No.1オペレーター城戸奏真の華麗なる緊急脱出<ベイルアウト>   作:羊毛ローブ

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あり得た未来は望まない

 ボーダー本部の休憩スペースで、月見蓮は東春秋と向かい合っていた。

 

 話題に上がっているのは、城戸奏真という男についてである。

 

「それで、奏真さんがまた妙なことを始めたそうなんです」

 

「ああ、聞いてるよ」

 

 東は手元の飲み物を口に運びながら、苦笑を浮かべた。旧東隊の頃から奏真の突拍子もない行動には慣れているため、月見の口ぶりだけで大体の事情は察しがつく。

 

「今度は何をしたんだ?」

 

「ランク戦のログを使って、オペレーターの判断を比較する訓練を提案しているそうです。内容自体は悪くありません。ただ、本人が『面白そうだから』の一言で済ませてしまうのが問題なんです」

 

「ははっ。奏真らしいな」

 

「笑い事ではありません」

 

 月見は眉を寄せたものの、東はどこか懐かしそうに笑っていた。

 

 奏真が何かを思いつき、周囲を巻き込む。月見が呆れ、東が笑う。それは旧東隊の頃から何度となく繰り返されてきた、ありふれた光景だった。

 

「あの人は昔からそうです。自分がどれほど高度なことをしているのか、理解しているはずなのに、まるで大したことではないように扱うんです」

 

「本人にとっては普通なんだろうな」

 

「それが問題なんです」

 

 月見が深くため息をついた、その時だった。

 

「あの、すみません」

 

 不意に声をかけられ、二人は顔を上げた。

 

 そこに立っていたのは、見慣れないボーダー隊員だった。まだ入隊して日が浅いのか、どこか初々しい雰囲気の少年である。

 

「どうした?」

 

 東が穏やかに尋ねると、少年は少し申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「すみません。さっきからお話が聞こえていたんですけど、ちょっと気になってしまって……」

 

「何でしょう?」

 

 月見が先を促すと、少年は不思議そうな顔で問いかけた。

 

「城戸奏真って誰ですか?」

 

「……え?」

 

 思わず聞き返した月見に、少年は慌てて言葉を付け足す。

 

「あ、いや、城戸奏真さんについては聞いたことがあります。でも、お二人とも今も存命みたいな話をされていたので、不思議だなって」

 

「……存命?」

 

 月見は、その言葉をゆっくりと繰り返した。

 

 意味が分からなかった。

 

 先ほどまで話していたのは、今も本部をうろついては周囲を振り回している、あの城戸奏真についてだ。生きているも何も、昨日も元気に妙なことをしていたはずである。

 

「……どういう意味ですか?」

 

「え?」

 

 今度は少年が驚いた顔になった。

 

 どうしてそんなことを聞かれるのか、本気で分からないらしい。

 

「だって、旧ボーダー時代に亡くなられた城戸司令の甥っ子さんのお話ですよね?」

 

「…………は?」

 

 月見の口から、間の抜けた声が漏れた。

 

 旧ボーダー時代に亡くなった。

 

 城戸司令の甥。

 

 城戸奏真。

 

 それぞれの言葉は理解できる。だが、それらが一つの文章として結びつかない。

 

「……何を言っているんですか?」

 

「え?」

 

「奏真さんなら今も普通に……」

 

 そこまで言いかけて、月見は口を閉じた。

 

 少年の様子がおかしい。

 

 嘘をついているようには見えない。むしろ、自分達が知らないはずのない事実を知らずにいることへ、本気で戸惑っているようだった。

 

「……東さん?」

 

 月見が隣を見ると、東も表情を曇らせていた。

 

「……俺にも分からないな」

 

 普段なら多少のことでは動じない東の声にも、明らかな困惑が混じっていた。

 

 その時だった。

 

「あーあ」

 

 背後から、聞き慣れた声がした。

 

「バレちゃったか」

 

 月見と東が同時に振り返る。

 

 そこには、城戸奏真が立っていた。

 

 いつもの軽い笑顔を浮かべ、まるで何事もなかったかのように。

 

「……奏真さん?」

 

「……奏真?」

 

 二人の呼びかけに、奏真は困ったように笑った。

 

「いやー、こういうのってさ。バレたらダメみたいなのって、本当みたいだね」

 

「……何を言って……」

 

 月見は言葉を止めた。

 

 奏真が持ち上げた右手。

 

 その指先の向こう側に、壁が見えた。

 

