閣下に、カーテシーを持って礼を尽くし、お辞儀いたします。

 

「先輩のあなたに、そこまで礼儀を尽くされると恐縮してしまうな」

 

そう言って彼女は苦笑いを浮かべます。

 

「しかし、その敬意にふさわしい人間であらねばならぬと、自分の居住まいを正してくれるのも確かだ」

「その心構えがあるからこそ、閣下は生徒会長としても、レースを走るウマ娘としても模範的な存在であらせられるのですね」

 

彼女はあの【皇帝】シンボリルドルフのご令嬢で、ジュニア時代にホープフルステークスを勝利したあと、生徒会長に推挙されてシニア一年目の現在もその職に邁進しておられます。

 

「いやいや、私など歴代の生徒会長たちに比べればまだまだ未熟者だよ。それに、レースに関してもあなたのお姉様にやられっぱなしだしね」

「そうはおっしゃいますが、去年の有マ記念では完勝を収めていらっしゃるではないですか」

 

そう、去年の有マ記念で圧倒的一番人気のお姉様を破ったのは、春に皐月賞・ダービーの二冠を制していたクラシック級のシンボリライザ閣下でした。

菊花賞は故障のため残念ながら出走できず、三冠の夢は叶いませんでしたが、年末の有馬記念では劇的な復活の勝利を収められたのですね。

 

「確かに、そうだ。だが去年の有マ記念は私が【勝った】というより、【勝たせてもらった】と言ったほうが適切だろう。私が休み明けの、経験の浅いクラシック級ウマ娘だったということも彼女の油断を誘ったと思う。あのレース以降、どうも完璧に力の差を把握されたような気がするよ。事実、春の三冠では一度も先着させてもらえなかった」

「勝負は時の運、と申しますから……」

 

強者の謙遜に、春三冠ウマ娘の妹のわたくしとしてはそれぐらいしかお言葉を返すことができませんでした。

 

「それはともかくとして、今度の秋天にはメジロレムさんも出走するんだってね?」

 

雰囲気が気まずくなった、というわけでもないのですが、閣下は朗らかな笑顔で話題を変えられます。

 

「ええ。天皇賞という大舞台に挑むには、わたくしでは少しばかり力不足なのは自覚しておりますが、わたくしにも達成したい目標がございますので」

「スプリンターズステークスの記者会見は見せてもらったよ。【スプリント・マイル・中距離三階級制覇】か。素晴らしい目標だ」

 

彼女は腕を組んでうなずかれ、わたくしをまっすぐ見据えられます。

 

「私も出走する故、あなたの目標を応援することはできないが……天皇賞という、最高の舞台にふさわしい走りをすることを約束しよう」

「どうぞ、お手柔らかにお願い致しますわ」

「そうはいかないよ。私にはクラシックの二冠を制した者として……私の世代の代表として戦う責務があるからね。私と同じ年に生まれた者達の名誉のためにも、不甲斐ないレースはできない」

 

一つの世代の頂点を極めたウマ娘が笑顔で発した威圧感に、わたくしは背中に嫌な汗をかいていることをごまかす微笑を浮かべ返すのが精一杯でした。

 

閣下は皐月賞とダービーを勝ち、世代に覇を唱えたウマ娘という自負と自覚をお持ちなのです。

もちろん、あの【皇帝の子】というプライドも。

 

その自負とプライドにかけて、彼女はそれ相応の覚悟で天皇賞を獲りに来ることでしょう。

 

「おっと、少し雑談が過ぎてしまったようだ。トレーニングの邪魔をして申し訳なかったね」

「いえ……」

 

閣下は手を振りながら会釈なさると、わたくしに背を向けてご自分のトレーニングに戻られました。

 

天皇賞という大舞台で倒すべき敵は、お姉様一人ではない。

そんな当たり前のことを、思い知らされた一幕でした。

 

 

どなたにもお気に入りの場所、というものがあると思いますが、自宅のテラスはわたくしにとってまさにそうでした。

 

お気に入りの場所でお気に入りの紅茶を淹れ、お気に入りのお菓子をつまむ。

 

そんな時間はわたくしにとって至福の時です。

 

ここのところ、ダートによるハードトレーニングで心身ともに張り詰めておりましたから、余計にそう感じるのかもしれません。

 

「ん、いい香りの紅茶を飲んでるわね。ひょっとしてロンネフェルトかしら?」

「お姉様」

 

