好感度MAXのウマ娘たちがお気楽トレーナーを落とす話 作:渚 龍騎
1話のクオリティを超えられる気がしませんし、基本的に勢いとノリで書いているので誤字脱字は後で発見するつもりです。
──そうですね、殿方へは────。
メジロラモーヌは悩んでいた。
妹からの助言を脳内で木霊させ続けながら腕を組み、顎に手を添える。そして瞳を閉じては小さく唸っている。普段の容姿から漂っていたその異質感とは別に、彼女が悩む姿はまさに
僅かに揺れる青鹿毛は、きめ細やかな砂粒のようだった。風に吹かれる度に、その隙間から処女雪のような白い肌を晒し、艶やかな光を瞬かせていた。
時に、メジロラモーヌはどんな姿でも
魔性を帯びた青鹿毛。恐ろしい程に整った精緻な顔立ち。そこに少女としての雰囲気は存在していない。大ぶりの灰簾石を嵌め込んだような、心の奥底まで見透かす魅惑的な瞳。形の整った細い柳眉。ツンと高い通りの良い鼻筋、麗しく血色の良い唇。欠点の一つとして存在しない
素晴らしいのは顔立ちだけではない。
その肢体もまた、恐ろしく幻想的で理想的な形で全てを支えている。スラッとした細長い手足には無駄な肉が一切なく、その上で肌に傷一つとして存在しない。それだけではなく、女性的な起伏も目を見張る豊満さがあり、どこを見ても美の骨頂。まさに、女性が夢見る形とも言えよう姿だった。
その魔性は、嫉妬すら追いつかない。
その矜持は、憧れすら届かない。
ましてやその
そしてその
宝石にも勝る輝きを宿したその容姿に限らず、その志から叩きつけた栄光は、今もなお色褪せることなくターフに語られている。
さて、長くなってしまった。本題に入ろう。
誰もが見惚れてしまうような、それだけ魅惑的で誘惑的な容姿を持っている彼女が、頭を悩ませているのにはもちろん理由があった。
「見てあれ、メジロラモーヌさんよ……」
「わあ、考えてる姿も美しい……きっと私たちなんかじゃ到底及ばないことを考えているのよ」
メジロラモーヌを見つけたウマ娘はそう呟いた。
だがしかし、そんな大層なことではない。ならば、十全たる彼女を悩ませる理由とはいったいなにか。答えは単純明快。導き出すのもそれほど難しくはない。メジロラモーヌを唸らせる問題とは────、
「
初々しいカップルかよ。
兎にも角にも、メジロラモーヌはトレーナーへ向けたプレゼントを何にするのかで悩み続けていた。
メジロ家のウマ娘にプレゼントを渡すことはあれど、歳上の殿方に対して渡したことがない。それどころか、考えたことすらない。それ故に、なにを渡すべきかまるで分からなかった。
あと数日でトレーナーの誕生日。この三年間では祝いの言葉を軽く告げるだけで、なにかしら物を渡したことはなかった。
なぜ突然プレゼントを渡そうと考えたのかは、メジロラモーヌの心の変化による。今までその内側に眠っていた想いが、最近になって溢れたことでプレゼントを渡そうと考えた訳だった。
「あら、ラモーヌさん。ごきげんよう」
意識を遥か彼方に向け、延々と思考を巡らせていると、聞き慣れた声がメジロラモーヌの名を呼んだ。
ようやく意識が現界し、視線を正面に向ければ、そこには一人のウマ娘が立っていた。
風に吹かれて梳ける長い芦毛の髪。さらさらと揺れる同じ色を施した尻尾。幼い顔立ちにどこか大人びた雰囲気を纏ったそのウマ娘──メジロマックイーンは、軽く微笑みながら首を傾げた。
「なにかあったのですか? かなり深く考えている様子でしたけれど……」
メジロラモーヌと同じメジロ家のウマ娘。長距離ステイヤーとしての名を馳せるメジロマックイーン。二人の令嬢が、特にこれといって何もない中庭で対面し、周りのウマ娘たちが一瞬でざわめき始めた。
メジロラモーヌは正面に立ったメジロマックイーンを見つめ、彼女とトレーナーの関係を思い出した。
「ええ、かなり大切な用ね。でも、どうするべきか考えが停滞してしまったのよ」
「それは大変ですわ。
手伝いを申し出たメジロマックイーンに、メジロラモーヌは思わず「それは助かるわ」と呟いた。
「なら、いくつか聞かせてちょうだい」
メジロマックイーンは嫌な顔一つ見せることなく、こくりと頷いた。
良心で手を差し伸べたつもりが、まさかその手で自分の首を絞めるとも思わず、メジロラモーヌから告げられる言葉を待つ。そしてメジロラモーヌは
「貴方、トレーナーと
「えっ、あっ、はい……?」
まったく予想もしていなかった質問に、メジロマックイーンは思わず瞬きを繰り返しながら聞き返す。なにかの冗談かとも思ったが、メジロラモーヌの何一つ変わらない表情を見て、それが真面目な問答であると理解した。
「え、ええ。まあ、
微かにメジロマックイーンの頬が朱に染まる。それをメジロラモーヌは一瞬たりとも見逃さなかった。
同じ〝色〟が見える。それは昨日見た自身の顔色とよく似ていた。誰かに対する〝恋〟の色だ。
「どれくらい?」
ぐいっと顔を寄せ、精悍な眼差しを灰簾石に宿してメジロマックイーンを見つめる。驚きで退いたメジロマックイーンが、いつもと雰囲気が違うメジロラモーヌに僅かに目を見開いた。
「ら、ラモーヌさん……?」
「教えてちょうだい。貴方とトレーナーは、どのくらい仲が良いのかしら」
ただでさえ近寄り難い雰囲気を纏っていたメジロラモーヌが、今日はどこか違う。いつものその冷然と心を見透かす瞳が、微かに好奇心で煌めいているように見えた。もはや逃げ出せる雰囲気ではない。