「…………え?」

 

 目を凝らす。

 

 指先が透けていた。

 

 いや、指先だけではない。手の甲も、腕も、肩も。まるで薄い硝子のように、身体の向こう側が少しずつ見え始めている。

 

「……奏真さん?」

 

「んー?」

 

「……何ですか、それ」

 

 月見の問いに、奏真は自分の腕を眺めながら肩をすくめた。

 

「いやー、俺にもよく分かんないけど。どうやら、ここまでみたいだね」

 

「…………っ!」

 

 ぞっとするほど軽い言い方だった。

 

 まるで、少し長居しすぎたから帰ろうかと言っているような、いつもの調子。

 

 その口調が、かえって月見を恐ろしくさせた。

 

「……おい、奏真」

 

 東が椅子を引いて立ち上がる。

 

「どういうことだ?」

 

「あはは。春秋にも黙ってたのは悪かったね」

 

「……奏真?」

 

「いやー、でもさ」

 

 奏真は笑っていた。

 

 その身体が透けていくことなど、大した問題ではないとでも言うように。

 

 しかし、東は笑わなかった。

 

「……ふざけてないで説明しろ」

 

 低い声だった。

 

 月見が初めて聞くような、切迫した響きがあった。

 

 それでも奏真は答えず、ただ静かに東を見た。

 

「春秋」

 

「……何だ」

 

「楽しかったぜ」

 

 

 昔の奏真の口調に戻った事に東の表情が固まった。

 

「旧東隊の頃から色々あったけどさ。春秋と一緒にやれて、めちゃくちゃ楽しかったし嬉しかった」

 

「……おい」

 

「ありがとな」

 

「待て、奏真」

 

 東が手を伸ばした。

 

 その手は、奏真の肩をすり抜けた。

 

「…………っ」

 

 触れられなかった。

 

 確かにそこに見えているのに、何も掴むことができない。

 

 東は自分の手を見つめ、それから奏真へ視線を戻した。いつも冷静な彼の顔に、月見が見たこともないほどの動揺が浮かんでいた。

 

「……月見」

 

 今度は、奏真がこちらを向いた。

 

 月見は反射的に一歩踏み出した。

 

「色々と迷惑かけたな」

 

「……え?」

 

「昔から色々振り回したし気分良いもんじゃなかったろ?あの時の事も含めてすまなかったな」

 

「……迷惑なんて!」

 

 気づけば、大きな声が出ていた。

 

「迷惑なんて、そんなこと……!」

 

 違う。

 

 そんなことが言いたいのではない。

 

 確かに迷惑だったことはある。腹を立てたことも、一度や二度では済まない。

 

 自分が必死に追いかけてきた技術を、あの人はまるで何でもないことのように扱う。

 

 周囲がどれほど評価しても、本人はどこ吹く風。自分が努力しても届かない場所に立ちながら、そこにいる価値さえ理解していないように見える。

 

 そんな姿が、ずっと許せなかった。

 

 けれど。

 

 だからといって、いなくなっていいはずがない。

 

「……奏真さん!」

 

 月見は手を伸ばした。

 

 だが、指先は何も掴めず、空を切った。

 

「まだ、私は……!」

 

 まだ言いたいことがある。

 

 まだ聞きたいことがある。

 

 追いつけていない。

 

 認めさせてもいない。

 

 勝手にオペレーターを降りたことだって、まだ納得していない。

 

 それなのに。

 

 何もかも終わったような顔で、別れを告げないでほしかった。

 

「……月見」

 

 奏真が、最後に笑った。

 

「オペレーター、頼んだぜ?」

 

「…………っ!」

 

「月見なら大丈夫だ」

 

「……待ってください」

 

 声が震えた。

 

「奏真さん、待って……!」

 

 奏真の身体は、既にほとんど見えなくなっていた。

 

 それでも彼は、いつもの軽い笑顔を浮かべていた。

 

 そして、その笑顔すら薄れていき。

 

 とうとう、完全に消えた。

 

「…………」

 

 誰もいない。

 

 さっきまで奏真が立っていた場所には、何も残っていなかった。

 

 月見は手を伸ばした姿勢のまま、動けなかった。

 

「……奏真さん?」

 

 返事はない。

 

「……奏真さん!」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 けれど、どれだけ待っても、あの間延びした声は返ってこなかった。

 

 もう二度と。

 

 あの人に文句を言うこともできない。

 

「……嫌……」

 

