好感度MAXのウマ娘たちがお気楽トレーナーを落とす話 作:渚 龍騎
1 夢うつろう恋模様
「──トレーナーさんっ!!」
とても心地の良い朝だった。
暖かな春風が桜を運び、出会いを誘う。カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光を背にして、ナリタトップロードは目の前で新聞紙を広げているトレーナーを呼んでいた。
「トレーナーさんっ!」
「んー、なに?」
新聞から顔を出さずに答えるトレーナー。彼はテーブルに置かれたカップを手に取ってコーヒーに口をつける。そんな彼の様子に、いつもの調子で微笑むナリタトップロードが「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。
「今日はなんの日でしょうか!」
「今日?」
うーん、と唸るトレーナーだが、なにも思い付かずに直ぐに諦めて「分かんない」と首を傾げた。
しかしナリタトップロードが今度は「ふっふっふっ」と得意げに笑いを溢し、スマホの画面で指を滑らす。そしてカレンダーを表示し、赤く丸の付けられた日にちを指差してトレーナーに見せた。
ずいっと顔を寄せ、ナリタトップロードは笑顔で答えた。
「──今日はトレーナーさんの誕生日ですよっ!!」
ナリタトップロードのはしゃぎ様に、トレーナーはコーヒーを飲む手を止め、初めて新聞紙から顔を出した。ナリタトップロードを一瞥し、天井を見上げながら「あ~、そうだっけ」とまるで興味のない様子で呟く。すると彼女は餅のように柔らかい──だろう──頬をぷくうと膨らませた。
「もーっ、なんで興味なさそうなんですか! 私はずっとこの日が待ち遠しくて何週間も前からうずうずしてたんですよ!!」
「なんでトップロードがうずうずしてるの」
苦笑するトレーナーに向けて、ナリタトップロードは「えへへ」と微笑む。そして対面のソファーに座っていたトレーナーの横に腰を下ろした。
ナリタトップロードの不可解な行動に困惑しながらも、落ち着く為にコーヒーを啜った。
「なにしてるの?」
「見ててくださいっ!」
紙袋から一本の長く赤いリボンを取り出すと、それを適当に自身の身体に巻き付けるとナリタトップロードは両腕を広げた。
仄かに頬を赤くし、照れながら言った。
「──プレゼントは私ですっ!!」
「──ッ!?!?!?!?」
ナリタトップロードの豪速球をおもむろに食らって、トレーナーは驚愕のあまりコーヒーを勢い良く新聞紙に吹き出した。
「トレーナーさん大丈夫ですか!?」
「──んなわけあるか!!」
驚きのあまりにコーヒーが気管の変な所に流れる。その所為でトレーナーは大きく咳き込んでいた。
そんなトレーナーに困惑しながらも「す、すいません!」と謝罪を口にしたナリタトップロードが、慌ててタオルを取り出した。
目の前に飛び散ったコーヒーをナリタトップロードから受け取ったタオルで拭き去り、いまだ咳が込み上げる口に当てた。
「なんて言った!?」
「えっ、トレーナーさん大丈夫ですか?」
「違う、それより前!」
ナリタトップロードは、腕を組んで少し思考を過去へと巡らせる。そして数秒が経っていき、ようやく思い出して「あっ!」と声を出した。
「私がプレゼント! ですか?」
「そう、それ!」
状況をまるで理解できないトレーナーは声を荒げながら「なに言ってんの!?」と勢い良く立ち上がり、微笑むナリタトップロードから僅かに離れた。
「なんで離れるんですか?」
「いやいやいや、意味が分かんないって!」
トレーナーが一歩後退ると、ナリタトップロードは一歩詰め寄る。一歩下がり、一歩詰める。そうしていく内にトレーナーは壁際へと追いやられてしまい、ナリタトップロードは頬を仄かに赤く染めながら眼前へと詰め寄った。
