No.1オペレーター城戸奏真の華麗なる緊急脱出<ベイルアウト> 作:羊毛ローブ
ボーダー本部には、時折、妙な申請書が提出されることがある。
施設の使用許可や備品の貸し出し、隊員同士の交流行事。組織の規模を考えれば、それ自体は珍しいものではない。通常業務に支障がなく、必要な手続きを踏んでいるなら、多少変わった催しでも開催は可能だった。
もっとも、今回の申請書を受け取った沢村響子は、その内容を確認してから、しばらく手を止めることになった。
『第二回ボーダー炒飯大会』
使用施設、本部食堂。
使用日時、水曜日、十八時四十分から十九時三十分まで。
参加予定者、加古望、城戸正宗。
「…………」
沢村は一度書類を置いた。
そして、もう一度手に取った。
何度確認しても、そこに記載されている名前は変わらない。
A級六位加古隊の隊長と、ボーダー最高司令官による一対一の炒飯対決。文章にすると実に簡単な内容だったが、だからといって納得できるものでもなかった。
第一回大会が開催されたこと自体は知っている。加古望の圧勝に終わったことも、その場に居合わせた隊員達から聞いていた。
しかし、第二回大会の相手が城戸正宗になると、誰が予想できただろうか。
「……忍田本部長」
「どうした、沢村くん」
「少々、確認させていただきたいことが」
書類を受け取った忍田真史は、一通り目を通したところで動きを止めた。
「…………」
もう一度、参加予定者の欄を見る。
「……とうとう、そうなったか」
「……はい?」
沢村が首を傾げると、忍田は小さく息を吐いた。
「いや、以前からそういう話が出ていてな。城戸司令には奏真が話を通したのだろう?」
「そのようです。御本人からも参加の了承をいただいています」
「ならば問題ないだろう。食堂側との調整は?」
「通常営業終了後に限り、厨房をお借りできるそうです。食材の持ち込みや片づけについても確認済みです」
「そうか」
忍田は頷いた後、もう一度申請書へ目を落とした。
ほんの僅かに、その口元が緩む。
「……楽しみだな」
「……忍田本部長?」
「城戸司令の炒飯は美味いからな」
実に自然な言い方だった。
しかし、その言葉を聞いた沢村は、ますます困惑することになった。
城戸司令。
炒飯。
美味い。
どうにも結びつかない三つの言葉である。
それでも、忍田がここまで断言するのだ。きっと何か理由があるのだろう。
沢村はそう自分を納得させ、申請書に承認を示す印を押した。
〇
そして迎えた大会当日。
十八時四十分を迎えようとしていた本部食堂には、通常営業を終えたばかりだというのに、予想以上の人数が集まっていた。
第一回大会は、三雲修が加古からの伝言を忘れたことを発端として、その場の成り行きで開催された催しだった。
参加者は加古望、城戸奏真、諏訪洸太郎、生駒達人の四名。
結果は加古の圧勝。次いで奏真、そして諏訪と生駒が並ぶという、料理の腕前がそのまま表れたような大会だった。
ところが今回は事情が違う。
第一回の優勝者である加古と、奏真が一番好きだと公言する炒飯の作り手による一騎打ち。それだけでも興味を引くというのに、対戦相手がボーダー最高司令官ともなれば、普段こうした催しに関心のない隊員達まで足を運ぶのは当然だった。
「……いや、本当にやるんですね」
集まった顔ぶれを見回した修が、何とも言えない表情で呟く。
「やるよー」
隣の奏真が楽しそうに頷いた。
「いやー、遂にこの日が来たねー!」
「……城戸さん」
「ん?」
「何でそんなに嬉しそうなんですか?」
「そりゃ嬉しいでしょ。叔父さんの炒飯が食べられるんだから」
「……それは分かりますけど」
修は厨房へ視線を向けた。
「まさか城戸司令が、本当に炒飯大会へ参加してくださるとは思いませんでした」
「俺も最初は無理だと思ってたよ?」
「……じゃあ、どうして頼んだんですか?」
「加古が食べたいって言うから」
「…………」
「あと俺も食べたいし」
「……結局それですか」
奏真が笑い始めると、近くにいた諏訪が口を挟んだ。
「いや、俺も正直びっくりしたっすよ。奏真さん、本当に引っ張り出すとは思わなかったっすね」
「頑張ったからねー」
「……その努力、もうちょっと別のことに使えないんすか?」
「えー、炒飯大事でしょ」
「まあ、美味い炒飯は大事っすけど」
諏訪が肩をすくめる横で、生駒は既に試食用の皿を眺めていた。
「いやー、今回は食う側やから気楽でええなあ」
「生駒、前回負けたの気にしてる?」
「別に気にしてへんで。加古さんの方が美味かったんは事実やしな」
「お、潔い」
「でも今回は食うだけやろ? 最高やん」
「分かる!」
奏真が勢いよく頷いた。
どうやら、この二人に勝負の緊張感を求めるのは無駄らしかった。
その時だった。
食堂の入口付近が、急に静かになった。
何事かと周囲が目を向けると、そこには城戸正宗が立っていた。
普段と変わらない険しい表情。背筋の伸びた立ち姿。廊下ですれ違っただけで、若い隊員なら思わず姿勢を正してしまう、ボーダー最高司令官その人である。
ただし、今日は一つだけ普段と違っていた。
右手に、妙に大きな包みを持っている。
「…………」
修が首を傾げた。
「……何でしょう、あれ」
「さあ?」
奏真も何気なく視線を向ける。
城戸は周囲の注目を気にする様子もなく厨房へ入り、持参した包みを調理台へ置いた。
そして、厚手の布を丁寧に外していく。
現れたのは、よく使い込まれた中華鍋だった。
「…………」
「…………」
数秒間、誰も口を開かなかった。
最初に反応したのは諏訪である。
「……え?」
城戸は何事もなかったように中華鍋を取り出し、持ち手の具合を確かめている。
「……ちょっと待ってください」
修が恐る恐る声をかけた。
「城戸司令」
「何だ」
「……それは?」
「中華鍋だが」
「いや、それは分かるんですけど!」
城戸が怪訝そうに眉を寄せる。
「何を聞きたい?」
「……食堂のものじゃないですよね?」
「ああ。私物だ」
「…………」
修が固まった。
「……マイ中華鍋?」
思わず漏れた言葉を、奏真が拾った。
「あ、そうだよ。叔父さんのマイ中華鍋」
「……マイ中華鍋」
諏訪が同じ言葉を繰り返す。
「……城戸司令、マイ中華鍋持ってるんすか?」
「持っているが、何か問題でもあるのか?」
「いや、問題っていうか……」
諏訪は中華鍋を見た。
次に城戸を見た。
そして、もう一度中華鍋を見る。
「……何つーか、本気っすね」
「勝負だと聞いているからな」
「……なるほど」
諏訪は頷いた。
確かに、使い慣れた道具を持参すること自体はおかしくない。料理を趣味にしている人間なら、愛用の包丁や鍋を持っていても不思議ではないだろう。
ただし、問題はそれを持参した人物だった。
ボーダー最高司令官。