 小さく声が漏れた。

 

 そんな終わり方は、認められなかった。

 

「……奏真さん!!」

 

〇

 

「…………っ!」

 

 月見は勢いよく顔を上げた。

 

 荒い呼吸が続き、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。胸の奥には、何か大切なものを失ったような感覚が残っていた。

 

 しかし、目の前にあるのは見慣れたボーダー本部の休憩スペースだった。

 

 テーブルの上には読みかけの資料と、すっかり冷めてしまった飲み物が置かれている。

 

 いつの間にか、資料を確認している途中で眠ってしまっていたらしい。

 

「……夢?」

 

 月見は呆然と呟き、周囲を見回した。

 

 そこに、先ほどの少年はいない。

 

 東も、奏真もいない。

 

 何も起きていなかった。

 

「……何だったんですか、今の……」

 

 安堵と困惑が入り混じった息を吐く。

 

 ただの夢だった。

 

 それは分かっている。

 

 にもかかわらず、最後に聞いた言葉だけが、妙にはっきりと耳に残っていた。

 

『オペレーター、頼んだぜ?』

 

「…………」

 

 月見は無意識に自分の手を見つめた。

 

 何も掴めなかった。

 

 あの感覚だけが、いつまでも消えなかった。

 

〇

 

 同じ頃。

 

 東春秋もまた、隊室のソファで目を覚ましていた。

 

「…………」

 

 しばらく天井を見つめる。

 

 何か、妙な夢を見た。

 

 そう思いながら身体を起こすと、手元に置いていた飲み物がすっかり冷めていることに気づいた。

 

「……夢、か」

 

 東は小さく呟いた。

 

 夢の中では、月見と話をしていた。

 

 そこへ見知らぬ隊員が現れ、妙なことを言い出した。

 

 そして。

 

「……奏真」

 

 東は無意識に、自分の右手を見た。

 

 あの感触が、まだ残っているような気がした。

 

 奏真の肩を掴もうとして。

 

 何も掴めなかった。

 

 手が、そのまますり抜けた。

 

「…………」

 

 東はゆっくりと息を吐いた。

 

 ただの夢だ。

 

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には嫌な感覚が残っていた。

 

〇

 

 それからしばらくして。

 

「……東さん」

 

「ん? どうした、月見」

 

 廊下で東を見つけた月見は、少し迷った末に声をかけた。

 

「……少し、お話があるんですが」

 

「……ああ」

 

 東は月見の顔を見た。

 

 どこか疲れたような、落ち着かない表情をしている。

 

「何かあったのか?」

 

「……変な夢を見たんです」

 

「……夢?」

 

「はい」

 

 月見は、夢の内容を話し始めた。

 

 休憩スペースで東と話をしていたこと。

 

 見知らぬ少年に声をかけられたこと。

 

 城戸奏真が旧ボーダー時代に亡くなった人物だと言われたこと。

 

 そして、奏真が幽霊のように透けて消えてしまったこと。

 

 話が進むにつれ、東の表情が変わっていった。

 

「……待ってくれ」

 

 東が口を挟んだ。

 

「……はい?」

 

「その夢、最初は俺と休憩スペースで話していたんだな?」

 

「……はい」

 

「話題は奏真のことだった?」

 

「……そうです」

 

「……それで、知らない隊員に声をかけられた?」

 

「……はい」

 

 東は少し黙った。

 

 月見は不思議そうに首を傾げる。

 

「……東さん?」

 

「……月見」

 

「はい?」

 

「実はな」

 

 東はゆっくりと息を吐いた。

 

「俺も、同じ夢を見た」

 

「…………え?」

 

 月見が固まった。

 

「……同じ夢?」

 

「ああ」

 

「……どのくらい、同じなんですか?」

 

「少なくとも、今聞いたところまでは全部同じだ」

 

「…………」

 

 月見は言葉を失った。

 

 東は少し考えると、確認するように口を開いた。

 

「夢の中で奏真が、俺に何か言わなかったか?」

 

「……え?」

 

「最後の方だ。身体が透け始めてから」

 

「……」

 

 月見は記憶を辿った。

 

「……『春秋、楽しかったぜ』って昔の口調で……」

 

「……そうか」

 

 東の表情が曇る。

 

「俺も、それを聞いた」

 

「…………っ」

 

 月見は思わず息を呑んだ。

 

「……東さん」

 

「ん?」

 

「……東さんは、その後……」

 

