メジロの娘。   作:宮川 宗介

14 / 15
登場人物:メジロレム
※オリウマ娘注意です。

誕生日:4月22日
体重:もうこれ以上ない、最高の仕上がり。
身長:158センチ
スリーサイズ:89・58・85


第十四話

『先頭は二番人気のリナアラビアン!リナアラビアンが先頭!突き放す突き放す、その差は約6バ身!』

 

『これは強い!一番人気のメジロレムはバ群に沈んだ!リナアラビアン今一着でゴールイン!【最強で無敵のウマドル】が圧巻の強さを見せつけ、マイルチャンピオンシップを制しました!』

 

『一番人気のメジロレムはどうやら着外か。メジロレム、ファンの期待に応えられませんでした……』

 

*

 

「!!」

 

悪寒を感じて身を起こすと、部屋は真っ暗でございました。

枕元においてあったスマホで時間を確認すると、時刻はまだ2時半を少し回ったところでした。

 

「嫌な夢……」

 

悪寒がしたのは、どうやら大量にかいた冷や汗が原因だったようです。

わたくしはため息を付きながら、とりあえずクローゼットから替えの下着とパジャマを取り出すことにいたしました。

 

クローゼットを開けると、パジャマの隣りにあるジャージが目に入ります。

 

「…………」

 

無理は禁物。

 

そんなことはわかりきっていましたが、先程見た悪夢のせいでしょうか、耐え難い焦燥感がわたくしの全身を包み込んでいました。

 

わたくしはその焦燥感に駆られるままジャージを着込み、トレーニングシューズを手に取ってそっと部屋を出ます。

 

少しだけ。

脚に疲れが残らない程度に、少しだけ坂路を走ってくることにしましょう。

 

……こういうことができてしまいますから、自宅にトレーニングコースがあるという恵まれた環境も、実は良し悪しなのかもしれません。

 

このような時間ですから廊下には常夜灯以外の明かりは点いていませんし、住み込みのメイドさんも家族もみんな寝静まっていて……。

 

「あら。レム、このような時間にどういたしましたの?それも、ジャージなんて着て」

 

草木も眠る丑三つ時も過ぎているかかわらず執務室の前を通ると、なんとその扉が開いてお母様と鉢合わせてしまいました。

 

「え、あ、いえ。寝付けないので少し庭に出て散歩でもしようかと。それより、お母様こそこんな時間までどうなさったのです?」

「ええ。どうしても明日の朝までにまとめておかねばならない資料とデータがありまして。それと、海外の方との折衝が少々。それがようやく終わったところですわ」

 

ああ。

時差のある地域にお住まいの海外の方とのお話は、この時間でないとできなかったのでしょう。

お母様は引退後、家業の総合商社に入社なさり、現在では専務取締役として多忙な日々を送っていらっしゃいます。

それにしてもこんな時間までお仕事とは……働くというのはレース以上に過酷なことなのかもしれません。

 

「こんな深夜まで……大変ですね」

「来月はもう12月で、第三四半期決算がありますからねえ。これからますます忙しくなりますわね」

「毎年、この時期はそうおっしゃっていらっしゃいますものね。どうかお体だけは、気をつけてくださいね」

 

わたくしがそんなことをいうと、お母様は意味ありげに微笑まれました。

 

「そうですわね、お互い体には気をつけませんと。……あなたも、程々にしておくように」

「……」

 

まぁ、さすがにバレますわよね。

自宅の庭を散歩するだけなら、わざわざトレーニングシューズ片手にジャージになんて着替える必要はないのですから。

 

それでもお母様がわたくしを止めようとしないのは、きっとご自身にも似たような経験がおありだからなのでしょう。

 

負けられない勝負を前に、身を焦がすような思いに苛まれたことが。

 

「あまり体の冷えないうちに戻るようにいたしますわ。お母様はこれからお休みに?」

「ええ、6時には起きなければならないのであまり眠れませんが……それでも一睡もしないよりかはずいぶんマシですから」

「たしかに。どうか、少しでもゆっくりお休みになってください」

「そうさせていただきますわ。レムも、あまり遅くなりませんように。では、おやすみなさいませ」

 

ふわぁぁ……とあくびをしながら、お母様はフラフラと自室へと向かわれます。

 

まるでレースで力を使い果たしたウマ娘のような、おぼつかない足元を見るにタフなお母様も相当お疲れなのでしょう。

 

競走生活に疲れてしまっているときは『レースから引退すればもう戦いと無縁でいられるのに』などと思ったりすることもありますが、人は生きている限り、何らかの形で戦い続けるものなのかもしれません。

 

お仕事という戦いを終え、疲労困憊のお母様に「お疲れさまでした」とお声掛けしてお見送りし、わたくしも次の戦いに備えて剣を研ぐべく、その場をあとにいたしました。

 

*

 

マイルチャンピオンシップの当日は、晴天にこそ恵まれたものの、かなり気温が下がっておりました。

 

ある程度個人差はありますが、ウマ娘は基本的に寒さはさほど苦にしません。

わたくしなどはむしろ、寒い季節のほうが体が動くぐらいでした。

 

「うん、体調も体の仕上がりも絶好調って感じね。ちょっと、仕上がりすぎてるぐらいかしら?」

 

勝負服に着替え終わったわたくしの顔を見ながら、トレーナーさんが意味深なことをおっしゃいます。

 

「……わたくしに余力がないのは、いつものことでございますわ」

 

微妙に返答になってないようなことを言ってごまかしたつもりですけれども、おそらくトレーナーさんにはわたくしが【内職】していることがバレているのでしょう。

 

もう、トレーナーさんと出会って4年の月日が経っています。

トレセン学園に入学してからの期間だけでいうと、彼女とは家族よりもよっぽど長い時間一緒にいるわけです。

 

こういう間柄になってしまうと、隠しごとをするのもなかなか難しくなってまいりますね。

 