「自分がなに言ってるか分かってんの!?」
「はいっ! もちろん分かってますよ!」
当然と言わんばかりに頷くナリタトップロードを尻目に、トレーナーは頭を抱える。だが、直ぐ目の前にナリタトップロードの端正で可愛らしい顔があり、真っ直ぐ向けられた
「どうして避けるんですかトレーナーさん!」
「避けてない近い!」
あまりにも近くに詰め寄るナリタトップロードを放そうとするが、彼女は興奮を抑え切れない様子で更に顔を近寄せる。眼前まで詰め寄られ、興奮気味な様子でその距離の近さに気が付いていない。
「今日は誕生日ですよっ!」
ふんす、と鼻息を荒くするナリタトップロード。顔に息が掛かるほど近い。トレーナーは彼女の肩を持って「取り敢えず離れて」と、無理やりソファーに座らせるとその横一つ空けて腰を下ろした。
すると彼女は離れたトレーナーと距離を詰める。その瞬間、ナリタトップロードの眼前で人差し指を立てて、彼女の動きを止めた。
「はいそこまで。ほら、直ぐに近寄らない」
ナリタトップロードはきょとんとした表情を浮かべ、その詰め寄ろうとした身を止めた。
犬のように首を傾げるナリタトップロードに向けて、トレーナーは呆れて溜め息をついた。
「あのさ、そんなの誰から教わったの?」
ナリタトップロードはここまで大胆なことをするようなウマ娘ではない。それを理解しているからこそ、トレーナーは彼女の裏に誰かがいると予想していた。
そして────、
「い、いや、そんな……私が、自分で?」
「はい嘘確定」
────彼女が嘘を付けないことも知っていた。
まず視線が泳ぎに泳いでいる。更には両手の指同士を合わせ、そわそわと落ち着きがない様子でいた。
ナリタトップロードの瞳が右上を見上げる。そこへ更に追い打ちをかけてトレーナーは指を差した。
「ほら嘘。誰に言われたの?」
ナリタトップロードは嘘をつくことができない。真面目な彼女にとって、人を騙す嘘とは本能的に良くないことだと思い込んでいる。だから、嘘をつく時に必ず分かりやすい罪悪感の感情が表に出てしまうのだ。
「────」
そこでナリタトップロードが取った行動は沈黙である。一応黙秘権は罪人にも与えられている特権。黙っていれば、自分でポロッとボロを吐かずに済むのだから、相手のほとぼりが冷めるまで待っていれば良い。
「なるほどね。へー、そういう態度とるんだ」
トレーナーはゆっくりと溜め息をつき、そのままソファーから立ち上がる。その様子をぼんやりと見上げていたナリタトップロードは、適当な返事をするトレーナーに「え?」と首を傾げた。
彼は腕を組んで、何度も頷きながら口を開いた。
「あーあ、とうとうトップロードも俺に嘘をつくようになったのか……ショックだなぁ、ああ……泣きそうだな……」
目頭を押さえて天を仰ぎ見るトレーナーの姿を見て、ナリタトップロードはあわあわと落ち着きがない様子で目を泳がせ始める。おどおど、あわあわ、どうするべきか焦りに焦って困惑していた。
鼻をすすり、今にも泣いてしまいそうな雰囲気を醸し出すトレーナーは、机に置いてあった荷物を抱えてナリタトップロードに深々と頭を下げた。
「えー、今までお世話になりました。これで僕はナリタトップロードさんのトレーナーを辞退させて頂きます。辞表には、担当ウマ娘に嘘をつかれたと書きますので。それでは、さよなら」
そのまま立ち去ろうとするトレーナー。ナリタトップロードはソファーから転げ落ちるように慌てて彼の服の裾を引いて止めた。
「ちょっと! 待ってくださいトレーナーさん!!」
「止めないでください、僕はもう辞めます」
頑張って引き止めるナリタトップロードと、無理にでもそのまま立ち去ろうとするトレーナー。二人の攻防は誰にも止められない。というか止めてくれる誰かがいない。
「あー!! 行かないでください!!」
