その日の出来事を、後に彼は
この日、吾郎は今日は張り切らなければならないと自分を鼓舞していた。誰かの誕生日というわけでも、推しのライブに行く日というわけでもなく、いつも通りの出勤日。
ただ二点、いつもとは違う点があった。
一点目は、自分の推しであるアイドルの“アイ“が活動休止になったということ。
体調不良とのことで、具体的にどういった症状なのかは発表されてないが、しばらくアイの姿を見れないということには変わりない。
そのため仕事に支障が出そうということで、いつも以上に集中しなければと考えていたのだ。
しかし、吾郎が張り切ろうとしているのはこの理由だけではない。それが二つ目に繋がってくる。
それは、自身の後輩である大総あいの勤めてる施設の子が、今日患者としてやってくるということだ。
あい本人は仕事の関係で今日来ることは出来ないみたいだが、代わりに付き添いの人がいるという。加えてその患者の子が『星野アイ』という人であることも予約の情報から知り得ていた。
「(星野“アイ“さん、ね……いや、今はそれどころじゃない)」
診察室に向かう道中、なんとなく予約にあった名前の“アイ“という単語に引っ掛かりを覚えるが、すぐに思考を切り替える。これから来る患者は後輩の初めての、そして念願の頼み事でもあるからだ。
より気を引き締めて仕事をしよう。このように決意し、深呼吸。そして現在件の患者の待つ診察室へと入った。
「はい、お待たせしましたっと」
中にいたのは、ちょっと厳つい見た目をした男の人と、患者らしき帽子を被った長髪の女の子。お腹の見た目からおおよそ20週くらいであると推測。
「えっと、星野さんは初めてでしたよね」
「はい」
手元にあるカルテを見る。年齢は16で、施設育ち。かなり闇の深そうな事態だ。敢えてあいが自分を、もといこの病院を頼ってきたのか改めて理解出来た。
「それで貴方は……」
「あぁ、保護者代理です。本来は来るつもりだったみたいですが、今日どうしても仕事で来れないみたいで……」
「……なるほど?」
隣の男性からの回答。同じ施設の職員なら保護者でいいのではないかと思いつつ、自分が事情を少しあいから聞いていたことは知らなさそうだという風に感じた。
まぁ、そうだとしても吾郎には関係ない。普段通りに診察を行えばいいだけなのだから。
そう、思っていた。目の前の女の子が帽子を脱ぐまでは。
「──」
言葉を失った。目の前に、いるはずのない人がいるのだから。
「どうなんでしょう先生、物凄い便秘という可能性は……」
「……だとしたら、死んでますねぇ」
「ですよねぇ……」
そう返すだけで精一杯だった。それほどに余裕がなかった。その後の女の子による快便だったという正直聞きたくなかった報告もそこまで耳に入ってきていなかった。
──あの“アイ“が、目の前にいる……ッ!
「──とりあえず検査してみましょう。準備がありますのでしばらくお待ちください」
一度、診察室から出る吾郎。出た瞬間、それまで無理矢理蓋をしていた思いが一気に押し寄せてきた。
──あれ、アイだよな?! そっくりさんか?!
──いや何度も見てきたから間違いない、あの子はアイだ!
──あぁリアルアイめっちゃかわいい~~!!
──じゃなくて、なんでアイが妊娠?! ショックすぎてゲボ吐きそうな勢いなんだが!?
──というか待て。ってことは大総はアイの保護者なのか?!
──それなら何で言ってくれなかったんだよ!?