「答えにくいかしら。まあでも、貴方がよくトレーナーとくっついているのは、遠目に見ていてもよく分かるわ」
核心を付かれたように、メジロマックイーンの喉から「うっ」という声が漏れる。なぜバレているのか彼女自身は分かっていない様子だったが、メジロマックイーンのトレーナーとの距離間がバグっているのは、トウカイテイオーに並んで有名なことだった。
「トレーナーと二人きりで温泉旅行に行ったというのも知っているわ」
告げられた言葉を脳内で処理した瞬間、メジロマックイーンはその紫色の瞳を大きく見開いた。
小耳に挟んだ程度の噂だったが、メジロマックイーンのその反応を見るにどうやら本当らしい。本人は隠し通せているつもりだったのか、あまりの驚愕に凛とした端正な顔立ちが明らかに崩れていた。
「いや、その、それは……あくまでもトレーナーさんの慰労が目的で……っ! 決して、そんな、邪な気持ちで行った訳ではありませんわ!」
必死に弁明を叫び、メジロマックイーンの端正な顔立ちが更に崩れる。焦っている様子が露わになり、必死にその想いをひた隠そうとするが、メジロラモーヌには意味がない。
「どうだったの?」
もはや、逃げ場はない。
弁明も意味がない。例え虚言と虚実を連ねたとしても、メジロラモーヌの前では意図も容易く看破される。それを理解した途端に、メジロマックイーンは敗北を察した。
「うっ……楽しかっ、た……ですわ……」
「良かったじゃない」
「な、なにが言いたいのですか……?」
メジロラモーヌはゆっくりと離れてから、小悪魔の如く悪戯地味た笑みを浮かべる。気が気でないメジロマックイーンを見つめながら、空白の時間が数秒だけ流れていった。
そしてメジロラモーヌが「ふふっ」と口に手を当てて笑い、メジロマックイーンは首を傾げた。
「ごめんなさいね。あまり見られない反応だったから、つい興が乗ってしまったわ」
笑ったメジロラモーヌを前に、メジロマックイーンは肩の力が抜ける。そして脳裏にふと浮かんだ彼女の妹──メジロアルダンもまた、誰かを揶揄うのが好きであったのを思い出した。
揶揄った相手を笑う仕草もどこか似ている。メジロマックイーンは溜め息を漏らしながら、僅かに目を細めてメジロラモーヌを見つめた。
「もうっ、揶揄わないでください……聞きたいことってなんですの?」
本来の趣旨を忘れかけていたメジロラモーヌが「そうだったわね」と呟き、その瞬間にメジロラモーヌの気配が変わる。普段の近寄り難い雰囲気が塗り変わり、瞳に好奇心の色を強く滲ませて口を開いた。
「
告げられた言葉に、メジロマックイーンは僅かに肩の力を抜く。そしてメジロラモーヌへ向けて、その瞳を細めながら忌憚のない言葉を告げた。
「ラモーヌさん、また揶揄っているんですの?」
メジロマックイーンは溜め息混じりにそう言う。同じ手は二度も食わない。また揶揄われると感じたメジロマックイーンは、声色を僅かに落とす。だがしかし、そのメジロラモーヌの表情は至って神妙な面持ちで、そこに悪戯の色は微塵も含まれていなかった。
「えっ、まさか……」
「ええ、真面目な話よ」
告げられた言葉を耳にした直後、メジロマックイーンとメジロラモーヌの間を吹き抜けた風が静寂を攫う。流れるようにして、またもやメジロマックイーンの口から「えっ」と困惑が引き抜かれた。
「そうでしたのね……」
「別に気にしなくていいわ。取り敢えず教えて欲しいのよ」
質問の意図を上手く汲み取れなかったが、メジロマックイーンは顎に手を置いて過去を振り返る。トレーナーに感謝を込めて渡したプレゼントの
「私のトレーナーさんは、殆どスーツを着ていらっしゃるので、この前の誕生日にはネクタイをプレゼントしましたわ」
「なるほど、ネクタイね」
頷き、納得している様子のメジロラモーヌ。メジロマックイーンは質問の中に込められた奥のを察することはできなかったが、過去に耽ってはその記憶を韜晦してしまい、思わず笑みが溢れていた。
それだけに留まらず「ふふっ」と声にまで漏らし、メジロラモーヌの鋭い視線で我に帰った。
「よっぽど良い思い出なのね」
「い、いえ……! いつもトレーナーさんにお世話になっていますし、大変な中で私の為に尽くしてくれていますから、私としても日頃の感謝をと──」
早口で饒舌に語ったメジロマックイーンを、メジロラモーヌはただ僅かに首を傾げて、どこか興味なさげな瞳で見つめる。そして、長々と言い訳をしているメジロマックイーンの言葉を遮って、切れ味のある
「──
鋭い一閃。その一言でメジロマックイーンは切り裂かれ、語っていた口を開けたまま思考が停止。自分ですらも無意識に語ってしまっていた事実で、メジロマックイーンの顔はみるみるうちに朱色へと染まった。
痙攣するように顎をパクパクとさせるメジロマックイーンに向け、ラモーヌは顎に手を当てながら柔らかく微笑んだ。
「でも、貴方がトレーナーに抱いている感情が大きいのは理解したわ。誰よりもその想いを優雅に、そして初々しく馳せているのね」
面白いことを知ったわ──そう言ってメジロラモーヌは彼女に背中を向ける。真っ赤に染まった顔を、両手で覆い隠すメジロマックイーンに「ありがとう」と感謝を告げて。
◆◆◆◆
メジロラモーヌは珍しく胸を躍らせていた。
