メジロの娘。   作:宮川 宗介

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メジロマックイーンの娘で、双子である妹が、優秀な母や姉にコンプレックスや引け目を感じつつも、精一杯競争生活を全うしようとするお話です。


第二話

いよいよ年が明け、わたくしとトレーナーさんはG3・シルクロードステークスに向けて本格的に始動し始めました。

 

わたくしもトレーナーさんも重賞に挑戦するのは初めてのことでございますので、お互いに期待と不安が入り混じった日々が過ぎてまいります。

 

といいましても、わたくしたちに特別できることはございませんので、いつものようにコツコツと真剣に、トレーニングに取り組むのみなのですけれどもね。

 

「ふぅ……はぁっ……」

 

一走り終えたわたくしは、もう日が暮れつつある真冬の夕空を見つめながら、少しばかり乱れた呼吸を整えておりました。

 

「は~い、レム、おつかれ様。脚の調子はどう?」

 

スポーツドリンクを手渡しながら、トレーナーさんが調子を確認してくださいます。

実は昨日、ダートを走り込んでいる最中に少しばかりふくらはぎが腫れてしまい、念のためにトレーニングを中断したのですね。

 

「脚の調子は悪くありません。ただ、少しばかり物足りないと申しますか……」

 

わたくしが小さく苦笑を浮かべると、彼女もまた、苦笑いを返してくださいました。

 

「そうよねぇ……レース前でもあるし、ホントは坂路やダートをしっかり走り込んでおきたいところだけど」

 

昨日のふくらはぎの腫れはケガというほどのものではありませんでしたが、今日のトレーニングは少しばかり様子を見る意味も兼ねて、ポリトラックと呼ばれるコースを走っておりました。

 

ポリトラックコースは近年開発された、ポリエステルやウレタンなどの排水性の高い素材をコースに敷き詰めたトレーニングコースで、コースの状態が天候に左右されづらく、しかも脚元への負担が比較的少ないトレーニングとして最近注目されています。

 

ただ、逆に言いますと従来の坂路やダートほど負荷を掛けられるトレーニングではないので、その効果もそれなり、といったところなんですね。

 

「すみません。わたくしの脚元が弱いばかりに……」

 

お姉様くらいに、とは申しませんが、平均的なウマ娘の丈夫さがわたくしにあれば、トレーナーさんをこんなに苦悩させることもなかったはずなのです。

 

「何言ってるのよ!あなたの脚元の弱さは誰のせいでもないわ。今できることの最善を、二人で尽くしていきましょう」

 

ああ、彼女のこの前向きな性格に、太陽のような笑顔に、わたくしはどれだけ救われてきたことでしょう。

 

そうですよね。

現状を嘆いていても、未来は良くなったりしません。

いまできることの、最善を。

 

「今日はふくらはぎの腫れも痛みもありませんし、まだ体力はあり余っています。もうあと半マイルだけ、ポリトラックを走ってきてもよろしいでしょうか?」

 

わたくしがそう言うと彼女はわたくしの脚元にしゃがみ込み、そっとふくらはぎに手を当てました。

 

「熱は持ってないようね。……どう、痛くない?」

 

彼女はふくらはぎに当てた手に少し力を込めましたが、痛みは全く感じませんでした。

 

「ええ、大丈夫ですわ」

「じゃあ、あと半マイルだけよ。いってらっしゃい!」

 

彼女は立ち上がると、笑顔でわたくしの背中を押してくださいました。

自分の背中を押して、見守ってくれる人がいる。

 

それだけで人は、結構頑張れるものです。

 

わたくしは力強くうなずくと、今できることの最善をつくすためにポリトラックコースへと駆け出していきました。

 

 

シルクロードステークスは1月の中旬に京都レース場で行われるG3のレースで、G1・高松宮記念へ向けての、重要なステップレースの一つです。

ここから高松宮記念へ向かうウマ娘も多数おり、その分出走する娘たちの層も手厚くなります。

 

今日わたくしは、そのような大きな舞台に出走することができるのです。

あの長期休養中の日々を思えば、まるで夢のことのようにすら感じてしまいます。

 

控室はいつもと何も変わらないはずなのに、今日のここの空気はなんだかいつもより張り詰めているような気がいたします。

 

初めての重賞競走、それもレベルの高いレースに出走するということもあり、わたくしもかなり緊張しているのですが……。

 

「レム。もうすぐパドックへ行く時間よね。あ~……緊張する。胃が痛い。頭痛い。おしっこ漏れそう……」

「……大の大人の女性が、そのようなことをおっしゃらないでくださいまし」

 

自分が緊張していても、もっと緊張している人を見ると変に客観的になって落ち着くことができる、なんてことはよく聞きますけれども、ここまでまるっと自分が当てはまる状況になることはめったにないのではないでしょうか。

 

「レムはすごいわねぇ。あんまり緊張してないみたい」

「そんなことはないのですが……」

 

あなたの緊張ぶりを見ていると、こっちが妙に落ち着いてしまうだなんて、そんな底意地の悪いことは申し上げません。

 

わたくしは、メジロの娘ですからね。

 

『人前に出る時は常にメジロ家の一員ということを忘れず、誇り高く、そして気品ある立ち振舞いを心がけなさい』

 

普段はお優しいお母様ですが、このことだけは幼い頃より、ことあるごとに何度も言い聞かされてきました。

 

そんなわたくしの境遇に、同級生からは『堅苦しくない?』とか、『お嬢様も大変なんだね』などと言われることもありましたが、生まれた時からそういう環境にいれば、そうは感じないものです。

 

むしろそのような世間から常に注目を集める【メジロ家の一員】であるからこそ、その名に恥じぬようありたいと願い、己を律し、非才を自覚しながらも研鑽を積み重ねることができるのだとわたくしは思っております。

 

「そろそろ時間ですわね」

 

そう言いながら立ち上がると、トレーナーさんがわたくしの手に、そっと手を重ねてくださいました。

その手はとても暖かく、小さい頃お出かけした時、お母様がわたくしが迷子にならないように繋いでくださっていた手を思い出させてくれました。

 

