No.1オペレーター城戸奏真の華麗なる緊急脱出<ベイルアウト> 作:羊毛ローブ
ある日ボーダー本部に一つの新しい訓練が追加された。
『後方要員緊急時対処訓練』
対象となるのは、普段から戦闘任務に就いている隊員ではない。
オペレーター、エンジニア、管制要員、開発部門、事務職員。その他、原則として戦闘を主任務としないボーダー職員全般。
開催は隔週。参加は強制ではない。
ただし告知の最後には、
『可能な限り、定期的な参加を推奨します』
と記されていた。
「緊急時対処訓練?」
本部の休憩室で、真木理佐が端末に表示された告知を読み上げると、隣で菓子の袋を開けていた国近柚宇が画面を覗き込んだ。
「また何か増えたの?」
「大規模侵攻を踏まえた訓練みたい」
「あー」
それだけで国近にも大体の事情は察せられた。
大規模侵攻では、本部基地そのものが敵の攻撃対象となった。それまでのように『後方にいる人間は安全』とは言い切れなくなったのだ。
「参加自由だって」
「自由?」
「強制参加ではありません。ただし可能な限り参加推奨」
「どっち?」
「暇なら来いってことでしょ」
「なるほど」
国近はあっさり納得した。
「主催は?」
「沢村さん」
「沢村さん?」
「ほら」
真木が画面を見せる。
企画責任者――沢村響子。
「まあ、沢村さんなら分かるか」
「元戦闘員だしねー」
内容にも特に不自然な点はない。
大規模侵攻を経験した以上、後方職員にも最低限の緊急時対応を学ばせる。
それだけの話に見えた。
○
第一回。
参加者は、決して多くなかった。
強制参加ではないのだから当然だろう。
「はい。それじゃあ始めるわよ」
訓練室の前に立った沢村響子が、集まった参加者を見渡した。
オペレーターからは真木、国近、氷見、今、宇井、小佐野、三上、加賀美。草壁早紀や月見蓮の姿もあり、その他にもエンジニアや管制要員、本部職員が何人か集まっている。
そして、その中には明らかに一人だけ役職の違う人間が混ざっていた。
「……鬼怒田本部長?」
「何じゃ」
国近が目を丸くする。
「参加するんですか?」
「ワシも後方要員じゃが?」
「いや、そうですけど」
「何か問題でもあるのか」
「ないです」
確かに何も間違っていない。
鬼怒田本部長が普段、敵地へ出て戦うことなどない。分類するなら立派な後方要員である。
「それに、本部まで敵に侵入された後で『偉いからワシは訓練せん』で済むか」
鬼怒田が鼻を鳴らすと、誰も反論出来なかった。
「ごもっともです」
「分かればよろしい」
鬼怒田が参加者の列へ戻ったところで、沢村が端末を操作する。
壁面に表示された文字は、たった二文字だった。
『生存』
「最初に言っておくけど、この訓練は敵を倒すためのものじゃないわ。戦闘員に勝つ必要もないし、戦闘能力を身につけることが目的でもない」
「じゃあ何するんです?」
宇井が尋ねる。
「逃げる」
「……逃げる?」
「そう。緊急事態が発生した時、自分で自分の生存率を少しでも上げる。そのための訓練よ」
訓練室には、本部内部を模した簡易区画が構築されていた。
通路、扉、机、非常口、曲がり角。
華々しい戦闘訓練とは程遠い。
「最初の課題は単純よ。敵役を一人配置するから、指定された退避地点まで逃げる」
「反撃は?」
草壁が尋ねた。
「必要ならしてもいい。でも倒す必要はない」
「倒した場合は?」
「加点しないわ」
「加点なし?」
「目的じゃないもの」
沢村は当然のように答えた。
「評価するのは安全圏まで離脱出来たか。出来なければ、救援到着まで何秒生存出来たか」
最初に走ることになったのは宇井だった。
開始の合図と同時に敵役が現れ、宇井は悲鳴を上げながら走り出す。
「きゃああああ!?」
「宇井ちゃん後ろ!」
「分かってる!」
「振り返らない!」
「分かってるって!」
まともに戦えば勝てない相手である。