遠くの喧騒が遮られた車内。駆け抜けて行くつまらない景色を眺めながらも、メジロラモーヌのその表情は喜色で彩られている。鼻歌を奏で、それに合わせながら人差し指で窓の縁の辺りを軽く叩いていた。
メジロラモーヌがそこまで気分を良くしている理由は、彼女の隣に置かれた茶色の紙袋にあった。
ロゴも書かれていない質素な紙袋。一見するとただの紙袋だが、メジロラモーヌの喜色が込められているのは更にその中──丁寧に包装された二つの箱。一つは深い青色の包装で、両手で持つには少し小さく、もう一つは雲のように白い包装の、縦に長くもかなり小さめな箱だった。
二つとも金糸で精巧に刺繍された細いリボンが結ばれていて、美麗さが淡く施されていた。
では、この明らかにお高そうな箱はいったいなにか。もったいぶる必要もないので、端的に語ろう。
ええ、それはもちろん──トレーナーへのプレゼントである。想いが大き過ぎるあまりに一つだけじゃなく、
────どうやら、掛かっているようです。
メジロラモーヌに恋愛の経験はない。故に、殿方へ向けるプレゼントなど分からない。それどころか、他者の好みすら知らない。まともに恋愛をして来なかったメジロラモーヌだからこそ、
もとより、恋に普通を求めてはならないが。冷静になったら、それはもう
「彼は、喜んでくれるかしら……」
そんな言葉がポツリと吐かれる。小さく、そしてか細い心配は流れていく景色と共に駆け抜けた。
もはや杞憂である。どんな物事にもお気楽を掲げるあのトレーナーが、プレゼントを貰って喜ばないはずがない。そんなことは分かっている。分かっていても尚、メジロラモーヌは喜色の中に不安を抱いていた。
過去に耽ったメジロマックイーンの笑顔が脳裏に過る。毅然とした立ち振る舞いのメジロマックイーンが見せた年相応の少女の顔。昔の自分だったら、それほどまでの
だが、今の自分ならそれが分かるような気がした。
プレゼントの入った紙袋に触れる。ざらざらとした質感を指の先から感じ、思わず口角が上がった。
今の今まで、トレーナーにまともなプレゼントを渡したことはなかった。彼から貰うことはあったのに、なぜ私からは今まで渡さなかったのか。思い出す度に、圧倒的な後悔が心を蝕んだ。
「私もバカね……」
こんな苦痛な懸想に駆られるのなら、と波のように後悔が押し寄せた。
日頃の感謝を込めてバレンタインの代物を渡すことはあったが、それもあくまでトレーナーを教育者として認識した上での事。しかし今は彼をトレーナーとしてではなく、一人の異性としての想いが勝っていた。
トレーナーへの贈り物──もっと掘り下げるなら、それは誕生日プレゼントだ。
嬉しさの中に抱く僅かな不安と恥ずかしさ。相容れないそれらが渦を巻いて、心を掻き毟りたくなるような疼きが身を巡った。
早くこの感情の正体を知りたいと、この心が探求を叫ぶ中で、早く楽になりたいと解放を望む意識が奮える。二つの矛盾が、同時に流れては捩れていった。
瞬きの中で崩れていく常識が〝恋〟などという曖昧なものによって、全てを覆されていた。
「いよいよ明日ね……これほどまでに心が高鳴るのは、いったいいつぶりかしら……」
ターフを駆け抜ける時の感情とは違う喜びの色。
流れゆく景色を眺めながら、意識はどこか遠くの彼方へと向けていると、車が赤信号で停止。同時にその景色も動きをピタリと止めた。
吹き抜ける風だけがその景色を運んでいき、同時に視界の中で白銀に混じった空色の髪が靡いた。
運ばれて来た景色に、メジロラモーヌは目を見開く。同じトレセン学園の制服を身に纏った妹のメジロアルダンが、見慣れた男性と並んで歩いていた。
男性の表情は見えず、伺えるのはその姿だけ。あまりにも、あまりにもその姿が自身のトレーナーにそっくりで、メジロラモーヌはぼんやりとその光景に視線を奪われていた。
見慣れたスーツ姿。無雑作に跳ねた黒髪。その後ろ姿だけでも、見間違えるはずなどなかった。
メジロアルダンが彼を見上げて微笑み、笑いを漏らす。そして彼はなにかを手振りして見せてからその顔を正面へ向けた直後に、車がエンジンを吹かした。
「あっ……」
景色が流れる。メジロラモーヌはもう既に過ぎた光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。
車が動き出す瞬間に見えた彼の横顔。それがまだ不確定だった要素を、事実だと叩きつけてしまった。
その彼が、メジロラモーヌの
「嗚呼、そういうことなのね……」
ポツリと漏らし、肩身の力を抜いて背もたれに体重を預ける。なにもない灰色の天井を見上げて、メジロラモーヌは深く息を吐いた。
メジロラモーヌのやる気が下がった。
その翌日、メジロラモーヌは静かに憤慨していた。
理由は言うまでもない。自身のトレーナーとメジロアルダンが二人でどこかに出掛けていたことが理由である。やるせない感情がぐるぐると渦を巻いて、胃が捩れるような苦痛が意識を跋扈していた。
寂寥する感情は、もはやどこに向けていいのか分からず、明らかに彷徨っていた。
妹のメジロアルダンと、自分のトレーナーが二人きりでどこかに向かっていた。
帰り道が偶々一緒だったとか、そんなことではない。メジロアルダンは寮暮らしで、トレーナーの家は向かっている場所とは真反対の位置にある。明らかに二人で待ち合わせをし、目的があってどこかに向かっていた。
二人がそんな関係に?
いや普通に考えてそんなことは有り得ない……いや、本当に有り得ないのかしら……?