「ケガだけはしないようにね。脚に変調を感じたら、絶対に無理しないで」

 

真剣な眼差しでそうおっしゃるトレーナーさんに、わたくしはただただ首を縦に振ったのでした。

 

 

重賞競走の雰囲気は、いままでわたくしが走ってきたどんなレースとも違っておりました。

パドックに押しかけたファンの皆様の熱気も、レース前に感じる、ウマ娘たちが発する闘志も。

 

今日の一番人気は、前年のスプリンターズステークスの覇者であるライラクロスさんという方です。

彼女はわたくしと同じ歳の方で、ジュニア級のころよりスプリントからマイルを主戦場になさっており、昨年7度目のG1挑戦でG1ウイナーになられたという、歴戦の勇者です。

 

他にも前年の高松宮記念を勝っていらっしゃる古豪の方やオープン・重賞3連勝中の方など、どこを見回してもわたくしより格上の方しかいらっしゃらないのですが、そんな中でもわたくしは前回のオープン勝ちが評価されたのか、4番人気に推されておりました。

 

「レム~!がんばって~!!」

「でも、無理はしないでね!」

 

そんな女性たちの声が聞こえてまいります。

 

レースファン、もっというならウマ娘を応援して下さる方々の男女比はおよそ7:3ほどと言われています。

そんな中でも、なぜかわたくしは女性に応援してくださるかたが多いのですね。

 

そんな黄色い声援を背に受けつつ、ゲートインが完了しました。

 

がちゃん!!

 

ゲートが開かれ、1200Mの短期決戦がスタートいたしました。

 

スタートそのものはそれほど悪くなかったのですが……わたくしは俗に【出足が遅い】と言われるタイプのウマ娘で、ロケットダッシュできる脚を持っていません。

 

そんなこともあり、スタートが良くても、最初から先団の良い位置についてレースを進める、ということが難しいのですね。

 

出足の良い方々の動きを見つつ、なんとか中団の位置につけることに成功しました。

この位置なら、それほどひどいレースにはならないはず。

 

スプリントのレースは距離が短いがゆえにミスを挽回することが難しく、一つの判断の遅れが致命傷になりかねません。

 

長距離戦はペース配分のうまいウマ娘が勝ちますが、短距離戦では思い切りの良い判断ができ、なおかつそれが大きく狂わないウマ娘が勝利を手繰り寄せることができます。

 

そしてわたくしは、その判断に少々自信があるのです……!

 

残り600Mを過ぎ、1番人気のライラクロスさんがいよいよ仕掛けました。

 

王道の仕掛けで、自分の力に自信があるからこそ、周りを気にせずセオリー通りに仕掛けることができるのでしょう。

 

彼女に後れを取るまい、と徐々にペースを上げ始める方々もいらっしゃいます。

 

わたくしもできれば同じように仕掛けたかったのですが、G1を勝つほどのウマ娘と同じタイミングで仕掛けては、どうやっても地力の差が出てしまうことでしょう。

 

そこでわたくしはワンテンポ仕掛けを遅らせ、スタミナをわずかに温存し、最後の勝負どころで爆発できるよう脚を溜めることにいたしました。

 

さあ、最後の直線勝負です!

先頭は早くも、ライラクロスさんが立ち上がっています。

 

それを見るように周りも一斉に脚を使いだし、ペースが一気に上がりました。

 

さすがに重賞競走です。

そのペースの上がり方はわたくしが経験したことのないほどの激しいものでしたが、わたくしにも積み上げてきたものがございます。

 

そのペースに置いていかれることもなく徐々に順位を上げていき、わたくしは団子状態だった二番手集団から一歩、抜け出すことに成功しました。

 

少しずつ、後続の気配が遠ざかっていくのを感じられます。

 

……あとは、先頭にいるライラクロスさんを捉えるのみです!

 

G1ウマ娘とはいえ無限のスタミナを保持しているわけではなく、直線前から先頭に立っていたライラクロスさんの脚色は、徐々に衰えつつありました。

 

対してわたくしは、直線前にためていたスタミナと脚がまだ残っております。

 

彼女との差は、約3バ身。

ゴールまでの距離は、およそ300Mほど。

 

ここです!!

 

わたくしは一気にギアを5速に切り替え、ためていた末脚を爆発させます。

3バ身あった差がみるみる間に縮まり、G1ウマ娘のライラクロスさんをかわして、とうとうわたくしが先頭に立ちました。

 

ひょっとしたら勝てるかもしれない、と湧いてくる勝利への欲から意識をそらすように、わたくしはただただ、ゴール板目指して全力で脚を動かしました。

 

しかし、敵もさるもの。

さすがはG1を勝ったウマ娘です。

 

「こんなところで……絶対に、負けられないわ!!」

 

そんな叫び声とともに、強烈なプレッシャーが背後から感じられました。

 

そして、一度はかわし、抜き去ったと思ったライラクロスさんは、こちらを食いちぎらんばかりの恐ろしい形相で睨みつけながら、凄まじいまでの根性でもう一度わたくしを差し返したのです。

 

……何という勝利への執念なのでしょう!

 

そんな彼女に触発されたのか、まだわたくしの闘志はまったく衰えておりませんでしたが……半歩、ライラクロスさんが前に出たところが、ゴール板でした。

 

わたくしたちがゴールした瞬間、スタンドからは爆発的な歓声が上がります。

 

それと同時に、ライラクロスさんは高々と右拳を天に突き上げられました。

 

その顔には最後の直線で見せていた鬼面からは想像もできないような、晴れがましくも愛らしい、満面の笑顔が浮かんでいるのがうかがえます。

 

G1ウマ娘に底力の違いを見せつけられ、僅差でわたくしは敗れてしまったわけですが……どういうわけだか、悔しさはほとんど感じていませんでした。

 

ゴールしたわたくしの中にあったのは、強いウマ娘と競り合い、戦いきったという高揚感だけだったのです。

 

「……ふぅ……」

 

ギャロップからキャンターに歩速を緩め、わたくしはゆっくり立ち止まると、もう陽が傾きつつある京都の空を見上げました。

 

