コミック・サウンド・スクアリー~擬音探偵アリカの怪音奇音なステージファイル~ 作:北乃ゆうひ/YU-Hi
「いらっしゃいませ」
その綺麗な肉体に、何一つの服も装飾もつけていない店員さんは、あまりにも本で見た通りだった。
言葉通りに、写真がそのまま抜け出してきたかのように。
大きくはないけど、決して控えめとはいえない形の美しい胸。
引き締まったウエストに小さなお尻。
お尻に反して太ももは大きめだけれど、足首に向かうにつれて細くなっていく様は、芸術品のようや曲線美を描いている。
全身は引き締まっているのに、アスリートのような筋肉質というか筋張ったという角張ったというか、そういうマッスル感を感じない、全身が滑らかで柔らかな曲線だけで描かれているような――
同性である私から見ても羨ましいまでに整ったプロポーションに艶やかな肌。
仕草の一つ一つに吸い込まれてしまいそうな錯覚を感じるほどに綺麗な人。
一種の完成した芸術品の裸婦像のようでありながら、同時に店内の薄暗い明かりに照らされているからこその淫靡さ。
見ただけで、意識が完全に全裸の店員さんに引き込まれてしまって、気を逸らせない。
この人、たぶん怪異だ。
そうは思ったのに、自分に向けられた微笑みから目を逸らせない。
彼女を見ているだけで、彼女に微笑まれているだけで、意識が
「何か欲しい本があるのかしら? ふふ、良かったら一緒に写真撮影などもしませんか?」
近寄ってくる店員さん。
細くしなやかで綺麗な指先が、私の頬を優しく撫でる。
ゾクリとした――けれど決して不快ではない感覚が、背骨を震わせる。
「貴女もとても綺麗だから。一緒に撮影すれば、きっととても良い写真集が作れるわ」
私の頬に手を当てたまま、手とは逆側の耳に顔を近づけて、店員さんが囁く。
煙たく、甘い香りに包まれる。
店員さんから、煙たく、甘い香りがする。
どうしようもなく、クラクラしてくる。
まずい――という本能の警鐘を、甘い香りが
「ふふ。今日は、何しに来たのかしら? 本を買う? 一緒に撮影する? それとも……もっと別のコトをする? あるいはお友達になってくれる?」
甘く、そして意地悪な声。
思考が甘い香りの煙に巻かれて、正しく回らなくなっていく。
「う、あ……」
何か言い返そうとして、声がうまく出せずに、漏れ出たのは喘ぐような音だけ。
「どうして答えてくれないのかしら?」
こちらが上手く声が出せないのを理解した上で、そう聞いているのだと分かるような声色。
言いながら、彼女の手は頬から首筋へとゆっくりと撫でながら降りていく。
私の身体を彼女の手が撫で降りていくにつれ、背筋が溶け落ちていくかのようにゾクゾク震え、膝にチカラが入らなくなっていく。
店員さんの指先から、煙たく甘い香りを感じる。
品の良い香水をお裾分けするように、あるいはボディケアの為の乳液のように、指先から煙る香りが、私の身体にすりこまれていく。
まずい。本当にまずい。
抵抗しないといけないはずなのに、どうしていいか分からなくて、為すがままになってしまう。
このままじゃまずいのに、抵抗の仕方が分からない。
「あ」
カクンと、膝が折れる。
膝に、腰に、チカラが入らず、店員さんへ向かって倒れ込んでしまう。
「あらあら、大丈夫?」
店員さんが私を優しく抱き止める。
彼女の肌は、触れたら吸い付き、それでいて適度な弾力を返す、まで極上のソファのよう。
私の肌と彼女の肌と。
直接触れ合う部分から、何かが吸い取られていく感覚。
代わりに、甘く香る煙が、私の中から失われた何かを補間するように入り込んでくる。
抱きしめられているから、全身が甘く香る煙に包まれていく感覚。
まるでゆりかごの中で揺られているような安心感と、相反するような荒々しい衝動が、心の中で同時に渦巻き、だけど煙に巻かれて、行き場を失いぐちゃぐちゃになって、混ざり合って、溶け合って……。
何か、言わないと――
何か、抵抗しないと――
このままだと、私は完全に怪異に取り込まれてしまう。
「自分が女だからって、我慢する必要はないのよ?
