「お友だちが……分からなく、なりました……」
元担当のマンハッタンカフェから相談を持ちかけられたのは、彼女がトレセン学園を卒業して二年ほど経ったある日のことだった。二年ほどではあまり変わらない、ということだろうか。あの時からもう少し大人びた私服を身にまとい、首から入校許可証を提げた漆黒の摩天楼は、そこまで見た目が変わっても当時を懐かしむには十分な雰囲気をまとっていた。
「分からなくなった、というのは」
「私が……目標に、していたもの。それが、見えなくなってしまって……」
「見えなくなった……それは突然?」
「はい……」
結局彼女の在学中、僕に見えることはなかったが、彼女が目標として追い続けている「お友だち」。まだまだ追いつけていないと語る彼女は、学園卒業後も社会人レースの道を選んだ。トゥインクル・シリーズを駆け抜ける全盛期の子たちほどではないが、それでも人間よりはずっと速度を追求する界隈だ。実際、菊花賞や春の天皇賞を走っていた頃よりもだいぶ抑えて走れており、無理をせずに走ることを別角度から楽しめている、とカフェは話してくれた。
「これは私の……『目的』に関わります……」
「本当に、ある日突然、なのか」
「はい……朝霞のように、忽然と……」
カフェにとってそれが異常事態であるのは明らかだ。だが僕には、解決策をパッと思いつくことはできなかった。
僕が中央のトレーナーになり、最初に担当したのがカフェ。その縁もあって、生徒ではなくなった今も僕は深く関わっている。当時から特に過度に自分を追い込むような性格ではないはずなのだが、トゥインクル・シリーズと社会人レースとでは競技性からしてまるで異なる。環境の変化が、彼女に何か悪い影響を与えているのかもしれない。僕はカフェにそのまま伝えた。
「一度、思い切って休息を取った方がいいかもしれない。これからのことを見つめ直す、きっかけになるかもしれないし」
「はい……」
「幸い、相談するあてはある。ちょっと当たってみるよ」
「……っ!」
「うん?」
「い、いえ……何でも、ありません……」
カフェが動揺しているように見えたが、気のせいかもしれない。あるいは、僕の方も動揺していたか。カフェも知らないデスクの引き出しには、僕しか知り得ない指輪の見積もりが入っていて、いつの間にかそちらに視線を向けてしまっていた。目の前に当の本人が姿を見せると、やはり意識してしまう。
「ありがとうございます……」
走ること、目標を追うことに集中したいカフェには、まだこの話は早いだろう。そう思って、僕はぺこりと頭を下げた彼女を校門まで送り届けた。
***
「ふぅン……目標を失ってしまったウマ娘、ねぇ」
週末。担当の子たちのトレーニングが休みの日を使って、僕は知り合いを訪ねにとある大学へ来ていた。その名は、アグネスタキオン。放校か卒業か、とにかくトレセン学園を出た彼女は、自身もウマ娘ながら、ウマ娘の真理に迫らんとする飽くなき探究心を買われ、ウマ娘が多く在籍するこの大学で助教をやっている。もっともその道を本人が望んだかどうかは疑問だが、元トレーナーのお弁当には毎日ありつけているようだし、実験体はたくさんいるから満足していそうだった。本格化を迎える中高生のウマ娘だけではなく、ピークを過ぎた大人のウマ娘も研究対象だそうだ。
「君も知っているだろうが、ウマ娘の競技者としてのピークは非常に早い段階で訪れる。人間と同じような体格をしていながら、その常識では考えられないスピードで走るからだろう。もちろん、限界もね。それが次の世代から渡された引導にしろ、怪我にしろ。まるで最初からそうなる運命であったかのように、時期が定まっている」
ウマ娘に関する真理の探究は、科学の発展かあるいは禁忌か。アグネスタキオンという子は、かなり深いところまで迫っているのだろう。知りたいような、知ってはいけないような。しかし次の一言で、僕の肝が途端に冷えた。
「……で、なぜ君は、これがカフェの話であることを隠したんだい?」
「……っ!?」