 月見は言いかけて、言葉を止めた。

 

 東が静かに答える。

 

「肩を掴もうとした」

 

「…………」

 

「でも、手がすり抜けた」

 

「……っ!」

 

 月見が目を見開いた。

 

 その場面まで同じだった。

 

 夢の中で自分が見た光景を、東も覚えている。

 

「……じゃあ」

 

 月見の声が震えた。

 

「……奏真さんが、私に最後に何て言ったかも……?」

 

「……ああ」

 

 東は少しだけ目を伏せた。

 

「『オペレーター、頼んだぜ?』だったな」

 

「…………っ」

 

 月見は完全に黙り込んだ。

 

 偶然。

 

 そんな言葉では片づけられないほど、細部まで一致している。

 

 しかも、二人は別々の場所で眠っていた。

 

 同じ映像を見ていたわけでも、同じ話を聞いていたわけでもない。

 

 それなのに。

 

「……何なんでしょう、これ」

 

「……分からないな」

 

 東も、さすがに困惑を隠せなかった。

 

 しばらく二人は黙っていたが、やがて東が小さく息を吐いた。

 

「……とりあえず」

 

「……はい」

 

「本人に聞いてみるか」

 

「……何をですか?」

 

「さあな」

 

 東は苦笑した。

 

「少なくとも、今も生きているかどうかくらいは確認できるだろう」

 

「……それは、そうですけど」

 

 月見は何とも言えない顔をした。

 

〇

 

「……なるほどねー」

 

 話を聞き終えた奏真は、腕を組んで考え込んでいた。

 

 城戸奏真、二十五歳。

 

 現在も元気に活動中である。

 

「……いや」

 

 少し間を置いて、奏真が口を開いた。

 

「俺、何で幽霊になってんの?」

 

「……知りませんよ!」

 

「いや、俺に聞かれても困るんだけど!?」

 

「私だって困ってるんです!」

 

 月見が声を荒らげると、奏真は助けを求めるように東を見た。

 

「……春秋」

 

「何だ?」

 

「俺、何かやった?」

 

「少なくとも、今回に限っては何もしてないだろうな」

 

「だよね!?」

 

 東は苦笑したものの、どこか落ち着かない様子だった。

 

 奏真もそれに気づいたのか、少し首を傾げる。

 

「……でもさ」

 

「ん?」

 

「二人とも同じ夢見たってこと?」

 

「ああ」

 

「別々の場所で?」

 

「そうだな」

 

「……」

 

 奏真が黙った。

 

 それから、ゆっくりと二人を見比べる。

 

「……え?」

 

「……奏真?」

 

「……怖い怖い怖い!!」

 

 奏真が少し身を引いた。

 

「え、何それ!? 予知夢的なこと!?」

 

「……いや」

 

 東が冷静に口を開いた。

 

「それなら、5年前も昔に死んでるのはおかしくないか?」

 

「…………」

 

 奏真が固まった。

 

 少し考える。

 

「……あ」

 

 さらに数秒。

 

「……それもそうだね」

 

 そして、心底安心したように息を吐いた。

 

「よかったー!」

 

「……」

 

「……」

 

 月見と東が揃って奏真を見た。

 

「……いや、奏真さん」

 

「ん?」

 

「よくないでしょう」

 

「え、何で?」

 

「二人がまったく同じ夢を見たんですよ!?」

 

「でも俺、今生きてるじゃん?」

 

「……それはそうですが!」

 

「しかも旧ボーダー時代に死んでるって話でしょ? 今さら予知も何もなくない?」

 

「……」

 

 月見は何か言い返そうとしたが、確かにその通りだった。

 

 夢の内容が未来を予知しているというなら、既に過ぎ去った旧ボーダー時代に奏真が死んでいなければ辻褄が合わない。

 

「……確かに」

 

「でしょ?」

 

 奏真は満足そうに頷いた。

 

「いやー、危なかった。二人で同じ夢見たって聞いた時は、流石にちょっと怖かったよ」

 

「……そうは見えませんでしたが」

 

「怖かったって! 俺、幽霊になる予定ないし!」

 

 東が小さく笑った。

 

「まあ、夢に予定も何もないだろう」

 

「それはそうなんだけどさー」

 

 奏真は腕を組み直すと、少し考えるような表情になった。

 

「でも、気になるところはあるんだよね」

 

「……何ですか?」

 

 月見が尋ねる。

 

「そもそも何でその子は、俺が旧ボーダー時代に亡くなってるとか分かるのよ?」

 