カラフルな箱を片手に屋敷の方からやって来られたのは、天皇賞で相対する最大の敵・メジロラムお姉様でした。

 

「私もここでお茶にしようと思ってポットにホットコーヒー入れてきたんだけど、これはあとで冷やしてアイスコーヒーにしてしまいましょう。その紅茶、私にも注いでもらえる?」

「ええ」

 

自宅で。

学園で。

少なくともわたくしは、表面上はいつもと同じようにお姉様に接していました。

いつもと振る舞いが変わらない、というのはお姉様も同様でしたが、その内心までは測りかねておりました。

 

お姉様も、わたくしが天皇賞へ出走することを気にして、意識的に普段通り振る舞っていらっしゃるのか。

 

……それとも、わたくしが同じレースを走ることなど、何も気にしていらっしゃらないのか。

 

「ん~、いい香り。やっぱいいものは香りが違うわね。良いお菓子には、良い紅茶がやっぱり最高のマリアージュだとは思わない?」

 

そう言ってお姉様は手にしていらっしゃった箱の、ちょっと高級感のある包装紙を丁寧に解き始めます。

 

「それにはまったく異論ございませんが……それは?」

「ああ、これ?お母様が自分の部屋に隠し持ってた【ふらっしゅのおかしやさん】のオリジナルアソートよ。なかなか手に入らないのよね、これ」

 

確かに【フラッシュセレクト・オリジナルアソート】は人気商品で、お店でもネット通販でも、常に予約が一杯になっていてなかなか手に入らない逸品なのですが……。

 

「勝手によろしいのですか?お母様も楽しみにしていらっしゃるのでは」

「全然大丈夫よ、どうせコネで手に入れたお菓子だろうし。まったく、人には『現役中はしっかり体重管理しなさい』とかうるさい割に、自分はこういうの食べてるのよね~。お母様こそもういいお歳なんだから、生活習慣病予防のためにもこういった高カロリーな食べ物は控えるべきだと私は思うのよ。ってなわけで、こうして隠し持ってるお菓子を食べてあげるのも、親孝行ってものよね」

 

それはなんだかトンデモ理論な気がしましたが、美味しいお菓子にありつくために、わたくしは賛同の意を示しておきました。

……バレて怒られるのはどうせお姉様だという、ちょっと小賢しい計算があったことも白状しておきましょう。

お菓子で摂取したカロリーは、あとでしっかり走り込んで消費することにいたします。

 

「ん~、やっぱりクッキーが美味しいわね。【ふらっしゅのおかしやさん】といえばケーキとかシュネーバルが有名だけど、私はこのスタンダードクッキーにこそ、エイシンフラッシュさんという職人の腕と情熱が出ていると思うのよ。彼女は間違いなく、超一流のコンディトリンだわ」

 

お姉様の舌は幼い頃から鋭敏で肥えていらっしゃることで有名で、お姉様がダービーを勝利された直後くらいにテレビ番組の【どちらが本物!?ウマ娘格付けチェック!】からお声がかかったこともあるですが……。

 

そのリハーサルでいくつかの料理を食べたあと、どちらが良いものなのか全部あっさり正解してしまい、『簡単すぎて問題になってないから帰る』と言って席を立ったのは、テレビ業界の伝説になっています。

 

「魂のこもったものは、人を感動させる。そうは思わない、レム?」

 

こんな発言まで、お姉様がレースに関連付けたことをおっしゃっていると考えてしまうのは、文字通り考えすぎなのでしょう。

 

「……おっしゃるとおりだと思いますわ」

 

紅茶を口づけることで沈黙をやり過ごしたわたくしは、控えめに微笑んでお姉様に相槌を打ちました。

 

それからわたくしたちは、学園であった他愛もない話をしたり、お姉様の恋人(桐生院トレーナーですわね)のグチとノロケを聞かされたりして、いつもと同じように楽しいティータイムを過ごしました。

 

屋敷の方から聞こえてきた『ない……ないですわ~!!楽しみにしておりましたのに!またラムが忍びこんで持っていきましたわね!?今度という今度は、許しませんわよ!』という魂の叫び声を、わたくしたち姉妹は聞かなかったことにいたしました。

 

 

『こんばんわ~!ファル子の部屋の時間だよ!』

 