だから戦わない。
一度目、宇井はほぼ一直線に逃げた。
『十八秒――確保』
「あっ」
敵役に肩を掴まれ、終了。
「十八秒ね」
沢村が記録する。
「救援到着想定、二十五秒」
「じゃあ……」
「七秒足りない」
「うわぁ……」
「もう一回」
二度目。
途中の扉を閉めた。
敵役がそれを開けるために一瞬だけ止まる。
『二十三秒――確保』
「惜しい!」
「あと二秒」
「もう一回!」
三度目。
宇井は扉を閉め、机を倒し、曲がり角を一つ増やした。
敵役との距離そのものは、それほど離れていない。それでも追いつかれるまでの時間は確実に伸びていく。
二十五秒。
その瞬間、別室で待機していた戦闘員が訓練区画へ突入した。
『救援到着――生存』
「……あ」
宇井が止まった。
記録は二十九秒。
一回目なら死んでいた。
二回目でも間に合わなかった。
三回目なら、生き残った。
「四秒しか違わないんですね」
「そうよ」
沢村が言った。
「でも、その四秒で助かった」
訓練室が少し静かになった。
逃げる。扉を閉める。机を倒す。角を一つ余計に曲がる。
たったそれだけの違いで、結果が変わった。
敵より速く走れないのなら、敵を遅くすればいい。
自分が逃げ切る必要すらない。
誰かが助けに来るまで、生きていればいい。
「次、国近さん」
「はーい」
国近が開始位置へ向かう途中、武富がふと思い出したように周囲を見渡した。
「そういえば、城戸隊長参加してないですね」
「あ」
「確かに。こういうの好きそうなのにね」
国近も初めて気付いたらしい。
「でも、城戸さん戦闘員ですよね?」
氷見が言った。
「あー」
「今はアタッカーですし、元々狙撃手でもありますから」
「そういえばそうだった」
武富が手を叩く。
「じゃあ対象外か」
「後方要員じゃないものね」
「それもそうか」
それだけで話は終わった。
誰も、それ以上気に留めなかった。
○
二週間後。
第二回になると、参加者は少し増えた。
『意外と役に立つ』
『思ったより面白い』
『鬼怒田本部長が本気で走っていた』
最後の情報が妙に広まったことも影響している。
「誰じゃ余計なことを広めたのは!」
「知りません!」
「絶対この中におるじゃろ!」
犯人探しはともかく、前回とは違う顔も増えていた。
「あれ? 唐沢さん?」
「こんにちは」
武富に声をかけられた唐沢克己が、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「唐沢さんも参加するんですか?」
「ええ」
「忙しいんじゃ?」
「忙しいですよ。でも今日は時間が取れましたから」
「毎回来るのは難しいですけど、予定が合えば参加しますよ。私も後方要員ですしね」
「偉い人なのに?」
「偉い人は敵に襲われないんですか?」
「襲われますね!」
「なら覚えておいて損はないでしょう」
「ごもっともです!」
参加者は固定されていない。
自主参加だから、来られる回に来る。
二回目からは、訓練内容も少し複雑になった。
「今日はトリオン体を使います」
沢村が告げる。
「使うトリガーは?」
草壁が聞いた。
「基本はシールド」
「攻撃用トリガーは?」
「無し」
「無し?」
「必要ないから」
一発だけ防ぐ。
その一瞬で射線から外れる。
遮蔽物へ入る。
そして逃げる。
「シールドを張り続けない! 防ぐためじゃない、逃げる時間を作るために使って!」
月見の前方から訓練弾が飛ぶ。
シールドが一発を受け止めた瞬間、月見は横へ走った。次弾は壁へ着弾し、その間に角を曲がって射線から外れる。
『生存』
「……なるほど」
月見が小さく呟く。
さらに今回は、全員に同じコースが用意されているわけではなかった。
普段勤務している場所。
体力。
トリオン量。
トリガー経験。
周囲にある設備。
それぞれによって課題が微妙に違う。
「鬼怒田さん、こっちです」
