No.1オペレーター城戸奏真の華麗なる緊急脱出<ベイルアウト> 作:羊毛ローブ
ボーダーという組織には、数多くの謎がある。
トリオンとは何なのか。
近界には、どれほどの国家が存在するのか。
そして、城戸奏真の頭の中では、一体どのような計算が行われているのか。
最後の一つについては、本人に聞いてもよく分からない。
城戸奏真。二十五歳。
かつてオペレーターNo.1と評され、現在は攻撃手として活動する男である。
その戦況予測能力は、今なお多くの隊員から高く評価されていた。
敵の配置、地形、戦闘員の癖、状況の推移。
そうした情報から先の展開を読み解く精度は、時にサイドエフェクトを疑われるほどだった。
もっとも、本人はいたって普通の顔で言う。
『いや、見れば大体分かるでしょ?』
分からない。
少なくとも、大体では分からない。
だからこそ、隊員達の間では時折、妙な憶測が飛び交うことがあった。
ただし。
今回に限っては、憶測ですらなかった。
発端からして、完全な嘘だったのである。
〇
「そういえば、諏訪さん」
「あ?」
ボーダー本部の休憩スペース。
諏訪洸太郎が缶コーヒーを飲んでいると、向かいに座っていた香取葉子が唐突に話しかけてきた。
「城戸さんと諏訪さんって、仲良いんでしょ?」
「奏真さんか? まあ、それなりにな」
「ふーん」
香取が頬杖をついた。
「あの人って、予測が凄いって評判じゃん。試合の解説とか聞いてても、よく分かるし」
「まあな。あの人の読みは、ちょっとおかしいからな」
「でさ」
「ああ?」
「あの人って、競馬したらどれくらい当たるか知ってる?」
諏訪の動きが止まった。
「……香取」
「何よ」
「お前なあ」
「だって気になるでしょ?」
「気にならねえよ」
「嘘。絶対気になるじゃん」
「人間の動き読むのと馬の予想は別だろ」
「でも、当てそうじゃない」
「……まあ、あの人なら何かしそうではあるけどよ」
「でしょ?」
香取は得意げに笑った。
諏訪はその顔を見た。
そして、ふと思った。
――こいつ、からかったら面白そうだな。
別に、大した意味はない。
少し驚かせて、勝手に深読みするところを眺め、最後には冗談だと明かす。
その程度の軽い悪戯心だった。
「……お前さ」
「何?」
「ボーダーの資金源、どこから来てるか知らねえの?」
「…………」
香取の動きが止まった。
「……は?」
諏訪は、わざと呆れたように首を振った。
「おいおい。組織に入ってんだから、それくらい知っとけよな」
「……え?」
「じゃあな」
立ち上がる。
缶コーヒーを捨てる。
そして、そのまま歩き去った。
質問には答えない。
否定もしない。
余計な説明もしない。
相手が勝手に考える余地だけを、たっぷり残していく。
「…………」
香取はしばらく動かなかった。
「……え? 何それ?」
隣にいた三浦雄太が、おそるおそる口を開いた。
「葉子ちゃん」
「何よ」
「今の、冗談じゃない?」
「分かってるわよ!」
即答だった。
しかし。
「……でも、あの人ならあり得なくない?」
「いや、ないと思うけど」
「だって、予測凄いんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら本人に聞けばいいじゃん!」
「……え?」
三浦が顔を上げた。
「本人に?」
「そうよ!」
「いや、ちょっと待って。そもそも諏訪さんが本当のこと言ってるかも――」
しかし、香取は既に歩き始めていた。
三浦は伸ばしかけた手を下ろした。
「……ああ、もう」
いつものことだった。
〇
「あ、いた!」
廊下の向こう。
城戸奏真が東春秋と話しながら歩いていた。
「……で、あの時の米屋なんだけどさ」
「ははっ。あいつらしいな」
「でしょ?」
楽しそうに話していた二人が、香取の声に振り返る。
「城戸さん!」
「ん? カトリッグ!」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど!」
「いいよー。何?」
香取は一歩近づいた。
そして、真剣な顔で尋ねた。
「城戸さんって、競馬やってるんですか?」
「……競馬?」
「はい!」
「俺が?」
「はい!」
奏真は目を瞬いた。
それから、隣の東を見た。
東も首を傾げている。
「何で?」
「諏訪さんが、意味深なこと言ってたんですよ!」
「スワルツネガーが?」
「はい! ボーダーの資金源くらい知っとけって!」
「…………」
奏真は少し考えた。
そして。
「あー……」
何かに気づいたように頷いた。
「なるほどねー」
東の眉が僅かに動いた。
奏真の口元が、ゆっくりと緩んでいたからだ。
――ああ。
東は理解した。
――諏訪、何かやったな。
そして。
――奏真も乗る気だな。
「カットリング」
「はい?」
奏真は少しだけ真面目な顔を作った。
「いやいや、競馬は無理だよ」
「……え?」
「競馬はさ、考えなきゃいけないこと多いでしょ? 馬の調子とか、騎手とか、馬場の状態とか」
「ああ、まあ……」
「俺、そこまで詳しくないもん」
香取は少しだけ肩を落とした。
「……なーんだ」
しかし。
奏真は、そこで続けた。
「競艇だよ」
「…………」
香取が固まった。
東が、ゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
「競艇」
奏真は実に自然な顔で頷いた。
「舟の方ね」
「……はあああ!?」
廊下に叫び声が響いた。
「ちょっと待ってください!」
「ん?」
「競艇!?」
「うん」
「何で!?」
「いやー、馬より舟の方が俺には向いてるかなーって」
「……そうなんですか?」
「天候とか水面とか、モーターの性能とか。そういう条件を考えるのは面白そうだよね」
もっともらしい。
非常にもっともらしい。
東は口元を手で覆った。
何故なら、奏真は一度も実際に競艇をしているとは言っていない。
単に、向いていそうだと話しているだけである。
しかも、今思いついたことだった。
「じゃあ!」
香取が身を乗り出した。
「結構当たるんですか!?」
「んー?」
奏真は首を傾げた。
