「……眠っていましたか」
リビングの机の上で目を覚ます。息が詰まるような閉塞感に苛まれながらも、何とか体を起こす
外は生憎の雨、もう何日もこのままだ。電気のついていないこの家は、酷く暗い
「……早く、行かなくては」
椅子から立ち上がり、電気をつけながら隣の部屋の扉を開く
「っ………」
赤い双眸が、私を射抜いた。怯む事なく部屋の電気をつけると、そこには───
「…………とき?」
「……はい、トキです」
ベッドを背に座り込むイフの姿があった。髪も服もずぶ濡れのまま、ただ呆然と虚空を眺めている
「風邪を引きますよ。着替えて、シャワーを浴びましょう。一人でできますか?」
「……うん」
目の周りが赤く腫れている。涙はもう枯れてしまったのだろう。彼は、ただ無表情に私を見つめている
「立てます──か?」
そう言って近づいた瞬間、彼は私にしがみついた。倒れそうになる体を、どうにか支えて話を続ける
「どこか痛みますか?」
問いかけても、小さく首を振るだけ。こういう時は抱き締めてあげるのが一番いい
「……大丈夫ですよ」
背中をさすりながら、優しく声をかける。すると、少しずつ力が抜けていくのを感じた
「………」
彼の部屋でシャワーの音を聞きながら、何故こうなったのか考える。始まりは一週間ほど前。この家に訪れた私は、かなり久しぶりに彼の姿を目にした
そこで見たのは、あまりにも弱々しい、どこか壊れた彼だった。私が知っている彼とは明らかに違うその姿。動揺は隠しようが無かったが、放っておく事はできなかった
「…………」
知らない間に、彼は壊れてしまった。きっと、ずっと前から限界だったんだろう。だけど、私は───
「……気づけ、なかった」
シャワーの音が止まる。今は一人でも着替えられるが、いつまでもそうだとは限らない。バカでも分かる。これは──この状態は、不健全だ
「……出ましたね」
ゆらゆらと、彷徨うように部屋まで戻って来る。そのまま私の元まで近づくと───
「───」
肩を掴んでベッドに押し倒してきた
「……どうしました?」
「……」
黙ったまま、じっとこちらを見つめてくる。涙の枯れた瞳からは、何の感情も読み取れなかった
そのまま私の胸に顔を埋めた。まるで子供のように──と、言ったら彼は怒るのだろう
「……私は、側にいます」
ズキリ、と胸の奥が痛んだ
──────────────────
そのまま眠ってしまった彼をベッドに置いて、リビングまで戻った。今の彼に、家事ができる程の力はない。だから、私がやらなければ
「……はぁ」
ため息が漏れる。何故、どうしてこうなったのか。考えても答えなんて出る筈もないが、それでも思ってしまう
何とか、できたのではないか。こうなる前に気づいていれば、何か出来たのではないかと
「……」
後悔しても仕方がない。過去に戻る術など無い。今更悔やんでも、何も変わらない
何より一番最悪なのは──限りなく弱った彼を見て、心の中に渦巻いた醜い独占欲だ
「……大人になれば、貴方を救えるのでしょうか」
玄関の方からチャイムが聞こえてきた。私と彼以外がこの家に来る事は殆どない。宅配……も、今の彼の状態を見る限りあり得ない。ならば、誰が──
扉を開ければ分かる事か、と結論づけて、ドアノブに手をかけた
「……君、誰?」
そこに居たのは、二人の少女だった
片方は私でも知っている。空崎ヒナ。ゲヘナ学園の風紀委員長だ。だが、もう片方がわからない。私よりも背の低い、桃色の髪をした少女
「……とりあえず、入りますか?」
──────────────────
「飲み物は──」
「いらないよ。それよりもさ〜、君は誰?」
桃色の髪の少女は、威圧的な態度で私に声を掛けた。ヒナ先輩の方はまだ口を開いていないが、おおよそ同じ気持ちなのだろう
「……C&C所属、一年生の飛鳥馬トキです。ヒナ先輩は知っていますが、貴方は?」
「……小鳥遊ホシノ、三年生」
「……なるほど、アビドスの」
目的は──聞くまでもなかった
「何でイフの家に貴方がいるの?」
「……言えません」
言えない
言えるわけが、ない
「……それなら、イフはどこ?」
「答えません。……今のイフ様に、誰かを会わせる訳にはいきませんから」
「なら、無理矢理にでも聞かせてもらう」
二人は銃に手を添える。この状況では、私に勝ち目はないし──何より、ここで戦う訳にはいかない
「……もしも見るのなら、自己責任でお願いします。どっちにしろ、私には貴方たちを止められない」
「どういう事?」
「……奥の部屋へ」
彼の部屋を指差すと、二人は無言のまま扉へ向かう。そして扉を開けた瞬間──
「な───」
「え───」
絶句する二人に、少し疑念を抱く。今は寝ているだけの筈……
ざくり、という音が耳の奥に響いた
「っ───!」
まずい、よりによって、このタイミングで───!