城戸正宗。
いつもの厳しい顔で、マイ中華鍋の状態を確認している。
「……似合わねぇなあ」
「スワルツネガー、聞こえてる聞こえてる!」
奏真が笑いながら注意すると、諏訪は慌てて咳払いした。
「いや、失礼しました! でも、正直想像してなかったっす!」
「使い慣れた道具の方が、火加減を調整しやすい」
「……いや、そりゃそうなんすけど」
返答は極めて合理的だった。
しかし、合理的であることと、見ている人間が納得できることは別問題である。
「……国近先輩!」
少し離れた席で、武富桜子が興奮した様子で声を上げた。
「城戸司令がマイ中華鍋です!」
「見れば分かるよー」
国近柚宇は口元を押さえて笑っている。
「何か、あんなに真剣な顔で確認されると、凄い兵器の整備でもしてるみたいだね」
「それです!」
武富が勢いよく頷いた。
「私、最初は新型トリガーか何かかと思いました!」
「中華鍋型のトリガーって何すんだよ」
諏訪が呆れたように口を挟む。
「炒飯作るんじゃない?」
奏真が即答した。
「普通の中華鍋でいいでしょうが!」
食堂に笑い声が広がった。
その一方、林藤匠は厨房を眺めながら、楽しそうに肩を震わせている。
「……ははっ。いやー、城戸さん、本気だなあ」
「……そうだな」
隣の忍田も僅かに笑った。
「道具まで持参されるとは思わなかったが」
「何事も準備が大事ってことだろ」
「……それは否定しない」
二人が顔を見合わせたところで、加古望が厨房へ入ってきた。
「あら」
城戸の中華鍋へ視線を落とし、楽しそうに目を細める。
「城戸司令、ご自分の鍋を持っていらしたんですか?」
「……ああ」
「いいですね。そういうこだわり、嫌いじゃありません」
「……そうか」
「使い慣れた道具の方が、思い通りに作れますものね」
加古は当然のように頷いた。
周囲がマイ中華鍋に驚く中、料理を長年続けてきた加古だけは、その選択を自然に受け入れたらしい。
「今日はよろしくお願いしますね」
「……こちらこそ」
「手加減はなしですよ?」
「そのつもりだ」
そのやり取りを聞いた奏真が、満足そうに頷いた。
「いやー、いいねー! 盛り上がってきたねー!」
「……奏真さん」
背後から、月見蓮の静かな声が飛んだ。
「ん?」
「盛り上がるのは結構ですが、予定の時間内に終わらせてくださいね」
「分かってるって!」
「……本当ですか?」
「信用ないなあ」
「これまでの実績です」
「ぐうの音も出ない!」
そのやり取りに、東春秋が小さく吹き出した。
〇
今回の大会は、第一回とは少し形式を変えていた。
参加者は加古と城戸の二名のみ。基本となる米、卵、長葱、焼豚は同じものを用意し、それぞれが自分の腕を振るって炒飯を作る。
審査員は東、諏訪、木崎レイジ、修、月見、そして生駒の六名。試食は見物人にも用意されるが、正式な投票はこの六名が行うことになっていた。
「……ところで」
審査方法の確認を終えた月見が、奏真へ視線を向けた。
「奏真さんが審査員ではない理由は、理解されていますよね?」
「え? 叔父さんの炒飯が一番好きだから?」
「分かっているなら結構です」
「えー。でも加古チャハーンも好きなんだけどなあ」
「だからこそですよ」
東が笑った。
「お前が審査員になったら、結局どちらも美味いと言って終わりそうだからな」
「いや、ちゃんと評価するよ?」
「じゃあ、どっちが勝つと思う?」
「どっちも美味しい」
「……ほらな」
「それは評価じゃなくて予想でしょ!」
奏真が抗議すると、加古が楽しそうに笑った。
「奏真さん、今日は私も本気で作るからね」
「お、加古チャハーン本気モード!」
「……その言い方、何だか引っかかるわね」
「いやいや、褒めてるよ? 加古、普通に作ったら滅茶苦茶上手いもん」
「当然でしょう?」
加古が自信たっぷりに答えると、奏真も笑いながら頷いた。
加古の炒飯は基本的にかなり美味い。本人の好奇心が時折思いがけない方向へ向かい、新しい具材の組み合わせが明確な失敗に終わることもあるが、それは料理の腕が悪いという意味ではない。
むしろ、基礎がしっかりしているからこそ、様々な工夫を試してみたくなるのだろう。
そして今回は真剣勝負である。
加古が手を抜く理由も、無謀な冒険をする理由もなかった。
「……城戸さん」
修が小声で尋ねる。
「ん?」
「どちらが勝つと思います?」
「んー?」
奏真は厨房を見た。
加古が食材を確認している。
その隣では、城戸が愛用の中華鍋を火にかける準備を始めていた。
「……分かんない」
「……そうですか」
「でも、絶対美味しいよ」
「……それはもう、十分伝わりました」
修が苦笑したところで、調理開始の合図が出された。
〇
二人の調理が始まると、先ほどまで騒がしかった食堂も自然と静かになった。
最初に周囲の注目を集めたのは、城戸の手際だった。
使い慣れた中華鍋を傾け、温度を確かめ、油を馴染ませる。動作そのものは驚くほど簡潔で、必要以上に鍋を振り回すこともない。それでいて火の入り方を正確に見極め、米や卵を加える順序にも迷いがなかった。
普段の厳しい表情はそのままだ。
ただし、その手に握られているのは機密書類でもトリガーでもなく、中華鍋である。
「……すげぇな」
諏訪が思わず声を漏らした。
「これ、城戸司令って知らずに見たら、普通に料理人だと思うっすよ」
「そうですね」
レイジも感心したように頷いた。
「かなり慣れた手つきです」
「でしょー?」
奏真が嬉しそうに反応する。
「昔から中華は得意なんだよ、叔父さん」
「……奏真さん」
諏訪が呆れたように笑う。
「何であんたがそんな得意げなんすか」
「叔父さんが褒められたから」
「……素直っすね」
その隣では、修が食い入るように調理を見つめていた。
司令室にいる時の城戸を思い浮かべれば、目の前の光景はどうにも現実味がない。だが、鍋の中で踊る米や、香ばしい匂いが広がる様子を見ていると、そんな違和感さえ次第に薄れていく。
「……何でしょう」
「ん?」
奏真が振り返る。
「だんだん、城戸司令が本職の料理人に見えてきました」
「オッサー、それ本人に言ってみ?」
「嫌ですよ!?」
奏真が笑い始めた。
一方の加古も負けてはいない。
火の回り方を見ながら食材を加え、鍋を振るタイミングを細かく調整していく。米と卵の馴染ませ方も、焼豚の香りの立て方も手慣れたものだった。
さらに、加古は定番の具材に加え、少量の干し貝柱と細かく刻んだザーサイを用意していた。
干し貝柱はあらかじめ戻してほぐしてあり、その凝縮された旨味を米へ馴染ませる。ザーサイは細かく刻み、食感と塩気のアクセントとして使うらしい。
どちらも決して奇抜な材料ではない。
炒飯という料理の基本を大きく変えず、ほんの少しの工夫で味に奥行きを出そうという考えなのだろう。