「何でワシだけ距離が短いんじゃ!」
「安全面を考慮した個別調整です」
「ワシを年寄り扱いするな!」
「走ります?」
「走る!」
結果。
「ぬおおおおおおお!」
鬼怒田は四十二メートルを全力で走り切った。
「……ぜぇ……ぜぇ……どうじゃ……!」
「速かったですよ」
「そうじゃろう!」
「でも次は走りません」
「何でじゃ!」
次の課題では、鬼怒田は十数メートル先の隔壁まで移動した。
隔壁を閉鎖。
現在位置を管制へ送信。
別の通路へ移動して防火扉を閉じ、施錠可能な区画へ入って救援を待つ。
『生存時間――四十七秒』
『救援到着――三十二秒』
「……ワシ、ほとんど走っとらんぞ」
「でも生存時間は?」
「四十七秒じゃ」
「救援到着は?」
「三十二秒……」
「じゃあ合格です」
「……」
鬼怒田は何とも言えない顔になった。
この訓練は体力を鍛えるためのものではない。
その人間が今持っている能力と、普段いる場所と、利用出来る設備。その全部を使って、生存する確率を上げるための訓練なのだ。
その横で、草壁は手元の資料へ視線を落としていた。
「……徹底してますね」
少し離れた場所では真木も資料を眺めている。
何かが引っ掛かる。
けれど、この時点ではまだ、それが何なのかまでは分からなかった。
○
さらに二週間後。
第三回では、生身での対処が中心となった。
「トリオン体の方が安全じゃないですか?」
「だからよ。本部にいる間、常にトリオン体で過ごしてる?」
「……過ごしてませんね」
「緊急事態が、都合よくトリオン体の時に起きてくれる保証もないでしょう」
掴まれた腕を抜く。
転倒時に頭を守る。
非常ベルを使う。
閉じ込められた場合の行動。
負傷時の移動。
止血。
意識確認。
救護班へ現在位置と負傷状態を伝える。
そして、負傷者を一人で無理に運ばない。
「置いていくんですか?」
武富が不安そうに尋ねた。
「場合によるわ」
「でも怪我してたら」
「助けようとして二人とも逃げ遅れたら?」
「……」
「一人で動かせるのか。救援は何秒で来るのか。敵はどこにいるのか。安全な場所まで何メートルあるのか。それを考える」
さらに短時間で状況を報告する訓練も行われた。
「敵が来ました!」
『場所は?』
「あ」
「はい失敗」
「厳しい!」
「戦闘員はどこへ行けばいいの?」
もう一度。
「本部東側C通路、敵一体、南へ移動! 職員三名、西側非常口へ退避中!」
「合格」
「やった!」
敵を倒せなくても、戦える人間が到着した時に使える情報を残すことは出来る。
訓練は、回を重ねるごとに少しずつ現実的になっていた。
だからこそ、真木はとうとう我慢出来なくなった。
「沢村さん」
「何?」
「一ついいですか?」
「どうぞ」
「この訓練、誰が作りました?」
空気が変わった。
「……私だけど?」
「本当に?」
真木は手元の資料を持ち上げる。
「隔週で、一回の拘束時間も短い。戦闘能力を伸ばすには足りないけど、通常業務を圧迫せず緊急時の動作を反復させるなら丁度いい」
一枚捲る。
「敵を倒しても評価されない。評価されるのは安全圏への離脱と、救援までの生存時間。それに個人ごとの調整が細か過ぎる」
体力、勤務区画、トリガー経験、利用可能設備。
オペレーターなら機器操作へ集中した際の傾向。
管制要員なら、退避より情報伝達を優先してしまう可能性。
鬼怒田なら、長距離を走らせるのではなく隔壁と防火扉を利用する。
「全員に同じ正解を覚えさせようとしてない」
月見が資料を受け取り、数ページ捲ったところで手を止めた。
『判断に迷った場合、最善手を探し続けない。生存可能性のある行動を一つ選び、即座に実行すること』
別のページには、
『想定外の行動を取った場合も、それによって生存可能性が上昇したなら減点しない』
「……この考え方」
「月見?」
「知ってる」
草壁も資料へ目を落とす。
