No.1オペレーター城戸奏真の華麗なる緊急脱出<ベイルアウト> 作:羊毛ローブ
始まりは、特別な集まりでも何でもなかった。
本部に顔を出していた奏真が用事を終えて廊下を歩いていると、別件で来ていた国近と鉢合わせた。
そこへ次の予定まで時間の空いていた氷見と小佐野が加わり、さらに宇佐美、武富、細井とも偶然顔を合わせた。
全員に共通する用事があったわけではない。
それぞれが別々の理由で本部に来ていて、たまたま同じ時間帯に居合わせただけだ。
立ち話で済ませるには人数も増えたため、そのまま近くの休憩スペースへ移動した。
誰かが招集したわけでもなく、議題があるわけでもない。
次の予定までの時間潰しを兼ねた、取り留めのない雑談だった。
そんな中――。
「あれ、迅さんいるの珍しいですね」
武富が気付いて声を上げた。
少し離れた壁際に、いつの間にか迅悠一がいた。
「まあ、ちょっとね」
「何か用事ですか?」
「今のところは特に」
「?」
妙な返事だった。
もっとも、迅がこういう曖昧な物言いをすること自体は珍しくない。
武富も首を傾げただけで、それ以上は追及しなかった。
この場にいる誰も知らない。
自分たちが偶然集まった中で、迅だけは偶然ここにいるわけではないことを。
雑談の内容も、最初は本当に取り留めのないものだった。
それがどういう流れだったのか、いつしか奏真の《対人威圧》の話になり――。
「でも、ほんまに変やな」
細井真織が、武富桜子の顔をまじまじと見ながら呟いた。
「何がですか?」
「何がって……城戸さんのアレやん」
細井がちらりと奏真を見る。
奏真は「俺?」とでも言いたげに自分を指差した。
「ウチ、初めて会った時は普通に怖かったで?」
「私も」
氷見が静かに同意する。
「アタシも最初は結構きたかなー。事情知ってたからまだマシだったけど」
宇佐美も続く。
「私は寒気した」
国近まで加わった。
小佐野も思い出したのか、うんうんと頷いている。
だが武富には、その感覚がまるで分からなかった。
「そんなにですか?」
「そんなに」
国近が即答した。
「近くにいるだけで、なんかぞわってするし」
「頭では何もされへんって分かってるんですけどね」
細井も続ける。
「身体の方が勝手に警戒するというか……『近付いたらあかん』って言われてる感じです」
「強く出ると、それどころじゃないけどね」
宇佐美の一言に、武富が興味深そうに目を瞬かせた。
「もっと酷くなるんですか?」
「なるなる」
「どんな感じです?」
「人によるかな。気持ち悪くなったり、寒気がしたり、身体が固まったり」
「怖いってだけじゃないんですね」
「うん。強いの食らうと、もう理屈じゃないよ」
宇佐美は軽い調子で説明しているが、その内容自体は決して軽くない。
実際、奏真の《対人威圧》をまともに受けた女性の中には、後から「本当に殺されると思った」と話した者さえいる。
奏真本人に、そんな意思が欠片もなかったとしてもだ。
「でも、私には全然ですよ?」
武富が奏真を見る。
「そうなんだよねえ」
当の本人も困ったように首を傾げた。
武富桜子だけは、最初から違った。
奏真自身、初対面の時から彼女には妙な接しやすさを感じている。
理由は分からない。
ただ最初に顔を合わせた瞬間、昔、自分が随分と可愛がっていた犬の姿が、なぜか一瞬だけ頭をよぎった。
本当に、それだけだった。
「城戸さんって、女の人の方が強く出るんですよね?」
「うん。俺が女の人ちょっと苦手だからね」
「ちょっと?」
国近が即座に拾った。
「……そこ掘る?」
「別に」
「じゃあ流そう」
「逃げた」
「戦略的撤退と言ってほしい」
奏真が真顔で言うと、国近がくすくす笑う。
そんな二人を横目に、武富はまだ考え込んでいた。
「じゃあ、トリオン体ならどうなんですか?」
その問いに、奏真はすぐ首を横に振った。
「それはもう試したことあるよ」
「あるんですか?」
「ある。生身よりはマシだったけど、普通に駄目だった」
奏真の声から、それまでの軽さが少し消える。
「女性の戦闘員にトリオン体で受けてもらったことがある。訓練してる人だったけど、それでも三十秒くらいまともに動けなくなった」
「三十秒……」
「戦闘中なら致命的でしょ?」
「それは……まあ」
「だから、トリオン体なら大丈夫かもって実験はもうしない。結果分かってるし」