「はぁ、どうしてこうなったのよ……」
溜め息混じりに呟かれた言葉が、トレーナー室に虚しく響き渡る。本来なら来るつもりはなかった。だがしかし、プレゼントを渡したい欲が未だ胸の中に存在していて、真実を確かめる為にもトレーナー室へ赴いていた。
開いていた小説に視線を落としながら、その意識はどこか遠くに向いていた。
「あっ、いたんだね、ラモーヌ」
そこにパソコンを抱えたトレーナーが扉を開け、開口一番にそう言った。その声色に嫌味は微塵も含まれておらず、ただメジロラモーヌがいた事に対する驚きだけが添えられていた。
メジロラモーヌは小説を見つめたまま平然と、そして淡々と口を開く。そこ声色はどこか低く────、
「いけないかしら」
「いや全然。寧ろ来てくれてて良かったよ」
僅かに微笑んだトレーナーを一瞥し、小説へと視線を向けるが、そのページが進むことはなかった。
小説に目を向けながらも、その意識はずっとトレーナーに引き寄せられ、メジロラモーヌは中々言い出すことのできない自分に呆れて短く溜め息を吐いた。
「ねえ、ラモーヌ」
トレーナーが開いたパソコンを持ってメジロラモーヌの隣に腰を下ろす。意識外から訪れた至近距離のトレーナーに驚き、小説のページが僅かに破れた。
「あっ、ごめん、破れちゃった?」
「いいえ、気にしないで」
素っ気なく返したメジロラモーヌに、トレーナーは首を傾げる。どこかいつもと違う雰囲気を席巻させるメジロラモーヌ。その異変を感じて、トレーナーは僅かに困惑していた。
ぼんやりと破れたページを見つめるメジロラモーヌは、切れた辺りに軽く指で触れた。
────縁起が悪い。
縁が破れる。縁が切れる。小説のページが破れたのは、トレーナーとの縁が切れる前兆──前触れなのかもしれない。そんな風に考えた瞬間、心を穿たれたようにぽっかりと穴が空いた気がした。
「ラモーヌ、なんか怒ってる?」
「別に」
そっぽを向くメジロラモーヌに、トレーナーは自分の頭を掻く。そして開いていたパソコンを閉じて、ソファーの前に設置された机の脇に置いた。
ソファーに座り直し、小さく「よし」と呟いた直後、そっぽを向いたメジロラモーヌの顔を両手で挟むようにして、強引に自分の方へと向かせた。
「──ちょっと!」
驚きと怒りが上手く表せない感情の中で、メジロラモーヌは声を荒げるが、トレーナーの手は彼女の頬に添えられたまま離れない。小説が落ち、それを持っていたはずの手は彼の手に。
誰も触れることのできなかったメジロラモーヌの頬は、彼の手によって口元に寄せられている。汚れもなく、傷もない。荒れ一つも許さない彼女の処女雪の如き白い肌──微かに朱を綻んだその頬は、僅かな弾力と潤いを含み、どこまでも柔らかった。
「俺ね、他人の気持ちとか感情とか、そんな複雑なことを読み取るなんてことできないんだけどさ」
それでも────トレーナーは最後に言葉を付け足し、ゆっくりとその決心が経過するのを待ってから口を開いた。
「俺なりに真剣に向き合って来たつもりなんだ。まあ、それでも至らないことばっかだけどさ」
はにかんで、
「だから、顔を上げて。そうすれば、伝わらなかった感情もその瞳で分かるようになるから」
トレーナーはメジロラモーヌの頬から手を離し、そのまま彼女の横に腰を下ろす。メジロラモーヌはその温もりが僅かに濡れた頬に触れ、ゆっくりと息を吐きながら隣のトレーナーを一瞥。その瞬間、彼が真っ直ぐこちらを見つめていたことに気が付き、思わず顔を向けてしまった。
「別に私は、怒ってなんかないわ」
「そっか。でも────
放たれた言葉に口を噤んで、メジロラモーヌはこの心に引っ掛かった感情を自覚する。苦しみや、憤怒に似ていながら、根本から違った
「なんで悲しそうなのか分かんないけど、俺で良ければ話は聞くよ」
優しさが向けられる。視線を逸らして、メジロラモーヌは告げた。
「結構よ。これは私の問題だから」
「君の問題は、俺の問題でもある」
「…………関係ないわ」
「あるよ」
素っ気なく、そして冷たく振り払うが、トレーナーはまったく退かない。その優しさが告げられる度に、脳裏にメジロアルダンとトレーナーが並んで微笑みながら歩いている姿がフラッシュバックする。
心に更なる爪痕を残した。
「そう…………」
ポツリと呟いて、空間に静寂が席巻した。
この人は、いつも退かない。どれだけ突き放しても、どれだけ遠ざけようとしても、掴んで離れようとしない。愚直ながらに真っ直ぐ向き合い、周りが一歩を下げる中で、一歩前に出て手を差し伸べる。それがこのトレーナーだった。
「ラモーヌ」
名前を呼ぶその声色が、どこか別の色を含む。トレーナーは落ちた小説を拾い上げて、メジロラモーヌの膝の上に置き、更には彼女の手を取った。
「今日の夜、俺と一緒に月を見ない?」
「それはまた、突然な誘いね」
そうだね、と軽く笑いを溢してトレーナーは立ち上がる。窓際まで歩み寄り、鍵を解除しては上下式の窓を開ける。丁度良く大気を運んで来た風が、トレーナーの髪や服を微かに撫でて行き、爽やかな彩りを密閉された室内に遍かせた。
吹き抜けた風でメジロラモーヌの髪が僅かに揺れ、顔を逸らしながら手で抑える。そして風が収まったのを肌で感じて、トレーナーに視線を向けた。
「今日は
青空を見上げて、トレーナーは今日の夜に起こる奇跡を語った。
ただの月ではなく、約一ヶ月毎に起こる満月。一ヶ月毎に満月が見られると言っても、天気の状況では見れないことも多い。太陽の光を纏い、あたかも自分が輝いているように魅せる
「どう? 俺の誘いは乗ってくれる?」