理性を失いケダモノのようになった殿方のように、思うさまに私の身体を貪っていいの」
「う、あ……」
脳に、体内に、心に。
染みこむように入り込み続けてくる、煙たく甘い香りが、私の中にある、開けてはいけない鍵の数々をピッキングするように、ゆっくりと解錠していく感覚。
扉が一つ開く。
そこにあった何かが吸い取られて、代わりに煙たく甘い香りが入り込んでくる。
息が上がっていく。
甘く香る煙が扉の中で渦を巻き、強制的に興奮を押し上げれていくような――
えっちな本のお店にでてくる怪異だし、様子がおかしくなったお客さんはみんな男性だったから、勝手に男性だけを洗脳する怪異だと思い込んでた。
でも違う。
この怪異は、相手の性別なんて関係ない。
怪異が気に入った相手をこうやって抵抗力を削ぎながら、怪異にとって都合の良い存在へと作り替えていく存在のようだ。
「はぁ……」
体内に溜まった甘く香る煙を少しでも外に出そうと息を吐く。
でも、それで出てくるのは、本当の自分の口から漏れ出ているのかと思うほどのいやらしい音。
熱っぽく、まるで糸を引いているかのような、
出した分の空気を吸おうと息を吸えば、怪異に抱きしめられているから、その煙たく甘い香りが肺を満たしてしまう。
クラクラする。
身体にチカラが入らない。
目の前がチカチカする。
店員さんの姿以外のモノがまともに認識できなくなっていく。
「ふふふ」
支えられなければ立っていられない私の頭を優しく抱きしめていた店員さんは、明らかに意図的に、自分の胸元へと私の顔を動かした。
その谷間から香る煙は、より甘く、より煙たく――
そして何より、より私の内側に入り込みやすく、より強く私の何かを書き換えていく。
「あ……」
身体がどんどん言うことを聞かなくなる。
何とか店員さんに捕まっていた手は、するりと落ちてブラブラと。
口は勝手に半開きで、舌が勝手に落ちて――
口の端や、舌先から垂れていく涎を、自分の意志で止められない。
「いいのよ。身を任せて。その甘い香りに全てを委ねて。
身体も、思考も、心も、全部、全部……私も貴女も、もう寂しいコトなんてなくなるから」
「ふぅ、ふぅ……はぁっ、はぁっ……」
犬のような呼吸をしながら、それでも完全に堕ちないように、耐える。
デッドラインが迫っている感覚。
これを超えてしまうと、完全に取り込まれてしまう。
「常連さんたちは、本だけでなく私のコトも好きみたいなの。
けれど、一人では時々相手がしきれないから。ふふ。女の子の
そんな気はしていたけれど、やっぱりこの怪異は、男性客にえっちなことをして洗脳していたようだ。
いや――それはもしかしたら、洗脳済のお客さんへのサービスかもしれないけれど。
……怪異は好き勝手していいけど、こちとら生身なので、そういうのは勘弁してもらいたい。
そんな心境とは裏腹に、全身に広がる良くない興奮を抑えきれなくなっている。
これまでの怪異は、私を無理矢理押し倒したりしてきてくるパターンばかりだったけれど、この相手はそんなことはしてこない。
優しく、じっくり、ゆっくりと。
弱火でコトコト火を入れるように、私の心を塗り替えていく。
やがて私自身の意志で、それを求めるように作り替えていっている。
身体を操られて、とか。
催眠や洗脳で気がつくと、とか。
その手の言い訳を与えないように。
その行いは、自分の意志で選択したのだと思わせる為の
そこまで分かっているのに――
分かっているのに――
「ここまでされてまだがんばるのね。すごいわ。
貴女が女――だから、なんてものじゃない。我慢強くて、がんばり屋さんで、とても真面目なのね」
優しく、優しく、褒めてくる。
優しすぎて涙がでてきそう。
「でも、我慢のしすぎもがんばりすぎも良くないわ。
今は我慢もがんばりも休ませて、ただ自分の中に沸き上がる衝動に身を任せていいの」
優しく、優しく、促してくる。
ずっと言って欲しかった言葉がスルリと、心の中に入り込んでくる。