それでも何もおっしゃらないのは、止めても無駄だと思っていらっしゃるのか、わたくしを信頼してくださっているからなのか。

 

声にほんの少し尖りを感じるところを見るに、きっとその半分ずつなのでしょう。

 

「では、そろそろ行ってまいりますね」

「うん。無理はしないでね」

 

戦いの場に赴くわたくしにトレーナーさんは、行ってきなさいでも、がんばれ、でもなくそんな心配の言葉をかけてくださいます。

 

大レースを前にトレーナーを心配させてしまうわたくしのようなウマ娘は、きっとまだまだ未熟者なのでしょうね。

 

いつかはトレーナーさんが何の心配もなく、レースに送り出せる立派なウマ娘になることができれば良いのですが。

 

*

 

今日の京都レース場はメインレースを前に、入場制限がかかっておりました。

なんと午前中にはすでに過去最高の143606人の入場者を超え、さらに来てくださる方が増え続けたためです。

 

控え室へ入る前にスタッフさんから聞いた話では、入場者数はとうとう15万人を超えたんだとか。

 

このようなことは三冠やトリプルティアラを目前としたレースでもなかったことらしく、そのような大観衆を前にして走れるということを誇りに思います。

 

パドックにもきっと、たくさんのお客様が詰めかけておられるのだろうなと少しワクワクしながらバ場連絡口を歩いていますと、不意に声を掛けられました。

 

「あなたが一番人気ですって?気に入らないわ」

 

声をした方に振り向くと、可愛らしい勝負服にはとても似合わない、不満が詰まって今にも爆発しそうな顔をした一人のウマ娘が立っていました。

 

「……リナアラビアンさん」

「ふん。よかったわね、立派なお姉様がご家族にいて。そのお姉様にまぐれ勝ちしただけでファンの関心を引けるんだから」

 

初めてお会いしたときから思っていたのですが……どうしてわたくしは彼女にこれほどまでに嫌われているのでしょう?

 

ここまで理由の分からない嫌悪の感情をぶつけられると、怒りや悲しみの前に疑問の方が先立ちます。

そしてわたくしはその疑問を捨て置けるほど、人間関係に対して達観的にはなれておりませんでした。

 

「リナアラビアンさん。わたくしはなにか、あなたに失礼なことをしたのでしょうか?そうであるのなら謝罪させていただきたいですし、なにか誤解があれば釈明させていただきたいのですが」

 

わたくしがそうお聞きすると、彼女はこれ見よがしにため息をついてこちらを睨みつけてこられました。

 

「ねぇ。あなたは蹄鉄を買うお金がなくて、他の人が捨てた蹄鉄をつけてレースを走ったことがある?」

「えっ?」

 

わたくしはとっさには、彼女の言ったことの意味がわかりませんでした。

 

「私はある。それがどれだけ悔しくて悲しいことか、あなたにはきっと理解できないでしょうね」

 

いくら世間知らずのわたくしとてニュースぐらいは目にいたしますし、世の中にはお金に苦労していらっしゃる方がいるということぐらいは知っておりましたが……。

 

ではそういった方たちの実際の生活やその大変さを理解しているのか、と言われれば口をつむぐしかありませんでした。

 

「あなたの着ている勝負服、あなたに似合ってるかはともかくとして、とってもきれいね。メジロ家のお嬢様って、どんなに素質のない娘でもデビュー前にお母さんから勝負服を贈ってもらえるらしいわね。そういう習慣ってほんと、金持ちの道楽って感じで吐き気がするわ」

 

わたくしの返事など待つことなく、彼女は語り続けます。

暗い瞳をした彼女から紡がれる呪詛は、この場からたとえわたくしが立ち去ったとしても続けられていたのかもしれません。

 

そう思わせるほど、彼女の言葉には闇と怨嗟にまみれていました。

 

「私は、誰よりも走るのが速かった。私には、才能があった!同期でG1に一番乗りしたのも、私だった。それなのに、私の家には自前の勝負服を買えるだけのお金がなかった。だから、仕方なくURAからスターティングフューチャーの勝負服を借りるしかなかった」

 

彼女がNHKマイルカップまでスターティングフューチャーでG1に挑んでいたのは、そんな事情があったのですね……。

 

もちろんスターティングフューチャーを着てG1を戦っている娘たちが、皆そういう理由でその勝負服を着ているわけではありません。

 

トライアルレースで出走権を手にし、突然G1に出走することになって自前の勝負服を用意できなかったシンデレラガールはスターティングフィーチャーをURAから借り受けますし、初めてG1に出走した時の初心を忘れないという思いを込めて、この勝負服を着続けているベテランウマ娘の方たちも、たくさんいらっしゃいます。

 

それに素敵なデザインの勝負服ですから、単純に【自分に似合っているから】【かわいいから】という理由で着ているウマ娘も結構いたりします。

 

ただ、残念なことに彼女のような経済的理由で仕方なくスターティングフューチャーを着ているウマ娘もいる、という話は、わたくしも聞いたことがありました。

 

「でもね、私は今まで私を育ててくれたお母さんを恨んでいるわけじゃないの。お父さんが死んでから苦労して苦労して……それでも私を、私の夢を応援してくれているお母さんには、本当に感謝しかない」

 

わたくしにもひとり親家庭の友人がいましたから、その大変さは多少なりとも想像できるのですが、わたくしがその【大変さ】を口にして『それは大変でしたね』みたいに共感を示すようなことを言っても、きっと彼女の怒りを買うだけでしょう。

 

「レースで勝てるようになって、やっと親孝行できるようになってきたの。レースに勝ってもらえる奨励金なんてあなた達お金持ちからすれば本当にはした金なんでしょうけど、私達庶民にとっては、生活レベルが1つも2つも変わってくるお金なのよ」

 

お金というセンシティブなことなので世間的には非公開になっておりますが、わたくしたちウマ娘にも【奨励金】という形でレースの賞金が支払われています。

 

