好感度MAXのウマ娘たちがお気楽トレーナーを落とす話 作:渚 龍騎
そして皆様、アンケートありがとうございます。
これからのことは、取り敢えずラモーヌの話を終わらせてからお知らせ致します。
「──
腕を組みながら神妙なお持ちで語った彼に向け、対面に座るメジロアルダンは首を傾げた。
小鳥の囀りが、風に吹き抜けた。
同じ場所。同じ始まり。同じ時間。メジロアルダンはデジャヴを感じながらも、語り出したトレーナーの話を真剣に聞いた。一区切りついて、思考を落ち着かせる為に紅茶を啜った。
「うーんっとねえ……」
トレーナーは唸る。彼が語り出したのは、メジロラモーヌの異変と同時に気が付いた
うん、と短く頷いたトレーナーは、右手で前髪を掻き上げてくしゃくしゃに乱してから口を開いた。
「
視線を泳がせて、トレーナーは落ち着きのない様子で自身の心臓の辺りに手を置く。服の上から掴み取るように、ワイシャツにシワができるほど力強く握り締めた。
「トレーナーさんからは、なにかをしたのですか?」
メジロアルダンに問われたトレーナーはに首を振って答えた──何もしてないよ、と。話を呑み込んで、メジロアルダンは顎に人差し指を当てて首を傾げた。
「つまりトレーナーさんは、何もしていないにも関わらず、姉の事を見ると
トレーナーがたじろぎながら言った言葉を簡潔に纏めれば、彼は落ち着きのない様子で「えっと……」と声を漏らす。それは困惑によるものか、はたまた的確に言い当てられたことによる羞恥心からなのか、どちらかであることは間違いないが、メジロアルダンは深く考えることを止めた。
「ドキドキ、なのかな……」
まだ自分の気持ちに整理がついていないのか、トレーナーは不安がった表情を浮かべる。そんな
紅茶を啜って、湧き出た悪戯心を喉の奥に流し込んだ。
「見ているとっていうか、考えるだけでっていうか」
項垂れるトレーナーから発せられた
視界に入ってドキドキするのならまだしも、思いを寄せる相手のことを考えるだけで早鐘を打ち始めるのなら重症だ。擦り傷や骨折などのレベルではない。明らかな致命傷である。
質が悪いのは、自身が抱くその想いに、トレーナー本人が気付いていないことだ。
トレーナーとウマ娘は一心同体だと、メジロマックイーンは言っていた。
人バ一体。三年も一緒にいると、お互いにその性格が似てくるのだろうか。彼の担当であるメジロラモーヌも、自身が抱くその想いに気付いていなかった。
お互いにお互いのことは敏感であっても、二人共自身のことには鈍感だった。
「お二人共、揃って似ていますね」
「なにが?」
ポツリと漏らした言葉に、トレーナーが首を傾げるが、メジロアルダンは「いえ、なんでもありませんよ」と微笑んで返す。トレーナーは不思議がっている様子だったが、直ぐに自分の話へと切り戻した。
「なんか、ラモーヌのことを考えると、こうなんていうか、その、胸が熱くなるんだよ……」
「だから、ドキドキするんですよね」
「いやドキドキっていうか……」
詰め寄られ、的確に当てられるが、トレーナーは悩みながらそれを認めようとしない。しかし、メジロアルダンが見過ごすはずもなく、大きく踏み込んだ。
「ドキドキ、するんですよね?」
「…………はい。ドキドキ、します」
メジロアルダンの笑顔から発せられる謎の圧力に負け、トレーナーは身体を縮こませて諦める。そしてティーカップを置き、金属の触れる音が鳴り響いた後で、メジロアルダンはトレーナーを見据えた。
「それでは、目を閉じてください」
突然のことにトレーナーは首を傾げるが、メジロアルダンに「はやく」と軽く促されて、彼は渋々その瞳を閉じる。目蓋の裏から照らされる光が薄っすらと映った暗闇で、残された感覚の内の一つ──聴覚に、優しい声で囁かれた。