一度やれば十分だった。
肉体的な傷はない。
トリオン体が損傷したわけでもない。
それでも、戦闘訓練を積んだ隊員が動けなくなった。
奏真にとっては、それだけで二度目を拒否する理由になる。
「怖いのに、慣れたりはするんですか?」
武富がさらに尋ねる。
「ある程度はするよ」
国近が答えた。
「最初よりは全然マシ」
「一回めっちゃ強いの食らったら、その後の弱いのは『はいはい、これね』って感じになる人もいるし」
宇佐美が笑う。
「もちろん、強いのが平気になるわけじゃないけどね」
「なるほど……」
武富はそこで黙り込んだ。
怖がった様子はない。
むしろ逆だった。
話を聞けば聞くほど、その目には好奇心が増している。
それに気付いた奏真が、露骨に嫌そうな顔をした。
「……タケミッフィー」
「はい?」
「なんか変なこと考えてない?」
「私に対してやってみてくださいよ」
「嫌です」
間髪入れずに返された。
「まだ何も説明してませんよ?」
「説明聞いたらやらなきゃいけないルールでもあるの?」
「だって、私には効かないんですよね?」
「多分ね」
「だったら、本当に効かないのか確認してみたくないですか?」
「全然」
また即答だった。
武富が少し不満そうな顔をする。
「でも、気になりません?」
「気になるか気にならないかで言えば気にはなるけど、それ以上にやりたくない」
「ちょっとだけ」
「やりません」
「私なら大丈夫かもしれないですよ?」
「タケミッフィーには効かないと思うけど……他の人にも確認取った方がいいよ?」
そう言われ、武富が周囲を見回した。
「私は嫌」
国近が真っ先に拒否する。
「ウチも嫌です」
細井も続く。
「アタシもパス」
宇佐美も即答。
氷見は静かに首を横へ振り、小佐野も同じ反応を返した。
見事なまでの全会一致だった。
「ほら」
「でも、城戸さんが私だけ見てやればいいんじゃないですか?」
「それができるなら苦労してないんだよ」
奏真は苦笑する。
「俺、これ自分でオンオフできないからね。誰にどこまで行くかも完全には分からない。タケミッフィーに向けたつもりで、周りに漏れない保証がない」
「じゃあ、他の人がいない時なら?」
「やらない」
「私と城戸さんだけで」
「やらない」
「一回だけ」
「やりません」
「ほんのちょっと」
「やりません」
武富も別に危険なことがしたいわけではない。
自分だけが例外だと言われたからこそ、その理由が知りたいだけだ。
なぜ自分には効かないのか。
本当にまったく効かないのか。
少し強くなっても同じなのか。
純粋な疑問だった。
だから、もう一度だけ口を開こうとした。
――その時。
壁際にいた迅の表情から、笑みが消えた。
〇
『でも、一回くらい――』
『やらないって』
『少しだけでいいですから』
『タケミッフィーさあ……』
見えているのは、まだ起きていない未来。
場所も、立っている人間も、今と何も変わらない。
武富が食い下がり、奏真が断る。
それがもう何度目かになったところで、奏真の眉がほんの少しだけ下がった。
怒ってはいない。
苛立った、と呼ぶことさえ大袈裟かもしれない。
ただ――もう、しつこいなあ。
その程度。
『いい加減にしないと怒るよ?』
声は普段とほとんど変わらなかった。
怒鳴っていない。
凄んでもいない。
睨んでもいない。
立ち上がってすらいない。
そもそも、まだ怒ってすらいない。
少しだけ困って。
少しだけ苛立った。
ただ、それだけだった。
――それだけで。
「――っ!」
最初に国近の顔から血の気が引いた。
笑っていた表情が一瞬で消え、椅子を蹴るようにして後ろへ下がる。背もたれが床を擦って甲高い音を立てたが、本人はそんなことに気付いてすらいない。
「ひっ……!」
氷見の喉から、普段の彼女からは想像もつかないほど引きつった声が漏れた。
両肩が跳ね、呼吸が止まる。
逃げようとしているのに、脚が動かない。
「ちょっ――待っ……!」
細井も反射的に身を引いた。
椅子が大きく傾き、慌てて机へ手をつく。顔は完全に強張り、いつもの軽快なツッコミなど出てこない。
「城戸さ――」
宇佐美の声が途中で切れた。
息を吸えない。
胸元を押さえ、浅い呼吸を何度も繰り返す。
頭では分かっている。
奏真は怒っていない。
自分たちは敵ではない。