よかった。

わたくしは、戦える。

一線級のウマ娘たちと、互角に渡り合える。

勝負には負けてしまいましたが、そんな確かな手応えを掴むことのできた今日のレースでした。

 

「やるわね、あなた!」

 

そう黄昏ていたわたくしに、背後から声をかけられました。

振り返るとそこには、笑顔のライラクロスさんがいらっしゃいました。

 

「ライラクロスさん。重賞制覇、おめでとうございます」

 

彼女の顔を見た瞬間、遅れてやってきた敗北の悔しさを心の奥に追いやって、わたくしは勝者を微笑で讃えます。

 

「ありがとう!メジロレムさん、だったよね?正直、今日のメンバーなら私が負けることはない、と思っていたんだけど……やっぱり、重賞に出てくる娘達はあなどれないわね。直線であなたに先頭を奪われた時は、嫌な冷や汗が止まらなかったわ」

 

そんなことをおっしゃりながら、彼女は右手をそっと差し出してくださいました。

 

「今日のレースは、本当にいい勝負だったわ。あなたも当然、高松宮記念に出走するわよね?その時はまた、今日のような熱いレースをしましょう!」

 

ライラクロスさんの弾けるような笑顔と差し出された右手を見て、先程わたくしが得た、一級線のウマ娘たちとも互角にやりあえるかもしれないという手応えは、確信に変わりました。

 

わたくしの実力を、G1ウマ娘が認めてくださったのですから。

 

「G1ウイナーのあなたにそうおっしゃっていただけたことを、心より光栄に思いますわ。わたくしはライラクロスさんと違ってまだまだ経験の少ない未熟者ではありますが……これからもどうぞ、お手柔らかにお願い致します」

 

わたくしはそう言って彼女の曇ない瞳を見つめながら、しっかりと握手を交わしたのでありました。

 

 

「レム、お疲れ様!重賞初挑戦でG1ウマ娘相手にしての2着だったら本当に大したものだわ。よく頑張ってくれたわね!」

 

初めて挑戦した重賞でなんとか2着を確保して控室に戻ったわたくしを、トレーナーさんはいつものように明るい笑顔で迎えてくださいました。

 

「ありがとうございます。トレーナーさんに勝利をお届けできれば、一番良かったのですが……」

 

わたくしも今日、重賞に初めて挑戦したわけですが、それは3年前にトレーナーとしてキャリアを歩み始めた彼女も同じこと。

今日は相手も強かったので、仕方ないと言ってしまえばそれまでなのですが……わたくしとしては、できるだけ早くトレーナーさんに重賞をプレゼントしたいと考えているのですね。

 

「その気持ちは嬉しいけどね。そんなことより、脚を見せてちょうだい」

 

トレーナーさんの指示にわたくしは小さくうなずくと、レース用のシューズとソックスを脱ぎ、少しお行儀が悪いのですが、ソファーに上に脚をそっと置いてトレーナーさんに診ていただきます。

 

トレーナーさんは真剣な表情を浮かべながら、わたくしのふともも、ひざ、すね、ふくらはぎ、足首、足の甲に手を当てて、腫れやケガがないか入念にチェックしてくださいます。

 

「うーん……、ケガとかはないようだけど。やっぱりすこし、ふくらはぎに熱を持ってるわね」

「それは少し、わたくしも感じておりました。特に痛みなどはないのですが……」

「痛みがないのは、幸いだわ。すぐにアイシングしましょう」

 

そういって彼女はわたくしのふくらはぎにクルクルと手早く包帯を巻き、持ってきていたクーラーボックスの中から氷のうを取り出すと、そっとそれを押し当ててくださいました。

 

氷のうの冷感が、酷使したふくらはぎに優しく広がっていって疲労と熱が抜けていくように感じられます。

 

「ありがとうございます。少し、楽になった気がいたします」

「それはよかった。一応念のため、太ももにも湿布を貼っておきましょう」

「お手数かけます」

 

レース後にこんな処置が必要なのは、わたくしのようなかなり虚弱なタイプのウマ娘だけです。

言っても詮無いので口にだすような真似はいたしませんが、もう少しわたくしが丈夫な体であったなら、こんな余計な仕事をトレーナーさんにさせずに済んだのに……と思わずにはいられません。

 

「でも、レムはすごいね」

 

湿布をわたくしのふとももに貼ってくださりながら、トレーナーさんはささやきとつぶやきの中間のような声色でそんなことをおっしゃいます。

 

「どうなさったのですか、急に?」

「ん、いやね。ケガの長期休養明けにすぐオープンを勝って、初挑戦の重賞で2着するって、並のウマ娘にはできないことだと思うのよ。……あなたはわたしが最初思っていたより、すごい才能を持っているのかもしれないわね」

 

そうなのでしょうか。

オープン戦は勝った、といいましてもタイムは平凡なものでしたし、今日のレースも2着できた、といっても結局勝てなかったわけですからね……。

 

でも、そうしてトレーナーさんが期待してくださるのは、やっぱり嬉しいものです。

 

「ご期待いただき、ありがとうございます。でも、その力を引き出してくださったのはトレーナーさんなわけですから。これからもご指導ご鞭撻、どうぞよろしくお願い致しますわ」

「ん……そうね。がんばるわ」

 

彼女はなぜか困ったような苦笑いを浮かべながらわたくしに湿布を貼り終えると、「じゃあ、帰ろっか」といって持ってきていた荷物を両手に持って立ち上がったのでした。

 

 

レースの数日後、トレーナー室でおこなっていたミーティング中、彼女が急遽変更したレースローテーションに、わたくしは驚きを隠せませんでした。

 

「次走は高松宮記念ではなく、その前哨戦の阪急杯に出走するのですか?」

「ええ。幸いレース後の疲れもあまりないようだし、実戦を積んでおくのも悪くないかな、と思ってね」

 

阪急杯は前走のシルクロードステークスと同じく、G1高松宮記念の前哨戦として位置づけられている、G3の重賞競走です。

レースに使い込むことで調子を上げていくタイプのウマ娘や、脚の丈夫さに自信のあるウマ娘はどちらのレースにも出走して、本番の高松宮記念に臨むということもよくあります。