「もう担当バのパワハラには耐えられません」
「パワハラなんてしてな……えっ、私知らずうちにしてました!?」
トレーナーの発言に驚愕するナリタトップロードだが、彼は黙り込んで空を見上げる。その仕草にナリタトップロードは全てを悟って声を荒げた。
「──やってないですよね!?」
「うんやってない」
その言葉にナリタトップロードは安堵の息を漏らす。胸を撫で下ろした彼女はバッと顔を上げて、トレーナーのネクタイを掴むなり大きく揺らし始めた。
彼女が勢いよく揺らす度にトレーナーの頭は力ない人形のようにぐわんぐわんと揺れていた。
「ひどいじゃないですかー!」
「ごめんごめん、痛いから離して~」
揺らし続けるナリタトップロードを静止して、トレーナーは何事もなかったように頭を下げてそのまま立ち去ろうとする。状況を理解できていなかったナリタトップロードは数秒の困惑の後に、扉を開いたトレーナーを慌てて引き止めた。
ずるずると引き摺られていくナリタトップロードは声を荒げた。
「ちょっとまた行かないでください!」
「いやでももうやめますんで……」
「あーあー! ごめんなさいちゃんと話しますからぁ!」
そこでピタッと動きを止めたトレーナーは「よし」と呟いて振り返る。その瞬間、引いていたナリタトップロードのバランスが崩れ、そのままトレーナーも引かれるがままに体重が傾く。視点が揺らぎ、盛大な音を廊下に響かせながら二人は倒れこんだ。
「あ」
それは誰の声だっただろうか。二人は互いに漏れた自身の声を認識することはできず、そのまま眼前の景色をぼんやりと見つめるしかなかった。
ナリタトップロードは困惑していた。
腕はトレーナーに抑えつけられ、ただ傍観に徹する他ない。というよりも何もできない。目の前にある彼の顔を眺めていると、身体がバグを検出したように段々と熱を灯し始める。彼の漆黒の瞳に映る自分の顔は、間の抜けた表情をしていた。
鼓動が早鐘を打つように。太鼓の音が大きく自分の耳に聞こえるほど、強く激しく感じられてしまった。
「あ、ご、ごめんね!」
ようやく状況を理解したトレーナーは慌てて立ち上がり、仰向けに倒れているトップロードに手を差し伸べる。トップロードは自身の手に汗が滲んでしまっていることすらも忘れて、差し伸べられたその手を取って立ち上がった。
トレーナーは「ホントごめん」と謝罪を呟きながらトップロードの顔に掛かった乱れた髪を少し払う。そこで意識を取り戻したトップロードはトレーナーから顔を逸した。
「い、いえ……! 私の方こそすいません……」
ナリタトップロードは髪の毛先を摘みながら、視線を足下へと向ける。そんな彼女の頬は仄かに赤く染まっており、口を噤んで自身の頬に手を当てた。
熱い。湯船に浸かった時のように熱い。そして胸に手を当てると、その奥に潜む鼓動がレースを駆け抜けた時のように早い。
──嗚呼、ダメだ……これ以上は耐えられない。
万感の想いに呼応して、みるみる内に呼吸が荒くなる。思考が定かではなく、意識が彼一色に染まりつつある。否、もう既にその想いは彼のこと以外に考えられなくなっていた。
「あ、あの……私、トレーナーさんの事が──!」
意を決し、覚悟を決めて振り返った瞬間、顎に手を添えられる。トレーナーの顔を見上げるように、添えられた手で顎を引かれた。
困惑。困惑。困惑。驚愕。困惑。思考が止まり、瞳に彼しか映らなくなる。眼前にいる彼の存在があまりにも大きくて、思わず彼を求めるしかなくなった。
「と、トレーナーさん……っ」
震える声で呼んでも、彼はなにも答えない。赤く染まった頬が視界の端に映る。吐息が漏れ、音もなく霧散すると仄かな甘い香りが鼻孔をくすぐった。
唇が震える。宝石のような瞳が、彼のその唇にから離せなくなる。それでも顔を上げて彼を見つめると、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「トップロード、ごめん」