様々な疑問が浮かんでは交差する。到底一人では処理できない情報の押し寄せに吾郎は表にも出てしまうほどとても動揺していた。
中から女の子と男性の話声が聞こえる。しかしそれに耳を傾ける余裕すら今の吾郎にはなかった。このままでは仕事どころではないだろう。
だが、ここである言葉が吾郎を奮い立たせた。
『──先輩でしたら大丈夫であると信じてますので』
自身を信じて託してくれた、後輩の言葉だった。
この状況は吾郎にとっては予想外。加えてかなり辛いと感じていることでもある。
だが、あいは吾郎を頼った。先輩ならなんとかできるんじゃないかという期待を込めて、初めて自分から先輩にお願いをしたのだ。
「……」
ここでもし何も出来なかったら、もう一生吾郎はあいから頼られなくなるだろう。これは吾郎が信頼に値するのだとあいに証明するための貴重な機会でもあるのだ。
思い出す。あの日、壊れてしまった後輩を。未だ吾郎はあいからの弱音を聞けていない。まだ蓋をし続けている可能性があるということ。
頼みごとを成功させれば、一層信頼を置いてくれ、弱音を零してくれるようなあいを支える柱へと至れるかもしれない。
「……なら、やらないとだな」
頭は一気に冷静になっていく。感情的になってる自分を一旦仕舞いこんで、仕事モードへと切り替えた。
「後で大総に質問攻めだ。だから今は」
──今は、全力で仕事を遂行するだけだ。
そう改めて決意をし、検査のための準備に向かうのであった。
──────
今日の仕事が一段落。さてそろそろ明日の準備を始めていこうかなというタイミングで、携帯の着信音が鳴った。
先輩からのメール。内容を見てみると今時間はあるかというものであった。
今日は先輩にアイちゃんを診てもらった日。こんな時間に掛けてくるってことは緊急のやつじゃないってことでちょっと安心しつつ、大丈夫ですよと返信。
返信後、すぐに電話はかかってきた。わたしもそれに呼応するようにすぐに出る。
「もしもし」
『もしもし、大総か?』
「はい、そうですよ先輩。お疲れ様です」
ただの挨拶という意味だけではなく、労いの意味も込めてそう返した。
先輩にとっては、いつも通りなだけだったかもしれない。でも、少し前に来たアイちゃんからの電話や斎藤さんからの連絡で、とても丁寧に診てくださったんだということを知れた。重荷でしかないお願いを聞いてくれた、ということがわたしは凄く嬉しいんだ。
『あぁ、お疲れ。……で、今は本当に大丈夫か? 無理はしてないか?』
「? してませんよ? ちょうどキリのいいところまで仕事は終わっていますから」
『……ならいいんだが。お前には色々と聞きたいことがあるからな』
「聞きたい事、ですか?」
……一体何だろう? 何か伝えそびれたこととかあったっけ?
とりあえず、先輩の次の言葉を待った。
『まず一つ目だ。……お前、アイドル"アイ"の保護者なのか?』
「アイちゃんのことですか? そうですよ、あの子がアイドルになる前からずっと一緒でしたからね」
『アイちゃん……』
初めて知ったように、わたしのアイちゃんに対する呼び方を繰り返す先輩。……そういえば、言ってなかったかもしれない。
『なぁ、なんで言ってくれなかったんだ……?』
「お伝えしていなかったのはすみません。しかし、先輩も患者については詳しく聞かないとおっしゃっていたような……」
『……あぁ、そうだったな。俺が言ったんだったな……』
がっくりした様子の先輩。だけどちょっと納得してるっぽいところもあると感じた。
『やけにアイに詳しいなと思っていたら、そういうことだったんだな……』
「そうですね。……もしかして、何かお伝えしていなかったことで不味いことでもありました?」
『いや、そんなことはない。筒なくこなせたよ。……ただ、気になっただけだ』
一つ目の疑問は解消できたみたい。ちょっと先輩は混乱気味っぽいけど、次の質問がやってきた。
『次だがその……あの子の相手って結局誰なんだ? 保護者なら何か聞いていたりしないか?』
「それに関しては、わたしも知りません。アイちゃん曰く、いないとのことですので」
『いない……?』
「えぇ」
『……そうか』
あの子も多分分かってる。それでも、居ないという風に断じた。