 

ですが周知の事実のように、わたくしの脚は虚弱な方で、あまりレースを使い込めるタイプではないので、余裕を持ったローテーションで高松宮記念に挑もう、というのが当初の方針だったのです。

 

「本番前に実戦を使ってわたくしの勝負勘を養わせたい、というお考えは理解できます。ですがトレーナーさんもご存知のようにわたくしは脚元があまり丈夫ではありませんし、正直、G1という大舞台の前にもうひとレース走ることには、不安もあります。ですからどうか……」

「あのね、レム」

 

わたくしの言葉を遮ると、彼女は力強くその後の言葉を続けました。

 

「私はシルクロードステークスでの、あなたの走りを見て確信したわ。あなたには、才能がある。才能のあるウマ娘は、それにふさわしい戦歴、つまり重賞制覇の勲章を持ってG1という最高の舞台に臨むべきだと私は思うのよ。確かに、あなたには少し厳しいローテーションになるかもしれない。でも、これからG1を戦っていこうとするのなら、これぐらいのローテーションは万全の状態でなくてもこなせるようにならないといけないと思うわ」

 

それは確かに、正論です。

わたくしにとって厳しいローテーションで本番に臨むということに、正直、若干の不安は覚えます。

ですが、そこまでわたくしに期待してくださっているのなら……それに応えるのがメジロ家のウマ娘というものでしょう。

わたくしはトレーナーさんの熱意と情熱を、信頼することにいたしました。

 

「わかりました。では、次走の阪急杯に向けてよろしくお願いいたします」

「あなたならそう言ってくれると信じていたわ!さ、早速阪急杯制覇に向けて、ビシバシトレーニングしていくわよ!」

 

彼女はそう言うと、ストップウォッチとタブレットを手に取り、椅子から勢いよく立ち上がったのでした。

 

 

わたくしはもともと脚が弱いこともあり、特に故障の休養明けからはトレーナーさんもかなり慎重にトレーニングメニューを組み立ててくださっていたのですが……その日からのトレーニングは、かなり厳しいものになりました。

 

今日はトレーナーさんにダートを3本、目一杯追ってきなさいとの指示を受けていたのですが、脚にわずかな痛みを覚えて、2本目の途中で立ち止まってしまいました。

 

「レム、どうしたのよ!まだ予定の半分しか終わってないわよ!?」

「あの……以前怪我したところが少し痛くて……」

 

わたくしがそう言うと、トレーナーさんは大きく顔をしかめられました。

 

「あのね、レム。一流のアスリートなら、どんなジャンルのプレイヤーでも一箇所や二箇所、爆弾を抱えながらトレーニングしたり、試合をプレイしているものなのよ。そんなちょっと痛みがあるぐらいで、トレーニングを中断してどうするのよ?あなたが二流以下のウマ娘だったのなら、私もこんな厳しいこと言わない。でも、あなたは少なくとも一流になりうるウマ娘なの。もう少しその自覚を持って、トレーニングに取り組んでほしいものだわ」

 

そういう彼女の表情は厳しく、口調も今まで聞いたことのないような、彼女らしくない重々しいものでした。

 

彼女もわたくしに期待するからこそ、あえて厳しい言葉を選んでおっしゃってくださっているのでしょうが……。

 

シルクロードステークスで2着して以降、彼女はまるで人が変わったかのように、わたくしに厳しく接するようになっていました。

 

そんな彼女の変貌に戸惑いや困惑がまったく感じないというと、それはうそになってしまいます。

 

……そんなことをおっしゃるということは、あなたは以前のわたくしを二流以下のウマ娘だと思って接していて、ぬるいトレーニングメニューを組み立てていたわけですね?

 

そんな口答えが喉まで出かかりましたが、それをなんとか胸の奥に押しやって、「申し訳ありません」と頭を下げました。

 

「分かってくれたらいいけどね。まあ、それでも一応テーピングをもっとしっかりしてからトレーニングを再開しましょうか」

 

そう言うと彼女は持ってきていた救急箱からテーピングテープを取り出し、ふくらはぎから足首までに、しっかりと巻いてくださいました。

 

「よし、オッケー!さ、あとダート2本、しっかり走ってきなさい!」

 

わたくしはこくり、とうなずくと(はたからはただ、うなだれたように見えていたかもしれません)、駆け足でスタート地点へと向かいました。

 

そしてスタートを切ろうとしたときです。

ぐっと、誰かに右腕を掴まれる感触がしました。

 

「?」

 

怪訝に思って右に振り向くと、見知らぬ女性がわたくしの右前腕をしっかりと掴んでいらっしゃいます。

 

「あの、あなたは……」

「もう、今日はやめておきなさい。無理してケガをしたら、何にもならないわ」

 

見覚えのない女性に腕を掴まれた上、いきなりそんなことを言われて困惑していると、ラチの向こう側からトレーナーさんの大きな声が聞こえてきました。

 

「姉さん!一体何をしているの!?その娘は、私が担当しているウマ娘よ。トレーナーが自分の担当しているウマ娘以外のトレーニングに口出しするのはご法度……いや、禁忌だってぐらい、姉さんもよく知っているでしょ!?」

 

姉さん……?