静寂を、風が攫う。笑ったトレーナーの表情が、陽の光に濡れる。無雑作に伸びた髪が靡いて、その隙間から深淵に染まった瞳がメジロラモーヌを捉えた。
思考を巡らせた。
誘いを受けるか、否か。二人の関係がハッキリとしていない中で、とてもそんな気分にはなれなかった。
メジロラモーヌが知る二人は、それほど仲の良い関係ではない。話すことはあれど、二人で出掛けるほど仲が良いようには見えなかった。だがそれは、あくまでもメジロラモーヌの知っている範囲のみの話。当然、知らないこともある。二人がそういう関係へと至り、それに気が付けなかっただけの可能性もあった。
「その前に、一つ聞かせていただける?」
優しい声色で「いいよ」と返ってきた。
そこに込められていた表情もどこか柔らかく、淡い微笑みのままメジロラモーヌの言葉を待っていた。
ゆっくりと立ち上がり、唇を噛み締める。呑み込んだその覚悟を引き抜いて、窓際に立つトレーナーの側まで歩み寄った。
トレーナーがメジロラモーヌを一瞥する。だが彼女は、トレーナーを見もせずに、窓の外に遍く痴情から乖離された空を見上げた。
固唾を飲み、息を呑む。これほど緊張したのは、メジロラモーヌにとっても初めての出来事だった。
言葉を発しようにも、喉の奥に引っ掛かって直ぐには出て来なかった。
窓の縁に置いた手が微かに震え始める。恐怖にも似た感情を、その手で隠すように抑えた。
そして数分にも感じる長い時間の中で約五秒。時が狂った世界で鳥が囀り、
「貴方とアルダンは、どういう関係なのかしら?」
とうとう口に出してしまった。
覚悟を決めたつもりが、後悔の念に駆られる。言わなければ良かったのではないかと、視線を逸らした。
「俺とメジロアルダン?」
うーん、とトレーナーは唸ってから答えた。
「まあ、
見当違いながら答えが返って来た。
抑える手に力が込められ、拳を握り締める。そんな曖昧な答えを求めて問いたのではない。メジロラモーヌは微かに込み上げて来た怒りを堪えながら、トレーナーを睨んだ。
「そんな曖昧な答えを聞いているのではないわ」
「えっ、どういうこと?」
困惑するトレーナーに詰め寄る。彼のネクタイを掴み、強引に引き寄せてトレーナーとの視線の高さを合わせた。距離間が消滅して、息が掛かるほど眼前のトレーナーに口を開いた。
「昨日、私を差し置いて妹となにをしていたの?」
そこまで踏み込んでも尚、トレーナーは「え?」とすっとぼける。それがあまりにも腹立たしく感じ、メジロラモーヌのネクタイを握り締める手に力が込められた。
「なんでそんなに怒ってるのさ」
「…………もういいわよ」
ネクタイを離し、メジロラモーヌは背中を向ける。その背後でトレーナーは乱れたスーツを直さずに「ラモーヌ」と、名前を呼んで彼女の肩に手を置いた。だがメジロラモーヌはなにも語らず、手を払った。
「昨日は、メジロアルダンに言われて買い物に付き合ってただけだよ」
「ウソよ」
看破し、メジロラモーヌは唇を噛み締めた。
脳裏に過ぎったトレーナーの笑顔。メジロアルダンと共にしている時の彼の表情は、この三年間で一度も見たことのなかった彩りだった。
「それじゃあ、本当にウソかどうか確かめる為にも、今日の夜に屋上まで来てよ」
ここまで突き放しても、トレーナーは諦めを見せずに誘う。その声が、どこまでも真剣な色を滲ませ、明らかに悪戯の空気感ではなかった。
だから、メジロラモーヌは溜め息をついてから、背中を向けたまま答えた。
「分かったわ」
答えると、トレーナーが安堵の息をついた。
「──ありがとう」
たった一言だけ。感謝を告げられたメジロラモーヌは、光の消えた灰簾石で窓に映った自分を見た。
「…………惨めね……」
自分に向けた言葉が、胸を締め付けた。
◆◆◆◆
4月8日──まだ桜が大地を彩る中で、それを見上げれば数多の星々が恍惚と遍いていた。
無限の鋼青を宿す漆黒の空を穿った青い輝きが一つ。窓から見上げた空、それとは裏腹に心が痛い。どこまでも歪んだ意識が、目的地まで赴く足取りを重くする。淡い光が差し込む階段を一段ずつ踏み締めていき、ゆっくりと屋上まで上がった。
校内と屋上を遮る鉄の扉。ドアノブに手を掛けてから、メジロラモーヌはその手を引っ込めた。
ここから先に待ち受けるのは、光を呑み込む闇か、闇をも照らす光か。どちらに転ぶにしろ、この先へ行かなければなにも始まらない。ゆっくりと息を吸ってから、一気に吐き捨てる。そしてドアノブを回し、金属が軋むような音と共に、その道を開いた。
その瞬間────パンッ、と空気が弾けた。
思考が停止。視界に広がった鋼青の中に、色とりどりの紙吹雪が風に揺られて舞う。意識が眼前の景色を理解できず、紙吹雪の先に立っていたトレーナーとメジロアルダンが笑顔で「せーの」と声を上げ──、
「「──お誕生日、おめでとう!!」」
未だに思考が追いつかないメジロラモーヌに向け、トレーナーがクラッカーを持ちながら歩み寄る。困惑に困惑を重ねて、ようやく纏まって来た思考で自分の誕生日を振り返るが、明らかにおかしかった。
「今日は8日だったわね」
「そうだね、8日だよ」
さらっと返って来たその答えが、更なる困惑を誘う。それもそのはず、メジロラモーヌの誕生日は4月9日。
「前夜祭サプライズさ」
「前夜祭……?」
「そうだよ。明日はメジロ家で誕生日会があるらしいし、俺は俺で別に祝いたかったから前夜祭」
ウェーイ、とメジロアルダンと二人で謎の言語を発する。そこで全ての辻褄が合った。