「正解を一つにしてないんですね。逃げられればいい。時間を稼げればいい。助けを呼べればいい」
「状況ごとに何通りも想定して、その時点で使えない選択肢を捨ててる」
真木が続ける。
「それと、必要以上に指示してない」
月見が静かに言った。
「最初に原則だけ教えて、どう動くかは本人に選ばせる。失敗した時にだけ理由を説明する」
三人が黙った。
真木が月見を見る。
月見が草壁を見る。
草壁が真木を見る。
「……同じ人、思い浮かべてます?」
「多分ね」
「最悪」
「何で私を見るのよ」
「あなたじゃないわよ」
「何です? 何です?」
武富が三人を見比べていると、少し離れた場所から国近の声が上がった。
「あれ?」
「何?」
「この資料、今日来てない人のもあるよ」
国近が一枚を引き抜き、名前を見て止まった。
『対象者 城戸正宗』
「…………」
「城戸司令!?」
武富の声が響いた。
資料は冗談で作られたものではなかった。
『緊急時、単独での退避を最優先としない』
『指揮機能維持を優先。ただし本人の現場残留判断には制限を設ける』
『必要に応じて指揮権を移譲。代替指揮所への移動経路を確保』
『通信手段を最低二系統維持』
『護衛到着までの籠城地点候補――』
「……ガチじゃん」
国近が呟く。
「城戸司令を本気で生き残らせるつもりの資料だ」
そして、その中に一ヶ所だけ、他とは明らかに書き方の違う項目があった。
『本部最重要区画に重大な脅威が発生した場合』
『詳細情報不足につき、本資料では行動基準を設定しない』
『当該状況では事情を把握する上層部の判断を最優先とする』
「最重要区画?」
「そんなのあるの?」
「あるんでしょうね」
真木が答える。
「少なくとも、これを書いた人はそう認識してる」
「でも、ここだけ具体的な行動がない」
草壁が言った。
「分からないからでしょう」
月見が資料を指でなぞる。
「情報が足りない。だから勝手に仮定を置かず、知っている人間へ判断を渡してる」
その瞬間、三人の中ではほぼ答えが出た。
決定打になったのは、城戸司令がまだ一度も参加していないことだった。
調べてみれば、他にも未参加者用の個別資料が大量に存在している。
本人が来るかどうかも分からない段階で、勤務場所、体力、利用可能設備、行動傾向まで調べ、複数の生存経路が組まれていた。
「参加者用に、その都度作ってるんじゃない」
月見が資料を閉じる。
「最初から、かなりの人数を想定してる」
三人の視線が揃って沢村へ向いた。
「沢村さん」
真木が口を開く。
「城戸さん、この訓練にどこまで関わってます?」
沢村は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……やっぱり」
草壁が息を吐く。
「だから無理だって言ったのよ。隠し通すの」
沢村が額を押さえた時、鬼怒田の低い声が飛んだ。
「沢村。ここまで見抜かれたなら、もうよかろう」
「……鬼怒田さん?」
「知っとった」
「最初から!?」
「当たり前じゃ。本部で新しい訓練を始めるのに、ワシが何も知らんと思っとったのか」
「じゃあ唐沢さんも?」
「知っとる。必要な人間には話が通っとる」
沢村は諦めたように息を吐いた。
「……城戸君よ」
数秒の沈黙の後。
「城戸隊長!?」
武富の声が訓練室に響いた。
「企画を持ってきたのも城戸君。基礎案を作ったのも城戸君。個人ごとの想定を作ってるのも城戸君。訓練結果を見て改善案を出してるのも城戸君」
「沢村さんは?」
「正式な主催と実施責任者は私。安全面の監修も、実施内容の最終判断も私よ」
「何で城戸隊長の名前を隠してたんです?」
「それも本人の希望じゃ」
鬼怒田が答えた。
「ワシらも理由を聞いとったから、今まで黙っとった」
○
数か月前。
「嫌よ」
「そこを何とか」
「嫌」
「沢村さん」
「嫌」