「それはどうだろうねー」
「……え?」
「俺も気になるなー」
東はとうとう顔を背けた。
「……奏真」
「ん?」
「お前、ほどほどにしておけよ」
「え? 何が?」
奏真が不思議そうに首を傾げる。
東は答えなかった。
答えると笑ってしまいそうだったからである。
〇
「ちょっと!!」
数分後。
香取隊の作戦室。
「どうしたの、葉子ちゃん」
三浦が顔を上げた。
「競馬じゃなかった!」
「……え?」
「競艇だった!」
「……何が?」
「城戸さんよ!」
三浦はしばらく香取を見つめた。
「葉子ちゃん。もう少し順番に説明してもらっていい?」
「だから! 城戸さんは競馬じゃなくて競艇で、ボーダーの資金を稼いでる可能性があるってこと!」
三浦は静かに目を閉じた。
――駄目だ。
――順番に説明してもらったはずなのに、最初から意味が分からない。
その横で染井華が、手元の作業を止めずに口を開いた。
「葉子」
「何?」
「誰がそう言ったの?」
「城戸さん本人!」
華の手が止まった。
「……本人が?」
「そう!」
「競艇で資金を稼いでいるって?」
「……いや、そこまでは言ってなかったけど」
「じゃあ、何て言ったの?」
「競馬は無理だよ、競艇だよって」
華は数秒間、香取を見つめた。
「それ、本当に競艇をやってるって意味?」
「……え?」
「競馬より競艇の方が、自分には向いていそうだって意味じゃないの?」
香取は少し考えた。
「……いや、でも!」
「葉子」
「何?」
「城戸さん、笑ってなかった?」
「…………」
「面白そうな顔、してなかった?」
数秒後。
「あ」
香取が小さく声を漏らした。
華は深く息を吐いた。
「からかわれたんじゃない?」
「……でも!」
香取は勢いよく立ち上がった。
「まだ嘘って決まったわけじゃないでしょ!」
華は再び手元の作業へ戻った。
そして思った。
――今日中には終わらないな。
〇
その頃、諏訪洸太郎は非常に平和な午後を過ごしていた。
先ほど香取をからかったことなど、既に忘れかけている。
そこへ東春秋がやってきた。
「諏訪」
「あ、東さん。どうしたんすか?」
「お前、香取に何か言ったか?」
「……香取?」
「ああ。奏真のところに競馬について聞きに来たぞ」
諏訪は少し考えた。
「あー! あいつ、マジで聞きに行ったんすか?」
「ああ。それでな」
「はい?」
「奏真が、競艇だと言い出した」
諏訪が固まった。
「……は?」
「競馬じゃなくて競艇だそうだ」
数秒後。
「……ぶっ!」
諏訪が吹き出した。
「あっははは! いやいや、何やってんすか、あの人!」
「さあな。お前が始めたことだろ」
「いや、俺はちょっとからかっただけっすよ!」
「そうか」
「ボーダーの資金源知らないのかって言っただけで!」
東は数秒間黙った。
「……諏訪」
「はい?」
「それ、かなり紛らわしいな」
「……え?」
「奏真が乗ったことで、もっと面倒になりそうだぞ」
「いやいや、さすがにそこまで広がらないでしょ」
「そうか?」
「だって、競艇っすよ?」
「ああ」
「ボーダーの資金源が競艇って! そんなの誰が信じるんすか!」
東は静かに諏訪を見つめた。
そして。
「……そうだな」
小さく頷いた。
「そうだといいな」
〇
翌日。
噂は順調に成長していた。
最初は『城戸奏真は競馬をしたら当てそう』だった。
次に『城戸奏真は競馬より競艇の方が得意らしい』となった。
そして現在。
『城戸奏真は競艇で稼いでいる』
になっていた。
さらに、その話を聞いた国近柚宇が出水公平へ伝え、出水が太刀川慶へ伝えた時には、もう一段階変化していた。
「へえ。奏真さんって競艇やってるのか」
「らしいっすよ」
「強いの?」
「そこまでは知らないっすけど、予測は凄いですからね」
「じゃあ、今度聞いてみるか」
こうして、太刀川は何の疑問も持たずに奏真を探し始めた。
なお、本人は一度も舟券を買ったことがなかった。
〇
「奏真さん」
「んー?」
昼休み。
食堂で昼食を取っていた奏真へ、太刀川が声をかけた。
「競艇やってるんですか?」
奏真は箸を止めた。
「……そういうことになってるの?」
「え? 違うんですか?」
「いやー」
奏真は楽しそうに笑った。
「まあ、そういうことにしておこうかなー!」
「へえ! じゃあ今度教えてくださいよ!」
「何を?」
「競艇!」
「あはは! いやー、俺も詳しくないんだよねー!」
「……え? そうなんですか?」
「うん。だから今度、一緒に勉強しようか!」
「おお! いいですね!」
そのやり取りを、少し離れた席で風間蒼也が見ていた。
「……東さん」
「ん?」
「あれは何をしているんですか?」
「奏真が少し遊んでいる」
「……そうですか」
「諏訪が始めたらしいぞ」
「……諏訪が?」
「ああ」
風間は数秒間考えた。
「……なるほど。それなら納得です」
ただ、一つだけ気になることがあった。
「……東さん」
「何だ?」
「太刀川は、あの矛盾に気づいているんでしょうか」
「……さあな」
東は二人を見た。
奏真は、今度は競艇のルールについて太刀川に質問している。
太刀川も詳しくないらしく、二人で首を傾げていた。
「……気づいてないかもしれないな」
「でしょうね」
風間は小さく息を吐いた。
〇
そして。
この騒動が妙な方向へ進むことになったのは、その日の午後のことだった。
「……じゃあ城戸さん!」
「ん?」
休憩スペース。
香取が、再び奏真を捕まえていた。
今回は近くに諏訪もいる。
昨日の話を東から聞かされた諏訪は、何か面白いことが起きるだろうと踏んで、そのまま席に残っていた。
「競艇で勝つなら、どういう選手を選べばいいんですか?」
「……選手?」
「はい! 絶対に勝ちそうな選手とか!」
「いやー、俺、選手のことは全然知らないよ?」
「……ええ?」
「ただ、一つだけ分かることはあるね」
「えっ!?」
香取が身を乗り出した。
奏真は至って真面目な顔で頷いた。
「6号艇にさ、緑色の艇でVモンキー決める選手がいたら」
「……Vモンキー?」
「うん」
一拍。
「確実に2着は取れると思うよ」
「…………」
香取が固まった。