夕食を終え、食後のお茶を飲みながらリラックスしていますと、親しみやすくて耳に残る曲とともに、リビングのTVからそんな声が聞こえてまいりました。

 

【ファル子の部屋】はダートで一世を風靡されたスマートファルコンさまが司会を務め、その時話題のウマ娘をゲストとしてスタジオに招き、色々なお話を聞くというコンセプトのトーク番組です。

 

テレビだけでなくネットでも生配信されており、リアルな現役ウマ娘の声が聞けると人気の番組なんですね。

 

「始まったようですわね」

「ええ、今始まったばかりですわ」

 

声のした方に顔を向けると、そこには左手にマグカップを持ったお母様がいらっしゃいました。

陶器のマグカップなので中身の色はわかりかねましたが、おそらくは甘いミルクティーでしょう。

右手は……なぜか、胃のあたりを撫で回しておられました。

 

「ああ、今日はラムがなんの失言をすることなく番組が終わりますように……」

 

まるで祈るかのように、お母様はつぶやきます。

今日は【話題のウマ娘】として、お姉様が出演なさる予定なのです。

 

「別にお姉様も毎回失言なさるわけでは……」

 

一応わたくしはそうフォローいたしましたが、お母様の表情から不安は消えませんでした。

 

『今日はなんと!春の三冠を達成したメジロラムさんにお越しいただきました!ぱちぱちぱち~』

 

スマートファルコンさまが一人拍手をなさると、舞台袖の方から威風堂々とお姉様が登場なさいます。

 

『メジロラムさん。本日はお忙しいなかお越しいただき、ありがとうございます!』

『こちらこそ人気番組に招いていただいて、光栄だわ』

『そんなそんな~。どうぞお掛けになってください』

 

スマートファルコンさまのお言葉を受けて、お姉様は優雅に椅子に腰を下ろされました。

 

お母様は心配なさっておられましたが、お姉様とていつも毒舌を吐くわけではございません。

テレビやネット配信、記者会見に三回出演したとしても、そんな失言はせいぜい一度あるかないか、といったところでしょうか。

 

『まずはお祝いを言わせてください!春のシニア三冠制覇、おめでとうございます!達成した時は、どんなお気持ちでしたか?』

『ありがとう。そうね、たくさんのファンが私を応援してくれていたから、達成した瞬間はやっぱり嬉しかったわね』

『メジロラムさんのように王道を邁進なさっていると、たくさんのライバルがいると思うのですが、メジロラムさんが今一番意識していらっしゃるウマ娘、というのはいますか?』

 

スマートファルコンさまの質問に、お姉様は首を傾げられます。

 

『ん~。それってよく聞かれるんだけど、私は意識したことがないのよね。ちょっと極端な話をするなら……そうね、例えば芝の2000Mをどんな相手でも、どんな展開でも1分55秒で走るウマ娘がいたとするじゃない?そんなウマ娘が存在したら多分、芝の2000Mで彼女より早くゴールにたどり着けるウマ娘っていないと思うのよ』

 

こういった考えは、わたくしも小さい頃から何度か聞かせられました。

お姉様の哲学はレース成績にも現れていて、お姉様は現在2つのコースレコードと日本レコードを一つ保持しておられます。

 

『それはきっと、そうでしょうね』

 

お姉様の例え話に、スマートファルコンさまは理屈はわかるけど……と言いたげな、なんとも微妙な微笑を浮かべられました。

お姉様の持論を聞くと、たいていの方はこのような反応をなさります。

 

『もちろん、タイムは出走するウマ娘のレベルや展開なんかによって左右されるから、それが一概にウマ娘の実力をそのまま表しているとは言えないのは百も承知しているわ。でも【一番早いタイムでゴールすれば相手は関係ない】っていうのが、私のレース哲学なのよ』

『なるほど、戦うべきは常に自分自身ってことですね!』

 

取りようによっては角が立ちかねないお姉様のお言葉を、違和感のないレベルですり替えて切り返すトーク力は、さすがのものでした。

 

『でもでも、秋の天皇賞では確か……妹のメジロレムさんと戦うことになっていますよね?G1での姉妹対決ってすごく珍しいですし、やっぱり意識することもあるんじゃないですか?』

『あぁ、それね』

 

お姉様は出されていたティーカップを手に取ると、間を開けるように一口だけお飲みになったようです。

 

『どうして私がレムを意識する必要があるわけ?だいたい、あの娘と私じゃ気の毒だけど持って生まれた才能が違うわ』

 