とんでもない勘違いをしていたと、メジロラモーヌは思わず頭を抑えて自分の愚かさに呆れた。
「ね、姉様?」
「ああ、単なる杞憂だったのね……」
ポツリと漏らして、微笑みながら顔を上げると、トレーナーが一つの細長い箱を差し出す。淡い色の包装がされ、金糸の刺繍が施された細いリボンで結ばれた箱だった──受け取れば、その箱はかなり軽かった。
「これは……?」
「誕生日プレゼントだよ」
ほら、開けて開けて──トレーナーに開封を促され、メジロラモーヌはそのまま包装を開いて箱を取り出す。そしてゆっくりと箱を開いていくと、その中身は一つのペンダントだった。
淡い月夜の光を映す
「いやあ、俺プレゼントとか分かんないからさ、アルダンにも頼んで一緒に探してもらったんだよ」
あ。
それで気が付いた。
昨日、あの時に見たトレーナーとメジロアルダンの二人。あれはメジロラモーヌへの誕生日プレゼントを選ぶ為のこと。互いに邪な気持ちがあった訳でも、メジロラモーヌが抱いたそんな関係でもない。
全てメジロラモーヌを想ってのことだった。
「トレーナーさん、とても悩んでいましたよ。仕事などはいつも適当なのに」
「この前もたづなさんに凄い怒られちった。あいやじゃなくて──」
トレーナーはメジロアルダンを僅かに睨むが、彼女は揶揄いを含んだ笑みで柔らかく笑う。その二人のやり取りに目を向けてから、メジロラモーヌは自身の手にあるネックレスをぼんやりと眺めた。
「そう、だったのね……」
なぜ、トレーナーを、メジロアルダンを信じられなかったのか。自分がどれだけ愚かで馬鹿だったのか、改めて思い知らされた。これほどまでに尽くしてくれるトレーナーと妹を僅かにでも疑ってしまった自分を許せない。
「あれ、あんま気に入らなかった?」
ペンダントを眺めたまま固まっていたメジロラモーヌに、トレーナーが不安に駆られる。だがメジロラモーヌは「いえ」と首を振って、そのネックレスをトレーナーに向けて差し出した。
「付けてくださる?」
その言葉を聞き、トレーナーは直ぐに頷いてメジロラモーヌの背後に回る。そして彼女の白く透き通るような首に、そのネックレスを掛けた。
メジロラモーヌが宿すその瞳。それと同じ輝きの灰簾石を、黄金の美しい装飾で包まれたネックレス。首に掛けられたそれに触れていると、メジロアルダンが口元に手を当てて「まあ!」と声を上げた。
「超似合ってるよ」
「貴方とアルダンが選んでくれた物だもの。そんなの当たり前ね」
風に揺れる。星々が更に煌めく。
「感謝するわ、トレーナー。それにアルダン」
素直に感謝を告げれば、トレーナーは「へへ」と笑い、それに合わせてメジロアルダンも微笑む。そこでメジロアルダンはゆっくりと瞳を閉じてから、
「それでは、私はここで──」
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「ええ、私は明日も姉様を祝えますので。今日はトレーナーさんにお譲りします」
最後に、メジロアルダンはラモーヌの視線を送ってからその場を去る。彼女の背中を見つめながら、メジロラモーヌは妹の成長に思わず微笑んだ。
「あの娘も成長したわね」
「君に似て、他人を惑わすのが好きらしい」
「あら、私もそんな風に思われてるのね」
「悪い意味じゃないさ」
並んで、トレーナーは空を見上げた。
燦然と煌めく街並。ぽっかりと穿たれた蒼き光を見つめて、転落防止用の柵に手を掛ける。酷く輝いた瞳で空を見つめるトレーナーを一瞥し、メジロラモーヌは首に掛けられたネックレスを触れながら「トレーナー」と、彼を呼んだ。
「どうしたの?」
「その、さっきはごめんなさいね。私は貴方やアルダンを疑ってしまった。本当に、未熟だったわ」
「そんなことないよ。寧ろ疑われるようなことした俺が悪いし──」
それに、と言葉を紡ぎ、トレーナーはメジロラモーヌを一瞥してから遙か彼方の光を仰ぎ見た。
「いつも、感謝しかないんだよ」
特にこれといった功績も持たない新人のトレーナーが受け持ったウマ娘。メジロラモーヌは誰よりもターフを愛し、その走りを好んでいた。
その彼女が持つ魔性に、誰もが見惚れた。だがしかし、その圧倒的過ぎる輝きを受けて誰もが退いた。その中で、彼だけが彼女の本質を見抜き、手を差し伸べた。
「こんな俺を信じてくれた君に」
メジロ家の令嬢。その彼女が掲げ、背中に背負っていたものはあまりにも重かった。新人のトレーナーにその重圧は、まさに試練のようでもあった。
史上初のトリプルティアラ。その栄光は、これから先にも語られる物語となる。だがその反面で、メジロラモーヌがレースで敗北すれば、その身に余る重圧が
「いつも俺は成せば大抵はなんとかなるってだけで、適当に生きて来た。トレーナーになったのだって、親父が昔凄いトレーナーだったからってだけだし」
トレーナーになれば、道が見えると思った。
なにか新しいものを見つけられると思った。
つまらない人生に面白いものを見つけられる気がして、誰かの為になれば、本気になれると思った。
そこで、メジロラモーヌを見つけた。
「君と俺は似てるんだよ。君は気まぐれで、俺はお気楽人間。違うようで、根本的には同じなんだ」
「面白いことを言うのね」
「自分でも何言ってんのか分かんなくなっちった」
笑って、トレーナーは柵に背を預けた。
深く考えず、適当になるそんな彼が、メジロラモーヌには新鮮だった。
「いつも私の周りには、真剣過ぎる人ばかりいたのよ。けれど、私の前でも怖気づくこともなく、計画だっていつも適当の人は初めて見たわ」
「トレーナーとしては致命的だね」