諏訪の動きも止まった。
そして。
「……ぶっ!」
諏訪が盛大に吹き出した。
「おい、奏真さん!」
「ん?」
「それ『モンキーターン』じゃねえっすか!」
「あはは! バレた?」
「バレますって! 何で急に波多野が出てくるんすか!」
「いや、6号艇でVモンキー決めたら結構期待できるでしょ?」
「そりゃ漫画ならそうっすけど!」
諏訪は笑いながら続けた。
「つーか、そこまでやって何で2着なんすか!」
「いやー、そこはほら」
奏真は悪びれもせず笑った。
「1着には艇王がいるかもしれないじゃん?」
「……あっははは! 榎木かよ!」
香取は二人を交互に見た。
「……ちょっと待ってください」
「ん?」
「……何の話?」
「漫画の話」
奏真が即答した。
香取の眉が跳ねた。
「……は?」
「競艇漫画にそういう技が出てくるんだよ」
「…………」
「面白いよ? 今度読んでみる?」
「城戸さん!!」
「あはは! ごめんごめん!」
「私、真面目に聞いてるんですけど!」
「いやー、俺も結構真面目に答えたつもりだったんだけどなー」
「どこがですか!」
諏訪は机に突っ伏して笑っていた。
「ははっ! 駄目だ、腹いてえ!」
そして奏真は、少しだけ考えた。
「ああ、でも競馬なら、もう一つ分かることがあるよ」
「……え?」
香取が顔を上げる。
「今度は本当ですか?」
「うん。実際にあった話」
「……本当に?」
「本当に」
奏真は頷いた。
「パドックで独特のステップを踏んでる馬がいたら、ちょっと注目した方がいいかもね」
「……ステップ?」
「そうそう。こう、軽やかにさ」
奏真は座ったまま肩を揺らし、妙に楽しそうな仕草をしてみせた。
「しかも、その馬が故障明けでも、1着取っちゃうことがあるんだよね」
「故障明けで!?」
「うん。約一年ぶりのレースで有馬記念を勝った馬がいるからね」
「……凄い!」
香取の目が輝いた。
しかし。
「……ぶっ!」
諏訪が再び吹き出した。
「奏真さん!」
「ん?」
「今度はトウカイテイオーっすか!」
「あはは! スワルツネガー、よく知ってるねー!」
「テイオーステップに故障明けの有馬記念って、まんまじゃないっすか!」
香取は二人を見た。
「……トウカイテイオー?」
「うん。実在した馬だよ」
奏真が頷く。
「何度も怪我をして、それでも戻ってきて勝ったんだよね」
「へえ……」
香取は感心したように頷いた。
だが、すぐに顔を上げた。
「……ちょっと待ってください」
「ん?」
「それ、もう終わったレースですよね?」
「うん」
「……結果知ってるんですよね?」
「うん」
「じゃあ予想じゃないじゃないですか!」
「いやー、でも確実でしょ?」
「後出しじゃないですか!!」
諏訪が腹を抱えて笑い始めた。
奏真も笑った。
香取だけが納得していなかった。
〇
「いやー、でもさ」
ひとしきり笑った後、奏真が口を開いた。
「俺、競馬って話だけ聞くとドラマみたいなことが多々起こるから、結構話は知ってるんだよね」
「……話?」
香取が首を傾げた。
「そうそう。競馬の細かいルールとか、今の選手……じゃない、騎手とか馬の調子とかは詳しくないけどさ」
「……はい」
「昔の名馬とか、印象的なレースの話は割と知ってるよ」
「へえ」
奏真は楽しそうに続けた。
「例えばさ、トウカイテイオーもそうだけど、何度も怪我をした馬が戻ってきて、しかも大きなレースを勝つとか、もう漫画みたいな話じゃん?」
「確かにそうですね」
「でしょ? ああいう話、好きなんだよ」
その言葉に、諏訪が頷いた。
「まあ、競馬ってそういうドラマは多いっすよね」
「うん。馬だけじゃなくて、騎手とか厩舎の人達にも色々あるしね」
奏真は缶ジュースを一口飲んだ。
「だから俺、馬券の予想には詳しくないけど、競馬の話を聞くのは結構好きなんだよね」
「……なるほど」
香取は少し考えた。
そして。
「じゃあ、他にも面白い馬の話ってあるんですか?」
「あるよー」
「例えば?」
「……ああ!」
奏真が嬉しそうに手を打った。
「白い奇跡とか!」
「……白い奇跡?」
「うん。小さな体で、誰もが驚くような走りをする白い馬の話」
「……へえ!」
香取の目が輝いた。
「何て馬なんですか?」
「ミドリマキバオー」
「…………」
香取が止まった。
「……みどり?」
「うん」
「……白いんですよね?」
「白いよ」
「……なのに、みどり?」
「うん」
香取は数秒間考えた。
「……何で?」
「牧場の名前が『みどり』だからね」
その横で諏訪が吹き出した。
「……ぶっ! 奏真さん!」
「ん?」
「マキバオーっすか!」
「あはは! 諏訪も知ってた?」
「そりゃ知ってますって!」
諏訪は笑いながら続けた。
「白い奇跡って言った時点で、ちょっと怪しいとは思いましたけど!」
「いやー、あれ面白いよね!」
「分かります! カスケードとか格好いいっすよね!」
「そうそう! あのライバルがいるからいいんだよ!」
奏真が嬉しそうに頷いた。
「あとチュウ兵衛親分ね」
「あー! 親分は外せないっすね!」
「でしょ? あの小さな馬とネズミの組み合わせがいいんだよなー」
「…………」
香取は二人を交互に見た。
「……ちょっと待ってください」
「ん?」
「……ネズミ?」
「うん」
「……何で競馬の話にネズミが出てくるんですか?」
「いや、マキバオーの親分だから」
「……馬の親分がネズミ!?」
「そうそう!」
奏真は笑った。
香取はさらに困惑した。
「……それ、本当に競走馬の話なんですか?」
「競馬漫画の話だよ」
「…………」
一拍。
「また漫画じゃないですか!!」
「あははは!」
奏真が笑い出した。
諏訪も腹を抱える。
「お前、さっきから全部本物だと思って聞いてたのかよ!」
「だって! トウカイテイオーの話から普通につなげるから!」
「いやー、でも香取」
奏真は笑いを収めた。
「漫画だからって、馬鹿にできないんだよ?」
「……え?」
「マキバオーってさ、最初から誰もが認める名馬だったわけじゃないんだよね。あの見た目だし」
「……はあ」