URAが非公開にしていることをわたくしが公表するわけにもいかないので、具体的な金額を申し上げるのは避けますが……。

 

オープンクラスのウマ娘であるなら、普通の高校生がアルバイトするよりかなり大きなお金が支払われますし、リナアラビアンさんのようにG1を複数回勝利しているウマ娘なら、彼女がおっしゃったぐらいの収入は楽にあるはずです。

 

「あなた達上流階級の人間が知った顔でよく言うように、確かにお金で幸せは買えないかもしれない。お金をどれだけ稼いでも、お父さんがいた幸せな時代は帰ってこない。でも、お金があれば避けられる不幸はたくさんある。私はレースで勝って勝って勝ちまくってお金をたくさん稼いで……そのお金で、どんな不幸もはねのけられるようになる」

 

お金は確かに、大切なものでしょう。

わたくしが広い自宅に住み、美味しいものを食べ、トレセン学園に通ってレースに集中できるのは、お母様とお父様が必死に働いてお金を稼いでくださっているからです。

それぐらいの自覚は、世間知らずのわたくしにもございます。

でも……。

 

「リナアラビアンさん。あなたは、お金のためだけにトゥインクルを走っていらっしゃるのですか?」

「ええ、そうよ!あんたみたい生まれ持ってのお嬢様には、わからないでしょうけどね!!」

 

わたくしが疑問を投げかけると、彼女はそう怒鳴り散らして眉を吊り上げ、拳をギュッと固く握られました。

 

「ふん。でもまぁ、才能あるウマ娘に生まれて本当に良かったわ。15・6歳の女の子が、こうしてレースでそれなりのお金を稼ぐことができるんだから。お金のためだったら、トレーナーにどやされながらのきつい練習にも耐えられる。好きでもないダンスの練習をして、ファンの前で愛想笑いを浮かべなきゃいけないウマドルなんてつまらない仕事もがんばれる……」

「ちょっと待ってください。あなたはウマドルも、お金のためにやっているとおっしゃるですか?」

 

ウマドルをやる、なんて言葉で言うのは簡単ですが、実際にレースを戦いながらウマドル活動をするのは生半なことではありません。

 

普段のトレーニングやウイニングライブだけでなく、自分が出走するレースの開催地でのファンとの交流やその人達に披露するミニライブ、それにURAから【ウマドル】として、イベントへの参加要請があったりもします。

 

リナアラビアンさんほど人気と実績のあるウマ娘なら、なおさらたくさんのイベントなどに呼ばれるでしょうから、スケジュールは殺人的にまでに多忙を極めているはずです。

 

それでもウマドルをやりたい、というウマ娘は【ファンともっと繋がりたい】【応援してくれる人たちに少しでもなにかお返ししたい】【レースに少しでも興味を持ってもらいたい】という強い想いを持ってやっているものなのです。

 

実際、【レジェンド】のスマートファルコンさまをはじめ、今まで登場してきたウマドルたちはそのような方たちばかりでした。

 

「はっ!当たり前よ。あんな面倒なこと、お金が貰えなきゃ誰がやるってのよ。ライブとかイベントとかのギャラも、こなせばそれなりの金額になるし。レース場には夢が詰まってる、なんて昔誰かが言ったらしいけど、私に言わせればレース場にはお金が詰まってるって感じよね」

 

どのような思いを持ってレースに挑もうが、ウマドル活動しようが、もちろんそれはそのウマ娘の自由です。

 

ですが、それが【お金のためだけ】というのは、なんとももの悲しいではありませんか。

そう感じてしまうのは結局、わたくしが恵まれた環境で生まれ育ったからなのでしょうか。

 

生まれ育った境遇があまりに違う人とは、どうしてもわかりあえないのでしょうか。

 

しかし、それでも彼女とお話してわかったことがあります。

 

彼女が嫌っているのは、わたくしがたまたま手にしている【あまりに恵まれている環境】と、それを当然のことのように受け止めて、毎日を過ごしているわたくしなのでしょう。

 

「あんたみたいに毎日をのほほん、と過ごしているだけで豪華な勝負服を着てレースに出られて、それなりに勝てる、なんてウマ娘に私は絶対に負けない。ま、あんたなんてご家族の威光だけで推された一番人気のプレッシャーに耐えられずに勝手に沈んでくれると思ってるけど」

 

言いたいことを言わずにいられないのは私の悪い癖ね、なんて吐き捨てて、彼女はわたくしに背を向け、パドックに向かって歩き出しました。

 

言いたい放題言われたわたくしは、本当なら後ろ向きの彼女の肩を掴んでこちらを振り向かせ、怒りに任せて平手打ちの一発でも入れるべきだったのだと思います。

 

でも、それをしなかったのは『自分がやっていることはすべてお金のため』と言い切る彼女が哀れに思えたからかもしれませんし、苦労人の年下相手にムキになっても仕方ない、という大人の判断があったからかもしれません。

 

それに、ウマ娘には平手打ちや言葉以上に相手に自分の気持ちを伝える方法があることを、わたくしはすでに知っていたからです。

 

*

 

たくさんの人が集まった様子を【芋を洗うような】と言ったりしますが、この慣用句を最初に使い始めた人が今のパドックを見たら、なんと表現したのでしょうか。

 

パドックには文字通り溢れかえりそうな数のファンの人達が、レース直前のマイルチャンピオン候補を一目見ようと詰めかけておりました。

 

前評判では直前に天皇賞を制し、スプリント・中距離・マイルの【三階級制覇】の懸かるわたくしと、夏にフランスのジャックルマロワ賞を勝ち、秋緒戦の富士ステークスを大差で圧勝してきた【最強で無敵のウマドル】リナアラビアンの一騎打ち、という様相になっておりました。

 