お姉様のその一言は、お母様とわたくしがいたリビングだけでなく、スタジオも凍らせたようでした。

 

『えっ……!?え~っっと……その……』

『私は小さい頃からあの娘の走りを見てきたけどね。あの娘のレースやトレーニングを見て【才能がある】って思ったことは一度もない。あの娘が未勝利を勝った時は【あの非才で立派なもんだ】と思ったものよ。事実、小さい頃はよく一緒にトレーニングしたものだけど、私はあの娘に一度も前を走られたどころか、並ばれたことすらないわ。最近の短距離G1を見てると、いつも思うのよ。あの娘が勝ち負けできるぐらいのレベルって、日本の短距離G1ウマ娘のレベル自体が下がってるんじゃないかって』

 

……わたくしに、走りの才能がないのは、認めましょう。

幼い頃より、お姉様に一度も走りで勝ってことがないのも、事実です。

 

お姉様が歯にモノ着せぬ物の言い方をするお人だということは、十分に承知しておりました。

 

それでも……わたくしのことはともかく、わたくしと一緒に戦ったウマ娘たちまで貶めるのは、いくらお姉様とて許せるものではありませんでした。

 

「あの娘は、また心にもないことを……」

 

テレビでお姉様の言動を見ていたお母様は頭を抱えると、大きなため息を吐き出されました。

 

「これは、帰ってきたら厳しくお説教ですわね……。レム。あんな放言、気にしなくてもよろしいですわ。あれはいつものラムの【露悪癖】が出ただけなんですから。あの子も本心であんなことを言っているわけではないことは、レムもよく知っているでしょう?」

 

ええ、たしかに本心ではないのかもしれません。

お母様のおっしゃるとおり、きっといつもの露悪癖なのでしょう。

 

それでも本当に『心にもない言葉』だったら、そもそも口から出てくるはずがないのです。

 

心のどこかで、脳裏の何処かでそう思っていたからこそ、そんな言葉が口をついて出てくるのです。

 

でも、その怒りをお母様にぶつけたって仕方ないと思えるぐらいの理性は、わたくしにかろうじて残っておりました。

 

「……そうですわね」

 

わたくしはなんとか作り笑いをしたつもりでしたが、その顔はきっと、顔面神経痛のような表情を浮かべていたことでしょう。

 

スマートファルコンさまは話題を露骨にすり替えてトークを継続させていらっしゃるようですが、もうわたくしはその番組の続きを、とても見る気にはなれませんでした。

 

 

わたくしは伸びた影が落ちるダートの練習場に、ただひたすら蹄跡を刻みつけておりました。

 

何度も。

何度も。

 

なにかに取り憑かれたかのように、何度も。

 

練習場に差し込む夕日はかなり傾き、時間帯は夕と夜の混じる逢魔が時に差し掛かっていました。

いつもならそろそろ門限を気にしなければならない時間なのですが、今に限ってはその限りではございません。

 

「レム~。私そろそろ買い物に行ってくるから、キリの良いところでトレーニング切り上げて、帰ってくるまでに銭湯に出かける準備をしておいてね」

 

そう声をかけてくださるトレーナーさんに、わたくしは手を振って了解の意を伝えます。

 

今わたくしたちがいるのは、トレセン学園から数駅離れたところにある旧(ふる)い練習施設です。

 

一応、ここもトレセン学園が所有・管理する施設で、学園側の許可なく立ち入ることはできないのですが……ここにあるトレーニング設備といえば、枯れ果てた芝のコースと、錆びた筋トレ用具が置いてある空調すらないトレーニング室。

 

あとある設備といえばわたくしが今走っている、手入れされていないパサパサのダートコースぐらいもので、最新のトレーニング設備を取り揃えているトレセン学園を抜け出してこんなところでトレーニングをしようとするスキものは、めったにおりません。

 

しかしライスシャワーさまはあの天皇賞前に、ここでトレーナーさんと二人きりでキャンプを張って黙々とトレーニングを重ねたらしく、わたくしたちもそれにあやかることにしたわけですね。

 

そのような理由もございましたが、この建物の周りには遊興施設もなく、ここに立ち入る人間もほとんどいないため、集中してトレーニングに取り組むことができるという利点もありました。

 