「でも走って、負けて、努力して、ライバルと競い合って。そういう積み重ねがあるから、最後の勝負が面白いんだよ」
奏真は少し楽しそうに笑った。
「実際の競馬もそうでしょ? レース結果だけ見ると数字だけど、その馬がそこまでどうやって来たのかを知ると、全然違って見えるんだよね」
香取は、今度こそ少し納得したようだった。
「……なるほど」
諏訪も頷く。
「まあ、確かにそうっすね」
「でしょ?」
奏真は嬉しそうに笑った。
「いやー、久しぶりに読み直したくなってきたな」
そして、何かを思い出したように続けた。
「特にさ、俺、マキバオーの最終巻が凄く好きなんだよね」
〇
「最終巻ですか?」
香取が尋ねた。
「うん。あれ、本当にいいんだよ」
「……マキバオーって、最後は勝つんですよね?」
「いや、勝てないんだよ」
「……え?」
香取が目を瞬いた。
「勝てないんですか?」
「そう。最後のジャパンチャンピオンシップでは3着」
奏真は、少し懐かしそうに笑った。
「1着がブリッツで、2着がエルサレム。マキバオーはその後ろなんだよ」
「……主人公なのに?」
「主人公なのに」
奏真は頷いた。
「でもさ、そこがいいんだよね」
「……どういうことですか?」
「ほら、さっきトウカイテイオーの話をしたでしょ?」
「一年くらい休んで、有馬記念を勝ったって馬ですよね?」
「そうそう。あれって、もう漫画みたいな話じゃん。何度も怪我して、長い休養から復帰して、それで勝っちゃうんだから」
「……はい」
「で、マキバオーも似たようなところがあるんだよ。大怪我をして、長い時間が経って、それでも戻ってくる」
奏真は、そこで少しだけ笑った。
「でも、勝てない」
「…………」
「トウカイテイオーみたいに、最後の最後で奇跡の1着を取るわけじゃないんだよね」
香取は黙って話を聞いていた。
「……でも、だったら何でそこが好きなんですか?」
「んー……」
奏真は少し考えた。
「勝てなかったからこそ、かな」
「……え?」
「いや、もちろん勝ってほしかったよ? ずっと読んできた主人公なんだからさ」
「……そうですよね」
「でも、勝てなくてもいいんだって思えたんだよね。あそこは」
奏真は腕を組んだ。
「もう昔みたいに走れないかもしれない。それでも、また走ることを選ぶ。世界最強の馬や、自分より強くなった馬が相手でも、挑戦する」
「…………」
「で、実際に負けるんだよ」
奏真は笑った。
「それでも、あの最後を見たら、負けたから意味がなかったなんて思えないんだよね」
香取は少しだけ考えた。
「……でも、勝負なんだから、勝った方がいいじゃないですか」
「そりゃそうだよ」
奏真はあっさり頷いた。
「勝てるなら勝った方がいい。俺だってランク戦で負けるのは嫌だし」
「……ですよね」
「でもさ、勝たなきゃ意味がないってことになると、負けた奴がそれまで積み重ねてきたものまで、全部なかったことになっちゃうでしょ?」
香取は何も言わなかった。
「俺は、それは違うと思うんだよね」
少しの沈黙があった。
その横で、諏訪が缶コーヒーを傾けた。
「……あー、分かる気がしますね」
「お、スワルツネガーも?」
「ええ。あれだけやって、最後に勝たせないってのも、なかなかっすよね」
「そうそう!」
奏真が嬉しそうに頷いた。
「しかも、ちゃんと次の世代が強いんだよ。ブリッツが勝つのも含めて、俺は好きなんだよね」
「……なるほど」
諏訪も頷いた。
すると、香取が何とも言えない顔をした。
「……城戸さん」
「ん?」
「……何か、珍しく真面目な話してますね」
「……え?」
「いや、さっきまでVモンキーとか言ってた人と同じとは思えなくて」
「カットリング!」
奏真が笑いながら突っ込んだ。
「俺だって真面目な話くらいするよ!?」
「いや、するのは知ってますけど!」
「じゃあ何で驚くの!?」
諏訪が吹き出した。
「ははっ! まあ、今日は最初から競馬の予想の話だったのに、気づいたら漫画の最終巻について語ってますからね」
「あー……確かに」
「認めるんすか!」
三人が笑った。
しかし、奏真はまだ話し足りないらしかった。
「いやー、でもさ。最終巻でもう一つ好きなところがあってね」
「まだあるんですか?」
香取が尋ねた。
「うん。最後のレースを見てる観客の反応なんだけど」
〇
「マキバオーって、復帰してから地方のレースを三回走ってるんだよね」
奏真は、少しだけ指を折って数えた。
「8着、11着、6着」
「……あー」
香取が顔をしかめた。
「それは、ちょっと厳しいですね」
「でしょ? しかも大怪我からの復帰で、昔みたいに走れるか分からない。最後のレースにはブリッツやエルサレムみたいな、とんでもなく強い馬がいる」
「……はい」
「だからさ、観客の中にも、復帰は嬉しいけど馬券までは買えない、って感じの人がいるんだよ」
「……ああ」
諏訪が頷いた。
「ゲーハーの連中っすね」
「そうそう!」
奏真の顔が明るくなる。
「あそこ、凄く好きなんだよね」
「……そこですか?」
香取が首を傾げた。
「うん。だって、ちゃんと競馬を見てる人達なんだよ」
「……どういうことですか?」
「好きな馬だからって、絶対に勝つと思ってるわけじゃない。戻ってきてくれたことは嬉しい。でも、勝てる馬を選ぶなら別の馬になる」
「……まあ、そうですよね」
「それって、別に薄情なわけじゃないでしょ?」
奏真は笑った。
「むしろ、それまでの成績をちゃんと見てるんだと思うよ」
諏訪も頷いた。
「応援してる馬と、馬券を買う馬が違うってのは、普通にありますからね」
「そうそう!」
奏真は嬉しそうだった。
「でも、そこからがいいんだよ」
「……そこから?」
「レースが始まって、マキバオーが走るわけだよ」
奏真は、少しだけ身を乗り出した。
「勝てないと思われてた馬が、全盛期を思い出させるような走りを見せる。しかも相手は、今の最強クラスの馬達だよ?」
「……はい」
「そしたらもう、馬券がどうとかじゃなくなるんだよね」
諏訪が笑った。
「……ああ。応援しちゃうんすね」
「そう!」
奏真は頷いた。
「最初は勝てると思ってないから馬券は買わない。でも、目の前であんな走りを見せられたら、応援せずにはいられない」