「まだ内容説明してないんですけど」
「自分の名前を出さずに、私を主催者にして訓練をやりたいってところまで聞いた」
「ほぼ全部じゃないですか」
「だから嫌なの」
沢村は奏真が持ってきた資料を机へ戻した。
「必要な訓練だと思うなら、自分でやりなさい」
「それだと駄目なんですよ」
「何で?」
「俺が主体ってバレたら、来なくなる人がいるかもしれないから」
沢村が黙った。
奏真はいつものように笑っていたが、資料へ視線を落としてから続けた声だけは少し違った。
「俺が理由で、この訓練に来なくなるのは絶対に嫌だ」
「……」
「俺のこと嫌いでも、怖くても、苦手でも、それは別にいいんですよ。俺に近寄りたくないなら、それもしょうがない。でも、俺が作った訓練だからって理由で受けない人が出るのは嫌です」
「そこまで必要?」
「必要です」
返事は即答だった。
「後方にいるから安全だって、もう言えなくなったから」
大規模侵攻では、本部基地まで攻撃された。
戦闘員ではない。
前線にも出ない。
それでも安全ではなかった。
「俺、別にこの人達に強くなってほしいわけじゃないんですよ。敵に勝たなくていい。近界民を倒せなくていい。そんなのは戦闘員がやればいい」
「じゃあ何のための訓練なの?」
「逃げるため」
また即答だった。
「十秒逃げられれば、その十秒で誰かが来るかもしれない。シールド一枚張れれば、一発耐えられるかもしれない。隔壁一枚閉められれば、敵を何秒か止められるかもしれない」
奏真は資料に並ぶ名前を見た。
「特にオペレーターなんて、戦うためにボーダーへ入ったわけじゃない子も多いでしょう? だから『戦えるようになれ』とは言いたくない」
一度、言葉を切る。
「戦わなくていい。勝てなくていいんです」
いつもの笑みが消えた。
「でも、死んでほしくないから」
沢村は何も言わなかった。
「だからお願いします。沢村さんが主催してください。俺の名前は出さないでほしい」
「城戸君。そういう頼み方、ずるいわよ」
「よく言われます」
「褒めてない」
「知ってます」
沢村はしばらく奏真を睨んでいたが、やがて大きく息を吐いた。
「内容は全部、私も確認する。危険だと思ったものは却下。実施責任者も私。訓練中、あなたが勝手に出てきて指示しない」
「ログ見て改善案出すくらいは?」
「……それくらいなら」
「ありがとうございます!」
「まだ承諾したとは――」
「沢村さん優しいなあ!」
「城戸君」
「はい」
「殴るわよ」
「じゃあ今のうちに逃走訓練を」
「今すぐ実地訓練させてあげましょうか?」
「すみませんでした」
○
「――ということ」
沢村が話し終えると、誰もすぐには喋らなかった。
「……ずる」
最初に言ったのは国近だった。
「そんな理由聞いたら、来ないって言いづらいじゃん」
「だから本人は言うなって言ったのよ」
真木は手元の資料へ視線を落とす。
「……馬鹿じゃないの」
「真木?」
「何でもない」
草壁は資料を閉じた。
「私は継続します。本部が実際に攻撃された以上、必要でしょう」
「私も来る」
真木も続く。
「城戸隊長のこと好きじゃないですよね?」
武富が聞く。
「好きじゃないわよ。でも、城戸さん本人への評価と、この訓練が必要かどうかは別でしょう」
月見にも武富の視線が向いた。
「月見さんは?」
「来るわよ」
「即答!」
「本人がいるわけじゃないんでしょう?」
「はい」
「なら関係ないわ」
予定が合えば。
出られる時は。
隔週なら。
そんな声が次々に上がった。
「ワシも出るぞ」
「鬼怒田さんも!?」
「だから何でワシだけ毎回驚かれるんじゃ!」
そこで武富は、城戸司令の資料を思い出した。
「そういえば、城戸司令本人は?」
「誘ってはいるわよ」
沢村が答える。
「何て?」
「『時間が取れれば参加する』」
「来る気あるんだ……」
「何を驚いとる。アイツも後方要員じゃろうが」