「私に分からないとでも? ともに卒業生となっても、私とカフェの仲だ。そして君が、カフェという子を今でも追っている、追ってしまっているということは、容易に想像がつく」
「追ってしまっているって、そんな」
「ではなぜ、今の君はそれほどまでに動揺している?」
異様にそわそわしている。それは自分でも分かっていた。タキオンに指摘され、ぴたりと身体の動きが止まるが、またすぐに落ち着きなく動き始めてしまう。
「……それは」
「君は特別だ。初めて担当した子がG1ウマ娘にまで成長するなんてトレーナーはそうそういない。君もカフェも、そのことをよく理解している。そして君は今も、『カフェへの指導をベースに』動いている」
「……っ!」
「図星のようだねえ」
「それの、……何が悪いんだ?」
「悪いとは言わないさ。むしろ上手くいった先行研究があるのなら、大いに参考にすべきだろうね。ただ、君は少々カフェに入れ込み過ぎなのかもしれない。すでに社会人レースの方へ移行したカフェの、幻影を追うように」
「……」
「ただでさえ、人間のトレーナーとウマ娘は、科学的に説明できない強い力で結ばれる傾向にある。私は君がカフェに入れ込むあまり、『今』担当している子たちを疎かにしてしまうことを、危惧しているのだよ」
「そんなことは」
「今の君に、そんなことはない、と言い切れるかな?」
「……」
「とにかく、カフェの件は私の中では答えが明確だ。ウマ娘は自身の限界を、人間より早く、よりはっきりと認知できる。それがカフェにとっては、『お友だち』とやらが見えなくなることだった、ということだろう」
分かっていたような、分かっていなかったような。タキオンに指摘されたことが、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。大学生ウマ娘の走る前後での心拍数の変化を見る実験を予定していたタキオンが、先に話を打ち切ってきた。相変わらず実験となると後ろ姿からも分かるほどにウキウキするタキオン。その背中を見送ることしか、僕にはできなかった。
***
『今度、一緒にお茶でもしませんか』
それから少し経って。カフェの方から、そんなLANEが飛んできた。カフェに休んだ方がいいと提案し、タキオンに相談を持ちかけて以来、僕は何も行動を起こせずにいた。そんな中でカフェの方から動きがあったものだから、素直に驚いてしまった。
待ち合わせ場所には、反対方向から来たのにカフェと同時に到着した。頼んだ飲み物が来て、少しの沈黙。お茶をすると言っても、彼女の場合は無論コーヒーだ。
「……どう、休んでみて」
「はい……少し、落ち着いた気がします……本をじっと読んだり、雨の記憶をそっとたどってみたり……充実、しています」
「そうか、よかった」
「それで、タキオンさんに相談してみて……どうでしたか」
「ごほごほっ、げふっ」
不意打ちを食らわせてきた彼女は、にこりとこちらを見て微笑んでいた。タキオンしかりカフェしかり、どうも僕の反応を見て楽しんでいるきらいがある。
「……わ、分かるんだな」
「不本意ですが……タキオンさんと、私の仲なので……」
「そうか……でも、あまりつれない答えだったよ」
「そうですか……」
目の前のカフェからは、まだ走りたい、あの子を追いかけたいという気持ちがにじみ出ていた。そんな彼女に、もう君の競技人生は終わりに近いと言うのは、あまりにも酷な話だ。たとえそれが事実だとしても。
「トレーナーさん……いえ、元、トレーナーさん……」
「……っ!」
「何か……隠し事を、しています……話してください……」
だが、カフェ相手にそれを隠し通すのは難しいということを、再認識する。彼女を担当していた頃、何度も思い知ったはずなのに、いつの間にか頭から抜けていた。カフェはマグカップから離れた僕の手をそっと握り、じっとその目で僕を見つめ、沈黙をもって訴えかけてくる。
「アナタには……嘘をついてほしくないです……私のことをよく見てくれている、アナタには……」
「……カフェ」
「タキオンさんに……何を、言われたんですか……?」