奏真は、少し照れくさそうに笑った。
「俺、ああいうのが凄く好きなんだよね」
香取は、しばらく考えていた。
「……でも、馬券買ってないんですよね?」
「うん」
「じゃあ、勝ってもお金にはならないじゃないですか」
「ならないねー」
「……なのに、そんなに応援するんですか?」
「そういうこと」
奏真は楽しそうに笑った。
「最初は勝てるかどうかで見てたのに、最後は勝ってほしいって気持ちで見てるんだよ。そこがいいんじゃん」
香取は黙った。
その横で諏訪が缶コーヒーを置いた。
「……まあ、ランク戦でも似たようなことはありますよね」
「ん?」
「最初は『こりゃ厳しいな』と思って見てた奴が、予想外に粘ったりすると、気づいたら応援してるっていう」
「あー、あるね!」
奏真が笑った。
「そういうの!」
「勝敗の予想と、どっちに勝ってほしいかは別っすからね」
「そうそう。諏訪、分かってるねー!」
「いや、そこまで言われるほどじゃないっすけど」
諏訪は少し照れくさそうに笑った。
そこで、背後から声がした。
「でも、それなら奏真さんがマキバオーの最終巻を好きなのも分かりますね」
振り返ると、迅悠一が立っていた。
「お、迅!」
「どうも」
「いつから聞いてたの?」
「ゲーハーの辺りからですね」
「あはは! 結構前じゃん!」
迅は笑って、空いている椅子へ座った。
「予想どおりの結果にならなくても、そこまでの過程が面白いってことでしょう?」
「そうだねー」
奏真は頷いた。
「まあ、俺だって最後は勝ってほしかったけどさ」
少しだけ笑う。
「勝てなかったから、あの結末が嫌いになるわけじゃないんだよね」
迅は静かに頷いた。
「……いいですね、そういうの」
「でしょ?」
奏真は笑った。
「だから、競馬って話を聞いてるだけでも面白いんだよ。単に勝った負けたの結果だけじゃなくてさ」
香取は少し考えた。
「……まあ、でも」
「ん?」
「話聞いてたら、私も最後はマキバオー応援すると思います」
「おお!」
奏真の顔が明るくなる。
「でしょ!?」
「はい。馬券は買わないと思いますけど」
「香取はそもそも買えない年齢だからね!」
「……あっ!」
香取が固まった。
諏訪が吹き出す。
「ぶっ! そもそもそこからかよ!」
「うるさい!」
香取が言い返した。
奏真は笑いながら続けた。
「まあでも、馬券を買わなくたって競馬は楽しめるってことだよ」
「……なるほど」
「だから俺、競馬は詳しくないけど、そういう話は結構好きなんだよね」
諏訪が頷いた。
「確かに、マキバオーって競馬漫画としても、普通に物語としても面白いっすからね」
「でしょ?」
奏真は嬉しそうに笑った。
「いやー、久しぶりに読み直したくなってきたな」
〇
「……でも城戸さん」
香取が、ふと顔を上げた。
「ん?」
「実際に競馬の予想するなら、やっぱり応援したい馬じゃなくて、勝ちそうな馬を買うんですよね?」
「そりゃ、当てるつもりならね」
「……へえ」
「好きな馬を応援するのと、勝つ馬を予想するのは別だからさ」
奏真は何気なく続けた。
「まあ、どこまで正確に予想できるかは、実際に調べてみないと分からないけど」
「…………」
諏訪が顔を上げた。
「……奏真さん」
「ん?」
「今、余計なこと言いませんでした?」
「え? 何が?」
奏真は不思議そうに首を傾げた。
迅が笑った。
「いやー、でも諏訪さん。今の話を聞く限り、奏真さんは賭ける時と応援する時で、ちゃんと分けて考えそうですね」
「……まあ、そうなんだろうけどよ」
諏訪は頭を掻いた。
「……だったら、なおさら本気で予想したらどうなるのか気になるじゃねえか」
その言葉に、奏真が嬉しそうに振り返った。
「お、スワルツネガーも気になる?」
「…………」
諏訪の動きが止まった。
「……あ」
一拍。
「……今のなしで」
「えー、何で?」
「……いや、何となく」
迅が笑い、香取が不満そうに声を上げる。
「何でですか! 私も知りたいですよ!」
「だから、お前らは!」
諏訪が頭を抱えた。
ただ漫画の話をしていただけのはずなのに。
何故か、また城戸奏真の予測能力を試す話に戻っている。
「……俺、マキバオーの話だけしてりゃよかった……」
その横で、奏真はまだ楽しそうに笑っていた。
〇
数日後。
騒動は、とうとうボーダー本部の上層部にまで到達した。
「城戸司令」
「何だ」
司令室。
沢村響子が、少し困ったような顔で資料を差し出した。
「一つ、確認していただきたいことが」
「何だ」
「最近、隊員の間で妙な話が広がっているようでして」
「妙な話?」
「はい」
沢村は少しだけ言葉を選んだ。
「城戸奏真隊員が、競艇でボーダーの資金を調達しているという噂が」
城戸正宗の動きが止まった。
「……何?」
「もちろん、噂にすぎませんが」
城戸は資料を受け取った。
そこには、隊員達の間で広がっている話がまとめられていた。
『城戸奏真は競艇の予測が得意』
『競馬より競艇の方が得意らしい』
『競艇で相当な額を稼いでいるらしい』
『ボーダーの資金の一部を提供しているらしい』
『最高司令官も当然知っているらしい』
城戸は、しばらく無言だった。
「……沢村」
「はい」
「私は知らん」
「……はい」
「そもそも、事実ではないだろう」
「そうですね」
「誰が言い始めた?」
「現在、確認中です」
城戸は静かに目を閉じた。
「奏真を呼べ」
「はい」
〇
「叔父さん、呼んだ?」
「奏真」
数分後。
司令室へ入ってきた奏真は、普段と変わらず楽しそうだった。
「何か用?」
「ああ」
城戸は机の上の資料を指さした。
「これは何だ」
奏真が資料を覗き込む。
そして。
「あー!」
嬉しそうに笑った。
「結構広まってるねー!」
「……奏真」
「ん?」
「説明しろ」
「いやー、最初はさ!」
奏真は笑いながら説明を始めた。
「香取が、競馬やってるのかって聞いてきたんだよ!」
「ああ」
「だから、競馬は無理だよ、競艇だよって!」
城戸が止まった。
「……何?」
「競艇!」
「……お前は、競艇をしているのか?」
「いや?」