ここはボーダー本部で、戦場ですらない。
それなのに身体だけが、目の前の男を明確な死の危険として認識していた。
「……っ、ぅ……」
小佐野は声すらまともに出なかった。
椅子から立とうとした姿勢のまま身体が固まり、指先だけが細かく震えている。
誰かが椅子を倒した。
誰かが机にぶつかった。
荒い呼吸と、短い悲鳴と、床を擦る音が一斉に重なる。
ほんの一瞬前まで普通に話していた部屋が、たった一言で崩れた。
奏真は誰にも手を出していない。
トリガーすら起動していない。
誰かを威圧しようともしていない。
それでも、女性陣の身体は生存本能のままに逃げようとし、逃げられない者はその場で固まり、呼吸すらまともにできなくなっていた。
阿鼻叫喚。
その言葉が、冗談でも誇張でもなく当てはまる。
迅の額を、冷たい汗が伝った。
――今の奏真は怒っていない。
まして、本気で誰かを威圧しようとしたわけでもない。
あの程度で、あれだ。
そして。
迅の視線が武富へ向こうとした、その瞬間。
未来が途切れた。
〇
「でも――」
「その辺にしといた方がいいんじゃない?」
武富が続きを言うより先に、迅が割って入った。
全員の視線が集まる。
先ほどまで壁に背を預けていた迅は、いつの間にか身体を起こしていた。
「その確認はしない方がいいと思うよ」
口調こそいつもと変わらない。
だが奏真は、その言葉を聞いた瞬間に迅を見た。
「迅」
「はい」
「何見た?」
迷いのない問いだった。
迅がわずかに黙る。
「奏真さんが、ちょっと怒るところまで」
奏真の表情が変わった。
「漏れた?」
「……まあ」
「どれくらい?」
「…………」
迅は答えなかった。
その沈黙だけで、奏真には十分だった。
「他の子にも?」
もう一度尋ねる。
迅はやはり、すぐには答えない。
「……止めて正解だったと思いますよ」
奏真がゆっくり息を吐いた。
ついさっきまでの軽い調子は完全に消えていた。
「……本当にごめん」
突然頭を下げられ、今度は武富が戸惑った。
「まだ何も起きてませんよ?」
「起きそうになったのは俺のせいでしょ」
「いや、私がしつこく言ったから――」
「それでもだよ」
奏真は首を横に振った。
「漏らすのは俺なんだから、そこは俺が気をつけないと駄目でしょ」
「でも……」
「タケミッフィーが気になったのは分かるよ。俺だって、なんで効かないのか分かってないし」
そこで一度言葉を切る。
「でも、確かめるために誰かが酷い目に遭うかもしれないなら、やらない。それでいい」
武富は返事をせず、少しだけ俯いた。
そして、ふと気付く。
「あ……」
視線が迅へ向いた。
「迅さん」
「ん?」
「もしかして……最初から、これが見えてたからここにいたんですか?」
迅は一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で笑う。
「まあ、そんな感じ」
「だから『今のところは特に』って……」
「何も起きないなら、それが一番だからね」
「……すみません」
今度は武富が頭を下げた。
「いや」
奏真がすぐに返す。
「何もしないで終わらせよう。それでいいでしょ」
「……はい」
武富も素直に頷いた。
結局、《対人威圧》が強く出た時にも武富が平気なのかどうかは分からない。
未来の中でさえ、迅はそこを見る前に戻ってきた。
武富桜子という例外が、本当にどこまで例外なのか。
答えは出ないままだった。
けれど、それを確かめるためだけに危険を冒す理由もない。
少なくとも奏真は、そう考えていた。
そこで会話が途切れた。
実際には、まだ何も起きていない。
迅が止めたことで、誰も《対人威圧》を受けずに済んだ。
それでも「あと少し続けていたらどうなっていたか」を聞かされた直後だ。
先ほどまでと同じ調子で雑談を再開するには、少しばかり空気が重かった。
数秒の沈黙。
それを見回して、細井が小さく息を吐いた。
「……まあ、何も起きてへんのやし、それでええんちゃいます?」
武富が顔を上げる。
「せっかく迅さんが止めてくれたんですから、起きてもないことで全員暗なってもしゃあないでしょ」
「……そうですね」
「城戸さんもです」
「俺?」
「さっきから一番引きずってる顔してますよ」
「反省してるからね」
「それは分かりますけど。もう謝ったんやし、武富も分かった言うてるんですから」