怒りに満ちているトレーナーさんの声を聞きながら、女性のお顔をもう一度拝見いたしますと、確かに我がトレーナーの面影を感じることができました。

トレーナーさんのお姉様は彼女の一回り年上とお聞きしていたのですが、こうしてお顔を見ている限り、20代と聞いても違和感がないほど若々しく、お美しい細面をしていらっしゃる女性です。

 

「それはよくわかっているわ。でも……」

「分かってるなら、口出ししないで。本来なら理事会に訴え出て訓告処分にしてもらうところだけど、姉妹のよしみでそれは許してあげるわ。さ、その手をレムから離して!」

 

女性トレーナーはそんなことをいう妹になにかおっしゃりたそうではありましたが、何かを諦めたかのようにため息をつき、わたくしの腕から手を離してくださいました。

 

「姉さん。姉妹って立場に甘えて二度とこんなことはしないで。……私だっていつまでも【お姉ちゃん】に甘えていた小さい子供じゃないの」

 

ことさらキツい口調でそう言ってから、「レム。トレーニングに戻りなさい」と改めて指示を出されました。

 

わたくしはスタート地点に戻ってスタンディングスタートの体勢から、いつも通りダートのバ場に駆け出していきます。

 

走ると少々痛みはしますが、走れないほどではございません。

……一流になりたい、G1に出たいと望むのなら、これくらいで弱音を吐いてはいけませんよね。

 

きっとわたくしは、心のどこかで虚弱な自分の脚に甘えていたのでしょう。

厳しく叱責してそれに気づかせてくださったトレーナーさんに、感謝しなければ。

 

……そう思うことで、わたくしは今のトレーナーさんに抱いているわずかな不満と不信感を、なんとか意識の外に追いやろうと努力していました。

 

そんなわたくしをトレーナーさんのお姉様は、しばらくの間心配そうに見守っておられました。

 

 

重賞初制覇に向けて、そんな厳しいトレーニングの日々が続きました。

幸い、脚の痛みがひどくなるということなどはありませんでしたが……最近、朝起きるのがちょっと憂鬱です。

 

今日もまた厳しい態度のトレーナーさんとのトレーニングが待っているのかと思うと、少しばかりベッドから起き上がるのが億劫になります。

 

幼少の頃よりレースのためのトレーニングを続けていると、わたくしも人間ですから『今日はトレーニングしたくないな』と思ったことは、当然のことながら何度もございます。

しかし、こんな精神状態に陥るのは初めてのことでした。

 

トレーナーさんはわたくしに期待してくださっているようですが、こんな体たらくではとうてい【一流のウマ娘】などにはなれないのかもしれませんね……。

 

 

そうは言いましても、トレーニングをサボるわけにもまいりません。

今日も朝の5時には執事さんの運転する車に乗り込み、6時前には学園の練習バ場に入っておりました。

 

「おはよう、レム。今日も頑張っていきましょうね!」

「はい」

 

笑顔であいさつをかわすことは以前と変わっておりませんが……近頃はトレーナーさんからわたくしの脚の調子を聞いてくださることが、めっきり減ってしまいました。

 

以前は『心配しすぎですよ』とわたくしが苦笑するぐらい、気にかけてくださっていたのですけどね。

 

「今日の朝練のメニューだけど、坂路を2本走ったあと、トレーニングルームで軽く筋トレをする予定よ」

「承知しました」

 

実を言いますと、わたくしは坂路というものをあまり走ったことがございません。

坂路トレーニングは瞬発力を効率的に鍛えられるのですが、その分脚にかかる負担が大きく、デビュー当初からあまり脚元が良くなかったわたくしは、積極的に取り入れてこなかったのです。

 

でも、ここ最近はむしろ坂路がメインと言ってもいいほど、多用されるトレーニングメニューになっているのですね。

短距離走での瞬発力の大切さは、言うまでもありませんから。

 

今日も多分そういうトレーニングメニューになるのではないかな、と思い、しっかり脚にバンテージを巻いてきたのは正解だったようです。

 

わたくしは坂路のスタートラインに立ち、トレーナーさんの合図を待ちます。

 

それから数秒後、トレーナーさんが腕を上げたのを見てわたくしは全速力で駆け出しました。

 

この冬の季節、まだ陽は昇りきっておらず、薄暗い練習場には照明が焚かれています。

 

人工的な明かりが照らし出してくれる真冬の坂路を、わたくしは一心不乱に駆け上がりました。

 

色々とある思うところも、走っている間は忘れられますから。

 

(…………?)

 

どうしたのでしょう。

走り出すと古傷が少し痛むのはいつものことなのですが……。

でも今日は、なぜか足首のあたりに言葉にできない違和感が……

 

「いたいっ!!」

 

古傷の右足首に激痛が走ったかと思うと、わたくしはバランスを崩して坂路に倒れ込んでしまい、そのままうずくまってしまいました。

 

激痛が襲ってきた瞬間はわけも分からず大きな声が出てしまいましたが、今度はあまりの痛さに声を出すこともままなりません。

 

「レム!?どうしたの、大丈夫!?」

 

後方からトレーナーさんの声が聞こえてきましたが、わたくしは耐え難いまでの足の痛みに振り向くことも、返事することすらできませんでした。

 

「担架!誰か、担架を持ってきて!!」

 

トレーナーさんの叫びに呼応するように、駆け出す足音がうずくまっている地面から感じられます。

おそらく同じように朝練をしていたウマ娘たちが、自分のトレーニングを後回しにしてわたくしのために担架を取りに走ってくれたのでしょう。

 

実際に坂路にうずくまっていた時間はわずかなものだったのでしょうが……激痛のせいなのか、担架を待っていた時間は、まるで無限のように感じられました。

 

「ねえ、レム、大丈夫!?大丈夫!?」

 

半狂乱でそう叫ぶトレーナーさんにわたくしはうなずいて差し上げたかったのですが……わたくしにできたのは、粘りつくような脂汗が出る中で、ただただ痛みに耐えることだけでした。

 

 

「重度の捻挫ですね。幸い、骨には異常はありません。ただ、完治するまでは絶対に無理をしないでください」

 

学園内にある医療施設でレントゲンを取り、当直のお医者様に診ていただいたところ(学園内にはそれなりの医療機器が置いてあり、ウマ娘の診察を専門とするお医者様が24時間常駐なさっています)、そのような診断結果でありました。

 

骨に異常がなかったのは、不幸中の幸いと言えるでしょう。

 

「あの、完治にはどのぐらいかかりますか?」

 

処置していただいたことで少しだけ痛みが和らいだ患部に目をやりながらそう質問すると、先生は少し難しい顔をなさいました。

 

「早くて3週間、といったところでしょうか。治癒具合によっては、1ヶ月かかるかもしれないと考えておいてください」

 

早くて3週間ですか……。

阪急杯は2週間後に迫っていましたので、出走は絶望的になってしまいました。

 