「そのまま、姉様のことを考えてください」
言われるがままに、トレーナーは思考の中でメジロラモーヌのことを考えた。
艷やかな髪に混じった白い前髪。すべてを見透かすような灰簾石の如き瞳。少女としての面影が消えた大人びた顔立ち。畏れすらも感じるほどの美貌と、その妖艶な立ち振る舞い。強く輝く美しさ。
気まぐれで、誰よりもターフを愛するウマ娘。そんな彼女を、
「それでは次に、姉様の泣いているところを思い浮かべてください」
突然そんなことを言われて、トレーナーは目を瞑りながら「泣いてるところ?」と聞き返す。それに対してメジロアルダンが「はい」と変わらない声色で短くそう答えた。
「私はその姿を見たことありませんけど、トレーナーさんなら一度くらいあるのではないですか?」
メジロラモーヌの泣いた姿。そんな姿を、メジロラモーヌが他者に見せるはずがない。現にメジロアルダンは見たことがない。妹が一度たりとも見たことがないのなら、他の者が見たことあるはずがない。
だが、トレーナーは一度だけ見たことがあった。
有マ記念のあの日。トレーナーは初めてメジロラモーヌが悔しがり、涙を流す瞬間を見た。
史上初のトリプルティアラを達成したメジロラモーヌが、有マ記念で無念の九着。期待を胸に膨らませた観客の嘆きは、トレーナーの心にも響いた。
トレーナーですらそう感じたのだから、レースを駆け抜けた本人に圧し掛かる重圧は計り知れない。
惨めね──あの時、メジロラモーヌはそう言った。
レースで勝利できずに涙を見せるウマ娘や、勝利を収めて歓声を浴びるウマ娘がいる中で、誰よりも冷静に、いつもと変わらない様子で、淡々とメジロラモーヌは呟いた。
そう、
故に、その異変に気が付いた。
視線を落とせば、彼女は拳を握り締めていた。強く、小刻みに震えるほどに、拳を固く握って俯いている。それで平然としているように振る舞っているのだから、明らかに異常だ。
────取り繕った強さは、やがて自分を殺す。
ウソは身を守る盾になるが、時に、その矛先が自分へ向くことにもなり得る。だからこそ、
あの瞬間。
あの一瞬。
あの刹那。
あの時間の全てが、今でも脳裏に焼き付いている。初めて、メジロラモーヌが見せてくれたあの表情を。
今思えば、この想いはあの時からだった。
「どうですか?」
「どうって、言われても……」
あまりに抽象的で答えに難しい問い掛け。言葉に詰まり、もう一度メジロラモーヌの泣いている姿を思い出す。何度も蘇るその辛さは、忘れるはずがない。
胸が締め付けられるような苦痛。唇を噛み締めるほどに、自分の無力さを痛感した。
「分かんない。分かんないけど、考えたくない。考えるだけで息苦しくなるよ」
「なるほど」
これはかなりの重症ですね──メジロアルダンはティーカップの中に注がれた紅茶を啜った。
「……ねえ、これなにやってるの? 俺は懺悔させられてる?」
もういいですよ、と言われてトレーナーはゆっくり瞳を開く。闇に慣れてしまった視界が、燦然とした光に明滅する。瞬きを繰り返しながら視界を慣れさせて、目を眇めながらメジロアルダンを見つめた。
なにをさせられていたのかまるで分からず、瞳を開いた後でもトレーナーは眉を寄せて首を傾げていた。
「トレーナーさん」
見つめる先で、なにか確信を持った屹度の表情を浮かべるメジロアルダン。彼女はティーカップをそっと机に置き、姿勢を正してからトレーナーを見つめた。
数日前にも同じようなことがあった気がする──そんなことを思考の隅で思いながら、メジロアルダンはトレーナーに向けて告げた。
「──それは〝恋〟ですよ」