奏真は即答した。
「やってないよ?」
「……では、何故そう言った?」
「面白そうだったから!」
城戸は静かに目を閉じた。
深く、長く。
「……奏真」
「ん?」
「……お前は、何歳になった?」
「二十五だけど?」
「……そうか」
城戸は頷いた。
「二十五か」
「…………」
奏真が首を傾げた。
「……何?」
「いや、何でもない」
その時だった。
「失礼します」
忍田真史が入ってきた。
「城戸さん。例の噂についてですが」
「ああ」
忍田は奏真を見た。
「奏真、競艇をやってるのか?」
「いや、やってないよ?」
「……そうか」
忍田は城戸へ顔を向けた。
「では、完全な誤情報ですね」
「ああ」
城戸が頷いた。
しかし。
「でもさ!」
奏真が口を開いた。
「これ、ちょっと面白くない?」
城戸が顔を上げた。
「……何がだ」
「たった一言の冗談が、ここまで大きな話になるんだよ!?」
奏真は資料を指さした。
「しかも、途中から俺が言ってないことまで増えてるし!」
忍田が資料へ目を落とした。
「……確かに」
少し考える。
「情報伝達の問題としては、興味深いですね」
「でしょー!?」
奏真の顔が輝いた。
「どこで話が変わったのか、追ってみたいなー!」
「……奏真」
城戸が静かに口を開いた。
「お前が、さらに広めたのだろう」
「…………」
奏真が止まった。
そして。
「あー!」
手を打った。
「そうだった!」
忍田が思わず顔を背けた。
城戸は額に手を当てた。
「……まず訂正しろ」
「はーい!」
「お前も当事者だ」
「分かってるって!」
奏真は笑った。
城戸はもう一度、静かに目を閉じた。
この甥は、戦闘の場ではあれほど慎重なのに。
時折、妙なところで子供のような悪戯を始める。
そして、ほぼ例外なく周囲を巻き込むのである。
〇
「スワルツネガー!!」
「はい!?」
その日の夕方。
ボーダー本部の休憩スペース。
諏訪洸太郎は、突然背後から名前を呼ばれた。
振り返る。
そこには城戸奏真。
その隣には迅悠一。
少し離れたところに東春秋が立っていた。
「……奏真さん?」
「いやー、スワルツネガー!」
奏真は満面の笑みだった。
「お前、面白いことしてくれたねー!」
「……え?」
「ボーダーの資金源!」
数秒後。
「あ」
諏訪が小さく声を漏らした。
「……いやー、すいません!」
苦笑しながら頭を掻く。
「香取をちょっとからかっただけなんすけど」
「あはは! いや、別に怒ってないよ!」
「そうなんすか?」
「うん! 俺も乗っちゃったし!」
「……え?」
「競馬は無理だよ、競艇だよって!」
諏訪が、ゆっくりと顔を上げた。
「奏真さん」
「ん?」
「それ、マジで言ったんすか?」
「うん!」
諏訪は数秒間黙った。
そして。
「……あっははは!!」
盛大に吹き出した。
「いやいやいや! 何やってんすか、あの人!」
「あはは! だって面白そうだったんだもん!」
「そりゃ広まりますって!」
「そうだよねー!」
二人は腹を抱えて笑い始めた。
その横で迅も笑っていた。
「いやー、俺もその場にいたかったですね」
「迅!」
奏真が顔を向ける。
「お前、未来視で何か分からなかったの?」
その質問に、迅は少し肩をすくめた。
「まあ、奏真さん達の未来は多少見えますけど」
「うん」
「俺、未来視をそういう儲け話に使う気はないんですよね」
「……儲け話?」
諏訪が首を傾げる。
迅は笑いながら続けた。
「競馬が当たるか、競艇で勝てるか。そういうことを知るために、わざわざ未来を追いかけるのはちょっと違うかなって」
「……あー」
奏真が頷いた。
「なるほどね」
「それに、俺が見てるのは人の未来ですからね。馬券の当たり番号が都合よく表示されるわけでもないですし」
「そりゃそうか」
諏訪も頷いた。
迅の未来視は、本人の意思で完全に停止できるものではない。
人を見れば、その先のことが見えてしまう場合もある。
しかし、それをどう利用するかは、また別の話だった。
「ただ」
迅が、にっこりと笑った。
「諏訪さんが困ってる未来なら、ちょっと見えましたね」
「…………」
諏訪が止まった。
「……おい」
「はい?」
「どういうことだ?」
「いやー」
迅は笑っている。
「諏訪さんが、『何でこうなったんだよ!』って叫んでる感じで」
諏訪は数秒間黙った。
そして。
「……それ、今じゃねえか!!」
叫んだ。
「……あはは!」
迅が笑う。
「そうとも言いますね」
「お前、分かってて見物しに来ただろ!」
「いやー、何のことでしょう?」
「すっとぼけんな!」
奏真が腹を抱えて笑い始めた。
「……あはは! 諏訪、お前!」
「奏真さんも笑ってる場合じゃないっすよ!」
「いやー、ごめんごめん!」
その横で東が、静かに口を開いた。
「諏訪」
「何すか、東さん!」
「最初に始めたのは、お前だろう」
諏訪が固まった。
「いや、それはそうなんすけど!」
「だから、自業自得だな」
東は笑った。
「……東さん!」
「何だ?」
「ちょっとは助けてくださいよ!」
「いや」
東は肩を震わせていた。
「面白いからな」
「おい!!」
休憩スペースに笑い声が響いた。
どうやら、ここに諏訪の味方はいないらしい。
〇
「ところで、奏真さん」
「んー?」
ひとしきり笑った後、諏訪が尋ねた。
「この噂、どうするんすか?」
「あー。ちゃんと訂正しないとねー」
「そうっすよね」
「うん。俺、競艇やってないし!」
諏訪は、静かに目を閉じた。
そして。
「最初からそう言ってくださいよ!!」
再び叫んだ。
奏真は笑いながら頷いた。
「いやー、悪かったって!」
迅も笑っていたが、その時、奏真がふと思いついたように口を開いた。
「……あ、そうだ」
「ん?」
「迅、お前さ」
「はい?」
「もし俺が本当に競艇やるって言い出しても、未来視では手伝ってくれないんだよね?」
「そうですねー」
迅はあっさり頷いた。
「別に、奏真さんがお金を使って遊ぶこと自体は止めませんけど」
「うん」
「勝てる未来を探してくれ、とかは勘弁してください」
「そっかー」
奏真は納得したように頷いた。