「……加古さん、やっぱり凄いですね」
修が感心したように呟く。
「でしょ?」
またしても奏真が答えた。
「……城戸さん」
「何?」
「今回、城戸司令を応援してるんですよね?」
「うん」
「……何で加古さんまで自慢するんですか?」
「だって加古、料理上手いもん」
「……それはそうですけど」
修が言葉に詰まると、加古が楽しそうに笑った。
「奏真さん、そんなに褒めても何も出ないわよ?」
「えー、加古チャハーン出ないの?」
「今作ってるでしょう?」
「あ、そうだった」
東がとうとう吹き出した。
どうやら奏真にとって、今回の勝負はどちらが勝つかという問題以上に、美味しい炒飯を二種類食べられることが重要らしい。
そんな中、奏真は城戸の手元を見て、ふと首を傾げた。
「……あれ?」
中華鍋の中では、卵と米が綺麗に混ざり、焼豚と長葱が加えられている。
その動作に何の問題もない。むしろ、いつも通り見事なものだった。
だが、奏真には僅かに引っかかるものがあった。
少し離れたところでは、忍田も同じように厨房へ視線を向けていた。
その隣にいた林藤が、小さく呟く。
「……あれ?」
「どうした、林藤」
「いや、城戸さん、今日はそっちなんだなと思ってさ」
「……ああ」
忍田は短く頷いた。
しかし、すぐに納得したように視線を戻す。
考えてみれば、今回は普通の炒飯大会である。城戸の性格を考えれば、その選択も別におかしくはない。
奏真も同じ結論に辿り着いたらしく、小さく頷いた。
「……ま、そっか。炒飯大会だもんねー」
その呟きを聞いた修が、不思議そうに顔を向ける。
「……何がです?」
「ん? 何でもないよー」
「……そうですか?」
「それよりオッサー、加古の方も見てみ? あっちも凄いよ」
奏真に促され、修は再び厨房へ目を向けた。
三人が何に引っかかったのか、結局分からなかったが、特に問題がある様子でもない。
それ以上は気にしないことにした。
そして、二人の中華鍋から立ち上る香ばしい匂いが、いよいよ強くなっていった。
〇
完成した二種類の炒飯は、同じ料理とは思えないほど異なる印象を与えるものだった。
加古の炒飯は、香りが豊かで華やかな仕上がりだった。卵と長葱、焼豚という定番の具材に、干し貝柱の旨味が加わり、時折混ざるザーサイの歯応えと塩気が心地よい変化を生む。
具材の主張は明確なのに、味のバランスは崩れていない。
一口目から美味しさが伝わる、非常に完成度の高い一皿だった。
「……美味いな」
東が素直に感想を漏らす。
「第一回で圧勝しただけのことはある」
「本当にそうですね」
修も頷いた。
「干し貝柱の旨味がしっかり出てるのに、全然くどくないです」
「ザーサイもええ仕事しとるなあ」
生駒も感心したように頷く。
それを聞いた加古は、満足そうに笑っていた。
一方、城戸の炒飯は徹底して正統派だった。
卵、長葱、焼豚。
どこにでもある材料を使った、ごく一般的な炒飯。
少なくとも、見た目にはそうとしか思えなかった。
しかし、一口食べた瞬間、審査員達の表情が変わった。
「……美味っ」
諏訪が思わず声を漏らした。
米は一粒ずつほどけているのに、決して乾いていない。卵は細かく絡んだ部分と柔らかい食感を残した部分が混在し、焼豚には僅かな香ばしさがある。長葱は火が通って甘みを出しながらも、香りを失っていなかった。
どれか一つが飛び抜けて強いわけではない。
むしろ、その逆だった。
全ての具材が、互いの良さを引き出すために存在しているような味だった。
「……何すか、これ」
諏訪がもう一口食べる。
「いや、滅茶苦茶美味いっすね」
「……確かにな」
東も頷いた。
「見た目は普通なんだが、ここまで仕上げられるものなのか」
修も皿を見下ろした。
加古の炒飯は、一口目から強い満足感がある。
対する城戸の炒飯は、食べ進めるほど美味しさが積み重なっていく。
しかも、途中で重くなることがない。
「……これ、もう一皿欲しくなりますね」
「分かるわ」
月見も静かに頷く。
審査員達は慎重に食べ比べ、最後まで悩みながら投票用紙へ名前を書いた。
六名分の票が沢村へ渡され、集計が始まる。
その一方で、見物人達にも試食用の炒飯が配られていた。
国近柚宇も、その一人だった。
「いただきまーす」
まず加古の炒飯を口に運ぶ。
「んー、美味しい!」
続いて、城戸の炒飯。
「…………」
手が止まった。
もう一口食べる。
「……あれ?」
「どうしたんですか、国近先輩?」
隣にいた武富が尋ねる。
「……んー」
国近は小皿を見下ろした。
「何か、どっかで食べたことあるような……」
「……え?」
「いや、城戸司令の炒飯は初めてのはずなんだけどねー」
そう言って、もう一口。
「……やっぱり、何か覚えがあるんだよね」
その言葉に、諏訪が顔を上げた。
「……ああ、そうなんすよ」
「諏訪さんも?」
「俺もさっきから、何か引っかかってたんすよね」
諏訪は改めて炒飯を口へ運ぶ。
間違いなく美味い。
しかも、ただ美味いというだけではない。
味の組み立て方に、妙な馴染みがあった。
「……いや、このクオリティの炒飯だぞ?」
諏訪は眉を寄せた。
「一回食ったら忘れねぇと思うんだけどな。どこで食ったんだ?」
「そうなんだよねー」
国近も頷く。
「私も絶対覚えがあるんだけど、どこだったかなー」
東も、もう一口食べてから考え込んだ。
「……俺も覚えがあるな。でも、どこだ?」
その会話を聞いていた武富が、試食用の炒飯へ手を伸ばした。
「……ちょっと、私にも食べさせてください」
一口食べる。
「…………」
思わず動きが止まった。
美味しい。
確かに美味しい。
それだけなら、ここまで驚くことはなかった。
城戸司令が料理上手であることは、前の大会で既に聞いている。奏真が一番好きだと言うのだから、相当な腕前なのだろうとも思っていた。
しかし、それにしても。
「……あれ?」
武富はもう一口食べた。
何かが引っかかる。
米のほどけ方。
油の軽さ。
卵と焼豚のバランス。
長葱の香り。
そして、最後まで飽きることなく、食べ終わる頃にはもう一皿欲しくなってしまう、この不思議な感覚。
……どこかで。
どこかで、この味を知っている。
「…………」
武富の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
本部食堂。
いつもの食券機。
いつもの炒飯。
なのに、時折、普段とは比べものにならないほど美味しくなる日がある。
そんな噂を聞き、自分でも調べたことがあった。
厨房の職員にも話を聞いた。
隊員達から情報を集め、曜日や行事との関連まで考えた。
それでも最後まで正体が分からなかった、あの謎の炒飯。
「…………あ」
武富の手が止まった。