抱いた感情の正体を告げられて、トレーナーの思考回路は停止。キョトン、と音がなったような気がした。呆気に取られ、間の抜けた表情を見せるトレーナーは、瞬きを繰り返して「あー」と声を漏らした。
「そう……そっか……」
平然を装っているつもりなのか、トレーナーは
顔を隠すようにして雑誌を広げ、メジロアルダンとの視界を遮断。その奥で彼女は僅かに驚いたような表情を浮かべてから、優しい声色でその名前を呼ぶ。
「トレーナーさん」
紅茶を手に取り、その中にそよぐ香りを仄かに感じながら、メジロアルダンはゆっくりと告げた。
「──雑誌、
トレーナーはめちゃめちゃ動揺していた。
◆◆◆◆
遍く蒼を覆い尽くす厚い雲から、止むことのない雨が降り続く。人々は鬱々とした影の下で、その暗澹を馳せていた。降りしきる雨粒が、閉め切られた窓を断続的に何度も叩く。時が少しずつ重みを増して、冷ややかな薄闇と混じり合いながら、静謐なトレーナー室を蕭々と奏でた。
放課後のトレーナー室には、外からの雨音に混じった喧騒が微かに聞こえるのみで、騒がしい雰囲気もない。篠突く雨が外で降り続けているだけだった。
青い天蓋を包み込む暗雲。それから降り注ぐ雨は誰かの流す悲しみか、それとも神からの施しなのか、どちらにせよ雨が齎す感情は〝憂鬱〟である。鬱々とした情景を眺めながら、メジロラモーヌは大きく溜め息を吐いた。
「まったく、呆れるわよ」
呆れの色の中に、僅かな尊敬を表情に滲ませたメジロラモーヌがそう呟く。その彼女が視線を向ける先にあるものは、端的に言えばトレーナーである。だがトレーナーはソファーの背凭れに体重を預け、メジロラモーヌ特集の雑誌で顔を覆ったまま
静かに寝息を立てて眠るトレーナーの目の前で、メジロラモーヌは腕を組む。そして少し悩んだ素振りを見せてから、トレーナーの顔に乗せられた雑誌を取る。起きる気配はない。その下にあったものは、ただ疲労に満ちた寝顔だけ。
「私には夜更かしせず、体調に気を付けろと言っていたのに、自分のことはまるで成っていないのね」
呆れていたのは、それが理由だった。
トレーナーはメジロラモーヌに対し、体調管理などを徹底している。それは本人にも厳しく声を掛けているのにも関わらず、トレーナー自身がこの有様。
他人のことよりまず自分の管理をしなさいよ──メジロラモーヌはそう思いながら溜め息をつく。だがその溜め息には呆れの色が強く含まれながらも、どこか優しげな色を滲ませていた。
「こんなところで寝ると風邪引くわよ」
決して届くことのない言葉を呟いてから、メジロラモーヌはトレーナー室を見渡す。いつもは整えられていたトレーナー室で、
「はあ……ほんとに、あなたって人は……」
呟いた溜め息から、微笑みが溢れる。呆れを含んだその吐息が、優しさに混じって霧散する。メジロラモーヌは机の上に散らばった資料の束を、いくつかに分けて机に並べ、取り出したゴミ袋に放られたエナジードリンクの缶を捨てた。
ある程度を片付けた後で、メジロラモーヌは改めてトレーナーの前に立った。
「こんなに隙だらけで、よく私のトレーナーが務まるわね」
届くことのない皮肉を吐き、メジロラモーヌは手を伸ばす。そして人差し指だけを少し伸ばして、向かっていく先はトレーナーの頬へ。指先が触れれば、トレーナーの頬はそれを無意識に押し返す。その不思議な弾力を一度味わってから、メジロラモーヌは指先を止めた。
「これ、は…………」
呟いて、その指でもう一度トレーナーの頬に触れる。それを一度、二度、三度と、何度も頬を指先で
癖になるその感覚を存分に味わい、メジロラモーヌはゆっくりと息を吐いてから腕を組んで口元に手を当てる。そのまま顔を背け、熱くなる吐息を手で受けながら、メジロラモーヌがその場で膝を抱えた。