「ずっと我慢してきたのでしょう? ずっとがんばってきたのでしょう? ずっと寂しかったのでしょう? だけど、今は休んでいいの。貴女の衝動の全てを、私が受け止めてあげるから、ね」
優しく、優しく、手招きをしてくる。
その優しさの中に混じる、煙たく甘い香り。
それが、私の中にある抵抗感という飴玉を優しくもいやらしく舐め溶かすように。
だけど同時に、この怪異はとても優しい子なのだというのも分かった。
私を取り込もうとしているけれど、私への気遣う言葉は本物のだ。
きっと私の心や記憶を読み取って、その上で本当に気遣ってくれている。
煙によって抵抗力を下げられた上で、その人にとって欲しい言葉を、本心から優しく囁き、誘惑する。あるいは、怪異自身は誘惑している自覚はないのかもしれない。洗脳すら、している自覚がないのかもしれない。
それでも、並大抵の人は、耐えきることなんてできないだろう。
実際、私もそうだ。
こんなに優しく、こんな慈しむような声で、言葉で、抵抗力や理性を下げられた状態で、気遣うようにずっと耳元で囁かれ続けたら――
我慢を止め、がんばるのを止め、心を休ませ、身体の内側で渦巻く甘く香る煙に煽られるまま、この人を押し倒して、その身体を思うさまに貪ってしまったかもしれない。
赤ちゃんみたいにおっぱいに吸い付き、その状態で頭でも撫でられて優しくされたら、もしかしたら本当に赤ちゃんに戻されてしまう可能性だってある。
あるいは、この優しい怪異と共に、この古書店で共に生き続ける怪異と化すのも悪くないと――そう思ってしまうことだってあるだろう。
……大学に入る前の、
本当に危なかった。
ずっとずっと欲しかった言葉で、ずっとずっと向けて欲しかった優しさだけど――
今の私は、もうそれらを大切な人たちから与えて貰っている。受け取っている。
だから、今の私は我慢する。がんばる。寂しさだって耐えられる。
私だけの孤独なんてものははもうきっとない。あるとしたら、それは孤独じゃなくて孤高と呼べるモノなんだと思う。自分で言うのもなんだけど。
だから、だから――
「どうして、抗うの?」
「…………」
チカラの入らない肉体じゃあ喋れない。
だけど、まだ動く
「う、るず……」
もう一人の私を、呼び出した。
「なに、それは……?」
驚く店員さんに、はてさて何を言おうかと考えて――
甘く香る煙に巻かれ、蕩けて思考力の低下した自分の……ウルズの口から零れ出た言葉は――
「貴女は、なぜ白黒なのですか?」
その綺麗な店員さんはあまりのも本で見た通りだった。
言葉通りに、写真がそのまま抜け出してきたかのように。
だって、その全身の彩すらも、モノクロ写真集そのままだったから。
「え? は?」
私の質問は想定外だったのか、店員さんはモノクロの目を白黒させながら、戸惑うようにウルズを見る。
……とりあえず、このタイミングでするべき質問じゃなかったかも、っていう自覚はあるよ。うん。ズレた質問なのは自覚がある。
だけど、その戸惑いのおかげで身体が煙に支配されているような感覚は薄れた。
僅かに戻ってきたチカラと思考力、そして抵抗心を持って、私を抱きしめる店員さんを振り払って、少し離れた。
「きゃ!?」
「わわわ!?」
まぁ、それでも膝や腰にチカラがあまり入らずに、尻餅をついてしまったけれど。
「……この状態で、抗えるなんて……。
でも、我慢のしすぎも、がんばりすぎも、寂しさに耐え続けるのも、良くないのは本当なのよ。もっとチカラを抜いて。お願いだから、居なくならないで……私のコトを好きでいて、嫌いに、ならないで……」
甘く香る煙の気配ははなく、大きい声でもなく、感情的にも見えない。
けれど、その言葉は、激しい
だから私は、ウルズの肩を借りるように立ち上がると、真っ直ぐに怪異を見た。
「貴女は、人間との接し方を分かってないだけで、きっと優しい怪異なんだと思う」
「……え?」
煙の影響でチカラの入らない全身に喝を入れながら、差し伸べるように手を出した。
「だから聞かせて。貴女はどうして生まれて、このお店で何をしていたのかを」