「イフ様!」
「……とき」
「いけません」
そこには、自らの手首にナイフを刺すイフの姿があった。ナイフを持つ手を掴んで止める。幸い、今回もそこまで深くは切れていない
こうなって以来常備している包帯を取り出して、傷口に巻いていく。赤く汚れた手で、床に落ちた古い包帯をゴミ箱に捨てた
「これは…何が……」
「………え」
彼はヒナ先輩とホシノ先輩を見つめていた。虚ろな目の中に、確かな驚愕を宿して
「はぁっ、はぁっ、はぁっ───!」
汗が吹き出し、過呼吸になる。彼の体は震えていて、顔は青白かった
「落ち着いてください、大丈夫ですから。二人は、貴方を必要としています」
「…………必要?俺が、あいつらに……」
その声は、ただ、酷く悲しそうだった
「…………もう、嫌だ」
「……話をして来ます。何かあれば私を呼んでください」
「待って、トキ──!」
二人を連れて部屋を出ようとすると、背後から声をかけられた。振り返ると、彼が必死に訴えかけるような表情を浮かべている
「……ナイフを、返してくれ」
「……どうぞ」
ナイフを取ると、彼は"荒れる"
間違っていると分かっていても、ナイフを取り上げる事はとっくの昔に諦めた
「これは…あれは、何」
「……見ての通りです」
たった一言、ホシノとヒナは以前の違和感の正体を理解した
「一週間程前から、ずっと」
「…こうなった理由は、分かる?」
「ティーパーティーのナギサ先輩から、話を聞きました。どうやら……かなり、酷い状況にいたようです」
ナギサ先輩から聞いた話の内容は、こう
ナギサ先輩自身が疑心暗鬼に陥り、その中で彼を追い詰めていた事。裏切り者の正体が同じティーパーティーの聖園ミカであった事。そして──
「先生です」
「先生が……?」
「崩れたんですよ、自分の根幹──生きる意味、と言ってもいいかもしれません。イフ様が大人を目指したのは、この世界にいい大人が居なかったから。でも、先生がいる以上、その前提が崩れてしまった。大人になる、その思いだけが、イフ様を動かしていたんです。それが無くなった今、イフ様は───」
「───壊れた」
ホシノ先輩の言葉に、私は小さくうなずく
「でも、私と会った時は普通だった。違和感はあったけど、あんなに弱っているようには見えなかった」
「……いや。大人を失ったイフにとって、最後に残ったものが──私達だとするなら」
「アビドスの様子見、風紀委員の手伝い。それをしている間は……きっと、少し楽だったのでしょう」
それをしている間だけ、自分の価値を実感できたのだろう。しかし、それはあくまで仮初めのもの。いつか必ず限界が来る
「……バレてしまった以上、頼みがあります」
「…だいたい、言いたい事は分かる」
「私が任務の間だけでいいです。イフ様の側にいてあげてください」
「……できる限り時間を取る。放っておけないから」
「おじさんもそうする。バレないようにね、三人だけの秘密」
「イフ様には私から説明しておきます」
──────────────────
「……どう思った、風紀委員長ちゃん」
「……もっと、気にかけるべきだった。イフが私達に、そうしたように」
家を出た二人は、そのまま玄関の扉前に座り込んで会話をしていた。内容は先程の事について
「あんまり驚いてないように見えたけど……そうだよね。トキちゃんがあんなに頑張ってるのに、私達が取り乱す訳にはいかないもんね」
「……当たり前でしょ」
二人とも、イフとは長い付き合いだ。本気で大人の夢を叶えようとしていた事も知っている
その夢の果てにあるのが、これか?
「……ごめん、イフ」
「本人に言ってあげなくちゃ。……はぁ、なーんでこうなるかなー」
あまりに、弱い
壊れてしまった大切な人を前にして、何もできない。誰にも──先生にも、今の尾噛イフを救う事は出来ない
私達は、彼に幾度となく救われているというのに
「……守るしか、ない」
「……うん」
例え、破滅へ向かうしかないと分かっていても
「……ユメ先輩」
無意識のうちに呟いた声は、雨音に掻き消された
──────────────────
ベッドを背にして座り込む彼の隣に、同じように座った。彼は特に反応を示さない。ヘイローが頭に浮かんでいる為、寝ているわけではないようだ
「……バニーでも着ましょうか?」
「………」
反応無し。以前は顔を赤くして取り乱したというのに、今では無関心に近い……
いや、違う。これは無関心ではない。無感情なのだ。怒りも悲しみも、喜びも楽しみも、何も無い。まるで死人のようになってしまった
「……あまり放っておかれると、いたずらをしてしまいますよ?」
「…………」
二人で過ごした、楽しかった日々を模倣するように、言葉を紡ぐ。しかし、それでも彼は反応しない。人形のように、ただそこにいるだけだった
「……大人になんて、なれなくても良かったのですよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼の体がびくりと震えた。拒絶ではなく、何かを恐れるような、そんな動き
「アビドスの事も、アリスの事も、エデン条約の事も、元々貴方一人に背負わせるようなものではなかった」
「……ちがう」
掠れた声。彼の目から、一筋の涙が流れる
「……大人になれなきゃ、俺に価値なんて無い」
「それを追って、これだけ傷ついたというのに?貴方の価値は、大人になれなければ消えてしまうようなものだったのですか?」
「……それは」
「貴方は貴方のままでいい。皆さん、同じ意見ですよ。大人を目指して傷つくぐらいなら、大人なんて目指さなくてもなくていい」
「……俺は」
初めて聞くような、悲痛な声
「大人になるって、それだけを考えて生きてきたのに、今更……」
「できますよ。全部忘れて、幸せになりましょう」
頭を抱き寄せ、優しく撫でる。抵抗は無い
これでいい。大人を目指してこうなるぐらいなら、そんな夢は忘れてしまえばいい。叶わない夢を捨てて
ふと、チャイムが鳴った
「……ここにいてください」
なんとなく嫌な予感がして、彼を部屋に残して玄関まで向かう
「どちら様で───」
「……ちょっと、話に来たんだ」
「貴方は───」
そこに立っていたのは
「──先生」
トキ、違うんだ。大人になりたかった男の子こそが尾噛イフだったのであって、それを失くした抜け殻に自分なんて無いんだよ