しかし【真の根幹距離】とも言われる1マイルの戦線には、この距離のスペシャリストが綺羅星のごとくいらっしゃいます。

 

例えば、今舞台上で手を振って好調ぶりをアピールしているのは、去年のマイルチャンピオンシップと一昨年のNHKマイルカップを制しているスキルファントムさんです。

 

その2つのG1の他にはスーパーG2と呼ばれる去年暮れの阪神カップなどを勝っていらっしゃり、リナアラビアンさんが登場するまでは【マイルまでなら彼女が一番強いのでは?】とファンや関係者の間で言われていました。

 

他にも昨年の桜花賞ウマ娘や安田記念勝ちのウマ娘などG1ウマ娘が18人中8人、残る10人もスプリンターズステークスで好勝負を演じたピクトアデーラさんなど、出走するウマ娘全員に重賞勝ちがあるという近年稀に見るハイレベルなメンバーが集いました。

 

これだけレベルの高いウマ娘たちが集うと、それぞれにたくさんのファンが付いていますから、誰かが舞台に上がるたびに大きな歓声があがります。

 

その中でもやはり彼女の人気は別格で、彼女が舞台に登壇すると、それまでの歓声はただの前座だったのではないかと思わされる大歓声が巻き起こりました。

 

「きゃあぁぁぁっ!リナさ~ん!こっち向いて~!!」

「リナ子、俺はお前を推したぞ!マイルなら世界でお前が一番強いって俺は信じてる!」

 

熱狂的な声を受け、彼女は大きく手を振りながら愛らしい笑みを浮かべてその声援に応えます。

明るく可愛らしい笑顔からは、さきほどまでわたくしに毒をぶつけていたことなど微塵も感じさせません。

 

その変わり身はある意味、徹底的なプロ意識を感じさせました。

 

「ありがとう~!そうして応援してくれる人がいるから、私もがんばれるよ!今日も一生懸命走るから、絶対に私から目を離さないでね!」

 

ウマ娘なら誰もが抱いているファンへの思いを口にしている彼女の言葉が空々しく聞こえるのは、わたくしだけなのでしょうか。

 

ファンへの挨拶を終え、舞台を降りた彼女はこちらに視線をくれることもなく輪の中に戻っていきます。

 

さて、そろそろわたくしの番ですわね。

 

ゆっくりと息を整え、デビュー以来初めて【一番人気のウマ娘】としてパドックの舞台に足をかけます。

 

階段を一歩一歩登るたびに、気持ちが昂ぶってくるのが感じられました。

 

そんな高揚した気持ちを抑えきれぬまま舞台の中央にまでやってくると、今まで聞いたことないような大きな歓声と拍手がわたくしを迎えてくれます。

 

「レム!あなたの力は本物だわ!今日は絶対に三階級制覇の歴史的シーンを見せてほしい!」

「お前は【日本一のウマ娘】に勝ったんだ!今度は【世界一のウマ娘】に勝ってみせてくれ!」

 

わたくしに大きな期待を寄せてくださっているファンの皆様の声を聞きながら、わたくしはカーテシーを披露して膝を折りました。

 

そして顔を上げ、集まってくださった方々のお顔を拝見しながら、小さく手を振ります。

 

一番人気だからといって、いつもはやらない派手なパフォーマンスは必要ないでしょう。

 

あとはいつもどおり、レースに全身全霊で挑むのみです。

 

*

 

一番人気としてゲートインするのは誇らしいものではありましたが、同時に『不甲斐ないレースはできない』という猛烈な重圧を感じずにはいられませんでした。

 

わたくしは【三階級制覇】に挑む挑戦者であると同時に、ここに集ったトップマイラーたちから挑まれる立場でもあるのです。

 

最後の一人が、ゲートに入った音がします。

 

全ウマ娘、ゲートイン完了。

 

晩秋の淀に、ゲートが開く乾いた音が響き渡りました。

 

いつもよりかなりよいスタートが切れたわたくしは、あえて少しスピードを落として他のウマ娘たちの動向を伺います。

 

わたくしのように本来後ろから行くウマ娘がスタートダッシュに任せて前の方でレースを進めてしまうと、スタミナと末脚の配分がバラバラになってしまい、全く力を出せないまま勝負が終わってしまう、なんてことにもなりかねません。

 

マイルという距離でも天性のテンの速さを活かして前に出たのは、やはりピクトアデーラさんでした。

他にも逃げ脚質のウマ娘が何人かいましたから、競りかけてペースが速くなったりしてくれないかな、と思ったりしましたが、さすがにこのG1の舞台でそんな無茶なことをする娘はいませんでした。

 

一番人気のわたくしが差し、二番人気のリナアラビアンさんが追い込み脚質なので、ペースを速くして後ろから行く人気勢を楽させてやることはない、と前を行く娘達が考えるのは自然なことです。

 

先行勢はマイルチャンピオンシップ連覇の懸かる三番人気のスキルファントムさんを中心に一団となっていました。

 

少し空いてわたくしたち差しのウマ娘がバ群を形成しているのですが……わたくしを中心に、体がぶつかりそうになるほどの団子状態になってしまっています。

 

前の方たちのレース運びを見るにおそらく平均ペースになるでしょうから、これほど固まる必要はないように感じるのですが……。

 

これだけ密集していると後ろを振り返ってもリナアラビアンさんの位置は確認できませんが、彼女はおそらくいつもと同じように、最後に恐るべき末脚を爆発させるべく、最後尾でレースを進めているのでしょう。

 

バ群はまったく散らばることなく、800Mの標識を通過しました。

体感的にはやはり、平均ペースと言った感じです。

 

しかし……。

 

一番人気という重圧が自意識過剰を引き起こすのか、まわりからの視線がいつもより強く感じられました。

特に右隣を走る去年の朝日杯フューチュリティステークス勝ちがあるフォレストリーチさんと、わたくしの前を走っていらっしゃるスピードアレドレアさんとは、何度も険しい視線がぶつかります。