鬼怒田が呆れたように言う。
月見は城戸司令用の資料へもう一度目を落とした。
「……叔父まで例外にしてないのね」
○
そこから三回。
二週間おきの訓練は続いた。
第四回では、本部内の複数の退避経路を使い、普段の勤務場所から安全区画まで移動する訓練。
第五回では、逃走経路の一部が使用不能になった想定で、最短経路を捨てて別ルートへ切り替える訓練。
第六回では、負傷者、通信障害、隔壁の一部故障を同時に発生させた複合訓練。
開始から三か月。
参加者の多くは、訓練室の中ならかなり迷わず動けるようになっていた。
そこで奏真は、次の段階を持ち込んだ。
○
「通常業務中の訓練警報?」
城戸正宗が書類から目を上げた。
「はい」
向かいに立つ奏真が頷く。
「訓練室で出来るようになったのは分かりました。でも、実際に敵が訓練室へ都合よく侵入してくれるわけじゃないんで」
「それで、通常業務中に予告なしで警報を出す、と」
「参加者には実施日時を知らせません。本物と混同しないよう『訓練警報』とは明示します。実施時間は管制と沢村さん、それから関係部署と事前調整します」
城戸は資料を一枚捲った。
そこで眉が僅かに動く。
「ラービット?」
「訓練用です」
「……」
「実戦個体をそのまま放つわけないでしょう」
「当たり前だ」
「大規模侵攻時のデータを使って、訓練室で再現します。攻撃性能は安全基準まで落とす。捕獲動作も接触判定だけ。壁とか設備も訓練用の仮想判定です」
「何故ラービットだ」
「人間相手だけで慣れると困るからです」
奏真は資料の一ヶ所を指した。
「人間なら扉一枚閉めれば数秒稼げる。でも、相手がラービットなら同じ扉が何秒持つか分からない。走る速度も、腕の長さも、障害物の壊し方も違う」
「つまり」
「『前回これで助かった』を正解にしたくないんです」
奏真は笑う。
「相手が変わったら、逃げ方も変える。その練習です」
城戸はしばらく資料を読み、最後に署名を入れた。
「許可する。ただし実施の最終判断は沢村と管制に従え。本部業務への影響を最小限に抑えろ」
「了解です」
「それと」
「はい?」
「訓練だからといって好き勝手するな」
「俺の信用低くない?」
「日頃の行いだ」
「叔父さん酷くない?」
「司令と呼べ」
○
数日後。
本部はいつも通り動いていた。
オペレーターは端末へ向かい、エンジニアは整備を行い、管制要員は各区画から送られてくる情報を処理している。
国近は休憩室で菓子の袋を開けた。
鬼怒田は自室で資料を読んでいた。
月見はオペレーター室にいる。
何の前触れもなく、警報が鳴った。
『訓練警報。訓練警報。本部東側区画に侵入者を確認。後方要員は緊急時対処手順へ移行してください』
国近の手が止まる。
「来た!」
何度も訓練した。
だから菓子を置いて、すぐ立ち上がる。
その直後。
『侵入個体情報を更新』
近くのモニターに敵影が表示された。
白い巨体。
特徴的な頭部。
太い腕。
「…………」
国近が固まった。
『想定敵性個体――ラービット』
「これガチじゃん!」
休憩室に絶叫が響いた。
「訓練用! 訓練用だから!」
近くにいた職員が叫ぶ。
「見た目がガチなんだって!」
もちろん、本物のラービットを基地内へ放したわけではない。
大規模侵攻で得られたデータを基に、訓練用に再現された個体である。
攻撃性能は安全基準まで制限され、捕獲も接触判定で終了する。破壊される扉や壁も訓練システム上の処理に過ぎない。
だが。
追われる側からすれば、そんな説明はほとんど慰めにならなかった。
速い。
大きい。
何より、人間相手の訓練で覚えた感覚がそのまま通用しない。
「扉閉めて!」
「閉めた!」
防火扉が閉じる。
これまでなら、ここで数秒。
しかし。
『障害物破壊判定』
「早っ!?」
「三秒もない!」
「次行くよ!」
国近達が走る。