「……桜子ちゃん?」
国近が顔を向ける。
武富は小皿を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……当たりの日?」
「…………」
国近の動きが止まった。
諏訪も顔を上げる。
ほんの数秒の沈黙。
そして。
「あっ!!」
国近が勢いよく顔を上げた。
「そうだ! 当たりの日!」
「……ああ!!」
諏訪も思わず声を上げる。
「それだ!!」
武富は二人を見た。
「ですよね!? 絶対そうですよね!?」
「うん! 食堂の当たりの日の、あの炒飯に似てるんだ!」
国近が興奮気味に続けた。
「いや、今日の方が全体的に凄いけど! 味も香りも、全部底上げされてる感じ!」
「……ああ、分かる!」
諏訪が大きく頷く。
「今日の方が明らかに美味い。でも、根本的にはあの味だ!」
「……なるほど」
東も納得したように頷いた。
「確かにそうだな。食堂で食べた時より、今日の方が一皿としての完成度は高い。だが、味の組み立て方はよく似ている」
「そうなんです!!」
武富が勢いよく頷いた。
「私、前に調べたんですよ! 誰が作ってるのか! でも、最後まで分からなくて!」
そう言いながら、もう一度炒飯を口へ運ぶ。
間違いない。
この味。
米の食感も、卵の入り方も、焼豚の香ばしさも、あの日とよく似ている。
ただし、今日の方が全てにおいて一段上の仕上がりになっていた。
以前、厨房の職員は何と言っていただろうか。
人手が足りない時には、職員以外が手伝うこともある。
そして、誰が作っているのかを尋ねた時、妙に言葉を濁していた。
さらに、自分が奏真から聞き出した叔父の炒飯の特徴。
米はほどけているのに乾いていない。
油っぽくない。
卵の入り方が独特。
焼豚には僅かな香ばしさがあり、長葱の香りが残っている。
そこまで一致していたというのに、自分は最後の可能性を否定してしまった。
あまりにも現実味がないと思ったからだ。
「…………」
武富は、ゆっくりと厨房へ視線を向けた。
城戸正宗。
ボーダー最高司令官。
そして、つい先ほどまで中華鍋を振っていた人物。
「……まさか」
以前、一度だけ頭に浮かべた可能性。
しかし、あまりにも現実味がないと思って否定した結論。
それが、今になって恐ろしいほど現実的になっていた。
「……城戸司令」
「何だ」
「……もしかして」
武富が言葉を選んでいると、城戸が小さく息を吐いた。
「……そうか」
「……え?」
城戸は、武富達の顔を順番に見た。
それから、加古へ一度だけ視線を向ける。
「……食べたことがないと言われる筋合いはないと思っていたが、知らなかったのか」
「…………」
食堂が静まり返った。
最初に口を開いたのは諏訪だった。
「……え?」
城戸は、ごく当たり前のことを説明するように続けた。
「以前から、食堂の厨房を手伝うことがあってな。炒飯も何度となく作っている」
「…………」
「普段は一度に作る量も多い。今日は一皿ずつ仕上がりを調整したが、基本的な作り方は変わらん」
「…………」
沈黙。
数秒後。
「……ちょっと待ってください」
諏訪が恐る恐る尋ねた。
「……ってことは、俺らが前から食堂で美味い美味いって言ってた、あの炒飯……」
「……ああ」
「……城戸司令が作ってたんすか?」
「私が担当した日もあるな」
「…………」
諏訪が頭を抱えた。
「いや、分かるわけねぇでしょ!!」
その声を合図に、食堂が一気に騒がしくなった。
「えええ!? 本当に!?」
「マジかよ!?」
「食堂の当たりの日って、城戸司令だったの!?」
国近は笑いながら小皿を見下ろし、武富は呆然と立ち尽くしている。
何より衝撃だったのは、長年の謎があまりにもあっさり解けてしまったことだった。
「……私」
武富がぽつりと呟く。
「……あんなに調べたのに」
「……そうだったのか」
城戸が答える。
「厨房の人にも聞いたのに……」
「……ああ」
「何で教えてくれなかったんですか!?」
城戸は少し考えた。
「……私に聞けばよかっただろう」
「聞けるわけないじゃないですか!!」
武富の即答に、周囲から笑い声が上がった。
その横で諏訪も頭を抱えている。
「いや、そうっすよ! 普通、最高司令官に『食堂で炒飯作ってます?』なんて聞かねぇっすよ!」
「……何故だ?」
「……いや、何故って……」
諏訪は言葉に詰まった。
城戸の言っていることは、理屈としては間違っていない。
ただし、実際にそんな質問をする隊員がどれだけいるのかは、全く別の問題だった。
「……ということは」
その時、加古がゆっくりと顔を上げた。
「私が食べてみたかった炒飯って、前から食堂で出ていたんですね」
「……そういうことになるな」
「……あら」
加古は少し考えた後、楽しそうに笑った。
「それは知りませんでした」
「……本当に食べたことがなかったのか?」
「ありませんよ?」
「……そうか」
「食堂では炒飯を注文しませんから」
「…………」
城戸の動きが止まった。
「……注文しないのか?」
「ええ。食べたくなったら自分で作りますし」
「…………」
城戸は数秒ほど考えた。
そして。
「……なるほど」
ようやく納得した。
何度も作っているのに、一度も食べたことがないと言われた理由。
それは極めて単純な話だった。
そもそも、加古望は食堂で炒飯を注文しないのである。
何度作ったところで、注文しなければ食べる機会などない。
「……それなら仕方がないな」
「でしょう?」
加古は笑った。
「でも、今日こうして食べられてよかったです」
「……そうか」
「それに、普段よりも今日の方が完成度が高いんでしょう?」
「……ああ。今日は一皿ずつ調整できたからな」
「……なるほど」
加古の目が、明らかに輝いた。
「それなら、なおさら勝負できてよかったです」
城戸は静かに頷いた。
その横では、武富がまだ放心している。
「……国近先輩」
「んー?」
「……私、前に城戸司令が作ってるんじゃないかって考えたこと、あったんですよ」
「……ああ、そうだったねー」
「……何で否定しちゃったんでしょう」
「いや、普通はそう思うよ?」
国近は厨房を見た。
そこには、いつもと変わらない険しい表情の城戸正宗がいる。
そして、その横には先ほど持参された中華鍋。
「……あの人が食堂で炒飯作ってるなんて、普通は想像しないって」
「……ですよね」
武富は深く頷いた。
そこで、奏真が嬉しそうに近づいてきた。
「いやー、何か凄い盛り上がってるねー!」
「……奏真さん」
武富がゆっくりと顔を上げる。
「ん?」
「……知ってたんですか?」
「何を?」
「……城戸司令が食堂で炒飯を作っていたことです」
「え? ああ、作ることもあるよ?」
「…………」
武富が固まった。
「何で教えてくれなかったんですか!?」