本当は天皇賞本番一週間前からこのキャンプを敢行する予定だったのですが、わたくしがトレーナーさんにわがままを言ってもう一週間早く、計画を前倒しにしていただいたのです。

 

……ここにいれば、お姉様と顔を合わせることもございませんからね。

今顔を合わせるようなことがあれば、どんな言葉をお姉様に投げかけるか、わかったものではありません。

 

レースというものに身をやつしていると、自分でも知らなかった、様々な自分と出会うことができます。

 

ライラクロスさんというライバルに出会うまでは、わたくしは自分の分相応なレースを走っているだけで満足できるウマ娘だと思っておりました。

 

リナアラビアンさんに挑発されるまでは、わたくしはもっと冷静に、わが道を歩めるウマ娘だと思っておりました。

 

お姉様にはっきり見下されるまでは、わたくしは一生涯、メジロラムという天才に敬意を払える控えめな妹だと思い込んでおりました。

 

天皇賞で、勝ちたい。

 

いえ、『妹が勝ち負けできるぐらいの今の短距離はレベルが低い』とまでいい切った驕慢な姉に、わたくしは勝たねばなりません。

 

あの思い上がった姉を、レースで完膚なきまでに叩きのめす。

 

そして【レベルが低い】と切って捨てられた、短距離路線で人生を懸けて戦うウマ娘たちの名誉を、回復させなければなりません。

 

今それができるのは、【スプリント・マイル・中距離の三階級制覇】に挑もうとしているわたくしだけなのですから。

 

 

トレーニングを終えたあと銭湯で入浴を済ませ、キャンプ用品で作った夕食をいただいたわたくしたちは、焚き火台を挟んで何を話すでもなく、ふたりで燃え盛る炎を眺めておりました。

 

暗闇の中の炎というのは、見ているだけで少し心が落ち着きます。

 

原始の人間は夜行性の動物を近づけないために、もしくは狩りで得た獲物を安全に食するために火を使い始めたと言われていますが、案外こうして炎を眺めることによる【精神の安定】を得るためだった、という理由もあったのかもしれませんね。

 

もしくは逆に、危険な動物を遠ざけたり、安全に食事を取れるようになったことと炎が結びついているが故に、現代人にも闇の中の焚き火を見ると精神が落ち着くという本能が残っているのかもしれません。

 

「トレーナーさん。申し訳ありませんでした」

「ん、なになに。どうしたの急に?」

 

わたくしの唐突な謝罪に、トレーナーさんは焚き木を突っつきながら少しばかり困惑したような笑みを浮かべられました。

 

「いえ、今回の件のことです。わたくしのわがままで……」

 

わたくしがキャンプの前倒しを申し出た時、トレーナーさんは理由も聞かずに『分かったわ。じゃあ、今日から早速キャンプに入りましょう』と言ってくださったのです。

 

「ん~……。まぁ姉妹って距離が近い分、色々あるわよねえ」

 

やはり、トレーナーさんもあの番組のことはご存じだったようです。

お姉様のあの発言は色々と物議を醸しだしたものの、G1・9勝の実績を持つメジロラム本人に直接苦言を呈することができたのは、わたくしが知る限りお母様だけでした(ひょっとしたら、桐生院トレーナーもなにか注意されたかもしれませんが)。

 

お姉様はお母様のお部屋で結構な時間【お説教】されたようですが、それでもなんの痛痒も感じなかったらしく、発言を撤回することも謝罪することもありませんでした。

 

「トレーナーさんにも、立派なご令姉様がいらっしゃいますよね。トレーナーさんの幼少期は、ご令姉様とはどんな姉妹関係だったのですか?」

 

普段はこんなプライベートなことを聞いたりはしないのですが、焚き火の魔力といいますか、なんとなくそんなことを聞きたくなってしまいました。

 

「そうねぇ。うちは姉のほうが一回りも上だったから、一緒に遊んだり、ケンカしたりした記憶はほとんどないのよね。だって私が中学に入学したときには、もう姉さんは立派な社会人で、G1を勝っていた才能あるトレーナーだったんだもの。これだけ歳も立場も違うと、ケンカにすらならないものよ」

 

トレーナーさんは子供の頃のことをお話するに抵抗がないタイプだったようで、少し遠い目をしながらそんなお話を聞かせてくださいます。

 

確かに12歳も年齢差があると、そういう感じなのかもしれませんね。

 