 

彼女たちからは【絶対に楽なレースはさせない】という気迫が怖いほど伝わってきて、『今のうちになんとかしておいたほうがよいのではないか』という焦りが生じ始めました。

 

わたくしは小中学生時代から一貫して【差し】で走っておりますので、このように囲まれてしまう展開というのはそれなりに経験してきているのですが、周りからこれほどのプレッシャーを掛けられながら走るのは、初めてのことです。

 

いえ、レム、落ち着くのです。

 

囲まれているとは言え、ペースはあくまで平均ぐらいの時計で流れている。

幻惑的なレースをされて、スタミナを無駄に消費させられているわけでもない。

 

勝負どころで力を出し切るためにも、今はペース配分とフォームを維持することに集中するのです。

 

懸案だったマイル向きのフォームの改良は、最後の追い切りでなんとか完成したと言えるレベルまで持ってこれました。

 

それでも本番でそのフォームを維持しきれるかは正直分からなかったので、トレーナーさんからは『レース中違和感が生じるようだったり、スタミナの消費がいつもより早そうだったら、すぐにレム本来のフォームにすぐ戻すように』と何度も念押しされておりましたが、今の所そんな心配はなさそうです。

 

残り600Mを切り、少しずつペースが上がってきました。

 

わたくしはそのペースに無理なくついていくことはできているのですが……先行集団も、わたくしのまわりもバ群がバラける気配が全くありません。

 

そろそろ、順位をあげていかないと……。

 

気持ちは焦るのですが、前方のどこをみても抜け出すスキがまったく見当たらないのです。

 

……それなら仕方ありません。

 

最悪、距離の損は承知で大外を回ろうと覚悟して左を見ますと、そこにもまるで壁のように何名かのウマ娘が立ちはだかっていました。

 

ことここに至って、わたくしはようやく気づきました。

 

わたくしは一番人気が故に、徹底的にマークされていたのだと。

 

思い返せば、わたくしはトゥインクルにデビューして以来、自分がこれほどマークされた経験は一度もありませんでした。

 

今まで勝利したレースでわたくしは脇役、良くて有力ウマ娘の一人という立場で戦えていました。

そのような立場が故にそれほど注目もされず、自分のレースができていたのでしょう。

 

実力的に明らかに抜けているはずの1番人気のウマ娘が惨敗する、というレースを見るたびに、なぜあのようなことが起こるのだろうかと常々不思議に思っておりましたが……。

 

今わたくしはその答えを身をもって実感しておりました。

 

そして、一番人気で勝利するということの難しさも。

 

未だ二桁順位のまま、最後の直線を迎えます。

 

最初に立ち上がったのはピクトアデーラさんでしたが、先行集団から一歩抜け出したスキルファントムさんが彼女に追いつきつつありました。

 

わたくしの前を走っているスピードアレドリアさんもペースを上げつつあるものの、前を開けてくれるつもりはまったくないようです。

 

このまま進路が確保できなかったら……。

 

そんなネガティブな自動思考が脳内をよぎり、嫌な汗がわたくしのひたいと背中から吹き出してくるのが感じられました。

 

冷や汗の原因はバ群に閉じ込められている、ということだけではありません。

 

後方、それもとんでもない大外から感じられる猛烈な威圧感。

 

【最強で無敵のウマドル】、リナアラビアンが凄い脚でとうとうやってきました。

 

大地を弾ませるかのような豪脚で、バ群の中でもたついているわたくしをしり目に、淀のスタンド前をまるでワンマンライブであるかのごとく鮮やかに駆け抜けます。

 

わたくしはこの時、【ひとり旅】ができるのは何も逃げウマに限った話ではないということを、初めて知りました。

 

おそらくは固まっている前方を見て、安田記念のときのように無理にそこをこじ開けるよりかは、少々距離をロスしても思い切り大外を回った方が良い、と判断したのでしょう。

 

そしてそれぐらいのロスなら自分の実力でカバーできる、という絶対の自信が彼女にはあるです。

 

どうする。

どうする?

どうする!?

 

離されていくリナアラビアンさんの背中を見て、焦燥感は募るばかり。

 

外は相変わらずがっちりカードされている。

前は開く気配がまったくない。

 

 

わずかな可能性にかけて内ラチ側を見てみると、内ラチと前を走っているウマ娘の間に一人入れるか入れないかぐらいの隙間がありました。

 

……いえ、おそらくそこに突っ込むのは不可能でしょう。

わたくしがラチに突っ込んで怪我をする、ぐらいなら構わないのですが、そんなことをすれば周りを巻き込む大事故になりかねません。

 

しかしもう、わたくしがバ群を抜け出すにはそこを通るしかなさそうでした。

 

……。

 

ここは、我慢です。

G1に出てくるような一流のウマ娘とて、しょせんは生き物。

ジャイロ機能を搭載したロボットのように、まったくぶれずにまっすぐ走り続けるなんてことはできません。

 

少しでも彼女が外によれたら、その瞬間を見計らって内に突っ込みましょう。

もしチャンスが来なかったら……そのときはそのときです。

 

厳しくマークされるということを事前に予想できていなかった自分の不備を、レース後、存分に後悔することにいたしましょう。

 

そう。

思い悩んだり、自分を責めたりするのはレースの後で十分間に合いますから。

 

わたくしは内ラチと前のウマ娘との距離の目測に全神経を注ぎ込みます。

 

まだ。

 

まだ、せまい。

 

少し外にもたついたけど、まだ……。

 

「……!!」

 

わずかに彼女の重心の傾きが大きくなった瞬間を見咎め、わたくしは思い切って内ラチと彼女の間に自分の体を滑り込ませます。

 

「はぁっ!?嘘でしょ!?」

 

そんな叫び声が、すぐ左隣から聞こえてきました。

彼女もまさか、自分の内から差し込んでくるバ鹿娘がいるとは、思いもしなかったのでしょうね。

 