「はあ、私はなにを…………」
思い返して、メジロラモーヌは頭を抑える。このトレーナー室に来た目的──趣旨を思い出しては、
ゆっくりと立ち上がって、もう一息。トレーナーの寝息に混ざって虚しく静寂に包まれる。そして手を伸ばしたメジロラモーヌが、彼の肩に触れて優しく揺らした。
「ほら、起きなさい」
起床を促す言葉を優しく掛けながらトレーナーを揺らすが、彼は無意識に鼻を鳴らして反応するだけで眠ったまま。まだ夢の中で過ごしていて、軽く起こすだけではトレーナーが目覚めることはなかった。
「もうっ、トレーニングの時間過ぎてるのよ」
僅かに湧いた怒りを表しても、トレーナーは「んん」と唸るだけでまだ起きない。メジロラモーヌは目を眇めて、トレーナーを見下ろす。そしてガッシリと彼の顎と両頬を同時に掴んだ。温かな体温と、癖になる弾力を手のひら全体で感じながら、掴んだままトレーナーの頭を軽く揺らした。
だがしかし、それでもトレーナーは起きない。
メジロラモーヌは手を離し、再度また腕を組んだ。
トレーナーを見下ろす。なんとかして起こす方法を試行錯誤するが、そんな殿方を起こす方法などという知識は、生憎と持ち合わせていない。そこで何度かトレーナーの頬を軽く叩いてみるが、当然ながら彼は起きなかった。
「はあ、どうすればいいのよ……」
そんな困惑をポツリと漏らした。
こういう事態は妹の方が知識を持っている──そう思いながら、この場にメジロアルダンがいないことを悄然とした。あの娘ほどこの手に相応しい存在はいないだろう。だが、そんな淡い希望を抱いても、この場にメジロアルダンはいない。
メジロラモーヌは溜め息をつき、トレーナーの疲れ切った表情を見つめる。大きく呼吸をする様、表情を伺えば彼の目の下には薄っすらと隈ができていた。
部屋の様子で一目瞭然だったが、その疲れ果てたトレーナーの姿を見て、更に胸に来るものがあった。
呆れに混じったその微笑みとは、トレーナーが
「そうね……そうよね……」
自分に言い聞かせるように呟いてから、トレーナーの頬に手を添える。優しくその指で頬を撫でながら、メジロラモーヌはまた微笑んだ。
「貴方はいつも、一人で頑張っているもの。お気楽に見えて、誰よりも強い〝愛〟を持ってる。誰も見ていなくても、私はちゃんと見ているわ」
顔を寄せ、それでも起きないトレーナーの寝息を眼前に感じる。温もりに触れながら、メジロラモーヌは額を無防備なトレーナーの額に当てた。
瞳を閉じる。吐息すら混じる距離で、互いの息が霧散。メジロラモーヌはゆっくりと息を吐いて顔を離した。そしてトレーナーの隣に腰を下ろした。
「少しぐらいこの幸せを堪能しても、いいわよね」
誰に問う訳でもないのにも関わらず、メジロラモーヌは呟く。その囁きはトレーナーの寝息と共に静寂の中へ敷衍した。そして辺りを見渡しながら誰かの視線が存在していないかを確認──安全を理解して、メジロラモーヌはゆっくりとその身体を斜めに倒した。
トレーナーの肩に頭を預け、もう少し寄り添って、体重を僅かに彼へ傾ける。静かに寝息を立てるトレーナーが呼吸をする度に、その身体が上下してメジロラモーヌの預けていた身体もそれを感じていた。
「今の私がいるのは、貴方のおかげ」
史上初のトリプルティアラ。URAファイナルズ優勝。その数多の栄光は当然のこと。今まで知らなかったこの胸から湧き上がる感情を、私に植え付けたのは、誰でもない貴方なのよ。
眩い輝きの中で、何よりも大切な光を見つけた。
────だからこそ、それを失うのが怖い。
「私も、随分と弱くなったものね……」
かつては、一人を好んだ。
他にはいらない。この身一つで十全へと至る。故に、誰もが懇願しては、その志に追いつけず