「まあ、それじゃ面白くないもんね」
「そういうことです」
迅は笑った。
「俺の未来視って、そういう使い方をするためのものじゃないと思ってるんで」
「……なるほどねー」
奏真も笑った。
「分かった。じゃあ、もし本当にやることになっても、そこは頼らないよ」
「はい。それなら、普通に応援します」
「応援はしてくれるんだ?」
「もちろん」
迅はにっこりと笑った。
「外れたら、一緒に笑えますし」
「……おい!」
諏訪が口を挟んだ。
「何で外す前提で話してんだよ!」
「……あれ?」
迅が首を傾げる。
「諏訪さんも、そういうの好きそうですけど」
「……まあ、嫌いじゃねえけどよ」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「いや、そういう話じゃねえ!」
奏真と迅が笑った。
諏訪は深く息を吐いた。
もう、何を言っても無駄な気がしてきた。
〇
翌日。
ボーダー本部の掲示板に、短い連絡が掲載された。
【隊員間で広まっている噂について】
城戸奏真が競馬、競艇、その他の公営競技によってボーダーの運営資金を調達しているという事実はありません。
ボーダーの運営資金と、城戸奏真個人の競技予測能力に関係はありません。
未確認の情報については、事実確認を行ってから共有するようお願いします。
以上。
掲示板の前。
香取葉子は、しばらく連絡を見つめていた。
「……何これ」
隣にいた三浦が、そっと口を開く。
「葉子ちゃん」
「何よ」
「やっぱり、冗談だったね」
香取は静かに目を閉じた。
「……諏訪さん……!」
低い声で呟く。
その瞬間。
「おー、香取!」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには、満面の笑みを浮かべた城戸奏真が立っていた。
「城戸さん!!」
「ん? 何?」
「競艇!!」
奏真が目を瞬いた。
そして。
「あー! ごめんごめん!」
「ごめんじゃないですよ!!」
「いやー、面白くてさ!」
「面白くないです!!」
奏真は少しだけ困ったように笑った。
「悪かったって!」
香取は腕を組んだ。
「……じゃあ」
少しだけ顔を上げる。
「本当に、競艇やってないんですね?」
「うん! やってないよ!」
香取は黙った。
そして。
「……じゃあ!」
身を乗り出した。
「やったら、どれくらい当たると思います?」
奏真が止まった。
数秒間、香取を見つめる。
そして。
「あー……」
少しだけ考えた。
「それは、ちょっと気になるねー」
「でしょ!?」
香取の顔が輝いた。
その瞬間。
「……おい」
背後から声がした。
諏訪洸太郎だった。
「香取」
「何よ」
「お前、何も反省してねえだろ」
「はあ!?」
香取が振り返る。
「そもそも諏訪さんが!」
「いや、だから!」
諏訪が頭を抱える。
「何でまたその話に戻るんだよ!!」
奏真は二人のやり取りを見ながら笑っていた。
「いやー、諏訪と香取って、仲いいねー!」
「「よくない!!」」
見事に声が重なった。
「あはは!」
奏真が笑う。
その瞬間。
廊下の向こうから迅がやってきた。
「……あれ?」
楽しそうに首を傾げる。
「何か面白いことしてます?」
「迅!」
奏真が顔を向ける。
「ちょうどいいところに!」
「はい?」
「今さ、競艇やったらどれくらい予測できるかなって話してたんだよ!」
迅は少しだけ奏真を見た。
そして。
「あー、なるほど」
笑った。
「今度は本当に調べるんですか?」
「んー、ちょっと気になるんだよね」
「……そうですね」
迅は少し考えた。
「じゃあ、実際のレース結果を伏せた過去の記録で予測してみます?」
「おお!」
奏真の顔が輝いた。
「それいいねー!」
「結果が分かってる過去のレースなら、予測の精度も確認できますし」
「そうそう!」
奏真は嬉しそうだった。
「しかも、お金かけなくていいし!」
「そうですね」
迅も笑った。
「それなら俺も手伝えますよ。データの整理くらいなら」
「おお、助かる!」
奏真が頷く。
「迅、入力お願いしていい?」
「はいはい」
現在の奏真は、機器操作を得意としていない。
かつてのオペレーターNo.1としての分析能力と、現在の機器操作能力は別問題である。
その点、迅が入力や資料整理を担当するなら、役割分担としては悪くない。
ただし。
「……奏真さん」
「ん?」
迅は、人差し指を一本立てた。
「念のため、もう一回言っておきますけど」
「うん?」
「俺の未来視で当たりを探すのは、なしですからね」
「分かってるって!」
奏真は笑った。
「それやったら、俺の予測が合ってるか分からないじゃん」
「そういうことです」
迅も笑った。
「じゃあ、過去のデータから試してみましょうか」
「やろうやろう!」
香取の顔が輝いた。
「あ! それなら私も結果知りたい!」
「いいよー!」
「やった!」
奏真と迅は、楽しそうに話し始めた。
その横で。
「…………」
諏訪は静かに目を閉じた。
「……おい、お前ら」
「んー?」
「はい?」
「……もういい加減にしろよ」
奏真が首を傾げた。
「え? 何で?」
「……いや」
諏訪は二人を見た。
そして、少し考えた。
過去のレース記録。
結果を伏せた予測。
未来視は使わない。
金も賭けない。
つまり、純粋に奏真の分析能力を試すだけである。
「…………」
諏訪は、さらに考えた。
……別に、問題はない。
問題はないはずだった。
「……いや、待てよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「……これなら別に、いいんじゃねえか?」
「そうでしょー?」
奏真が笑った。
「ただの予測の練習だよ!」
「……まあ、そうっすね」
諏訪は頷いた。
「……分かった。好きにしてください」
「おお!」
奏真の顔が輝く。
「ありがと、スワルツネガー!」
「……いや、別に許可したわけじゃ」
「じゃあ、今度結果見せるねー!」
「……ああ、はい」
奏真は迅と一緒に歩き出した。
香取も、その後をついていく。
諏訪は、その背中を見送った。
「……まあ」