「それでも、大人ヅラしてあれこれ言ってくる姉さんがうっとおしいと思った時期もあったけどね。やれ将来の進路の選択肢を広げるためにもしっかり勉強はしておけだの、男の子と付き合うのはいいけど、エッチするときはコンドームを絶対つけさせろだの、なんていうか、もう一人小うるさいお母さんがいたような感じだったわ」

 

そう言ってトレーナーさんはおどけたように肩をすくめます。

……こういう話が聞けるのも、女性トレーナーならではなのでしょうね。

 

「でも、結局姉さんの言ってたことは間違っていなくて……今思えば、私はあまりに子供で、姉さんの言ってることはあまり理解できていなかったような気もするし、小うるさいことを言ってくれる姉さんの気持ちもわかっていなかった気がするわね」

「人の気持ちを……妹のことを考えて忠言してくださる、よいお姉様だったのですね」

 

わたくしも、ほんの数日前までお姉様のことをそう思えていたのですけれどもね。

 

「ど~だかねえ。姉さん、ああ見えて家事がめちゃくちゃ苦手でね。姉さんが一人暮らしをはじめてすぐくらいに『お昼でも食べに来ない?』って連絡があったのよ。なんか美味しいものでもごちそうしてくれるのかな~、と思ってウキウキで家に行ったら、家の中がほとんどゴミ屋敷でさ。結局その片付けのために呼び出されただけだったの!そんなことが、何回かあったわ。たしかに行くたびにお昼はごちそうしてもらえたんだけど、正直全然割に合わなかったわ」

 

お話の内容の割に楽しそうなのは、それもきっと良い思い出になっているからなのでしょう。

 

「あの凛としていらっしゃるご令姉様が、意外ですね」

「職場ではさすがにねぇ。でもさ、今でもたま~に『私の家の片付けを手伝いに来なさい。これは姉命令よ』とか言って、LANEで召集命令が来るのよ。当然、お賃金はお昼ごはんだけで。そんなんだから結婚できないんじゃないの?って喉元まで出かけるんだけど、ほら、私って気の弱くてかよわい妹だから、そんなこと言えなくて」

「……左様でございますか。家事で言うなら、あのゴミ屋敷を拝見する限り、トレーナーさんもあまり人のことを言えないのではございませんか?」

「ふ~ん、そんなこと言うんだ。じゃあレム、明日から料理もトレーニング後の汚れたジャージの洗濯も、全部自分でやりなさいね?」

「申し訳ありませんでした。謝罪して訂正いたしますわ……」

 

いえ、さすがにそのあたりを全部トレーナーさんに丸投げしているわけではありませんが、いかんせん自宅では家事は全部メイドさんがやってくれているのでわたくしの家事スキルの経験値はゼロに等しく、トレーナーさんの助力なしではキャンプ生活が成り立たないのが実情です。

 

ちなみにトレーナーさんは意外にもお料理が上手で、毎回の食事が厳しいトレーニングの合間の楽しみになっていたりします。

 

「わかればよろしい。さ、明日も朝早くからトレーニングだし、今日はもう寝なさい。火の後片付けは私がやっておくから」

 

ひょっとしてわたくしは、こうして周りの人たちに甘やかされているせいで、洗濯一つ自力でできない人間になってしまったのではないでしょうか。

 

そんな難しいことは天皇賞のあとに考えることにして、今日のところはトレーナーさんのお言葉に甘えて、先におやすみさせていただくことにいたしました。

 




あとがき
読了、お疲れさまでした。

いえ、引き伸ばしとか、そんな意図はまったくなかったのですが…。
人間関係や感情の吐露を書き込んでいたらついつい楽しくなってしまって
また一万字を超えてしまいました。

私にも兄弟がいるので、ちょっとばかり感情移入が大きく
なってしまったのかもしれません。

エイシンフラッシュの娘のあとがきに【親子関係はいつまでたっても
難しい】みたいなことを書きましたが、
きょうだいもきっとそうなのでしょうね。

次回こそレースシーンを描くつもりでいますが、
今度は2・3千字で終わったらどうしようかと
少し怯えております(笑)。

重ね重ねになりますが長文読破、ありがとうございました。

また近いうちに、あとがきでお会いしましょう!


誤字脱字報告、いつもありがとうございます。

おかげさまで、読んで下さる方々に違和感のない文章をご提供できております。
これからも誤字脱字がございましたら、報告していただければ幸いです!
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