「もともとメジロレムさんは脚があまり丈夫ではないようですね。それなのにあんな負荷の大きいトレーニングを繰り返していては、こういうケガは避けられませんよ。ご本人もそうですが、トレーナーさんも十分に気をつけてあげてください」

 

トレーナーさんはわたくしの隣りに付き添ってくださっていたのですが……彼女はお医者様のおっしゃることにうなずくこともせず、呆然自失の体で固く包帯が巻かれたわたくしの足首を、ただただ見つめていらっしゃるだけでした。

 

 

診察を終えてお医者様が退室なさると、気まずい沈黙が保健室を支配しました。

 

先に沈黙を破ったのは、トレーナーさんでした。

 

「もう今日はさすがに、授業もお休みしたほうがいいでしょうから……。私は誰か迎えに来てもらうよう、レムのお家に連絡してくるわね……。あなたはここで、お家の人が迎えに来るのを待ってて」

「お願い致します」

 

わたくしの返事を聞くと、トレーナーさんはゾンビのような足取りで保健室から退室されました。

 

自宅の方に連絡を入れてくださったらすぐお戻りになると思っていたのですが……それから5分程経っても、トレーナーさんは保健室に戻ってこられません。

 

お花を摘みにでも行っていらっしゃるのでしょうと思い、スマホをカバンから取り出してしばらくニュースサイトなどを見ていると、ガラっと保健室の引き戸が開く音がいたしました。

 

トレーナーさんが戻ってこられたと思ってスマホから顔をそちらに向けると、そこにはなんとお母様がいらっしゃいました。

 

「レム!トレーニング中にケガをしたと聞いて飛んできたのですが、大丈夫ですか?」

 

普段から身だしなみには神経質なほど気を使われるお母様が、ノーメイクのまま着古した部屋着にカーディガンを羽織っただけの姿でいらっしゃるところを見ると、本当にわたくしを心配して屋敷を飛び出してきてくださったのでしょう。

できの悪い娘のために……母親の愛というのは偉大なものです。

 

「え、ええ。お医者様に診ていただいたところ、骨に異常はないとのことでして、全治1ヶ月ほどで済むそうです。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「それは不幸中の幸いでした。今日のところは屋敷に戻って、ゆっくりするとよいですわ」

 

お母様のお言葉に、わたくしはうなずいたのですが……。

 

「あの、トレーナーさんとご一緒ではなかったのですか?」

「ええ。お電話をくださったのはトレーナーさんだったということは執事から聞いておりますが、こちらに来てからはお顔をあわせておりませんわね」

 

こんな時にトレーナーさんは一体どこへ行かれたのでしょう。

今回のことを、トレーナーさんは電話に出た執事さんにでも、キチンと説明なさったのでしょうか。

 

……わたくしも受け入れていたとはいえ……わたくしにとって明らかに負荷の大きいトレーニングを、トレーナーさんが課しておられたのは事実なのですから。

 

今回のケガのすべての責任が、トレーナーさんにあるとは申しません。

ですが彼女にはわたくしのトレーナーとして、今回のケガのことを周囲に説明する責任と義務があるのではないでしょうか。

 

そんなトレーナーさんの行動に、わたくしは彼女が担当についてから初めて彼女に対して怒りを覚え、大きな不信感が募りました。

 

このような時に説明責任も担当ウマ娘も放り出すトレーナーの、一体何を信じればよいのでしょう?

 

 

幸い痛みがひどくなるということもなく、お医者様の見立てではケガの治りは順調なようですし、わたくし自身もそう感じておりました。

 

ただ、あれから3日たっても4日たっても、トレーナーさんからの連絡はございませんでした。

こちらからLANEや電話を入れても、返信があるどころか、既読さえつかない有様です。

 

ケガをしていても授業は受けられるので、松葉杖を突きながら学園には登校しているのですが、学園の中で彼女を見かけることもありませんでした。

 

 

あの日から1週間が経とうとしているにもかかわらず、どうしてもトレーナーさんとは連絡が付きません。

 

……一度トレーニング中に大きなケガを経験している担当ウマ娘が、再度自分の組み立てた厳しいトレーニングの最中にケガをしてしまったわけですから、相当後ろめたく思っていらっしゃるであろうことは、わたくしにも想像がつきます。

 

しかし今回の彼女のように、ただただ逃げているだけのような態度は、あまりいただけたものではございません。

 

そろそろわたくしの遺憾の意も限界に達してしまいそうでしたので、今日の放課後にトレーナー室に押しかけてみることにしたのですね。

 

しかし無用心なことに部屋には鍵もかかっておらず、案の定と言いますか、トレーナーさんがそこにいらっしゃるということはございませんでした。

 

 

トレーナー棟にいた、学園に勤務していらっしゃる他のトレーナー様にわたくしの担当トレーナーを見かけませんでしたか?と聞いて回ったところ、「ああ、そういや最近彼女見かけないなあ。なんでもうわさだと、何日も無断欠勤しているらしいよ」とのお話を聞くことができました。

 

なんと。

わたくしをほったらかしにした上に説明責任から逃げただけではなく、職場を無断欠勤までなさっているとは……!