「……え?」

 

「叔父さん、そういうの秘密にするタイプだから、仮に俺が本当に死んでても、多分表向きには詳しく話さないよ?」

 

「…………」

 

 月見が黙った。

 

 東も少し考える。

 

「……確かに、それはそうかもしれないな」

 

「でしょ?」

 

 奏真は頷いた。

 

「旧ボーダー時代なんて、今と比べたら関係者もずっと少ないしさ。最近入った子が、そんな話を当たり前みたいに知ってるのは変じゃない?」

 

「……夢ですから」

 

「いや、そうなんだけど」

 

「夢の中の出来事にまで整合性を求めないでください!」

 

「ごめんって!」

 

 奏真が笑い、東もつられて笑った。

 

 だが、月見はまだ少し落ち着かない様子だった。

 

 奏真はそんな月見の表情を見て、少しだけ笑みを和らげる。

 

「……月見」

 

「何ですか?」

 

「俺、今ここにいるからね?」

 

「…………」

 

「幽霊じゃないし。ちゃんと足もあるよ?」

 

「見れば分かります!」

 

「そっかー。なら良かった」

 

 奏真が笑った。

 

「まあ、オペレーター頼んだっていうのは、夢じゃなくても言うと思うけどね」

 

「…………っ」

 

 月見が顔を上げる。

 

「月見なら安心だし。今でも十分凄いオペレーターだと思ってるよ?」

 

「…………」

 

 月見は返事をしなかった。

 

 嬉しくないわけではない。

 

 あの人からそう評価されることが、どれほど大きな意味を持つか。

 

 かつて自分が、どれほどその言葉を求めていたか。

 

 今でも、よく覚えている。

 

 だからこそ、簡単に喜ぶわけにはいかなかった。

 

「……そういうところです」

 

「ん?」

 

「……奏真さんの、そういうところが嫌いなんです」

 

「えー? 褒めたのに……」

 

 困ったように笑う奏真へ、月見は小さく首を振った。

 

「……褒めればいいというものではありません」

 

「難しいなー」

 

 東が苦笑し、二人の顔を見比べる。

 

「まあ、奏真。お前も少しは考えて喋れ」

 

「えー、春秋まで?」

 

「月見がこういう顔をしてる時くらいはな」

 

「……」

 

 奏真は改めて月見を見た。

 

 そして、少しだけ表情を和らげる。

 

「……まあ、怖い思いさせたみたいでごめんね」

 

「……夢の中の奏真さんに謝られても困ります」

 

「確かに」

 

 そう言って、奏真はまた笑った。

 

 月見は思わず、その手元へ視線を落とした。

 

 透けていない。

 

 指先も、腕も、肩も。

 

 確かにそこにあった。

 

 手を伸ばせば、今度は触れられるはずだった。

 

 東も同じことを考えていたのか、ほんの一瞬だけ奏真の肩へ視線を向けた。

 

「……何?」

 

 奏真が首を傾げる。

 

「いや、何でもない」

 

 東は小さく笑った。

 

 夢の中では掴めなかった肩が、今は確かにそこにある。

 

 それだけで、十分だった。

 

〇

 

 休憩スペースへ続く廊下で、迅悠一は足を止めていた。

 

 たまたま本部を訪れ、通りかかった時に聞こえてきたのが、月見と東の見た奇妙な夢の話だった。

 

 最初は、いつものように笑っていた。

 

 奏真が幽霊になって消えたという話も、その本人が夢の内容へ真面目にツッコミを入れていることも、傍から聞けば随分と面白い。

 

 しかし。

 

『旧ボーダー時代に亡くなられた城戸司令の甥っ子さんのお話ですよね?』

 

 月見が夢の中の少年の言葉を口にした瞬間、迅の表情は凍りついていた。

 

「…………」

 

 背筋に冷たいものが走る。

 

 何かの聞き間違いかと思った。

 

 だが、そうではなかった。

 

 月見は確かにそう言った。

 

 しかも、その少年は城戸奏真の死を、今のボーダー隊員なら誰でも知っている事実であるかのように語っていたという。

 

 そして何より。

 

 東も、まったく同じ夢を見ていた。

 

「…………は?」

 

 迅の口から、思わず声が漏れた。

 

 月見だけなら、まだ分かる。

 

 偶然似たような夢を見た。

 

 そう考えることはできる。

 

 だが、東まで同じ夢を見ていたとなれば話は別だった。

 