そう言って、ナリタトップロードの意思の有無を言わさずにゆっくりと顔を近づけていく。なにもできずに、ただただその行方に身を任せるしかなかった。それ以外の選択肢などナリタトップロードには端から無かったのだ。
なぜならそれは────。
背中に添えられた彼の手に力が入るのを感じた。
窓から吹き抜ける風が、冷気を運んで素肌を撫でる。鳥肌が立っているのは、寒さ故のものかは分からない。それでも、内側から燃え盛るような体温の所為で薄っすらと汗すら浮かび上がっていた。
鼓動がうるさい。はやく収まれと胸の辺りを強く握り締めても、今さらこの想いが冷静になるはずもない。ただ彼に聞こえてしまわないことだけを願った。
「トレーナー、さん……」
呼びかけると、彼は小さく頷いて反応を示す。そして彼の手が肩に添えられ、その覚悟を決めた。徐々に覚悟が定まった彼の顔が近付いて来る。もう見慣れたその顔があまりにも愛おしくて、ナリタトップロードの瞳が小刻みに揺れた。
「あ、あっ……」
徐々に、徐々に、ゆっくりと日差しに照らされた影が重なる。彼の唇が重なるその直前まで耐えて、耐えて、耐え続けて。息を呑んで、強く瞳を閉じて成り行きに身を任せた。
それでも、思わず瞳を見開いた。
彼の顔があまりにも近く、息が荒くなっていき、呼吸も乱れる。そして唇が触れ合うその瞬間────、
「──あぁぁぁぁやっぱりダメぇぇ!!!!」
「──だぁぁぁぁぁぁなんだぁぁ!?!?」
ナリタトップロードは────
時刻は午前3時53分。バッと勢い良く上体を起こしたナリタトップロードは、あれが
「ぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁ」
声にならない声が、吐息のように漏れる。顔を覆い隠しながら昨晩の夢が鮮明に脳裏に駆け巡って、ナリタトップロードは「もういやだぁ……」と頭を大きく前後に振り続けた。
だが、そんなことをしても夢が頭から離れることはない。寧ろ忘れようとする度に脳裏に濛々と浮かび上がってくるのだ。
「ふわぁ。おい、どうしたんだよトップロード」
寝ぼけ眼を擦って、ルームメイトのジャングルポケットが欠伸をしながらナリタトップロードを見下ろす。だが、ナリタトップロードは今はそれどころではない。トレーナーのことで頭がいっぱいなのだ。
顔を覆ったままの彼女は訥々とこもった声で「ポッケちゃん、起こしちゃってすいません……」と謝罪の言葉を口にする。しかし、明らかに様子がおかしいルームメイトの異変に、ジャングルポケットは心配げな眼差しを向けた。
「大丈夫か? らしくないじゃんか」
あまりにもいつもと様子がそぐわないナリタトップロードの姿に、ジャングルポケットは首を傾げる。ナリタトップロードも彼女を起こしてしまったことに申し訳なさを感じながら、さきの夢が過ぎってそれどころではない。だが彼女の優しさを無碍にはできず、ナリタトップロードは訥々と語り始めた。
「うぅ……変な夢を、見ちゃって……」
「ゆめぇ? あのなぁ、もう子供じゃねえんだからよ」
ジャングルポケットの言葉に肩を落とすナリタトップロード。そんな彼女の様子を横目に、ジャングルポケットはその鹿毛の髪をくしゃくしゃに搔いてから、仕方なく隣に腰を下ろした。
「怖い夢か? カラスが出たとか」
飛び上がるほどの夢となれば、まず最初に思い付くのはその人物が恐れる夢だ。ナリタトップロードの苦手なもので考えられるのは、ネコやカラスである。特にカラスは苦手で、突然の鳴き声に飛び上がって涙を浮かべてしまうほどだ。
二人でカラスに出くわした際は必ず背後に隠れていたのを思い出して、ジャングルポケットは苦笑する。だが、ナリタトップロードは僅かに恥ずかしがりながら首を振った。
