「聖杯……」
承太郎は呟き、かの聖遺物を思い起こしていた。圧倒的な存在感と異彩なオーラを放つ謎の盃。不良である承太郎には大した知識はない。朧げな記憶を手繰り、聖杯とは主キリストの血を受けた杯だったか、という程度の想起にとどまった。
実のところ、承太郎はそんな上等なものとは思っていなかった。が、異世界の聖杯ともなると承太郎の知る聖杯と伝説が違っても不思議はない。気にかけてはいなかった。
ディオはふと遠い何処かを見つめながら独り言のように語った。
「天国に行く方法があるかもしれない」
承太郎は狐につままれたような表情でディオを見る。
「おい、妙な顔をするな。天国とは精神の向かうところ……死ぬってことじゃあない」
「てめーが死ぬなら願ったり叶ったりだぜ」
「フフフ。そうだろうな。もしくは、異世界に取り残される、か」
承太郎は苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちする。この男は数多くの凶悪なスタンド使いを自らの手足のように操るカリスマだ。話をしているだけでもペースを握られているわけで、手ずから話を長くするなど愚かな行為だと思い出した。
「……聖杯と何の関係がある?」
「より多くの魂を、私一人で所有する。それが天国へ行くのに必要なのだ。そんなことは簡単にできはしないが、聖杯は魂を力にする。そのシステムがあれば諸問題の多くは解決する」
ディオは委細を話さなかったが、口ぶりからして承太郎はこの場を誤魔化すためにでっち上げた話とも思わなかった。尤も、天国云々も信じた訳ではない。少なくともディオはそう考えているのだろう、というだけだ。
「ま、やりたいことは理解したぜ」
「それは
お前は元の世界に帰る権利を、私は聖杯を……」
「……」
言わずもがな、承太郎はディオと戦わずして決着がつくならそれが最善であることは心得ていた。
ディオの能力はテルミと同等かそれ以上に凶悪。ディオからしても、唯一時の止まった世界を意識することができる承太郎はまた唯一の天敵であった。
それにディオとてこの聖杯戦争を必ず勝ち抜けるとは限らない。いずれかの英雄に狩られる可能性だってゼロではないのだ。
ここでディオを、このとんでもなく強大な敵を相手取るのは間違いなく貧乏クジだ。元の世界とは事情が違う。
「もしよければ、お前が元の世界に戻るまで私は聖杯に近寄らないと約束しよう。他に条件があるなら言ってくれたまえ」
あわよくばテルミと潰しあってくれるかも知れない。そう考えると、ディオと組むかどうかはさておきここで戦うのは勝利から遠ざかる行為だ。
だが……
「だが、忘れたとは言わせねぇぜ。
じじいも、花京院も……ディオ……!
てめーが殺したってことをな。
てめーみてーなクソ野郎がのうのうと生きてるってだけで気持ちよく眠れねぇんだよ」
陰でディオの表情はよく見えなかった。が、はたと顔を上げ硬直するその様は少しばかり驚いているようであった。
「……なるほど……交渉決裂か」
「貴重な情報をありがとうよ。もうそろそろ用無しだ」
ディオは薄ら笑みを浮かべ、ムカデが巣穴に逃げ込むようにヌルリと暗い寺の中に入っていく。
「チッ! 逃さねーぜ!」
承太郎はディオを追って寺に踏み込む。
やつの能力を持ってして距離を取ったり隠れたりするあたり、やはり本調子ではないのだろうかと承太郎は考えていた。彼の知るディオなら、さっきの距離は仕掛けてきてもおかしくない。いや、承太郎はそのギリギリの距離を保ち、迎え撃とうとしていたのだ。
しかしこの時、焦ってディオを目に捉えようとした承太郎は拙策を後悔することとなった。ディオは逃げてなどいない。あと一メートルの距離を詰めるために暗がりに身を隠し承太郎を焚き付けたのだ。
「フフ……入ったな、承太郎。
我がスタンド、ザ・ワールドの射程内に……」
「ッ!?」
承太郎は急いで間を取ろうと地を蹴る。が、同時にディオもそれを逃すまいと疾駆する。数歩分の距離は承太郎には遠いがディオには近い、死の間合い。如何なる能力者であれ無力と化す絶対なる空間――
「見るがいい、これが我が世界。時よ止まれ」
ゆらりと立ち昇る蜃気楼のようなスタンド……ザ・ワールドが顕在化するや否や、空間がどくんと波打つ。景色がネガ反転したかと思うと、徐々にその色は褪せ、やがて全ての景色が灰色に落ち着いた。
時間が止まっている。
寺内を舞う埃も、境内に吹く風が巻き上げた砂も、録画された映像を止めたように微動だにしない。後方へ跳躍していた承太郎の身体も両足を床から離したそのままの姿勢で宙に縫い付けられている。
この宇宙においてディオを除いて動く存在はなかった。
「……」
そしてこの世界を誰も意識することはできない。時が再び動き出したとしても、よもや時が止まっていたなどと誰が思うだろうか。この二人以外は――ザ・ワールドを操るディオ、そして因果の渦中にいる承太郎。
ただし二人の能力には明確な差があった。止まった時を動ける秒数だ。ディオは体調次第では最長十秒を超えるのに対し承太郎は長くても三秒程度。いつ動く権利を行使するのか、承太郎は慎重に思考を巡らせていた。
ディオが一歩近づく。
まだだ。