 しかも、二人の夢は細部まで一致している。

 

 知らない隊員の言葉。

 

 奏真が現れるタイミング。

 

 身体が透けていく様子。

 

 そして、最後に残した言葉まで。

 

「……いやいやいや……」

 

 迅は無意識に壁へ背を預けた。

 

 おかしい。

 

 明らかにおかしい。

 

 なぜなら。

 

 その光景には、覚えがあったからだ。

 

 かつて、自分の目に映っていた未来。

 

 まだボーダーが今よりずっと小さく、いくつもの未来が別々の方向へ分かれていた頃。

 

 その中に、城戸奏真が旧ボーダー時代に命を落とす分岐があった。

 

 今とは違うボーダー。

 

 今とは違う城戸正宗。

 

 そして、奏真のいない世界。

 

 迅はその未来を、確かに見たことがあった。

 

 ただし、あくまで可能性の一つだった。

 

 いくつも存在した未来の枝の中で、やがて選ばれなくなったもの。

 

 今となっては、既に通り過ぎた分岐である。

 

 実際、奏真は生きている。

 

 今もあの休憩スペースで、月見や東と話をしている。

 

 だから、何も問題はない。

 

 そのはずだった。

 

「…………」

 

 迅は壁に背を預けたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 

 思い出してしまったのだ。

 

 かつて見えた、あの未来の光景を。

 

 今より少し年を重ねた東。

 

 その隣にいる月見。

 

 そして、二人に声をかける若いボーダー隊員。

 

 城戸奏真とは誰なのか。

 

 旧ボーダー時代に亡くなった人物ではないのか。

 

 そんな会話が交わされる光景だった。

 

 迅は当時、その未来を見てひどく嫌な気分になったことを覚えている。

 

 その先に何が起こるのか、すべてを理解できていたわけではない。

 

 だが、一つだけはっきりしていた。

 

 その未来に、奏真はいなかった。

 

「…………っ」

 

 無意識に拳を握る。

 

 月見が夢で見たような、幽霊となった奏真が消えていく光景まで見たわけではない。

 

 そこは恐らく、夢が作り出したものなのだろう。

 

 しかし。

 

 東と月見が奏真について話している。

 

 そこへ若い隊員が現れ、奏真の死を当然の事実として語る。

 

 その状況が、かつて見た未来とあまりにも似ていた。

 

 いや、似ているどころではない。ほとんど同じだった。

 

「……ちょっと待って……」

 

 迅は思わず額を押さえた。月見には未来を見るサイドエフェクトなどないはずだし、東にもない。

 

 二人とも、そんな未来を知るはずがない。

 

 それなのに二人が同じ夢を見た。

 

 しかも、その夢の内容が、自分だけが知っているはずの未来と一致している。

 

「……何これ……」

 

 迅は完全に困惑していた。これまで何度も未来を見てきた。

 

 良い未来も。

 

 悪い未来も。

 

 そして、その中から何かを選び続けてきた。

 

 だが、選ばれなかった未来の分岐を別の人間が夢に見る。

 

 それも二人同時に。

 

 そんな現象は、迅にとっても聞いたことがなかった。

 

「……いや、待てよ……」

 

 迅はもう一度考える。

 

 もし単なる夢なら、二人が同じ内容を見る理由が分からない。

 

 もし予知夢なら、既に過去となった旧ボーダー時代に奏真が死亡しているという内容と矛盾する。

 

 そして、もし過去に存在した未来の分岐を見ているのだとしたら。

 

 そもそも、なぜそんなことが起こる?

 

「…………」

 

 迅はゆっくりと天井を見上げた。

 

「……いや、本当に何なの……?」

 

 額に冷たい汗が浮かんだ。

 

 あの未来は、もう選ばれなかったはずだった。

 

 過ぎ去った可能性。

 

 実現しなかった世界。

 

 少なくとも、迅はそう考えていた。

 

 だが、今。

 

 その世界の一場面を、月見と東が同時に夢として見ている。

 

「……」

 

 迅はもう一度、休憩スペースへ視線を向けた。

 

 奏真は相変わらず笑っている。

 

 月見はいつものように呆れた顔をしている。

 

 東も苦笑している。

 

 何も変わっていない。

 

 それなのに。

 

 迅だけが、何かとんでもないものを見せられたような気分になっていた。

 

〇

 

「……あれ?」

 

 その時、奏真が迅に気づいた。

 