「ええ!? 何で俺が怒られるの!?」
「私、前に当たりの日のこと聞いたじゃないですか!」
「……あー、あの時の?」
「そうです!」
奏真は少し考えた。
「……いや、タケミッフィー」
「はい!」
「俺、あの時は当たりの日って言葉自体、初めて聞いたんだけど?」
「…………」
「何の話か分かんなかったんだよねー」
「…………」
武富が黙った。
確かにそうだった。
あの時、奏真は《当たりの日》という言葉を知らなかった。
だからこそ、何を聞かれているのか分からないまま、普通に答えていたのである。
「……それは」
「それに、叔父さんが毎回作ってるわけじゃないしね」
「……はい」
「食堂の炒飯が美味しい日って言われても、それが叔父さんの作った日かどうかなんて、俺には分かんないよ?」
「…………」
あまりにも正論だった。
武富は静かに頭を下げた。
「……すみませんでした」
「いやいや、別にいいんだけど!?」
奏真は困ったように笑い、それから武富の持っている皿を見た。
「……でもさ」
「……はい?」
「やっぱ叔父さんの炒飯、美味しいでしょ?」
「…………」
武富は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「でしょー!」
奏真が嬉しそうに笑う。
その姿を見て、東もつられて笑った。
「……まったく、お前は昔からそうだな」
「何が、春秋?」
「自分が褒められるより、城戸司令の料理を褒められる方が嬉しそうじゃないか」
「そりゃそうでしょー!」
奏真は即答した。
東は苦笑し、もう一度炒飯を口へ運んだ。
確かに美味い。
しかも、食べれば食べるほど、どこか懐かしい。
昔から何度も食べていた味。
ただし、今日の一皿は、その記憶の中にあるものよりも、確かに一段上の出来だった。
「……なるほどな」
東は、小さく頷いた。
奏真が昔から、これほど城戸正宗の炒飯を気に入っていた理由が、少し分かった気がした。
〇
思わぬ謎解きで盛り上がったものの、肝心の勝敗はまだ決まっていない。
審査員達の投票は、その騒動が起きる前に済ませている。つまり、今回の《当たりの日》の発覚が結果に影響することはなかった。
沢村が六名分の票を確認し、一度だけ集計表を見直した。
「……これは」
「どうしました?」
月見が尋ねる。
「……見事に割れていますね」
その言葉に、加古が興味深そうに顔を上げた。
一方、城戸は特に表情を変えない。
そもそも、勝敗に強い執着があるようには見えなかった。
「それでは、第二回ボーダー炒飯大会の結果を発表します!」
沢村の声に、食堂が静かになった。
「加古隊長、三票。城戸司令、三票!」
「……おお?」
奏真が顔を上げる。
「ということは?」
「第二回ボーダー炒飯大会は、引き分けです!」
その発表に、一瞬の静寂が訪れた後、食堂から拍手が沸き起こった。
「いやー、そりゃそうなるわな」
諏訪が苦笑する。
「どっちも滅茶苦茶美味いんすよ。正直、最後まで悩みましたし」
「せやなあ。どっち選んでも、もう片方に悪い気がしてまうわ」
生駒も大きく頷いた。
「加古さんの方も凄いし、城戸司令の方も凄い。これはもう好みの話やろ」
「……私も同じ意見です」
レイジが静かに頷くと、東も納得したように笑った。
「そうだな。どちらも完成度が高い。方向性が違う以上、単純にどちらが上とは言い切れないよ」
その言葉に、加古は少しだけ目を細めた。
「あら、引き分けなのね」
「……そのようだな」
城戸も不満はないらしく、短く頷いた。
「いやー、良い勝負だったねー!」
奏真はどちらよりも嬉しそうだった。
「加古チャハーンも美味しいし、叔父さんの炒飯も美味しいし! 最高じゃん!」
「……奏真さん、本当に幸せそうですね」
月見が呆れたように言うと、奏真は満面の笑みで頷いた。
「そりゃそうでしょー!」
そんな賑やかな声を聞きながら、城戸は何気なく加古の炒飯へ視線を落とした。
基本的な構成は、どこまでも炒飯の範疇に収まっている。だが、よく見れば、加古が自分なりに選んだ具材が少しばかり混ざっていた。
焼豚や卵に混ざる、細かくほぐされた干し貝柱。そして、米粒ほどの大きさに刻まれたザーサイ。
どちらも量は控えめで、見た目の印象を大きく変えるほどではない。
しかし、その使い方は実に巧みだった。
貝柱の旨味を土台にしながら、ザーサイで塩気と食感に変化を加える。しかも、全体の調和を崩さない程度に抑えているあたり、随分と考えられた組み合わせである。
「……なるほど」
誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。
しかし、すぐ近くにいた奏真の耳には届いていた。
「ん? 叔父さん、何がなるほどなの?」
「……いや」
城戸は加古の炒飯から視線を上げ、何でもないことのように答えた。
「炒飯大会だと聞いていたが、普通の炒飯でなくてもよかったのだなと思ってな」
「あー、そうだねー」
奏真はあっさりと頷いた。
「そういえば、叔父さんの得意な方の炒飯じゃないもんね、今日」
「……まあな」
ごく普通の会話だった。
少なくとも、当人達にとっては。
「…………」
「…………」
「……え?」
諏訪の動きが止まった。
「ちょっと待ってください、奏真さん」
「ん?」
「今、何て言いました?」
「え? 叔父さんの得意な方の炒飯じゃないって」
「…………」
諏訪は城戸を見た。
続いて、先ほどまで炒飯が盛られていた皿を見た。
そして、もう一度城戸を見た。
「……いやいやいや」
「何?」
「……あのクオリティの炒飯が、得意じゃない方なんすか!?」
「うん?」
奏真は不思議そうに首を傾げた。
「いや、普通の炒飯も凄く美味しいよ? でも、叔父さんにはもっと得意なのがあるし」
「……何で!?」
諏訪の叫びが食堂に響いた。
「何であれより上があるんすか!?」
その反応に、修まで慌てて顔を上げる。
「えっ、待ってください! まだ別の炒飯があるんですか!?」
「あるよー」
「……それを最初から作らなかったんですか!?」
「だって、普通の炒飯大会でしょ?」
「…………」
あまりにも当然のように返され、修は言葉を失った。
そんな二人の横で、忍田が小さく頷く。
「……ああ、確かにな」
「そういや、そうだったなあ」
林藤も思い出したように笑った。
「城戸さん、今日は普通の方だったもんな」
その一言に、周囲の視線が一斉に二人へ集まる。
「……忍田本部長?」
沢村が恐る恐る尋ねた。
「もしかして、お二人ともご存じなんですか?」
「……ああ」
「昔からな」
二人の返答はほとんど同時だった。
その様子を見ていた加古が、楽しそうに目を細める。
「……あら」
そして、城戸へ視線を向けた。