小さく息を吐く。
「金かけねえなら、別にいいか」
その時だった。
「……諏訪」
背後から東春秋の声がした。
「あ、東さん」
諏訪が振り返る。
「何すか?」
「いや、さっきの話を聞いてな」
「……ああ」
「奏真、今度は本当に競艇を調べるのか」
「みたいっすね」
「……そうか」
東は少し考えた。
「面白そうだな」
「……そうっすね」
諏訪も頷いた。
だが、東は続けた。
「もし、過去の結果を伏せた予測が何度も当たったら、どうするんだろうな」
「…………」
諏訪が止まった。
「……え?」
「いや」
東は笑った。
「本人が興味を持ちそうだと思ってな」
諏訪は、ゆっくりと顔を上げた。
「……東さん」
「ん?」
「今、嫌なこと言いましたね?」
「……そうか?」
「はい」
諏訪は、遠ざかっていく奏真達の背中を見た。
奏真は、何やら迅に向かって楽しそうに話している。
香取も嬉しそうだ。
そして迅は、笑いながら頷いている。
「…………」
諏訪は静かに目を閉じた。
――ああ。
――これ、まだ終わってねえな。
〇
数日後、ボーダー本部では、新たな噂が広まっていた。
『城戸奏真が競艇の予測精度を検証し始めたらしい』
この噂は、事実だった。
ただし、実際には過去のレース記録を使って、予測と結果を比較しているだけである。
舟券を購入した事実はない。
運営資金を稼いだ事実もない。
迅も、未来視で結果を探すようなことはしていなかった。
あくまで奏真自身の分析能力を試すための検証だった。
ところが。
その噂を耳にした太刀川慶が、何気なく口を開いた。
「……へえ」
少しだけ考える。
「じゃあ、当たったらボーダーの資金増えるのか?」
隣にいた出水公平が固まった。
「……太刀川さん」
「ん?」
「その話、もう終わったんすよ」
「……え?」
太刀川が首を傾げる。
「何で?」
「……いや、そもそも!」
出水は頭を抱えた。
「金かけてないんすよ!」
「……そうなの?」
「そうっす!」
「じゃあ、当たっても金増えねえのか」
「……はい」
「……何だ」
太刀川は少しだけ残念そうな顔になった。
「もったいねえな」
出水は静かに目を閉じた。
「……もう勘弁してくださいよ……」
〇
その頃、諏訪洸太郎は東春秋から新しい噂を聞かされていた。
「……諏訪」
「はい?」
「奏真、過去のレースを使った予測を結構当ててるらしいぞ」
「…………」
諏訪は、しばらく黙った。
そして。
「……東さん」
「何だ?」
「俺、もう二度と香取に変なこと言わないっす」
「……そうか」
東は笑った。
「それがいいな」
諏訪は深く息を吐いた。
「……あの人まで乗ってくるとは思わなかった……!」
頭を抱える。
全ては、ほんの出来心だった。
ただ一つ、香取をからかおうとしただけだった。
それなのに。
まさか、城戸奏真本人が楽しそうに嘘を上塗りし、さらに迅悠一まで参加するとは。
しかも迅は、未来視を金儲けに使う気がないと言いながら、楽しそうにデータ整理まで手伝っている。
それ自体は立派な線引きだ。
何も間違っていない。
ただし。
城戸奏真という男は、未来視に頼らなくても、普通では考えられないほどの分析能力を持っている。
そして、一度興味を持つと、妙なところまで突き詰める。
「……東さん」
「ん?」
「一個だけ聞いていいっすか?」
「ああ」
「奏真さん、もし本気で競馬とか競艇を予測したら、どれくらい当たると思います?」
東は、少しだけ考えた。
「……さあな」
笑った。
「それは、俺にも分からない」
「……そうっすよね」
「ただ」
「……はい?」
「奏真が、一週間も本気で分析した結果なら、ちょっと見てみたいな」
諏訪が固まった。
「……東さん」
「何だ?」
「それ、本人の前で言わないでくださいよ」
「……何でだ?」
「絶対やるからっすよ!」
東は、とうとう笑い始めた。
「ははっ!」
諏訪は深く息を吐いた。
この瞬間、心の底から思った。
――あの二人、絶対に組ませちゃ駄目だ。
そして。
――香取には、もっと駄目だ。
〇
なお、その数日後。
香取葉子が、城戸奏真へこんなことを言った。
「……ねえ、城戸さん」
「んー?」
「そんなに予測が当たるならさ」
「うん?」
「一回、本当に買ってみてよ!」
奏真が止まった。
数秒間、香取を見つめる。
そして。
「あー……」
少しだけ考えた。
「それも、面白そうだねー」
「でしょ!?」
香取の顔が輝いた。
「本当にどれくらい当てられるか、気になるじゃないですか!」
「そうだねー」
奏真は楽しそうに頷いた。
「実際にお金をかけるとなると、また予測の仕方も変わりそうだし」
「……え?」
「だって、勝つ馬を当てるだけじゃ駄目でしょ?」
奏真は少し考えた。
「当たりそうでも、配当が低かったら買う意味がない場合もあるだろうし。逆に、当たる確率は低くても、配当との兼ね合いで買う価値があるものもあるかもしれない」
香取は、目を瞬いた。
「……へえ」
「そう考えると、ちょっと面白そうだね」
奏真は笑った。
「いやー、今までそういう見方はしたことなかったなー」
香取は、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、やってみましょうよ!」
「うん。まあ、ちょっと調べてみようかな」
この時。
遠く離れた場所にいた諏訪洸太郎は、何故か嫌な予感に襲われたという。
そして、その嫌な予感は。
後に、大規模侵攻の戦功褒賞と同額となって現実に現れることになる。
もっとも、この時点ではまだ誰も知らなかった。
城戸奏真が、本当に競馬と競艇を分析し始めることも。
その結果、諏訪洸太郎が二万円を出しただけで10倍以上になって帰ってくるのも、そして、最初は完全な嘘だったはずの『ボーダーの資金源』という噂が、思いもよらない形で現実になることも。
全ては、ほんの出来心だった。
ただ一つ、香取をからかおうとしただけだった。
それなのに。
まさか、こんなことになるとは。
諏訪洸太郎は、後に何度もそう呟くことになる。
そして、そのたびに。
城戸奏真と迅悠一は、楽しそうに笑っていたという。