ここで初めて、今まで教えられてきたことの意味が変わった。
扉を閉めれば助かる。
そうではない。
扉を閉めれば、時間が稼げることがある。
角を曲がれば安全。
そうではない。
相手の視界や移動能力次第では、意味がないこともある。
訓練で教えられていたのは、正解そのものではなかった。
生き残るために、その場で使えるものを選ぶことだった。
「西側駄目!」
「じゃあ北!」
「そっち近道だけど広い!」
「ラービット相手に直線走りたくない!」
「じゃあ整備区画経由!」
国近達が方向を変える。
一方、オペレーター室では月見が警報と同時に人数を確認していた。
「室内五名。東側経路使用不能。西側第二通路から退避します」
『了解』
「敵性個体の位置は?」
『東側C通路。北西へ移動中』
「こっちへ来る可能性は?」
『あり』
「なら西側第二も捨てる。南側階段へ」
決断は早かった。
最短経路ではない。
だが、ラービットとの接触可能性は下がる。
別区画では鬼怒田が訓練用個体の位置を聞くなり、走るのではなく周囲を見た。
「第三隔壁を閉じろ!」
『ラービット想定では保持時間四秒です!』
「四秒あれば十分じゃ! 閉じろ!」
隔壁が落ちる。
四秒。
次の防火扉。
二秒。
角を曲がる。
位置を報告する。
それだけで十秒近くが積み上がる。
最初の訓練なら、ただの数字だった十秒。
今は違う。
『救援役、東側区画へ進入』
戦闘員役が動き出している。
後方要員が敵を倒す必要はない。
そこまで生きていればいい。
『東側C通路、ラービット一体、北西へ移動!』
『開発区画四名、南側階段へ退避中!』
『管制二名、第三退避区画へ移動!』
『負傷者役一名、自力歩行可能!』
報告も変わっていた。
第一回のような「敵が来ました」ではない。
戦闘員が使える情報になっている。
ラービットが次の角を曲がる。
その先には、誰もいない。
さらに追跡。
隔壁。
破壊。
だが、その数秒で後方要員は次の角を曲がる。
そして警報開始から三十七秒。
『救援役、敵性個体と接触』
戦闘員役がラービットを捕捉した。
『後方要員への追跡終了』
数秒後。
『訓練終了』
本部内にアナウンスが響く。
「…………」
休憩室からかなり離れた退避区画で、国近が壁に背を預けた。
「訓練だよね?」
「訓練だよ」
「ラービットいたよ?」
「訓練用ね」
「これガチじゃん……」
二回目は、随分と小さな声だった。
○
その日の訓練では、これまでとは比較にならないほど多くの改善点が見つかった。
人間役相手なら有効だった扉を過信した者。
普段使っている通路だからこそ、想定外の近道を選べた者。
訓練室では迷わなかったのに、自分の仕事場では私物を持って逃げようとして三秒遅れた者。
逆に、ラービットを見た瞬間に最短経路を捨て、狭い通路へ誘導して時間を稼いだ者。
正解が変わった。
いや。
最初から、決まった正解などなかったのだ。
○
「増えましたね」
後日。
本部の一室で、奏真は大量の訓練記録を前に嬉しそうに言った。
「何が?」
「改善点」
「嬉しそうに言わないで」
「だって訓練室だけじゃ分からなかったこと、いっぱい出てきたじゃないですか」
沢村は呆れながら、奏真が記録へ目を通していくのを眺める。
「この人、普段の席だと私物持って逃げようとするんだ。三秒遅れてるから初動項目に追加」
次。
「こっちは予定ルートじゃないけど十一秒短縮。いいですね。正式ルート候補にしましょう」
「あなたの想定から外れてるわよ?」
「生き残ってるならそっちの方が正解です」
「自分の案に拘らないのね」
「何で拘るんです?」
本気で分からないらしい。
「俺が正しいことと、この人達が生き残ること、何か関係あります?」
「……ないわね」
「でしょう?」
奏真は次の資料へ手を伸ばした。
「そういえば」
「はい?」
「司令の資料、見つかったわよ」