だからこそ、
しかし今は────独りになるのが何より怖い。
いや、彼と離れるのが怖いのかもしれない。もはや彼のいない生活が考えられない。彼と共に
ずっと、長い間──夢を見ていた気がする。
史上初の栄光を叩きつけ、自分を大切に想ってくれている彼がいて、どれだけの
「ねえ。貴方は、私のことをどう思っているの?」
あの時に彼から問われた
チカラの抜けた腕を手繰り寄せて、柔らかく抱き締める。密着した身体が熱を灯し始め、鼓動が高鳴るのを感じた。彼の胸に頭を置けば、脈打つ心臓の落ち着いた鼓動を、ウマ娘特有の耳で聞いた。
時に、赤ん坊は心臓の音で眠りにつくらしい。それは長い間、母親のお腹の中で、ずっとそのリズムを耳にしていたからだ。心音には生物を落ち着かせる効果があり、赤ん坊だけではなく、大人にもその効果がある。例え、どれだけ大人であっても────。
腕を抱き寄せて、トレーナーが何かを握り締めていることにふと気が付いた。
福引券のようなものが、握り締められた拳からハミ出て見えている。メジロラモーヌは首を傾げて、トレーナーの腕を引き寄せて見た。
「そんなに強く握り締めたら、くしゃくしゃになるわよ」
そんなことを言っても無駄なのは理解している。だが、言わずにはいられず、メジロラモーヌはゆっくりとその握り締められた拳を開いていった。そして中から姿を見せたのは、福引券などではなく『温泉旅行のペアチケット』だった。
そのチケットに目を見開いたメジロラモーヌは、僅かに肩を落としてトレーナーを見つめた。
「貴方にも、
呟いて、ゆっくりと距離を離した。
ただの温泉旅行券なら、慰労が目的だと理解できる。だがしかし、トレーナーが握り締めていたのは紛れもないペアチケット。男友達の可能性もあるが、相手が女性──彼女であることも有り得なくはない。
トレーナーとて一人の男性。メジロラモーヌが聞いたことがないだけで、想いを寄せ合う
「それなら、私が邪魔しちゃダメね……」
もしもそういう関係に至った相手がいるのなら、横取りなど言語道断。それは駄目なことだとメジロラモーヌは承知している。それならば、愛しているからこそ遠くから応援しなければならない。
溜め息をついて、ふと机の端に置いてある資料に目が行く。雑に重ねられた資料の束──文字が沢山羅列された資料の中に、一枚だけフルカラーで印刷された資料があった。資料から引っ張り出して見れば、それはトレーナーが握り締めていた温泉旅行券で訪れる旅館のチラシだった。
「あら、随分と良さそうなところ……」
ひと目見て、メジロラモーヌはポツリと呟く。それと同時にチラシと一緒にクリップで留められた小さなメモ用紙が、その灰簾石に映った。
そこには〝ラモーヌと二人で〟とトレーナーが走り書きした文字が描かれている。そしてその文字は赤い丸で囲われていて、トレーナーがどれだけ重要にしているのかひと目で理解できるものだった。
「えっ、まさか、これって……」
ようやく思考が状況を理解した。
チラシを一瞥してから、トレーナーのチケットを見つめる。そしてチラシ、もう一度チケット、更にチラシ、最後にメモ用紙。それらの行動を何度か繰り返して、メジロラモーヌは混乱する思考に現実を叩き付けた。そして笑みを綻ばせて────、
「────本当にバカね、貴方」
精一杯の罵りを吐き捨てて、メジロラモーヌはトレーナーを抱き締める。起こさないように、優しく、そして強く、距離感すらも消失して、二人分のソファーが狭く感じるほどに密着。彼の温もりを肌で感じながら、メジロラモーヌがトレーナーに向けてポツリと呟いた。
「──ねえ、トレーナー」