「っ!」

 

ガツン!!と凄まじい衝撃がわたくしの全身を襲い、内ラチとすれた右腕が摩擦で肉がこそぎ取れたかのような錯覚に囚われました。

左の肘は彼女の腕とぶつかって痺れるような痛みが左腕全体を覆いましたが……それだけです。

 

相当無理な姿勢になってしまいましたが、どうやらその隙間に入り込むことには成功したようです。

 

わたくしはなんとか体勢を立て直し、前方をしっかりと見据えます。

 

そこにはまるでわたくしを導くかのように、内ラチいっぱい、一人通れる道が開いておりました。

 

「う、うおぉおぉおおぉおぉおぉっ!!」

 

わたくしは無意識の内に咆哮をあげ、溜まりに溜まった末脚を爆発させて淀の芝を蹴り上げます。

 

今のわたくしには、前をゆくウマ娘たちがまるでスローモーションで動いているかのように見えていました。

 

そうして最内からまとめて前をゆくウマ娘たちをひとり、またひとりとなで斬りにし、残り100Mのハロン棒を通過したときにはすでに前に誰もいなくなっておりました。

 

しかし最大の敵は大外を回っているため、視認することができません。

 

もう追い抜かしてしまったのか。

……まだ、わたくしの隣りにいるのか。

 

わずかに横に視線を動かすだけのエネルギーも惜しいと思ったわたくしはただひたすらに前を見据え、耳をつんざくような大歓声の中、ゴール板に飛び込みました。

 

「はっ……はあぁっ……!……はぁ……」

 

天皇賞より400Mも短いレースだったにもかかわらず、ゴールしたわたくしにはもう、立っている力すら残っておりませんでした。

 

かように、プレッシャーというものは厄介なものです……。

 

後続の方たちの、邪魔にならないところにいかないと……。

 

その思考だけを支えに脚を動かし、わたくしは誰もいない本バ場の大外までたどり着くと、一も二もなく芝の上に倒れ込みました。

 

「酸素、酸素持ってきて!なにこれ!?右腕めちゃくちゃ血が出てるじゃない!救急箱も急いで持ってきてちょうだい!!レム、大丈夫!?返事して!」

 

トレーナー席から慌ててやってきてくださったのでしょう、焦るようなトレーナーさんの声がわたくしの鼓膜を打ちました。

 

「大丈夫……です……わたくし、勝ってますよね……?」

 

酸素を口に当てられた状態でしたからくぐもった声しか出ませんでしたが、わたくしの聞きたかったことは伝わったようです。

 

「……あなたとリナアラビアンさんは最内と大外と分かれてほとんど同時にゴールインしたの。最後まで勝敗は分からなかった。今は写真判定中よ」

 

どうやら怪我をしているらしい右腕に消毒液をふりかけて(痛い!今まで何も感じなかったのに!)、手早く処置しながらトレーナーさんが現状を教えて下さいます。

 

……写真判定、ですか……。

 

迅速な処置のおかげで血液中に酸素がいきわたり、文字通りなんとか息を吹き返したわたくしはトレーナーさんの肩を借りて立ち上がります。

 

少し離れたところではリナアラビアンさんが憮然とした表情を浮かべて、ターフビジョンの着順掲示板を睨みつけていらっしゃいました。

 

マイルという絶対の自信があった距離で、大嫌いなわたくしに写真判定にまで持ち込まれたことが面白くなかったに違いありません。

 

しかし、わたくしがこの有様なのに彼女の呼吸はとても1600Mのレースを走ったあととは思えないほど落ち着いていました。

 

さすがは、あの鬼軍曹の愛弟子です。

わたくしなんかとは、鍛えが違うのでしょう。

 

*

 

「長いわね……」

 

わたくしと一緒に首が痛くなるほどの時間、着順掲示板を見上げていたトレーナーさんがつぶやきます。

 

もう、最後のウマ娘がゴールしてから15分以上が経過していました。

 

にもかかわらず、1着と2着は未だ番号が表示されておりません。

 

わたくしが知る限り、写真判定に要した最長時間はフラワーパークさまとエイシンワシントンさまが1着を争ったスプリンターズステークスでの12分ですから、着順を巡っての結論がかなり紛糾しているものと思われます。

 

ゴール直後は自分の勝ちを信じて疑っていなかったリナアラビアンさんも不安になってきているらしく、やってきた【鬼軍曹】トレーナーに「大丈夫、リナが勝ってるに決まってるわ。あなたのような超一流は、こういう時必ず残しているものなのよ」と激励されていました。

 

同じく長時間結果を待たされているわたくしの心情なのですが、自分でも意外なほど、平静を保っておりました。

 

自分はおそらくは日本のレース史上最高の天才マイラーであろう相手に、全精力を出し切った。

勝っても負けても、その結果を受け入れよう。

 

そして自分が負けたのなら、素直に【最強で無敵のウマドル】を褒め称えよう。

 

そんな心境になっておりました。

 

待たされた時間に反比例して、運命の着順が表示された瞬間は、なんともあっさりしたものでした。

 

1着 13

2着 11 ハナ

3着 ・・・

 

番号が表示された瞬間、過去最高の入場者数を記録した観衆たちから爆発的な歓声があがります。

 

1着は、13番のウマ娘……。

 

「わたくしが、勝った……」

 

わたくしの全身を包み込んだのは、天才を打ち破った歓喜でも、いけ好かない後輩を負かしてやったという反骨心でもなく、一番人気の重責を果たせたという安堵でした。

 

わたくしを包み込んでくれたのは、その安堵だけではありません。

 

「すごい……。あなたは私が想像したより、はるかに凄いウマ娘だったわ。おめでとう。本当に、おめでとう!」

「トレーナーさん……」

 

言葉というのは、存外に不便なものです。

 