「城戸司令。私、てっきりお互いに一番得意な炒飯で勝負しているものだと思っていました」
「……そうだったのか」
「ええ。ですから、少し興味が湧いてしまいました」
加古はにっこりと笑った。
「よろしければ、そちらも食べてみたいです」
城戸は少し考え、食堂の時計を確認した。
まだ使用許可の時間内であり、食材にも余裕がある。食堂側の職員へ追加調理について確認すると、問題ないとの返事が返ってきた。
「……作った方が分かりやすいか」
「おお!」
奏真の顔が輝いた。
「マジで!? 叔父さん、黒炒飯作るの!?」
「……ああ」
「やったー!」
「…………」
再び静まり返る食堂。
「……黒炒飯?」
修が呟いた。
「……黒いんですか?」
「うん。黒いよ?」
奏真は当然のように答えた。
その隣で忍田と林藤だけが、どこか懐かしそうに笑っていた。
〇
城戸は再び持参した中華鍋を手に取った。
今度は材料の選び方から違っていた。米や卵、焼豚といった基本的な食材は同じだが、味付けに使うのは色の濃い中国醤油。それに少量のオイスターソースなどを用意し、先ほどとは違う組み立てで調理を始める。
熱した鍋に油が回り、卵と米が加えられる。
そこまでは普通の炒飯と大きく変わらなかった。
だが、調味料が鍋肌へ触れた瞬間、香りが変わった。
「……お?」
諏訪が思わず顔を上げる。
「……何だ、この匂い」
醤油の濃厚な香ばしさが、一気に食堂へ広がっていく。
鍋を振るたびに米へ色が移り、やがて全体が艶のある濃い褐色へ変わっていった。
しかし、色が濃くなったからといって、米がべたついているわけではない。むしろ一粒ずつ綺麗にほぐれ、鍋を振るたびに軽やかに跳ねている。
「……すごい」
修が思わず呟いた。
先ほどの正統派の炒飯とは、明らかに方向性が違う。
城戸は火加減を細かく調整しながら、最後に鍋を大きく振ると、迷いなく火を止めた。
「……できたぞ」
盛り付けられた炒飯を見て、一同が息を呑む。
黒い。
名前の通り、黒い。
正確には深い焦げ茶色だが、見慣れた炒飯とは明らかに異なる色合いだった。
ただし、その香りは凄まじい。
濃厚な醤油の香ばしさと焼豚の旨味が混ざり合い、見るだけで食欲を刺激してくる。
「……いただきます」
最初に口へ運んだ加古が、僅かに目を見開いた。
「…………!」
濃厚な醤油の旨味が、香ばしさとともに一気に広がった。
だが、見た目から想像するほど塩辛くはない。
米の甘みがしっかり残り、焼豚の旨味と葱の香りがその奥から次々と現れる。醤油の風味は強いのに、それだけで押し切る味ではなかった。
むしろ、複数の味が互いを引き立て合う、恐ろしく完成度の高い一皿だった。
「……これは」
加古はもう一口食べた。
そして、思わず笑みを深める。
「……凄いですね」
続いて諏訪も一口。
「…………」
もう一口。
「……は?」
諏訪の動きが止まった。
「……いや、ちょっと待ってください」
「どうしたんですか、諏訪さん?」
修が尋ねる。
「……めちゃくちゃ美味いんだけど!?」
「……え?」
「いや、何だこれ!? さっきのも相当美味かったっすよ!? でも、こっちはまた別格じゃねぇっすか!?」
その声に釣られるように、修も黒炒飯を口に運んだ。
「…………!」
思わず目を見開く。
先ほどの炒飯が、何度でも食べたくなる優しい美味しさだったとすれば、こちらは一口食べるたびに次の一口を要求されるような、強烈な旨味を持っている。
しかし、濃い味付けで誤魔化しているわけではない。
むしろ、味の強さと食べやすさが両立していること自体が不思議だった。
「……美味しい……!」
修が思わず呟くと、隣でレイジも静かに頷いた。
「……これは見事ですね」
東も一口食べ、感心したように息を吐く。
「……なるほど。奏真が言っていた意味が分かったよ」
「でしょー!」
奏真が嬉しそうに笑った。
自分も黒炒飯を口に運び、実に満足そうな顔になる。
「いやー、やっぱりこれだねー!」
「……奏真」
東が笑いながら尋ねる。
「お前はこっちの方が好きなのか?」
「うん! ノーマルもいいけど、俺はこっちの方が好きなんだよねー!」
奏真は迷いなく答えた。
「叔父さんの黒炒飯、昔から好きなんだよ」
その言葉に、加古が少しだけ目を細めた。
「……なるほどね」
もう一度、自分の前の皿を見る。
それから、城戸へ視線を向けた。
「……城戸司令」
「……何だ」
「どうして最初からこちらを作らなかったんですか?」
その質問には、周囲の全員が頷きたくなった。
ただでさえ美味しかった先ほどの炒飯より、さらに強い印象を残す黒炒飯。これほど得意な料理があるのなら、勝負の場で最初から作ってもよかったはずである。
しかし、城戸は何とも不思議そうな顔をした。
「……一般的に、炒飯といって黒炒飯を出す奴はいないだろう」
「…………」
沈黙。
確かに。
それは、あまりにも真っ当な理由だった。
「……いや、まあ……」
諏訪が言葉に詰まる。
「……そりゃそうっすけど」
「大会の趣旨を聞いて、普通の炒飯を作ったまでだ」
「…………」
加古は少し考えた後、楽しそうに笑い始めた。
「……なるほど。そういうことだったんですね」
「……ああ」
そこで、武富が勢いよく顔を上げた。
「……あっ! じゃあ、もう一つ聞いていいですか!?」
「……何だ」
「食堂では、どうして黒炒飯を出さなかったんですか!?」
せっかくこれほど美味しいものが作れるのだ。
あの《当たりの日》に、こちらの炒飯を出していれば、評判はさらに大きくなっていたかもしれない。
しかし、城戸の返答は実に簡潔だった。
「……炒飯と書いてある食券を購入して、黒炒飯が出てきたら、それはそれでおかしいだろう」
「…………」
再び沈黙が訪れた。
言われてみれば、その通りである。
食堂で普通の炒飯を頼んだのに、何の説明もなく黒い炒飯が出てきたら、誰だって少しは驚くだろう。
それがどれほど美味しかったとしても、注文したものと違う料理が出てくることには変わりない。
「……正論すぎる」
諏訪がぼそりと呟いた。
「いや、でも……」
修が困ったように口を開く。
「……本当に、それだけの理由だったんですか?」
「……他に何がある」
「…………」
修は黙った。
その横で国近がとうとう吹き出す。
「あははは! そりゃそうだよねー! 炒飯頼んで黒いの出てきたらびっくりするもん!」
「……でも!」
武富が食い下がる。
「こんなに美味しいなら、黒炒飯ってメニューを作ればいいじゃないですか!」
「……それは食堂の職員が決めることだ」
「…………」
またしても正論だった。
「……城戸司令、正しいことしか言わないっすね……」
諏訪が呆然と呟くと、東が堪えきれずに笑い始めた。
そんな中、林藤は楽しそうに黒炒飯を食べていた。