「い、いえ……あの、怖い夢というか……別に怖い夢、じゃなくて、ですね……」
「ああ? なんだよそれ」
「い、いや、だからですね……怖い夢じゃなくて、寧ろ良い夢だったというなんというか……」
「え? なんて?」
徐々に小さくなったナリタトップロードの声に、ジャングルポケットは耳を傾けるがまるで聞こえない。聞き返しても、彼女は「うぅ……」と羞恥で顔を赤く染めて布団に埋めるばかりだった。
「ったく、なんだか分かんねーけど、取り敢えず話して見ろよ。少しは楽になるかもしんねーぞ?」
ジャングルポケットは少しばかり照れ臭そうに首の後ろに手を回す。彼女なりの優しさであることは、ナリタトップロードが一番分かっているつもりだ。
だがしかし──それとこれとは別である。
恐れるような夢を見たのなら、ここは素直に夢の内容を話して気持ちを和らげるところだ。しかし、ナリタトップロードには夢の内容を言えない理由があった。
「い、いえいえ、そんなポッケちゃんのお手を煩わせることなんて……!」
「ここに来て俺の優しさを台無しにするつもりか?」
「い、いや、そんなつもりは……」
「なら言えって。一応、ほら、ルームメイトだしな。俺もいつも助けて貰ってるし」
少しばかり頬を赤くし、視線を逸らすジャングルポケットだが、なぜナリタトップロードが夢の内容を語れないのかは理解できない。しかしそれでも、困っている人がいるなら助けたい──そんな誰かの真似がしたくなってしまったのかもしれない。
「どんな夢を見たんだよ」
「う、うぅ、う……」
夢の内容を話したくない。だが、彼女を傷付けたくもない。話したくない。傷付けたくない。話したくない。傷付けたくない。話したくない。傷付けたくない。話したくない。傷付けたくない。
何度も何度も、同じ言葉を繰り返して、ナリタトップロードは夢を話さずにジャングルポケットを傷付けない選択肢を二つ強欲に選ぶ。思考を巡らせ、二つの選択肢を成功させる為の答えを導き出して、ナリタトップロードは人差し指を立てた。
「お、面白い夢を見たんです! すっごく面白くて、えっと……とにかく面白い夢で、思わず起きちゃったんですよ! だから──」
嘘も方便とも言うが、そもそも嘘で物事を上手く運ぶ為には、その『嘘』自体が上手くなければ意味がない。いかにしてそれを真実だと思わせるか、根拠や道理がしっかりと繋がっている必要がある。だが、だがしかし──誠実な性格のナリタトップロードが、上手い嘘などつけるはずがないのだ。
人を騙してしまうという罪悪感が、自分の利益よりも圧倒的に膨れやすい。誰よりも優しい彼女が、誰かを傷付けることなど絶対に有り得ない。だからこそ、嘘が下手。自分を隠すのが苦手で、ジャングルポケットは呆れて溜め息をついた。
「あのなあ、そんな嘘がバレないと思ってんのトップロードだけだって」
「えっ! なんで直ぐに嘘だって分かったんですか!?」
そこまで言って、ナリタトップロードは「あ!」と墓穴を掘ったことに気が付く。どうやってここまで生きてこれたのか不思議で仕方がなかったが、ジャングルポケットは思考の隅に置いて深く追求しなかった。
「下手に嘘つこうとすんなよ。じゃなきゃ今度からウソップロードって呼ぶからな」
「えっ!?」
無論そんなこと言ったりなどしない。だが、こうでもしなければナリタトップロードが腹を割って話すことはない。それをよく理解しているからこそ、ジャングルポケットの分かりやすく可愛らしい、子供じみた脅迫の言葉だった。
ナリタトップロードは暫くの間「うぅ……」といたたまれない様子で、両手の人差し指を合わせている。視線を逸らし、そわそわしながら遠くを見つめる。一向に会話が始まらず、詰め寄って「ほら言えよ」と促した。