「叔父さんの?」
「ええ。最重要区画の項目も」
「あー」
奏真は城戸司令用の資料を開いた。
『本部最重要区画に重大な脅威が発生した場合』
『詳細情報不足につき、本資料では行動基準を設定しない』
『当該状況では事情を把握する上層部の判断を最優先とする』
「ここは俺じゃどうしようもないですよ。絶対に守らなきゃいけない何かがある。それしか知らないんだから」
「あなたなら予測くらいしそうだけど」
「しませんよ。情報がないんだから」
奏真は当然のように答えた。
「何があるのかも、どう守るのかも知らない。そんな状態で俺が勝手に答え作った方が危ないでしょう」
「そういうところよ」
「何がです?」
「バレた理由」
「えっ、そこ!?」
「月見さんなんて、その項目見てほぼ確信してたわよ」
「マジかぁ……」
奏真が頭を抱える。
「じゃあ次からちょっと雑に作るか……」
「本末転倒だからやめなさい」
「ですよね」
沢村はそこで別の資料を差し出した。
「司令本人、時間が取れれば参加するって」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ叔父さんのやつ、もう一回調整しとこ。今の案ちょっと意地悪なんですよ」
「誰が作ったのよ」
「俺」
「でしょうね」
「鬼怒田さんは?」
「次も来るって。それと走行距離伸ばせって」
「何で!?」
「本人の希望」
「四十二メートルでも最後かなりキツそうだったんですよね」
「ログ見たの?」
「見ました」
「何て?」
「『ぬおおおおおおお!』って」
「そこじゃない」
「じゃあ四十五」
「三メートルしか増えてないわよ」
「安全第一です」
「本人に怒られるわよ」
「怒られるのと倒れられるの、どっちが嫌だと思ってるんですか」
「……そうね」
「でしょう?」
奏真は何でもないことのように答え、また次の資料へ手を伸ばした。
○
その後も『後方要員緊急時対処訓練』は隔週で続いた。
毎回来る者もいれば、仕事の都合がついた時だけ顔を出す者もいる。
内容も固定されなかった。
人間型の敵から逃げる。
トリオン体で一発だけ防ぐ。
生身で負傷者へ対処する。
通路を封鎖される。
通信が切れる。
ラービットに追われる。
想定外の事態が起こるたびに記録を取り、使えなかった方法を捨て、使えた方法を残す。
時折、城戸司令の許可と関係部署への事前調整のもと、通常業務中に訓練警報も鳴った。
参加者には実施日時を知らせない。
訓練室で出来たことが、自分の仕事場でも出来るのか。
知識が咄嗟の行動に変わっているのか。
確かめるためだった。
そして、その記録は毎回沢村のところへ集まり、そこからさらに別の場所へ送られていく。
奏真自身が訓練場へ姿を現すことは、ほとんどない。
参加者の記録を読み、改善案を作り、まだ参加していない人間の想定まで組む。それが終われば、また別の仕事へ向かう。
途中で新人に捕まれば相談に乗り、オペレーターから質問が来れば答え、戦闘員から意見を求められれば一緒に考える。
気が付けば、また別の場所にいる。
そして本人は、
「俺、結構暇ですよ?」
などと言う。
誰が信じるのだろう。
ボーダーのメタルキングは、なかなかエンカウントしない。
その理由は案外単純だった。
色々な場所に顔を出しているからではない。
色々な場所に、顔を出さずに関わっているからである。
大規模侵攻の後。
ボーダーには一つ、訓練が増えた。
『後方要員緊急時対処訓練』
隔週開催。
参加自由。
ただし、出来れば参加してほしい。
敵に勝つための訓練ではない。
戦闘員になるための訓練でもない。
逃げる。
隠れる。
時間を稼ぐ。
必要な情報を伝える。
そして、誰かが来るまで生き残る。
扉一枚で稼いだ三秒でもいい。
曲がり角一つで増えた五秒でもいい。
その数秒の先に戦闘員が間に合うのなら。
それで十分だった。