「いやー、久しぶりだなあ、この味」
「……そうだな」
忍田も頷く。
先ほど、城戸が普通の炒飯を作り始めた時に感じた小さな違和感。その理由は、やはりこれだった。
「……そういえば、今日は普通の炒飯大会だったな」
「だろ?」
林藤が笑った。
「城戸さんなら、そりゃ普通の炒飯作るよな」
「……ああ。今になって納得した」
その会話を聞いていた諏訪が、ゆっくりと二人を見た。
「……ちょっと待ってください」
「……何だ、諏訪」
「……忍田本部長と林藤さん、最初からこっちの存在知ってたんすか?」
「……ああ」
「昔からな」
「…………」
諏訪は頭を抱えた。
「……何で誰も教えてくれねぇんすか……」
「いやー、聞かれなかったしな」
林藤が悪びれずに笑う。
その横で奏真も大きく頷いた。
「そうそう。俺も今日、叔父さんが普通の炒飯作ってるの見て、あれって思ったんだけどさー」
「……はい」
「炒飯大会だし、そりゃノーマル作るよねーって納得しちゃった」
「…………」
諏訪は、ゆっくりと奏真を見た。
「……奏真さん」
「ん?」
「……あんた達、揃いも揃って何なんすか……」
「ええ!? 何で!?」
食堂に笑い声が広がった。
そんな騒ぎの中、加古はもう一度黒炒飯を味わってから、楽しそうに城戸へ声をかけた。
「……城戸司令」
「……何だ」
「次に勝負する時は、最初から自由な炒飯対決にしませんか?」
「……」
「私も、もっと色々試してみたくなりました」
城戸は僅かに眉を動かした。
加古は本気で楽しそうだった。引き分けという結果に不満があるわけではないだろう。だが、それ以上に、まだ知らない料理の技術に触れたことが嬉しいらしい。
「……そうだな」
城戸は静かに頷いた。
「機会があれば、考えておこう」
「……ありがとうございます」
「おお!」
奏真の顔が輝いた。
「第三回炒飯大会!?」
「……奏真」
「何、叔父さん!?」
「……私は、まだ出るとは言っていない」
「えー!?」
そんな二人のやり取りに再び笑い声が起こる中、奏真は皿に残った黒炒飯を嬉しそうに頬張った。
久しぶりに食べる、叔父の得意な炒飯。
やはり、この味は何度食べても飽きない。
そして、懐かしい味を口にしたことで、奏真の頭にはもう一つ、別の料理が浮かび始めていた。
〇
黒炒飯の追加試食も終わり、食堂の片づけが始まった頃。
奏真は満足そうに息を吐きながら、持参した中華鍋を丁寧に洗っている叔父の隣へやって来た。
「いやー、美味しかった!」
「……そうか」
「やっぱ叔父さんの黒炒飯はいいねー」
「……お前は本当によく食べるな」
「だって美味しいんだもん」
奏真は笑った。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「あー、そうだ」
「……何だ」
「叔父さんの料理食べてたら、他のも食べたくなってきたなー」
「……何をだ」
少し考えてから、奏真は懐かしそうに笑った。
「あー、叔父さんのラーメン食べたいなぁ」
「……ラーメン?」
「うん。豚骨醤油、また作ってよ」
その瞬間だった。
「……豚骨醤油だと?」
食堂の一角から、低い声が響いた。
忍田真史だった。
ほぼ同時に、隣にいた林藤匠も顔を上げていた。
「……おい、ちょっと待て」
林藤が口を開く。
「奏真」
「ん?」
「今、何て言った?」
「え? ラーメン?」
「……その後だ」
「豚骨醤油?」
「……城戸さんのか?」
「うん、そうだけど?」
「…………」
林藤の動きが止まった。
そして、ゆっくりと城戸へ視線を向ける。
「……城戸さん」
「……何だ」
「昔、夜食だって言って差し入れてくれた、あのラーメン……まさか……」
城戸は一瞬だけ考えた。
それから、何かを思い出したように頷く。
「……ああ、あれか」
「…………」
「私が作ったが、何か問題があったか?」
「…………」
林藤が固まった。
忍田も、ゆっくりと城戸を見る。
数秒間、妙な沈黙が続いた。
「……いやいやいや!!」
林藤が勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待ってくださいよ、城戸さん!!」
「……何だ」
「いや、あのクオリティのラーメンですよ!?」
「……?」
「俺、出前か何かだと思って、ずっと店探してたんですからね!?」
「…………」
城戸が僅かに眉を動かした。
「……大袈裟な」
「大袈裟じゃないですって!!」
林藤は即座に否定した。
「いや、あれですよ!? 昔、夜中に差し入れてくれた豚骨醤油! あの時、どこの店のラーメンか聞こうと思ったら、城戸さんそのまま仕事戻っちゃったじゃないですか!」
「……そうだったか?」
「そうだったか、じゃないですよ!」
林藤は頭を抱えた。
「俺、あれ食ってから結構探したんですよ!? 近場の豚骨醤油の店!」
「……」
「新しい店見つけるたびに食べに行って、でも何か違うなーって!」
その話を聞いていた忍田が、静かに頷いた。
「……いや、私も食べましたが」
「……忍田?」
「林藤と、しばらく豚骨醤油の店を探し回った時期がありました」
「…………」
城戸の表情が止まった。
忍田はいたって真面目だった。
「差し入れていただいた時、非常に美味しいラーメンだと思ったので、後日また食べたいと考えていました」
「……」
「林藤が店を探すと言い出した時、私も同行したんです」
「……そうだったなあ」
林藤が懐かしそうに頷く。
「何軒回ったっけ?」
「……正確には覚えていないが、かなりの数だったはずだ」
「だよなあ」
林藤は改めて城戸を見た。
「でも、まさか城戸さんの自作だったとは……」
「…………」
城戸は二人を見比べた。
どうやら、昔の夜食が想像以上に強い印象を残していたらしい。
「……そこまで探すほどのものでもないだろう」
「いや、城戸さん」
忍田が静かに首を振った。
「……あれについては、さすがに同意しかねます」
「…………」
城戸は黙った。
そのやり取りを聞いていた沢村が、恐る恐る口を開く。
「……あの、忍田本部長」
「何だ、沢村くん」
「……そんなに美味しいんですか?」
「…………」
忍田は、ゆっくりと沢村を見た。
「……美味しい?」
「……はい」
「……あれを不味いと言う人間がいたら、舌の病気にかかっていると疑うな」
「…………」
沢村が固まった。
「……そこまでですか?」
「……ああ」
忍田は真顔だった。
「私は今でも、あの味をはっきり覚えている」
その隣で林藤も大きく頷く。
「あの味、未だに忘れらんねぇくらいには美味いな」
「……そんなにですか?」
東が興味深そうに口を挟んだ。
林藤は振り返り、少し笑った。
「東、お前も食ったら分かると思うぞ」
「……それは気になりますね」