彼女がそこまで無責任な人間だとは、わたくしは思っておりませんでした。

わたくしはあまり怒りという感情を覚えないタイプの人間だと思っていたのですが、今回ばかりは憤りを抑え込むことができそうにありません。

 

こうなったら、お説教です。

一度顔を見ながら、お説教をするしかありません。

しかし一体、彼女はどこへ雲隠れしたのやら。

 

松葉杖を突きつつトレーナー棟のリノリウム床を歩いていると、あちら側から見知った女性が歩いてこられるのが見えました。

その方はまさに、わたくしがこれから探し出して訪ねようと思っていた女性でありました。

 

「こんにちわ。メジロレムさんね?」

 

わたくしから声をかけようと思っていましたら、女性の方から立ち止まって声をかけてくださいました。

 

「私のこと、覚えててくれてる?」

 

彼女の質問に、わたくしは小さく首を縦に振りました。

 

「はい。わたくしを担当していただいているトレーナーさんの、ご令姉(れいし)様でいらっしゃいますね。数日前に、わたくしのトレーニングの中断を進言してくださいました」

「そうそう。あの時はごめんなさいね。余計なこと、口出ししちゃって」

「いえ……」

 

あの時の彼女が何を考えてトレーニングを制止したのか、それは分かりません。

しかし、あの制止を振り切ってトレーニングを継続した結果が、わたくしのケガに繋がった可能性は決してゼロではないでしょう。

 

「よかったわ、あなたを探していたのよ。まさかトレーナー棟で顔を合わせるとは思ってもなかったけどね。少しお話したいんだけど、今ちょっと時間もらえるかな?」

 

渡りに舟、というのは少し違うかもしれませんが、タイミングが良かったのは確かでしょう。

わたくしがうなずくと、彼女は「じゃあお茶でも飲みながらお話しましょうか」とおっしゃってから、わたくしの松葉杖で歩くスピードに合わせるようにゆっくりと、カフェテリアに向かって歩き出したのでした。

 

 

お昼休みにはウマ娘たちで入り切らないほど混み合う学園内のカフェテリアも、今は放課後のトレーニングの時間ということもあり、かなり閑散としておりました。

あまり愉快なお話をするわけでもないでしょうから、そのほうが好都合というものです。

というよりおそらくトレーナーさんのお姉様も、それを承知でここに連れてきてくださったのでしょう。

 

わたくしはカフェラテ、トレーナーさんのお姉様はアイスコーヒーをカウンターで購入してから、お店のすみの方の席に着席しました。

 

「ケガの方は、大丈夫?」

「はい。幸いと申しますか、骨には異常がないそうでして、遅くとも1ヶ月以内には復帰できるとのことです」

「そうなの。早く復帰できるといいわね」

 

彼女は微笑みながらそうおっしゃり、アイスコーヒーを上品な仕草で口付けられました。

 

「それにしても、重賞を好走してこれからって時に大変なことになったわね。……ひょっとしてあの子、あなたがシルクロードステークスで2着してから、急にトレーニングとか態度が厳しくなったりしなかった?」

「!!」

 

あの子、というのはもちろん、トレーナーさんのことでしょう。

でも、どうしてそのようなことをご存知なのでしょうか。

先日のやり取りを見ている限りでは、トレーニング方法や方針などを姉妹で情報交換している、という感じではなかったのですが……。

 

やはり姉妹というのは、通じ合うところがあるのでしょうか。

 

「ええ、実はそのとおりでございまして……。もちろんその厳しさはわたくしに期待してくださっていることの表れだとは、承知しているのですけれども」

 

わたくしがそんなことを言うと、さもありなんとばかりに彼女はうなずきました。

 

「やっぱり。素質のある娘を担当すると、どうしても『この娘の才能を絶対に開花させてあげなくちゃ!』って考えすぎてしまって、きついトレーニングをさせてしまいがちなのよね。トレーナーとしてのキャリアが浅いうちに才能あるウマ娘を担当することになっちゃうと、特にね……」

 

わたくしは自分のことを才能あるウマ娘だなんてとても思えませんが、そういうトレーナーさんもいらっしゃるであろうことは、想像がつきました。

 

「担当したウマ娘ががんばれるよう、トレーナーが工夫するのはもちろん大切なことだけどね。でも、無理をさせてもただただ素質と関係を壊すだけのことになりかねない。ウマ娘とトレーナーの関係って、恋愛関係にも似ているな、って私思うのよ。恋愛でも相手を信頼することはとっても大切だけど、理想や期待を背負わせすぎると、お互いにギスギスして関係が破綻してしまうでしょ」

 

残念なことにわたくしは【恋愛未勝利】のウマ娘でございますので、男女の機微のことなど何一つわからないのですが……。

 

そうかといって『恋愛のことはまったくわからないので』というのも、どういうわけだか何かに負けたような気分になりそうだったので、わたくしは適当にうなずいておくことにいたしました。

 

「ま、雑談はこの辺にしておいて。本題に入りましょうか」

 

そう言うと彼女は持っていらっしゃったバッグから、丁寧に折りたたまれた一枚の紙を取り出しました。

 

「今朝ポストを見たらね、封筒に入ったこれがあの子から送られてきていたの」

「はぁ」

 

彼女がテーブルの上に開いて見せてくださったその紙は、文字や枠のすべてが緑色で書かれている見慣れないものでした。

 

一体これはなんの用紙なのでしょう……と疑問に思いつつ手に取ると、その用紙の右上には日本語としての意味は理解できても、その言葉の意図を理解しかねる文字が記載されておりました。

 

「トレーナー変更届?これは一体、なんなんですの?」

 

よく見るとその紙には3名の名前を書き込む欄があり、それぞれ【トレーナーを変更するウマ娘名】【変更前のトレーナー名】【変更後のトレーナー名】とありました。

 

その下には【上記のウマ娘のトレーナーの変更を、URA及び日本ウマ娘トレーニングセンター学園理事会に申請します】という一文が続いています。

 

そして【変更前のトレーナー名】には、なぜかトレーナーさんのお名前が書き込まれておりました。

 

「届いた封筒にはその【緑の紙】と一緒にあの子から私宛への手紙も入っていてね。そちらはさすがに見せられないけど、『もう私はトレーナーやめるから、レムのことをよろしくお願いします』みたいなことが書かれていたわ。どうやらあの子、今回のことで責任感じて、トレーナーを廃業するつもりらしいのよ」

「はぁ!?」

 

無断欠勤だけでは飽き足らず、とうとう自分の仕事まで投げ出してしまわれるとは!

これはもう、お説教だけでは済ませられません。

きっちりお説教した上で、罰金代わりにスイートキャロットスペシャルパフェを、わたくしにお腹いっぱいごちそうしていただかなければならないでしょう……!