細井はそこで、努めて軽い調子で続けた。
「ほら、いつもの調子に戻ってください」
奏真が細井を見る。
数秒。
その言葉の意図くらい、奏真にも分かった。
細井なりに空気を軽くしようとしている。
ならば。
奏真が真顔で口を開いた。
「…………ルイージ!」
「それは弟や!」
反射的に返してから、細井が「あ」と口を止める。
奏真の顔が一気に楽しそうになった。
「じゃあ何? ピーチが良いの?」
「そういうことちゃうねん!」
「仕方ないなぁ」
「何を譲歩したみたいに言うてるんですか!」
「じゃあマオリ?」
「最初からそれでええんです!」
「細井さんじゃなくて良いのか」
「別にそこは……」
細井が答えた瞬間、奏真が意味ありげに目を細める。
「まさか俺に……」
「はぁ……」
「いやいや冗談だから!」
「は?」
「すいません」
即座に頭を下げた。
「何を一人で勝手に始めて、勝手にビビって謝ってるんですか!」
「いや、今の『は?』は撤退するところでしょ」
「撤退判断だけ無駄に早いんですよ!」
「殿は戦の花だからね」
「誰に傾き舞うんですか!?」
細井のツッコミが飛んだ瞬間、奏真がニヤリと笑った。
「いくぞ、マオリ!」
『斬!』
二人の声が寸分違わず重なった。
一拍。
細井自身も、自分が何をしたのか理解したらしい。
「――斬! ちゃうんですよ!」
「今マオリも言ったじゃん!」
「奏真さんが振ったからでしょうが!」
「いや、完璧に合わせてきたよね?」
「反射です!」
「身体に刻まれてるじゃん」
「刻まれてません!」
「でも息ぴったりだったよ?」
「嬉しそうに言わんといてください!」
国近がとうとう堪えきれずに吹き出した。
宇佐美もつられて笑い、氷見と小佐野も口元を緩める。
細井としては、ほんの少し空気を軽くするつもりだっただけなのだろう。
それを察した奏真が悪ノリし、気付けば本人まで巻き込まれている。
「いやぁ、マオリとは良いコンビになれそうだなぁ」
「空気軽くしようとしたウチがアホでした」
「え、狙ってたの?」
「多少は!」
「やるなマオリ!」
「そこで褒めんでええんです!」
もう、先ほどまでの重苦しさはほとんど残っていなかった。
武富もそんな二人を眺めているうちに、ようやく表情を緩める。
「……なんか、安心しました」
「何が?」
奏真が振り返った。
「城戸さんって、もっと危ない人なのかなって思ってたんですけど」
「危ない人?」
「はい」
奏真が目を瞬かせる。
そして、つい今しがたまでのやり取りを思い返したのか、ぱっと表情を明るくした。
「刑事繋がりか、やるなタケミッフィー!」
「……刑事?」
「え?」
「何の話ですか?」
「え?」
武富は本気で分かっていない。
奏真は完全に拾ってもらったつもりだった。
「……『あぶない刑事』」
「ああ……」
武富がようやく意味を理解した横から、細井が冷静に刺す。
「いや、そもそもアナタも世代ちゃうでしょ」
「…………」
「…………」
「再放送」
「知らんがな」
ばっさりだった。
「マオリ、『慶次』はあんなに完璧に乗ってきたのに!」
「ウチを何やと思ってるんですか!」
「相棒?」
「誰がですか!」
「ほら、また刑事――」
「もうええんです!」
再び笑い声が上がった。
迅は少し離れたところから、その光景を眺めていた。
ほんの少し前に見た未来では、同じ場所で、同じ人間たちが恐怖に顔を引きつらせていた。
奏真は怒ってすらいなかった。
ただ、ほんの少しだけ苛立った。
それだけで、ああなった。
けれど今は違う。
細井が怒り、奏真がふざけ、それを見た全員が笑っている。
武富も笑っている。
奏真自身も笑っている。
未来なんてものは、ほんの少しのことで変わる。
迅は誰にも聞こえない程度に、小さく息を吐いた。
「……こっちの未来でよかった」
「迅さん、何か言った?」
宇佐美が振り返る。
「いや、なんでもない」
迅はいつもの笑顔に戻った。
その向こうでは、まだ二人のやり取りが続いている。
「マオリ」
「なんですか?」
「次は――」
「もうやりませんからね!」
「まだ何も言ってない!」
「言う前に止めたんです!」
「迅みたいなことするじゃん」
「誰のせいですか!」
また部屋に笑い声が広がった。
今度はもう、誰も怯えてはいなかった。