静かな寝息が霧散する。静寂に溶け込む寝息に混じって、メジロラモーヌはソッと囁いた。
「────私は、貴方を
そう呟いて、メジロラモーヌはトレーナーの身体に自身の身体を預ける。微かに聞こえる心音が、更なる
「貴方は、私のことをどう思っているのかしら」
これもまた、聞けるはずのない言葉だった。だが、元よりメジロラモーヌは聞こうとしなかった。もしもその答えを聞いてしまえば、今の関係は崩れて元に戻らなくなってしまう。そんな気がしてならず、寧ろ答えを聞けなくて良かったと思っていた。
ただ────、
もしも聞けるなら─────、
彼はなんて言うのだろうか────。
そんな想いを胸に秘めて、トレーナーの鼓動に耳を傾ける。先程よりも僅かに激しさを増しているような心音に、メジロラモーヌはただ微笑んでゆっくりと顔を上げる。寝息を立てて眠るトレーナーの愛しい表情を見上げて、その息が漏れる唇にソッと指を当てた。
そしてメジロラモーヌは態勢を変え、音すらも立てない清閑な動きでトレーナーの顔に意識を寄せる。視線は彼に向きながらも、その意識は別の所に向けられ、メジロラモーヌは訥々と呟いた。
「──────」
その言葉は静寂に呑み込まれて直ぐに溶けて消える。そのままメジロラモーヌはゆっくりと顔を寄せ、長い時間を掛けて距離を詰める。冷静になれば茹でってしまう頭を抑えつけ、太鼓に似た音を響かせる脈動が耳に届く。それがあまりにも騒々しくて、トレーナーを起こしてしまうのではないかと心配したが、彼はただ深い眠りについたままだった。
窓から差し込む陽の光が、トレーナー室を照らす。その輝きを受けた二人の影が、ゆっくりと重なる。吐息が彼の顔に掛かって、メジロラモーヌは最後の数センチを詰めた。
「……ん…………」
喉から声が漏れた。
唇に触れた柔らかな感触。メジロラモーヌの唇が触れたのは、トレーナーの唇ではなく
「これで貴方は、私のもの。それを理解しなさい」
頬に手を添えて、メジロラモーヌはトレーナーの肩に頭を乗せる。身体を寄せ、そのまま柔らかな温もりに意識を託して瞳を閉じた。
そう、これは決して他者には見せないメジロラモーヌの姿。例え相手が妹であろうとも、絶対に見せない。ただ隣にいる彼だからこそ、メジロラモーヌは見せても良いと思った。
愛しのトレーナーになら、起床の有無を関係なく。
そして意識は、安寧と静寂に呑まれる。
五分、そして十分と時が流れて行き、
すぅ、と息を吸い込む。そして溜めに溜め込んだ息を吐き捨てながら、隣を一瞥。艷やかな髪、ウマ娘特有の耳、温かな感覚と柔らかな感触に眉を寄せて、
「…………………………え? どうゆうこと?」
メジロラモーヌが言った言葉の数々。
メジロラモーヌが行った行動の全て。
掃除、告白、キス、掃除、告白、キス、掃除、告白、キス、掃除、告白、キス、告白、キス、告白、キス、告白、キス。愛している、愛している、愛している、愛している、愛している。
頭が雁字搦めになり、困惑と混乱が混沌と混ざり合って爆発。いったい何が起こっているのか。いや、何が起こったのかまるで分からなかった。ただ言えるのは、ひとつだけ────、
トレーナーは、メジロラモーヌの告白も、キスも、何から何まで、
◆◆◆◆
有マ記念──メジロラモーヌ、九着。
地下バ道にも轟く歓声の中で、外から吹き抜けた空を見つめている。その空はあまりにも眩しくて。その歓声はあまりにも煩わしいものだった。
唇を噛み締めた。
拳を握り締めた。
服の裾が引き千切れんばかりに握った。
噛み締めた唇が切れて鉄の味が口内に広がった。
見上げた青空、それとは裏腹に胸の内が痛かった。
自分の未熟さに腹が立つ。溜め息を吐き捨てて、俯いた直後で──声が響いた。
「お帰り、ラモーヌ。怪我はない?」