僕の存在を確かめるかのように、カフェが僕の手をにぎにぎと触る。人間よりも少し高めの体温が、カフェの一回りも二回りも小さな手から伝わってくる。確かに詰められているのだが、それにしては異様なほど静か。昔からカフェはそうだった。そしてそうされると、怒声を上げられるよりよほど息が詰まる。この子のためにはやはり、本当のことを言わなければ、という気持ちにさせられる。僕はほとんどそのまま、タキオンの言葉を彼女に伝えた。
「なるほど……」
「ごめん。走ることに真摯に向き合っているカフェを、がっかりさせたくなくて」
「……いいんです。仮に私がもう走れないのだとすれば、その時は、……お嫁さんに入ればいいだけなので……」
「……え」
「いえ……何でもありません……」
どこか近づきがたい雰囲気をまとう彼女だが、考え方や性格は驚くほどに素直だ。変に分かりにくい言葉も使うことなく、真っすぐに伝えたいことを伝えてくれる。それが分かっているからこそ、僕の心の内が急に騒がしくなった。多感な時期のほとんどをともに過ごし、今この時点で「お嫁に入りたい」と宣言できるほど彼女が信頼を寄せているのは、一人しかいないはずなのだから。それが僕の勘違いでないことは、明らかと言っていい。
「でも、走らなければならないと、思い詰めていたのは事実かもしれません……。私が走らなければ、あの子からは離される、一方なので……」
「……うん。だからこそ、君が素直に聞き入れてくれてホッとした。調子が上向いたら、また元気に走ってほしいしね」
「……はい」
口元に軽く手を当て、屈託のない笑顔を見せてくれるカフェ。彼女からの信頼と好意が、真っすぐにこちらに向けられている。
『私は君がカフェに入れ込むあまり、『今』担当している子たちを疎かにしてしまうことを、危惧しているのだよ』
今担当している子たちだって、誰もが夢と希望に溢れている。トレーナーが見なければならないのは『今』駆け抜けているウマ娘たちだ。まだ見ぬレースを繰り広げてくれる彼女たちを疎かにすることは、絶対にない。だが、カフェの幻影を追っているというあの言葉は、事実かもしれない。G1レースを三度も制し、そのどれもが長距離。名ステイヤーとしてその名を世に知らしめた彼女は、足の炎症を起こしやむなくトゥインクル・シリーズ引退となった。その後治療に専念したことで、社会人レースに参加できる今がある。しかしもしも、元気な足のまま走り続けていたら、と思わずにはいられない。いったいどれほどのレースを制したのか。どんなライバルとの戦いがあったのか。レース終盤、あの鬼気迫る差し切りを一ファンとしてもっと見たかったという気持ちは、確実に僕の中にある。
「トレーナーさん」
「カフェ」
「はい……?」
考えて、考えて、そして気づいた。やっぱりそうだ。これは僕の方から言わねばならないこと。いつもよりも大きな声でカフェを呼んでしまった。彼女の尻尾がびくっと跳ねるのが見えた。その存在すら知らなかったであろう、指輪の見積書をそっと出して、彼女に見せる。
「まだ、君に言うのは早いと思ってた……けど、たぶん今が踏ん切りをつける時だ。君が走り続ける姿を、もっと近くで見たい。今みたいな関係じゃなくて、もっと近くで」
「……っ!」
「僕と、結婚を前提にお付き合いしてくれないか」
その大きな瞳をぱちくりとさせて、見積書と僕の顔を交互に見るカフェ。やがて、長く垂れた前髪を指でいじってから、にこりと微笑んだ。
「アナタと……気持ちは、同じだった、ということですね……」
「……カフェ」
「では、行きましょう……私も早く、あなたに元通りの走りを、お見せしたいですから……」
『ただでさえ、人間のトレーナーとウマ娘は、科学的に説明できない強い力で結ばれる傾向にある』
なぜあの時、カフェのトレーナーになることを希望したのか。それはきっと、一目惚れをしたからだ。彼女の走りに。ひたむきな姿勢に。まるで、そうなることが運命であったかのように。カフェの瞳からも、僕の迷いに近いものがなくなっていた。
目標が見えた。『お友だち』がもう一度見えるようになったと、カフェが嬉しそうに打ち明けてくれたのは、それから少ししてのことだった。