そこでようやくナリタトップロードは恥ずかしながら口を開いた。
「あの……誰にも言わないって、約束してくれますか……?」
「なんだそれ。そんなん沢山あるだろ。テストの時も暗記に夢中で筆箱忘れたり、てるてる坊主を吊るそうって雨の中──」
「あーあー! も、もうやめてください!」
慌ててジャングルポケットの言葉を遮ると、彼女は「ほら、もうこんなにあんだから気にすんなって」と柔らかく微笑んだ。
ナリタトップロードは小さく縮こまり、布団ごしに膝を抱える。そして訥々と風に吹き消されてしまいそうなほど小さな声で語り始めた。
「えっと……実は、怖い夢じゃ、ないんです……」
「それなのにあんなでけー声出してたのか?」
「う、それは……その……」
話そうとすると、脳裏にあの光景が蘇ってしまう。春疾風が肌を撫で、視界いっぱいに映る愛しい彼の表情。徐々に近付いて来るその麗しい唇に見惚れて、影が重なる。そこまで思い出して、ナリタトップロードは顔を真っ赤に染め両手で覆った。
「だから、ですね……その……夢に、トレーナーさんが出てきて……」
「あー、あの変なトレーナーか」
ジャングルポケットにとって、ナリタトップロードのトレーナーとはそのような認識だった。
冗談と悪戯をして揶揄う、そんなトレーナーにナリタトップロードが振り回されているのは何度も見たことがある。その矛先がジャングルポケットに向くことも少なくはない。
『分かったろ、分かったかね……んっと、違う、分かったよね? わか……あっ、分かったかい、ポニーちゃん! です!』
『……おう。お前がマジだってことは伝わるけどよ、これはどういうつもりなんだ?』
ナリタトップロードの奇行に困惑しながらも、後ろで腕を組んでいるトレーナーへと目を向けると、彼は得意気に「ふっ」と鼻を鳴らして答えた。
『フジキセキが相手ならポケットも話を集中して聞けると思って、フジキセキの真似をしてみれば良いってアドバイスした』
『──バカか!! お前も鵜呑みにすんなって!』
『一緒にがんばって、ん? 共に? と、とにかくがんばろうか、ポッケちゃ、あっ、ポニーちゃん!』
あの意味の分からない勉強会は、今でも脳裏に焼き付いている。トップロードの努力には感謝しているが、あのトレーナーはボケているのか本気でやっているのかまるで分からない。
思い出して、ジャングルポケットは苦笑した。
「それで、そのトレーナーが出てきてどうしたんだ?」
瞬間、問い掛けられたナリタトップロードの顔が更に真っ赤に染まる。今にもボッと湯気が出そうな勢いだ。やがて膨大な熱を灯した彼女はオーバーヒート。ぷしゅー、と口から熱を吐き出して冷却を開始した。
「重症だな。なにがあったんだよ」
「そ、それは……えっと、トレーナーさん、と……だから、き、キスをして、ですね……」
「は? 蜜?」
意を決して話した言葉は、ジャングルポケットの耳に届かず、風に容易く流されて静謐へと移り変わる。そこでまたもや夢を思い出してオーバーヒートするナリタトップロードに、ジャングルポケットは漠然と部屋が暑くなっているのを感じた。
「だ、だから! トレーナーさんと、夢の中で──き、キスを! してしまったんです!」
一秒経過。ジャングルポケットの頭脳は、ナリタトップロードから発せられた言葉を解明しようと試行錯誤する。その間、ナリタトップロードは恥ずかしさで瀕死の状態だった。
二秒経過。ジャングルポケットの頭脳が、ようやく『キス』という言葉を理解し始める。まばたきを繰り返し、ナリタトップロードの蒸れたリンゴのように赤くなっている表情を見つめた。
三秒経過。ジャングルポケットの目が徐々に大きく見開かれる。ナリタトップロードの発言をようやく理解して、表情が一気に崩れ始めた。