「迅?」

 

「……っ」

 

 迅が顔を上げる。

 

「何してんの、そんなところで」

 

「あ、いや……ちょっと休憩してただけですよ」

 

 迅はいつものように笑おうとした。

 

 しかし、わずかに遅れた。

 

 その一瞬の不自然さを、奏真は見逃さなかった。

 

「ふーん? 顔色悪くない?」

 

「……そうですか?」

 

「うん。ちょっとね」

 

 奏真は少し近づき、迅の顔を覗き込んだ。

 

「何か嫌な未来でも見た?」

 

「…………」

 

 迅の心臓が跳ねた。

 

 何気ない質問だったはずなのに、今の迅にはあまりにも的確な言葉だった。

 

 黙ってしまった迅を見て、奏真の表情がわずかに変わる。

 

「……悠一」

 

 声の調子が、ふと低くなった。

 

「お前、また考え過ぎてんのか?」

 

「…………」

 

 迅は目を瞬いた。

 

 それは、昔の奏真の口調だった。

 

 いつもの軽い調子ではない。

 

 余計な飾りも、冗談もない。

 

 ただ、目の前の相手を心配している時の、昔からよく知っている声。

 

 ほんの一瞬だけ、あの頃の奏真がそこにいた。

 

「……いやー」

 

 迅は苦笑した。

 

「奏真さんには敵いませんね」

 

「んー?」

 

 奏真は、もういつもの調子に戻っていた。

 

「まあ、何考えてるかまでは分かんないけどさー」

 

 そう言って軽く笑う。

 

「一人で抱え込み過ぎないようにね?」

 

「……はい」

 

 迅は小さく頷いた。

 

「分かってますよ」

 

「本当かなー?」

 

「本当ですって」

 

「ならいいけど」

 

 それ以上、奏真は追及しなかった。

 

 ただ、迅の肩を軽く叩く。

 

「ま、俺はちゃんとここにいるからねー」

 

「…………」

 

 肩に伝わる感触は、確かなものだった。

 

 あの夢の中のように、触れた途端にすり抜けたりはしない。

 

 目の前にいる奏真は、間違いなく生きている。

 

 迅はその事実を、改めて噛み締めた。

 

「……ですね」

 

 ようやく、自然に笑うことができた。

 

「奏真さん、ちゃんと生きてますもんね」

 

「そうそう。まだ死ぬ予定ないし」

 

「予定を入れるものでもないですよ、それ」

 

「確かに」

 

 奏真が笑う。

 

 そのいつも通りのやり取りに、迅の胸を締めつけていた感覚も少しずつ和らいでいった。

 

 だが。

 

 疑問は何一つ解決していなかった。

 

「……迅?」

 

 今度は東が声をかけてきた。

 

「あ、はい」

 

「さっきからいたのか?」

 

「ええ。途中から話が聞こえてきたので」

 

「そうか」

 

 東は少し考えるような表情になった。

 

「……なあ、迅」

 

「はい?」

 

「お前のサイドエフェクトで、こういうことが起こる可能性って見えたりするのか?」

 

「…………」

 

 迅が固まった。

 

「……え?」

 

「いや、俺と月見がまったく同じ夢を見たんだ。何か理由があるのかと思ってな」

 

「…………」

 

 迅は答えられなかった。

 

 見えたことがある。

 

 確かに、見えたことがある。

 

 ただし、それは今の未来ではない。

 

 とっくに消えたはずの、別の未来だ。

 

 それをどう説明すればいいのか。

 

 いや、そもそも説明していいのか。

 

「……迅?」

 

 東が不思議そうに首を傾げる。

 

 迅は慌てて笑顔を作った。

 

「あ、いやー……未来の事は多少は分かりますけど他人の夢までは……」

 

「……分からないか?」

 

「ええ。少なくとも、二人が同じ夢を見るなんて話は、俺も初めて聞きましたよ」

 

「……そうか」

 

 東はそれ以上追及しなかった。

 

 だが、迅の胸の内は穏やかではなかった。

 

 東が何気なく尋ねた質問。

 

 それに答えられなかったこと。

 

 そして何より。

 

 自分の知っている未来を、知らないはずの二人が見ていたという事実。

 

「…………」

 

 迅は小さく息を吐いた。

 

 未来が見える。

 

 それは、自分だけが持つ力だ。

 

 少なくとも、そう思っていた。

 

 だが今。

 

 目の前で起きていることは、その前提を揺さぶっていた。

 