 

わたくしはその緑の紙をクシャクシャに丸めると、カフェテリアのゴミ箱に放り投げて(お母様に見られていたら、わたくしがお説教をされそうですわね)なにはともあれ、トレーナーさんの所在地を彼女に聞いておくことにいたしました。

 

「ご令姉様。今トレーナーさんがどこにいらっしゃるのか、ご存知ですか?」

「多分自宅にいると思うけど……それを知ってどうするつもり?」

「決まっています。厳しくお説教して、退職を思いとどまっていただくのです。ご令姉様、一体トレーナーさんはどこにお住まいでいらっしゃるのです?」

 

鼻息荒くそういうわたくしに、トレーナーさんのお姉様は苦笑いを浮かべられました。

 

「ねえ、メジロレムさん」

「なんです?」

「そのケガは言ってしまえば、私の妹があなたに無理なトレーニングをさせたから起こってしまった事故なわけよね?正味の話、もうそんな妹のことなんて本当は信頼できないんじゃないの?」

「ええ、ご令姉様。脚元の弱いわたくしに無茶なトレーニングはさせるわ、その説明責任は果たさないわ、あげくに職務放棄するわで、トレーナーさんへの信頼なんて、もうほぼゼロでございますわね」

 

わたくしも相当、怒りが溜まっていたのでしょう。

ここ最近トレーナーさんに対して感じていた不満を、ついつい彼女にぶつけてしまいました。

 

「じゃあ別に、トレーナーを変えてしまったっていいんじゃないの?タイミングがいいというか、今私の担当している娘が2月の一杯で引退予定だから、あなたさえ良ければ私があとを引き受けることもできるわよ?」

 

トレーナーとしてのこの方の実績は、トレーナーさんからよく聞かされておりました。

トレーナー歴1年めで早くも重賞を制覇し、2年目には20代の若さでG1を制覇。

それからはコンスタントに勝ち星を積み重ねていて、今や姉さんはトップトレーナーのひとりなのよ、とトレーナーさんは誇らしく語っていらっしゃったものです。

 

そんなトレーナーに担当していただけるというチャンスは、それはそれで魅力的なお話なのかもしれません。

ですが……。

 

「ご令姉様。確かに今は、わたくしのトレーナーさんへの信頼はゼロに近いものですわ。でも……わたくしとトレーナーさんはそんな1度や2度、信頼がなくなったぐらいで破綻するような間柄ではないのです。信頼なんて、また積み上げてくださればそれで良いのですから」

 

あの地獄のように苦しかった長期休養期間に、わたくしはトレーナーさんにどれだけ励まされて、元気づけられたことでしょう。

 

少し現実的な話をいたしますと、わたくしが休養している間は、トレーナーさんにはレース出走手当も出走したレースの着順によって支給される報奨金も、トレーニング指導手当も支払われず、最低限の基本給しか出ないわけですから、彼女の生活はかなり厳しかったはずです。

 

そんな状況でもトレーナーさんはわたくしのところに来るたびに、わたくしの好きなお菓子を買ってきてくださったり、メンタルにも傷の治りにもいいから、と海や山などの自然の中に連れて行ってくださったりしました。

 

もちろん、その費用は全部彼女のポケットマネーからです。

 

かかった費用や、おカネの問題ではありません。

自分の生活を切り詰めてでも、わたくしのためにしてくださったその気持ちが嬉しかったのです。

 

その心遣いに、本当に救われたのです。

 

そんなトレーナーさんのもとを去ることなんて、わたくしには考えられませんでした。

 

「……そう。担当ウマ娘とそこまで深い絆を結べているなんて……あの子はいいトレーナーになるかもしれないわね」

「お言葉ですがご令姉様。いいトレーナーになるかも、ではなく、彼女はわたくしにとって、最高のトレーナーなのですよ」

「……そうね、ごめんなさい」

 

彼女は苦笑を浮かべながら謝ると、持っていた手帳に何かを書き、そのページを手帳から切り離してわたくしに渡してくださいました。

 

「あの子の住所よ。あの子、昔から思い詰めたら自分の殻に閉じこもっちゃうようなところがあるから説得は大変だと思うけど……ちゃんと、お説教してやってちょうだいな」

 

そのメモを受け取り、彼女の言葉に力強くうなずくと、わたくしは席から立ち上がりました。

その独白はわたくしが席を立ち、彼女に一礼してカフェテリアを出ようとした時に聞こえてきました。

 

「……私ももっと親身になって、最初に担当したあの娘と向き合っていたら……。あんなことにはならなかったのかもしれないわね……」

 

それは本当に、小さな声でした。

普通の人はもちろんのこと、常人よりはるかに優れている聴力を持っているウマ娘でも、聞き取ることができないぐらいの、小さなつぶやき。

敏腕トレーナーの彼女がウマ娘の優れた聴力を知らないわけがないですから、もう店を出ようとしてカフェテリアの出口にいたわたくしには聞こえていないと思って、思わず口に出してしまったのでしょう。

 

口に出さずにはいられなかった、悔恨の思いを。

 

ですが、わたくしの聴力は他のウマ娘より、少々良かったりするのです。

気になる独り言ではありましたが、わたくしには今、なさねばならないことがございます。

 

人の過去にズケズケと立ち入るのも立ち入られるのも、お互いに気持ちの良いものではないでしょう。

 

わたくしは何も聞かなかったことにして、メモに書かれたトレーナーさんの自宅へ、松葉杖を突きながらゆっくりと歩き出したのでありました。

 

 




読了お疲れさまでした。

今回もかなりの長文になってしまいましたね……。
ひょっとしたら、スクロールバーを見た瞬間、小説を閉じてしまった
読者様もいらっしゃったかもしれません(苦笑)。

でも、少し考えてみたんですよ。
ハーメルンに小説を読みにきていらっしゃる方々は
普段からネット上の小説やラノベなどを読んでいらっしゃる方が多いでしょうし、
別に文章の長さはそれほど気になさらないのではないのかなあ、と。

まあもちろん長文でも読んでいただける物語というのは
【話が面白い】のが大前提なので、
そこは少しでも楽しんでいただけるよう、頑張っていきたいなあ、
と思っております。

今回は長い文章を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

また近い内、3話のあとがきでお会いいたしましょう!
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