振り返った先で、トレーナーは柔らかく微笑んでいた。その笑みを見ていられなくて、メジロラモーヌは一瞬で目を逸らす。そしてゆっくりと歩みを進め、
「惨めね────私」
淡々と呟いて、トレーナーの前まで歩み寄る。するとトレーナーは、そんなメジロラモーヌの発言に「そんなことないよ」と、首を横に振った。
「見てたでしょう。私は驕った。あの娘たちの方が、私の意志を凌駕した。ただ、ただそれだけのこと」
「悔しくないの?」
「…………私が未熟だっただけよ」
込み上げて来る感情を抑え込み、トレーナーの横をそのまま抜けようと一歩を踏み出す。瞬間、強く腕を引かれてその歩みを妨害された。
振り払うつもりで腕にチカラを込めたが、トレーナーはその手を離さなかった。
「離しなさい」
「イヤだ」
トレーナーは首を振った。
「くっ……いい加減になさい……!」
込み上げて来る感情を抑え切れず、メジロラモーヌは勢い良く振り払う。だがそれでもトレーナーが諦めることはなく、振り払われる瞬間に腕を引き寄せてメジロラモーヌを抱き寄せた。
「ちょっとなにを……!」
抗って、暴れるメジロラモーヌを強く抱き締めて、トレーナーは優しく囁いた。
「悔しくないなら、どうしてそんな顔をしてるのさ」
「────っ」
その言葉が、核心を突いた。
その瞬間に、メジロラモーヌの動きが止まった。
トレーナーはメジロラモーヌの背中に腕を回したまま抱き締めて、少しだけその力を緩めた。
「ラモーヌ、我慢なんてしなくて良いんだよ」
「そんな、こと……してない……」
メジロラモーヌは彼の胸に顔を埋めて否定した。
彼女は、誰よりもレースを愛している。ターフを愛して、走りを心の底から好きだと思っているからこそ、その
メジロラモーヌは、観察眼と洞察力にも優れている。故に、他者の異変にもいち早く気が付き、更には自分を隠す術を知っている。だからこそ、誰よりも
「大丈夫だよ」
「なに、が…………」
勘違いしてはならない。その容姿と性格で忘れてしまいそうになるが、メジロラモーヌはまだ
「今は、俺一人しかいないから」
教育者として、大人として、教え子を守るのは当然のこと。そしてなによりも────。
「だから、全部吐き出していいんだよ」
慈しむように囁かれて、小刻みに震えていたメジロラモーヌが、トレーナーの胸の服を強く握り締める。額を擦りつけて、その表情を決して見せない。だがその行動が、どんな意味を示しているのか、トレーナーには分かった。だから、なにも言わなかった。すると彼女から、訥々とした声が発せられた。
「…………少しだけ」
「うん」
頷いて、メジロラモーヌの背中を優しく擦った。
「少しだけ、このままでいさせて……」
「いいよ、分かった」
答えてから、メジロラモーヌは何も言わなかった。
トレーナーからも言葉を告げることはない。ただひたすらに、
初めて見せた弱さに、抑え切れない感情が次から次へと溢れ出て来る。込み上げる激情を後押しするのは、彼の優しさだった。
初めて見た彼女の姿を、ただただ受け止めた。
この受け入れられない結末を目の当たりにしても、決して泣き喚なかった彼女は、本当に強いものを持っていると言えるだろう。
外から差し込む歓声に、一人の深い悲しみが滲む。そしてそれを黙って抱き留める彼は、胸の内に広がった感情が分からなかった。
胸の中で、嗚咽が混じる。額を押し当てられる胸が痛い。吐き出される息遣いが熱い。そしてなによりも、彼女の瞳から流れる涙が、一番熱かった。
この時、メジロラモーヌの弱さを初めて見た。
席巻する喜色の中に混じる彼女の悔しさが、啜り泣く声と共に響く。だがそれは、どんな音よりも大きく、激しいものだった。