もう一歩近づく。
もう少し我慢だ。
さらに一歩近づき……
「……!?」
承太郎は困惑していた。
何のつもりだ? ディオ……絶対有利のこの間合いで、何をもたついているのだ?と。
時が止まって既に三秒、ディオは未だに攻撃を仕掛けてこないでいた。如何に能力差があるとはいえ、値千金の一秒を無為にするなど怠慢で済む話ではない。何かの策かと勘繰るが、そもそも現時点で暫定勝利を掴んでいるディオに策など無意味。そのあまりの下策ぶりに、承太郎は目の前に迫る男がディオであることを一瞬疑った。
その直後にディオの金髪がキラリと光を放つ。髪が逆立ち広がったかと思うと、いつの間にやら無数の長い針が彼の周囲に並んでいた。
承太郎はその針の尻に付いている小さな心臓を見て思い出した。これは肉の芽。吸血鬼であるディオがもつ謎の深い能力の一つで、脳に侵入し宿主の思考を操る力を持つ。寄生された者はディオの手足となり敵を排し、役目を終えれば芽に脳を食い破られ死ぬ。
ディオはやはり承太郎を手駒とする気だったようだ。
しかし今、ディオはあっさりとスタープラチナの射程のラインを越えている。無論、むざむざこれを受ける承太郎ではない。
「オラァッ!」
グシャリとスタープラチナの拳がディオの頭蓋に突き刺さる。さらに、大きく身体を傾けるディオに続けて剛拳を叩き込んだ。
「オラオラオラオラッ!」
「ぐうッ! ザ・ワールドッ、私を護れッ!」
ここに来て、承太郎はやっとディオのスタンドの実体を見た。稚拙な予想が当たっていたのか、その姿は本調子とは程遠いナリだ。異世界に飛ばされて間もない頃のスタープラチナの様にエッジの利かない薄くぼんやりした輪郭を描いている。
しかしパワーは衰えてはいないようで、スタープラチナの光速のラッシュを拳で返す。拳と拳がピタリかち合い、空間が歪んで見えるほどの衝撃が二人を弾き飛ばした。
ディオは大きく後退り、両手で頭を抱え込む。世界が時間を刻み始めたのは、何度か深い息を吐いたあとだった。
「ゲホッ……」
未だディオは膝をついてはいない。彼の頭骨は削岩機に掛けられた岩の様にぼろぼろで、抉れた脳が露出しているというのに。常人であれば咳込むことも苦しむこともできないほどの明らかな即死ダメージに、不死身の吸血鬼といえど悶えている。
ディオは血と共に恨言を吐く。
「……こともあろうに!
ジョースターの末裔が……」
「……?」
承太郎は、その続きを聞くことが出来なかった。既視感のある光景とセリフに何か大切なことを閃き掛けたが、ディオの言葉とその思考は突如響き渡る重低音に掻き消されたのだ。
――ドルンッ
と、空気を破裂されるその音は不良の承太郎でなくともすぐに正体を察する、特徴的なもの。自動二輪車、所謂バイクというやつのエンジン音。威嚇するような音が背後から聞こえてきたのだから、承太郎は慌てて振り返る。それと同時、承太郎とディオに強烈な光が照らされた。
「!?」
まさかディオの仲間か、あるいはディオに操られた手下か。承太郎は突然の光に薄目になりながらも新手の姿を見る。
大型のバイクに跨る華奢な女性……バイクのヘッドライトが放つ逆光で貌はよく見えない。微かに見て取れるはその構え、その片手に持つ武器――大口径の拳銃を向けて――
ダン、ダン、ダンと大きな銃声が三発続けて鳴り響く。承太郎は慌ててスタンドで身を護るが、弾丸は承太郎の右を通り過ぎる。その三発の向かう先は承太郎ではなくディオの方だった。
弾丸はそれぞれディオの額、胸、腹と急所を的確に貫く。
「がはァッ!」
大きな口径だけあって威力も半端ではない。ディオは弾の質量によろめき、二、三歩大股に後退った。その女性は拳銃を撃ち終えるや否や、再びエンジンをふかす。
停止状態からの急加速。承太郎の知る普通のバイクではあり得ない加速力で、またも承太郎の横を掠めていく。狙いはディオのようだ。銃弾をモロに食らって怯むマトに、追い討ちで大型バイクのタックル。これもまたクリーンヒットだ。時速百キロ近いスピードで鉄の塊に激突されたディオは放たれた矢の様に真っ直ぐ、寺の柱を折り、壁を貫いてぶっ飛んでいった。
バイクは地面を擦りながらターンし、承太郎に横腹を向けて急停止する。
「……」
薄目で確認できた髪型体型などのシルエットはマシュとよく似ていたため、援護に来てくれたのかもと期待したが違った。ここに来てまた新たなサーヴァントだ。
まず目に付く大型バイクは滅多にお目に掛かれないくらいに珍奇。青く光る鉄で全身覆われ、前輪から後輪まで隠れている様は西洋の甲冑武者を彷彿とさせる。フロントには女性の顔の造形があしらわれていて、ちょうど両眼の部分がヘッドライトになっている。なんとも前衛的なデザインだ。
それに跨る女性は……前時代的というか時代錯誤というか。棘付き肩パッド、全身にぴったり張り付くライダースーツ、手にはメリケンサックと大型リボルバー式ハンドガンを持つ。退廃感漂う全体におかっぱの髪、鼻から上を隠す仮面。
仮面の所為で顔は見えないが、歳は随分若そうだ。恐らく十代後半くらいか。
女性は、今度は承太郎に銃口を向けて、こう言い放った。
「サーヴァント・ライダー、
次回更新は6/4(日)の朝7:00です。