「あら、貴方のことを言っているのよ」
「はい、自覚しております」
僅かに頭を下げるトレーナーに、メジロラモーヌは柔らかく微笑んだ。
そういうふざけた一面に、メジロラモーヌがどれだけ救われて来たか。トレーナーは自覚すらしていない。恐らくその先も彼がそれを自覚することはないのだろう。
「今日は、珍しい
見上げた月に向けて、トレーナーはそう言った。
淡く蒼い光を放つ月。それは数年に一度だけ起こる奇跡の光。月とは満ち欠けを繰り返し、約一ヶ月に一度その姿の全てを見せる。だがブルームーンは、その一ヶ月で二回目の満月を見せる際にしか起こらない。
メジロラモーヌの誕生日前日と重なったのは、まさに奇跡とも言える出来事だった。
「あっ、やべ忘れてた」
ぼんやりとブルームーンを見つめていたトレーナーが、慌てて脇に置かれていた少し大きめの箱を取り出した。
「ケーキも買ってきたから、一緒に食べよう」
「まさか、それを忘れていたの?」
「いやはや、月に見惚れてて」
そう言って箱の中からショートケーキを取り出したトレーナーが、敷いていたブルーシートの上に腰を下ろして紙皿にケーキを乗せる。よし、と呟いたトレーナーの横にメジロラモーヌも座り、綺麗に切り分けられているショートケーキを受け取って眺めた。
渡されたフォークを握ったまま、メジロラモーヌがショートケーキをぼんやりと見つめていると、トレーナーが首を傾げた。
「あれ、好きじゃなかった?」
ショートケーキを脇に置いて、メジロラモーヌは口を開いた。
「私も、貴方に渡したい物があるのだけれど」
「えっ、なにそれ。まさか契約解除の紙とか……」
渡される物に心当たりがないトレーナーが、僅かに怯えの表情を浮かべた。
「渡されたいの?」
「勘弁してください」
「ふふっ、冗談よ」
メジロラモーヌは持って来た鞄の中から二つの箱を取り出して、それをトレーナーに渡す。だがトレーナーは、そういったプレゼントを貰えるような心当たりが微塵もなく、明らかに困惑している様子だった。
そんな彼に向けて、メジロラモーヌは微かに微笑んで告げた。
「そんなに構えることないわ。日頃の感謝よ」
「うわマジか、ありがとう。開けていい?」
「もちろんよ」
ゆっくりと包装を破かないように箱を取り出して、その中を開けると、出て来たのは美しい装飾の施された腕時計だった。
白銀をベースに、時を刻む文字盤は漆黒の中に金色の装飾が彫り込まれている豪勢な腕時計。明らかに高そうな代物ではあるが、トレーナーも灰簾石のネックレスなんてものを渡しているのでお互い様だ。
「これ、ラモーヌが選んだの?」
「そうね。マックイーンやドーベルから話を聞いて参考にしたのよ」
「すっごいな。ありがとう、ホント嬉しいよ」
微笑んだトレーナーが、早速その腕時計を身に着けて「どうよ」と自慢気にメジロラモーヌへ見せた。
「ええ、とても似合っているわよ」
「君が選んでくれたから当たり前か」
そうね、と返すメジロラモーヌにトレーナーは早速といったようにもう一つの箱も開く。時計の箱よりも細長く小さな箱の中身は、シンプルなデザインのネクタイピンだった。
「おーネクタイピン!」
「貴方はよく身なりがだらしないから、それでネクタイだけでもキッチリなさい」
指摘されて、今もまた曲がっているネクタイを整えてからトレーナーはネクタイピンを付けるが、どうも不器用なようでそのピンすらも曲がっていた。
「まったく、世話が焼けるわね」
「不甲斐ないトレーナーでして」
満更でもない様子のメジロラモーヌが、微笑みながらトレーナーのネクタイを整える。シワを伸ばして、ピンでネクタイとシャツを挟み込んだ。
丁寧に、そして優しく、真っ直ぐとネクタイを張らせてメジロラモーヌは一歩下がった。
「大分マシになったわ」
「ありがとう、ラモーヌ」
「いいえ、感謝するべきは私の方よ」
スカートを抑えて、トレーナーの横に腰を下ろしながらメジロラモーヌは淡々と呟いた。
「貴方がいたからこそ、私はターフで更なる輝きを手にしたわ。驕りを抱いていた私を、貴方は正面から受け止めた──それだけで大したものよ」
トリプルティアラの功績も、メジロラモーヌが成し遂げたと大々的に取り上げられているが、その裏でトレーナーの努力があったからこそのもの。彼女だけでは、絶対に成し遂げられなかった。
一人ではダメなのだと、気付かせたのはトレーナーである。
「私を彩ったのは、誰でもない貴方なのよ。だから、私のトレーナーらしく、しゃんとなさいな」
メジロラモーヌは微笑んで、
「特別である必要なんてないわ。貴方はいつも通りのままでいいの。私はお気楽な貴方が
瞬間、夜空の瑞風が声を攫った。
最後の言葉が引っ掛かって、トレーナーは「え?」と困惑する。だがメジロラモーヌはそんなトレーナーを他所に、ショートケーキを食べ始めた。
「ちょっと、今なんて言ったの?」
「なにも言っていないわ」
「え、絶対言ったよ!」
「言ってないわ」
「じゃあなんで顔を逸らすのさ!」
見せられる訳がない。叫ぶトレーナーから顔を逸らして、メジロラモーヌは膝の中に顔を埋めた。
なにせメジロラモーヌの今の顔は、滲むどころか真っ赤に染まり上がっているのだから。言った手前、恥ずかしさのあまりにトレーナーから顔を隠していた。
「ホントに、姉妹揃って似てるよね」
メジロラモーヌとメジロアルダン。その性格も、仕草も、本当に似ている。感慨深くそう呟いて、トレーナーはふとネクタイピンを見つめた。
「そういえば、どうしてネクタイピンだったの?」
純粋な疑問だった。