 月見と東が、未来を見る力を手に入れたわけではない。

 

 恐らく、そんな単純な話ではないのだろう。

 

 それでも。

 

 なぜ二人が、あの未来を見たのか。

 

 その答えが、迅には分からなかった。

 

〇

 

「……まあ、考えてても仕方ないか」

 

 そんな空気を変えるように、奏真が明るい声を上げた。

 

「せっかく生きてるんだし、何か美味しいものでも食べに行こうよ」

 

「……また急ですね」

 

 月見が呆れたように言う。

 

「いやー、夢の中で俺が消えちゃったらしいし、生存祝いってことで」

 

「……意味が分かりません」

 

「えー? せっかく生きてるんだし、美味しいもの食べようよ」

 

 奏真は笑った。

 

「というわけで、炒飯食べに行かない?」

 

「……結局それですか」

 

 東が苦笑する。

 

「春秋も行くでしょ?」

 

「まあ、構わないけどな」

 

「お、決まり!」

 

 奏真は嬉しそうに頷くと、今度は月見へ顔を向けた。

 

「月見も行こうよー」

 

「……私はまだ行くとは言ってませんが」

 

「え、行かないの?」

 

「……行かないとも言ってません」

 

「どっち!?」

 

 東が笑った。

 

 迅も、つられて小さく笑う。

 

 月見はため息をつきながら、結局立ち上がった。

 

「……仕方ありませんね。ただし、食事中に余計なことを始めないでくださいよ」

 

「えー? 余計なことって?」

 

「奏真さんが思いつきで始めること全般です」

 

「範囲広くない!?」

 

 相変わらずのやり取りだった。

 

 東は苦笑し、月見は呆れ、奏真は楽しそうに笑っている。

 

 その光景を、迅は静かに見つめていた。

 

 もし、あの未来が実現していたなら。

 

 こうして月見が奏真を叱ることも、東が笑うことも、奏真が軽口を叩くこともなかったのかもしれない。

 

 ただ一人の人間がいないだけで、周囲の人生まで変わってしまう。

 

 それが未来というものなのだと、迅は嫌というほど知っていた。

 

「……迅?」

 

 奏真が振り返った。

 

「行かないの?」

 

「あ、行きますよ」

 

 迅は笑って歩き出した。

 

 少なくとも、今は。

 

 こんな馬鹿馬鹿しい会話ができる未来を、大切にしたかった。

 

 それなのに。

 

「……あ、そうだ」

 

 ふと、奏真が立ち止まった。

 

「月見」

 

「何ですか?」

 

「さっきの夢の話だけどさ」

 

「……はい?」

 

「俺が幽霊になってたってことは、壁とかすり抜けられたのかな?」

 

「……」

 

「いやー、もしできるならちょっと便利そうじゃない?」

 

「…………」

 

 月見がゆっくりと振り返った。

 

「……奏真さん」

 

「ん?」

 

「……今すぐ幽霊にして差し上げましょうか?」

 

「ごめんなさい」

 

 即答だった。

 

 東が吹き出し、迅もとうとう声を上げて笑った。

 

 夢の中では決して返ってこなかった奏真の声が、今はこうして聞こえている。

 

 月見は呆れたようにため息をつきながらも、それ以上は何も言わなかった。

 

 しかし、その横で迅は、未だに一つの疑問を抱えていた。

 

 ――何で、二人が同じ夢を見たんだ?

 

 その答えは、未来を見る迅にも分からない。

 

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 

 あの未来は、確かに存在していた。

 

 そして、その未来では城戸奏真はもういなかった。

 

「…………」

 

 迅はもう一度、楽しそうに笑う奏真を見た。

 

 今ここにいる。

 

 確かに生きている。

 

 だから、もうあの未来は訪れない。

 

 そう信じたい。

 

 だが。

 

 もし、選ばれなかった未来が、誰かの夢に現れるのだとしたら。

 

 それは一体、何を意味しているのだろうか。

 

「……いや、ほんと」

 

 迅は誰にも聞こえないよう、小さく呟いた。

 

「……勘弁してほしいなあ」

 

 未来が見えるというのも、なかなか厄介なものだった。

 

 少なくとも。

 

 自分の知らないところで、過去に消えたはずの未来が夢として現れるなど。

 

 そんなものまで考え始めたら、いくら考えても答えが出る気がしなかった。

 

 




次回、番外編
第二回ボーダー炒飯大会の予定です
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