……何か隠してるのは確実。だけど、アイちゃんがそれを望むのなら、わたしは深堀するつもりはない。とっくの前に、覚悟は聞いているから。
『──まぁ、今更関係ないか』
「……先輩?」
『あの子の子は、俺が取り上げるよ』
「!」
正直、驚いた。あくまでわたしは先輩に診てほしいとしかお願いをしてない。それ以上を求めるのは違うと思ったからだ。出来れば最後まで先輩にお願いしたいとは思っていたけど、まさか先輩から言ってくれるなんて。
「いいんですか……?」
『あぁ、あの子の覚悟を聞いてしまったからな。……それに逆らうなんて選択肢、俺にはなかったよ』
「? そうなんですね?」
何を言ってるのか少し分からなかったけど、とにかく先輩がアイちゃんの子を産ませてくれるらしい。
うん、それなら大丈夫だ。きっと元気でたくましい子が生まれてくるはずだ。
『大総は、こっちに来れるのか?』
「はい、もう少ししたら長期の有休を取ってますので、そこで産まれるまではいようと思います」
『そうか。お前がいてくれるなら、あの子もより大丈夫だろう』
「──まぁ」
珍しく、褒められた気がする。ちょっとだけ顔が熱い。
『っと、もうこんな時間。もう遅いし、ここまでにしとくか。他に聞きたいことは、またお前がこっちに来た時に聞くよ』
「そうですか? 分かりました。では──」
『あ、ちょっと待ってくれ。最後に一つだけ聞きたいことがある』
「? はい」
すぐに、先輩からの質問は来た。
『あの子に──アイに凄く親しい年上の女の子って施設に居たりするのか?』
「アイちゃんに凄く親しい年上の女の子、ですか?」
施設での思い出を振り返ってみる。最初の方のアイちゃんはちょっと誰も寄せ付けないみたいな感じだった気がするけど、途中からそんなことはなくなっていた。なんなら皆と仲良く話せるようになってた気がする。
でもその中で凄く親しい子かぁ。……わたしが知ってる限りじゃいないかもしれない。結構長くアイちゃんとは一緒にいるし、知らないところは少ないつもりだったんだけど、まだまだわたしの知らないアイちゃんがいるみたいだね。
アイちゃん、もしかして段々とちゃんとした愛を知ってきているのかなぁ。だとしたら嬉しいな。
「うーん……すみません、心当たりはないですね」
『そうなのか? あー……どうやらその子が来てくれると嬉しいって言っててな』
「アイちゃんがですか?」
『あぁ、だからその子もお前と一緒に来てくれるといいなと思ったんだが……お前ですら心当たりがないなら一体誰なんだろうな』
「誰なんでしょうね……」
もう一回考えるけど、やっぱり出てこない。知らないことが増えてるってことはちょっと寂しいことだけど、それ以上により活動的になってるってことだから、それはそれで嬉しい。
もしかして芸能関係の人だったりするのかな? だったら、後で斎藤さんに聞いてみてもいいかもしれない。
『まぁ、知らないならしょうがないな。じゃ、今日はここまでによう。おやすみ』
「はい、おやすみなさい」
ここで、電話は切れる。いつの間にか一時間近く経っててびっくりした。
子どもに関しては、もう心配いらない。だって先輩が最後までやってくれるから。
対してわたしは、まだ何も出来てない。支えるって決めた癖に、今日はどうしても無理だったんだから。
だから近々病院へ行ってアイちゃんをちゃんと支えよう。出来ることはなんでもやろう。先生が大丈夫でも、アイちゃん自身が不調だったら良くないから。
そのためにも、目の前の仕事たちをきちんとこなしていかないといけない。まずは、明日の準備だ。
「──よしっ」
頬を叩いて、気合を入れる。勿論、総てへの愛も忘れない。愛してこそ、人生なんだから。
不思議と眠気なんかは感じなかった。きっと、愛のおかげだ。
さぁ、頑張ろう。明日のための第一歩を、今踏みしめた。
アイちゃんに凄く親しい年上の女の子(女神)。
自分のことだとは思ってない。
推しの覚悟を見て聞いた先輩。
無事に子を産ませると強く決意した。
アイと親しい女の子と後輩が結びつかなかった。
アイちゃん。
本当はお姉ちゃんと一緒に来たかったみたい。
でもお姉ちゃんも忙しいってことを理解してる。えらいね。
斎藤社長。
多分胃薬常備してる。頑張ってほしい。