四秒経過。言葉を理解した本能が身体の奥底にある熱を灯し始め、一気に頭頂まで駆け上る。驚愕する本能を理性でなんとか受け止め、ジャングルポケットは顔が熱くなるのを隠し、彼女が思考が導き出した答えは──、
「そうか良かったな。んじゃ、おやすみ」
全てを切り捨てて布団を被ることだった。
瞬間、きょとんと音が鳴った気がした。
ナリタトップロードの覚悟も羞恥心も、全てをばっさりと容赦なく切り捨てたジャングルポケットは布団を被る。想定していた夢とまったく異なっていることに思考が追いつかなかったが、あまりにも
布団を覆い被さるジャングルポケットの背中を見つめて、ナリタトップロードはベッドから転げ落ちるように慌てて彼女の布団に駆け寄る。布団の上から大きく揺らし、その宝石のような瞳に大粒の涙を浮かべながら懇願した。
「あーあー! そんなこと言わないでくださいポッケちゃん! 私今日どんな顔をしてトレーナーさんに会えば良いんですか!!!!!」
「──知らねえよ!!」
ごもっともである。轟、と吠えるジャングルポケットに圧倒されながらも、ナリタトップロードは「見捨てないで下さいポッケちゃん!」と彼女の肩を掴んでいた。
「んなこと言われたって、俺に分かるわけねえだろ!!」
ジャングルポケットはこんなこと言ってるけど、実はというと必死になって恥ずかしさを隠そうとしてるだけなんだよね。初々しいから、キスってだけでも赤くなっちゃうみたいだよ。
「あー!! ポッケちゃん!!」
「だぁー! うるせーよ!!」
ナリタトップロードとジャングルポケットの攻防は終わりなく続く。二人の叫び声は寮中に響き渡ったとか、渡ってないとか。トレセン学園ではこの日から、二人の女幽霊がキスを巡って叫び合うという都市伝説が増えた。
◆◆◆◆
「えっ、二人とも大丈夫? めちゃめちゃ疲れた顔してるけど……」
トレーナーは現れた二人──ナリタトップロードとジャングルポケットの表情を見つめて心配げな眼差しを向ける。彼女たちの顔は明らかに疲労の色が強く滲み、僅かに目の下に隈が見えるような気もした。
「寝不足? なにがあったの?」
「アンタの所為だよ」
「えっ、俺? なにかした?」
ジャングルポケットの言葉を理解できずに首を傾げるトレーナー。ナリタトップロードは寝ぼけ眼を擦りながら「私が悪いんです……」と肩を落とした。
「どういうことなのさ……」
状況がまるで理解できないトレーナーは首を傾げる。するとジャングルポケットが大きな欠伸を溢しながら、親指でナリタトップロードを指差した。
「トップロードが夢ん中でアンタとキ──」
「──ポッケちゃん!!」
ジャングルポケットの言葉を、ナリタトップロードが顔を仄かに赤くして大声で制する。あまりにも突然の大音声にトレーナーも思わず目を見開いた。
だが、肝心のジャングルポケットは眠気との戦いでそれほど効いていない様子で、ナリタトップロードに肩を掴まれて前後に大きく揺すられていた。
「それは言わない約束ですよ!!」
「あーあー、分かった分かった。もう言わねえから、さっさと離してくれ」
なにがなんだか一つも理解できないトレーナーは、苦笑しながらぼんやりと二人のやり取りを見つめる。すると途端にナリタトップロードが顔をトレーナーへと向け、一気に詰め寄った。
「トレーナーさん! さあ、はやくトレーニングを始めましょう!!」
「でも、寝不足なら今日は休みでも……」
「は・や・く!! やりましょう!!」
ぐいっと詰め寄るナリタトップロードの圧に負けて、トレーナーは困惑しながらも「う、うん」と頷いた。
気合いを入れて駆け出すナリタトップロードと、眠気で出遅れるジャングルポケット。遠退いていく二人の背中を見つめて、トレーナーは首を傾げた。
ナリタトップロードのやる気が上がった。
体力が80減った。
ジャングルポケットのやる気が下がった。
寝不足になってしまった。