「だろ?」
東が頷く。
忍田と林藤。旧ボーダー時代から共に過ごしてきた二人が、揃ってここまで断言する。しかも、美味しさを忘れられず、わざわざ店を探して回ったというのだ。
それだけで、普通のラーメンではないことは十分伝わってきた。
「……いや、ちょっと待ってください」
今度は諏訪が口を開いた。
「……何だ、諏訪」
「忍田本部長と林藤さんが、ラーメン屋を探して回ってたんすか?」
「……そうだな」
「……しかも、そのラーメンが実は城戸司令の自作?」
「……ああ」
「…………」
諏訪はゆっくりと城戸を見た。
「……城戸司令、何者なんすか……」
「……ボーダーの司令官だが」
「いや、知ってますって!!」
あまりにも当然の返答に、諏訪が思わず突っ込んだ。
その横で奏真が楽しそうに笑っている。
「いやー、だから言ってるじゃん! 叔父さん、料理上手いんだって!」
「……奏真さん」
沢村が尋ねる。
「そのラーメン、奏真さんも食べたことがあるんですよね?」
「もちろん!」
「……そんなに美味しいんですか?」
「美味しいよー。店で出しても普通に通用すると思うし、俺も凄く好きなんだよね」
奏真はあっさりと答えた。
「ただ、叔父さんの豚骨醤油ってさ、何か思い出すと無性に食べたくなるんだよ」
「……なるほど」
「今日も炒飯食べてたら、急に思い出しちゃった」
そう言って笑ったところで、奏真はふと視線を動かした。
少し離れた場所で、迅悠一が妙に満足そうな顔をしている。
「……あ」
「ん?」
迅が顔を上げた。
「……迅。そういえば前にラーメンの話がどうとか言ってなかった?」
「言いましたねー」
「……これ?」
「さて、どうでしょう?」
「その顔はそうでしょ」
奏真が呆れたように言うと、迅は小さく笑った。
「いやー、またちょっと未来が良い方に動きましたよ」
「……お前なあ」
「何です?」
「未来視を食い意地に使ってない?」
「奏真さんにだけは言われたくないですね」
「即答!?」
そのやり取りに、東が小さく吹き出した。
以前、迅が愚痴をこぼした酒の席でも、似たようなことがあった。
城戸司令のラーメンを食べられる未来が見え、その話をするだけで、何故か周囲の人間の機嫌まで良くなっていく。
迅にとっては、珍しく気楽に眺められる未来だったのだろう。
奏真はそんな迅を見て、少しだけ笑った。
「……まあ、良かったじゃん」
「……ですね」
「たまには美味い飯の予定でも見とけよ」
「だから、それは贅沢な使い方なんですって」
迅は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
もっとも、その会話を聞いていた城戸にとっては、未来視云々よりも目の前の状況の方が問題だったらしい。
「……奏真」
「ん?」
「私はまだ、ラーメンを作るとは言っていないぞ」
「…………」
奏真が固まった。
迅もゆっくりと顔を上げる。
「……あ」
「……あ、じゃない」
城戸が小さく息を吐いた。
その横で林藤が口を開く。
「まあまあ、城戸さん。久しぶりに食べたいって人がこんなにいるんですし」
「……林藤」
「いや、本当に美味かったんですって」
忍田も頷いた。
「……可能であれば、私からもお願いしたいところです」
「……忍田まで」
城戸は二人を見比べた。
昔、夜食として差し入れただけのラーメンを、二人が店を探して回るほど気に入っていたという。
それ自体は悪い気がしない。
だが、炒飯大会へ参加したと思えば、今度はラーメン。
しかも、どういうわけか希望者が増え続けている。
「……叔父さん」
奏真が少しだけ期待した顔になる。
「……何だ」
「久しぶりに食べたいなー」
「…………」
城戸は甥を見た。
自分の料理の話になると、昔からこうだった。
美味いものを食べるのが好きで、それを誰かと分け合うのも好きだった。
特に自分の作った料理を食べる時は、幼い頃から随分と嬉しそうな顔をしていた。
「…………」
短い沈黙。
やがて、城戸は小さく息を吐いた。
「……時間が取れればな」
「……おお!」
奏真の顔が輝いた。
「やったー!」
「……ただし」
「……ん?」
「……大会にはせん」
「…………」
数秒の沈黙。
「……えー!?」
「当然だ」
城戸は即答した。
しかし、その横で忍田と林藤は顔を見合わせていた。
「……林藤」
「……ああ」
「……食べられるなら、大会である必要はないな」
「まったくだ」
二人は、実に真剣な表情で頷いた。
その姿を見ていた沢村は、少しだけ考えた。
「……忍田本部長」
「何だ、沢村くん」
「……もしかして、ラーメンのために予定を調整するおつもりですか?」
「…………」
忍田は少しだけ黙った。
「……必要ならばな」
「……そうですか」
沢村は、それ以上何も言わなかった。
何となく、この件に関しては余計なことを言わない方がいい気がしたのである。
その一方、加古は楽しそうに笑っていた。
「……城戸司令」
「……何だ」
「ラーメンも、楽しみにしていますね」
「…………」
城戸は目を閉じた。
どうやら、また一人増えたらしい。
しかも今度は、今日引き分けたばかりの相手である。
嫌な予感しかしなかった。
「……叔父さん」
その横で、奏真が嬉しそうに笑っている。
「……何だ」
「いやー、楽しみだねー!」
「……」
「黒炒飯も美味しかったし、今度はラーメンかー!」
「……奏真」
「ん?」
「……お前は、少し黙っていろ」
「ええー!?」
食堂に笑い声が広がった。
こうして第二回ボーダー炒飯大会は、加古望と城戸正宗の三対三という引き分けに終わった。
ただし、結果以上に大きな話題となったのは、本部食堂の《当たりの日》の正体が判明したこと。そして、城戸正宗には普通の炒飯よりも得意とする黒炒飯があり、さらに豚骨醤油ラーメンまで作れるという、何とも意外な事実だった。
なお、後日。
食堂の職員から、城戸へ一つの相談が持ち込まれたという。
「……城戸司令」
「……何だ」
「……黒炒飯、食堂の新メニューに出来ませんかね?」
「…………」
城戸は、しばらく黙った。
そして。
「……まず、私がいなければ成り立たないメニューは加えるべきではない」
至極もっともな返答だった。
ちなみに、その話を聞いた奏真が。
「……じゃあ叔父さんがいる時だけ黒炒飯の食券作る?」
と、実に気軽な調子で提案し。
「晩飯にお前の牛すじ煮込みを作るなら考えてやろう」
という返答を受けて。
「アレ時間かかるんだよなぁ」
と返答に渋ったのは、また別の話である。
TIPS
風間は防衛任務だったので今回は不在で食べられなかったので、奏真が差し入れでどっちも持っていたら
「城戸司令の炒飯、今度作る時は教えて下さい。出来立てで食べたいです」
と言っていたとの事。