この感激と感謝をすべて伝えられる言葉というものを、わたくしは自分の語彙の中から見つけることができませんでした。

 

そんなわたくしにできたのは、その思いを精一杯込めて、トレーナーさんを抱きしめ返すことぐらいでした。

 

*

 

「うっ……うあっ……うわぁああぁあぁあぁああぁんっ!!」

 

未だ続く大観衆の大歓声さえかき消すほどの慟哭が、京都レース場に響き渡りました。

 

【最強で無敵のウマドル】は栄光を刻み続けてきたマイルの芝にへたり込み、まるで生まれて初めてレースに負けた小さな子供のように、泣きじゃくっていました。

 

……ある意味、彼女にとってはそうだったのかもしれません。

 

レース場という戦場に産み落とされた、負けることを知らない天才少女にとっての、初めての敗北。

 

「リナ。泣かないでいいのよ。あなたは、強いんだから。取られたタイトルなんて、また取り返せばいい。あなたには、それができるだけの実力があるんだから」

 

そこにいたのは【最強で無敵のウマドル】でも【若き天才マイラー】でもなんでもなく、トレーナーに抱きしめられ、慰められながら負けた悔しさをあらわにして大泣きする、普通の10代の女の子でした。

 

*

 

ひょっとしたらリナアラビアンさんはウイニングライブを欠席するのではないか、と思ったのですが、それはウマドルとしてのプライドが許さなかったのか、涙で腫れ上がった瞳を隠そうともせず、準センターとしてわたくしの隣に立ってくださいました。

 

「レム、三階級制覇本当におめでとう!」

「歴史的瞬間を見せてくれて、ありがとう!」

「リナ子も、よくやった!また熱い勝負を見せてくれよな!」

 

サイリウムを振りながら称賛の声をあげてくださる皆様に、わたくしも、リナアラビアンさんも笑顔で手を振ってお応えします。

 

そうしているうちに舞台が闇に落ち、BGMが流れ始めました。

 

しかし、リナアラビアンさんはあのような惜敗の直後に、大嫌いなわたくしをフォローするような立場でまともなライブができるのでしょうか……。

 

*

 

そんなわたくしの心配をよそに、ウイニングライブは本当に素晴らしいものになりました。

 

準センターのフォローや見せ方一つで、センターのパフォーマンス、ひいてはライブの出来そのものが劇的に向上するのには驚きました。

 

リナアラビアンさんのおかげでわたくしは過去最高のダンスと歌を、三階級制覇という記念すべきライブでファンの皆様にお届けすることができたと思います。

 

ウマドル活動に対して露悪的なことを言いながらも、リナアラビアンさんはひとりのウマドルとしてライブの研究も怠っていないのでしょう。

その立ち回りとパフォーマンスに、わたくしは彼女のウマドルとしての矜持を見たような気がしました。

 

「リナアラビアンさん。素晴らしいフォロー、ありがとうございました」

 

ライブ後、舞台袖にはけてすぐにわたくしはリナアラビアンさんのもとへ行き、お礼を申し上げました。

 

「ふん。いいライブをしないと次からくるお客さん減っちゃうかもしれないからね。お客さんが減るとその分グッズやライブに落とすお金も減るから、私も困るし」

 

なんともあまのじゃくなことをおっしゃっていますが、それが100%の本心ではないということは今日のライブに限らず、ライブでのリナアラビアンさんを見ていればわかります。

 

お金のためだけ、と割り切っている人の歌やダンスが、あれだけたくさんの人を感動させることが果たしてできるのでしょうか?

 

面倒だ、お金のためだといいつつも、彼女はウマドル活動というものを愛し、情熱を持って取り組んでいるのでしょう。

 

そしてきっと、レースに対しても同じような気概を持っていらっしゃるのだと思います。

 

そんな愛すべきウマドルは、なぜかわたくしの胸部をじっと見つめていらっしゃいました。

 

「……ちっ。今日はいいもの食べて無駄に育ってるそのおっぱいの差で負けちゃったけど、今度はそうはいかないから」

 

あの微差の決着は、別におっぱいの差ではないと思うのですが……。

それに実を言うと、お母様もお姉様も同じものを食べているのですが、まぁ言わぬが花、という美しい日本語もございますからね。

 

「ま、おっぱいのことはどうでもいいわ。あなた、次走はどうするつもり?」

 

どうでもいいのなら身体的な特徴はあまりイジっていただきたくなかったのですが、ここは勝者の余裕を見せつけておくといたしましょう。

 

「次走のことはまだ未定でございまして。しかし、秋はもう厳しい3つのG1を走らせていただきましたからね、おそらく今年はもう休養になるかと思いますわ」

「はぁ……あなた、夏場はたっぷり夏休み取ってレース一回も走ってないわよねぇ。まったく、お嬢様は極楽ローテでよろしいことでございますわね。私は来月の香港マイルに出走するって言うのに。まったく、貧乏暇なしとはよく言ったものだわ」

 

極楽ローテとは、なかなか言ってくださるものです。

それに夏はわたくしもレースこそ走っておりませんでしたが、それなりに努力していたつもりなのですけれどもね。

 

彼女とお友だちになるには、もう少しばかり相互理解が必要なようです。

 

相変わらずな彼女は肩をすくめると、もう用はないとばかりにわたくしに背を向けました。

 

「なら、あなたとの再戦は来年の安田記念になりそうね。勝ち逃げなんて、絶対に許さないから」

「はい。来年、さらに成長したあなたとまた戦えることを楽しみにしております。わたくしも、負けないように精進いたしますわ」

 

そういうわたくしに返事することもなく、リナアラビアンさんはその場を立ち去りました。

 

わたくしは何も、強がりだけでそういったわけではございません。

 

来年シニア級の彼女はきっともっと強くなるのでしょうが、今シニア二年目のわたくしも、まだまだ成長する余地があると感じておりました。

 