本来プレゼントにネクタイピンは、かなり異質とも言える。それを贈られて喜ぶ者もいれば、いらないとガッカリする者も少なくはない。
お気楽なトレーナーだったからこそ、メジロラモーヌから贈られた何であっても嬉しいものだったが。
「時計は、マックイーン達の経験を参考にして選んだわ。けれどそれは、私が私の意志だけで選んだものではないのよ」
だから──とその言葉を繋いで、メジロラモーヌは膝に顔を埋めたまま紡いだ。
「私が、私だけで選んだ物を渡したかった……ただ、それだけのことよ」
恥ずかしさを殺して、平然を装いながら小さく呟くように答えると、それを聞いたトレーナーの表情がパアッと明るくなり、メジロラモーヌの名前を叫びながら彼女の肩を掴んだ──瞬間、メジロラモーヌの手から皿が落ち、真っ逆さまにケーキが落下。驚愕のあまりに顔を上げて、トレーナーとの視線が交じった。
「──ありがとう、ラモーヌ!!」
感謝を告げて、真っ赤に染まったメジロラモーヌを直視。メジロラモーヌは驚きで顔を隠すことすら忘れて、トレーナーの瞳に目を奪われていた。
淀みのない純粋な眼差し。そこにあるのは、淡い月光の光とトレーナーが抱いた感謝の彩り。真っ直ぐに向けられたそれを受けて、メジロラモーヌは思わず「ホント大げさね」と呟いていた。
その表情は、優しい色だった。
そして、ふとトレーナーが視線を落とし、ブルーシートに散ったショートケーキを見て顔を強張らせた。
「──ごめん! ケーキ落としちゃった……待って、俺の食べていいから」
トレーナーは慌てた様子で、自分のケーキをメジロラモーヌに差し出す。その彼の慌てふためいた姿に、メジロラモーヌは笑いを溢してそれを受け取った。
「なら、二人で食べましょう」
「えっ、でもそれ君の誕生日ケーキだよ?」
「だからよ。私の誕生日ケーキだから、私のしたいようにするの。いけないかしら?」
向けられた優しさに、トレーナーは思わず微笑んで「ありがとう、ラモーヌ」と感謝を告げた。
そして二人は小さなショートケーキをフォークで切って、一つの皿を分け合う。小さく別けられた白いそれを口に運べば、甘味と酸味が口の中に広がり、美味しさを一口で覆って堪能する。値段の高いところを選んで良かったと、トレーナーは思った──思考の隅で落ちたケーキを勿体無いと感じつつも。
飲み込んで、メジロラモーヌを一瞥。表情を変えずに、無言で食べる彼女に向けて問い掛けた。
「美味しい?」
その答えは単純で、隠す意志もなく、捻りすらも見せずに漏れ出た本心である。向けられた笑顔に、トレーナーは思わず言葉を呑んだ。
凛とした声が、風と共に流れた。
「──ええ、とても」
メジロラモーヌは笑った。上品に、そして美しい所作のまま口元を隠す。それでもその笑顔は隠し切れず、トレーナーはそれに目を奪われた。
思わず見惚れていると、メジロラモーヌは直ぐに顔を逸らした。
「いまラモーヌ、笑っ……」
驚きを隠し切れないトレーナーが、途切れ途切れに呟いて手を震わせる。しかしメジロラモーヌはぷいっと顔を背けて、ショートケーキにフォークを刺した。
「あら、私だって笑う時もあるわ」
「いや、そうじゃなくて……なんていうか、すっごい女の子っぽかったんだよ」
抽象的な発言に、メジロラモーヌは僅かに頬を膨らませるが、あくまでもトレーナーには見えないように不貞腐れた。
「それは普段、女の子のようには見えないと貶しているのかしら?」
トレーナーは直ぐに首を振って否定した。
「ち、違くて。いつものラモーヌは大人っぽくて綺麗な感じだけど、今の笑顔はなんていうか、その──」
初めて見た笑顔。そこにあったのは大人のような雰囲気でも、誰かを惑わすような魔性でもない。咲き誇る花のような、美しくも可憐で、年相応の子供っぽい笑顔だった。
数秒だけ考えた後に、トレーナーはそれを短い言葉で纏めて口を開いた。
「──
告げられた瞬間、メジロラモーヌの動きがピタリと停止する。そして直ぐにフォークで刺した一口のケーキを食べてから、顔を背けたまま淡々と答えた。
「…………そう……」
皿を持つ手が震える。静かにブルーシートの上に置いてから、震えが収まらないその手で顔を覆った。
顔に触れる手が熱を帯びる。告げられた言葉が身体の中で炎を灯し、メジロラモーヌの精神をも相克する。蹲ったメジロラモーヌに、勘違いをしたトレーナーが何も言わずに肩にジャケットを掛けた。
その優しさを肌で感じながら、羞恥と喜色の二つが感情の中で渦を巻いた。
「本当に、貴方って──」
隣にいるトレーナーには聞こえない声で。舞い落ちる羽のように、直ぐ風に吹かれて掻き消されてしまう呟きで、メジロラモーヌは自身の膝の中で呟いた。
「────狡いわ」
憐憫な奇跡が降り頻る夜空。淡く、虚構の光を纏った月が二人を濡らし、静寂な暗闇を照らす。初めての恋に焦がれる少女と、自身の感情に気が付けない愚かな男を見下ろしていた。
たった一人だけ、二人の視界から外れて、月光からも身を隠した少女は、顔を真っ赤にしながらも微笑んでいる。青春真っ只中の姉が、好きな人から顔を背けた先に──メジロアルダンはいた。
トレーナーからは隠せても、メジロアルダンからは隠せておらず、真っ赤に染まったメジロラモーヌの表情を、しっかりとその眼で目撃していた。
二人の姿を盗み見して、メジロアルダンはたった一人でポツリと呟いた。
「姉様がそんな表情を見せるのは、きっと貴方だけですよ、トレーナーさん」
踵を返して、メジロアルダンはその場を去る。その毛並みの整った尻尾を左右に揺らしながら────。