なにせわたくしはシニア三年目に2つのG2にレコード勝ちし、G1・宝塚記念制覇を成し遂げているあのメジロマックイーンの娘なのですから。

 

*

 

トレーナーさんは【スプリント・マイル・中距離三階級制覇】のお祝いに、「なにか美味しいものを食べに行きましょう!」と誘ってくださいました。

 

やってきたのは、初G1制覇の時に連れてきてくださったときと同じお寿司屋さんです。

 

「あらためて、スプリント・マイル・中距離の三階級制覇おめでとう!今日は遠慮せず、何でも食べてね!」

「ありがとうございます。では、早速カツオをいただけますか?」

 

わたくしの注文に、あのダンディな大将が「へい」とお返事してくださいます。

 

「大将が握ってくださるお寿司は本当に美味しいですから、また来たいと思っていましたのよ」

「恐縮でさぁ」

 

わたくしが話しかけても変わらない手際の良さは、熟練の技を感じさせます。

 

「レムがここを気に入ってくれているようで、本当に良かったわ」

 

おしぼりで手を拭きながら、トレーナーさんは赤貝を注文なさいました。

確か前に連れてきていただいたときもそうでしたから、それが彼女のお寿司屋さんでの定石になっているのかもしれませんね。

 

「私ね、なにかいいことがあったらここで食事して、一つずついい思い出を積み重ねていってるのよ」

「思い出を?」

「そう。いいことがあってこのお店でお寿司をいただくと、ひとついい思い出ができるでしょう?でね、実はちょっと精神的にしんどいな、つらいなって思うときもここに来てるの。そうしたら良かった頃の記憶を色々と思い出して『またきっと、いいこともある。がんばろう』って気持ちになれるのよね。美味しいもので胃袋も慰められて、一石二鳥ってわけ」

 

なるほど。

このお店に連れてきてくださるのには、そのような想いがあったのですね。

トレーナーさんのよい思い出の中にわたくしもいられる、ということは素直に嬉しく思いました。

 

「それにしても距離別三階級制覇かぁ。凄いことをやってのけたわね」

 

ちびりとビールを口にしながら、しんみりとトレーナーさんはおっしゃいます。

 

「これもすべて、トレーナーさんの的確なご指導と献身があったからですわ」

「私はあなたをサポートしただけだけどね。正直、レムが三階級制覇のことをいい出したときは『怒りでムチャクチャなこと言ってるなあ、どうやってなだめよう?』ってそればかり考えていたけど」

 

確かに、あの流れで三階級制覇を宣言してもそう思われるのが関の山だったでしょうね。

 

「でも、あなたはただ言うだけじゃなくて目標に真摯に向き合って、普通の娘なら投げ出してしまうような厳しいトレーニングにも耐え抜いた。この娘は本当にすごいな、私もこの娘から学ぶことがたくさんある、って教えられたわ。トレーナーの最高の教師は担当しているウマ娘、なんて使い古された格言があるけど、長い間生き抜いている言葉には真理の一端があるものなのね」

 

トレーナーさんは手にしていたジョッキをテーブルに置くと、わたくしの方に振り向かれました。

 

「あなたのトレーナーで、よかった。本当に、ありがとう」

「……恐縮でございますわ」

 

何のてらいもなくそこまでまっすぐに褒めていただけると、照れくさいを通り越して、なんだか恥ずかしい思いがいたしますわね……。

わたくしの方こそきっと、彼女がトレーナーでなければ今回の成果を出すことはできなかったことでしょう。

 

未熟で、感情的で、わがままなわたくしを全部受け入れてくれるトレーナーさんでなければ。

 

素直にそのことが言えなかったあたり、大人なトレーナーさんとは違ってわたくしはまだまだ子供なのでしょうね。

 

照れ隠しのように、わたくしは出てきたかつおの握りをぱくり、と一口で放り込んでしまいます。

 

ああ。

これほど美味しいかつおの握りを、わたくしは今まで頂いたことがございませんでした。

 

「これからの予定だけどね。今年は休養に入って、来年は……」

 

そういうとトレーナーさんは腕を組んで眉間にしわを寄せられました。

……なにか、重大な懸案があるのでしょうか?

 

「どうなさいました?」

「う~ん……実はすごく迷っているのよ。最強スプリンターの地位を盤石にするために、高松宮記念の二連覇を目指して出走するのもいいし、大阪杯に出て中距離女王に名乗りを上げる、というのも悪くないかなと思ってるのよね。なんなら同じ時期にある1800Mのドバイターフに挑戦するのも、魅力的だと思わない?」

 

なるほど。

わたくしの距離適性の幅ゆえに、悩みが増えてしまったわけですね。

それはなんとも……。

 

「贅沢で、夢のある悩みですわね」

「そうなのよねぇ。ま、今日は来春の目標を肴にして美味しいものをいただくとしましょうか」

 

お互いの輝かしい未来に思いを馳せ、美味しいものをお腹いっぱいいただく。

 

それはまるで、夢のような時間でございました。

 




読了、お疲れさまでした。

私は将棋や麻雀などの勝負事も趣味でやりますので負けて悔しい、
というのはしょちゅうなのですが、さりとて【負けて泣くほど悔しい】思いを
したのは一体最後がいつだったやら。

遠い記憶を遡ると、小学4年生の時に将棋で伯父さんに負かされたのが
勝負に負けて泣いた、という最後の記憶のような気がします。

それなりに人生を生きていると、色々な形での敗北というのは日常茶飯事で、
いつのまにか【人生、こんなものさ】と悟ったような境地にたどり着き、
それほど大きく感情が揺さぶられることもなくなりますよね。

これが大人になるということなのか、子供の頃なりたくないと思っていた
つまらない大人になってしまったのか。

青臭いようで、これはなかなかの命題な気がします。

いつものことながら、今回も長文読破ありがとうございました。

また近いうちに、あとがきでお会いいたしましょう!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。